(承前)「……。」 かずさが緩やかに寝息を立て始めたことを確認すると、春希はそうっと床を離れ、音をたてないように着替えを済ませて、寝室を出た。そしてそのまま地下へ、スタジオへと向かった。 念のため、今夜もブースに入ろうかとも思ったが、スタインウェイの上に散らばる楽譜やメモにかずさの苦闘の跡が見て取れて、何となくためらわれた。「まあ、いいか……ギターの方を消音モードにすれば、済む話だし……普通の防音ならここでも十分だからな……。」 そうひとりごつと春希は、念のためにスタジオの外扉をきちんと閉め、調整室の隅に立てかけてあった電子ギターをとりあげた。そしてギターをサイレントに設定したうえでヘッドホンを付け、ちょいちょい、と音量、トーンをチューニングした。「これで……よし、っと。」 デスクの上から楽譜を探し当てて譜面台に立て、自分もパイプいすに座り込む。そして大きく息をついた。「まずは、いつも通り、ひとりでおさらい、か……。」 譜面台の「春の雪」のスコアをきっとにらんで、春希は練習を開始した。 どれくらい弾いていただろうか。通して弾いては、また気になるところ、難所に戻って反復練習、を延々と続けていると、いきなりうしろから「こらっ!」と大声とともに抱きついてきたのは、もちろんかずさだった。「う、うわああっ! な、なんだよ、どうしたんだ!」 集中していた上にヘッドホンをかぶっていたので、かずさの接近に全く気付いていなかった春希は、そのあたたかさと柔らかさにすぐかずさだと気付いたが、それでも心臓が止まるかと思うほど驚いた。「どうしたもこうしたもない! 今何時だと思ってるんだよ! 明日も早起きしなきゃなんないんだろ、さっさとやすめ!」 ぎゅっと春希の肩にしがみついたまま、かずさは毒づいた。「練習しろ、とは言ったけどさ……ほどほどにな? 子どもたちが、いるんだぞ?」「あ、ああ……。すまんな。まさかおまえに、お説教されるようになるとは……。」 春希は苦笑いして、ギターを置いた。そしてヘッドホンを外すと、かずさを振り仰いで口づけた。「……おまえ、あせってるのか?」と口づけの後にかずさはたずねてきた。「わかる、か?」「……ん――まあ、な。」「あせる、っていうか……あてられたっていうか……俺も頑張んなきゃ、と思っちまったよ……。」 かずさを抱きしめ返しながら、春希はつぶやいた。 その日春希が帰宅すると、かずさと子どもたち、そして曜子は皆で夕餉の卓を囲んでいるところだった。献立はまさしく朝の予告通りの鍋。おそらくは湯豆腐かしゃぶしゃぶか、と思ったが、意表をついて豚バラと白菜の重ね鍋、とひとひねりしたものだった。たしかにこれなら簡単で、その割に格好もつく。果たしてかずさはそのアイディアをどこから持ってきたのか、気になった春希がたずねようとしたら、その機先を制するようにかずさが言った。「ちょうどよかった! いいところに帰ってきてくれたな。――今日、ついさっき、柳原さんのテイクが上がってきたんだ……せっかくだし、みんなで聴こうと思ってたところなんだ。子どもたちも、聞きたいってさ。」「ああっ!」 ――自分でも意外なほどの衝撃を、春希は受けていた。 春の「復活」コンサートを収録したBDは、突貫工事で、しかし入念な編集を経て初秋に発売され、まずまずの好評を博した。現在収録中のアルバムも、その余韻が冷めやらぬうちに出したいところだったが、ネックとなるのが結局、ボーナストラックの「春の雪」だった。 かずさと春希がそのように言えば、ナイツとしてもそのまま、自ら志願してきた柳原朋のボーカルを通していただろう。しかしながらその肝心の朋が、何を思ったのか、コネ採用? を潔しとせず、ナイツが見込んだ他の候補ともども、オーディションを受けることを望んだのである。「柳原さん、あなたにお願いしたところで、別にこれはアンフェアなことでもないし、ボーカルを軽視してるわけでもないんだよ?」 北原夫妻とナイツレコードの澤口に対して、あくまで「春の雪」ボーカリストのオーディションを希望する朋に、春希は言った。「「春の雪」は言ってみれば、遅ればせの、雪菜への哀歌だ。そして「時の魔法」同様、「峰城大学付属軽音楽同好会」作品でもあるんだ。だからこそ、作詞者とはいえプロでもない俺が、今回もギターを弾く(ことになるんだよなあ本当は誰かに代ってほしいけど)わけだし、だから雪菜の親友だったあなたに歌っていただきたい、という希望は、こちらとしては当然のものなんだ。」 それに一時はあなたも軽音のメンバーだったし、とは、話がややこしくなっても困るので言わないことにした。 しかし朋は真剣な顔で首を振った。「だからって、いや、だからこそ、SETSUNAのファンをがっくりさせるような真似は、私にはできません。これまでのみなさんのトリオが達成してきたクォリティーを落とすようなことは、絶対にしたくないんです。」(朋ってば、こうなると梃子でも動かない、頑固者だからね……。) かずさの脳裏で、雪菜が苦笑いした。「歌いたくないわけじゃあありませんよ。ううん、そうじゃなくて、世界中で私以上に、この歌を歌いたいって熱望している人間がいるはずはありません。