俺と鬼と賽の河原と。生生流転
「ん……、やっと終わったか」
季知が、自室の机で伸びをした。
その机の上には幾枚もの紙。
丁度、仕事に必要な書類をしたためたところだった。
ここしばらくはこの書類整理に追われてろくに休めもしなかったが、これでしばらくは平穏無事に過ごせるだろう。
季知は、そうして部屋を出ると、日の暮れた廊下を歩く。
そんな彼女には、目下悩みが一つ。
「ん、薬師」
着流しの男が廊下を歩いていて、季知はそれを見つめた。
男は眠たげに季知を見返す。
「季知さんか。ごくろーさん、おやすみ」
そして、そのまま男は踵を返して部屋へと戻ろうとする。
思わず、季知は手を伸ばしかけた。
「あ、薬師……」
伸ばしかけた手が宙を彷徨う。
そのときには、薬師は去っていってしまっていた。
しょんぼりと、手が下ろされる。
これが、悩みだ。
目下の、彼女の悩み。
それは――。
「――最近薬師が素っ気無いんだ」
「んー?」
「会ってもからかっても来ないし、まったく遊ばれないし、あの妙なニヤついた顔もしないなんて、絶対変だ」
部屋のテーブルを挟んで、にゃん子と季知が向かい合っている。
「……にゃー、それを何でにゃん子に相談するかなー」
「古くから薬師を知っているだろう」
「藍音のほうが付き合い長いよ?」
「相談したら、『好き嫌いで女性を避けるような情緒がある方ではないので直接聞いてみては』と言われてしまった」
「にゃー、憐子の方が古い付き合いだよ?」
「確実にからかわれて終わる」
「じゃーにゃん子って言ってもからかわれて終わるかもよ?」
「そこは……、お前の良心に任せる」
「にゃー……。仕方ないなぁ」
言うと、にゃん子は人の姿から猫の姿へと戻り、すぐさまテーブルの上を駆けると、季知の頭に飛び乗ってもう一度ジャンプ。
季知の背後へと降り立つ。
「お、おい、これは、どういう……!」
と、その瞬間には、季知に猫の耳が生えていた。
「いやー、だって直接聞き出す勇気はないけど構って欲しいんでしょ? なら、その格好でご主人の前でにゃんっ、とかやれば構ってくれるんじゃない?」
「……む、むう……」
一理はある。
確かに、猫耳を付けることによって薬師が思わず構ってしまう可能性が格段に上がると言うことは実証されている。
季知は悩んだ。
悩んで一晩悩みぬいた末。
其の二十一 俺と気まぐれと猫。
何故だろうか。
何故なのだろうか。
何故俺は、猫耳の季知さんに、小一時間ほど正座で睨み付けられているのか。
俺には分からない。
だが、季知さんはめっちゃ睨みつけてくる。
俺の部屋に戻ってきて正座の季知さんが神妙な顔で待っていた時など、部屋を間違えたかと思ったほどだ。
しかしここは俺の部屋。
つまり俺は、何かを求められているのだろう。
俺は、何かをしなければならないのだ。
しかし、その何かとはなんだ。
分からない。ここで選択を間違うと俺は死ぬだろう。
部屋に入ったままの状態からほとんど動けず、俺は季知さんとの間合いをじりじりと測る。
そんな中。
季知さんが動く。
「……薬師」
遂に何かが動く。
俺はごくりと喉を鳴らした。
そして。
「にゃ……、にゃんっ」
にゃ、にゃん……、ってなんだ……!
拳を軽く握って体の前に出し、そしてその台詞。
今すぐ殴り殺してやるという合図か。
死が目前に近づき、いよいよ俺は行き詰ってくる。
どうしろと。
どうすればいい。
考えがまとまらない。
「や、薬師……」
そんな中、呼ばれて俺は季知さんを見る。
「……ひ、人の耳を触りながら上の空になるな。……その、困る」
いつの間に。
「うお、すまん」
無意識に俺は季知さんの猫耳を触っていたと言うのか。
……しかしどうやら、俺は早くも選択を間違えたようだ。
確実に死んだ。後はもう右拳か左拳か位の違いしかない。
右か、左か、それとも両方か。ボコボコなのか。
俺が覚悟を決めたそんなとき。
「触るのは、いいが……。……上の空は、ダメだ」
季知さんの手が、宙に浮く俺の手を優しく掴む。
「ちゃんと、……私を見ろ」
「……お、おう?」
とりあえず生きてる。
とりあえず、俺は手を季知さんの耳に戻す。
……さあ、ここからどうする?
とりあえず、あまり上の空になると怒られるらしいので程ほどに季知さんを見つめる。
季知さんは恥ずかしげに俯き気味で、その表情から何かを予想しようにも難しい。
なんだ、あれか?
