シンクに貯めたお湯に浸け置きしていた食器を取り出して、研磨剤の入っていないスポンジに食器用洗剤を付け、1つずつ丁寧に泡立てながら磨いて流し台に積み重ねていく。 夕食で作ったサワラの照り焼きの油汚れが、あっさりと落ちていく様に、美月は軽い満足感を覚える。 父が月に行ってからここ数年はずいぶんと高価な倉庫になっていた父と暮らしていた自宅マンションに、美月は高校進学を機に戻っていた。 中学時代に暮らしていた女性向け寮では基本食事は出るが、希望すれば自炊も出来る事は出来たが、部屋付けのコンロは一口だけだったし、流しも狭かったので使いにくかった。 それにやはり一人分を作るよりも二人分を作る方が、買い物がしやすく、メニューに幅も付けやすいので、冷蔵庫にしまった明日の朝分のおかずも含めて、いくつも作れて良いなと美月はご機嫌だ。 研究一筋で家の事には無頓着な父に代わり、掃除や家の整理整頓を小さい頃から習慣的に行っていたせいか、こういった家事全般に対して美月は苦手意識など皆無で、むしろ整っていないと気が済まない軽い潔癖症じみたところがある。 流しの横には、小学生だった美月に洗い物をやらせているのはどうかと珍しく気を利かせた父が、リフォームの時に付けてくれた完全自動食洗機もあるが、どうにも機械まかせは、達成感が無く物足りないので、美月はわざわざ手洗いをしているほどだ。 普段なら食器は自分一人分なので、たったそれだけの為に食洗機を回す電気代と水道代が勿体ないという、現役女子高生としては些か家庭じみた金銭感覚も、一因ではあるだろうが。 洗い物が片付いたところで、ポットのお湯を確認しカップに粉末レモンティーを入れながら、リビング兼ダイニングへと目を向ける。『で、実際にはどんな行動で反省の態度を見せるつもり?』 壁に掛かったモニター越しに剣呑な目を浮かべる母親の沙紀に対して、フローリングの床に正座で平身低頭な怪しげな黒マントと、ある意味で見なれた麻紀の姿があった。 食後すぐに美月が仲裁のために電話して始まった沙紀の麻紀に対するお説教は既に30分以上になるだろうか。「そ、そこは庭掃除とかうちの手伝いを」『庭掃除かぁ。それよりも母さんはあんたの寝坊癖の方が気になるわ。もう高校生なんだから自分のことは自分で管理できるだろうから夜更かしするなとまでは言わないけど、あんたの場合は寝不足だと判断力が落ちて今回みたいなとんでもない事をするし、それで美月ちゃんまで遅刻させるような事になったら申し訳ないわね』「うっ……はい。掃除にプラスして夜11時には寝るようにします。1日でも寝坊したらお小遣い半額期間を増やしてください」 下手に口答えしてこれ以上母親の逆鱗に触れるのは避けたいのか、それともさすがに今回は自分が全面的に悪いと判っているのか。 正座のしっぱなしで足が痺れているのか落ち着きなく悶えながらも、怒る母親の前で崩せずきつくなってきたのか半泣きになりながらも、麻紀は素直に反省の態度を見せて、母親の言いたい事を察し自ら刑罰を積み上げていく。『そうね。じゃあそれくらいで今回は未遂だということもあるから勘弁してあげるわ。ただ二度目は無いからね。麻紀……そこの所は判ってるわね』 最後に釘を刺しつつ、沙紀の説教はようやく終わりを迎えたようだ。 もっともお説教+小遣い半年間半額にいくつかのオプション付き程度の罰で済んでいるのだから、放っておくと何をしでかすか判らないフリーダムな娘に対して厳しめな沙紀にしては甘い方だろう。 いつもなら、性根をたたき直すとして合気道だか古武術だかの師範代の肩書きを持つ沙紀相手の乱取りをやらされて、何度も畳に叩きつけられ、文字通り骨身にしみるほど反省させられているはずだ。「は、はい! ごめんなさい。もうしません!」 麻紀もそれは判っているのか、下手な態度をとって地獄コース行きは絶対に嫌なのか条件反射的にもう一度深々と謝っていた。 もっとも叱られているときや後ろめたいときはここまでびくびくしていても、寝不足でハイテンション状態になるとやらかすのが麻紀の麻紀たる所以だが。「沙紀さん。おつかれさまです。もういいですか?」 