アキト達が戦っている戦場から少し離れた岩場の隙間。戦場まで数キロメートルの地点までナデシコは敵に発見されることなく辿り着いていた。船体の装甲には所々擦れた、あるいは削れたような痕が見える。それは戦艦という巨体が渓谷という細い道筋を高速で駆け抜けた代償だった。「ルリちゃん、敵機の様子は?」「依然テンカワさん達と交戦中。こちらにはまだ気づいていません」しかしその代償の代わりに得た時間は決して無駄ではなかった。モニターには、津波のような敵の軍団に今にも飲み込まれそうになりながらも、必死に大地を駆けるピンク色のエステバリスの姿がはっきりと映されていたのだ。「ディンゴさんに通信を繋いでください」「えっ、アキトさんじゃないんですか?」恐らく以前の彼女ならば躊躇なくアキトに通信を繋いだことだろう。事実、今の彼女の心の中には一刻も早く無事な彼の姿を確認したいという衝動は湧き上がっていた。「うん、だって今のアキトは逃げるのに一生懸命だと思うから……」だが、今の彼女にはそれを押し止められるだけの理性がある。この状況下で自分の軽率な行為がどんな結果を招くのか彼女は十二分に理解しているのだ。「今は一分一秒が惜しいの、急いでメグミちゃん!」「わ、解りました!」珍しいユリカの叱咤に慌てて作業を開始するメグミ。慌てていても流石は一流、ユリカの命令から僅か数秒でジェフティとの通信画面が開く。「よう、随分と遅い登場じゃねぇか」「すみません、ディンゴさんがいるから安心だと思って少し遅れて来ちゃいました」「へっ、言ってくれるじゃねぇか。で、遅れてきたからには何かしら考えてきたんだろうな?」「もちろんです。それじゃあ、用件だけ伝えますね」つい先ほど一分一秒が惜しいと言っていた人物とは思えぬ会話の軽さ。だが、一見不謹慎に見える彼女達の会話だが、この状況下では信じられないほど実にスムーズな意思疎通を行われていた。「チャージが完了しだいグラビティブラストを敵陣に叩き込みます。その混乱に乗じてナデシコと合流してそのまま火星から脱出します。合流ポイントは――」まるで今夜の夕食の献立を告げるよう彼女は作戦内容を伝える。「――ここから一番近いチューリップです」その言葉に皆が息を呑む。「か、艦長……まさか」「はい、ナデシコはこれより作戦を第二プランを破棄、第一プランを移行します!」17話:ゼロシフト「というわけだ坊主、あと少し気張っていけ!」「はい!!」ディンゴの掛け声にアキトは力強い返事を返した。ナデシコから受け取った通信。それは、絶え間ない緊張感で既にボロボロになっていたアキトの心に差し込んだ一筋の光明だった。「……来てくれたんだ」喜びが自然と言葉となって口から漏れる。あと少し頑張れば皆が駆けつけてくれる。現状が絶望的なことに変わりは無いが、その事実だけでアキトは体に力が漲るのを感じた。「もう少しで助かりますよ、イネスさん!」嬉しさのあまり後部座席に座るイネスに励ましの言葉をかけるアキト。だが、それがいけなかった。「一発行ったぞっ、坊主!」ほんの一瞬、彼の意識が戦闘から逸れたまさにその瞬間を狙ったかのように、一発のミサイルがジェフティの迎撃から逃れたのだ。慌てて回避行動を取ろうとするが時既に遅く。「――っ!?」激しい爆発とすると共に激しい衝撃がエステバリスを襲った。「坊主!!」爆煙に包まれるエステバリスを見て、ディンゴが叫ぶ。「大丈夫です、まだ生きてます!」直後、アキトから返事が届く。どうやら直撃する寸前に回避行動を取ったため致命傷は免れたようだ。しかし、激しい衝撃で強く揺さぶられたことで、アキトは辛うじて意識を失わなかったが、後部座席にいたイネスが内壁に頭部を強く打ちつけそのまま意識を失ってしまった。もちろん機体の方も無傷では無く、装甲の一部が無残に弾け飛び更に体勢を大きく崩してしまう結果となった。同時にそれまである程度離れていた敵との距離が一気に縮む。敵のAIも好機と判断したのか、それまで主にジェフティに攻撃を行っていたカトンボの軍勢の一部がここぞとばかりにエステバリスに攻撃を集中し始めた。「ちぃ!! ったく、なんて数だ」安堵したのもつかの間、舌打ちと共にディンゴがサポートに入る――が処理が追いつかない。今まで以上のミサイルとレーザーの嵐がエステバリスにむかって降り注ぎ、比喩表現ではなく文字通り薄皮一枚の距離をレーザーが通り過ぎていく。