「き、消えた……だと!?」まるでコマ落としの映像のようにナデシコのメインモニタから消失した二機の姿。「ルリちゃん、アキト達の場所の確認をお願い!」「は、はい! エステバリス及びジェフティの現在地は――確認しました。 場所は……え?」ユリカの声に反応して即座にアキト達の場所をレーダーで確認したルリは、自分が確認した情報を報告しようとして、言葉を止めた。「どうしたの!? 早く報告して!」「あ、はい、アキトさん達の現在地は――ナデシコの真上です」「……え?」その報告を聞いた瞬間、その内容が示す意味をその場にいる殆どの人間が理解出来なかった。もちろんそれを報告した内容が別段難しかったわけではない。彼女はただ『ジェフティとエステバリスがナデシコの真上にいる』という事実を簡潔に報告しただけなのだ。では何故彼女の言葉を殆どの人が理解出来なかったのか?これもまた実に単純な理由である。ジェフティとエステバリスが居た場所とナデシコのいる地点の距離を考えればそれは物理的にあり得ないことだったからだ。両者の距離は例え空戦フレームのエステバリスが全速力で移動したとしても数十秒を要する距離があった。それに対し、ナデシコが二機を見失っていたのはたった数秒。どう考えてもあり得ない現象だったのだ。だが、それを可能とする方法を知っている者の感想は違った。「ま、まさか……あれはボソン――」相当動揺していたのだろう、プロスはそこまで呟いて漸く自分が何を言おうとしていたのか気づき続きの言葉を飲み込む。それは直ぐ隣にいたナナシに辛うじて聞こえる程度の小さな声でしかなかったが、普段の彼からは考えられない失態だった。無理も無い、彼の所属するネルガル重工は長い間それを実現しようとあらゆる手を尽くしてきたのだ。それが目の前で実行されてしまったのだから、寧ろこの程度の動揺で済ませた彼の精神力を褒め称えるべきだろう。もっとも、動揺していたのは僅かな時間で、頭の切替の早いプロスは既に頭の中ではどうやってディンゴから情報を引き出す又は彼自身を自陣に引き込むか策謀を巡らせていたのだが……。しかし、そんなプロスと同じくボソンジャンプを良く知る人物、ナナシの感想は違った。(あれは……ボソンジャンプ何かじゃない)確かに、ボソンジャンプを良く知らない者には今の現象がボソンジャンプのように見えたかもしれない。だが、あの瞬間、殆どの人物が『消えた』という現象にのみ注目していた中、ナナシだけはちゃんと見ていたのだ。ナデシコとあの二機の間にいた遮っていた木星トカゲが『まるで見えない何かに弾き飛ばされたかのように』爆散していたということに。(だとしたら、あの機体は)そう、その現象から推測される事実、それは(目に見えない程の速度で移動した、とでもいうのか)現象から推測された事実をナナシは否定したかった。ボソンジャンプとは違う瞬間移動技術――いや、この場合超高速移動技術と言うべきか。自分が知る未来の世界でさえ、そんな技術は片鱗すら見せなかった。仮にボソンジャンプと同じく隠れて研究されていた技術だったとしても、ネルガルの情報網に一切それらしい情報が引っかからないというのもまずありえない。何よりもしもそんなものがあったとすれば、ボソンジャンプの対抗技術としてその頭角を表してもおかしくないはずだ。前の歴史とは違う、それは覚悟していた。だが、こんな馬鹿げたイレギュラーが存在しているというのはまったくの想定外だった。(まさか……本物の異星人だというんじゃないだろうな)あの機体が古代火星人の遺物どころでは無い。現存するまったく別の星から来た宇宙人かもしれない。そんな結論に至った本人でさえ本当にありえるのか疑問に感じてしまうほど現実味に欠ける結論だが、実際に目の前であのようなことを実行されてしまえばそんな妄想も荒唐無稽と言い捨てるわけにもいかなかった。