「生物の最大にして、根源たる命題を突き詰めれば、いかに生存するかということに尽きる」 抑揚の少ない落ち着いた声が、ルナプラントファクトリー1大型ドッグ管制室内に朗々と響く。 月面にぽっかりと穴を開けた溶岩窟への入り口であるマリウスヒルズホール。 今はその穴の上には巨大な鋼鉄の蓋が覆っていた。 ホール周囲には塗布乾燥で簡易に作成可能なキット化されたペロブスカイ太陽電池を塗布した月面作成パネルが敷き詰められ、月面調査や資源採掘に用いられる重機用の地表充電ステーションへと電力を補充していた。 ホールを挟んで反対側には、ルナポートに着陸した月面往還船アルタイルⅢをルナファクトリーへと運搬する六対軌条線が伸びる。 直径約50メートルのホールを塞ぐ蓋は堅牢な4層隔壁構造となり、月面に降り注ぐ高濃度放射線と微細隕石群から地下施設を守っていた。 アルタイルⅢや大型重機を運び入れる大型搬入エレベーターと、いくつかの中型、小型エレベーター、非常用の舷梯が壁面に沿って設置されており、最下層の月面往還船や大型重機の保守点検を行うドックへと直結していた。 地球と比べ低重量であるために、かなりの重量を持つ大型重機であっても、月面と地下との行き来が比較的に容易に可能だったという。「その観点から言えば、あらゆる環境が我々人類の生存を阻むそれが月だ。我々地球人類が月で恒常的なベースキャンプを……」 白髪が目立つ頭髪は丁寧になでつけられ、左の頬から口元に走る抉られたような切り傷が厳しい風貌を印象づける。 感情を感じさせない無表情、が特徴の語り手の初老男性の名は王子丹。 元がエンターテイメント系ではなくサイエンス系のVRソフトだったからだろうか? 語られる言葉には聴講者を楽しませるという成分は皆無。 娯楽というよりも、淡々と紡がれるその内容は、強面教授の講義と表するのが正解だろう。 「極限状況での生存を可能とするためには、新たなる試みをいくつも模索し思考しそして実証しなければならなかった。生活環境の確保。エネルギーの確保…………」 ルナプラントのNO.2である副所長の肩書きを持ち、極限環境下における総合的生存研究及び技術進化論の世界的権威として。 そしてかなりの奇人としてその界隈では知られた科学者だった。 無論、サンクエイクでルナプラントと地球の連絡を途絶して既に一年近くが過ぎているので、美月達の目の前で講義を行うのは王本人では無い。 本人の仮想体データを用いて、サンクエイク以前に収録されていた内容を語るNPCだ。 NPC王の背後では、説明に合わせて通常ならばメンテナンス管制用に使われていたのであろうモニター群が目まぐるしく画面を切り変えている。 ルナプラントの建造史や、その過程で使われた特殊重機の特徴や、新たに開発された低重力下工法の実験映像が流されていく。 流される映像の所々に、まだ髪が黒々としていた頃の王が映っているのだから、この老人が如何に昔からルナプラントに関わってきたのかが判るだろう。 「さっきのナビゲータAIもそうだけどこのお爺ちゃんもなんか機械ぽいね。さっきの出迎えの人達は感情的だったけど、再現に差がありすぎなのかな?」「うーん……王教授って元々落ち着きすぎて、あまり焦ったりしない人だそうだから、再現度が高いだけだったり」 実の娘である美月も変わり者だと思うあの父からすら、変わり者と評されるほどの生粋の研究者。 極限環境下における抑制と欲求こそ、技術的な大きな進化を引き起こすが持論で、砂漠、永久凍土下、極冠、重金属汚染地帯、はたまた深海底と、過酷な状況を求め実験フィールドを変えつつ、生存するための研究を重ね、ついには月にまで到達したという。「機関部に混入する微細レグルスによる故障発生率は、砂漠地帯と比べても高確率となり、より高度なシーリングと廃熱処理…………」 過酷状況を遍歴し続けて培われた剛胆さと冷静沈着さは、もはや人外が父の弁。 