夜天の守護騎士の一角、湖の騎士シャマルは癒しを担う守護騎士であり、管理局に勤める今は、医療のエキスパートとして名を馳せている。
闇の書の騎士として八神はやての元に顕現し、JS事件を解決するに至るまで、彼女の活躍は決して目立つものではない。しかし前線とは戦場のみを差す言葉ではない。ならばこそ彼女は間違いなく最前線で戦ってきた一人である。
結界魔導士として戦闘経験もある無限書庫司書長ユーノ・スクライアも、彼女が難敵として目の前に立ちはだかった際は、その力に舌を巻いたものだ。
そして同じ組織に属すに至り、知人が彼女に助けられるにつけ、かつての恐れはより大きな尊敬の念へと変わっている。
であるから、無限書庫でふと目についた『診療録 シャマル・ヤガミ』という、どこから紛れ込んだのか分らないディスクを目にしたとき、なぜ、という疑問よりも先に好奇心が大きく彼の心を占めた。
この場所に存在するのは物品としての『書』ではなく、情報としての『書』である。そのほとんどが紙を媒体としているのは確かだが、このようにデータディスクそのままで保存されているものも少なからず存在する。
手にとり眺めながらふと思い出してみれば、ユーノ自身が彼女に診てもらった事は、片手で数えるほどでしかない。
ひょっとすると、この『診療録』の中には、周囲も彼女もその価値に気付かず、何気なく使用している古代の技術なり知識なりが記録されている可能性に気付いた。彼女の知識は闇の書の稼働より長きに渡り蓄積されたものなのだ。
自分に都合のよい希望的観測と理解している。しかし可能性、それだけでも、考古学者ユーノ・スクライアを刺激するには十分すぎた。
抱えていた案件も一段落つき、今日の仕事は既に終えている。前倒しにしていた分を切り上げて、今日はこのデータを覗くことに決め込み、司書長室を目指す。
飛行魔法の軌道が危なげになってしまったのは、恋人からのプレゼントの包装を開く気分にも似ている。しかし、年甲斐もなくはしゃぎそうな勢いで扉を開くと、珍しいことに客が待っていた。
「邪魔してるぞ? と、今日はご機嫌じゃないか」
「やぁ、クロノじゃないか、どうしたんだい?」
室内にいたのは少し仲が悪く、そして最も信頼できる友人の一人、クロノ・ハラウオン提督だった。どうやら先日渡した資料が役に立ち、思いもかけず事件が早期に解決したため、直接礼をと足を運んだらしい。遭えば多少の憎まれ口を叩くのが二人の常だが、今日はそういう気分ではないので、素直に受け取ることにした。
「なんだ、えらく素直じゃないか、本当にどうした」
「うん、こんなものを見つけてね」
と件のディスクを見せる。
「診療録……か、なんでまたそんなものが」
「シャマルさんが記録したものみたいなんだけど、データベースに整理した人が資料的価値が高いと判断したんじゃないかな? 多分だけど。いやぁ、楽しみだよ」
「楽しみって、これがか?」
「そりゃ、古代ベルカ騎士の医療技術を垣間見れるかもしれないんだよ? ひょっとしたら歴史的な発見もあるかもしれないじゃないか」
興奮を包み隠さず、両手を広げ大きな声で捲し立てると、クロノは少し呆れたように、なるほど、と笑った。
「しかしそんなもの勝手に見てもいいのか?」
「ここにあるっていうことはそういうことだよ。もし何かの間違いにしても、中身が分らないことにはどうしようもないしね。僕も一応は責任者なんだから。それとも、なんなら一緒に確認するかい、提督殿?」
「提督殿はよしてくれ。しかしせっかくのお誘いだし、偶然時間もある。君の言うように、興味深いというのは確かだな」
「よし来たっ」
一人で見ても、二人で見ても何も変わらないとは分っていながらも、ついそんな声をあげてしまった。
