□■火曜-A面■□
日本にわざわざお城を用意してしまうような貴族のお姫様に簡素な料理を何度も出すのは、さすがの士郎も気が進まない。そんな気持ちとは裏腹に、イリヤスフィールはそれなりに喜んでいた。彼女の場合、料理が美味しいのはもちろん喜ばしいことであるが、それ以上にエプロンを装着した士郎がキッチンに立つ姿がなぜだか嬉しいらしい。そんなわけで、イリヤスフィールは昨日の不機嫌もどこ吹く風と、楽しげに士郎の背中を観察していた。
「昨日よりはマシだと思う。……いや、あんまり変わらないか」
そう言って、士郎は朝食を机まで運んできた。今日は蕎麦。昨日調達してきた小型のガスコンロが料理の幅を大きく広げた結果だった。ただ残念なのは、物を冷やすための氷が手に入らないこと、そして水を贅沢に使えないことだ。今後はもう"湯水のように"という言葉は成り立たないな、と士郎は自分を戒めた。昨晩、湯水のように水を使って風呂を満喫したイリヤスフィールのことは敢えて忘れておく。
生ぬるい蕎麦を二人でずるずると啜ってから、さて今日も労働にいそしむか、と士郎は家を出る。イリヤスフィールも再びメルセデスに逃げ込む算段らしい。
二人して長い階段を一段一段下る。
「ねえ、シロウ」先を行くイリヤスフィールが、軽く首だけで振り向いて尋ねた。「人がいなくなったんだから、もっといい部屋に住めばいいのに」
「あ、階段辛かったか? だったら」
「ううん、面倒ではあるけど辛くはないわ」
「面倒といえば、忘れ物すると大変な目にあうんだよな……」
士郎は一度、階段を降り切ったところで弁当を忘れていたことに気付き、悔しい思いをしながら階段を上ったことがあった。その途中、下りてくる美希とすれ違い同情されたのはまだ記憶に新しい。他にはガスの元栓、鍵、窓、電灯などが気になり始めると悲惨なことになることも経験から学んでいた。
「でも、階段より引っ越しの方が面倒じゃないか?」
「どうして? 面倒なのは士郎だけでしょ?」
そーですよねー。
貴族は自分で引っ越しの作業なんて行わないものなのです。加えて、あの部屋は士郎自身の部屋なのだ。
「いいわ、そんなに気にしないで。そろそろ見飽きてきたから言ってみただけ」
「飽きるほど住んでないだろ」
そもそも住居に見飽きるも見飽きないもないだろうに。いや、でもイリヤにとっては観光地みたいなものなのか。なら見飽きるというのも分からなくないな。
そんな風に士郎は勝手に一人で納得していた。
「さて、今日はイリヤはどうするんだ?」
一階にたどり着き、今更ながら士郎は尋ねた。何となく一緒に家を出て来たが、イリヤスフィールが食料確保の活動に参加すると言ったわけではない。昨日の協力とて暇つぶしの一環のようなものだったろうし、士郎にしても食料の仕分けとダンボール詰め程度の作業にイリヤスフィールのを煩わせるのもどうかと思う。
「わたし? そうね……シロウは忙しいんでしょ?」
「いや、忙しいってほどじゃないと思う。昨日集めた分を適当に箱詰めして配り歩くだけだし、それにしても人数は多くないから、島と分担すればすぐ終わるはずだ」
「ふぅん、そうなんだ……」イリヤスフィールは少しだけ考えるような間を置いてから、「じゃあそれが終わったら一緒に遊ぼ、シロウ」
「遊ぶって……」
このような異常事態下にありながら遊ぶという発想が出るあたり、士郎にとっては相当な驚愕に値したのだが、当のイリヤスフィールは何でもないような顔で返事を待っている。
もしや自分は気を使われているのか、それともこの少女も見えないところで相当にストレスをためてしまっているのか。士郎はいろいろ考えた後に、時間稼ぎでつなぎの言葉を出す。
「でも遊ぶって言っても何もないぞ」
丘という名の山を隔ててこちら側は住宅地なのだ。それを越えるか迂回するかしなければ、町として発展した地域には届かない。体力や時間を消費しなければ、遊ぶことのできる町には行けないのだ。よしんば距離の問題を自動車で解決したとしても問題はまだ残る。士郎は山の向こうの都市に行ったことがないので、案内すらできないのだ。イリヤスフィールの喜びそうな人形店などがあったとしても、そこにたどり着けもしない。