ルナポート建設時に微細隕石によって仮設基地に穴が開いて気密が破れた際も、慌てふためく周りを一喝して落ち着かせると、全員を気密が保たれた隣接区画へと避難させ、自分は手早く簡易宇宙服機能を起動させ保持ケーブルで身体を固定し隔壁を降ろして周囲と遮断。 内部の空気が完全に抜けるのを待ってから、平然と応急修理を施していた。 等々数々の武勇伝さえ持つ御仁だ。 「ふむ。どうやら君たちは建造過程の話題には些か興味が持ちづらいようだな」 ひそひそと声を交わす2人をみて、今まで朗々と語り続けていた王の動きがピタと止まり、2人を無表情に見据えた。 先ほどまでの講義をしていた顔とあまり変化は無いが、その空気は学生身分である2人には慣れ親しんだ身に覚えがあるものだ。 つまりは授業中に無駄話に興じる学生を見つけた教師の顔とでもいえば良いのだろうか。 観客の動きに対応して、行動パターンを変えるようなギミックでも仕込まれていたのか。「この講義はここまでとしよう」 王の背後に展開していた無数のディスプレイが一斉に消灯して、管理ルーム内が暗くなる。 まさかここでソフトが強制終了となるのか? このソフトをくれた三崎の悪戯好きというか底意地の悪さを考えれば、聞いていなければ強制終了なんてそんなトラップの1つや2つを仕掛けていても、 「今の私からは知り得ないが、本シミュレーション利用者の中に対象者がいた場合に起動する、ルナプラントの保安及び非常事態に備えた設備の話をしよう。これはルナプラント勤務者の親族及び関係者向けに作られた特別な物となる」 警戒して思わず身構えた2人に対して、王が示した新たなルートは全くの予想外の物だった。 美月の存在を認識しているような提案を王が提示する。「マニュアルにそんなの書いてあった!?」 習うより慣れろを地でいく麻紀と違い、マニュアル重視、基本に忠実と堅実な美月は、FDする前に、ソフト本来の説明書はもちろん、三崎が送ってきたパッチに付随した簡易説明も、もちろんつぶさに読んでいる。「ち、っちょとまってて思い返して……そんなの説明書には無かったよ!?」 だが何度思い返しても、関係者用特別機能等そんな物は書かれていた記憶は無い。 あれば美月は真っ先に気づくはずだ。 第一どうやって親族認定をしている!? そんな情報を記入する項目も、美月の個人情報確認も無かったのに。 素性を知っている三崎の仕込みだとしても、関係者向けの特別講義などというデータがそんな都合よく準備されているのだろうか? 「先ほども話したとおりだが、月に限らず、本来であれば人に適した生存圏は母星である地球のしかも限られた環境に限られる。人工的に生存環境を改善する試みは有史以来、開拓や埋め立てなど原始的な発端を切っ掛けに様々な形で行われている」 予想外の機能に慌てふためく2人を一瞥することも無く、王は先ほどと変わらず朗々と一方的に話し始めた。「ルナプラントはそういう意味では、人類が持つ生存意欲の現状での到達点と言っても過言ではない……実例を1つ見せよう。最外壁部へと転送を」 王が仮想コンソールを呼び出したのか空中を軽くタップすると、周囲の景色が一変する。 ゴツゴツとした岩肌をさらす洞穴内へと美月達は、椅子に座ったまま一瞬で移動していた。 目の前には洞穴を塞ぐ巨大な金属隔壁が鎮座しており、重機が出入り可能な大型気密扉が取りつけられている。 隔壁からはいくつものパイプが突き出しており、背後の溶岩窟の先へと伸びていた。 「へっ!? 今の一瞬で!?」 ノイズ等一切無く刹那に切り替わった景色に、麻紀が驚きの声をあげる。 ここはVR空間なのだから、現実では到底無理な空間転送でも驚くことはないが、一瞬のブッラクアウトすらもなく、滑らかすぎるほどに切り替えていた。 