前の歴史では居なかった、少なくともこの時点では出会うはずのなかった存在。それが何故この歴史では唐突に火星に姿を現したか。そして一体何の為にナデシコに接触したのだろうか。そこまで考えたナナシはふとある一つの疑念を抱く。もしも……アレがナデシコに害を成す存在だったとしたら?何を馬鹿な。考えた直後にその可能性を否定しようとする。何より現状がその可能性が限りなく低いことを証明している。ナデシコを落とそうとするなら、チャンスはいくらでもあったのだ。相手がもしナデシコに害意を抱いているならば、とっくの昔にナデシコは撃沈されているはず。それに出会ってからほとんど経っていないが、ナナシ自身あのディンゴ・イーグリッドと名乗る男の人なりはある程度掴んだつもりだ。少なくともあの男の性格が演技だとは思えなかった。しかし可能性は『ゼロ』にはならない。もしもナデシコの利用が目的だったとしたら?もしもナデシコ本体ではなく、クルーの中に対象となる人物がいたとしたら?そんな被害妄想とも言える僅かな可能性が、ナナシの中で僅かな疑念を増幅させる。そしてもう一つ、ナナシの疑念を増幅させる要因があった。それは、あのジェフティという機体が持つ異常なまでのポテンシャル。単体でグラビティブラストの直撃にさえ耐えうる防御力。数百、数千という木星トカゲに囲まれた状況でさえ被弾することなく回避し続ける機動力。ディストーションフィールドを力押しで突破できるほどの火力。さらには瞬間移動すら可能とする『未知の力』を持つ謎の機体。そんな相手が万が一ナデシコの敵に回ってしまったとしたら。果たして自分は――『そんな相手からナデシコを守りきれるのだろうか?』その可能性に至った瞬間、ナナシの脳裏に嘗てのトラウマが蘇る。血の海に沈む両親。木星トカゲの群れに蹂躙される故郷。目の前で遺跡の中枢に組み込まれる妻。そして過酷な実験の末に失われた味覚。それは両親を、故郷を、妻を、果ては夢さえも……『理不尽な力』によって奪われた過去の記憶。それは楔となって打ち込まれた決して消えることの無い心の弱み。恐怖……そう『理不尽な力』な力に対する根源的な恐怖であった。(奪われる……俺はまた何かを奪われるのか)得体のしれない恐怖がナナシの心を覆う。人は恐怖に陥った時、悪い方へより悪い方へと思考が進んでいく。どうすれば『確実に』皆を救える?其処まで考えた瞬間、ナナシは自嘲しながら口元を小さく歪める。(はは……何だ、結局いつもと同じじゃないか)そう、その答えは既に知っていた。『想定され得る全ての脅威を拭い去ればいい』疑わしきは罰せよ、障害となる可能性があるならば全てを排除せよ。それはまさに嘗てプリンスオブダークネスと呼ばれた頃の考えそのものだったのだから。何故忘れていたのだろうか……いや、忘れていたかったのだろう、所詮自分が咎人という事実を。いつの間にか勘違いしていたのだろう、この嘗て失ったはずの温もりの中にもう一度戻れるかもしれないのだと。所詮自分は犯罪者。過去に戻ったところでその事実は消えはしない。澄んだ水に濁った水が混じってはいいはずがない。そう、自分はとっくの昔に失っていたのだ、このナデシコ(家)に帰る資格など。成りを潜めていたはずの黒い情念が再燃するのをナナシは感じた。どうせはそう遠くない未来に消えるであろうこの命。ならば再び泥を被ることに何の躊躇いがあろうというのか。(喩え皆にどんなに風に思われても……俺は)秘めた決意は唯一つ。嘗ては愛し……いや今でも愛している妻や娘、そして大切な友人達と同じ姿、形、そして心を持つ人達に敵意を向けられる結果になろうとも。喩え己自身の破滅しようとも。