少なくない越えるべきハードルを士郎が示して見せたところ、しかしイリヤスフィールは、
「調査がてら街を回るのだって、二人でなら楽しいんじゃない?」
障害物があるなら迂回すればいいじゃない、と簡単に解決策を示して見せたのだった。
これが赤いあくまなら、華麗に飛び越してやるわ、などとのたまいそうだ。虎ならば、ハードルなんて薙ぎ倒して進めばいいじゃない、なんて滅茶苦茶言うに決まってる。弓道部の長になりリーダーシップを手に入れ始めた妹分の後輩なら、二人で一緒に頑張りましょう、と口にしたかもしれない。
「―――わかった。だったら、午後から一緒に荷物配りながら見回りしてみるか」
「うん」弾むような声でイリヤスフィールが言った。「じゃあ特別に、今日も車を出してあげる」
言うやいなや、イリヤスフィールは駐車場へと駆けて行った。士郎も少しだけ足を速めて、その後ろ姿を追う。
イリヤスフィールは夏の蒼天下でも着衣に一切の油断はなく、白い肌の露出は極端に少ない。だというのに見ていてそれほど暑苦しくないのは何故だろう。風にひらりひらりと揺れるスカートのせいか、それともきらきらと輝く銀糸の髪がそう感じさせるのか。
地獄の釜のような状態になっていたのだろう、車のドアを開いたイリヤスフィールがまるで猫扱いされたときみたいな顔をした。士郎はそれを見て、笑いながら少女に近づいた。
■
教室の中に人の気配を感じて、というより単純に人の話し声が聞こえて、士郎はスライド式の扉を開いた。
「もうやめて! 俺のライフはゼロよ!!」
「うるさい! 死ね、この変態!!」
太一がボコられてた。
殴り飛ばされ宙を舞う後輩と目が合ったので、士郎は扉を閉じた。
「…………」
ビシッ。バシッ。ビンタッ。メメタァ。グシャ。
数えればきりがないほどの打撃音たちが壁越しに響く。短い合宿期間中に幾度となく太一の周囲で聞いた音なので、士郎もおぼろげながら理解していた。これは彼なりのコミュニケーションなのだろう。群青学院の生徒である以上、蝋燭と鞭を使ってコミュニケーションしていようと正常なのだ。
そんな風に偏見に満ちた理解が深まっている間に、教室内の争いは激化したらしい。耳に届く音がより一層激しくなった。
先ほど太一と目が合ったとき、俺達の蜜月を邪魔するな、と言われた気がして士郎は扉を閉じたのだが、もしやあれは助けを求める視線だったのか。
慌てて扉を開く。
「……ッ!?」
何かが飛んできたので、士郎は咄嗟に扉を閉じる。が、人間の反射の速度では間に合わなかった。本来ならば防壁として働いていたはずの扉は残念ながら期待された役目を果たすことなく、しかし、代わりに真剣白刃取りのごとき神業を見せた。要するに、挟んで止めたのだった。
「……すまん」
被害者は陸に上がってしばらく経った魚のようにぴくぴくしている。謝罪の声も聞こえてはいまい。ただの屍一歩手前である。しかし、原理は不明だが、太一の言う"コミック力場"なるものが働いた結果の悲劇は、放っておけばなかったことになる傾向にあることを士郎は学習していた。たぶん矛盾を嫌う世界の修正力か何かが働くのだ。そして、その力は決まって誰も見ていない時に発動するので、士郎は発動を促すために足もとの惨劇から目をそらした。
伽藍とした教室には、図らずとも士郎と共犯という形で太一を始末することになった少女が一人。
桐原冬子だ。
数秒前まで凄まじいキラーエイプぶりを発揮していたとは思えないほど涼やかな顔で、窓の外をつーんと眺めている。あからさまに他者を拒絶する姿勢を前に、士郎は困った。このような状況における第三者の適切な行動など知らない。
