「おーい、北原! こっちこっち!」 ようやっとのことで入国ゲートを抜け、重いスーツケースを転がしながらロビーに向かう春希が懐かしい声に振り返ると、向こう側に伸びあがって両手を大きく振る小柄な女性の姿があった。「麻理さん――いや支社長! わざわざありがとうございます! ――おいほらかずさ、開桜社アメリカの風岡さんだ。」と妻を振り返ると、かずさは目立ち始めたお腹を突き出すようにして、スーツケースの上にちょこんとすわり、ひと休みを決め込んでいた。娘たちはどうしたのか、と頭を巡らしたが、姿は見えなかった。夫の怪訝な顔に気づいて、かずさは大儀そうに、「ああ、あの子たちならトイレだとさ……場所はわかるからって、二人だけで走って行っちまった。あたしはこの通り、ちょっと追っかけられないから……あ、風岡さーん、お久しぶりでーす。今日はわざわざありがとうございまーす……。」とのんびりした口調で返すものだから、春希は焦った。「おいおい、ダメだよ、ここはアメリカなんだ。ニューヨーク州だと6歳以下の子どもは一人にしちゃダメなんだぞ。春華は9歳だけど雪音は7歳、かなりぎりぎりだ……ちょっとここで待ってろ、あそこのトイレだな、俺が迎えに行く――。」 そこにしびれを切らしたのか、麻理の方からこちらに駆け寄ってきた。見ると、一緒に大柄なアジア系の男性もやってくる。「いやーほんとよく来たなあ北原! ――冬馬さん、ご無沙汰しております、風岡です。ステーツにようこそ。大丈夫、今日は車も用意しましたので、ご安心ください。ニュージャージーまでまっすぐお連れしますよ……ええと、お子さんたちもお連れと伺ったんですが?」「ありがとうございます麻理さん、子どもたちですが、すぐに連れ戻してきますから、ちょっとお待ちください……。」 あわてて春希が言うと、麻理は眼をパチクリさせてからにっこりと、「わかった北原、じゃあ奥様と荷物の方は、こちらに任せてくれ。」と返して、傍らの大男を振り返った。「じゃあマイク、頼むわね。」 大きなRVの後部座席に北原一家四人、運転席には麻理の「ボーイフレンド」だというマイク、助手席には麻理、という一行は、ケネディ国際空港からそのままニューヨーク市を横断、ハドソン川を渡ってニュージャージー州に入り、一家の落ち着き先である大学町へと向かっていた。最初は初めての異国にはしゃいでいた子どもたちだが、長旅の疲れが出たのか、州境を超えたあたりで眠ってしまった。「そうですか、たしか大学にはヴィジターとして1年間、ですね……?」麻理の問いかけに、「最低1年、ということです……。学生向けに授業や、大学関係のオケとの共演とかすれば、延長もあります……実際このお腹ですから、たった1年じゃろくなことはできませんし、大学以外にも、ジュリアードとかにも顔をつなぎますし、こちらでの活動拠点を作るつもりで、長い目でやっていこうと思います。」とかずさは答えた。「なるほど、実際には2年以上の長期戦で、しかも出産・子育てをしながら、ということですか。そのために北原、おまえもすっぱり会社を辞めてきたというわけだな……ずいぶん思い切ったことをするものだとは思ったが。」「はい、社の方ではそちらの支社への出向・転籍という形もある、といろいろご提案やご配慮をいただいたんですが、はっきりした予定も立てられませんし、ここはいったん、きっぱりと退社した方がよい、と判断しました。妻の帯同家族という形で、とりあえずヴィザはおりましたし、しばらくは主夫とマネージャーを軸にしようかと思っています……いえ、もちろん風岡さんの――支社のご配慮はありがたく承ります。ニューヨークも近いですし、単発の仕事があれば、可能な限り請け負いますので。」 春希の言葉に麻理は助手席から振り返って、「ああ、当てにしているぞ。……なに、もし困ったら、こっちで正式にエディターとしていつでも雇ってやる。日本に戻るとなっても、どうせあっちから「戻ってこないか」と言ってくるに決まってるしな。奥様のことを優先するんだったら、とりあえず辞めて正解だ。」と笑った。 ――結局、当初のシモーヌの思惑通り、かずさは橋本健二の後を襲う形で渡米、留学することとなった。 あの受賞後の橋本は文化庁の資金が終わった後も、講師を引き受けて更に大学の滞在を伸ばし、その間北米を中心にツアーも展開したが、延長は一年で帰国することとなった。そしてそのあとの枠には橋本やシモーヌの推薦もあり、冬馬かずさが早々に内定した。 