その度に輻射熱で装甲の表面が蝋のように溶け、まるで火傷を負ったかのように爛れた模様を刻んでいった当たれば終わり。すぐ隣まで這い寄ってきた死の恐怖に気が狂いそうになりながらもアキトは必死にエステバリスを動かし続ける。しかし現実は厳しい。その圧倒的な物量の前に未熟な彼がそれらを避け切ることができるはずもなく。一筋の閃光がエステバリスを貫いた。「腕が!?」片腕が消滅していた。不幸中の幸いだったのはそれがミサイルでは無くレーザーだったこと、、そして失ったのが片腕であったこと。もしそれがレーザーではなくミサイルだったならば、もし失っていた部位が腕以外の箇所だったならば、その時点でアキトの命運は完全に絶たれていたことだろう。だが……アキトの悪運もそこまでだった。片腕を失ったことにより大きくバランスを崩したエステバリスはその場に転倒してしまったのだ。その隙に追いついてきたバッタの群れが、倒れたエステバリスの四方から一斉にミサイルを放つ。前後左右そして上からもエステバリスを覆い隠すようにミサイルが迫る。隙間無く撃ちだされたそれらは確実にエステバリスの逃げ道を完全に塞いでいた。そしてその圧倒的な物量は明らかにディンゴがサポートできる範囲を超えており、同時にその状況はディンゴの目からみても明らかに「詰み」であった。「まだだ!!」しかし、そんな絶望的な状況下に置かれている中、当の本人はまだ諦めてはいなかった。己の失態に後悔しながらも、残された僅かな時間でエステバリスの体勢を気合で立て直す。もしもエステバリスに乗っていたのが彼だけならば、とっくに諦めていたのかもしれない。だが、今このエステバリスに乗っているのは彼だけではない。必ず助ける、そう約束したイネスが乗っているのだ。そしてこの男は自分の為ではなく、大切な誰かの為にこそ最も力を発揮する。本来ならば自己防衛の際に最も強く働くはずの生存本能が、その摂理を捻じ曲げ他者の命の為にその機能を最大限に発揮し始める。生き残る為ではなく、助ける為に。意識が加速し、視界から色がなくなり、純粋に生き残る(助ける)為に必要な情報だけが取捨選択されていく。それに呼応するかのように彼のナノマシン群はそれらの情報を、イメージを、より高速に、正確に伝達すべく恐るべきスピードで自己を最適化させていく。その極限まで引き伸ばされた体感時間の中、彼の脳裏に一つの手段が閃いた。「これだっ!」掛け声と共にアキトはエステバリスに取り付けられていた予備のコンデンサーの一つを剥ぎ取ると、前方のミサイル群に向かって投げつけたのだ。コンデンサーのエネルギーにミサイルが反応し、爆発が起きる。もちろんそれで全てのミサイルが誘爆するわけではなかったが、それまで隙間すらなかったミサイルの包囲網の一角に小さな穴が出来ていた。アキトはエステバリスの残った片腕を小さく折りたたみ、極限まで当たり面を小さくする。そして、自身がまるで一本の矢であるかのようにイメージしながら、出来た穴に向かって自身を滑り込ませた。「うおおぉぉぉぉ!!」エステバリスが通過しきった直後、ミサイルのセンサーが反応し爆発が起きる。アキトはそのミサイルが爆発した衝撃を利用し、一気に自身の加速力へと転用する。同時に視界に色が戻り、意識が正常な時間を取り戻す。生きた……そうアキトは生き延びたのだ、あの絶望的な状況から。「ったく、冷や冷やさせやがって」その光景を見ていたディンゴは軽口を叩きながらも、驚きの表情を隠せなかった。何しろ先ほどの状況は彼の目から見ても明らかに「詰み」であった。いや、正確にはディンゴが把握していたアキトの技量では言うべきだろうか。(実戦に勝る経験は無いってのは良く聞くが、こいつほど当てはまる言葉は無いな)この死地とも呼べる戦場という事実を加味してなお異常なまでの成長率、そしてここ一番という時に発揮する度胸。既にアキトの実力は出発前と比べて何段階も上がっていた。「が、依然ピンチなのには変わりねぇか……エイダ、艦長さんにもっと急ぐように――」「重力変動を検知、重力波来ます」ディンゴがナデシコに再度連絡を取ろうとした直後、一筋の黒い光が木星蜥蜴の群れに突き刺さった。その攻撃は、攻撃にエネルギーを集中させていた敵のディストーションフィールドを易々と突き破り、包囲網の一角に大きな穴を開けた。「大丈夫、アキト!?」