(承前)「あーあ。」 新米編集者にして将来を嘱望される新進小説家、杉浦小春はため息をついた。目の前には文章がプリントアウトされた紙束があった。集めればちょっとした長編小説程度にはなるだろう、という程度のかさがあった。「先輩って、こういう人だったっけなあ――? それとも、私がわかってなかった、ってだけのことなのかなあ……。」 高校、大学の先輩であると同時に、今でも社こそ違え同業の先輩である北原春希、若手ながらも「将来は開桜社をしょって立つだろう」と一部ではその超人的なやり手ぶり――特に、ピアニスト冬馬かずさをめぐる多メディア展開の仕掛人としての――が噂になっているその春希から、久しぶりに届いたメールは、少々彼女を面食らわせるものだった。 熱烈な恋愛の末にゴールインして、二人の子供をもうけた伴侶であり、冬馬かずさを巡ってはビジネスパートナーでもあった雪菜を、思わぬ事故でなくして、もう1年半ほどにはなるはずだ。告別式にはもちろん、彼女も参列した。なんといっても北原夫妻は、彼女にとっても因縁浅からぬ相手だったから。大学に上がる直前、優等生でまっすぐな正義漢だった自分に、人の心の哀しさ、強さと弱さについて、鮮烈な印象を与えてくれた二人だったから。そして何より北原春希こそは、自分にとっては初恋――と言ってよい、鮮烈な失恋の相手だったから。 ――あの二人に会ってなきゃあ、ジャーナリストにはなっていたかもしれないけど、こんな風に、文学には手を出していなかったなあ。 正直言ってあの失恋は結構、あとを引いた。高三最後の春だったし、推薦が決まっていなければ、大学入試をしくじりかねないほどのダメージを心身に食らった。その傷をいやすために――あるいは、人間というやつの複雑さについて、少し考えてみようかと、勉強家ではあったがどちらかというと明朗活発なアウトドア系、体育会系少女だった小春は、大学入学前の春休みあたりから、手当たり次第に小説を読み漁るようになった。 初めは、試験勉強に利用するくらいだった高校の図書館の文学全集を、春休みに一通り制覇した。大学に上がってからは、けた違いにでかい大学図書館をさまよっては、いろいろ物色しては興味をひかれたものを、最初は日本語、そして語学力が向上してきてからは、英語やフランス語、スペイン語のものにまで手を出すようになった。 人類の財産ともいうべき古典、名作ばかりではない。ゴミのようなエンターテインメント、通俗的なミステリやSF、現代のライトノベル。小説以外にも、歴史書、ノンフィクション、ルポルタージュ。ちょっとでも気をひかれたものは何でも目を通した。そして夏休みともなれば、バイトで貯めた金で、流行おくれのバックパッカーとして、年にせいぜい1~2か月と短期間ではあるが海外をふらつき、いろいろな人に会い、いろいろなものを見た。 そしてそんな日々の中で、いつしか小春は、自分でもものを書き始めた。最初のうちは、大学の文学系やサブカル系の同人誌に、短いスケッチをいくつか寄稿する程度だったが、3年の秋に少しばかりまとまったものが書けたので、ふとした気まぐれで文芸誌の新人賞に投稿してみた。それが春希のいる開桜社の雑誌だったことは、まあ、偶然である。当然のことながら受賞は逃したが、選外佳作として誌面に名前は載った。その縁で応募作本体も、その筋ではメジャーな文芸同人誌に掲載され、地味ではあるが小春は、日本の純文学という小さなサークルの、そのまた端っこくらいにいる存在として、認知してもらえるようにはなった。少なくともその一事があったがゆえに、彼女は開桜社よりも老舗で大手の某出版社に、4年の春にはすんなりと内定を得ることができた。 本賞を取っていれば、女子大生作家としてマスコミの取材も殺到し、華麗なデビューを飾ることもできたろうが、消耗するのも早かっただろう。世間的には無名でも、業界筋の目利きには記憶され、書いたものを発表する機会も得られる、というバランスはちょうど良いものだった。彼女はその後も小説をマイペースで書き続け、商業誌への掲載もできるようになったが、大学の勉学にも手を抜かなかった。そして「途上国における識字問題」で学部長賞に輝いた卒論を手土産に、彼女はめでたく会社員となった。就職してからも、まずは会社員として、職業的編集者としての自立を優先していた。 それからもう5年ほどになるか。春希や雪菜ほどの華々しさはないとしても、自分なりにコツコツやってきたことの成果は、それなりに上がってきている。その成果を見込んだ上での、今回の春希の依頼があるわけだが……。「先輩、どうせなら執筆依頼がほしかったですよ――。」 やってきたのはごくごく個人的な依頼であり、しかも「書いてくれ」ではなく「読んでくれ」の方だった。「まあ、他人様の原稿を読むのが編集者の仕事ではありますからね。」とひとりごちて、一息入れてコーヒーを呑みつつ、小春は春希のメールを読み返した。「ご無沙汰しています。 杉浦さんのご活躍の噂は、ぼくも聞き及んでいます。昨年の『文学界隈』に寄稿された小品には、いたく感銘を受けました。機会があれば、当方の雑誌にもぜひご寄稿いただきたいと存じます。 しかし、今日のお願いは、仕事がらみではなくごく個人的なリクエストです。 恥ずかしながら、ここしばらく、小説のまがいもの――のようなものを書いています。何と形容したらよいのか、自分でもよくわかりません。普通に言えば「恋愛小説」なんでしょうか。 「文学」をやっているつもりはないんです。かといってあの、ジャンルとして確立している「ロマンス」とはちょっと違う。むしろ「ライトノベル」といった方がまだ近いかもしれない。痛い、幼い若者の話ですし、ライトノベル的な意味での「わかりやすさ」はあると思う。 でもまあ正直、自分でも何をやっているのかわからないんです。人に読ませたくて書いているのではなく(お恥ずかしい話ですが、発表についてはまるで考えていません)、あえて言えば、自分で自分のことをわかるために書いています。でも、それがきちんとしたものになっているかどうか、第三者の判断を仰ぎたい、という気持ちもある。 気が向いた時で結構ですので、よろしければこの「三文小説」をご一読いただいて、簡単でいいから、感想を聞かせていただけないでしょうか。」「らしくないなあ、先輩。」 それは、自分の記憶する、ひねくれた堅物のイメージとも、また同僚から伝え聞く、辣腕編集者のイメージとも重ならなかった。「でも、「三文小説」っていうのは、意識してないだろうけど、悪くないと思いますよ?」 小春は思わず、にんまりとした。(続く)