「今後の私の5年生存率は、そうねえ、30パーセントってところらしいわよ?」 定例の検査入院中の昼下がりの病室に、春希ひとりを呼びつけた冬馬曜子は、開口一番そう言ってのけた。春希としては、黙り込むしかなかった。この時間はかずさは普通は練習中で、見舞いに来るとしてももう少し後、夕方になってからである。そこを見計らって曜子は、「あなただけにいっておきたいことがあるから」と春希を呼び出したのであった。「まあ、これはそんなに科学的根拠のある数字じゃなく、ノリ君のヤマ勘によるもので、大体の目安、でしかないんだけど? ……でも困ったことに、ノリ君のヤマ勘ってのがこれ、結構正確なんだ――あの男研究者としてだけじゃなく、臨床医としても相当に優秀なのよ……。」「――30パーセント、ですか……。」 少し狼狽した春希は、頭の中で素早く計算してみた。1年毎の生存率でいうと、八割弱、ってところか……。そう表現してみると、存外大きいようにも思えたが、もちろん気休めにすぎない。 そんな春希を尻目に、曜子は軽い口調で続けた。「そう。まあ、10年前に、最初に見てもらった時の見立てがまあ、あの時考えられる最善の治療をした上で、5年生存率が50パーセントで、10年後は25パーセントだったの。そう考えると、一応5年生きのびた後、更にもう5年生きのびる確率がだいたいまた50パーセントだった、ってことよね。ありがたいことに病状は、高い薬と万全のケアのおかげでほぼ安定しているから、次の5年も50パーセント、って思いたいところだけど、齢も齢だしね。次の5年はこれまでよりちょっとばかり厳しいだろうって。なんだかんだ言って、体力も免疫力も少しずつ落ちてるからね……合併症もいろいろあるし、ここんとこうまく押さえ込んでる、メインの症状の再発だってありうる。」「曜子さん、その話、かずさには――。」と問うた春希に、「もちろんしてるわよ。ノリ君たら、最近じゃ何でも、私に言う前にかずさを呼び出して、必ず二人いっしょに聞かせるのよ――この間定年で名誉教授になったくせに、まだ大学病院で我が物顔なんだから。ロートルはさっさと後進に道を譲ってあげないと、ねえ?」と曜子は反応に困る冗談で応えた。「――それじゃあ、俺を呼び出された理由は?」 少し困惑しつつ問うた春希に、曜子は、ややためらいつつ切り出した。「――それでね……ギター君――いや、春希君にお願いなんだけど。できるだけ早いうちに、あのこを、かずさを海外に連れ出してやってもらえないかしら? ――今のように、コンクールやリサイタルでたまの遠征、とかじゃなく、年単位で欧州か、あるいはひょっとしたらアメリカでもいいけど、とにかく日本以外のところで、またしばらくじっくり音楽に取り組む機会を、持たせてやりたい。 でも、私がこんなだから、そんなこと、かずさはたとえ思ってても決して口に出さない。あのこの今の師匠のシモーヌに「それとなく水を向けてくれ」って頼んでるんだけど、どうも反応が芳しくないらしくてね。――だから、ひどいわがままだとはわかってるんだけど、あなたの力も借りたいの。めでたく結婚して家族になったら、機会を見つけて海外赴任を引き受けるとかして、ね?」 腰が低いようでいて、根っこのところでは相変わらずの強引さだった。春希は少し黙り込んでから答えた。「――一度、ゆっくり、かずさとは話してみます。たしかに、海外赴任の話は、俺にもないわけではないんです。ただ、近々にあった話は、家庭の事情、ということで断りました。次に話が来るのは、2、3年後でしょう。ですから、機会自体はないわけではないんです……。ですが――いくら俺たちと一緒にとはいっても、今のかずさは、あなたを置いては行けないと思います。」 曜子は嘆息した。「――さっき低めの数字出しておいて、なんだか矛盾して聞こえるかもしれないけど、症状そのものは安定してるのよ? 生存率の低下は病状の悪化というより、いまいましいけど老化のせい、トシの問題よ。とにかく、私のケアについては、やるべきことはもうきっちり確定していて、それを地道に続けるだけのこと。もう十年続けてきていて、かずさ以外のみんなももう慣れてるわ? あのこがいなくなったからって、それで何か困る、ってことは具体的にはないのよ? ――それに、もし万が一のことがあったって、ヨーロッパや北米からなら、ジェット一本で直ぐに駆けつけられるじゃない。」「それはそうです。しかしここは、気持ちの問題ですよ。」「あのこには、もう充分、親孝行してもらったわ……。そろそろ親離れ、子離れしないと。これからはむしろそっちの方が親孝行よ。」と、曜子はふと病室の窓を見やった。「私もこれまでは、「少しでも長く生き延びて、あのこを見守ること」を最優先に考えてきたけど、これからはむしろ「自分がいなくなった後」のことを考えようかな、って。まあ、急には切り替えられないから、半分半分かな?」「半々だなんて……1:9くらいにしてください。俺にも、少しくらい、親孝行させてくださいよ……。」 言葉を詰まらせる春希に、曜子は穏やかにほほ笑んだ。 検査もあるので曜子のもとを早々に辞した春希は、午後4時という何とも中途半端な時間に放り出された。帰社すればもちろん仕事はいくらでもあるが、今日は自分が子どもたちのお迎えと夕飯の支度をする日である。退社時には直帰と申告してあったし、1時間かそこらのためにわざわざ帰社するのもバカらしかった。 出版人としては、こういう空いた時間には書店の店頭をウロウロして棚の様子をチェックするのが基本であるが、今日はそういう気分ではない。 ――と言うわけで結局気づいてみれば春希は、雪菜の墓の前に来ていた。「やあ。――お彼岸以来、だな。」 春希は「北原家之墓」と正面に彫られた墓標に、声をかけた。「もう、わかってるだろうけど、かずさと、結婚することにした。」 家にある写真にもう何度となく報告してあることなのだが、あらためてつい口に出してしまってから春希は、クスリと笑った。 ――なぜだか都心部の一等地の墓地にあるこの墓は、離婚した際に春希の母が自分のためにとわざわざ用意しておいたものだった。まさかそこに最初に入るのが雪菜になってしまうなどとは、言うまでもなく誰も予想しないことだったが、こうなってみるとたしかに便利ではあった。この1年半ほどの間、お彼岸やお盆などの節目には必ず、子どもたちとここを訪れたし、それ以外にも折に触れ、月に一度くらいは春希は一人でここにやってきて、花を供え、掃除をしていた。 5月の、そろそろ汗ばむほどの陽気の中、草いきれの中で春希が墓の周りをきれいにしていると、「――あ……。」と聞きなれた声がした。「――なんだ……偶然だな。」「――おまえ……この時間は練習中じゃなかったのか?」 花を片手にこちらに手を振るかずさに、春希は軽く笑って問いかけた。「――今日は……マダムが……シモーヌ先生が帰国して、最初の呼び出しで、な。橋本さんと一緒に、お茶を呼ばれてた。」 春希と並んでしゃがみこみ、ピアニスト特有の優美だがごつい手で、乱暴に草をむしりながら、かずさは言った。「ああ……だから、この間のリサイタルには、先生、来られなかったんだっけな? フランスに、里帰りされてたんだっけ?」 かずさの日本での師匠、橋本健二の指導者でもあるシモーヌ・ボンヌフォワは、かつては一流のピアニストだったが、20年ほど前に一線を退いた。夫君が日本人の実業家であることもあって以後は日本を拠点に、後進の指導に専念している。曜子と取り合ったという男がその御夫君かどうかは、春希の知るところではない。「――それが……えいっ! ――ヨーロッパ各地と、ついでにアメリカにも回っててな……そいで、爆弾というか、お土産を持ってきたんだ。」「――お土産って……なんだ? 何か、伝説の名器とか、それともショパンの失われた楽譜とか、そんなもんか?」 ピントはずれな春希の問いに、かずさは鼻で笑って、「――おまえ何子供じみたこと言ってんだ? ――そんなんじゃないよ。留学の話だ。」といった。「――留……学……。」 言うまでもなく春希としては、先ほどの曜子との会話を思い出さざるを得なかった。「――といってもとりあえずはあたしにじゃなくて、橋本さんにだがな。……っと、おまえもここんとこ、橋本さんがいろいろ留学の手づるを探してたのは、知ってるだろう?」「――ああ、聞いてた……博士号をとれたら、とりあえずどこか行きたい、っておっしゃってたな? 文化庁とか国際交流基金とかの、若手研究者・芸術家の派遣プログラムをいろいろあたってるって……。」「――ところがマダムがさ、アメリカの××大学の、ビジターのポストを橋本さんのためにとってきたんだ。スカラシップ付きで何の義務も無し。まあ、演奏は地元のオケなんかと交流しつつ、何度かするように勧められてるけど、オブリゲーションとしてはなし。そうやってただいるだけなら1年。でも教師としてひとコマでも授業を持つならもう1年、延長してもらえるらしい。一応「アーティスト」枠なんだけど、何でも芸術学だか歴史学だかの授業も、やれるんならやれってことなんだと……よーっ、と。」とかずさが名前を挙げた大学は、春希でも知っている、アイビーリーグの名門校だった。ニューヨークにほど近い田舎町――というか大学町にあるはずだ。ニューヨークの開桜社にも、何とか通えなくはないだろう。「――そりゃ、いい話じゃないか! で、橋本さんは……。」「もちろんオーケーしたさ。でも問題は、その次なんだ……。マダムは、橋本さんの次には、あたしを押し込みたいらしい。――あたしには、人に教えたりなんかできやしないのに……ピアノ弾くだけならまだしも、授業なんかできないよ!」「――そもそもアーティスト枠、なんだろ? 橋本さんが授業を求められてるのは、あの人は音楽学者、歴史学者でもあるからで、かずさにそこまで要求はされないさ……その辺、先生もわかってらっしゃるよ。――行きたくないのか?」「――母さんと、おまえたちを置いては、行けないよ。」 かずさは、うつむいて手を動かしながら、言った。「――まだ先のことなんだから、いまからひとり決めするなよ。ゆっくり時間をかけて、みんなで相談しながら、考えればいい。せっかくのチャンスなんだから、前向きに行こうぜ。もし仮におまえひとりで行くんだったら、曜子さんのことは、俺に任せればいい。もちろん、俺たちがおまえに付いて行ったっていい。――なに、会社の方は、何とでもなるし、子どもたちに海外を経験させておくのも、悪くない。考えてみりゃ、曜子さんにはおまえや俺がいなくたって工藤さんも、高柳先生もいるけど、おまえひとりでアメリカ行ったら、いったいどうなることやら……ジャンクフードばっかで、絶対、からだ壊しちまうぞ? 」 急に饒舌になった春希に、かずさはうつむいたまま、「……おい、手、止まってないか?」「――今日はこの辺でいいよ。一緒に、ちびたちのお迎えに行こう。それから、うちで一緒に夕飯にしよう……曜子さん、まだ病院だろ?」 春希は立ち上がって、パンパン、と手を払うと、その右手をかずさに差し出した。かずさは、口をへの字に曲げたまま、その手を取って立ち上がった。「じゃあな、雪菜……また来るよ。」「またな、雪菜。」