またにゃん子か憐子さんに乗せられたか、からかわれたのか。
そうなのだろうか。
「……ん」
ゆらゆらと、ゆったりとした速度で尻尾が揺れている。
というかよく見たらYシャツしか着てないぞこの人。
そりゃ尻尾があるからズボンははき難いことだろう。
しかし、しかし、下着まで怪しいと言うのは如何様な了見か。
どうする、どうするんだ俺。
「あっ……、や、薬師。いきなり、尻尾なんて……っ」
……なんでゆらゆら揺れてたからってなんとなく尻尾掴んでんだ俺は。
季知さんは、抱きつくかのように密着しながら、俺の両腕を掴んでいた。
……もう、後には引けない。
俺は黙って、片手で頭を撫で、耳を触り、そして、もう片方の手で尻尾を撫でる。
手を離したら殴られる。そういう状況だろうこれは。
自ら墓穴掘って地雷埋めて踏み抜いたみたいな状況だぞこれは。
どこまでこのままの状態で誤魔化せるのか。
ごくり、と俺は生唾を飲み込み、無限にも思える時間を耐える。
一分、二分、三分と早くも遅くもならず、憎らしいほどいつも通りに時計は時を刻む。
そして――。
「薬師……、離してくれ」
季知さんが離れた。
審判のときだ。
俺は照れた季知さんに殴られる準備をする。
さあ、来るか、いつ来るか。
そんな時。
「……満足した」
季知さんが俺の横を通り過ぎ、扉を開け、部屋を出て去っていく。
ばたん、と扉の閉まる音だけが間抜けにも俺の耳に届いた。
「……、マジでなんだったんだ」
「にゃーん、どしたの? すごく疲れた顔をして」
「……色々あったんだ、色々な」
縁側で、胡坐に肘を付いて頬杖状態で、俺はぼんやりと庭を見つめている。
そんな俺の背後に、にゃん子がいた。
「季知はめっちゃええ顔してたのに。つやつやしてたよ。ご機嫌だった。鼻歌歌ってたもん」
「……謎だな」
「そう?」
「で、けしかけたのはお前さんか?」
「半々かにゃー? ってかさ、ご主人が悪いんじゃん」
はて、一体俺が何をしたらああなるのか。
一体どんな因果だよ。
「なんで季知のこと避けてたの?」
「避けてた?」
「避けてたんじゃないの? 本人はそう言ってたよ?」
「あー……? いや、忙しそうだから邪魔しないようにはしていたが」
「あー……」
にゃん子が、残念そうに、呆れたように溜息を吐いた。
「にゃーん……、ご主人のあほー」
「なんだいきなり」
「にゃんでもにゃいー」
後ろから首に腕を回して、にゃん子は俺の頬をつつく。
ふむ、しかし季知さんを避けているように見えたから、猫耳をして俺の部屋に現れた……、と。
「因果関係が分からんな」
「ほんとに分からないの?」
「分からん」
「あほー」
頬を突く力が強くなる。
阿呆とは何だ阿呆とは。
と、言おうと思ったのだが、にゃん子の興味が移るのはあまりに早く、俺が文句を言う間もなく。
彼女の興味は庭に現れた猫へと映った。
べつに、季知さんとかではなく、ただの野良猫だろう。黒と灰色の縞模様が印象的だ。
「あー、同胞だ。にゃー、おいでおいで、おいでー」
にゃん子の声に応えるように、猫はこちらへと歩んでくる。
ゆったりした動作での歩みから、俊敏な動きに変化して、縁側へと飛び乗ると――。
「あーっ」
何故か俺の膝の上で丸まった。
「ずるーいっ、ずるいよご主人っ」
「ずるいって……、そんなに乗せたいなら持ってけよ」
「次はにゃん子の番だからね!」
「好きにしろよ」
「にゃん子もご主人の膝乗るーっ、ご主人の膝の上はにゃん子のものなのーっ」
「そっちかよ」
嫌がる猫を持ち上げて、にゃん子は俺の膝に納まる。
そして、その自分の膝の上に猫を置いてご満悦。
「満足か?」
「うんっ」
笑顔で言われては、重い退けろというわけにも行かず。
「……マジでよく分からんな」
俺はぼんやりと呟いた。
強いて言えば、女心が、である。
そんな俺へと、にゃん子は笑った。
「そんなの簡単だよ」
「なんだよ」
「猫ってのはね、構って欲しくないとは逃げるし、構って欲しかったら擦り寄ってくる、気分屋さんなんだもん」
「……ふーん、そうかい」
「あ、それで納得しちゃうんだ」
まあ、この際それでいいやと思わなくもないのだ。
―――
春だから眠いのか、眠いから春なのか。
返信
月様
閻魔一族は皆個性はあれど基本的に真面目なせいで本格的に考えると良く分からないところに辿り着いたりします。
とりあえず暴走する一族の中でも色々とアウトなのが閻魔妹と季知さんだと思います。
最後はサンバカーニバルで登場しかねません。
そして、確実に冷静になったあと無駄に悶え苦しみます。
通りすがり六世様
きっと親密な、っていうかハート付きの空間が展開されるんでしょうね。そりゃ居づらい。
しかしもう店主は客を入れたいのか入れたくないのか。繁盛しても困るとか思ってるかもしれません。
サービスと称して色々できますからね、明らかに方向性を間違えたサービスが。
そして、薬師と由比紀なら一緒に燃えても熱いで済むような気がします。
男鹿鰆様
せっかくだったのでスク水押ししてみました。今回もしようかと思いましたが何とか思いとどまりました。
そして、喫茶姉妹は多分二人の世界に入っちゃったりするんだと思います。その間由比紀は黙ってカップを磨きます。
本当にもう、二組も姉妹がいるんだから選り取り緑さんだというのに薬師はまったく、どこのエロゲなのだと。
しかし、閻魔妹の小スク水は、閻魔のだったのか、それとも小さいときに着たほうがいいと見て買って来たのか、永遠の謎です。
napia様
はじめまして。こうして、読んでるよ、と手を上げてくれるのはとても嬉しいです。ありがとうございます。
しかし、閻魔のスク水の可能性は中々高いですね。帰ってきたら見つけて。
なんだこれはと思いつつも気になっていて、ダメだと思いつつも手を伸ばし。
そして、遂に禁断に手を染めてしまった……、見たいな流れがありえそうです。
最後に。
なんか最近閻魔一族が続く……。