地味であるが。とてつもなく高度な技術力がこのソフトに使われている何よりの証だろう。「ここは地表より約100メートル下のルナプラントの本体たるファクトリー1の最下層部分となる。君たちの背後に広がる溶岩窟は、ここから先も伸びており、物資倉庫や隔離実験棟が設けられている」 曰くルナプラントの心臓部である居住区及び生産区画であるプラント1はマリウスヒルズホールから続く横穴の溶岩トンネルをさらに拡張した最深部に建造されている。 そこは地表から80~100メートル降下した地下となり、そこでは度々降り注ぐ微細隕石や強烈な昼の熱と止まない宇宙線から居住者と設備、そして地球から送られてきた物資が守られている。 曰く人類の生存に欠かせない酸素と水においては、長年の月面調査により極冠部及び地下より多量の氷隕石及びそれに由来する酸化物を確保し溶岩窟内資源倉庫に運び入れてており、そこから精製することが可能となっている。 その量は長期間の間、水と酸素の自給自足が可能なラインを優に超えている。 曰く精製装置を稼働させるには多くの電気を必要とするが、地上部の広大な太陽光発電パネル及び、長く続く夜間用には採取したヘリウム3を用いた実証試験用中規模常温核融合炉により確保できている。 その電力はルナプラント全施設を十二分にまかなう発電量を誇っており、地表との連絡口となる縦穴であるマリウスヒルズホールの開口部に、開放時に飛び込んでくる放射線を遮る強力な電磁スクリーンを張り巡らすことを可能としている。 曰くファクトリーの名を持つとおり、将来的には駐留ステーションや太陽系内の他惑星への前線基地として使われることも想定され、膨大な物資製造キャパシティを持つように設計されている。 だから地球上のあらゆる国、分野から集められた有能な技術者達は、資材さえ確保できれば、同規模の施設を建造可能なプロフェッショナルが揃っている。「現在もっとも想定される最悪な事態は、長期にわたる地球との連絡及び物資納入の途絶だ。現状のルナプラントの全生産能力は、短期的に見れば完全途絶状態においても自給自足を可能とするが、長期的な目線で見れば、ルナプラントの設備、資源備蓄の限界点を超え徐々に低下していくのは自明の理だ。無論最悪の事態に備えて対応策がいくつも提案、試案されている」 王の説明はルナプラントが幾重もの生存環境確保のための手段を確保していることを伝えるための物で、同時に地球との連絡途絶や何らかの不備があっても、短期間であれば自力で再建が可能な手段も用意されていると…………「…………」 王の説明にいつの間にやら美月は無言で聞き入っていた。 隣の麻紀も、珍しく黙ってその言葉に耳を傾けている。 王の話は美月にある希望を抱かせる物だからだ。「さて私の持ち時間はそろそろのようだ。これで終わるとしよう。聞いた者が誰かはわからないが、ご家族の事を安心してもらえたなら、基本設計に関わった私としても報われるだろう」 気密服に内蔵された腕時計を確認した王が、伝えることは伝えたとばかりに唐突に話を終わらせる。 王が聞かせたのはそこにいる者がどう過ごしているか。危険は無いかという事。 どれだけの安全手段と対策が施されているか。 家族や関係者を安心させる為のモードだということだろうか。 しかし美月は、脳裏にある可能性が一瞬だけよぎる。 あり得ない。 都合のよすぎる可能性。 だがそれでも……これだけ厳重な防護機能と不測の事態を想定した手段が幾重にも施されているならば…… これから起きることを……地球と切り離される事態を。 サンクエイクを知っていたような、貯蓄物の量と準備されていた生産施設ならば…… それらの話や疑問がぐるぐると頭の中で廻って、1つの形を作っていく。 