作業用のデスクに端末をつなぎ、空間に広げたディスプレイにデータを投影する。応接用の椅子に腰かけた。
再生が始まった。青い画面の中心に白字で、内容が箇条書きに映る。ファイルにはそれぞれナンバーが付いているが、数字に一貫性が無い。どうやらいくつかのファイルを作為的に集めてまとめられたもののようだ。いよいよ期待が高まる。
しかし、クランケの名前と日付が表示されたとき、ユーノは目を見開いた。八神はやて、日付は闇の書事件の少し前。そして
「そうか……、これは」
その下には、高町なのはの名前もある。
日付は、忘れもしない、彼女が墜落した年の記録だ
「おいユーノ」
隣の椅子に腰掛けたクロノが、それだけ声をかける。あまり良い顔はしていない。しかしユーノにとっては理由が増えただけだ。
「見るさ、どっちにしてもこのデータはここにあったんだ。見られてまずいなら僕は無限書庫の司書長として処置をする。それにねクロノ、こう言うとなのはは悲しむけど、彼女をこの世界に引きずり込んだのは僕だ。だから僕は見なくちゃいけない」
「だが、今のなのはがあるのはユーノ、君のおかげだ」
「でもね、今でも迷うんだよ、もし僕が……いや」
なのはが撃墜された後、彼女の回復のため、体のために、心のために、出来る限りの助けはした。しかし足りない。全て、彼女の痛みも、苦しみも、全て受けれいなければならない。それは思い人だからではない。先達として、一人の人間として、ユーノは彼女の全ての苦しみを求めるのだ。
「なら肩の力を抜け。彼女は今、幸せだと、そう言っていたぞ。そしてフェイトを助けてくれたのはなのはだ。なのはを導いたのは君だ」
重くなった空気を振り払うように、クロノが声をかける。
「それにな、僕も君と同じさ。はやてのわがままに付き合ったのは僕だからな。君は僕を責めるか?」
「はは、意地が悪いなぁ。そうだね、はやてもフェイトもなのはといっしょにいて良かったと思う」
「君もだ、もちろん僕もな。だからあまり自分を責めるな。僕は君のそういうところが嫌いだ」
「ありがとう、クロノ」
それに答えず、クロノはふい、と顔を画面に戻した。照れ屋だな、と今更からかうのもつまらないだろう。
画面が切り替わる。なのはの記録は後半だ。それまでにはこの不安定な思考は落ち着けよう。当初の目的が無くなった訳でもない。少しだけ心が軽くなった。
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八神はやて
症状:麦粒腫※1
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映った文字に、クロノが首を傾げた。
「なんの病気だ?」
「目の病気だね。細菌でまぶたが炎症を起こす病気、そんなに酷いことにはならないよ。ほら」
と指をさす先には車椅子に乗ったはやて。八神家の広間でうろたえている様子だ。右目のまぶたが大きく腫れあがっていた。画面の隅では何かを漁っているシャマル。サーチャーによって二人がフレームに収まるよう撮影されていた。
はやては鼻をすすっている。どうやら泣いているらしい。
『なぁシャマル、目イボ治るかなぁ。わたし、目まで、見えんく、ぅっ、なってしまうん、かなぁっ』
『大丈夫ですよ、はやてちゃん、私に任せてください。ほら泣かないで、ね?』
そう言って泣きじゃくるはやての頭を撫でながら涙をふくシャマル。はやてはシャマルの胸元に頭を埋めるように抱きついた。
当時は足が動かなかったはやてだ。そこに更なる異常が重なれば、不安になるのも仕方がない。
しかし、しっかりした子だったと思っていたが、年齢通り子どもらしい部分もあるではないか。今更ながら安心する。
