護る心。
求める心。
憎む心。
そして、今は何も映さない、虚ろな心。
それぞれの心が交差して、京都最後の夜が始まる。
※
千雨がその場に辿り着いた時、人ごみは随分と散り、辺りは再び元の喧騒を取り戻し始めていた。
「まぁ、どうなさったんですか、長谷川さん!?」
その声に振り向いた千雨は、こちらを見て目を丸くしている雪広あやかの姿を見つけた。
「いいんちょ」
「服もボロボロ、体だって傷だらけ!ま、まさか誰かに変な事をされたのでは……!?」
青い顔をするあやかに、千雨は静かに首を振って否定する。
「ドジって高い所から落ちただけだ」
真実を口にする訳にもいかないので、取り敢えず千雨がそう言うと、あやかはほっと胸を撫で下ろした。
「そうでしたの……。でも、それはそれで大変でしたわね。さ、傷の治療を致しますから、こちらにいらして下さいな」
あやかはそう言って千雨の手を引くと、近くにあった茶屋の椅子に座らせる。そして、手荷物の中から簡易的な救急箱を取り出した。
「随分と、しっかりした物を持っている」
「ほほほ、委員長としての嗜みですわ。……まぁ、尤も、これを使わないで済むのが、一番いいのですけど」
あやかは傷薬や消毒液やらを使い、手早く千雨の治療を開始した。
「長谷川さんて、本当に肌がお綺麗ですわね……。何か使ってらっしゃいますの?」
「普通に石鹸で洗う程度だが」
己の身嗜みについて、特にこれといって特別な事をしていない千雨は、正直にそう答えた。
「せ、石鹸程度でそれ!? う、羨ましすぎるよ、長谷川さん……!」
千雨の言葉に、いつの間にやらそこにいた村上夏美ががくりと肩を落としていた。その背後では、那波千鶴がそんな夏美を慰めるように頭をよしよしと撫でていた。
「さ、これでもう大丈夫です。傷が多いのでびっくりしましたが、皆擦り傷程度ですから、すぐに治りますわ」
「すまない、いいんちょ」
千雨が礼を言うと、あやかは「気になさらないでくださいな」、と手を振った。
「さて、残る問題は、このボロボロになった服なんだが……。弁償、いくらぐらいかかるか」
自信の格好を見降ろして、千雨が首を捻る。
「それほどお高い品には見えませんが……」
「着替えがてら、聞いてみる?もし高くつくようなら、私達も少し協力するわ」
千鶴がそう言ったが、千雨はさすがにそれは、と首を振った。
「そこまで甘えられない」
「大丈夫よ。ここ、私やあやかの実家も少し関わっている部分があるから。お金は出さなくても、口を出す程度はできるもの」
「ぱ、ぱないね!ちづ姉ぇもいいんちょも!」
迸るブルジョワジーなオーラに、庶民な夏美が眩しそうに目を細める。
「……なら、きちんとした損失分はまた後で払うと口をきいてくれればいい。今は、あまり持ち合わせがない」
少し財布の中身が心許無かった千雨は、そう言って頭を下げた。
「判ったわ。それじゃあ、行きましょう、あやか」
「ええ」
「あ、私も行くー」
千鶴の声を皮切りに、三人は貸衣装の店へと向かった。千雨もその後を追おうとしたその時。
「千雨!」
自身の名を呼ぶ声に目を向ければ、そこに真祖の吸血姫が立っていた。
「エヴァンジェリンか」
「酷い格好だな……。だが、五体満足な様子を見ると、何とかなった様だな」
「ああ。だが……」
言葉を詰まらせた千雨に、エヴァンジェリンは首を傾げる。
「……何かあったのか」
「敵側の【魔法使い】。フェイト・アーウェルンクスと名乗った子供は、下手をすれば、全開時のお前に匹敵する使い手だった」
「何だと?」
エヴァンジェリンが目を見張る。真祖である己の力は、現実世界、魔法世界を含めて正にトップクラスである。そんな自分に匹敵する【魔法使い】など限られている。
