帰りたい場所がある。
戻りたい時間がある。
「ただいま」と言えば、「おかえり」と言う優しい声が聞こえて。
世界一大好きな、あの人達の笑顔が迎えてくれる。
そんな場所。そんな時間。
だけど。
もう帰れない。
もう戻れない。
だから――。
「うち」は、絶対に許さない。
※
肩で荒く息をし、目を血走らせてこちらを睨みつける天ヶ崎千草は、手負いの獣を思わせた。その尋常でない様子に多少気圧されつつも、刹那は野太刀の切っ先を千草に向けて突きつける。
「もう終わりだ、天ヶ崎千草!頼みの【リョウメンスクナ】は既に地に返った。お前の仲間達も直に捕えられるだろう。観念しろ!」
その捕えられるだろうとされる『仲間達』のほとんどが逃げおおせている事を知らない刹那が、凛とした声で告げる。だが、それを受けた千草は、刹那の言葉を鼻で笑った。
「『もう終わり』?『観念しろ』?まだ、何も始めてすらおらんのに、何を終えて、何を観念するんか、言うてみぃ!」
この期に及んでも尚、そのような気炎を上げる千草に、ネギが問う。
「何で、何でこんな事をするんですか!?」
そんなネギの言葉を聞いた千草は、ぎしりと歯をかみ合わせた。
「何で、やと……?」
「そうです!大勢の人達を傷つけて、貴女は一体、何を望むんですか!?」
その瞬間、千草の口から怒号が放たれた。
「お前がっ、お前がうちに、それを聞くのか!? 『魔法使い』ぃっ!!!!」
その凄まじい怒りに、ネギの体がびくりと震えた。そんな千草の様子を見たエヴァンジェリンが、ポツリとつぶやいた。
「復讐、か」
「え……」
エヴァンジェリンの言葉を聞いたネギが、声を漏らした。そして、当の千草は未だ収まらぬ怒りに体を震えさせたまま、沈黙した。
「こいつの眼に、覚えがある」
それは、数百年前に、エヴァンジェリンが浮かべていた物と同じ瞳の色だった。昏く染まりながら、その瞳の奥で燠火の如き復讐心が灯っている、そんな眼。かつて、人としての幸せを奪い去り、『化け物』の宿業を背負わせた者へと浮かべていた物と、全く同じ眼。
「……いつもと、何も変わらん朝やった……」
千草の口から、言葉が漏れる。
「朝起きて、父様と母様に「おはよう」って言うて、母様の作ってくれた朝ごはんを食べた後、父様と、学校が終わったら術の稽古をする約束をしたんや……」
千草の目に、懐かしい物がよぎった。大好きだった、両親。怒ると怖かったけど、それでも誰よりも優しかった母。少し厳しかったけど、誰よりも頼りになった、尊敬すべき父。二人といられるだけで、千草は本当に幸せだった。
「友達の誘いを断りきれんでなぁ、つい、帰るんが遅くなってしまったんや。きっと怒られる思て、恐る恐る家に入ったけど、丁度誰もおらんくて、ほっとしたんや」
静まり返った、家。玄関に、父と母の靴はなく、二人で買い物がてら、デートでもしてるのだろうと、特に心配はしなかった。夫婦仲が良い事も、千草にとっては自慢の一つだった。だが――。
「太陽が赤こうなって、その夕日が沈んで、お月さんが顔を出しても、父様と母様は、帰ってこんかった」
その時の千草は、ただただ心細くて、寂しくて、警察に連絡するという選択肢すら抜け落ちたまま、ずっと泣いていた。そして、真夜中になった頃。
「急に家に誰かが入って来たんや。一瞬びっくりしたけど、父様と母様かと思って、喜んだんや。でも、違うかった」
その人は、父の知り合いの陰陽師だった。千草も、何度か顔を合わせた事がある。その男は千草の顔を見るなり、こう言ったのだ。
