傍らの気配に春希が目を覚ますと、かずさが何やらうなされていた。かすかな声で、途切れ途切れにうめき、いやいやをするように首を振っている。どうしたものかと考えながら、半身を起こして見守っていると、苦悶するかずさはふいに右手を差し上げ何かをつかまえようとしたので、思わず春希はその右手をとって、自分の両掌に包み込んだ。そこでかずさはパッと目を見開いた。「――っ! は、春……希……?」 春希は無言でうなずき、左手はかずさの右手に預けたまま、右手で彼女の汗ばんだ頬を静かにさすった。かずさはしばらく目を見開いたまま、荒い息とともに大きく胸を上下させていたが、しかる後、下からグイッと両腕を差し伸べて春希を強引に抱き寄せ、すがりついてその肩に顔を埋めた。「……どうした? 怖い夢でも、見たか?」 春希は穏やかに聞いた。「――ん……あ、ああ……。あの頃の、母さんの、夢だ……結婚してから、見てなかったんだけどな……。」「――あの頃……か。」 かずさがいう「あの頃」とは何なのか、説明されなくともわかった。冬馬親子が日本に帰ってきた直後の2年ほどの間、本格的な治療が始まった頃のことだ。「最初が肝心」ということで、この頃は日本で未認可の新薬を中心に、とりあえず金に糸目は付けず、多少のリスクも承知の上で、当座のQOLよりも寛解・延命を優先して結構な無茶をやっていた。おかげで曜子のストレスは相当なもので、激痩せ、脱毛はもちろんのこと、始終吐き気や悪寒、疼痛にさいなまれていた。 「あの頃」――春希と雪菜は新婚だったが、まだ雪菜は第一子春華の懐妊前でもあり、友人として、また会社の「冬馬番」として二人してかずさと曜子のために奔走した――とは言いたいところだが、できることなど大してなかった。QOLは二の次でとにかく猛烈に力押しで治療する、となれば医者に任せるしかない。結局二人にできたことは、唯一の家族として診断と治療のすべてについていちいち説明を受け、同意を確認されるかずさを少しでも支えること、でしかなかった。 人当たりがよく飄々とした高柳教授は、その実ひどい頑固者で、現代的な医療倫理のやりかたに完全に賛成していたとは思えないが、自分なりの筋の通し方というものを徹底する人だった。そしてこの場合高柳教授は、徹底してかずさに、曜子の家族として、後見人としての責任を負わせることを選んだ。終始にこやかに、しかし決して逃げることを許さず、徹底して情報共有を強制した。 しかしそのストレスに、かずさは意外なほどよく耐えた。 治療開始最初の一年、曜子はほぼずーっと入院中で、春希と雪菜の結婚式にも結局出られずじまいだった。だからかずさは、また高校時代のように、あの大きな屋敷にひとりぼっちだった。しかし今回は、掃除洗濯を委託したハウスキーパーの他に、春希と雪菜がいた。結婚式を挟んだこの最初の一年、二人は週の半分は冬馬邸に足を運んでかずさと夕食を共にし、残りの半分程度は、かずさの方を自分たちの新居に招いて飯を食わせていた――つまりこの一年はほとんど毎晩、かずさに飯を食わせていたことになる。それはもちろん、心身ともにかずさの助けになったろう。 しかしかずさは、決して二人と夜を過ごさないようにした。自邸に二人が来てくれたときは、できるだけ早く引き取らせ、新婚家庭に招かれたときも、極力早く帰るようにした。北原家には必ず自分で車を運転して訪れ、それを理由に酒も決して口にしなかった。 それでももちろん、人間そんなに急に強くなれるわけはない。時たま、自邸で酒を酌み交わしているときに、酔いも手伝ってかずさは泣き崩れてしまうことがあった。しかしそんなときにも、泊まってかずさをなだめてやるのは雪菜の仕事で、春希は後片付けをしてひとりで帰り、翌朝早くに――週末の場合には、少し遅めに、お昼前に――着替えを持って雪菜を迎えるだけだった。それが彼らの、線の引き方だった。 そんな夜は、雪菜が一緒にそばで寝てやっても、かずさはしばしば、夢の中でうなされていたという。ひとりの夜も同じか、それ以上につらい夢にさいなまれていただろう。 その一年、かずさは毎日、ほんの1時間でも、ドクターストップがかからない限りは必ず曜子を見舞った。