彼ら(彼女ら)だけは守り抜いてみせる、そう心に決めた。18話:歪められた決意「現在地ナデシコ上空、ゼロシフト成功です」「ふう、何とか上手くいったか。エイダ、機体の状態は!?」「ウーレンベックカタパルト移動中に圧縮空間の断層に接触したため左腕及び右脚が欠損、ベクタートラップが破損によりサブウェポンが使用不可能、制御プログラムにエラーが多数発生しています」「ボロボロだな。それで、坊主の方は?」「生体反応検知、機体は大破していますがお二人とも無事です」「ふう、まったく冷や冷やさせやがって」「あの状況下で全員が生存する可能性は1%を切っていました、まさに奇跡としか言いようがありません」何しろプログラム不全により実質使用不可能状態であったゼロシフトを無理やり使用したのだ。最悪、ウーレンベックカタパルトが作り出した圧縮空間の断層に機体が巻き込まれ、木端微塵に砕け散ってもおかしく無かったのだ。ましてや、単独でもそれほど危険性が高いというのに、エステバリスというお荷物を抱えた状態でゼロシフトが成功したのはまさに奇跡と呼んで差し支えなかった。「おい二人とも、ちゃんと生きてるなら返事ぐらいしろ」「は、はい……頭がくらくらしますけど、何とか生きてます」「ええ、こっちも何とか生きてるわ」頭を片手で押えながら弱弱しい声で返答すアキト。イネスも衝撃で意識を取り戻していたのか顔を顰めながら返事をしてきた。二人は気づいていなかったが、この時両者は鼻血を出しながら目が真っ赤に充血させていた。原因は慣性無効化能力が圧倒的にジェフティとエステバリスでは違い。ゼロシフトの際に発生したGをエステバリスの慣性無効化では処理しきれず、一瞬とは言え二人は大なGを全身に受けたのだ。実際な所、最悪場合圧死する可能性すらあったのである。「そいつは良かった。さっさとナデシコに回収してもらいな」「ディンゴさんは……どう、するんですか?」「俺はちょいと事情があってこいつから降りられねぇからな。このまま外で待機する」そう言ってディンゴはエステバリスをナデシコの甲板に降ろすと再び敵のいる方角に顔を向ける。どうやら木星トカゲもこちらに気付いたらしく、徐々に此方に向かって接近してきている。「その内ここも囲まれるな……くそ、ベクターキャノンが使えりゃ一発ブチかましてやるんだがな」アーマーンの圧縮空間の断層を利用したバリアでさえ貫通したベクターキャノンならば、戦艦クラスのディストーションフィールドがあっても容易に貫通できるはずだ。それにあれだけ敵が密集している今なら、かなりの数を一掃できるチャンスなだけにディンゴは少し残念がった。「ナデシコより通信をキャッチ、繋ぎます」敵の状況を確認していると、ナデシコから通信が入る。「艦長さんよ。約束どおり無事届けてやっ……うおっ!?」」口元を大きく歪めた笑み、所謂ドヤ顔で報告しようとしたディンゴだったが、通信画面を開いた瞬間、そこに映っていたものを見て思わず声を上げた。「ひっく、あ、ありが、とう、ごじゃいましゅ、ディンゴざん」映っていたのは、本当に二十歳の女性かと疑いたくなるほど涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしたユリカの顔。アキトとイネスが助かったという事実を認識した瞬間、別の意味で感情の抑えが効かなくなり一種の幼児退行を起こした結果であった。「ぼんどうに、もう、ダメかと、おぼってまじた」「分かった、分かったから取り敢えずその顔をどうにかしろ!?」声をしゃくり上げながら恥も外聞も無い顔でお礼を言うユリカに、流石のディンゴも照れたのか通信画面から視線を逸らす。