なにも見なかったふりをして去るというのが一番魅力的だが、それは今さらだろう。だからといって仕留めた獲物のように太一を引きずって撤退するのもおかしな話だし、こちらを見ようともしないお嬢様に話しかけることができるのは勇者だけだ。
一人で三竦みしているみたいに嫌な汗をかいている士郎を救ったのは、くぅ、という音だった。飢餓収縮。いわゆる腹の虫。くぅくぅお腹が、というヤツである。発生源は士郎でも太一でもなく、窓際で頬を赤くする少女。
「まあ、運動すればエネルギー消費するもんな」
「―――ッ!!」
独り言なのかフォローなのかよく分からない言葉は、静かな環境が災いして冬子の耳に届いてしまった。真赤な顔が、首を捻挫しそうな勢いで士郎へと向いた。
時刻は正午まで一時間近くを残している。朝食をとるのが早かったのか、それとも太一を張り倒すのはそれほど重労働だったのか。
だが、士郎に冬子をつつく意図はない。あくびと同じような仕組みで空腹も伝播するのかもしれない。朝食を軽いもので済ませ、つい先ほどまでずっと食料関係の労働を続けていたことも原因の一つだろう。士郎もそろそろ小腹がすいてきたのを自覚していた。
「そうだ。二人とも、昼食まだなら一緒にどうだ? ちょうど昨日集めた食料の整理が一段落ついたとこなんだけど」
暗に、食料はたくさんあるぞ、と言ってみる。
「…………結構です」随分と迷った挙句、未だにのびている太一に視線を突き刺した。「そんな奴と一緒の空気を吸うだなんて、考えるだけで吐き気がする」
吐き捨てるように言って、冬子は再び窓の外を。
おお黒須太一よ、なにをすればここまで嫌われることができるのか。これではまるで在りし日のセイバーと金ピカではないか。
あまりの険悪さに呆れを通り越して感心すらしていると、
「ではハラキリにはこれを授ける」
「黒須……起きたのか」
聖剣の鞘もびっくりの無傷っぷりだ。
太一は冬子の席へと歩み寄り、ポケットに手を突っ込む。そしてバスケットを取り出した。
―――バスケットを取り出したッ!?
「これで飢えは凌げよう。おまえは一人寂しくストーカーの味を堪能するがいい」
「ちょっと―――」
「ではサラバ!」
冬子がなにか言う前にバスケットを押し付けた太一は素早く撤退した。見本のようなヒットアンドアウェイ。もはや何も言うまいと決め込んだ士郎と共に教室を離脱する。
静かな廊下に戻ってきた。
「じゃあそういうことで、俺だけゴチになります」
「あ、ああ……」
あの嫌われ方と自分の食料を提供する行動とが噛み合わない。
「言い忘れてたけど、イリヤと島もいる。それでもいいか?」
彼らの不可思議な関係はおいおい理解していこうと考える士郎であった。
「免許証なんてなくても運転はできるし、捕まらないんだから有っても無くても同じでしょ」
「ブラボー! おおブラボー!」
目も眩むような高級外車を幼女ド真ん中なイリヤスフィールが運転するというところに何か感じ入るものがあったのだろう、話を聞いた太一は一人で大喜びしている。確かにドイツが生んだ傑作同士、栄える組み合わせではある。が、異常なものは異常なのだ。
そのようなことを言ってみたところ、
「このご時世、もう正常も異常もないでしょうに」太一はニヤニヤする。その矛先は、しかし士郎ではなく虚ろな目をしたままの友貴へと向いていた。「よかったな友貴センセイ! ドロドロのインモラルな変態性欲抱いても、それを異常だと罵るヤツはもう」
「黙ってくれ!」
「なにおう!」
士郎と太一が来るまで、友貴はイリヤスフィールと二人きりだった。その間に何があったのかは当事者が口を噤むので永遠に不明だが、ただ一つ確かなことは、友貴が死んだ魚のような目をしていたということだ。食事中も、食事をとる機械のような状態だった。それが太一の言葉で容易く息を吹き返し、どう見ても楽しんでいるとしか思えない取っ組み合いが始った。
さっそく食後の運動を始めた二人を横目に、
「ねえシロウ」
「ん? どうした?」
「不思議よね。誰もいなくなったのに、誰も困ってないなんて」