『千草ちゃん、落ち着いて聞くんや。君のお父さんと、お母さんが――!』
「頭ん中真っ白になったわ。この人は何を言ってんのかと思った。そんな冗談はいいから、早う父様と母様に合わせてって、そう言ったらな、その人、泣き出したんや」
目の前で、父と変わらぬ年齢の大人の男が、ぼろぼろと涙を流して泣いている。それを見た千草は、茫然とした思考の中で、先程の言葉が嘘でない事を悟った。
――父と母が、死んだ事を。
「病院に連れて行ってもうたけどな、二人に会わせて貰えんかった。今まで時間がかかったのも、それが理由やった。遺体の状態がな、酷過ぎたんやって。だから、子供にはとても見せられんて」
今に至るまで、千草は父と母がどのようにして死んだのか知らない。父の知り合いの男も、病院の医師や看護婦達も、決して口にしてくれなかったし、見せてもらえなかった。歯形や、手術痕などから、身元の照会が何とか出来たらしい。それほど酷いのだと言う事は、推察できた。
「お葬式でな、最後の納棺の時も、見せてもらえんかった。……うちは、うちは!父様と母様に、最後のお別れを言う事すらも出来へんかったんやっ!!」
堪え切れなくなった千草の声が荒げた。その時から今に至るまでの怒りが再び込み上げ、千草の体を震わせる。
「その葬式の時に偶然聞いたんや。父様と母様が死んだ理由を!協定を破って侵入してきた『魔法使い』を諌めようとして、無惨に殺されたいう事をなぁっ!!」
千草は、まるでネギ達がその仇だと言わんばかりの苛烈な視線で、ネギ達を睨みつけた。その視線曝されたネギ達が慄く。その瞳に燃えた、怒りの業火に気圧されて。そんなネギ達を尻目に、千草は嗤った。
「こっからが一番傑作や。父様と母様の知り合いやった陰陽師達は、すぐにその『魔法使い』を捕えるよう、上の人間に懇願したんや。だけど、その犯人っちゅうのが、どこぞの偉い『魔法使い』の息子とかで、ここで揉めると、余計な軋轢が生じかねんかったんや」
眼が全く笑っていない状態で、千草は当時の人間達を嘲笑う。
「当時主流になりつつあった和平派の連中は、それを恐れて、長の耳にその事が届く前に、父様と母様の事件を握り潰しおったんや……!!」
「なっ……!?」
「そんな……」
その場にいた者が息を呑んだ。中でも、木乃香の事を最大の理由としつつも、和平の為に動いていた刹那のショックは大きかった。
「内々に事故として処理されたこの一件は、下のもんがどれ程訴えかけても、梨の礫やった……」
千草は思う。あの時感じた絶望を。悲しみを。怒りを。それは、今も業火となって千草の中で燃え盛っている。そしてその怒りの炎の矛先は、あの時の犯人だけでなく、『魔法使い』、そして父と母を見捨てた『関西呪術協会』にまで及んでいる。
「『関西呪術協会』の支配なんて、ホンマどうでもよかった。ただ、それだけの力があれば、『魔法使い』達に戦いを挑む事も出来たから、それを目指したんや」
それが、千草の本心。千草が本当に求めているのは、名誉でも権力でも、ましてや絶対的な『力』でもない。
「……全て滅べ!『関東魔法協会』も!『関西呪術協会』も!『魔法使い』も『呪術師』も!皆、全て等しく滅んでしまえ!!いや、うちが滅ぼしたる……!この怒りで、この憎しみで、全てをっ!!!!」
自分の大切な者を奪ってった全ての理不尽を、千草は憎む。だからこその、破滅願望。自身を含めた、全ての消滅を、千草は望んでいた。その凄まじい怒りと、そして憎しみに、刹那達は一言も声を発する事が出来なかった。
