峰城大学の正門前で、北原春希は、大きく深呼吸した。 定期的に附属病院に検査入院する義母曜子の付き添いや見舞いはもちろん、教員への取材や執筆依頼、打ち合わせなどで、母校への訪問は春希にとって日常的なことであった。しかし、今日は少しばかりわけが違った。 商学部棟4階の教員ラウンジ入口で、にこやかに現れた学部秘書に、春希はやや緊張した面持ちで告げた。「いつもお世話になっております。わたくし開桜社の北原と申しますが、友近先生にお取次ぎをお願いいたします――。」「開桜社の北原、さまですね? 失礼ですが、友近先生とのお約束はおありですか?」「――はい、メールで本日午後二時に、ということでアポイントメントをいただいております。」「わかりました。いまお呼び出しいたします――。」と秘書は電話をとりあげてボタンをプッシュした。「友近先生? 学部秘書室の和田です――。いま、ラウンジに、開桜社の北原さまとおっしゃる方がお見えになってますが、どうしましょう? ――はい、はい、わかりました。では、先生の研究室に直接ご案内差し上げればよろしいですね。――はい、失礼します。」 電話機を置いて秘書はにっこりとほほ笑み、「それでは、友近先生が「個人研究室にお通ししてください」とのことでしたので、ご案内いたします。このラウンジを出られまして、左へまっすぐ行かれてすぐ、右側、5403号室となります。扉に先生のお名前がありますから、すぐお分かりになると思います。――なんでしたら、わたくし、お連れしましょうか?」「い、いえ、結構です。私も峰城出身ですから、わかります。お忙しいところを、ありがとうございました。」 秘書に深々と頭を下げて、春希はラウンジを後にした。 目指す友近の個人研究室は、秘書が教えてくれた通りラウンジからほど近いところにあった。半透明の擦りガラスとオーク材を組み合わせた当世風のドアには小さく「専任講師 友近浩樹」と記されたネームプレートがあった。春希はその前でもう一度深呼吸してから、ドアをノックした。「どうぞ! 空いてますよ!」 明るく、力強い声に、意を決して春希はドアを押し開けた。 ほどほどに乱雑で、ほどほどに片付いた部屋の奥の大きなデスクの向こう側から、ボタンダウンのシャツの男が立ち上がって右手を差し伸べてきた。 ――十数年ぶりの、再会だった。「雪菜さんのことは、残念だったな。あの時は、俺も同期から知らせてもらったんだが、あいにく滞米中だったもので……。」「いや、いいんだ。弔電、いただいたこと、覚えてる。ありがとう。」「――それと、再婚――ご結婚、おめでとう。すごい人を嫁さんにしたもんだな。――雪菜さんとも、親友だったんだって彼女? 噂はちょこちょこ聞いてるんだが、あいにく外部生だった俺は、君たちの高校時代のことは知らないもんでな……。」 大学時代の確執のことなどなかったかのように、にこやかにしゃべる友近を前に、春希はひどく緊張していた。仕立ての良いシャツの両袖をアームバンドで留め、アスコットタイをまいたその少壮学者は、まぎれもなくあの友近浩樹だったが、何というか、印象は一変していた。と、そこへ友近は身を乗り出してきた。「で、今日の用件だが――メールでも概略は知らせていただいたが――これは取材とか執筆依頼とかいうわけでは、ないんだな?」「あ、ああ……ひょっとしたらそういうことにならないとも限らないが、今のところはまだそこまで具体的な話じゃない――つまりは、日本のバイオテクノロジー産業、企業についての、経済学的、経営学的研究について、教えてほしい、ってことだ。どんな研究者が、どんな本や論文を書いているのか、学界の到達水準ってのはどの辺なのか――とかな。」 緊張を抑えつつゆっくり話す春希に、友近は何を思ったかにやりと笑った。「――らしくないな。」「――何が?」 反問した春希に、友近はにやにやしながら切り込んだ。「雪菜さんや、冬馬かずささんとのこと以外にも、少しはおまえの噂は聞いてる。まだ若いのに、開桜社きってのやり手ってことじゃないか。編集者としてだけじゃなく、記者としてもなかなかのもんだって、出版界じゃ大した顔だそうじゃないか……おまけにアマチュアミュージシャンとしても鳴らしてるってんだから、な。――まあそれはさておき、そういう噂の敏腕編集者さんが、俺のような駆け出しの経営学者風情のところに、そんな曖昧模糊とした話をしに来る、なんていうのが、ちと腑に落ちなくてな……。」 図星をつかれて春希は軽く息を呑んだ。友近は続けた。「これがお前、うちの学生だったら、「そんなのまず、図書館に行って自分で調べてこい! そのうえで、本に書いてないこと、先行研究にないことで、自分の知りたいこと、わかりたいことがあったら、それからおれんところへ来い」とどやしつけてるところだ。まあ実際、そういうダメな編集者もいないわけじゃないがな。で、駆け出し風情で生意気な口を叩くようだが、ダメ学生を教育する義務はあっても、ダメ編集者にはそういう義理はないから、とっととお引き取りいただく。 メールや今の話から伺う限りでは、おまえは典型的なダメ編集者だ。でも、それだと理屈に合わないんだよ。おまえが噂通りの敏腕編集者だっていうのなら、具体的なテーマや、その想定される書き手について、きちんとしたビジョンも持たずに学者に話を聞きに来る、なんてことはちょっと想像しづらい……。」 そこまでまくしたてて友近はふっ、とさびしそうな顔をして、「まあ、仕事の話は口実で、実際は若造の頃、痴話げんかの果てに仲違いをしていやな別れ方をした古い友人と、ここは大人になってひとつ仲直りしよう、ということで来てくれたんなら、ありがたいんだが……。」とこぼした。「――そんな……俺には、おまえに許してもらう権利なんか、ない……。」 