「ふう……もうこんな時間ですか」時計を見ながら漸く作業が終了したことを確認したルリは小さくため息をついた。時間は既に深夜、ブリッジには彼女の姿以外誰もいない。他のクルーも一部を除いて大半が眠りについている時間だ。普通に考えれば11歳という少女である彼女の既に眠りについていなければならない時間でもあるのだが、彼女にはそうできない事情があった。それは彼女がオペレーターという役職についているからである。このナデシコの中枢を司るメインコンピュータ『オモイカネ』はナノマシン強化体質という特殊な体質をもった彼女にしかアクセスすることができない――いやアクセスはできてもその能力を100%の能力を発揮できるのは彼女しかいないのである。そのため彼女の職務内容はは他の職員と比べてもかなりハードだ。今日もオモイカネのプログラムの最適化から航路の再調整などさまざまなことを行っているうちにいつの間にかこんな時間になってしまっていたのである。「それじゃあオモイカネ、おやすみなさい」「お休み、ルリ」オモイカネに就寝の挨拶をするルリ。そして少し眠たげな目を軽く擦りながら彼女はブリッジを出て自室へと向かった。外伝:妖精と黒い王子の秘密プロス推奨の省電力化ため昼間よりも少し薄暗くなった通路をルリは歩いていた。人気の無い通路。昼間ならば必ずといっていいほど誰かとすれ違うこの通路も流石にこの時間になると誰ともすれ違うことはなかった。(そういえばそろそろお腹が空いてきましたね……)真っ直ぐ自室に戻ろうと思っていたが、ふと小腹が空いたことに気づく。何しろ彼女が夕飯を食べてから既に5時間以上経過していた。そして何か食べるものがほしいと考えた結果、進路を変えるといつも使っている自動販売機コーナーへと向かった。(……?)自動販売機コーナーへ向かう途中、ふと耳に何かの物音が聞こえた。何事かと思い周りを見回してみる。するとシミュレーションルームから僅かに薄明かりが漏れていることに気づいた。(こんな時間に誰でしょう?)何しろ時間は深夜。昼間や夕食後には良くリョーコ達が使っているのを見かけたことはあるが、こんな時間にシミュレーションルームを使っているとは聞いたことがない。一瞬、ヤマダかアキトが秘密の特訓でもしているのかもしれないと思ったが、いくら彼らでもこんな時間まで特訓をしているとは思えなかった。誰もいないはずの時間にシミュレーションルームを使う謎の人物。そんな事実が目の前にあると誰が使っているのか気になるのが人の業というものだ。普段無感情なルリでさえも例外ではなかったらしく、彼女にしては珍しく好奇心が表情に浮かんでいた。シミュレーションルームに近づいていくルリ。そして彼女がスリットから僅かに光を漏らした扉の前に立つと、プシュッと空気が抜ける音と共に扉が開いた。ルリの視界に幾つものシミュレーション機が映る。その数は全部で6つ、パイロットの数に合わせた数が揃えられている。そしてその中のたった一つシミュレーション機だけがその仮想コックピットのカバーを下ろしていた。(これじゃあ誰かわかりませんね……)こっそり誰が使っているのかだけ確認しようと思っていたのだが、その目論見は残念ながら失敗に終わった。何しろシミュレーション機といってもより実践に近づけるため、その仮想コックピットはウリバタケの意匠を凝らされており、ほとんど本物と変わらず、振動やGも完全に再現されている代物だ。そのため、それを使っている人物の姿はカバーによって完全に覆われてしまっており、外部からの姿は勿論、音すらも完全に遮断してしまっているのである(どうしましょうか……)何か方法は無いかと辺りを見回してみる。すると部屋の隅に大きなモニターが設置されていることに気づいた。(そういえば観戦者用のモニターがありましたね)思い出したかのようにポンと手をうつ。そしてモニターのところに駆け寄るとスイッチを入れた。――その瞬間、閃光と共に爆発が起こった。いや、本当に爆発があったわけではない。それは画面に映っている戦艦が爆発した光景だった。しかし、その光景を映像と理解するまで数瞬を要した。何故ならその映像が余りにリアリティに溢れていたからだ。爆発した戦艦の破片の一つ一つ。発射される弾丸の一発一発。