振り上げられる拳。怒声を放ちながら老人に殴りかかる青年。そしてそれを甘受する老人。それは単なる一人の青年の個人的な感情が起こしたほんの僅かな事件。歴史という大局的な視点でみれば、特に重要性もない些細な一コマ。自分には関係ない。だから初めは止めるつもり等なかった。ただ、過去に起こった事実の一つとして静観しているだけのつもりだった。だが、結果は違っていた。老人に向かって振り下ろされるはずの手は振り下ろされること無かった。『どうしてアンタが止めるんだ!』いや正確には違う……。振り下ろされるはずだったその手は、自らの手によって空中で止められていた。12話:揺れる心、捨て切れない過去(八つ当たりだったな……)北極冠遺跡周囲の探査に出かけるヒカル、イズミ、リョウコの三人を見送った後、先ほどの自分の行為を省みて心の中で一人そう思った。あの時、自分がアキトを殴ったのは別にフクベを庇ったわけではなかった。かといってアキトを正そうと思ったわけでもない。止めた理由はもっと簡単な事だった。それどころか馬鹿らしいとも言える。そう、ただ単純に無性に腹がたっただけなのだ。敵意をむき出しにしてフクベ提督に食って掛かるアキトの姿。感情だけで行動しようとするその姿を見て何故か無性に腹がたったのだ。もちろん、今の自分は昔とは違い少々の事ならば感情ぐらい制御できる自信はある。だからこそ最初はその感情を抑えることができていた。何しろ目の前で暴走しているのは過去の自分。自分もまた同じ事をしてきたのだから。そして、内心では戸惑いながらも自分がアキトを諭すことでどうにかその場を乗り切ろうとしたのだ。だが――『だからってコイツを許せっていうのかよ!? コロニーの皆を殺しておいてのうのうと地球に逃げ帰ったコイツを――』そこまでだった……。その最後の一言で、遂に忍耐という糸が切れた。そして気づけば次の瞬間には、アキトを壁に叩きつけていたのだ。(同属嫌悪……いやこの場合自己嫌悪か)その憤りの原因はその直後に気がついた。そう、それは至って単純なこと。自分と同じだとわかっているからこそ起こる拒否反応。同じ者同士だからこそ感じる反発作用。自分の中に残ったテンカワ・アキトという名残が引き起こした感情の暴走だった。(とっくに捨て去ったつもりだったんだけどな……)君の知っているテンカワ・アキトは死んだ。過去に一度だけ妹であった少女に告げた別れの言葉だ。それは少女を通して過去の仲間に告げた言葉でもあり、同時に自分に残った最後の名残を完全に捨て去るためのけじめの言葉でもあった。自分の事は忘れてくれ。熱血漢に溢れていた自分も、コックになる事を夢見ていた自分も、そして三人で一緒に屋台を引いていた自分はもういない。全て捨て去るための最後の確認のための言葉だった。だから今の自分は既にテンカワ・アキトではない。今の自分はテンカワ・アキトという存在が抜け落ちた、ただの抜け殻――そう、ただの復讐だけを誓ったただの亡霊に過ぎないのだ。そう……そのはずだったのだ。しかし、自分は自分はテンカワ・アキトに同属嫌悪を起こしてしまった。あまつさえ八つ当たりまでもだ。もしも自分が全てを捨て去っていたのならこのような感情が起こるわけがない。それは自分がまだ過去の自分を全て捨て切れていない証拠でもあった。(まったく……結局何をやっても中途半端だな、俺は)よくよく考えてみればあの時、たった一度だけ偶然交差した少女との邂逅。あの時、少女との繋がりが断てなかった時点で、既に自分の中に甘えが残っていたのだろう。現に今ではすっかり彼女に気を許してしまっている。結局何もかも捨て去ったつもりで、最後の肝心なところで全てを捨て切れなかったのだ。相手にあれだけ言っておきながら肝心の自分のけじめができていなかったという情けないことだろうか。「おや、ナナシさん、何か心配ごとでも?」どうやら感情の揺れが表に出てしまっていたらしい。そのことを察したのかプロスが声をかけてくる。