「はやて、ちっちゃいね。ははっ、泣いちゃってるよ」
「ああ、この頃だと9歳だったか、もう十年前か……」
先ほどまでの緊張感もどこへやら。まるで家族のアルバムを見ているような気分だ。懐古的な言葉も、つい出ようというものだ。
それに対して、画面の中のシャマルはほとんど変わっていない。
彼女は言っていた。永遠など求めてはいないと。不死の辛さを知る数少ない存在だけに実感がある、皮肉なものだった。しかし今は、その悠久の時を過ごした経験が、積み立てられた知識が生きるときだった。
シャマルは黒いマジックを取り出し、紙に何やら書き込んでいる。ふう、と一息つくと、はやてに紙を見せつけた。目の前に突き出されたそれを読み上げるはやて。
『<目イボ、売ります>? なんやのんこれ?』
『いいから、いいから、私は治癒のエキスパートなんですよ?』
そういうとその紙を窓に張り付けた。
「ユーノ、何をしているか分かるか?」
「う~ん、ウリマスっていうのは知らないな。ベルカ語の音ともだいぶ違うし……。
それとあの紙だね、映像だけで魔力値のデータが入ってないから分からないけど、ベルカ式の、それも相当古い魔法陣かも知れないね。この画面じゃ確認できないのが残念だ」
「……そうなのか」
釈然としない様子でまた黙ったクロノだが、良く分からないのはユーノも同じで、これは推論でしかない。後で本人に直接訪ねてみるのもいいかもしれない。
治療はまだ続く。
シャマルは神棚に手を合わせ、頭を下げる。飾られていた白いものを手にとると、じゃぶじゃぶと水で洗った。
餅だ。
それを小さな口にぱくりと咥える。もぐもぐと良く噛んでいる。ん、ん、ん、と小さい掛け声の後、何とか噛みちぎると、はやての目の前にひょいと差し出した。
『はい、はやてちゃん、あ~ん』
『食べるん? なんや恥ずかしいわぁ。ん、あ~ん』
そのままもぐもぐと二人で口を動かしている。
『おいしいなぁ、そんで、これはなんなん?』
『うふふ、もう大丈夫、明日か明後日には治ってるから』
『ホンマに? 私の目ぇ、つぶれたりせえへんのやな?』
『そうよ~、なんてったって私は癒しの担い手、湖の騎士シャマルなんだからね?』
『ありがとう~、シャマル~』
映像が途切れた。
「……おいユーノ、これは?」
「儀式魔術……かな? 最近ではお目にかかれないけど、魔力を通しながら定められた一定の手順を踏むことで、魔力に指向性を持たせて効果を発現させる技術だと思う。今ではデバイスが組んでくれる魔法陣の代わりに、物質の移動や位相の変化によるエネルギーを使って結果を導く古代の魔法だね。
むしろ今の魔法がこの儀式魔術の代わりを担っているんだ。特に咀嚼したものを対象に渡すっていうのは……ってごめんね、儀式魔術自体は士官学校で大体知ってるかな?」
「いや、久しぶりだしな、勉強になる。しかし流石、考古学博士は知識が深いな。僕にはさっぱりだ」
「はは、そんなことないよ。それにさっきも言ったけど映像だけだから、僕の想像でしかないよ」
うんうんと納得したように頷くクロノに気恥ずかしいものを感じながら、ユーノは目線を戻した。
画面が変わり、また文字が現れる。別の治療の記録に移った。
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八神はやて
下半身不随、及び広範囲に渡る麻痺
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下半身不随と簡単に書かれてはいるものの、これは闇の書が原因のものだ。
主であるはやてのリンカーコアから魔力を吸い上げ、それにより当時小さかったはやての体に不調を起こしていた。
