ナナシが運び込まれた緊急措置ルームの赤いランプの光が消える。ゆっくりと扉が開き、中から治療に当たっていた人物、イネス・フレサンジュが姿を現した。ちなみに何故彼女が治療していたのかというと、彼女が偶々医師としての資格をもっていたことと、彼女自身が彼の治療役に立候補したからだ。「ナナシさんは大丈夫なんですか!?」扉の前で待ち構えていた十数人のクルーの中から一人少女が一歩前に出てそう叫ぶ。そう、このナデシコのクルーの中でもっとも彼を心配していたルリである。普通ならばオペレーターの彼女がこんな非常時にブリッジを離れるなどといったことはあってはならないのだろうが、彼女の心情を察した他のブリッジクルーがそれを黙認していた。「……とりあえず結果だけいうわ。彼は無事よ」イネスそんな少女に対して一瞬間を空けたあと、淡々と結果だけを述べる。「よかった……」「よかったわね、ルリルリ」その言葉を聞いた瞬間、目に見えて安堵するルリ。そしてその彼女を笑顔で抱きしめながら一緒に微笑むミナト。周りのクルーも同様らしく、今まで心配そうな表情が嘘のように消えてしまった。だが――。「よかった? 貴方達、本気でそう言っているの?」――そんな彼女達に向かって放たれたイネスの言葉冷たかった。「どういう意味ですか?」「どういう意味って……あれだけ心配していた彼の事を何もしらないのかしら?」その言葉に全員がハテナ顔を浮かべる。唯一ナナシと親しいルリでさえ、心当たりはあるもののその詳しい彼の容態までは知らなかった。「そう、知らないのね……いえ、もしも知っていたとしたらそんなに冷静で居られるわけないわね」そんな彼らを見渡し、イネスはその表情を痛ましいものへと変えた。あの自らが乗っている戦艦が落とされるかもしれないという時でさえ、表情をほとんど変えなかったあのイネスがである。「なら教えてあげるわ」そして彼女は告げようとした。何も知らぬ者達へ彼の体に関する事実を。「彼の体はナノマシ――」だが、それは遮られることとなった。「――そこまでにしてもらおうか」そう、いつの間にかイネスの背後に現れた他ならぬナナシ本人によって。8話:優しい嘘「ナナシさん!」目の前に現れた人物の姿を確認した瞬間考える前に体が動き、彼の元に駆け寄っていた。「大丈夫なんですか!?」彼の顔を見上げるように涙目でそう叫ぶ。「ああ、もう大丈夫だ。心配をかけてすまなかったな」彼はそんな自分にそう答えると、頭に手をそっと乗せ優しく撫で始めた。「本当に……グスッ……もう大丈夫なんですか……?」頭に暖かな感触を感じながらも再度問い返す。見上げた彼の顔は既にあふれ出した涙で半分ぼやけていた。「ああ、本当にもう大丈夫だ」「……ヒック……嘘です……あの時も……大丈夫だからって医者には見せなくていいって……私に言ったじゃないですか……」あの時と同じ、自分を安心させようとする彼の言葉。だが、今回はその言葉を否定した。「……今度こそ本当に大丈夫だ」「信じられません……今度は本当の事を教えてもらいます!」そう、あの時もそう言われて誤魔化されたのだ。だからこそ本当の事を言ってもらうまで引くつもりはなかった。「……」自分の強い視線を受けたナナシも答える言葉が見つからないのか困った表情を浮かべている。ただ、それでも彼は撫でる手を止めることはなかった。「……わかった」暫く困った表情を浮かべていたナナシだが、漸く観念したのか遂に肯定の言葉を出した。「本当……ですか? 嘘じゃないですよね?」「ああ」しつこく何度も確認する。ナナシも本当に観念したのかそれに答えるかのように何度も肯いた。「じゃあ、答えてください」「わかった。だが、俺が答えても本当かどうか保証は無いからな。ここはイネスさん、貴女が教えてやってくれ」瞬間、自分の視線と共に周囲の視線が一気にイネスに集中する。そのイネスも唐突に話を振られたことに一瞬だけ驚いた表情を見せたが、直ぐにナナシに意味深な笑みを返した。「それならさっき貴方が言うなって止めたところじゃないかしら?」「それは……あの程度の事で皆に余計な心配をかけたくなかったからだ」「あら、あれが貴方にとってはあの程度で済むことなのね。 