「いや、個人的な事で少し考え事をしていただけだ」思考に没頭しすぎて周囲の気配を調べるの忘れていたらしく、いつの間にか作戦室に残っているのは自分とプロスだけになっていた。「個人的な考え事ですか……やはりアキトさんの事ですかな?」個人的な考え、という言葉に反応したのか意味深な表情を浮かべながらプロスがそう問い返す。「いや、それは関係ない。それより本当に良かったのか? 俺も一緒に偵察にでなくても」プロスの言葉はある意味核心を突いていた。だが、アキトの事で悩んでいると思われるのが嫌だったので否定をしつつ話を逸らす。「それならば心配無用ですよ。その事は貴方の方がよくわかっているでしょう?」「ああ、確かに彼女たちの連携なら大抵の局面は乗り切れるの解ってるさ。ただ、今回はスバルが陸戦フレームでは無く砲戦フレームに乗っていることが少し気がかりでな」「はて、どういうことですかな?」珍しくすんなり別の話に乗ってくるプロス。本来ならばこんな素人臭い方法でプロスほどの男がそう簡単に見逃してはくれないのだが、どういうわけか今回は別に提供した話題にすんなり食いついてきた。「スバルがエステバリスの戦闘で最も得意としているのは近接戦闘だ。だが、今回彼女は最も苦手としている遠距離戦用の装備をしている。もちろん通常の戦闘ならば問題無いだろうが、奇襲等の不測の事態に陥った場合対処が遅れる可能性がある」「なるほど……しかし、では何故ヒカルさんやイズミさんは態々リョーコさんに砲戦フレームをしたんでしょうな?」「彼女達の事だ、どうせジャンケンか何かで決めたのだろうさ」「そんな……いや、しかし彼女達なら」その言葉を何故か完全に否定できないプロス。確かに普段の彼女達の行動を見ていれば強く否定はできないのだろう……。「まあ、今更手遅れですから彼女達を信じましょう。それにどのみち貴方には残ってもらうつもりでしたので」「どういうことだ?」プロスの発言に思わず問い返す。どのみち自分には残ってもらう予定だったというのはどういうことなのだろうか。「簡単なことですよ。 貴方には皆さんが留守の間ナデシコの護衛を頼むつもりでしたから」「何故だ? 別に護衛ならテンカワとヤマダで事足りるだろう?」「確かにそうなんですが……こう言ってはなんですが、ヘンリーさんが残っている間は貴方にナデシコに残ってもらわなければなりませんので」その言葉で、彼が言わんとしていることに気づいた。なるほど、確かにそれならば自分残しておこうという理由がわかる。「抑止力、というわけか」「いえいえ、そんな大層なことではございませんよ。ただ、万が一のための保険というものは必要でして」一度だけ見せた本当の実力。そして、いまだに未知数の実力を誇るヘンリーという存在。敵ではないとしても、完全に味方と分かったわけではない相手に自分という切り札を手元に残しておきたいのだろう。「それに、もう一つ理由があるんですよ」「何だ?」急にこちらを振り向くプロス。「貴方ともう一度詳しいお話したいと思っていたんですよ」「――!!」どうやら二人きりになったというのは偶然ではなかったらしい。「……俺に関する事ならとっくに調べ上げていると思うが?」「はい、確かにこのナデシコの乗員の経歴は乗船前に全て調べてあります」「なら、今更聞くことなど無いだろう?」「貴方も意地悪ですね」こちらの言葉にプロスは苦笑する。そして、眼鏡の位置を直すと言葉を続けた。「何しろ――貴方に関してはネルガルの全情報網を駆使しても過去の経歴が一切見つからなかったというのに」一瞬、プロスの表情から笑みが消えた。もちろん次の瞬間には何時ものとぼけた笑みを浮かべていたが。「今のご時世、過去の経歴が一切見つからない人間などほぼいないといってもいいです。