用意していた2つのカップにお湯を注いでリビングへと戻った美月は、テーブルの上にカップを置いて、麻紀の前にさりげなく回ってカメラの視界を切ってから、モニターの向こう側の沙紀へと頭を下げる。 後ろ手に麻紀へと合図をすると、美月の意図を察した麻紀はようやく苦しい足を崩せた安堵からか深い息を吐いていた。 『ごめんなさいね美月ちゃん。うちのバカ娘が毎回毎回本当に迷惑掛けっぱなしで。都合が悪いことあるとすぐに美月ちゃんの家に逃げるんだから』 モニターの向こうの沙紀には美月の狙いはバレバレなのだろうが見逃してくれたらしく微かに笑っていた。 「麻紀ちゃんが私に端末を作ろうとしてくれて暴走したのが原因ですから。すみません。私がもう少しちゃんと見てて、気づいてあげればよかったんですけど」『それが出来たら苦労しないんだけどね。この子の場合は思いついたら即行動だから。どうせ徹夜明けに思いついて、すぐにあたしの部屋に忍び込んできたんでしょうし。止める暇も無い上に、本当にいつもいつも考え無しなんだから」 しみじみと怒りを噛みしめるように漏らした沙紀の言葉に、背後の麻紀が慌てて姿勢を正した気配が伝わってくる。 もっとも麻紀からは見えない沙紀の顔は、相変わらず笑っているので、気が緩みかけた娘を脅かして楽しんでいるのだろう。 「麻紀あんた美月ちゃんに感謝しなさいよ。こんな良い子は滅多にいないんだから……あんまり悪さが過ぎるならあんたを勘当して、美月ちゃん養女にしたいくらいよ』 ただの沙紀は顔は笑いながらも目が真剣なので、発言のどこまでが冗談なのかどこからが本気なのか今ひとつ判りづらいのがちょっと怖いが。「で、できたら美月を養女の方針だけで! 親友からランクアップして名実共に姉妹になれるなら喜んふぎゃっ!?」 しかし娘の方はさらに怖かった。 心底嬉しそうな笑顔を浮かべた麻紀は、一瞬でハイテンションになって、オモチャをねだる子供のようにカメラに飛びつこうとしたが、痺れていた足はそれを許さない。「ひたっ!? ゎん!? ひゃい!?」 身体を支えきれず崩れた膝で自分のマントの端を踏んづけて、その勢いのまま倒れ込んだ麻紀は顔面を強打し、何が起きたのか判らずたらりと血が垂れてきた鼻を押さえて悶絶しながら転がり廻る羽目になっていた。 このマンションは完全防音だから騒音に関してはそう気にしなくても良いだろうが、今の振動が伝わらなかったかと美月が不安に思うほどの勢いだ。「……あんたどんだけ美月ちゃん好きなのよ」 「麻紀ちゃん……だから思いつきで動くの止めようね」 あまりにテンポのよすぎる麻紀の奇行には、さすがにその母も親友もついて行けず呆れるしか無かった。「うぅ美月……痛いよ」 十人中十人が可愛いと認める容姿も、打った鼻を赤くして血を止めるためにティッシュを詰め込んでいたのでは、何とも間抜けとしかいいようが無い情けない顔で、麻紀は涙目をこすっていた。 「はいはい。後でデザートを出してあげるから、それ食べて嫌な事は忘れようね」「美月……あたしの事、子供だと思ってない」 泣き止まない子をあやすような美月の言葉と提案に、麻紀は少しだけむっとしている。「じゃあ食べない? 麻紀ちゃんの好きな志宝堂さんの秋の新作パンプキンミルフィーユパイだけど。昨日のうちに買ってきたから賞味期限は今日までだよ」 だが美月の方が何枚も上手だ。 テーブルの上の端末を手に取り、電子チラシを呼び出すと、麻紀の好きなケーキ屋で先週発売されたばかりの、掌大の大きさでカボチャを模して中にはパンプキンクリームとパイ生地を何層にも重ねた新作ケーキの画像を見せつける。 ハロウィンをイメージしたのかジャックランタン風のデコレーションという見た目のかわいらしさと、断面図から見えるとろりとしたクリームの感じが麻紀の好みにジャストヒットする一品だ。「……うっ……食べる」 麻紀の好きな味付けや嗜好を気づかい屋の美月が完璧に把握しているんだから、麻紀に勝ち目が無いに決まっている。 あっという間に白旗を揚げるしかなく、麻紀は降参していた。『こうやって美月ちゃんに餌付けされてるのね。うちのバカ娘は。