画面の向こうでは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったユリカの顔を、ミナトがよしよしと慰めながら手に持ったハンカチで綺麗に拭いていた。暫くすると漸く感情の高まりが収まってきたのか、しゃくり声が聞こえなくなる。そろそろ大丈夫かと思ったディンゴが再度視線を通信画面に向けると、そこには若干目の周囲が腫れぼったくなっているものの、平静をとりもどしたユリカの姿があった。「あ~……とりあえずもう大丈夫か?」「すみません、ちょっと取り乱しちゃいましたけどもう大丈夫です」実際はちょっとどころでは無いが、そこは誰も突っ込まない。「もう時間が無い。早く逃げねぇと囲まれちまうぞ」「もちろん解ってます。後は任せて下さい!」溜め込んでいたいたものを一度全部吐き出したからなのだろう、彼女の顔は既に艦長の顔に戻っていた。アキト達があれだけ頑張ったのだ。ここからは自分が頑張る時間だ。そして彼女は大きく息を吸い込み、素早く指示を飛ばし始めた。リョーコさん、アキトとイネスさんの収容は?」「おうよ、今回収し終わったところだぜ!」嬉しそうな返事が返ってくる。その返答を受け取ったユリカは今すぐにでも格納庫に駈け出したい気持ちを抑え、即座に次の指示をとばす。「ディンゴさん、そのままナデシコの甲板に掴ってて下さい。ミナトさん、ナデシコを全速力でチューリップに向けてお願いします! 後方の敵に追い付かれる前に一気にいきます!」「は~い、お・ま・か・せ!」ミナトの掛け声と共に相転移エンジンが唸りを上げ、チューリップに向かって加速していく。殆どの敵がアキト達を追ってチューリップから離れているとはいえ、それでもチューリップの周辺には少なくない護衛が残っている。このまま無防備に突っ込めば、いくらナデシコのディストーションフィールドといえど防ぎきれる保証は無い。だが――「前方の敵陣にジャミングミサイル及び煙幕弾を発射! ミナトさん、多少視界が悪くなりますので注意して下さい」「大丈夫、これぐらい問題無いわよ」ナデシコから発射される無数のジャミングミサイル。そう、ウリバタケが資金を横流しして作っていた試作武器の一つだ。元々試作品として一本しか作っていなかったが、ナナシが使った事で十分効果があることが確認されたことにより、これは使えると判断したユリカがこの作戦の為に何本か作らせていたのだ。それにあくまで目的は火星からの脱出。敵を無理に倒す必要は無いのだ。如何に短い時間でチューリップに突入するか、これがユリカの考えた作戦の骨子であった。爆音と共にジャミングミサイルが着弾する。強烈な電磁波が木星トカゲを襲い、一時的に人工知能を麻痺させる。これが有人機であったならば何がしか反応も出来たのだろうが、無人機であるが故に完全な停止時間が発生する。時間にしてみればほんの数秒。だが、既に音速以上の速度に達しているナデシコにとっては十分距離を稼げる時間であった。「敵陣営から高エネルギー反応、人口知能が再起動したようです」「思ったより時間が稼げたみたいね。ウリバタケさん、例の奴お願いします!」「まかせときな! 少し勿体無いが命には代えられねぇからな!」敵陣営が立て直され始めたのを確認したユリカは素早く次の手を打つ。ウリバタケの返事と共にナデシコのカタパルトハッチが開き、黒い塊が射出される。「とほほ……帰ったら社長の小言が増えそうですね」その光景を見てプロスが疲れた溜息をついた。射出されたのは一機のエステバリス……の形をしたデコイだ。予備の部品でフレームだけ組み上げられ全身を真っ黒に塗られたそれは、背中に取り付けられたミサイルを推進剤にして敵陣に進んでいく。「敵がデコイに向かっています……うわ、凄い数」「むぅ、まさかこんな単純な方法が成功するとは……」あまりに単純な陽動作戦が成功したことにゴートが唸る。