イリヤスフィールの言葉は、"誰か"などいなくとも我々の生活には何の問題も起きない、すなわち他人など無意味ということなのだろうか。
言われてみれば、多少の困惑こそあれ、見える範囲では誰も混乱していない。かく言う士郎自身、状況を静かに受け入れ、さっそく食料集めという行動に出たくらいだ。
「いや、でもそれは、まだ実感湧かないだけじゃないか? 小さなところで困ってると言えば困ってるぞ。電気とか水とか」
「伝聞でならともかく、実際に事態に直面して実感が湧かないなら最後まで湧かないままだと思うけど。それに、わたしの言ってる"困る"はそういう意味じゃないわ」
「む……」
まあ、分かってはいる。
イリヤスフィールが言いたいのは、人とのつながりが断たれても心理的に大きな打撃を被ったわけではないということだ。
もともとの交友範囲が狭いといっても、放送部だけで人間関係が完結している者はさすがにいない。家族にしろ友人にしろ、つながりのある人間がいたはずだ。そんな人たちがいなくなったというのに、皆が皆、静かな日常に帰っている。
士郎は、遠く離れた冬木市の住人が心配だ。いや、心配だというのは間違った表現かもしれない。なぜなら、冬木市も同じ状況であるという確信があるからだ。結果が分かり切っているのに心配はできない。それは、未知のものに対する心情である。
おそらくは、皆が思いのほか落ち着いているのも士郎と同じ理由によるのだろう。
そして、ここで白状すれば。
衛宮士郎が困惑しているとすれば、それは現状にではなく、現状にあってそれほど衝撃を受けていない自分自身に対してであった。
「きっと、イリヤがいなかったら今ほど落ち着いてなかったと思う。よく知った人が一人でもいるっていうのは大きいな」
「そうかしら? 別にわたしがいなくても、それどころか誰もいなくなっても、シロウは黙々とするべきことをしそうだけど」
実際にそうなってみなければ分からないが、そんな気もする。
「まあ、何にせよ意味のない仮定だろ。いまここにイリヤはいるんだし」
「そうだけど……まあいいわ。いまはそれよりも」
赤い瞳が士郎から外れる。
つられて、士郎もそちらを向く。
「こいつらをどうにかするのが先だな」
竜虎相搏つ―――というほどのものではない。せいぜいアル■イダとバー■党組織小型犬と猫といったところか。
力尽きた二人が、そこに倒れていた。
■
たった一日の活動で、思った以上にたくさんの食料が集まった。大戦果である。これはいわば貯金ができた状態であり、当面の食生活はそれを消費することで成り立ちそうだった。かかる労力と得られる結果の目安もついた。ゆえに、士郎は食料問題への対処から一時的に手を引くことに決めた。
空いた時間は、当然ながら現状の確認と原因の追及に当たられることになる。少なくとも士郎はそのつもりであった。というのも、実質的にはイリヤスフィールとのドライブになっている。
無人の都市を爆走する高級外車。
新たなる都市伝説になりそうだ、と士郎は頭を抱えた。しかし、イリヤスフィールの楽しげな顔を近くで見ていられるのは喜ばしいことであるので、文句は言わない。それ以前に都市伝説を語る人間というものも既にいないわけだし。
そう。"死んだ"ではなく"いない"のだ。
それが、町中を走り回って得られた唯一の結論であった。
「結局なにもわかってないってことだよな」
誰もいないなんて、合宿から帰った晩に皆が知ったこと。魔術師二人が揃っていながら、それを再確認するだけという体たらく。士郎はともかく、イリヤスフィールでさえ何もわかっていないのだから手の打ちようがない。
「そんなことないわ。他にもいろいろとわかることはあったじゃない」
「ん? あったのか?」
「たとえばタイチがシロウをじっくり観察してたとか」
「……そうなのか?」
「合宿中からずっとよ」
男に観察されて喜ぶ性癖は、残念ながらない。
渋い顔になった士郎に、イリヤスフィールはにんまり笑って言う。