そんな中で、ネギは己の杖をぎゅう、と握りしめていた。復讐は何も生まない、などと言う陳腐なセリフを、ネギは口にはできない。ネギは知っているからだ。この世の理不尽を。唐突に奪われる平穏を。ネギの心の原風景に根付く、あの雪の夜の記憶が、千草の心を否が応にも理解させる。
(僕と、同じ――)
復讐の篝火は、ネギの心にも宿っている。
一方、その復讐の炎を燃やし尽くし、事を為した過去のあるエヴァンジェリンもまた、千草の事を否定できずにいた。復讐は、枷である。自身の進むべきを、いつまでもそこへ繋ぎ止めてしまう。嘗てのエヴァンジェリンもまた、復讐を果たすまで、一歩も前に進めなかった。そればかりを考え、そればかりを思い、ただただ手段を求めた。結局の所、エヴァンジェリンは復讐を果たしたが、そこに行くまで、途方もない程、大事な何かを磨り潰してしまっていた。そんなエヴァンジェリンだからこそ、わかる。今の千草の心の内が。本人は絶対に否定するであろうそれが、手に取るように。
(死にたがっているのだ、こいつは)
エヴァンジェリンはそう思う。もし、千草が真に復讐の継続をせんと、木乃香の力を狙うのならば、こうして姿を見せはしない。油断させて、気付かれぬよう、今度こそ確実な手段を持って誘拐を実行するだろう。それをしないのは、頼りとしていた【リョウメンスクナ】の消滅か。或いは、九分九厘手中に収めていた木乃香を取り戻されたが故か。何にせよ、千草の心は折れかかっているのだ。『関西呪術協会』を、そして『関東魔法協会』を同時に敵に回した自分が、これ以上復讐を果たす事が出来ないのだと言う事を、冷静な部分で気づいてしまっている。
(どうする?)
もし仮に、千草がこのまま捕えられたとしても、そう遠くない内に、絶望にかられた千草は、自ら命を絶つだろう。そのようなみじめな最後を曝させるくらいならば、いっそ、ここで命を絶ってやった方がよいのではないかと、エヴァンジェリンは考える。復讐を道半ばにして諦めざるを得ない苦しみから開放し、せめて戦いの中で散ったという誇りを一つ持たせてやった方が、多少の慰めになるのではないかと。
そのように葛藤を続けるエヴァンジェリンや、千草に気圧されるネギ達の耳に、不意にその言葉が届いた。
――羨ましいな。
「……何やと?」
千草の視線が、その言葉を発した人物に向けられる。それを受け、へたり込んだ状態から、ふらりと立ち上がったのは、千雨であった。千雨は、おぼつかない足のまま、皆の輪から離れ、千草の前に立つ。
「今、おもろい事言うたな……?うちの境遇の、一体どこが羨ましいんやて……?」
震える声を抑えながら、千草は怒りに燃える視線で、千雨を射殺さんばかりに睨みつけた。そんな苛烈な視線を受けても、千雨の表情は相も変わらず動かない。
「……お前が全てを憎むのも、恨むのも、失った者達が、お前をそれだけ愛してくれていたからだ。私は、それが羨ましい」
「な、何を言って」
「――わたしにはなにもなかった」
その瞬間、千草も、エヴァンジェリンも含めた、その場にいた全員が、心の底からぞっとした。目の前にいる少女が発した、圧倒的な虚無に。まるで、底の見えない大穴の淵に立たされたかのような恐怖。これがつい先程、感情の片鱗を見せた少女と同一人物とは、とても思えなかった。
(これ程、これ程までに厚いのか、千雨……!?お前の心を覆う、氷は――!)