全く一日に二回も麻紀の間抜け顔を見る羽目になるとは思わなかったわ。せっかく可愛く産んであげたのに、ことごとく無駄にしてるのねあんたは』 モニターの向こうの沙紀は、お預けを喰らってしゅんと大人しくなる室内犬じみた娘の様に情けないと盛大にため息を吐いていた。「べ、別に間抜けな顔なんてして」「じゃあこれは?」「へっ? ……ぎゃぁぅ!? な、なんでママが!?」 沙紀の顔が映っていたモニターが切り替わり、そこに映った画像を見て麻紀は盛大に悲鳴をあげ、画面を指さして口をパクパクとさせ愕然とする。「これって……昼間の」 美月も思わず目を見張る。 リビングモニターには、古いコントであるような爆発に巻き込まれたように顔は煤に汚れ、髪はアフロ状態。 さらには子供の悪戯のような落書きがいくつもその美少女顔に書き込まれて台無しにしている、半べそをかいている麻紀の姿が映っていた。 それは紛れもなく、今日行われた初のVRフルダイブ授業で外部講師であった男に散々にやられた麻紀の姿その物だった。 「まったく、今朝はあんたに対してものすごく怒ってたのに、あんまりの情けなさに思わず噴き出したわよ。おかげで罰も軽めにしようかと思ったくらいだし」 どうやら沙紀の怒りが多少軟化していたのは、このあまりに情けない娘の姿に怒りが軽減されていたからのようだ。「な、なんでこの映像があるの!? あのお兄さん黙っててくれるって言ったのに!?」 しかし娘の方は、まさかこんな画像が残っているとは思ってもいなかったようだ。 しかもよりにもよって、自分の母親に画像が流れているとは思ってもいなかったのか、慌てふためいていた。 流出の犯人なんて疑う余地も無い。 この罠を仕掛けた外部講師で、沙紀の知り合いだという三崎の仕業以外の何物でも無いだろう。 だが三崎は、授業中の失態を沙紀に言いつけないと約束していたはずなのに話が違うと青ざめる麻紀に、「黙っているじゃ無くて、誤魔化して報告するとかじゃなかった?」 「え…………い、言われてみれば」 沙紀の言葉に、麻紀はしばし考えて、確かに三崎が報告をしないとは一言も言っていなかったことを思い出す。「でしょ。真面目にやってましたって一言での報告メールは確かに来たわよ。添付されてただけ……この一枚で何があったか大体想像はつくけど。どうせ話を聞かないとか、勝手な操作をしようとしたんでしょ」 娘の行動パターンなんて沙紀にはお見通しのようで、核心をほとんど外すこと無く突いていた。「だ……騙された。しかもあの画像まで残すなんて」 確かにその理屈でいけば三崎は、麻紀との約束を守っていたことになるだろう。 しかし嘘は言っていないが、あまりにもあんまりだ。 三崎との迂闊な口約束で信じてしまった麻紀は力なく膝をつく。『三崎君相手にちゃんと言質をとらないあんたが悪いのよ。焦らせて冷静な判断力を奪っておいて、そこで魅力的な条件だけど穴ありを呈示する。心理を読んで、読みを外させたり、隙を突いたりとか、断りにくい状況に追い込むとか、相手の行動も計算して状況を操るのが三崎君の十八番よ』「せ、性格が悪いですね」 快活な笑顔で約束をしておきながら、平気で裏切ってくる三崎に、普段からあまり人の事を悪く言わない美月ですらも思わず引いてしまい、評価してしまうくらいだ。「そりゃそうよ美月ちゃん。業界での彼のあだ名はド外道よ。彼なら単純な麻紀をやり込めるなんてそれこそ朝飯前だから。相変わらず三崎君は良い仕事してくるわ」 初めてのVRフルダイブで調子に乗らないように躾けてくれと依頼した沙紀も、結果に大変満足だったようで、とても褒め言葉とは思えないのだが、その表情からは三崎を気に入っている様が見て取れた。「なんであんな陰険なのと知り合いなのよママ! 一体なんなのあいつ!?」 だがやり込められた娘の方は腹の虫が収まらないのか、三崎の評価をお兄さんから陰険に格下げして、食ってかかってきた。「何ってあんたの婚約者に」「ぶっ!? なっ!? なにそれ!?」 あまりに予想外の沙紀の回答に、麻紀がその言葉の途中で吹き出し悲鳴を上げた。 その顔にはありありと拒否感が浮かんでいる。 