「アキトさん、大丈夫ですか!?」直後、コックピットの隅に映し出されるユリカとメグミの顔。「ユリカ、メグミちゃん……?」突然現れた二人の顔にアキトは一瞬自らの置かれている状況を忘れ、ポカンとした表情を浮かべる。実はグビティブラストをチャージしている間、アキトの駆るエステバリスの姿はナデシコの望遠カメラによってずっとモニターされていたのだ。しかし、相転移エンジンの状態が状態なだけに中々チャージ完了せず、彼女達の心に徐々に焦りが溜まってきていた。しかも、距離が離れているため詳細こそ見えないものの、彼の置かれている現状がリアルタイムで目の前で展開されていたのだ。そのため、アキトの至近距離で爆発ミサイルが直撃したように見えてしまい、アキトのエステバリスがやられてしまったと勘違いしてしまったのである。それを見た瞬間、ギリギリのところで自制心を保っていたユリカの中で何かが切れた。同時にまるで図ったかのようにグラビティブラストのチャージが完了する。ユリカは視線のみでルリに合図をすると、グラビティブラストを敵の横っ腹に叩き込んだのだ。ちなみにメグミの心境もユリカとだったらしく、グラビティブラスト着弾と同時に通信を繋ぐ作業を終えていた。「よかった……間に合ったんだ」「私、もうダメかと思っちゃいました……」目元に涙を溜めながら安堵の表情を浮かべる二人の恋する乙女。その表情たるや、もしもこれがまともな状況下ならばどんな男でももイチコロであろう、そんな表情だった。「見詰め合ってるところ悪いんだけど、急いだ方がいいんじゃないかしら?」だが、残念ながら状況がそれを許してはくれなかった。いつの間にか意識を取り戻していたイネスの冷ややかな声が三人を現実へと引き戻す。気まずく思ったユリカとメグミは、顔が映った通信画面は小さくするとコックピットの隅っこに移動した。が、それでも通信を解除しないのはやはりアキトの事が心配なのだろう。「す、すみません、イネスさん」「別に咎めはしないけれど、状況を考えなさい」イネスにしてみれば意識を取り戻したと思ったら目の前で桃色空間が繰り広げられていたのだ。普段以上に冷ややかな声がでたのは、頭の怪我が痛むことだけが原因ではなかったのだろう。(まったく……若いっていいわね)もしかしたら自分も若ければ、あそこに混じっていたのだろうか。目の前の少年を見ながら、ふとそんな妄想を抱いたイネスは、次の瞬間には溜息と共に自嘲した。そんなイネスの様子に、アキトは呆れられたと思いながらも慌ててエステバリスを加速させようとする。「あれ……?」が、一向に加速しないエステバリス。いや、それどころか逆に異音を立てながら徐々に脚部キャタピラが減速していた。「あれ、なんで……」「どうやら……今度こそ本当に神様に見放されちゃったみたいね」完全に停止した脚部キャタピラ。度重なる無茶な機動、幾度と無く襲った衝撃、そして限界ギリギリの速度で稼動し続けていたことよる疲労。何も限界を超えていたのはアキトだけではない、彼の駆るエステバリスもまた既に限界を超えていたのだ。「どうしたの、アキト!?」「それが……」異変に気づいたのか、不安そうに尋ねてくるユリカに状況を説明する。そしてその事を聞くと同時に、ユリカの顔は真っ青になった。一難去ってまた一難。奇跡によって繋がれた一筋の光は、今まさに途絶えようとしていた。-----------------アキトの状況を知ったナデシコブリッジは騒然とした空気に包まれていた。まさかここまで来て、そんな言葉皆の頭を過ぎる。「そうだ、こっちからエステバリスで救助に向かえば!」メグミがはっとしたかのように提案する。だが――「それは駄目だ。そんなことをすれば混乱している木星蜥蜴達が体勢を立て直してしまう。何より、テンカワと敵の位置がまだ近すぎる。この状況下で助けにいけばミイラ取りがミイラになるだけだ」――ゴートの冷徹な声がそれを遮る。それに、万が一このままアキトが敵の攻撃を回避しナデシコに到達したとしても、あれでは敵の群れも一緒にやってくることになる。わざわざ敵を引き連れてやってくるアキトを待つことは、どのみちできないのだ。「残念ながら艦長、時間がありません……このままチューリップに突入することをお勧めします」それまで、状況を見守っていたプロスがユリカに静かに進言した。ユリカはその言葉に反論したかった……ができなかった。