というより……その体でよく動けるわね」「ああ、少し体が疲れていただけだからな」二人の間で交わされる何の変哲もない会話。得に変わったところはないはずなのに、何故かルリには違和感を感じた。「……」「……」暫く無言のまま見詰め合う二人。「はぁ、わかったわ……」そしてその短い沈黙の後、イネスは小さなため息と共に返事を返した。「星野さんだったわね、彼の容態を教えてあげるわ」イネスはナナシに向けていた視線をこちらに向ける。そして少し笑みを浮かべながらこう告げた。「彼の容態はね……単なる極度の過労よ」「……え?」予想外の答えに一瞬ポカンとした表情を浮かべる。極度の疲労。彼女の聞き間違えで無ければ、確かに目の前の女性はそう言ったのだ。「だ、か、ら、極度の過労って言ってるのよ」そんな自分にイネスはもう一度念を押すように伝える。「そ、そんなわけありません! 今時過労であんなに酷くなるなんて聞いたことありません!」「あら、たかが過労だからって嘗めたらだめよ。いえ、寧ろ下手な病気よりもよっぽど怖いわね」「でも、だってあんなに血を出してたんですよ!」コックピットから運び出されていた時の彼の容態は、素人目にみても過労などではなかった。そう……たかが過労ぐらいであんな風になるとは思えなかったのだ。「ちゃんと納得のいく『説明』をしてください!」だから思わずそう叫んだ。そう、私はその時何も考えず目の前の女性に対して『説明』を求めてしまったのだ。「それを今から『説明』してあげるわ」その言葉を聞いた瞬間、イネスはにっこりと笑顔を浮かべそう答えた。そして彼女はゆっくりと、いや寧ろ活き活きとした表情でナナシの病状を『説明』を開始した。「まず彼があんなになった原因、それは通常では考えられないほどの極度の過労……肉体的だけではなく精神的なストレスもの双方を相当溜め込んでたことが原因だと思われるわ」どこからとも無く取り出された薄板に彼女は手馴れた手つきで文字を書き記していく。「特に他の病気と違って過労という症状は本人が自覚することはあまりないのよ。というより本人が気づかない内に疲労が溜まった結果それが一気に吹き出た結果起こる症状といっていいわ」もう片方の手に何時の間に取り出されたのか短い棒。「そして今回の彼の場合、胃に穴が空いただけで済んだけど、最悪の場合、心筋梗塞、脳出血、クモ膜下出血、急性心不全、虚血性心疾患などの脳や心臓の疾患が原因で死に至る可能性だってあったのよ。何しろとある勤勉で良く働く国の中高年男性に一時期その過労死が多発してね、その国のライフスタイルの代名詞が過労死ともなったほど――」そして最後に頭には何時の間にかぶったのか小さな学者棒が彼女に装備されていた。そう、既にそこには先ほどまでの冷静沈着なイネスではなかった。今、そこにいるのは『説明』しながら恍惚とした表情を浮かべている別の何か。嬉々とした表情で『説明』をし続ける別の生き物がそこに居た。(……この人、誰ですか?)何か得体の知れないものを見るかのような目で目の前にいる女性を見る自分に気づく。どこか恐怖にも似た感情を覚えて、近くにいたナナシの体に何時の間にかしがみ付いていた。----------------「――ということよ」約十数分たった頃、漸く彼女が『説明』を終える。「って貴女、ちゃんと聞いてるのかしら?」だが、その彼女の説明の後半部分はほとんど頭に残っていなかった。普通ならばその程度の時間の説明など慣れていたはずなのだが、途中から彼女の説明は耳に入った瞬間もう片方の耳から抜け出ていっていた。「どうもわかってないみたいね。なら、もう少し詳しく説明を――」「いや、十分解かったからそれ以上はいい」反応の無い皆を見回しながら、もう一度説明を開始しようとするイネスを寸でのところでナナシが止める。その言葉にいつの間にか正気戻っていたクルー達も同調するように首を縦に振っていた。「あら、残念」本当に残念そうにそう呟いている。余程説明の続きがしたかったらしい。「さて、これで君も納得してくれただろう」「……はい」こちらを振り向きながらそう聞いてくるナナシに少しの間を置いて肯定の返事を返す。