気持ちを確かめ合ったのであれば、二人ともいい歳の大人なのであるから、からだを重ねて結びつきをより強くすることをためらう理由など本当はない。だがその夜は、10分ほど泣いて春希が落ち着いた後で、いつもどおり、くちづけも交わさず、静かな笑みとともに二人は別れ、かずさは車で母の待つ自宅へと戻った。そしてそのまま、母には何も告げずにやすんだ。 ことここにいたれば、ためらう理由もないが、あわてる理由もなかった。二人でともに生きていくために必要な、あるいは必要とは言わぬまでもクリアしておいた方が良い手順を、一歩ずつ踏んでいけばよい。 とりあえずは、子どもたちの存在があった。 次の週の火曜、かずさの当番の夜。早めに――とは言っても9時近くなり、小木曽の義母もとうに引き上げた後で春希が我が家にたどり着くと、リビングではかずさが一人で本を読んでいた。「――? 子どもたちは?」 目を上げてかずさは軽く笑い、「お風呂だ――春華が、雪音の面倒をみてくれるとさ。いつもどおり手伝うって言うのに、頑として聞かない。せっかく、あたしもお風呂の用意をしてきてるって言うのに……。」「ええ? ――大丈夫か?」「まあ、さっきからたまに雪音の泣き声と、春華が叱りつけてるのが聞こえてくるが――まあ、大丈夫じゃないか?」「ああ――俺、ちょっと見てくる。」とそのまま風呂場に向かおうとする春希に、かずさは「おまえ、男のくせに、レディーの入浴を覗き見るつもりか――? おとなしく座ってろ。ってかさっさとスーツを脱げ。着替えろ。」とぴしゃりといった。 ――まあ結局その後は、風呂場からからだを拭くのもそこそこに素っ裸で逃げ出してきた雪音、バスタオルを羽織っただけでそれを追いかける春華を、二人して取り押さえるのにひと悶着だったわけであるが。 一通り寝巻きに着替えさせてから、子どもたち二人を春希はリビングのちゃぶ台の脇に座らせた。そしてちゃぶ台の向かい側に、かずさと並んで自分も正座した。「今日は、おやすみの前に、二人に、だいじなお話がある。」 春希は、緊張した面持ちでゆっくりと切り出した。かずさも黙って二人を見つめた。二人とも神妙な顔で聞いていた。「おとうさんは、かずさおばちゃんと、結婚しようと思う。――そして、みんなで一緒に暮らそうと思う。できれば、曜子おばちゃん――かずさおばちゃんの、お母さんも一緒に。」「……。」「でも、春華と雪音の気持ちも、聞いておきたい。もし、ふたりのどっちかが「どうしてもいやだ」っていったら、結婚はやめる。――それでも、おとうさんはかずさおばちゃんのことが大好きだから、結婚をゆるしてくれるまで待つ。でも「いやだ」っていうのを無視して無理やりには、しない。」 かずさも口を開いた。「いま、おとうさんが言ったことについては、おばちゃんの意見も同じだ。おばちゃんは、春華と雪音のおとうさんが大好きだ。結婚したい。でも、ふたりのどっちかが「いやだ」って言うなら、がまんする。ゆるしてくれるまで、いくらでも――なんだったら、ふたりが大人になって、おとうさんの家を出て行くまでだって、がまんして待つ。」「そんなにまってたら、かずちゃん、おばあちゃんになっちゃうよ?」 雪音が口を開いた。「――おばあちゃんってことはないけど、いまよりずっとおばちゃんになっちゃうな。」「――そんなのだめだよ! おばあちゃんになっちゃったら、あかちゃんうめなくなっちゃうよ!」 何やら雪音があわてだしたのでかずさは不審に思ったが、会話を続けた。「残念だけど、しかたないな。」「だめだよ! それじゃかずちゃん、はるちゃんとゆきちゃんのいもうととおとうとが、うめないじゃない!」 雪音が不意に立ち上がった。「いやだよいやだよ、そんなのいやだよ!」 いやいやをして暴れはじめた雪音に、あわてて春華も立ち上がり、雪音をなだめ始めた。「だいじょうぶだいじょうぶ雪音、かずさおばちゃんそんなこといってないから。だいじょうぶ。――雪音は、かずさおばちゃんに、おとうさんのおよめさんになってほしい?」 春華がたずねると、雪音は「うん! なってほしい! いますぐ!」