「相手が有人機なら絶対使えませんけどね。それに以前ナナシさんが活躍してくれたことが大きかったんだと思います。流石にナナシさんカラーのエステバリスは木星トカゲも無視出来ないはずですからね」木星トカゲ同士が何らかの方法で情報を共有していることはこれまでの経験で解っていた事実だ。ユリカはそれを逆手に取り、ユートピアコロニーで見せたナナシの戦闘力が敵に伝わっているということを利用したのだ。作戦は見事成功し、かなりの数がデコイに向かっていた。「こちらにも敵機より攻撃がきます、衝撃に注意してください」「ディストーションフィールは現状維持。速度を優先して下さい。同時に迎撃ミサイル発射。標的は敵のミサイルのみ狙って下さい!!」ナナシモドキのエステバリスが思ったよりも敵を惹きつけてくれたお陰で、想定よりも砲撃が少ないことにユリカは安堵した。チューリップまでの距離もあと僅か。このままいけば行ける、そうユリカが確信した瞬間。ガクンっナデシコのスピードが減速した。「何が――!?」そのユリカの問いに答えるかのようにルリから報告が入る。「艦長、左舷スラスターのエネルギーバイパスに異常が発生、緊急停止しました」「うそ、このタイミングで!?」今回の作戦の要はナデシコの機動性だ。その、前提条件がここにきて崩れ去ってしまったのである。だが、ある意味これは起こるべきして起こったことなのかもしれない。ナデシコは……ナデシコは優秀な戦艦過ぎたのだ。最新技術を盛り込んだ最新鋭の戦艦。聞こえは良いが、まったく新技術というとはノウハウの蓄積が少ない、或いはまったく無いことを意味している。さらにナデシコの場合、試作機を作って試運転すらする余裕すらなかったのだ。即ち、カタログスペック以外の情報が一切無いということに等しい。それでもナデシコは優秀な戦艦であるというこ疑うまでもない事実だ。たった四ヶ月とはいえその実績を事実を裏打ちしている。そして技術者は超一流も揃っており整備も他の戦艦と比べれば格段に良く、不具合らしい不具合も起きなかった。だからこそ、この局面に至るまでナデシコ自身が受けてきた負荷がどれほどだったかのか真に理解している者は誰もいなかった。たった四か月の間に数多の木星トカゲと戦闘し、ディストーションフィールドこそあったものの決して無傷ではない。特に火星に来てからのスペック以上に酷使されてきた結果、船体には目に見えないレベルの負荷が膨大に蓄積されていたのだ。もちろん、それに気付けなかったユリカを責める者は誰も居ない。今やユリカの艦長としての能力は誰もが認めるレベルに達している。それは通常の対応力はもちろん、これまでの経験を得てより想定外の事態への対処能力も一層高みに届いている。しかし、悲しいかな。それらは全て『外側』からのイレギュラーに対してのみであって、『内側』のイレギュラーに対してはまだまだ経験値が不足していたのだ。恐らく長い経験を持つ艦長ならば恐らくまず最初に自身が乗る戦艦の信頼性を調べた事だろう。だが、ユリカはこの何の実績も無い『ナデシコ』という戦艦を無条件に信頼し過ぎてしまっていた。その事実が最後の最後でツケとして回ってきたのだ。「敵陣よりバッタが多数接近中、このままだとチューリップ突入前に囲まれます」「――っ!?」入ってくる報告にユリカは奥歯を噛みしめる。彼女の名誉の為にいうならば、彼女の作戦は『外側』に対するイレギュラーに対しては完璧だった。そう、ただ『内側』に対するイレギュラーの想定が甘かっただけだのだ。「ったく、まだまだ詰めが甘いみたいだな」その場にそぐわない陽気な声がナデシコのブリッジに響く。そう、『内側』に存在する最大級のイレギュラーの存在の想定は彼女は甘かったのだ。「ディンゴさん?」