だが、エヴァンジェリンは今千雨が告げた『フェイト・アーウェルンクス』なる人物の名を聞いた事がない。
偽名である可能性もあるが、そうだとしてもそれ程高位の魔法使いがいるならば、噂にならない筈がない。
(実際に私と、そしてその魔法使いの双方と戦った千雨が言うならば、間違いないだろうが……)
エヴァンジェリンは眉根を寄せる。関東と関西のいざこざと考えていた今回の一件。もしかすると、全く別の思惑が絡んでいる可能性が出てきたのだ。
(今回の旅行が終わったら、爺にでも話しておくか)
エヴァンジェリンが物思いにふけている間、千雨は周囲を見回していた。
「エヴァンジェリン。近衛や桜咲。それに他のメンバーの姿が見えないんだが」
先の3班の中にも朝倉和美の姿はなかったし、加えて偶然合流した他の班の面子も居なくなっていた。その事を訝しむ千雨に、エヴァンジェリンは肩を竦めて言った。
「刹那は近衛木乃香を連れて関西呪術協会の総本山、つまり近衛木乃香の実家に向かった。坊や達と合流し、そのまま本山に籠城して守りを固めるつもりなのだろう。他の連中は……まぁ、刹那のうっかりのせいで、着いて行った」
素人である朝倉和美にまんまとしてやられていた刹那を思い、エヴァンジェリンはため息をついた。
「大丈夫なのか?」
木乃香がいる以上、本山が戦場になるのは目に見えていた。その場に、何も知らない者達がいるのはまずいのではないか、と千雨は言う。
「ふむ、少し心配にはなるが、まぁ大丈夫だろう。あちらには侵入者用の結界もあるし、優秀な術師も多く詰めている。何より、現関西呪術協会の長は、嘗ての魔法世界での大戦における英雄の一人、『サムライマスター』近衛詠春だ。向こうに私クラスの手練が居ても、これだけの戦力と防衛力があれば、問題なかろう」
だが、エヴァンジェリンは知らなかった。今現在、本山に本来詰めている筈の一流の術師達が、和平反対派の策略により各地へ散っている事を。
そして、関西呪術教会の最大戦力である筈の長、『サムライマスター』近衛詠春が、慣れぬ長の仕事をこなす事による鍛錬不足、そしてよる年並みにおける衰えによって、往年の力を失っている事を。
もしその事を知っていれば、エヴァンジェリンは朝倉和美をはじめとした、戦う力を持たない者達が本山に行く事を決して許さなかっただろう。
「そうか」
事実を知らぬ故、事態を楽観視してしまったエヴァンジェリンの言葉だが、そちらの方面における知識が皆無な千雨にとってはそれ以外に信じる物はない。
「まぁ、後は修学旅行が終わるまで待てばいい。その頃には連中も捕えられているだろう」
そう告げるエヴァンジェリンの言葉に、千雨は静かに頷いたのだった。
※
関西呪術協会の総本山に程近い安ホテル。居場所を悟られぬために、アジトを転々としていた千草達が、最後に選らんだのはそこであった。
その一室で、犬神小太郎がぶすりとふくれっ面を曝してベッドの上に身を投げていた。
思い出すのは、自分と同い年くらいの西洋の魔法使い、ネギ・スプリングフィールドである。
「ちっ、ネギめ……」
容易い相手だと思っていた。実際ぶつかってみても、確かに年齢に比していくつかの強力な魔法を操った様だが、接近戦に持ち込めば、何の抵抗も出来ぬ有様であった。連れていたハリセンを使う従者の方が、まだそちらの方面では上手だった程だ(それでも素人であったことは否めなったが)。だが、それがひと時の仕切り直しを経た後、一変する。
己の体に魔力を流し込み、強化するやり方。強引なその術式によって不意を突かれた小太郎は、切り札である『獣化』まで使う羽目になった。それでもなお仕留め切れなかったのは、ネギが連れていたもう一人の従者の少女が操る『相手の心を覗くアーティファクト』によって、自分の行動が全て先読みされてしまったからだ。