しかしそれを知らなかったシャマルは、必死にその原因を探り、なんとか主の足を動くようにしてあげたかったのだろう。
『まずは具合から見せてもらいますから。はい、はやてちゃん、それじゃあ両手をあげて、バンザ~イ』
『もう、子供扱いせんといてや』
そうは言いつつも嬉しそうなはやて。やはりこの頃のはやては、家族ができたばかりで、まだ人恋しかったのだろう、ちょっとしたスキンシップでも、本当に嬉しそうな、ゆったりとした笑みを見せる。
「こんな笑い方をしてたのか。最近のはやてはなんというか……活動的で、やはり足が動くようになったのが大きいんだろうな」
「ははっ、クロノ、お転婆になったって正直に言えばいい」
「そんな言葉じゃ済まないさ。と、あまり大きな声では言わない方がいいか」
二人で声を出して笑った。
『はいはい、それじゃあぬぎぬぎしましょうね~』
『もうシャマル~』
うっ、息が止まる。何やら怪しくなってきた。今更初心だと言うわけでもないが、流石にこれは、とクロノに目を向けると、なんでもないような顔で腕を組んで眺める姿。
それもそうか、と思い直した。画面の中のはやては9歳だ。デリカシーがどうとか問われるかもしれないが、下心があって見ている訳でもなし。子供の下着姿にどうこう言って映像を止める方が、逆に成人男性の行動としては不自然なのかもしれない。
妻子を持つと肝が据わると言うが、こういう行動の差が、そう言わせるのだろう。とりあえずこれははやてには言えないな、と思いながら流れ続ける映像に目を戻した。
『どうです?』
とはやての足や腰、腹などを触診するシャマル。麻痺の範囲を確かめているらしい。
『う~ん、なんか触れてるって感じはするんやけどなぁ』
『それじゃあ、ここは?』
『あっ、んっ、ちょっとくすぐったいなぁ』
『そうですか……、それじゃぁねぇ、ここはどうですかっ』
『やん、あはは、くすぐったいってば、もうっ、シャマル、きゃっ』
白のキャミソールと、可愛らしいショーツにはピンクのワンポイント。日に焼けておらず、運動不足で白い肌が目立つ。そんな美少女が憂いを秘めた笑顔で金髪で美人のお姉さんと大画面でくねくね。
「無邪気なものだ」
「…っ」
どこかしみじみとしたクロノの声を聞き、ユーノは意識を取り戻す。
何か致命的な事が起きた気がするが思い出せない。平静を装いつつ返事を返した。
「そうだね、このままじゃいられなかったっていうのは、あまりに残酷だ」
「ああ……、む、どうやら治療に入るらしいぞ?」
真剣な顔をしたシャマル。右手の指を自身の口に運び、チロリと赤い舌が爪を濡らした。それをはやての額に運び、上下に三度ほど動かす。唾液を塗りこむような動作だ。※2
『なにしてんのん?』
『おまじないです、こうすると良くなるの』
「おまじない?」
「おまじないは『呪い』。だとすればこれも儀式魔術だよ。でも所作が少ないから、媒介と魔力に重点を置いてるのかな」
『おまじないって、風邪ひいたらお尻にネギいれるみたいなやつ?』
『ええっ、はやてちゃんそんなことするんですか?』
『ちゃ、ちゃうよ、せぇへんよ、昔本で読んだんよっ』
『へぇ~、変わってるんですね』
わたわたと慌てるはやてと小首をかしげるシャマル。どうやら地球の民間療法らしい。効果のほどはわからないが、ネギは殺菌効果のある成分を含むし、大腸は吸収効率が良い。そういった様々な要素が混ざりあって生まれた俗信なのだろう。あながち馬鹿に出来るものでもないなと驚いた。
『それで、どう、効いたかしら?』
『う~ん分らんなぁ ねぇねぇ、もう一回やってぇや。ちゃんと集中するから』
そう言われ、再び指を咥えるシャマル。念をこめるように唇を尖らせ指を吸う。ちゅぽっと水っぽい音が響き、再び先ほどと同じことをした。