「きっとシロウと違って鼻がいいのね。自分にそっくりなのにどこか違う人間が気になってしょうがないんでしょ」
「どういうことだ?」
「たとえば首が一回転すると、一見普通なんだけど、そこにはやっぱり一回転分の捩れが生まれるわよね。それがシロウだとすると、たぶん彼は一回転半くらい回ってるんじゃないかしら。普段は背中を前と定義して歩いていれば、それなりに生活はできるだろうし。ほら、向いてる方向は逆なのにそっくり。それともそっくりなのに向いてる方向だけが逆だって言った方がいいのかしら」
首の捩じ切れそうな難解な比喩だったが、意味はわからなくもなかった。わからなくもなかったからこそ納得したくないと思ってしまった。体はセクハラで出来ている、とか言い出しそうな後輩とそっくりだと評されるのは真に遺憾なのである。しかし太一に観察されていることを察知できなかった士郎が、それに気づいていたイリヤスフィールの解説に反論しても説得力はない。
「とにかく、そういうわけでシロウは彼にとって無視しがたい、興味はあるけどそれが好き嫌いまで育っていない、そんな存在なのでした」
わーい、やったね、と締めくくるイリヤスフィール。
対する士郎は、どこか恋する一歩手前のように聞こえる感情を向けられていると知り、遠い目をしていた。
「大丈夫よ。お兄ちゃんはわたしが守ってあげるんだから」
「守るって、俺の何を黒須の何から……いや、何でもない」
ゲイ・ボルグ!
ロー・アイアス!
何か聞こえてきた気がするが全力で無視する。
甘んじて受け入れた、もとい受け流した士郎を横目に、イリヤスフィールはハンドルをねじ伏せる。親の仇のように蹴り込むアクセル。氷の上であるかのように滑るタイヤ。対向車線も目一杯使って、何の冗談か、住宅街を時速三桁キロメートル超で疾走する鋼の車体。既に目的地まで十回以上たどり着いているはずの走行距離なのに、未だに停車する気配がない。いざとなったらイリヤスフィールだけは守って死のうと密かに覚悟を決めたのは、もうだいぶ前のことである。
「それより、なんでイリヤはそんなに詳しいんだ」
士郎は現実逃避気味に質問を投げかけた。
興味の有無が露骨に態度に反映されるのがイリヤスフィールだ。そんな彼女が今のところ興味を示しているのは、黒須太一、島友貴、山辺美希、佐倉霧というまるで一貫性のない四名。それ以外とは、合宿に乱入しておきながら関わろうともしなかった。そのあたりのことについて尋ねるつもりの問いである。
イリヤスフィールは運転中にもかかわらず、んー、と考える素振りをしたあと、
「何かをじっと観察してる姿って、傍から見ると結構目立つのよ」
と、意味のわからないことを言った。
観察というキーワードから辿るに、先ほどの話と同様、自分を誰かが観察しているという意味なのか。すると、もしや蟻の行列に夢中になっている子どもたちを眺める気分で、イリヤスフィールは件の四名を見ているのではあるまいか。ならば自分は蟻なのか。
いろいろな思いが士郎の脳裏を駆け巡る。そんな彼が次に発した言葉は、
「あ、ここさっきも通ったな」
すべてを放り投げていたのだった。
通称ハラキリ屋敷。衛宮邸も大概だが、それと比べても遥かに大きな武家屋敷だった。
ここに住むのは桐原冬子である。なんでも武士の家柄の生まれだそうで、太一曰く地球最後の武士っ娘だとか。
そんな絶滅危惧種の住処に士郎たちが訪れたのは、ひとえに食料配達のためだった。
配達先の分担は、案内がなくともわかりやすい場所を任されている。具体的には、見ただけでそれとわかる大きな屋敷二つと、ご近所さんである山辺宅だ。
大きな屋敷の片方の住人には、配達しに行ったが断られてしまった。カレーパンに生きカレーパンに死ぬ、男一匹カレーパン道だとか。そこまで言われたら引くしかない。初対面なら、人類滅亡と夏の暑さでパーになってしまったのだと思うところだった。
何部屋か挟んだお隣さんへの配達は後回しにする。そちらは帰宅ついでで構わない。