特に貴方のような特異体質をした人物、しかもエステバリスライダー等という特殊な技術の持ち主なら、普通すぐに調べがつくはずでした」「……」「しかし、貴方は私たちの持つ情報網、早い話がネルガルの情報網を駆使してさえも過去1年以上前の一切情報は見つかりませんでした……そう、まるでそれ以前は存在していなかったかのように」事実を確認するかのように淡々と言葉を連ねるプロス。「だから私も初めは貴方を本気で雇うべきか正直迷いました。何しろ素性もはっきりしない、正直に言えばあからさまに怪しい男をこのネルガルの社運を賭けたプロジェクトの要である最新鋭の戦艦に乗せようというんですから」「もし俺があんたの立場なら間違いなく切って捨てただろうさ」自分で言うのもなんだが、確かにあからさまに怪しいといえる。普通の神経をした者ならばまず雇うなどとは考えないだろう。「はい、普段ならば私もそうしていたと思います。ですがこのナデシコの旅を成功させるのには優秀なエステバリスのパイロット……そう、その中でも一流と呼ばれるが絶対に必要でした」「確かに地球圏にはまともな腕をもったエステバリスライダーが少ないだろうからな……何しろ地球じゃまだまだIFSへの忌避感強い。まあ、だからこそ、俺みたいな訳の分からない奴にも声がかかったんだろうさ」何しろエステバリスという兵器がほとんど普及していない時代だ。ただでさえ使っている人物も少ないのに、一流どころの腕を持ったパイロットを探すのも一苦労だろう。もちろん、それが分かっていたから自分が雇われるようにネルガルに情報を流したわけだが。「まあ、貴方の仰る通りなんですが……実は貴方を雇った理由がもう一つあったんですよ」「……何?」予想外の答えに一瞬、返答が遅れる。「もっとも、これは個人的な理由なんですがね。何ならお教えしましょうか?」そう言ってにっこりと笑うプロス。「是非、その理由を聞いてみたいもんだな」やはり自分にはこういった話術の才能はないらしい。話を逸らしたつもりが逆に相手の術中に嵌ってしまっていることに今更ながら気づいた。向こうもそれが分かっているのかニコリとした笑みを浮かべている。「きっかけは貴方の過去を調べていた時でした。そう、丁度探しても見つからない貴方の過去の経歴の事で頭を悩ましていた時です。何しいくら探せど、過去1年以上前の情報が見つからないわけですから、あの時は私も自信を失いそうになったぐらいです。ですがある時、ふと私は思ったんですよ……もしかしたら貴方の過去は別の誰かに消されてしまったんじゃないかと」「ほう……」「そこで私は考えました……では、一体誰に消されたのかと、しかもネルガルの情報網を駆使してさえも分からないほど完璧に。そんな事は地球圏ではほぼ不可能です。ならばどこか」プロスはまるでいままで解けなかった問題の答えが分かったかのように嬉しそうに言葉を続けた。「そう、地球圏では無理、ならば火星ではどうかとね。あの第一次火星会戦の直前までいた人ならば、過去の経歴の見つからない人がいてもおかしくはないのではないかと思ったのですよ。まあ、まさか直接聞く前に答えをあなた貴方自身口語られるとは思ってもみませんでしたが」「……アンタが推理力には恐れ入ったよ」「いえいえ、これぐらいなら誰でもできることですよ」本当に何でもないといった風に軽い口調でそう答える。相変わらずこのプロスという男の推理力や洞察力は凄まじいものがある。まさかナデシコに乗る前から自分の出身地を推測されているとは思ってもみなかった。「しかしですな、その推理が正しかったとすれば一つだけ大きな疑問点……いや、矛盾点がでてくるんですよ」突然、プロスの目つきが変わる。一旦は話が終わったかと思ったがどうやらまだ続きがあるらしい。「貴方の経歴が調べ上げられたのは今から大よそ一年前の2196年2月まででした、そう第一次火星会戦があってから大よそ4ヵ月後のことです。この時から貴方はある意味地球上に存在していたことになるでしょう」「それがどうかしたのか?」「はい、大変おかしな事です……何しろ当時2195年の7月以降、火星から民間シャトルは発射されていないのですから。