不幸にも彼女の優秀な頭脳が、この時点でアキト達の助かる道は残されていないということを否が応にも理解させていたのだ。「そんな……嘘ですよね……ねぇ、ユリカさん、何か言ってくださいよ」俯くユリカにメグミが震えた声でそう呟く。彼女がユリカと同じくアキトに対して特別な感情を持っていることは、ここにいる誰もが知っている事実だった。「ごめん……メグミちゃん……」そんな彼女の言葉にユリカはそう答えることしかできなかった。メグミがその場に崩れるように蹲る。本当ならばユリカも同じように、メグミと同じようにその場に蹲りたいのだろう。しかし彼女にはまだやることが残されている。このナデシコを無事火星から脱出させるという使命が。「ナデシコは……これよりチューリップに……とつにゅ――」嗚咽を飲み込みながら最後の命令を下そうとした瞬間――「もう諦めちまったのか、艦長さんよ」冷ややかな男の声がナデシコのブリッジに響いた。「ディンゴさん」弾けるようにユリカは顔上げる。そこには怒りの表情を浮かべるディンゴの顔がモニターに浮かんでいた。「あんたはこの作戦を立てた時に俺に言ったよな、絶対に見捨てたりしないってな。あれは嘘だったのか?」「それは……」作戦前、確かに彼女はディンゴにそう言ったのだ。絶対に捨て駒なんかにしたりしないと。「トラブルの一つや二つ想定してなかったのか? もしそうならそれでよくあの坊主を送り出せたもんだな?」ディンゴの言葉一つ一つが鋭い刃となって彼女の胸を抉る。言い訳をしたくても声がでない……いや、その言い訳すら今の彼女には思い浮かばなかった。ユリカの目尻に涙が浮かぶ。「だったら……だったらどうすればいいんですか!? 私だって、私だってアキトとイネスさんを見捨てたりなんてしたくない!」その叫びが呼び水となったのだろう、これまで必死で、必死に押えていた彼女の感情が堰を切ってあふれ出した。「何度も考えたんです。何十回、何百回、考えられるだけ全部考えたんです。絶対助ける方法があるはずだって……でも、それでも出てこないんですよ、アキトとイネスさんを助ける方法が……」あの時、彼女は艦長として自覚したはずであった。何百人という命の重み、艦長という職業がいかに重い責任を背負っているかということを。だからこそ作戦を立案した際も、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返し、やれるだけのことは全てした。事実、天才と呼ばれた彼女の優秀な頭脳は何十通りというパターンを想定し、その対応策も完璧に用意していた。しかし、現実は厳しい。いくら机上で完璧な計画を立てようとも、実戦は時としてそれらの予想を大きく上回る事態を引き起こす。そして、今度は失うのは何百人という『他人』ではない。失うのはたった二人。ただ違うのは、その二人の中に『大切な』という意味が含まれているということだけ。遂に膝に力が入らなくなくなり、場にペタリと座り込む。いつの間にか溢れ出していた涙が雫となって床を濡らしていた。「ったく……坊主には勿体いい女だな」不意にディンゴの表情がくだけた。「これだけは使いたくなかったんだが――」頭をガシガシと頭をかきながらそう呟くと「――エイダ、ゼロシフトの準備だ」一気に表情を引き締め、エイダに向かってそう告げた。「それは――」「いいからやれ、時間がない!」「――わかりました、ゼロシフト・スタンバイ」エイダの語尾を食うようにディンゴが叫ぶ。「ディンゴさん……一体何を?」突然態度を変えたディンゴに一瞬何が起きたのかわからずユリカが聞き返す?「説明してやりたいところだが時間がない。ようは今すぐ二人をそこまで連れて行きゃ皆助かるわけだな?」「は、はい!」「だったら今すぐハッチを開けろ。 上手くいきゃ全員助かる」ディンゴはそれだけ告げると通信を切り、棒立ち状態のエステバリスの傍まで近寄ると両手で抱え込むように持ち上げる。「ディンゴさん、一体なにを!?」「説明してる暇はねぇ。いいから二人ともしっかりと何かに捕まってろ!」突然の事態に混乱しながらも、言われるがままにするアキトとイネス。そして次の瞬間――「いくぞ!」――二機の姿がその場から掻き消えた。---------------------------------こっそり改訂。ここに書き込むのは何年ぶりだろうか……