あちこちに漂っている隕石の表面の凹凸。それら全てが本物に見えるほど完璧に近い再現度だったのだ。シミュレーションの常連者は既にそのことを知っていいたが、今までシミュレーションルームには来たことが無かったルリはそのことを知らなかったのである。「この人……馬鹿ですか?」しばらくして落ち着いたあと、画面の右端に移るシミュレーションの設定画面を見て思わずそう呟いた。その理由は、画面の右端に表示されている現在行われているシミューレション戦闘の設定内容。敵機:バッタ865機、無人艦7隻、突撃艦3隻、チューリップ1機。友軍機:エステバリス1機。勝利条件:敵機の全滅。そう、この余りに馬鹿げた内容に思わず呆れてしまったのである。画面の隅に表示されている経過時間を表すカウンターを見たところこの戦闘は開始されたばかりのものらしい。ちょうどたった一機のエステバリスが無数のバッタに囲まれているところだった。(これじゃあ一分も持ちませんね……)その光景を見て、そんな予想をしてみる。だが――そんな自分の考えは直ぐに打ち消されることとなった。開始1分、バッタの約半数が消滅、戦艦1隻が撃破。2分後、バッタの8割が消滅、戦艦4隻が撃破。3分後、バッタは全機撃破、戦艦6隻撃破。そして4分後には遂にチューリップにトドメを刺したエステバリスの姿が映し出されていた。「うそ……」開いた口から自然と声が漏らしていた。それだけ目の前で起きているは光景は現実味を欠いていたのである。「一体……誰が?」自分の知識の中にもこれだけの腕をもったパイロットはナデシコには存在しない。いや、それどころか地球軍の一流と呼ばれるパイロットでさえこんな非常識な腕を持った人物はいなかった。いてもたっても居られなくなり思わずそれを実行した人物の名を確認する。(え……?)そこに表示されていた人物の名前は自分にとって予想外の名前だった。プレイヤー:ナナシ。それがそこに表示されていた人物の名前である。だが、自分にはどうしてもその名前と目の前の戦闘を行った人物の姿が一致しなかった。ナナシという人物は服装こそ全身真っ黒なコスプレ紛いの衣装というかなりの異彩を放っているものの、それ以外は少し不気味な雰囲気のする地味な人物というイメージが自分にはあった。エステバリスの戦闘では常に後方からの支援を行い、前に出ることは滅多に無く、艦内でも基本的に自室に居ることが多い。一応は警備員という役職らしく、見回りをしている時に廊下ですれ違うのを見るぐらいであった。とその時、背後でガコンッと音が響く。慌てて振り返ると、そこには仮想コックピットから出てくるナナシの姿があった。気配を感じたのか、こちらを振り向いたナナシ。自分の視線とバイザーの奥に見える彼の視線が交錯した。(――――!?)その瞬間、背筋に冷たいものが通りぬけたのを感じた。同時に腰から力が抜け、その場に尻餅をついてしまう。理由はわからない。何故だか分からないが、彼と視線が合った瞬間わけの分からない圧迫感を感じたのだ。「大丈夫か?」が、その圧迫感も次の瞬間には消えてしまっていた。彼は尻餅をついたルリにゆっくりと近づき、手を差し伸べるとそのまま彼女を抱き起こす。「あ……」思わず赤面してしまう。何しろ彼がしているのは片手を膝の裏に、もう片方の手を背中にしている……所謂お姫様抱っこというやつなのだ。今までまともに異性に触れたことがない彼女には少し刺激が強かった。しかしナナシはそんな自分の反応を気にした様子もなく、そのまま備えつけの椅子まで運ぶとそのままゆっくりと自分を座らせる。余りの反応の無さに何故だか分からないが憤慨を覚えた。まあ、彼にしてみれば自分はまだ子供にしか見えないのだろうが、もう少し気を使ってくれてもよいと思ったのである。「どうしてこんな所に来たんだ? 子供はもう寝る時間だぞ」「自室に帰る途中、たまたまシミュレーションルームから音が聞こえてきたのに気づいたので、不審者が居ないか確かめにきただけです。 それに私子供じゃありません、少女です」先ほどの仕返しとばかりに、少し皮肉を込めて返す。子ども扱いされたことに珍しく自分が感情的になっているのを感じた。「なるほど……それで不審者は見つかったのかな?」