あんな性悪冗談では無いと言いたげな麻紀に対して、「あたしが考えていた人よ。他にお相手がいたからあっさり断られたけど……だから人の話は最後まで聞きなさい。本当にあんたって子は」 なんでこうも話の途中で早合点する慌ただしい性格なんだろう。 娘の将来に大いなる不安を覚える沙紀は、三崎にもう少しきつめにやって貰えばよかったかと考えるほどだ。「うぅぅっ。やられっぱなしで終わらせないわよ。覚えてなさいよあいつ」「ほんと読まれてるわね。夕方に三崎君に謝礼メールを送ったら、すぐに通信が帰ってきてあんたがそんな事を言うだろうからって、お詫びの品を送ってくれたわよ。美月ちゃん家のメールボックスに転送するわね」 踏んだり蹴ったりな麻紀は、怨みごとをこぼすがそれも三崎の計算のうちだったのか、麻紀の怒りを和らげる手を既に打っていたようだ。 沙紀がモニターの向こうで仮想キーボードを叩いたのか手を動かすと、すぐにモニターの端に新規メールの着信を知らせるアイコンが点滅した。「ふんだ。品物でつろうなんて安易。あたしの屈辱がそう易々と忘れられるわけないでしょ」 すっかり機嫌が悪くなった麻紀は、ぷくりと頬を膨らませて拗ねている。 もっとも落ち込んでいるときはともかく、怒っているパターンの時は、美味しいお菓子1つで機嫌が直るんだから楽な物だと思いつつ、美月はリモコンを手に取り着信したメールを呼び出し開いてみる。「『からかいすぎたお詫びに、お客様方には追加パッチを送らせて頂きます』 沙紀さんなんですかこれ?」 沙紀から転送されてきたメールには、そんな一言とそこそこの大きさのVRデータファイルが添付されていた。 追加パッチと言われても一体何の品だろうか。 美月には思い当たる物は無い。 横の麻紀も、思い当たる物は無くむすっとしたままで特にリアクションを示していない。「三崎君の話じゃ、美月ちゃんに麻紀が送ろうとかしていたVRソフトが手に入ったんでしょ。美月ちゃんのお父様が働いていたルナプラントの、VR来訪体験が出来る天文ソフトって品」 美月の質問に沙紀はなぜか優し気な笑顔を浮かべて答える。 そういえば三崎は、自身が手がけるVRMMOゲームのためのハードを麻紀や美月が組み立てる代わりに、伸吾達からマニアックなレアVRソフトを受け取った話を知っていた。「はい。偶然クラスメイトから譲って貰って。今日の夜に麻紀ちゃんと一緒に使ってみようって思っていたんですけど……」 「それの未公開追加パッチ。初期バージョン仕様の無人の施設を見て歩くだけじゃ無くて、そこで実際に働いている人達の仕事を紹介したり、VRインタビューを収録した追加アップデートバージョン。制作会社が倒産して日の目を見なかったのを、未完成データを発掘してきて、会社の人達と少しだけ手直しして見られるようにしたそうよ」「…………っ!?」 沙紀の言葉にほのかな期待を抱いた美月の心臓がどくんと1つ強く高鳴る。「未公開のお父さんのインタビューも収録されているそうよ。よかったっていうのも変な話だけど、美月ちゃん見たいでしょ」「パ、パパの新しいインタビュー映像あるんですか……」 思わず昔の……父がまだ生きていた頃の呼び方に戻り、美月は驚きをあらわにする。 著名な研究者でもあった父の講演映像や画像はたくさんある。 しかしそれらは既に何度も見た物。 飽きるということは無いが、新しい物が加わることが無い事が父がいなくなってしまったことを美月に実感させていた。 それが半年以上も経って新しく父の姿を見られる機会が訪れるなんて…… もちろん美月とてそのインタビューは過去の映像。 10ヶ月前の太陽極化活動サンクエイク事件前のルナプラントが健在の頃の画像であるとは判っている。 だがそれでも嬉しいことに変わりは無かった。「ところで麻紀。あんたはなんでさらに膨れているのよ。あぁソフトを手に入れて美月ちゃん喜ばせたはずが、さらに上をいかれたのが」「別に! くやしくないもん! 手直したって時間がほとんど経って無いでしょ。どうせ未完成データをそのまま流用しただけのくせに偉そうに」 手柄を横取りされたように感じていた麻紀は、沙紀に図星を指されぷいと横を向く。 