(承前)「言うまでもないことだけど、冬馬さん、あんた今でも、春希のこと、好きなんだろう? ずっとずっと、好きだったんだろう? そうだろうなー、とは思ってたけど、今日お会いして、確信できたよ。」「――バカな……。」 千晶のひどく優しげな言葉に、かずさはうめいた。「もちろんその想いは、あんたがさっき言ったように、押さえつけられている。でも、存在していないわけじゃない。 状況証拠がそれを示している。 凱旋公演以降、冬馬かずさは日本に活動拠点を移している。帰国時の冬馬かずさフィーバーを演出した『アンサンブル』増刊の担当は、開桜社の北原春希。ナイツレコードとタイアップした付録のミニアルバムのボーナストラックには、春希と、ナイツの小木曽――のちの北原雪菜が参加している。その後も日本でのCDは基本的に、ナイツからリリースされているし、「親子のためのコンサート」の司会は雪菜で、ナイツと開桜社がスポンサー――つまり帰国後の「冬馬かずさ」とは、つまるところ峰城大付属軽音楽同好会のことなんだ。 ――以上はすべて、冬馬かずさの帰国に伴い、三人の友情が復活したことを意味している。では、三人の友情を壊した恋の行方は? 日本にいた北原春希と小木曽雪菜は、3年間の冷戦を経て、晴れて恋人同士となる。それから2年を経て、5年ぶりに冬馬かずさが二人の前に現れる。前後して凱旋公演、『アンサンブル』、ミニアルバム、冬馬かずさの大ブレイク。そしてほどなく、北原春希と小木曽雪菜は結婚し、冬馬かずさは独身のまま。――ここから推測されることは、結果的には春希と雪菜さんの絆は維持され、冬馬さんは二人を祝福できるようになり、友情は復活した……。これでいいかな?」「――ああああまったくおっしゃる通りだよ、よく調べたもんだ。女優なんかやめて、芸能レポーターにでも商売替えしたらどうだ? ――あんたの結論の通りだよ。あたしは春希をあきらめ、二人を祝福した。結婚式でブライズメイドだって務めたし、祝婚歌を作り、ピアノだって弾いた。そしてそれ以来、家族ぐるみの付き合いを続けている――これ以上何をほじくりかえそうってんだ? お前が言ってるのは友情の状況証拠ではあっても、愛の存在証明なんかじゃない。」 かずさは大げさに肩をすくめた。しかし千晶は続けた。「たしかにあんたは春希をあきらめたかもしれない。でも、あきらめることと、想い続けることとは、両立しないかな?」「――。」「冬馬さん、あんたは春希をあきらめた。あんたが日本に、春希と雪菜さんの二人の隣にい続けたことは、それを示している。だけどね、あきらめ方にも、いろいろあるんじゃないかな?」「――。」「そもそもあんたが高校卒業後ウィーンに行ったんだって、一度は春希のことをあきらめたってことじゃないかな? でもあきらめたまま、幻想の中の春希への恋を、ずっと燃やし続けてきた。つまりウィーンでもあなたは、あきらめることと想うこととを両立してたんだよ。そして帰国後は、また別のあきらめ方と想い方に変わった、ってこと。 ――何よりあんたのピアノは、あんたがずっと春希のことを想っていることを、示しているんだよ。しかもその想いは、ある意味で深まってさえいる。」 千晶の言葉は、優しげだが容赦なかった。「――しつこいようだけどねえ、あたしは付属祭以来のあんたたちの追っかけなんだよ。バレンタインコンサートだけじゃない。日本にいる間はSETSUNAのライブにも何度か行ったし、冬馬さんのリサイタルにも足を運んだ。あのダメダメな凱旋公演も、敗者復活の追加公演も聞いた。子供がいないから、残念ながら「〈親子のための〉コンサート」には行けなかったけど――ってありゃあたしの渡米後か。もちろん、アンサンブル増刊だって、「冬馬かずさミニアルバム」だって持ってる。それどころか、ウィーン時代のコンクールの音源だって、手に入れてるんだ。」「そりゃまたどうも、ご熱心なことで。ピアニスト冥利に尽きるよ。」 かずさの声は冷え込んでいたが、頓着せずに千晶は切り込んでいく。「だからね、あたしは軽音楽同好会にも、SETSUNAにも、冬馬かずさにも一家言あるつもりだ。そのうえで言わせてもらう。 ――聞く耳があればだれにでもわかることだが、冬馬かずさのピアノは、ウィーン時代と帰国後では、全く変わっている。あんたたちにわかりやすく言えば、ウィーン時代は「届かない恋」で、帰国以降、正確には追加公演以降は「時の魔法」だ。」「……。」「これはけなすつもりでいってるんじゃない。