「はい、敵の大軍をたった一人で打ち倒すような怪しい人を見つけちゃいました」その言葉を発した瞬間、目に見えてナナシの態度が変わった。「……見たのか?」「はい、最初から最後までばっちりと」普段無表情な彼の表情があからさまに歪む。というより明らかにうろたえていた。「……くっ、油断した……まさか彼女にばれるとはな」「私にばれるとまずいんですか?」「――!?」余程動揺しているのだろう。考えていることが言葉に出てしまっていることに気づいていなかったらしい。そのことを突っ込んでやると面白いように反応した。(思ったよりおっちょこちょいな人ですね……)暫く顔色を目まぐるしく変えながら、何かを考えているナナシを見ながらそう思った。普段無表情で地味なイメージがあっただけに余計にそう見えてしまったのだ。「すまないが今日見たことは皆に秘密にしてくれないか?」そして漸く落ち着いた様子に戻ると、いつものように無愛想な表情をしながらとそう頼んできた。だが、先ほどの痴態を見ていただけにシュールにしか見えなかったのは彼女だけの秘密である。「どうしてですか?」彼の頼みに思わず疑問を返す。何しろあれほどの実力だ。彼が本気を出せば、ナデシコの戦闘力は今の数倍に引き上げられることだろう。「そうだな……しいて言えば極力手の内を敵に見せたくないからだな」そう言って彼は少し思案気な表情を浮かべた。「敵……といのは木星蜥蜴のことですか?」「ああ、そうだな」「ですが私達が戦っているのは意思を持たない無人兵器です。どうしてそこまで警戒する必要があるんですか?」確かに敵に手の内を見せたくないのは分かるが、警戒しすぎではないかと思った。「そうだな、では逆に聞くが木星蜥蜴と呼ばれる敵はどれほどの知能を持っていると思う?」「あれほどの無人兵器を作れるほどですから、地球人と同等、もしくはそれ以上のものを持っているんじゃないでしょうか」「ではそれほどの知能を持った木星蜥蜴はどうして敵地である火星に向かうナデシコに対してこれほど断続的な攻撃しかしてこない理由は何なんだろうな?」「それはもちろん……」そこまで言われて彼の言わんとしていることを漸く理解した。「そうだ、つまり敵もこちらの能力を測っているというわけだ」そう言って彼は良くできましたといわんばかりに自分の頭を撫でる。そのごつごつとした手に似合わぬ優しい手つきに、妙にくすぐったさを感じた。「貴方の言いたいことはわかりました。ですが何故それも皆に言ってあげないのですか?」「それはこのナデシコのクルーの『覚悟』がまだまだ足りないからだな」「え、それはどういうことですか?」現在でも既に何度も木星蜥蜴と戦っている。そのクルーに一旦何の『覚悟』が足りないのだろうか?「ルリちゃん、さっき君は木星蜥蜴が地球人と同等以上の知能をもっているといったね」「はい、確かに言いましたが……」一瞬、彼の『ちゃん』付けされたことに驚きながら、そう答える。「では、その木星蜥蜴がもしも自分達と同じような姿をしていたとしたらどうする……いや、それどころかまったく同じ姿をしていたら?」「……どういう意味ですか?」「今俺達が戦っているのは確かに無人機だ。だがその戦っている相手がもしも有人機になったら……ナデシコはどうするんだろうな?」「あ……」今、ナデシコが何の躊躇も無く戦える理由の一つに相手が無人機ということがある。機械には命がない。それ故に相手を殺してしまうという躊躇が存在しないからだ。だが――それがもし相手にパイロットがいると知ってしまったらどうなるだろうか?しかもそれが自分達と変わらぬ姿をしていたら……。「そう、だからこの事はまだ皆には言えない。このナデシコのクルー、特に艦長やパイロットには相手を『殺す』という覚悟が足りてないからな」どこか悟ったような口調でナナシはそう述べた。だが、その口調の中に僅かに含まれる悲しみに今のルリは気づくことはできなかった。「どうして……」「ん?」「……どうしてそんな重大な事を私になんか話したりなんかしたんですか?」今彼が話したことはこのナデシコの今後の存在危機にも繋がる事実だ。そんな重大な事を自分に話した彼の考えがわからないのだ。「君は――からな」「え?」彼の口から僅かに呟きが漏れるだが、余りに小さな声のためはっきりと聞き取ることはできなかった。「いや、なんでもない。