「何だって? 講演? ――それも、北海道で?」「そうよ? 何だっけ、「患者の会」「家族の会」共催の交流会で、基調講演頼まれちゃってね? ――5年前にカミングアウトしてから、ちょくちょくあったんだけど、これまではお断りしてたのよ……。」 夕餉の席で、ふいに曜子が切り出した。「じゃあなんだって今頃――? こないだも先生、病状は安定してるけど、体力は落ちてるから、無理するなって言ってたじゃないか!」 かずさの反問に、曜子は苦笑しながら答えた。「……そろそろ「有名人の社会的義務」ってやつを果たしてもいいかな……って。大してお金にもならないこんな仕事に、あなたを付き合わせるわけにもいかないし、美代ちゃんも忙しいから、これまでは断ってきたけど、ほら、ノリ君も大学退職して、名誉教授になっちゃったでしょう? おかげであの人暇で暇で、いろいろ持て余してるらしいのよ。だから、国内ならどこへでも付き添ってくれるって。だから、これからはちょいちょい、講演旅行にも出かけようかな……って。――それに今は、あなたには春希君とちびちゃんたちがいるから、安心だしね。」 しかしなおもかずさの怒りは解けなかった。春希としては、とりあえずポーカーフェイスで子どもたちに、「ほら、よそ見しないで食べな。」とわざとらしく話しかけた。春華はちょっと困り顔で、雪音は興味津々で二人のやり取りを見つめていた。「――だからってさ……こんな状況で無理して「子離れ」しようとしなくたっていいじゃないか……。」 かずさはうつむいてこぼした。「講演とかは、そりゃ構わない。でもさ、都内、せめて関東くらいにしておきなよ。泊りがけでってのは、ちょっとリスキーだよ……。万が一のことがあったら……。」「その話はもう何度もしてるじゃない。「万が一」のことは、あなたの方が出かけてる場合だって同じこと。――いまはインターネットと携帯の時代、緊急連絡なら、ニューギニアの奥地にでもいない限り、どこだってつくわ。あなたが出かけるような国内や欧米の大都市なら、飛行機一本でどこからでも帰ってこれる。それと同じじゃない。しかも基本的には国内よ。飛行機どころか、大概のところは新幹線で片が付く。それにこれからは、ノリ君があたしの専属ナースになってくれる、っていうのよ。大丈夫。」 ――ドクターじゃなくてナースなのか……とは心では思ったが、春希はあえて突っ込まなかった。 何にしても、少しずつ、適切な距離を置いて、お互い、子離れ、親離れに持っていこう、かずさの足かせにならないようにしよう、という曜子の気持ちが痛いほどわかるだけに、春希は、どっちの肩を持ったらよいのか、なかなか肚を決められずにいた。 と、そこで雪音が口を開いた。「おばあちゃん、ほっかいどうには、いついくの? なんようび?」 曜子は軽く眉をしかめて(未だに「おばあちゃん」と呼ばれることには、慣れていないらしい。しかし決してやめさせようとはしないあたりに、何ともこそばゆくもほほえましいものがあった)、「うーん、来月の半ば、曜日は週末――土曜から日曜よ?」と応えた。すると雪音は、「それなら、ほいくえんおやすみだし、あたしがついてってあげようか?」などととんでもないことを言い出した。そこにいつも通りに、「こら、雪音!」「雪音! なまいき、言わないの!」とかずさと春華がこもごもに突っ込みを入れた。「雪音はまだ年中さんじゃない! ついてったって、おばあちゃんのお世話とか、できるわけないでしょ! おじゃまになるだけじゃない! ――ひょっとして、ピアノのおけいこ、さぼりたいから、そんなこと言ってるんじゃないよね?」と春華が言うと、かずさも、「――雪音。ピアノのことはまあいい。それより、あんまりおばあちゃんを甘やかさないで。おばあちゃんはあんたたちがあんまり優しくするもんだから、最近ちょっと調子に乗ってる。このおばあちゃんは小木曽のおばあちゃんと違って、ひどいわがままばあさんなんだから、もっとなんていうか、ちゃんとしてもらわないと……。」と訳の分からない小言を垂れ始めた。それに対して雪音は「えー、おねえちゃんもかずママもひどいよー。あたしちゃんといい子にして、面倒なんかかけないよー。おばあちゃん、「雪音がいてくれるだけで元気百倍!」っていつも言ってるんだからー。」とふくれて、「ねー、おばあちゃん?」とわざとらしくにこにこ笑いをしてみせた。曜子もたまらずにっこりと破顔して、「ありがとうね雪ちゃん。でもね、北海道はちょっと遠いし、今回は忙しくて、おばあちゃんあなたと遊んであげたりする時間もないから、勘弁ね? せっかく北海道に行くんなら、長いお休みの時に、家族みんなで、もっとゆっくり楽しまないと、ね。お仕事で旅行なんて、大人になってからで十分。雪ちゃんは子どもなんだから。」と言った。「じゃあ結局、行かれるんですね?」 ようやく春希は覚悟を決めて、口をはさんだ。「春希!」とかずさが抗議するように言ったが、春希は無視して、「来月、でしたらもう北海道はそろそろ冬かもしれませんね。そのあたり、下調べもちゃんとして、くれぐれもお気を付け下さい。健康な人間にはどうってことなくても、思わぬことがあるかもしれませんから。行かれる前には、高柳先生とも、ご相談をしておきたいと思います。よろしいですね?」「ハイハイ――。相変わらずね、春希君は。堅いんだから。」「「行くな」とは言ってないでしょう――? 頭ごなしに「ダメだ」って言ったって、お義母さんが「うん」とおっしゃるはずはないんだから。――そちらの言い分を認める以上、こちらの条件もきっちり認めていただきますよ?」 ――なにやらかずさは憮然としていたが、落としどころとしてはこの辺だろう。 そのあとしばらくは食卓を沈黙が支配し、みんな黙々と食べ物を口に運んでいたが、ポツリ、と曜子が言った。「――心配しなくても、無理なんかしやしないわよ。かずさのためだけじゃない。ちびちゃんたちのためにも、春希君のためにも、できるだけ、気を付けて、長生きするから……。」「曜子さ――お義母さん……。」「かあさん……。」 曜子が「春希君のためにも長生きする」といった理由は、春希にもかずさにもわかっていた。「曜子さん、今夜も――よろしいでしょうか?」「――今夜は、何?」「シュトゥットガルト時代の資料に、少し、わからない点がありまして……。」「あら、そんなもの、何かあったの?」「――ネットと、それから、橋本さんのご教示で、頑張って拾いましたが、さすがに――それで、二、三質問が……。」「――はいはい、覚えている範囲でね。」「――よろしくお願いします。」==================== エピローグ……の前振り……って感じ。