ひょっとしたら父達は、今も月で生き残っているのでは無いか…… しかしそれでもあり得ない、あるはずが無い。 大規模太陽フレアであるサンクエイクの規模は観測史上最大最強だった。 地上への被害は奇跡的に最小に留まったが、宇宙では衛星網が壊滅し、今もロケットの打ち上げが失敗に終わるほどの磁気嵐の残滓を残し続けている。 いくら地下に作られていようとも、途絶時の対策が施されていようとも、地球と比べ分厚い大気も強力な磁場も無い月では、サンクエイクがもたらした被害は、地球の比では無い。 「なんで、そこまで厳重な設計にしたんですか。何か……何か起きるって知っていたんですか」 生き残っているはずが無い。残れるはずが無い。 常識人故に否定してしまい、都合のよい結論に達することが出来ない。 だがそれでも……僅かな希望に背を押され美月は思わず椅子から立ち上がり、王に問いかける。 「最後に言っておこう。これらの設備や準備は別段に驚くようなことでは無い。シンプルな結論だ。極限状況下に合わせて環境に適応する新技術を開発もしくは既存技術を変化させる。これが技術進化だ。月面は現地球人類が到達できる最悪環境の1つ。だからこそいかなる事態にも対応できる者と物が用意されているのだと」 美月の言葉に反応したのか? それとも元々そんな台詞を作ってあったのか。 どちらかは判らないが、だがどちらにしろ、それは美月の望んでいた答えでは無かった。 当然だ。目の間にいるのは王の形をしたNPCでしか無いのだから。 「美月、一端止める?」 目に見えて落胆した美月を、隣に座る麻紀が気づかい肩に手をそえる。 おそらく麻紀にも美月の脳裏をよぎった希望が判ったのだろう。 それがどれだけ都合の良い、確率の低い儚い希望だということも。 「だ、大丈夫だよ」 事故が起きてから既にかなりの時間が過ぎている。 今も大気圏外で吹き荒れる磁気嵐により、宇宙空間へと上がれ無いどころか、月面に設置された機器からの信号すら途絶したまま。 ただ眺めるだけしか出来無い地上からの月面施設観測でも、発光や施設の稼働など何らかの人為的な動きが、観測されてもいない。 月面施設や軌道上駐留ステーションにいた者達は、強力な太陽風第一波により全員が死亡したというのが、ルナプラント計画を主導する国連宇宙局から公式に出された見解だ。「前言を翻す事になるが、もう一つだけ付け加えよう」 微かに聞こえる小声が洞穴の中に響いた。 顔を上げた美月を見つめる王の顔には先ほどまでには無い物。鉄面皮の中にほんの少しだが微笑が含まれているようにみえた。 「月並みな言葉となるだろうが、生き残ることに限らず、生物が行う行動はなにかを成し遂げようという意思が全ての源泉となる。諦めなければ生きるための道が必ずあるとまでは言うつもりはない……だが」 それ以外にも、先ほどまでの講義には無かった熱が王の声にはあった。 抑揚の少ない声。 静かな物腰。 一昔の人工知能のような堅い言葉。 先ほどと変化した要素などまるで無い。 だがそこには確かに熱がある。 それが美月にはよく判る。 美月だからこそよく判る。 父と…………高山清吾と似ていると。「いかなる状況であろうとも諦めず、目に映る全ての状況で考え、道を見つけ出してみると良いだろう。想定外の、それこそ馬鹿げたほどに、荒唐無稽な道が見つかることもあるだろう……私たちのようにな」 鉄面皮を崩しどこか皮肉気な、それでいて楽しそうな顔を一瞬だけ浮かべながら、意味深な言葉を残して、王の姿は美月達の前から消え去った。 最後の最後に聞かせた感情が篭もった王の言葉。 その姿形、語り口調は父と異なろうとも、根底に流れる物は同じ。 自分の仕事に誇りと自信をもち邁進している者の言葉。 だからこそ訴える物がある。「麻紀ちゃん……今のって再現された言葉だって……元々撮影されてたって……思えた?」 