まあ特に理由は無い。君に話したのは気まぐれとでも思ってくれればいい」「それじゃあ納得できません」「そう言われてもそうとしか言いようが無いな」「話してくれないなら、さっき見たことも聞いたことも全部皆に話しちゃいますよ」「ふむ、それは困るな……」口ではそう言いながら明らかに困った表情をしていない。ナナシはそのまま何かを考えるように顎に手をあてていたが、何かを思いついたのかポンっと手をうった。「わかった、それなら交換条件としよう。俺が知っている君の隠している秘密を誰にも言わない代わりに君も俺の言った事を誰にも言わない。これでどうだい?」「私の秘密? そんなこと貴方が知っているわけ――」「夜食の食べすぎは体に良くないと思うがね」「――!?」そう言ってナナシは唇と軽く歪めニヤリと笑った。「ナノマシン強化体質をしている者は常人よりもカロリー消費が激しいと聞く。特にIFSを使った作業をした後などはよくお腹が空くのだろうな」「えっ……ど、どうして……」淡々と語るナナシ。そんなまさかという言葉が頭をよぎる。頬を冷や汗が流れ、顔から血の気が引いていくのがわかった。「一見小柄な少女が夜な夜な大量に食事を抱えているという事実を皆が知ったら……」「どうして……貴方がそれを知ってるんですが!?」そこまで言ったところで震える声でそう叫んだ。その事は今まで誰にもばれない様に細心の注意をしてきたのだ。わざわざ誰もいない時間帯、夜中にわざわざオモイカネに周囲に人が居ないかを索敵させてまで隠してきた事実なのだ。それをどうして彼が知っているというのか。「ふむ、やはりそうだったか」だがそんな自分の問いに対して返ってきたのは、いかにも納得したといった表情をした彼のそんな言葉だった「ま、まさか……」「いやなに、この間たまたま自動販売コーナーの商品を補充している職員から朝に補充したカロリーバーガーの次の朝にはほとんど無くなっていることが偶にあるという話しを聞いてね。まさかと思ったが……案外言ってみるものだな」「そんな……」やられた。はめられた。そんな言葉が頭の中を埋め尽くす。そう、この男は初めから自分に鎌をかけていたのだ。そして自分はそんな男の口車にまんまと乗せられ、自ら自分の秘密をばらしてしまったのである。羞恥心が一気に湧き上がってくるのを感じた。恐らく今の自分の顔は顔がリンゴのように真っ赤になっていることだろう。「まあ、心配しなくても君が今日のことを誰にも喋らなければ、俺もこの事を誰に喋らないさ」「……わかり……ました」真っ赤な顔で俯いたまま、彼の言葉に肯く。恥ずかしさと悔しさで彼がまともに見れなかった。「良い子だ……早く部屋に戻って休むといい。子供はもう寝る時間だ」「……」先ほどまでの意地悪さが嘘のように優しい声でポンポンと頭を叩くナナシ。その彼の言葉に従い無言で立ち上がろうとする。「え……?」が、立ち上がれなかった。「……どうした?」なかなか立ち上がらない自分を見たナナシが不思議そうな表情をしながら問いかけてくる。だが、いくら椅子から立ち上がろうとしても腰に力が入らなかった。「まさか……まだ腰が抜けたままなのか?」暫くそれを見ていたナナシが漸くその事に気づいたのか確認するかのようにそう問いかけてくる。だが、返事をしようにも再び湧き上がってきた羞恥心が邪魔をしてできなかった。「ふむ……仕方ない」唐突にナナシが動く。「え、ちょ、ちょっと……何をするつもりなんですか?」同時にフワリと体が浮き上がる自分の体。「自分で動けないなら誰かに運んでもらうしかあるまい?」無愛想な表情でそう述べるナナシ。そんな彼の太い腕は自分の背と膝の裏に回されている。そう、自分は再び最初と同じように彼に抱き上げられていた……お姫様抱っこで。「心配せずとも何もしないさ」そう言ってくるナナシに何か言い返そうとと思ったが……やめた。ルリを抱えたナナシはゆっくりとシミュレーションルームを出る。歩いているはずなのにほとんど振動を感じないナナシの歩み。(暖かい……)分厚い胸板が頬に当たるのを感じながらルリは急速に眠気が襲ってくるのを感じた。そしてそれから数分後。薄暗い廊下には少女の寝息が響いていた。__________________あとがき8話に行く前にナナシとルリの関係の一部を捕捉。