慣れぬ手つきで持参した果物を剥いてやろうとしては曜子に取り上げられ、逆に同じように慣れぬ手つきで剥かれてしまっているところを、目ざといナースに取り押さえられるというドタバタ喜劇を、何度繰り返したかわからない。 見舞いとはいっても、何をしてやるでもない。文字通り「見舞う」だけだ。壊滅的なまでに不調法な娘と、これもまた不調法な母のこと、ただ顔を見て、バカ話をするのが関の山だ。ただそれだけのことだったが、それがどれほど、曜子の気力を奮い起こし、治療の苦痛に耐える助けとなったかは言うまでもない。 それでも――しばしばドクターストップはかかった。さしもの曜子も、かずさにさえ会う気力がわかない日はあった。曜子の気力があっても、スタッフがそれを許さない日もあった。ほんの時たまだが、かずさの訪問中に曜子の容態が急変し、見舞いは打ち切り、ということもあった。 かずさが眠れぬ夜を過ごすのは、そういう日だった。 最初の一年が過ぎれば、白血球の量も安定し、基本的に在宅での治療に切り替えることができた。そこでようやく雪菜と春希の本格的出番が来た。雪菜は高柳教授とも相談したうえで、親子のための食事を設計して毎日のように訪れた。しかしそうした日々も長くはなかった。雪菜が妊娠したからである。以後は基本的には曜子自身とかずさ、そして冬馬オフィスの工藤美代子が、高柳教授の指示をもとに、訪問看護とホームヘルパーを手配し、曜子のケアを管理することになった。――この体制が、基本的には今も続いている。「今でも時たま、母さんがつらそうにしているのを見てしまうことがあるけど、あの頃はきつかった。あのひと、あんなたちだし、あたしもこんな風に頼りないから、いっしょうけんめい我慢するんだ。でも、きついから、我慢してるのが、こっちにも見えちゃうんだ――だから、あの頃は本当につらかった。雪菜のおかげで、本当に助かったよ。夜中に時たま、目が覚めて、不安でたまらなくなって、寝ている母さんのところにそっと、様子を見に行くんだ。――たいがいの場合は、静かに寝ていたから、そのまま戻るんだけど、時たま、苦しそうにしていることがある。だからといって、発作を起こしているわけでもないから、声をかけて起こすわけにも行かない。でも、そんな時は不安で不安で、そばを離れることができない。起こさないように、でももしもの時はすぐに対応できるように、静かになるまでじっと見守っている。――で、幸い、「もしもの時」は来なかったわけだけど、そんな風になったらもう眠れない……。」 春希の腕の中で、かずさはぽつぽつと話した。「――そんな時は、どうしたんだ?」「雪菜に口止めされてたから、内緒にしてたけど――知ってたか?」「――何となく、気づいてはいたよ。」「――うん。ちょうど、雪菜も産休の時だったしな。春華のおかげで、夜も眠れないから、気晴らしにもなる、なんて言ってくれて。だから、時たま、夜中に雪菜と、電話で話した。おまえを起こさないようにって、あいつ春華を抱っこしながら、居間に出て。」「――何度か、そんなことがあったな……。雪菜、ずいぶん気を遣ってくれてたけど、ごそごそしてるから、わかっちゃうんだよ。」「――そっか……悪かったな……。」「こっちこそ、役立たずで済まん。――まあ、雪菜も、俺に気を遣ってくれただけじゃなく、俺を役立たず認定してたんだろう。」「――本当に、雪菜には、たくさんのものをもらった……のに、まだ何も返してないのに、何で……。」 かずさは涙ぐみ、春希の胸に顔を埋めた。春希も目頭が熱くなるのを覚え、かずさを抱きしめた。ひとしきり泣いてから、かずさはふと顔を上げ、ぽつりと言った。「――母さん、大丈夫かな……馬鹿げた心配とはわかってるけど、急に不安になってきた……。」「――様子、見に行くか?」「――起こしちゃったら、かえって悪いよ……。これは母さんのためというより、あたしのひとり勝手な取り越し苦労に過ぎないんだから……。」 かずさはいやいやをして、再び春希の胸に顔を埋めた。「――これまで、起こさないで様子を見てこれたんだろう? それで気が済むんなら、行ってこいよ。」 春希は優しくかずさの頭を撫でた。「いや。いかない。」 かずさはかぶりを振った。「本当に何かあったら、母さんは必ず枕元のブザーを押す。それであたしだけじゃなく、ナースにも、高柳先生にも連絡が行く。それで充分だ。」 そういってかずさは、かたく目をつぶった。