「……姉ちゃんに怒られるかな」
それを思うと、小太郎の心は沈む。頭の上の犬耳も、ぺたりと伏してしまう程に。
そのとき、がちゃりと部屋の扉が開き、当の天ヶ崎千草が、月詠とフェイトを連れて帰って来た。
「ね、姉ちゃん!」
がばっと起き上った小太郎は、思わずその場に正座した。
「なんやの、急に改まって」
正座で自分を出迎えた小太郎を見て、千草が眉根を寄せる。
「え、いや、その、お、俺、失敗してもうたから……」
しゅんとなる小太郎に、千草は応用に手を振って見せた。
「ああ、別にええよ。親書の件は、反対派のお偉いさん方に頼まれた仕事やから、失敗してもせんでも、うちらの行動に影響はない。……それよりあんた、その頬っぺた、どうしたん?」
ぷっくりと腫れた小太郎の頬を指して、千草が訊ねる。
「え?あ、これは、まぁ、ネギにしてやられたというか……」
「葱?……ああ、『サウザンドマスター』の息子の坊やか。ふーん、流石は英雄の息子っちゅー事か」
「つ、次に戦ったら負けへんもん!」
いきり立つ小太郎を見て小さく笑った千草は、懐から治癒の符を一枚取り出した。
「ま、期待しとくわ。それより、こっちおいで。腫れたまんまやったら痛いやろ?」
千草の言葉に、小太郎は顔を赤くしてぶんぶんと首を振った。
「え、ええよ!こんなん、ほっといても治るし」
「あーかーん。そうやって自分の力を過信して、何回痛い目にあったと思ってんの、あんた。治せる時に治さな」
そう言って強引に小太郎の手を取った千草は、小太郎の頬にぺたりと符を張り、ついでに他に怪我をしている所がないか、あちこちに触れていった。
「も、もうええて!」
くすぐったさと気恥かしさから、小太郎は慌てて千草から離れた。
「何やの、一丁前に恥ずかしがってからに……」
小太郎の素直でない行動に、千草が口を尖らせる。
「……そ、それより、姉ちゃん達はどうやったんや?」
気を取り直すようにそう聞いた小太郎の言葉に、千草は大きなため息をついた。
「お嬢様連れてない時点で判るやろ?あかんかった」
「ん~、ウチは結局、センパイとの決着がつけられへんかったから、一概に失敗とは言えませんな~」
のんびりとそう言うのは月詠である。その月詠に次いで、千草も今ここに居ない人物について言う。
「呪三郎も『闇の福音』に負けたらしいしな」
「?そう言えば、その呪三郎の姿が見えへんけど、どうしたんや?」
首を傾げる小太郎に応えたのはフェイトである。
「彼なら隣の部屋にいる。どうやら、人形の改造をしているらしいね」
「ふ~ん……。そう言うお前はどうやってん?」
小太郎がフェイトにそう訊ねてみると、フェイトは静かに首を振った。
「僕の方も失敗だった。彼女――長谷川千雨は、こちらの予想以上に手強い。ぶつかった感想を言わせてもらえば、彼女は『闇の福音』にも退けは取らない」
失敗続きな上、敵側の戦力が予想以上だった事に、小太郎は頭を抱えた。
「だ、大丈夫なんか、ホンマ……?」
「大丈夫や」
そう答えたのは、本来ならば小太郎以上に焦って然るべきの千草であった。
「飛ばした監視用の式からの映像じゃ、その二人は今、お嬢様から離れて行動しとるようや。そのお嬢様の一行も、本山に入った事で油断しとる」
千草は、見ていた小太郎が思わずぞっとするような凄惨な笑みを浮かべた。
「本山の守りも手薄。厄介な助っ人は不在。結界の方も新入りが何とかできるようや。結界さえなければ、むしろあそこは相手にとっての袋小路。まだまだ、十分挽回できるわ」
「……姉ちゃん」