戦慄が、エヴァンジェリンを貫く。先に垣間見せた笑顔。それを見たエヴァンジェリンは心から安堵していたのだ。きっと大丈夫だと。友の被った無貌の仮面は、きっと外れるだろうと。だが、今の千雨を見て、そんな気持ちは消し飛んだ。怒りも憎しみも、悲しみすらも遠い、虚無。その気配は、怒りと憎しみに支配されていた千草でさえも、鎮めさせた。
「あんた……、一体……」
千草が思わず棒立ちになったその時、その背後からがさりと樹をかき分ける音が聞こえた。
「姉ちゃん!」
そこから飛び出してきたのは、半妖の少年、犬神小太郎であった。
「姉ちゃん、大丈夫か!?」
「こ、小太郎……」
茫然としていた千草は、小太郎の登場でようやく我に返った。そんな姉の様子に僅かに安堵した小太郎は、素早く周囲の状況に目を配り、そして、覚悟を決める。小太郎は、千草に近寄ると、その手を掴む。
「逃げよう、姉ちゃん。向こうも疲弊しとる。逃げる事だけに専念するんやったら、まだ間に合う」
「に、げる?」
その言葉を反復した千草は、再び頭に血を昇らせると、小太郎の手を乱暴に振り払った。
「逃げるやと!?これ程の好機を前に、おめおめと引き下がれ言うんか!」
木乃香を攫う為に、入念な下準備を掛けてきた千草である。今の状況が、どれほど貴重な物であるか、自分が一番よく知っている。
「で、でも」
その剣幕にうろたえる小太郎に、千草は辛辣に言い放つ。
「逃げたいんやったら、お前一人で逃げや!うちは諦めん!もう一度、もう一度あの娘さえ手に入れば――!」
千草の視線に怯えた木乃香が、刹那の背中に思わず隠れる。その刹那もまた、先の話に動揺しつつも、木乃香を護る為に立ち塞がる。その様子を見た小太郎が、もう一度千草の手を握りしめる。
「もう、もうあかんよ、姉ちゃん。逃げるしかない。このまま捕まったら、姉ちゃん何されるか判らんのやで!?」
「父様と母様の復讐が果たせるんやったらそれでええ!うちの命なんて、惜しゅうないわ!!」
「――俺は!!!」
その時、突如小太郎が大声を出した。その声の大きさに、千草が思わず口を噤む。
「俺は、自分の父親も母親も知らんし、姉ちゃんの父ちゃんと母ちゃんも知らん!俺の、俺の『家族』は、姉ちゃんだけや!!」
「こ、こた――」
小太郎は、千草の手を握りしめたまま、ぽろぽろと大粒の涙を流して、泣き始めた。
「だから、嫌や……。姉ちゃんが、死ぬんも、居なくなるんも、嫌やよぅ……!」
少年が流した涙を見て、千草の体が固まる。
初めは、只の気紛れだった。子供に手を上げている大人と言う図が気に入らなくて、半ば衝動的に助けた。放っておくわけにもいかず、あれこれと世話をしている内に、懐かれてしまった。鬱陶しいと思う所もあったが――。
『姉ちゃん、姉ちゃん!』
慕われるのは、悪い気分ではなかった。初めからいなかった者、途中から失った者という違いはあれど、互いに親のいない者同士、共感し、無くした物を補い合うように一緒にいる内に、小太郎にとって、千草が『姉』になったのと同様、千草にとっても、小太郎は『弟』になった。だからこそ、今回の件において、千草は小太郎を遠ざけようとした。『弟』といれば、揺らいでしまうから。薄れてしまうから。己の中にある、『復讐心』が。
(せやのに……)
本当ならば、関わらせるつもりも無かったのだが、何処で聞きつけてきたのか、ちゃっかりメンバーの一員となっていた。無理に追い出しでもすれば、予想外の場所で介入してくる可能性もあったが故に、千草は仕方なく、目の届く範囲にいる事を許可したのだ。そんな小太郎を前に、心のどこかで誰かが言う。
『お前には関係ない』
『お前なんて家族じゃない』
そう言ってやれと。だけど、言えなかった。
「あ……う……」
舌はまるで痺れたように動かず、千草の口からは小さな呻き声が出ただけであった。そして、思い出してしまった。自分にも、まだ捨てられない物があった事を。もう、先のような捨て鉢を言う事も出来ない。目の前の泣いている少年に、【絆】を感じている以上は。そのように千草が揺らいでいる所に、更なる追い打ちをかけるが如く、あまりにも意外な人物が姿を現す。
「――私からも、お願いできませんか?」
その現れた人物を見た一同、特に刹那と木乃香の眼が見開かれる。