ウィーン時代の冬馬かずさは、あたしが書いて演じた榛名のほぼ延長線上にある。小さな世界で一途な恋を歌い上げる孤独の歌姫。」「――わかった風な口をききやがって……傲慢もいいとこだな……。」「しかし、追加公演以降、ミニアルバム以降の冬馬かずさは、わずかな間に大変な変貌を遂げている。深い喪失の哀しみと、再生への希望とが反響し合って、驚くほど深く、広い世界が姿を見せはじめる。――あたしはね、その秘密が知りたかったんだ。」「……。」「これは推測だが、追加公演に向けての作り込みの時期と、ミニアルバム、とりわけ「時の魔法」の制作時期とは、ほとんど重なっているだろう? となれば答えは一つ――冬馬かずさの変貌は、一にかかって、春希と雪菜との再会、「二人と一人」から「三人」への回帰によっている。」「――。」「だがこの変貌は、実に短期間で行われているが、決してスムーズじゃない。そこにはひと波乱あったはずなんだ。なぜなら冬馬かずさの帰国最初の公演は、ひと月後の追加公演と比べたとき、驚くべき乱調、絶不調を来していたからだ。そこからわずか1か月での復調と、しかも大きな質的変化――。」「――もういい!」「おっしゃりたいことはわかるよ。――人の心に土足で踏み入るな! だろ? だがここからが肝心なんだ。――冬馬かずさの大スランプの理由は不明だ。まあありがちなことだから、部外者が気にすることじゃない。しかしここであえて野次馬根性をたくましくして想像すると、以下のようなストーリーが浮かび上がってくる――つまり冬馬かずさは、帰国早々大失恋を被った、と。たった一人で瞼の王子様に向けて恋を歌っていた姫は、現実の王子によって手ひどく振られた。――ここまでは実にありがちだ。ただ、ここからがちょっと珍しい。その失恋の傷は急速に癒え、姫は生きる力を取り戻した。見様によっては以前よりたくましくなったと言えるくらいだ。不思議なのは、その傷をいやしたのが、どうやら彼女をひどい失恋に突き落とした当人――彼女をひどく振ったその当の男と、彼のハートを射止めた恋敵だったらしい、ということだ。」「――いいじゃないかそれで、泥沼の三角関係の果てに、バカな女はついに身の程をわきまえ、潔く身を引いた、ってことで! 何しろそのバカ女が横恋慕した男と、そして何よりその彼女は、ど外れたお人よしだったから、さしものバカ女も降参したんだよ。それでいいじゃないか!」「――もちろんそれで間違いじゃないんだけど、事態はもっとディテールに富んでいるんだよ。 さっき、ウィーン時代のあんたは、春希を今とは違う意味であきらめていた、って言ったよねあたし。でもあれは確かに、本当の意味での「あきらめ」じゃなかった。臆病な娘が現実から目をそむけ、幻想の王国に避難しただけさ。ところがその幻想の王国が無限に広大で、その中で、何もかも焼き尽くしかねない無限の想いが発散される。そんな砂上の楼閣を、あそこまで見事に築き上げるんだから、さすがに冬馬かずさは稀代の天才だ。脱帽だよ。ただそういう芸術世界はひどく脆い――。それこそ、逃げようもない現実を突きつけられれば、あっさり揺らぐ。 きっと、凱旋公演の惨状は、そういうことだったんじゃないかな? ――でもね、追加公演以降の冬馬かずさは違う。ちょっとやそっとじゃ壊れない世界が、ゆっくりとではあるが構築され始めている。それを支えているのが、「時の魔法」の奥底にも流れている深い哀しみ、きちんと現実を前にしたうえでの、本当の意味での「あきらめ」だ。そのあきらめを教えてくれたのが、雪菜さんだったんだね?」「――うるさい……。」「一番大切なものは、自分の手には入らない、というあきらめ。それでも、一番大切なものが手に入れられなければ、世界は意味を失うのか、といえば決してそんなことはない――そういう、世界に対する、あきらめを伴った肯定。追加公演以降の、「時の魔法」の冬馬かずさのピアノとは、こういう世界。以前のそれが強烈な麻薬だったとすれば、いまのそれは日常の生をつなぐ普通の食事。芸術としてどっちが上等、ってことはないけど、歴然たる違いがある。 ――ということだと思ってたんだけどね、どうやらその先があったわけだ。」 千晶はここぞとばかりに、大仰にグラスを振った。まさに「芝居がかった」やり方で。逆説的にもそれが「真実」を告げるしるしであるとばかりに。「一番大切なものは、あきらめられてるんだよ? だから他の、二番目とか三番目に大切なものを手に入れればいいんだ。そうやって幸せになることは、十分にできる。