春希がうつむくと、友近はやや語気を強めて、「じゃあ、一体全体何で、ここに来たんだ?」とにらみつけ、それから微かにほほ笑んだ。「それに大体、あの時、俺のことを絶対に許さない、っていったのは、おまえの方じゃないか……。俺に会いに来てくれたってことは、俺のことを許してくれる、ってことじゃないのか?」 母に会ってきたかずさの叱咤もあり、それまで見ないように、考えないようにしてきた北原の父とその家のことについて、真面目に考えてみなければならない――春希はそう思うようになった。もちろん、北原の家に戻ることなど問題外である。母の気持ちを汲むならば、とてもそんなことはできはしなかったし、自分としても今自分が守るべきは子どもたちとかずさ、そして二人の母であって、北原の家であるはずはなかった。 だが、北原と正しく縁を切るためにも、今の北原がどのような存在であるのか、そしていったんはそこを逃げ出し、にもかかわらず舞い戻った父とは何者であるのか、も、きちんと理解しておかねばならないのではないか。それを経ずして、曜子の伝記など書くことはおぼつかないのではないか――根が生真面目な春希のこと、そんな風な思考にたどり着くのは仕方のないことだった。 だがまあ、外から見る限りでは、北原という企業は、バイオテクノロジーの分野では日本屈指の大企業であるにもかかわらず、最近まで同族経営の非公開会社だったためもあってか、何とも正体のつかめない会社だった。非公開会社だから、有価証券報告書もない。だからその経営実態については、公けになっている資料が極めて少ない。税務調査などをもとにした岡山県のデータや、経済産業省など役所が散発的に行っているハイテク産業調査のデータが断片的にあるだけで、学術論文をあさっても北原本体についての本格的なケース分析はないし、経済雑誌などのジャーナリスティックな記事を探しても、お家騒動から乗っ取られかけて公開会社に移行する前の、北原家支配が盤石だった時代については、キャンペーンまがいの提灯記事や、その反対の根も葉もない?スキャンダル記事などろくなものがない。 こうなると、素人の付け焼刃ではどうにもならない――ひと月かそこら、いつもの仕事(会社だけではなく小説、曜子の伝記も含めて)に加えて、公けになっている限りの北原の資料を読み込み、バイオ産業についてのにわか勉強にも注力した果てに、春希はそう結論した。専門家の力を借りなければ、と。 もちろん北原の関係者ではない(そうなりたくはない)春希は、たとえば北原の社史の編纂を外部の歴史家や経営学者に委嘱するなどという立場にはないし、自らにも北原という企業を独自に研究する能力はない。かといって既存の信頼できる研究成果もない以上、誰か、しかるべき能力と見識を持った者に、北原の全貌を概略だけでも描いてもらえなければ、自分としてはどうしようもない。 ――しかし、誰に? 実は「日本のバイオテクノロジー産業、企業についての、経済学的、経営学的研究」についての自分なりの見通しは、素人なりにではあれ春希も自力で既に作っていた。そしてその中で、意外な名前を発見したのである――よりによって母校の若手教員となっていた、「友近浩樹」の名を。「正直、おまえの名前に出会った時はビックリしたよ。同姓同名の別人かとも思った。――俺の記憶では、おまえは、たしか××××に就職したはずだったからな。」と春希は、とある外資系のコンサルティングファームの名を挙げた。「よく覚えてるな、その通りだよ。とにかく、あの時は金が欲しかったからな……母さんのために。」 友近はうなずいた。「死ぬほどこき使われて、すり減らされるけど、金払いはいいからなあそこ。ちょうどあのころは、お前のおかげで母さんもすっかりよくなっていたから、そんなに介護に手を取られることはなかったけど、いつまた何があるかわからんし、それに何より老後のこともあるから、とにかく何が何でも金が欲しかった……。 で、実際死ぬほど忙しかったけど、それでも、大学でおまえにどやされながら、医療費と学費のためにバイトと学業に精出してた頃のことを考えれば、ずっと楽だった。だから、がむしゃらに働いて、5年目には留学もさせてもらえた。せっかく会社のカネでまた学校に行かせてもらえるんだから、MBAなんてケチなこと言わず、博士号をとっちまえ、って死ぬ気でやった。幸い師匠にも恵まれて、リサーチ・アシスタントにしてもらって、4年目にはドクターをとれた。となれば、今更日本支社に戻る必要もない、場合によっては自分で起業でもして、どこまでやれるか試してみたい――と、そんな風に調子に乗ってたらさ。日本から知らせがあった。母さんがまた、倒れた、と。」 そこで友近はふっとため息をつき、天井を見上げた。「まあ、大したことはなかったんだけどさ、それでもしばらく入院する羽目になった。で、母さんは何にも言わないんだけどさ、やっぱり、側にいて、ついていてやりたくなったんだ。金さえあれば、何とでもなる、と思ってたし、実際それまで何とかしてきたわけだったけど、寂しそうだったしね。――だから、日本に戻ることにした。それも、日本支社に戻るんじゃなく、収入もぐっと下がるけど、時間の融通が利いて労働時間も短い、大学教員になることにね……。というわけで、学部は違うがこうして古巣の峰城に戻ってきた、ってわけだ。まあ、もうちょっと種銭があったら、自分で会社を作れてたかもしれないが……まあ、それはおいおい考えるさ。」「――結婚は、まだ、なのか?」 おずおずと聞いた春希に、友近は苦笑した。「アメリカにガールフレンドを置いてきた。それ以来はフリーだ。まさか母さんを見てもらうために嫁さんをもらうわけにもいくまい?」(続く)