『う~ん、やっぱりようわからへんなぁ』
『そうですか……、それじゃぁ~、こうだっ』
そう言ってはやての額をぺろりと舐めるシャマル。
『きゃっ、やんっ、もう、お返しやっ』
うずくまるシャマルの頭を小さな手でえいと掴んで、額にとどかないからほっぺをぺろり。はしゃぐはやてをあやすように、シャマルも悪戯っぽい笑みを浮かべる。
『やっ、もうはやてちゃんったら~、大人しくしなさいっ』
そうしてふざけ合っていたのが次第にエスカレートしていく。画面の中では、美女と美少女がほっぺをぺろぺろ、額をぺろぺろ。お互いの顔をぺろぺろちゅっちゅ。
『キャッヤダーイヤンクスグッタイペロペロチュッチュモウーハヤテチャンタラシャマルーアンッソコハッアッアッアーン』
思い出せユーノ・スクライア。
数多の次元世界を渡り歩いた無頼の日々を。
卑劣な罠にかかり貴様に想いを託した同輩の涙を。
思い出せ、ユーノ・スクライア。
「ねぇ、クロノ。これで闇の書が、自分たちが原因だったって言うんだから、シャマルさんは、ヴォルケンリッターの皆は……辛かっただろうね」
「っ、ああ、だが誰も責められない。辛いな」
映像はまだ続く。
そして……
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高町なのは
裂傷、火傷、リンカーコア損傷
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「……っ」
「おいユーノ、辛いなら見るのはやめろ。誰も責めやしない」
「ありがとう、クロノ。でも大丈夫だよ、少し考え事をしてただけ」
画面中央に映るのは血にまみれぼろぼろのバリアジャケットを纏った、高町なのは。当時11歳。
見ているだけで、つらい。
なのはを囲むように、画面に向かって左手に白衣を纏った外科専門の管理局医と治癒魔導士。シャマルは反対側で指示を出す。
『レイジングハート、バリアジャケット解除してっ。先生、少しだけ持たせてくださいっ』
必死な様子で訴えかける。一瞬画面が光に満ちて、なのはの姿が私服に変わるが、そこかしこから再びじわじわと赤いものが広がり始めた。
ハサミで服を切り開き、すべて取り払う。肌があらわになるが、半分近くが血と傷に覆われていた。
その姿、見たくない。見なければならない。
外科医は素早く傷口から異物を摘出しては、計器を確認する。治癒魔導士は処置の済んだ傷を塞ごうと魔法を行使し続けていた。
クラールヴィントが浮き上がり、発光を始める。そしてその光が最高潮に達したと思われたその瞬間
『クラールヴィント、お願いっ』
シャマルの祈りのような叫び。みるみる傷口が塞がっていく。同時に体にまとわりついた血や汚れ、突き刺さった破片などが、分解されるかのように空気に溶け、なのは白い肌は色を取り戻す。まさしく一糸まとわぬ姿に、ちりの一つ、汚れの一つも、既に無い。
浄化、聖域
そう表現するしかないほどの、魔法の行使。これまで目にしたどんな回復魔法とも比べられない。
「これは、すごいな……」
クロノの称賛に同意しながらも、それでも、声を出すことも辛い。これが彼女の痛みだ。自分の罪だ。見なければならない、見たい。なるほど、確かに業が深い。
クロノは、クロノは辛くないのか。ぎりぎりと盗み見るように眼球だけ動かすと、彼もまた祈るようなポーズで、合わせた拳を顎に当て、何かを呟きはじめた。耳を澄ませば、うわ言のように妻と子の名を繰り返す。自分の家族が同じ目にあってしまったら、と想像したのかもしれない。しかし目線は映像から離していない。若くして提督になっただけの事はある。
とんでもない胆力だった。
『凄いですね』