「要は、あの石の化け物みたいな奴に突っ込めばいいんだろ」「は、はい」声の発生源は不敵な笑みを浮かべた男、ディンゴ・イーグリッド。何時の間に移動したのか、彼は今ナデシコのら後部に居た。「なら、話は速い。エイダ、サポートを頼むぞ!」「一体何を……」「なあに、ちょいとばかりこのじゃじゃ馬のケツを押してやるだけだ。そこの操舵士のねえちゃん、ちょっと荒れるかもしれんがちゃんと制御してくれよ!」その声と共にナデシコにジェフティの残った片腕が押し当られる。そして一瞬の溜めがあった後、バーニアから巨大なエネルギーが噴出された。「はいだらぁぁぁぁぁ!!」普通ならば僅か十数メートルの機体が持つ推進力が、全長数百メートルにも及び戦艦の推進力に匹敵する事等あり得ない。何より機体の強度が保たないはずだ。「凄い、本当に加速してます」「う、うそぉ」だが、ジェフティはその常識を覆す。嘗て暴走する何百メートルにも及ぶ列車を正面から受け止めた機体の強度。そしてメタトロンが生み出す膨大なエネルギー。その二つがそんな非常識を可能にしていた。「チューリップまで残り1000」「ディストーションフィールド出力最大、突っ込みます!」まるで弾丸のような速度でナデシコはそのままチューリップの口に向かって突っ込んでいく。「いっけぇぇぇぇ!」ディンゴ一際大きく吼えると同時に、ナデシコがチューリップの口に入り込み――――同時にナデシコから一機の黒いエステバリスが飛び出し、ナデシコを押しているジェフティに向かって体当たりを仕掛けた。「なっ!?」予想外の攻撃に回避が間に合わずジェフティはそのまま体当たりを食らってしまう。黒いエステバリス……ナナシはそのままジェフティを道連れにチューリップの口から外に飛び出していく。それに気付いたナデシコも慌てて引き返そうとするが時すでに遅く、亜空間の吸引力に捕まっていた。「ナナシさん、応答して下さい。どうしてそんなことを!?」「君達は行ってくれ。俺はここでやることがある」「一体何を……」通信越しにナナシの言葉がブリッジに伝わる「……こいつは危険だ。ナデシコに危害が及ぶ前に排除する」「な、何を言ってるんですか。ディンゴさんはナデシコを助けてくれた人ですよ!」「……今はそうかもしれない。けど、これからもそうかは解らない。奴の力は強大過ぎる……何かあったら俺の力じゃ止められない」まるで何かに取り憑かれているかのようにディンゴの危険性を呟くナナシ「一体どうしちゃったんですか、ナナシさん! 貴方は……貴方はそんなことをする人じゃ――」「――それは違うよ、ルリちゃん……」「え?」突然口調が変わったナナシに一瞬ルリは戸惑いを覚えた。「人を殺すことに躊躇はしない……俺はそんな人間だ」「え、人を殺すって……ど、どういう」混乱するルリ。今のナナシは何かがおかしい。明らかにこれまでの様子と違っている。「もう何も奪われたくない。だから奪われる前に殺す。ただそれだけだよ」「ひっ」通信機越しでも伝わる寒気を含んだ声にルリは小さく悲鳴を上げる。その声を聞いたナナシはバイザーで少し悲しげな表情を浮かべ、心の中で「これでいい」と呟いた。「ユリ……いや、艦長」「は、はい!」「ナデシコを頼む」その言葉を最後に通信は途切れ、同時にナデシコのクルーはそのまま意識を失うこととなる。完全にチューリップに取り込まれたナデシコはそのまま亜空間を漂い、七か月後再び通常空間に出現することとなる。ハキツバタによって発見されたナデシコのメインコンソロールはまるで滴を零したかのように薄く湿っていたという。火星チューリップから飛び出したエステバリスとジェフティは正面同士向き合い対峙していた。「で、どういうことか説明してもらおうか」「お前は……何者だ」-to be continued-