沙紀に指摘された事もあるが、自分の嗜好は、出会ったばかりの三崎に完璧に見抜かれているようで面白くは無かった。 『自分が喜ぶことよりも、友人、特に美月が喜ぶことの方が自分の機嫌がよくなる』 美月が思わず言葉を無くすくらい、こんなに喜んでいるのだから、なんだかんだ言いつつもデータを発見してきた三崎には感謝したい気持ちはあるが、それ以前の積み重なった物があって怒りも覚える。 だからどっちの感情を優先すれば良いのか、麻紀自身にも判らないでいた。 「張り合うの止めときなさいってば……半年くらい前にお亡くなりになった神崎さんはもちろん覚えてるでしょ」 翻弄されていると娘を見て、沙紀がモニターの向こうで呆れつつも笑いを浮かべると、いきなり話を変えた。 麻紀が子供の頃、まだ母の勤め先に行けていた頃に、当時の親友と病室に尋ねると、よくお菓子をくれたり、話を聞かせてくれたりと、お世話になった入院患者が神崎恵子だ。 麻紀が物心つくもっと前から寝たきりとなり、医療用カプセルの中で過ごすことを余儀なくされて、辛い人生を過ごしているはずなのに、それでも優しく明るい老女だった。「……忘れるわけないよ。神崎のお婆ちゃん」 予想外の名に麻紀はびくりと肩を揺らしながら、声を振り絞って答える。 麻紀にとっては母の病院での記憶は懐かしく楽しい物でありながら、同時に未だに心の奥底で眠る忘れてはいけないトラウマに直結する記憶。 あの後悔しかないトラウマが原因で10年以上経つのに病院には未だに行けず、子供の頃にお世話になった患者さん達に会うこともできず、そのうちに見知った誰かが亡くなったと聞いて、さらに後悔し再来訪の敷居が高くなるという負のスパイラルに陥っていた。「あんたが嫌がるから最後のことは詳細は伝えてなかったけど、神崎さんは懇意にしていた職人さんとのVR結婚式で笑いながら楽しかったって言葉を最後に残して逝ったわよ。それをプロデュースしたのは三崎君」「えっ!?」 「あんたVR世界には、ホスピスに入院する患者さん達の救いがあるって言ってたわよね。だから医療技術じゃ無くてVRを勉強するって。三崎君は人を楽しませるプロ。なら彼の手がける物をちゃんと見ときなさい。制作時間が短時間だろうが、元データが別会社の物だろうとお客様の為ならどうにでもする。それが三崎君が所属するホワイトソフトウェアって会社よ。たぶんあんたの目指すべき完成形がそこにあるわね」 延命治療や終末医療で苦しむ患者さんの為に、VRを活用した自由な世界を提供する。 それは麻紀の理想であり、亡き親友への謝罪と贖罪として選んだ道。 「さてじゃあ長くなったしそろそろ切るわね。お父さんがお腹すかせて待ちくたびれてるから。美月ちゃん悪いけど麻紀を頼むわね。土、日はその子自由に使って良いから」 自分とは違う道を目指す娘に内心では思うところはあるのだろうが、それをおくびにも出さず、母親らしい優しい目を一瞬だけ麻紀に向けてから沙紀の顔はモニターから消えていた。「……ねぇ麻紀ちゃん。デザートの前に」 「いいよ。先にやろ。あたしのマントにデータ落としてアップデートしたらすぐにフルダイブしてみよ」 デザートを楽しみにしていたのに申し訳ないと言いたげな表情を浮かべた美月が最後まで言いきる前に、麻紀はまだ少しだけ複雑な表情を浮かべつつも頷く。 親友である美月が喜んでくれるなら、それが最優先。 そう思えば三崎が気に食わなかろうが、何でも飲み込んでしまえば良い。 しかも初のプライベートフルダイブは親友であると美月と一緒。 それが嬉しくないわけが無い。 「ふっ! あたしのSchwarze Morgendämmerung zweiがいよいよ本領発揮をする時がきたようね!」 テンションを跳ね上げた麻紀は背のマント型VR端末を手で払いなびかせリビングテーブルに片足をのせて笑い声をあげようとして、「麻紀ちゃん。足を乗せるのは止めようね。お行儀が悪いよ。昼間も言ったでしょ」「……ごめんなさい」 行儀に関しては本気で厳しく、こめかみにぴくりと青筋を立てた美月の注意に、おずおずと足を降ろしていた。