画面の中でも賛辞を受け、しかしシャマルは肩で息をしながらも、まだ気を抜かなかった。
『リンカーコアも、内臓の細かい部分だって完全には治せないんですっ、さぁ、これをっ』
そう言ってうずくまると、地面に置いていた四角い箱を脇に抱え、蓋を開ける。箱の内側がサーチャーの視界に映った。内側四面全てが鏡で覆われた奇妙な箱。そこにシャマルは手を入れると大きな蛙を取り出した。
『……あの、それは?』
『知らないんですかっ? ベルカの霊薬ガマの油ですよっ、四面鏡の箱にガマを入れるとガマは己の醜さに脂汗を流すんですっ。とにかく、細かく説明している暇はありませんっ 、これをこうやって、こうっ、えいっ、こうですっ』
そういって蛙の背面をなのはの体にぐにぐにと擦りつける。ゲコッゲコッと音がするのは活きがいい証拠だ。
『早くっ、なのはちゃんを助けたくないんですかっ』
ゲコッ
『えっ、えっ? あっ、は、はいっ』
戸惑う魔導士と外科医。無理もない。がシャマルの必死さに我を取り戻し、言われた通り、三人がかりで蛙をこすりつける。意識は無いものの、揺れるたびに圧迫されてか、なのはの口から、んぁ、と小さな息と声が何度か漏れた。そんな些細なことが、彼女がまだ生きているということを実感させる。
「ユーノ、これは?」
わからない。だがユーノの精神状態はそれどころではない。話しかけないでほしい、と目で訴えると、クロノも再び黙り込む。
ねちゃり、ねちゃりと粘り気のある音。
小さななのはの体はあっという間に油でぬらぬらと輝き、照明の光を艶やかに返して白く輝く。今度は背中だ。膝を抱えてころんと転がす。力の入っていない頭をこてんとマットレスに預けてうつ伏せに。
そこへガマの妙薬、古代ベルカの秘薬を、彼女の未成熟で白くてちいさな膨らみになんたらかんたらでもう描写できない。
―うぅ、煩悩退散、煩悩退散、オンキリキリバサラウンバッタ、フェレットが一匹、フェレットが二匹……
ありとあらゆる精神の鎮静法を試すが上手くいかない。
いや、そうだ、次元世界のある聖人がこう言っていたはずだ。
人間から欲が無くなることはない。打ち勝つことこそが悟りの道に通じると。そうだ勝たねばならぬ。
ユーノの頭の中で、ツインテールの小さな白い天使と、三つ編みの赤い悪魔が戦い始めた。
なんてわかりやすいイメージだと思いながらも、心の中で強く念じる。
―悪魔め……
白い天使が
≪悪魔でいいよ……っ≫
あわわわわっ、悪魔ってそっちっ?
今まで天使だと思っていた白い方が、実はどうやら悪魔だったらしい。
ならばとハンマーを持った赤い方に声援を送るが、明らかに腰が引けている。勝利は見込めそうになかった。
手を膝元に組み椅子に前傾に座り込んだまま、クロノが声を上げた。映像は既に終わり、部屋は明かりを取り戻している。しかしユーノも未だ立ち上がることができない。精神的な消耗が激しいからだ。他に理由はない。本当だ。
「どうだ、何か知識欲を満たすものはあったか?」
「満たすというか、欲求は増したかもしれないね。今まで見たこともない世界を味わった気分だ」
「学者は業が深いという人間もいるからな。しかし、君はあまり遠慮しないことだ。もっとも、そういうところで普段の君とつり合いが取れているのかも知れんがな」
「御忠告ありがとう、気をつけるよ」
しばらく二人で談笑した後、別れを告げる。それにしてもクロノ・ハラウオン提督閣下のかくも動じぬ見事な姿。
やはり妻子持ちは偉大であると、我が子のやんちゃぶりに、柄にもなく悩んでしまった。それに、無性に疲れた。
少し気分転換でもしようとふらふらと足の赴くままに無心で局内の散歩と洒落込むことにする。目的もなく歩く、歩く。
気がつくとここは医務室の前。ネームプレートには偶然シャマルの名が。