冬馬かずさのピアノは、それを否定してなんかいないんだよ? ――でも、でもね。冬馬かずさは、一番大切なものを、一番大切なままにし続ける――決して自分の手には入らないとあきらめて、それでもなお大事に、想い続ける……これはもはや「現実逃避としての芸術」でもなければ「生活必需品としての芸術」でもない、なんかもっとこう、変なもんだ……。」「長々とご高説を賜り、ありがとうございました。――そこまで持ち上げていただいて、アーティスト冥利に尽きるってもんだね。」 千晶の演説に、うつむいたままのかずさはせせら笑った。「――実際そこまで持ち上げていただいて誠に恐縮だが、ここまでくればあんたの魂胆も見え見えだよ。――お前が今頃日本にのこのこやってきて、あたしたちに会いたいというその理由――新作「時の魔法」のための取材というわけだ!」「――まあ、見え見えだね?」 千晶はペロッと舌を出した。かずさは冷え冷えとした声で応えた。「――それなら答えはわかってるだろう。あたしは一切協力しない。何を聞かれても答えない。門外不出の資料なんて、あるわけもないがあったとしてもやらない。お前みたいな人外の化け物、人の気持ちは読めても理解はできないんだろうから、やめろと言っても無駄だろう。だから「やめろ」とは言わない。勝手にするがいい。ただ法的にプライバシーの侵害になりかねないことをやらかしたら、その時は容赦しない。春希はどうするかしらないが、あたしの立場はこれだ。」「――いやー、「取材」というならもう今ここで九分通りすんだよ。冬馬さんに直接お会いして聞くべきことは、大体もう聞いちゃった――って、あたしが一方的にしゃべり倒して、その反応を観察しただけだったけどね。失礼しました。 というわけでね、最後に冬馬さんに、取材のお礼を兼ねて一つ。」 ひょうひょうと笑って千晶は言う。「冬馬さん、あえて日本に残ったあなたは、すごいと思う。本当に勇気がある。――でも、今ちょっとあなた、揺らいでないかな? あなたが大切にしていたもうひとつのもの、あなたをあんなにも苦しめ、でも救ってもくれた雪菜さんは、もういないんだよ。そして、やろうと思えばあなたは、あきらめていた一番大切なものを、春希を手に入れることが、その腕の中に抱きしめることができるんだよ?」 ここまで気おされて黙っていた春希は、思わずかずさを見た。かずさの手はぶるぶると震えていた。「黙れ……。」「気持ちはわかるよ。手に入れることによって、かえってそれが損なわれてしまうんじゃないか……そんな不安があるんだよね。――ね、春希。」 千晶が久しぶりに春希の目をまっすぐに見た。「かずささんはこんなに苦しんでるんだよ。そりゃあんたも苦しいんだろうけどさ、苦しんでるのはあんただけじゃないんだ。あんたもちょっとは、勇気を出しなよ。もう、雪菜さんはいないんだろ。あんたたち二人で、やっていかなきゃなんないんだろ――。」「――黙れよ。春希には、何も言うな!」 かずさは叫ぶように言った。「――うん、しゃべりすぎたね、あたし。いい加減遅くなったし、今日はこのくらいでお開きとしようか。――ああ春希、見送りはいいからね。表でタクシーでも拾うから。あんたの方からもっとちゃんとした「取材」をしたければ、また連絡してよ。あたし、当分はこっちにいるからさ。実家に逗留しながら、小遣い稼ぎをしつつ、ホンを書いてるよ。それじゃ、またね。」 素早く立ち上がってコートを羽織り、千晶は出て行った。その背中にかずさは、「二度と来るな!」とシャンパングラスを投げつけたが、既にドアは閉まった後だった。 最後の一言だけではない。千晶の冬馬かずさ論もまた、かずさに対してのみならず、同時に自分に向けられたものであることくらい、春希にもわかっていた。「一番大切なもの、か……。」 ――俺にそんな価値はない、なんてのは、逃げだよ? ――そしてあんたも、一度はあきらめた「一番大切なもの」に、ちゃんと向き合わなきゃならないんだよ? 脳裏に妙にリアルに、現実には発されることのなかった千晶の声が聞こえた。「――あいつ……こんなにとんでもない大女優だったのか――。」 俺にそれが書けるのか? いやそれを言うなら、あいつがあそこまで高く評価する「冬馬かずさ」という芸術家のことを、俺はこれまで、どれほどきちんと書けていたのだろうか?==========================ここでの、つまりcc雪菜ルートでの芝居「届かない恋」は、当然に千晶ルートのいわば「完全版」とは、骨子は同じでも細部においては異なっているはずです。