(承前) 1年半ぶりに会う杉浦小春は、かつての長い髪をバッサリ切ってショートにまとめていたが、相変わらずのまっすぐな美人だった。待ち合わせのカフェに時間ちょうどに来てみると、すでに窓側の席に陣取っていて、すぐにこちらを見つけてにこやかに手を振った。「――先輩! お久しぶりです!」 律義者の小春は、いまだに春希を「先輩」と呼ぶ。何ともこそばゆいので、いい加減「北原」という名前で呼んでほしいのだが、そう頻繁に会う間柄でもないので、何となく言いそびれている。「お久しぶり、杉浦。――今日は俺なんかのために、わざわざ時間を割いてくれて、ありがとう。」とまずは礼を言うと、小春は華やかに笑った。「――何を言ってるんですか、他ならぬ先輩のためですから、時間なんかいくらでも――それに、そもそもあんな大部なテキストをいただいた時点で、長期戦は覚悟してましたよ……。」「その点は本当にすまない! ――しかし、そういう割にはずいぶん早く読んでくれたな――?」 春希が首をかしげると、小春は、「ええ、読みやすかったですからとっても。」と笑って返したうえで、真顔になって、「で、この原稿、どうなさるおつもりなんですか?」と聞いてきた。「――どう、って……メールしたとおり、とりあえずただ、書いてみただけなんだ。本当に、発表とかそういうことは、考えてない。大体、商品になるようなもんじゃないし――。」と春希が逡巡しつつ答えると、小春はズバリと切り込んできた。「――そうでもないですよ? 先輩、「三文小説」と卑下してらしたけど、「三文」くらいの価値は優にあると思います。つまり、「ランチ代と同じくらいなら払ってもいい」という読者が一定程度はつくとは思いますよ? ――ブラッシュアップすれば、ジュニア小説なりライトノベルなり、ひょっとしたらロマンスのレーベルでも出せるかもしれないし、出せないとしても、これだけ書ける人ならひとつ育ててみよう、って編集者もいるかと思います。――私の会社の人間、紹介できますけど?」 いきなりプラクティカルに畳み掛ける小春に、春希は少し狼狽した。「い、いや、さっきも言ったように、発表しようとか、これで俺も小説家デビューしようとかいう野心は特にないんだ。ただ、自分の気持ちに整理をつけるために――。」「ならどうして――。」 ふいに小春の声が低くなった。「他人である私に、この原稿を見せたんです?」 その表情は、10年ほど前、初めて会った頃の厳しさを連想させた。「恋愛下手の私が言っても説得力皆無かもしれませんけどね、」と言って小春はショットグラスをひと息であけると、「恋愛小説ってのは難しいんです。特に悲劇は。」と春希をにらみつけた。 何だか話が長くなりそうだ、と直感して移動したバーで、小春は最初から急ピッチだった。念のためにかずさが来る日に、仕事を早く切り上げておいたのは正解だった。「そもそも悲劇っていうのはギリシア以来、運命の残酷さと、それに打ちのめされる人間を描くものです。そしてそれを通じて、打ちのめされ、破滅しながらもなお輝く人間の素晴らしさをたたえるというか、祈りをささげるものです。 それに対して喜劇っていうのは、これもギリシア、ローマ以来、人間の卑小さ、醜さ、愚かさを描いて笑いのめすものです。でも良質の喜劇は、そういうずるくて醜くて卑怯な人間を、決してそこに居直るんじゃなしに、それでもあたたかく肯定します。」 グラスを片手に、小春の講義は続いた。「そういう意味じゃ、恋愛っていうのは、特に近代以降は喜劇向きの主題なんです。ですから、ラブコメが少女まんがの王道なのは正しいんです。ハーレ×インがご都合主義のハッピーエンドばっかりなのも、そういうことなんです。「残酷な運命」とか言っても今日日は説得力がないですから。 ――じゃあ近代以降における恋愛悲劇っていうのはどういうものか? 要するに『ウェルテル』なんです。中年の不倫ものまで含めて、基本的には青春ものなの。肥大化した自我を持て余す厨二病の話なの。だから一歩間違うと、できそこないの喜劇になっちゃうの。だから恋愛悲劇を成功させるには、よほどスケールの大きな人間ドラマを用意するか、最低限でも、本質的にはつまらない話を、それでも「身につまされる話」として読者の情に訴える表現力が必要なんです。――でもまあ結局、近代の恋愛小説っていうものは、基本的に「悲喜劇」になるものなんです。」「――はい……勉強になります。」「誤解しないで下さいよ先輩。私は何も、けなしてるわけじゃないんです。というより、先輩が恥多き青春を、こうやって形にするのは全く正しい! と褒めてあげてるんです! ですが、」――と既に相当できあがった気配の小春であった。「自分を悪者とかダメなやつに描くというのは、書いてる方では冷静な自分の客観化のつもりでいても、実際には、往々にしてマゾヒスティックな自己憐憫にしかならないもんです。――その辺、わかってますか?」 それでも、批評の内容自体は真摯なので、おとなしく拝聴するしかない。「――はい……。」「そういう意味では、私は、雪菜さんの話より、かずささんの話の方が好きです。あそこに出てくる春希君は、バカだけどほんとにいいやつです。それに比べて雪菜さんの春希君は、ほんとに最低です。――で、自分を最低なやつに描くのって、要するに自己憐憫で、責任からの逃げなんですよ! ――先輩はいい男なんです。モテて当たり前なんです! で、実際にモテてるんですから、その責任をきっちり自覚しなきゃ、ダメなんです!」 ――雲行きがおかしくなってきた。「……先輩……。」と、小春が急に黙り込み、うつむいた。「――どうした、杉浦?」「……責任、とってください。」――うつむいたまま、小声で、言った。「――杉浦……?」「――先輩。……先輩のこと、ずっと、好きでした。――吹っ切ったつもりでいたけど……、あれから、付き合った人もいたけど……でも、先輩のこと、ずっと、頭の隅に引っかかっていました。――そして……いただいた原稿読んで――「こいつ私のこと何とも思ってないんだな」って、なんだかすごく腹が立って――でも同時にうれしくて……何だかあのころの気持ちが、先輩と雪菜さんのことを応援しながら、先輩のこと、自分でも好きになっちゃってた頃のことが、思い出されて……。」――消え入るような声で、少しずつ。「――ごめん、なさいっ……。偉そうな、こと、言って、あたしが一番、みっとも、ない……、です、ね……。本当にこれが、悲喜劇って、やつ……、いや、もろに喜劇かな……?」――時折、涙声で。 ああ、そうか。そうだったのか。 また俺は、間違えたのか。でも今度は何とか、間に合ったようだ。「――杉浦、小春さん。ありがとう。――そして、ごめん。いまの俺には、大切な人が、います。」 はっきりと、言った。本当は、順番を間違えていることは、わかっていたが。でも、みっともない悲喜劇の主人公には、臆病で根性なしの色男には、ちょうどよい。「はい、わかっています――。」 小春は涙にぬれた顔を上げ、ほほ笑んだ。「原稿、頑張って、完成させてくださいね。――多分あのままでは、売り物にはなりません。でも一緒に、この先について、考えていきましょう。私が、先輩の――北原さんの最初の担当になります。」「わかりました。お世話になります。」 春希は深く頭を下げた。