確かに記憶に残っている部分を検証してみれば、イネスの言っていた説明は理にかなってはいた。が――。(やっぱりまだ何か隠してます)それでもやはり心の奥底では納得しきれなかった。確かにイネスの説明は理に適ってはいたし、嘘らしい嘘も見当たらなかった。事実、ナナシが夜中に行っていた訓練は自分の素人目に見ても相当激しかったのを記憶している。しかし、それでも自分の中の何かがそれだけが全てではないと言っていた。自分の直感とも言える部分がそう感じていたのだ。(それに……あの時の言葉も気になります)そう、そして何より気になるのがナナシが途中で遮った彼女の言葉。あの時、自分の聞き間違えでなければ確かに彼女は『ナノマシン』という言葉を使っていた。(でも、どうしてナノマシンが?)だが、自分の知識にナノマシンが原因であのような症状になるといった知識は無い。何しろ現代ではナノマシンはほぼ完全に実用化され、よほど過剰に投与されない限りは人体に対して害を与える可能性もほぼゼロに等しいといっていい。実際、自分の血中にも常人を遥かに超えるナノマシンが含有されているが、それでもお腹が良く減るぐらいでそれ以外の弊害を感じたことはなかった。(やっぱり、気のせいなんでしょうか)実は本当にナナシの症状が単なる過労という可能性も否定できないのだ。いや、それどころか今のところその可能性が一番高いといっていい。自分の嫌は予感は単なる気のせいである可能性の方が十分にありえるのだ。「ところで一つだけ聞きたいんだが……」考えが纏まらない。そう思った時、ふと何かを思い出したかのようにナナシが自分に何か問いかけてきた。「はい、何でしょう?」「どうして俺は無事なんだ?」それが彼の問いかけてきたことだった。「確かにあの時俺が助かる可能性はほとんどゼロだったはずだ。それに俺が生きているのに何故ナデシコまで無事なんだ?」まったくわからないといった表情のナナシ。それを見て、そういえばまだ誰も彼に事情を話していない事実に気づく。「あ、はい。えっとナナシさんが生きているのはヘンリーさんのおかげです」「ヘンリー? 誰だそれは?」ヘンリーという名を聞いたナナシは、何やら訝しげな表情をしながらそう聞き返してくる。「正体不明の謎の助っ人おじさんです」「……なに?」ヘンリーについて簡潔に述べる。その自分の答えを聞き、ナナシはますます表情を訝しいものへと変える。確かに今の自分の答えではわからないかもしれないが、これ以上詳しく説明しようにも、情報がほとんどないのだ。「……そのヘンリーとかいう人は今どこにいる?」「現在ナデシコと並走飛行中です」初めはヘンリーの機体をナデシコの収納しようという案もあったのだが、サイズがサイズだけにその案は見送られた。ちなみにウリバタケが『うおぉぉ、分解してぇぇぇ!』等と叫んでいたが、それは当然の事ながら無視された。「わかった……とりあえずそのヘンリーとかいう人と話がしたいんだが、できるかい?」「はい、別にそれは問題ないと思います。今ブリッジで皆さんが謎の人物さんと会話しているはずですし」ちなみに現在ブリッジ残っているのはユリカ、フクベ提督、ジュン、プロス、ゴートの5人。そしてその中でもプロスが率先して謎の人物に対して必死の交渉をしている所である。交渉の内容はもちろんナデシコの護衛……そしてあわよくばあの機体に使われている技術を回収できないかと企んでいるのであろう。「そうか、なら話は早い」「今から行くんですか?」「ああ」「でも、過労で倒れた所なんですよ。もう少し休んでおいた方がいいんじゃぁ……」「いや、今は非常時だからな……火星から脱出したらゆっくり休ましてもらうさ」そう答えて早足にブリッジへと向かおうとするナナシ。「あ、待ってください」とそれを追いかけていくルリ。後にはそんな二人の雰囲気に押され何も話せなかったクルー達と何やら呆れた表情で二人を見つめるイネスが残されていた。_______________________あとがき今回はナデシコパートさて、次回はいよいよディンゴとナナシの対面です(予定)