とかぶりをふった。「わかった、おすわりしよ。」と雪音を座らせてから、今度は春華が大人たちを振り向いた。「雪音がああ言ってるなら、わたしもいいよ。わたしも、かずさおばちゃんのことは好きだもん。これから、ずっといっしょにいれたら、うれしいもん。――でも、かずさおばちゃんこそ、いいの?」「――何が?」 またしても意表を突かれて、かずさは反問した。春華は続けた。「ほんとうに、おとうさんで、いいの? わたしたちがいて、いいの? 雪菜おかあさんの子どものわたしたちが、おじゃまじゃないの?」「春華! ちがうよ、何言ってるんだ……邪魔だと思ってたら、はじめからこんなこと言わないよ――あたしこそ、おまえたちの邪魔にならないか、そっちの方が心配なんだよ……。あたしがおまえたちの邪魔になっちゃったら、春希だって――おとうさんだってしあわせになれないし、それだったらあたし、がまんするよ……。」「でもね、かずさおばちゃん。かずさおばちゃんは、世界一のピアニストになるんでしょう? だいじょうぶなの? いまだって、おかあさんの、曜子おばちゃんのお世話もしなきゃならないのに、わたしたちのお世話もして……。わたしたちのおかあさんになっちゃったら、かずさおばちゃんのピアノは――。」「春華――。」 かずさは、泣きそうになりながら応えた。「あたしは、そんな、おまえたちが思ってるような、ちゃんとしたおかあさんになんか、なれないよ。今だって、がんばってるけど、結局ごはんだって、いつも小木曽のおばあちゃんにお願いしてるし、無理やり作ったって、おとうさんにだってかなわない。きっと、すぐに春華にも追い抜かれちゃうよ。今だってあたしは、毎日毎日ピアノの練習と勉強で、手一杯なんだ。もしもおとうさんと結婚したって、おまえたちに今までよりちゃんとしたことをしてあげられる自信なんか、本当はないんだ。――だからさ、あたしの心配なんかするなよ! あたしも、ダメな大人だけど、それでも大人なんだから、自分の心配は自分でするよ! 春華はさ、あたしなんかよりずっとしっかりさんだけど、それでも子どもなんだから、自分のことを心配しなよ! ――で、春華……あたしが、おとうさんと結婚しても、いいのか?」 なんだか無茶苦茶なことを言っていると自分でもわかっていたが、どうにもならなかった。そのかずさの問いかけに、春華は少しだけ考えて、それから、「――いいよ。っていうか、おとうさんと、結婚してあげてください。わたしたちの大好きな、おとうさんをしあわせにしてあげてください。おねがいします。」と頭を下げた。それから雪音に向き直り、「いい、雪音、かずさおばちゃんがおとうさんと結婚するってことは、かずさおばちゃんがこれからは、わたしたちのおかあさんになるってことなんだよ? わかってる?」「わかってるよー?」「じゃあさ、雪音はこれから、かずさおばちゃんのこと、「おかあさん」って、呼んであげられる?」「――んーー。」 雪音はちょっと困り顔になった。それから「「ママ」じゃだめかな? 「おかあさん」っていったら、やっぱり、おかあさんのことだから……。」と大真面目に答えた。「――んーー、いいかもね。「ママ」。」 春華はかぶりを振って、「それじゃ、これからもよろしくね、かずさママ。」とにっこりした。「――あ、ああ……ちょっ――と……待ってくれ――まだ、心の準備が……。」とうろたえたかずさを見てクスリと笑うと、春華は「そうだね、区役所行ってからでないとね。じゃ、おとうさん、かずさおばちゃん、おやすみなさい。雪音、今夜はお姉ちゃんがご本読んであげるからね。いこ。」と立ち上がって雪音をせかした。「えー?」「えー、じゃないの。ほら、おやすみなさいは?」「うー、おやすみなさい、おとうさん、かずちゃん。」とぐずっていた雪音も立ち上がってぺこりと頭を下げ、二人の子どもたちは手をつないで子供部屋へと消えた。 毒気を抜かれた大人二人、かずさと春希は、互いの顔を見合わせた。(おい雪菜、おまえの娘たちは――。)(大したもんでしょ?)