「わぁ、なんて偶然なんだ」
おお、なんと言う偶然、ふらふらと歩いた先にまさかここにたどり着こうとは。
偶然とは恐ろしいものである。
そういえばなんだか気分が悪い気がする。
いや、頭痛くらいのほうが自然だろうか。
悩んでいると、突然ドアが開いて小さな頭がひょこりと目の前に現れる。その向こうには先ほどまで映像で眺めていたシャマルの姿もある。
「あら、ユーノ先生こんにちは」
「よう、ユーノっ」
「おっと、こんにちは、ヴィータ、シャマルさんも。ところでヴィータ、どうしたんだい? 医務室にいるなんて珍しいね」
「ヘヘへっ、実はあたしさ、風邪ひいてちゃってな」
ヴィータの頭越しに、部屋の奥のシャマルを見る。目が合うと、笑いながらこくりとうなずいた。
「まるで人間みたいだろ?」
そう言葉にした彼女の顔は余りに嬉しそうだ。プログラム体だった彼女たちは、少しずつ人間に近づいているらしい。
その事は聞いてはいたが、本当に嬉しそうなこの顔を見ていると、ついつい手が勝手に動き、ヴィータの頭を撫でてしまった。
「そうか、よかったね、ヴィータ」
普段の彼女なら手を撥ねのけるだろうが、今日に限ってはそのままで、また嬉しそうに、えへへ、と笑う。
大きく手を振って別れを告げたあと、ひょこひょこと尻を抑えながら歩いていくヴィータ。
スカートの裾からはみ出た白ネギが想像力を掻き立てて良い感じにヤバイ。
「さ、ユーノくん、そんなところにいないで中へ入ったら?」
声をかけられ、医務室に足を踏み入れた。シャマルは笑顔で迎え入れる。以前見たときよりも可愛らしい気がする。そうか、年が近くなったんだ、となんとなく嬉しくなった。
「ん?」
「む?」
ふと、奥のスペースで先ほど分れたクロノ・ハラオウンが椅子に座ったまま、大きな黒い球体を抱えているのに気付いた。
「ゃ、やぁ、クロノ。 今日はよく会うね」
「う、うむ、そうだな、奇遇だな」
「うっ、うん奇遇だね。ところで、それは何だい?」
と胸元の黒いものを指差すと、シャマルが代わりに答えた。
「これは天印っていって、狒狒の頭の黒焼きなんです。滋養強壮にいいんですけど、とっても貴重なんですよ? ベルカの王様だって滅多に手に入れられなかったんですから」
「……そうなんですか」
「ああ、その、そうだ、ここの所どうも体の調子が悪くてな、来よう来ようとは思っていたんだが、なかなか機会が無くて、だな」
そういってクロノはぴちゃぴちゃと黒焼きを舐めている。
「それで、今日はどうされました?」
ううん、これは意外と高い確率でとんでもない目に会うかも知れない。早まったかもしれないぞ、とガマの油を思い出す。
あの映像の価値はなのはの未成熟な、ではなくてシャマルの見事な治癒魔法であって、行為自体は……いや、ではなくて、違う、何をどう早まったというのだ、自分は治療目的でここにいるだけじゃないか。
しかし何を治してもらいに来たんだったか、そうだっと思いついた、いや、思い出した。
「ええ、その、ちょっと、そうです、あの足が痺れて上手く動かないんですよ」
「あらあら、それなら任せてください」
と奥の部屋に引っ込み、青いバケツを片手に戻ってきた。バケツの中には何が入っているのか、がしゃがしゃと騒がしい。
「なんですかそれ?」
「サワガニです。捕れたてですよ。これを生ですりつぶして、小麦粉と卵黄を混ぜて塗るんです。痺れなんかすぐにとれちゃいますから」
眩しい笑顔だった。
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fin
※1 ものもらいのこと
※2 指に唾をつけて額を三回擦ると足のしびれがとれるという俗信がある。