でも、「したい」ってことと、「できる」ってことは違います。「できた」ところで、「うまくできる」かどうかは、また別の問題です。」 朋は続けた。「雪菜のための歌だからこそ、きちんとした、クォリティーの高いものに、仕上げていただきたいんです。SETSUNAファンの勝手な気持ちとしては、そうでなければ、出していただきたくありません。だから、厳しい目で、耳で、この歌にふさわしいボーカルを選んでいただきたいんです。その結果私が選ばれるというなら、喜んで歌わせていただきます。」 そして朋は三人に向けて頭を下げた。「最初はこちらの方からお願いしておいて、わざわざハードルを、それもそちらの負担で設けていただきたい、なんて非常識な申し出であることは重々承知しています! それでも、どうかお願いします!」 春希とかずさは顔を見合わせ、澤口女史は一息ついて天を仰いだ。しばしの沈黙ののち、かずさは口を開いた。「――まったく、雪菜の言うとおり、頑固なんだから……でもそんな頑固でわがままなあなたに、結局は雪菜も、あたしたちも導いてもらったんだよね……。わかりました、ご希望に沿いましょう。いいですよね、澤口さん?」「――あ、はい。もちろんです。こちらとしても候補者のリストは、すぐ作れますから。選考に正味1か月、ってところですが、よろしいですか? 柳原さんには改めて、事務所を通してお知らせいたします。現在の所属事務所は――××エージェンシー、でよろしいですね?」「はい、よく御存じで……お願いしますね!」 朋は満面の笑みで応じた。「大見得切った以上、期待して……よろしいんですね?」 かずさが意地悪な笑みを返した。「それはもう。」 動じることなくにこやかに朋は切り返した。 かずさはスマートフォンとしばし格闘した挙句、何とかリビングのコンポにファイルを転送できたようだった。春希が食卓につくとほぼ同時に、かずさのピアノによるイントロが流れ出した。 ――まだギターが入っていない、ピアノ一本のカラオケ音源で、今回の「春の雪」ボーカルオーディションは行われ、中堅の実力派ポップシンガーから人気アイドルグループのメンバー、はては新進声優まで幅広い人材がエントリーしてきた。しかしその厳しい競争を予定調和のようにあっさりと朋は勝ち抜いた。そしてナイツのスタッフともども、とりあえず1週間をかけて、今日ここに届いた「仮歌」を仕上げてきた。 朋が勝ち抜くであろうことは、春希にも予想はついていた。おそらく朋こそは、SETSUNAの一番のファンであり、ひょっとしたら春希以上に雪菜の歌を愛し、骨肉化していた人物なのだから、そしてそのプライドにふさわしく、人一倍の努力家であるのだから、多少の音楽的力量の壁くらい、吹き飛ばしてくるだろう、と春希は考えていた。 ――しかし流れてきた歌は、その春希の予想を更に裏切るものであった。(……これ――誰だ?) 聞いたこともない、澄んだ透明感と、それでいて深い哀調を湛えた女声が、スピーカーから流れてくる。ぎょっとしてかずさを見ると、「ドヤ顔」というやつか、何となく得意げな、いたずらっぽい笑みを返してきた。「すっかり――やられたよ。度肝を抜かれた。うまい――前に聞いた時より、格段にうまくなっている――ちゃんとしたボーカリストになっているだけじゃない。何より雪菜と全然違う。あんなに――きれいで、しかも深くて、悲しい歌を歌えるなんて……。」 すがりついてくるかずさの頭を撫で、髪に顔をうずめながら、春希はつぶやいた。春希の胸に顔をうずめたかずさは、もごもごと、「男子三日会わざれば、括目して見よ、だっけか……? 女子こそだよ。」と言って笑った。「いったいどれだけの努力をしてきたんだか、と思ってな。」「言ったろう? あの人はいいかっこしいのわがままなんだ、って。自分の想いを通すためだったら何でもやるって。――あたしの、お手本なんだよ……。」「――うん……俺にも少し、わかってきたよ……。だからさ、なんだかいてもたってもいられなくなって……。」 ふふん、とかずさは鼻で笑うと、「三日会わざれば、と言えばさ、晩飯は、どうだった?」と聞き返してきた。「あ、ああ……うまかったよ。お手軽で、でもおいしくできる……うまい献立を見つけてきたな。」と春希がほめると、しかしかずさは不機嫌に「それだけか?」と聞き返してぎゅっとすがりついてきた。春希はやや困惑して、何を言ったものか少し考え込んだ。そして、「少しずつ、考えて、工夫して、できることを増やしていってるんだな。」と言って頭を撫でた。するとかずさは「――子ども扱いするな! ……その通りだけどさ。」と拗ねるように言った。そして春希の腕を振りほどいて立ち上がり、「ボーカルがしっかり仕上がったんだ。もういい加減待ってられない。いいな、おまえにはこっちから〆切を作ってやる。いつもおまえは〆切切る方なんだから、たまには切られる気分を味わえ。――いいか、来週中にはきっぱり仕上げろ。それ以上は待たない。もうそこで「春の雪」の録りに入るからな。」と仁王立ちで宣告した。「ただし、夜はちゃんと寝ろ。」