先ほど心の中で否定した可能性がまたも首をもたげる予感と、あり得ないと否定する理性が混じり合い美月は動揺を浮かべる。 王の最後の言葉は、ただの再現体に語れる熱だとは、美月には到底思えなかった。 まるで落胆する美月の反応を見て、つい老婆心から忠告してしまった。そんな感じが王からは感じられた。「思えない……ちょっと確認する」 今のがただの事前に撮られた再現仮想体だとは、麻紀にも当然思えない。 勘で即断した麻紀は、次いで理屈をひねり出そうと仮想コンソールを起ち上げた。「外部との特定回線以外はシャットアウトしてあるはず……今監視ステータス確認したけど、異常無し。だけど正直言って気づかない間にバックドアが仕掛けられていても分かんない」 ソフト稼働状況を手早く確認して、外部セキュリティサイト以外とのアクセス形跡がないことを確かめて悔しげに唇をかむ。 技術的な観点からいえば、有線で繋がった自分達以外の何かが介入してくる余地などない。 何かあれば強制シャットアウトするように設定した。 自分に判らず、誰かが外から繋げられるはずがない。 そうしたはずだ。 だが麻紀は自信を持って、外部からの干渉がないとは断言できない。 このソフトが始まってから、麻紀が思い知らされるのは高い技術力の差。 どうすればこのように高い再現レベルVRや、一切タイムラグやノイズを感じさせないスムーズな切り替えが出来るのか判らない。 技術格差が大きすぎて、解析のための切っ掛けすら掴めない。 だから美月の問いかけにも、はっきりとした答えを返してあげられない事が、麻紀には悔しい。 美月が抱く希望の可能性に答えを……肯定も否定もしてやれないことに無力感を感じてしまう。 だが無力だと嘆いているだけなのは、もっと悔しい。 沙紀からも執念深いと評価されるほどに、負けん気の強い麻紀のやる気は強まる。 しかし何時もこれで失敗する。周囲を顧みず己の感情にまかせて突き進んで失敗する。「続き……続き見てみないと判らない。もっと詳しく解析してみたい……でも美月……データが飛んじゃうかもしれないリスクあるけどどうする?」 プロテクトに引っかかって途中でプログラムが止まるかもしれない。 下手をすれば事前に確認した警告文のように、データその物が完全消去となる可能性も無きにしも非ず。 そうなれば美月が一番楽しみにしている、美月の父である高山清吾の姿を見れなくなる。 だから何より優先すべきは美月の気持ち。 自分が道を違えない為のストッパーとして側にいてくれる親友に麻紀は尋ねる。「麻紀ちゃん……」 麻紀が自分を思い提案してくれ誘いに美月は思いを巡らせる。 確かに麻紀の言う通りリスクはある。 父のデータを見られなくなるかも知れない。 ひょっとしたら調整時間が無くて、仮想体の外見だけを模して、誰かがリアルタイムで演じているだけなのかも知れない。 しかし沙紀から伝えられた言葉が美月の脳裏に引っかかる。 三崎は人を楽しませるプロだと。 あのやり手の沙紀が手放しで評価する相手が、そんな底の浅い仕掛けを施すだろうか。 王の最後に伝えた言葉。 道を見つけてみろ。それが三崎のメッセージではないだろうか……「外部通信量を解析しながらプログラムにちょっかい掛けてみて。私は次の人に色々質問してみる。相手がNPCじゃなければボロを出すかも」 少し前の、弱かった頃の美月なら躊躇し悩み踏み出せなかっただろう。 だが今は違う。 リスクを承知で勝負に出る価値がある。あるはずだ。 美月は覚悟を決め、信頼する親友である麻紀へと指示を出す。 「りょーかい! 尻尾だけでも絶対掴もう。あのお兄さんが絶対何か知ってるはず。しらを切れない証拠を掴んでやる! あたしの名にかけて曝いてやるわよ!」 そうこなくちゃと言わんばかりの笑顔で答えた麻紀は、通信量のみならずVR機本体側とソフトの稼働状況をリアルタイム監視をするために仮想ウィンドウを立ち上げる。 