そういうわけで、折り返し地点への配達に上がったところである。
「おーい、いないのかー?」
大声で呼んでみるも、反応がない。ただの空き家のようだ。
絶叫マシーンじみたドライブを堪能している間に日は暮れて、空は暗い。人がいなくなったが、月も星も残っている。
寝るには早いが、帰宅していないとなると、少し遅いと言わざるを得ない時刻だ。
冬子の姿は今日の昼に学院で確認されている。士郎も自分の目で見たし、腹の虫の音を聞いた。人が姿を消したのにそのような日常の外枠をきちんとなぞっている人間が、住居だけ変えるということはないだろう。冬子は太一と浅からぬ関係があるようなので、その方面での事情で家を空けているのかもしれない。
黒いマジックで"食料"と書かれた段ボールを、誰が見ても気づくように玄関の前に置いておくことにしよう。
□■火曜-B面■□
太一が朝起きてリビングに降りると、毎度の如く食事が準備されていた。何を隠そう天才ストーカーによる犯行である。相変わらず過保護すぎる。
透視するのも面倒だったので、バスケットを開ける。中には爆弾ではなくサンドウィッチが詰まっていた。食料に罪はないのでありがたく頂いておくことにした。ちなみにこういう行為がストーカーに間違った認識を与えるので注意が必要である。
しかし本当に食材に罪はないのだろうか。太一は考える。だったら汚い金をロンダリングする必要はないのではなかろうか。ヤクザが絞り取った金も、貧乏学生が汗水たらして稼いだ金も、金は金である。やはり職業に貴賤はないとか人は外見でないとかいう言葉と同じように、食料に罪はないという言葉も見せかけだけのまやかしなのかもしれない。嘘だらけの世の中(笑)。
どうでもいいことを考えながらバスケットの蓋を閉じる。
上部に付いた取っ手を掴んで持ち上げる。
―――くぱぁ
淫猥なオノマトペを発しながらバスケットが開いた。どうやらきちんと留め具をセット出来ていなかったらしい。中身の砂魔女が、破裂した血肉風船よろしく飛び散った。
「しまった」
具とパンが空中分解して、テーブルに床に散乱している。適当な組み合わせを探して完成させるゲーム。
千々に撒かれたパズルのピース。どうか、優しく配列されますように―――。
無理だった。
かき集めたパンの枚数が奇数だわ、キュウリがイチゴジャムと運命の出会いを果たすわで、まさに阿鼻叫喚。それでも参加することに意義があるとばかりに努力したことは認められてもいいだろう。
混沌となったバスケットの中を確認して、太一は満足げに頷いた。
バスケットの蓋を閉じる。
上部に付いた取っ手を掴んで持ち上げる。
―――くぱぁ
淫猥なオノマトペを発しながらバスケットが開いた。どうやらきちんと留め具をセット出来ていなかったらしい。中身の砂魔女が、破裂した死体袋よろしく飛び散った。
「ガッデム!」
太一の朝はこうして始まった。
玄関のドアを開くとストーカーがいたので、太一は学院へと向かうことにした。
「太一」
声の方に振り向くとストーカーがいたので、太一は学院へと向かうことにした。
「太一」
「あれ、曜子ちゃんいたんだ」
「太一は私に厳しすぎると思う」
誰かが得すると誰かが損するように、誰かが過保護だと誰かがドSになる。世界の真理だ。
そして世界の真理を体現する黒須太一と支倉曜子の関係は、これすなわち世界の縮図なのである。
「……んなわけない」
「衛宮士郎は昨日集めた食料を整理し、箱詰めにして配る計画を立てている」
いきなりそんなこと言われては、さすがの太一も困る。
曜子は続ける。
「場所は群青学院」
「ふーん。食糧危機の危険はないってことだ」
曜子は太一が手にしたバスケットに目を向けた。その視線には、士郎がいなくても太一に食糧危機は訪れないという意味が込められている。
太一もつられて手にしたバスケットを見た。
「ぬおー!」
またもや蓋が開いていた。中身はヘンゼルとグレーテル状態になっていた。