もしも貴方が2196の2月までに地球にたどり着こうと思えば、最低でも半年前……8月にはシャトルに乗っていなければなりませんからね」「もしかしたらそれ以前からいたのかもしれんぞ?」「いえ、それはありえません。7月以前のシャトルの乗船記録にも貴方らしき人物の情報はありませんでしたし、仮にいたとしたら、その情報がまったく掴めないわけがありません」「……」「この最新鋭エンジンを搭載したの戦艦ナデシコでさえ約4ヶ月の月日をかかる距離を貴方一体どのように移動したんでしょうか」二人の間に緊迫した空気が流れる。この質問こそがこの会話での本題。今までの思わせぶりな会話は全てこの質問のための前振りだったのだろう。「お答えしていただけないでしょうか?」「……」再度プロスが問いかける。おそらく向こうも既に答えは出ているのだろう。そして、今求めているのはその答えの確認。「ボソンジャンプ……」「――!!」分かっていたのだろうが、やはり口にされると驚いたらしい。一瞬だけプロスの目が大きく見開かれたのが見て取れた。「やはり、貴方は知っていたのですね」「できれば隠し通したかったんだがな」そう、まったく予定外だ。できればこの切り札は切りたくは無かった。今の時代ではボソンジャンプに関する情報はまさにトップシークレットといっていい。そんな情報を持っている自分をみすみすネルガルが見過ごすわけがない。「それで、俺をどうするつもりだ?」隠し持っているCCでいつでもボソンジャンプできるように準備しながら、プロスに問いかける。もしも、目の前でボソンジャンプしてしまえば言い逃れはできないが、自分にはまだやるべきことが残っている。一度は諦めて、されど消え損ねたこの命。それが残っている限り俺は探さなければならない。そう、アレをこの世界のどこかに残したまま何もせず消え去るわけにはいかなかった。「別にどうこうするつもりはありませんよ」「……何?」プロスの答えに一瞬耳を疑った。「いえいえ、だから貴方の答えがどうであろうと初めからどうこうするつもりはありませんと言ったのですよ」聞き間違えかと思ったが、やはりプロスの答えは変わらなかった。「……どういうつもりだ?」意図が分からず思わず問い返す。目の前に葱を背負った鴨がいるも同然の状況だというのに何もせず、見逃すと彼は言っているのだ。「初めに言ったようにこれは私の個人的な調べ事ですから。ですので、会長にも話していないのですよ」未だに警戒の色を消さない自分に笑みを浮かべながらそう言ってのける。そう、いかにもしてやったりといった風な笑みを浮かべながら。「本当にそれでいいのか? 貴方の立場なら十分それが可能だろうに」「いえいえ、そんな大それたことはできませんよ。何しろ私は単なる会計役にすぎませんので」「ずいぶん仕事が多い会計役だな」「はい、最近は我が社も人材不足でして、私のような下っ端にはつらいことです」何事も無かったかのように交わされる世間話。いつの間にか緊迫した空気はなくなっていた。彼が何を考えているのかは分からないが、今回はどうやら見逃してくれたらしい。「おや、ルリさんから連絡が入ってますな……なるほど、もう少しで偵察部隊が戻ってくるそうです」「そうか、どうやら心配は無用だったみたいだな」「そのようですね。では私はさっさと作戦会議の準備を始めるとしますか」そう言ってプロスはいそいそとパネルを操作しながら何時偵察部隊が戻ってきても良いように準備を開始し始めた。そして、それから程なくして偵察部隊は必要な情報を持って無事帰還した。すぐさま作戦室には先ほどのメンバーが集められ作戦会議が再開される。彼女達が持ってきたその情報は既に作戦室に送られ、プロスによって作戦室中央のパネルに表示されていた。そこに映し出されているのは五つの巨大な構造物。「チューリップが五機……」___________あとがき今回はナデシコパート