小太郎は、その笑みの危うさに、心がキュッと締め上げられるように感じた。この仕事が始まる前から感じていた焦燥感。大切な『姉』が、己の手の届かない場所に行ってしまうかもしれないと言う漠然とした恐怖が、再び小太郎を襲っていた。
だが、小太郎には千草を止める事など出来なかった。もしそんな事を口にして嫌われたら、見捨てられたらと思うと、それだけで小太郎の舌は痺れたかのように動かなくなってしまうのだ。
そんな小太郎の様子に気付きもせず、千草は窓から見える関西呪術協会の本山を、口元に不敵な笑みを湛えたまま、燃えるような瞳で睨みつけていた。
※
千草達のいる部屋の隣。そこに、呪三郎はいた。
エヴァンジェリンに敗れた呪三郎は、己の愛しい人形達を、より強く、そしてより美しくなるよう、改造を施していたのだ。
「さて、これでいい」
呪三郎は、かたりと器具を置くと、目の前にある、生まれ変わった姉弟達を見る。
「……ふふふ、生まれ変わった君たちならば、【人形遣い】でさえ、葬る事も容易い筈だよ」
呪三郎は恍惚とした顔で、その人形に語りかけた。
「ああ、なんて美しいんだ、君達」
呪三郎の目の前にあるそれは、いずれ来る戦いに備えて、静かにそこに佇んでいた。
※
夜。
千雨は、相も変わらずエヴァンジェリンに呼び出され、彼女の暇つぶしの相手をさせられていた。
二人は、将棋盤を挟んで静かに対局中である。その横では、茶々丸とチャチャゼロの姉妹が、茶々丸が撮影し、今日まで撮り溜めてきた『エヴァンジェリン名場面・珍場面集』を密かにパソコンで鑑賞しつつ、爆笑したり(主にチャチャゼロ)、感動したり(主に茶々丸)と、賑やかにしていた。
因みに、ザジはまたしてもどこかでふらふらしているようで、部屋の中にはいない。
「さっきからあ奴らは、何を見ているんだ?騒々しい」
エヴァンジェリンは、従者達が何を見ているのかも知らず、首を傾げた。
「さぁな」
千雨は大体の予想がついたが、それを敢えて口にする事もなかった。
「王手」
「あ」
千雨はエヴァンジェリンの隙を突き、中々の妙手を繰り出した。
「むむむ……」
長考に入ったエヴァンジェリンを一先ず置いて、千雨は窓から映る京都の夜景を眺めた。
その胸中に何が浮かぶのか。その徹底した無表情からは、決して読み取る事は出来なかった。
その時。
「エヴァンジェリン、いるか?すまないが、入るぞ」
その言葉が聞こえると同時に、4班所属の龍宮真名が、妙に急いだ様子で入って来た。
「む?どうした、龍宮」
エヴァンジェリンが、何故かホッとしたような顔で真名を出迎える。
「大事な話だ。こちらに来てもらえるか?」
「?」
首を傾げながら、エヴァンジェリンは真名と共に廊下に消えた。
「ナンダ、一体?」
「わかりません」
その場に倒れて只の人形のふりをしていたチャチャゼロが顔だけ上げて言うと、横にいた茶々丸も静かに首を捻る。
そんな様子を黙って見つめていた千雨の前で、再び扉が開き、険しい顔をしたエヴァンジェリンが入って来た。後には真名と、2班の長瀬楓、そして古菲が着いて来ている。
「千雨」
エヴァンジェリンが千雨を呼ぶ。
「お、おい、エヴァンジェリン」
真名が、何を言うのかと慌ててエヴァンジェリンを止めようとするが、エヴァンジェリンは静かにそれを手で制した。
「龍宮。千雨にも関わりがある話だ。……千雨、落ち着いて聞け」
そして、エヴァンジェリンは静かに告げた。
「関西呪術協会の本山が襲われ、近衛木乃香が、攫われたようだ」
その言葉が、京都を舞台にした、最後の大騒動の幕開けだった。
【あとがき】
エヴァンジェリンの読みが甘かった訳ではなく、単に情報が足りなかっただけなんです。
次回は、関西呪術協会の総本山を舞台に、ラストバトルの開始です。
それでは、また次回。