来た道を逆行しながら一つずつ拾い、バスケットの中はさらにカオスになってしまう。食べる前に消化を始めてどうするのかと。
今度こそ留め具をきっちりセットし、蓋が開かないようにする。
「これを」
曜子が差し出す手には、全く同じバスケットがぶら下がっていた。
太一はそれを見ながら、
「曜子ちゃん、いまどこから出した?」
「中身は同じサンドウィッチ」
手渡されると同時に、今まで持っていたバスケットを手渡した。
トレード完了。
ちなみにバスケットの中身はサンドウィッチ二人分である。すなわち曜子は四人分作っていたことになる。彼女にはどれだけ尖った先見の明があるのか。古い付き合いである太一をして驚かざるを得ない。
「じゃあね」
驚かざるを得ないが、どうでもいいことなので、太一は曜子を残して通学を再開した。
それにしても、いったいどういうつもりなのか。彼女は、太一が自分以外に近づくのを快く思っていない。だというのに士郎の近況を、訊きもしないのに口にした。
太一にとって衛宮士郎とは、なんだかよくわからないけど気になる存在である。その心境は、黒い影がカサカサ音を立てながらタンスの裏に逃げ込んだ気がしたけど怖くて確かめられないでも気になってしょうがない、といった特殊なシチュエーションで抱く感情に近い。
鍵のない玉手箱。災厄と希望が詰まった壷。
怖いもの見たさとは、恐怖の対象を確かめることにより生存率を上げようとする本能だという説があるが、だとすれば本能で生きる太一がこらえきれずタンスの裏を覗き込んでしまうのも無理はない。
もしや曜子ちゃんは、覗きこんだ瞬間にこちらへと向かってGが飛んでくることをスーパー予知脳で知っているとでもいうのか。太一は導き出した結論に唸った。だとすれば、先ほどの奇妙な親切も納得だ。顔に張り付かれれば、どんな猛者も二度と覗き込もうとは思うまい。結果として、太一の人間離れ(※誤用。"親離れ"や"活字離れ"と同じ意味での使用)は進む。最後に喜ぶのは曜子一人。
「恐ろしい罠じゃないですか、曜子先生」
あらゆる罠を看破した軍師の心で呟いた。
ところで、看破しても回避できるかはまた別の問題である。
■
「―――はっ!?」
と気付けば友貴と並んで教室の床で倒れていた。まるで十字架の宗教圏内の死者のように胸の上で手を握っていた自分に気付いて身震いする。誰かに見られたらと思うと恥辱の極みだ。太一は思わず興奮した。
自分はつい先ほどまで食後の運動をしていたはずだ。ちなみに、それは断じて男同士のプロレスごっこではない。
競技名は置いておくとして、果たしてなぜ運動していた自分がシスコンの友人と夫婦のように隣り合って眠っていたのか。
どう考えても姿を消した士郎とイリヤスフィールの仕業である。
そこまで考えて、太一は思い出した。
そうだ、自分はあのロリコン先輩とロリっ娘と、ついでにシスコンと昼食をとったのだ。
胃に収まったのは曜子印のストーカー弁当ではなく、豊富な食料を贅沢に使った昼食だった。彼らが汗水たらして働いた成果を貪り食っているのだと思うと、なんとも言えぬ優越感があったのをよく覚えている。
しかし食事中、そしてその後の会話は大して意味のあるものではなかった。唯一わかったことといえば、イリヤスフィールが歳に相応しい思考をしていないということくらいだ。
明らかに現存の発達心理学から逸脱した知性。だからといって曜子のように超人間的なわけではない。早熟というよりは、体が頭脳に追い付いていない印象。どこの名探偵だとつっこみたくなるロリータである。踏まれたい。
結局、肝心のゴキ、もとい衛宮士郎については何も分からなかったが、イリヤスフィールに罵られ嬲られる自分を想像して太一は満足してしまった。士郎に関するリサーチは、また機会があれば適当に行おうと決める。
ぶっちゃけ男に興味津々な自分を自覚すると死にたくなるので、これくらいがちょうどいい。
まだ倒れたままの友貴の顔に、太一袋から取り出した油性マジックで落書きして、太一は帰宅することにした。