ファクトリーへの隔壁扉は不気味な沈黙を保ち閉じている。 あの扉が開いた時、次に出てくるのは何者だろうか? いつでもこいと2人は身構える。 ルナファクトリー所属の研究員や保全職員も含めて数百人にも及ぶ。 王の次が誰が来るかなんて二人には判らないが、王の残した意味深な言葉に対する正解を見つけてやろうと気を張る。「…………」「………………」「「…………………………………………」」 しかしなんのリアクションもない。 王の姿が消え去って数分が経つのに、誰も出現しない。 扉が開く様子は微塵もない。 洞穴内はほぼ真空状態なので無音で、聞こえてくるのは通信機越しに聞こえるお互いの固唾をのみ喉を鳴らす音だけ。「………………………………」「…………」「……………………………………………………………………」 本当になにも起きない。 まるでバグで止まったかのようになんのアクションも起きない。 目の前の隔壁が開いて誰かが出てくる様子もないし。中に招き入れられる様子もない。 「麻紀ちゃん……画面になんか出てる?」 ひょっとしたら次の場所まで自分で向かう仕様なのだろうか? あまりの静けさと、それとは裏腹に無情にも減り続ける制限時間に焦れた美月は自分のモニターに変化はないのを確認してから一応麻紀に尋ねる。「ううん……隔壁が開くか確かめてみる」 気密扉に近づいた麻紀は扉横のコンソールのメインボタンを押してみるが、液晶画面は消えたままでなんの反応もしめささない。 いくつかのボタンを押してみるが変わらず、どうやらこのコンソールは機能していないか、元々張りぼてのようだ。「駄目っぽい。他に……」 辺りを見渡した麻紀は、扉横に非常用と思われる手動開閉クランクハンドルを見つける。 麻紀は駄目で元々とそれを回してみようとして手をかける。「手動開閉も出来るみたいだから、確かめてみぎゃっ!?」 麻紀が回そうと力を入れた次の瞬間クランクハンドルが脆くも折れた。 それは物の見事にぽっきりと折れた。 まるで飴細工のように根元から折れた。 回そうと力を入れて足を滑らせ思い切り前のめりに倒れ込んだ麻紀と共に折れた。 「ま、麻紀ちゃん……だ、大丈夫?」 あまりに勢いの良すぎる転け方は、このクランクが元々折れるように仕掛けられていたんじゃないかと疑いたくなるほどに、見事な物だ。「……だぁっ!? 嫌がらせかぁぁっ!? あたしの気合い返せ!」 赤面しつつ立ち上がった麻紀は、叫びながら折れたクランクを、先の見えない通路の暗闇に向かって投げ捨てる。 どうやらテンション任せで中二めいた啖呵を切って意気込んだは良いが、なにも起きない上に、下手なコントのような展開に空回りした自分が恥ずかしくなっていた。「あたしと、あたしの親友の気持ちをいいように弄ぶな!」 どうやら麻紀は、この一連の流れを三崎のトラップだと決めつけたようだ。 美月は父親に過去映像でも会えるのを本当に楽しみにしていたのに、それをあざ笑うような嫌がらせの連続に三崎に対して、昼間の恨み辛みも重なり怒りがこみ上げたのだろう。 癇癪を起こした麻紀は、足元に落ちていたひと抱えはある石を両手で掴むと軽々と持ち上げる。 月の低重力下で見かけより軽いとはいえ。それなりの重さはあるのだろうが、怒りのあまりリミッターが外れたのだろうか。「ち、ちょっと麻紀ちゃん待った! 落ち着こ! ね!」 「開けないっていうなら力任せでやってやるわよ!」 美月の制止が耳に入っていないのか、麻紀は怒りのまま叫ぶと持ち上げたその岩石を扉へと振り下ろし始める。 がつがつと何度も扉へ怒りのままに石をぶち当てていく様は鬼気迫り、思わず美月も引いてしまうほどだ。 もし目の前に三崎がいたら、三崎が同じ目に遭っていたのだろう。 