ところがちょうどその内定の前後に、かずさの妊娠が判明したのである。 もとより産まないという選択肢はなかった。となれば問題は、渡米をどうするか、であった。この機会を逃してしまえば、少なくともこの大学についてはチャンスはなくなってしまう。もちろん他にも、留学の機会は長期的に見ればいくらでもあるといえばある。かずさのホームグラウンドはむしろ欧州で、冬馬オフィスウィーン事務所も健在なのだから、北米にこだわる理由もなかった。 だがかずさは、あえてこの時期での渡米を選んだ。「別にシモーヌ先生や橋本さんの顔を立てるためじゃない。子どもだってもちろん、日本で産んだ方が楽には決まってる。保育園だっていくら「日本死ね」とはいえそもそもアメリカには公営の保育がない。ベビーシッターに大枚払うしかない。日本にいれば小木曽のお義母さんも、北原のお義母さんも助けてくれる。」「そうねえ、私もいるし。」と口をはさんだ曜子をきっぱり無視してかずさは続けた。「それに子育てにしても、大学に、しかも学生としてじゃなく行くのも、どっちもあたしには初めてのことだ。アメリカだって知らない土地だ。新しいことを一度に二つも三つもやるのは危険だ、というのは当然だよ。春華と雪音にも大変な思いをさせると思う。」「それでも、行きたいんだな。お膳立てがあったからというんじゃなく、おまえの意志で。」 念を押す春希に、かずさはかぶりを振った。「うん。この話も元をたどれば橋本さんの渡米前にさかのぼるわけで、もう結構古い話だ。あの時は母さんのことも、おまえたちのこともあったから、正直全然乗り気じゃなかった。でも今は違う。母さんも新しい薬が効いて、ほぼ寛解だし、ありがたいことに先生もずっとついていてくれる。そしておまえたちはついてきてくれるっていう……なら、あたしも三十を回ったんだし、ここらで新しいことに挑戦したいんだ――でもおまえ、本当にいいのか? 会社とか、物書きの方は――?」「会社は会社だ。辞めるのはこちらの自由だ。物書きは、それこそ一人でできる。お義母さんへのインタビューもオンラインで続けるさ。なに、ちゃんと主夫をやって、おまえたちの面倒を見てやるさ。――子どもたちだって、海外を経験するなら、むしろ早い方がいいだろう?」 軽い調子で宜う春希に、かずさはやや意外そうな顔をした。「そうか――ありがとう。正直、反対はされないにしても、もうちょっとあれこれ言われるかと思ったよ。「もう少しよく考えろ」とかさ。」 春希は少し上を向いて嘆息して、それから応えた。「……正直な、うれしいんだ。変なこと言うけど、おまえ、もうすっかり大人になったんだな――って。」「えー、なんだよそれ?」 膨れるかずさに笑って、春希は続けた。「いやごめん、別に今までのおまえがガキっぽかったとか、そういう意味じゃないんだ。悪い意味じゃなく、つまり「孤独」っていう意味ではなしに、たった一人で立って、やっていくんだな、って――それならこっちは止めたりケチをつけたりするわけにはいかない、応援するしかないじゃないか、って、そう思ったんだ。」「――あたしの方こそ、おまえの邪魔になってないか?」「反対だよ。むしろ俺の方こそ、「俺も一人で頑張らないと」って覚悟ができた。ありがとうな。――さて、となるとこれからいろいろ山のような雑用が必要になるけど、そっちの覚悟はできてるのか……?」「ま、まあ……それは、ぼちぼち、な?」 かくして、まだ残暑も厳しい初秋、北原一家はアメリカ合衆国に降り立ったわけである。大学へのヴィジティング・アーティストたる冬馬かずさと、その帯同家族として。しかも当のかずさは、あと三月もすれば産まれてくるであろう赤子を胎内に宿したまま。(さて、これからどうなることやら……?) インターステートウェイをひた走るRVの窓から青空を見上げて、かずさはひとりごちた。と、久しぶりに雪菜の声が聞こえた。(どうにでもなるよ、がんばれ、かずさ!) はっとして春希の方を振り向くと、娘たちとともにすやすやと寝入っていた。(春希くんがいてくれれば、どうにだってなるよ。がんばれ!) 思わず知らず笑みがこぼれてかずさは、目立ってきたお腹を軽く撫でさすった。================= だらだら続けても仕方がないので、ここで締めくくりとします。 きっとこの二人は、もうあれこれにこだわりのない普通の大人として、着実に歩いていけるでしょう。