それほどの勢いが込められている。「麻紀ちゃん壊れるって! まずいって!」 VR空間で隔壁が破れたら中まで影響が出て取り返しが付かなくなるかどうなるのかよく判らないが、麻紀の勢いではこのまま扉を壊してしまいかねない。 「……………安心して。その程度で壊れるほど柔じゃない。古い施設で整備がされてないだけ」 慌てふためく美月の横に、いつの間にやら美月よりも頭2つ分は大きい人間が出現していた。 足音など聞こえず、忽然と出現したとしかいいようが無い。「ひゃっ!?」 不意の出現に思わず驚き奇声をあげ身じろぎした美月はつい跳び下がってしまう。 月の低重力下でとっさに動いたために勢いがつきすぎ、足元に転がっていた石に足を取られバランスを崩した。 幸いにも先ほどとは違い低重力なのが功を奏し、ふわっとした感じで地面に倒れ込んだだけですんだ。 倒れ込んだ美月に向かって謎の人物が顔を向けると、微動だもせずに見つめる。 美月から見上げる形になった人物はその長身と無言が相まって、強い威圧感を感じさせる。「美月!? あんたなにやってんのよ!」 悲鳴をあげて倒れ込んだ美月に気づいた麻紀が、即座に石を投げ捨て、美月と謎の人物の間に一足飛びに割り込んで美月を庇うように仁王立ちして睨み付ける。 ただでさえ背の低い麻紀からは完全に見上げる形になっていて、その様は無謀にも大型犬に吠えかかる小型犬の様だ。 「………………………その子が石に躓いて勝手に転んだだけ」 しかし麻紀の威嚇も鋭い目線にも、その人物は身じろぎ1つみせない。 美月が倒れる原因となった石の方へと顔を向け、抑揚の無い声でつぶやくようにいった。 その不貞不貞しい態度は、自分には関係ないとでも言いたげだ。 声だけ聞くと女性のようだが、しかし遮光バイザーでその顔は見えず、通信も映像無しの音声のみと怪しいことこの上ない。 女性らしき人物が着込んだ宇宙服には美月達と同じデザインで、胸にもルナプラントのロゴが入っているが、それよりも今の対応、返した言葉がタイムリーすぎる。 「今の言葉で確信した! 絶対中に誰かいるんでしょ! キビキビ答えなさい! もしあのお兄さんなら両腕両足へし折って、乱暴してくれた美月の前で無限土下座するくらいで許してやるわよ!」 麻紀も今度こそ目の前の人物がNPCでないと確信を持ったようで、女性に向かって指を突きつけ、許すというよりも処刑宣言と表した方が、ふさわしいだろう脅迫を突きつけた。 ぐるぐる回る目で物騒な台詞を吐き出す親友の重すぎる友情に、感謝すべきか注意すべきか悩ませる美月の横で、件の女性は180°ターンをして二人に背を向けると、「…………私はカルラーヴァ・レザロフスキヴナ・グラッフテン。植物学者見習い。貴女達日本人には覚えにくいみたいだから愛称のカーラでいい。付いてきて」 カーラと名乗った女性は自分の言いたい事だけを背中越しで伝えると、二人の返答も待たずに洞穴の奥へと向かってさっさと歩きだした。 あまりにあっさりとしたその態度に美月はもちろん、怒りに捕らわれていた麻紀ですら呆気にとられる。 二人が呆然としているのに気づいていないのか、それとも気にしていないのか。 ちゃんと付いてきているか後ろを振り返って確認することもなく、カーラは一人ですたすたと歩んでいく。 長身もあってかその歩みはかなり幅広く足早に進んでいくため、非常灯だけが照らす薄ぐらい洞穴の暗がりの中にすでに半分姿を沈めていた。 このままここで呆然としていればこのまま姿を見失うことになりかねない。「ま、待ちなさい! 美月追うよ!」「う、うん!」 何が起きているのか。 状況把握すらまともに出来無いが、麻紀は尻餅をついたままだった美月の手をとって慌てて立ち上がらせると、カーラと名乗った謎の人物の後を追って、薄暗い洞穴の奥へと駆け込んでいった。