「お、長!?」
「お父様!?」
その場に現れたのは、白面の魔法使いによって石にされた筈の、『関西呪術協会』の長、近衛詠春であった。
「な、なんで……」
驚愕したのは千草も同様である。現状、石化を解除しうる人間などいない筈なのだから。
「【リョウメンスクナ】の復活を感じた者達が、すぐにこちらに来てくれたのです」
そう言った詠春の後ろには、数人の術者らしき者達の姿が合った。彼らの千草を見る目は、敵に対するそれではない。憐れみ、共感、それらが綯交ぜになった、複雑な物である。千草の独白は、彼らの耳にも届いていた。そんな彼らにも、覚えがあるのだ。家族が、友人が、或いは本人が、西と東、『呪術師』と『魔法使い』の軋轢に傷ついた事を。だからこそ、彼等は単純に千草を敵と見る事は出来なかった。
「天ヶ崎千草殿」
千草に呼び掛けた詠春は、その場に膝と手をつけ、頭を地に擦りつけた。
「な、何を――!」
いきなりの長の土下座に、千草が困惑の声を上げる。
「……今回の件、全ては私の不徳の致す所です」
詠春の胸には、苦い物が込み上げていた。自身に魔法使いの友人が多いが故に、西と東の軋轢をどうにかしたいと、常々思っていた。自身が長になり、ようやくその問題を何とか出来ると思っていた。言葉を尽くし、長い時を掛け、和平に賛同する者達を増やしてきた。多少強引に和平を進めようとしたのも、現状ならば大きな問題も起こらないだろうと。初めは混乱もあるだろうが、互いの良い部分を見れば、きっと融和も上手くいくと。そう、思ったからだ。だが、蓋を開けてみれば――。
(これほどまでに、恨みと憎しみの根が深いなんて……)
『魔法使い』と『呪術師』は、決して対等などではなかった。東洋の島国の半分程度、存在するにすぎない『呪術師』達と違い、『魔法使い』は世界中に組織立って点在し、更には一つの世界すらも治めている。組織力も、数も、あまりにも違いすぎた。故に、彼等は簡単に踏みにじられる。外から、内から。どれだけ泣き叫んでも、どれだけ血を流しても。弱い者の立場を考えていなかった和平が反発されたのは、自明の理である。詠春は、それを知らなかった。同じ和平派の重鎮たちからは耳触りのよい言葉しか聞こえず、それ以外の言葉は、当の和平派が握り潰していたのだから。
(私は、何と愚かだったのか……!)
がり、と爪が土を噛む。そんな詠春を、千草は凝視している。理想しか口に出来ず、現実を見ていない、愚かな男だと思っていた。魔法使いと通じる、唾棄すべき男だと思っていた。なのに――。
「何、で、何で、何で、何で今更そんな事言うんや!?皆が、うちが、泣いてる時に!苦しんでる時に!どれだけ声を上げても聞いてくれへんかったくせに!!」
千草は叫んだ。そう、今更である。もう自分は、取り返しのつかない場所まで来たのだ。そこに至るまで、多くの物を犠牲にしてきたのだ。
「……その怒りは、当然の事です。私を、いくら詰ってくれてもいい、責めてくれてもいい。この首を、差し上げてもいい」
「長!?何を!」
詠春の言葉に、周囲の術師達が驚く。だが、詠春は本気であった。
「だから、お願いします。全ての恨みを、憎しみを私に押しつけて頂いても構いませんから、もう、苦しむのはやめて下さい」
「な――!」
詠春が慮ったのは、和平の事でも娘の事でもなく、千草の事であった。先代、そして今代である自分のせいで苦しんできた彼女に、何とかして報いたいと、詠春は考えたのだ。そんな詠春の言葉に、千草の心は更に揺らぐ。捨てられなかった『弟』との絆。未だ消えぬ復讐の炎。頭を垂れる長の姿。もっと早く聞きたかった言葉。様々な、様々な感情が混じり合い、千草の心を締め付ける。込み上げる何かに、体はぶるぶると震え、拳は強く握りしめられる。そして――。
「う」
一粒の涙が、千草の瞳から毀れた。
「うう、ううう」
あ、と心の中で呟いても、もう遅かった。堪え切れぬ感情の渦は、千草の涙をせき止められない。
「うーっ!うぅーっ!」
千草はその場で地団太を踏む。まるで、子供のように。
「うぅーっ!う、うう!うあぁぁん……」
思えば、千草は父と母を失ったあの夜以降、泣いた事が無かった。二人の遺体を見る事が出来なかったが故に、現実感が湧いて来なかった事も、その一因であろう。葬式の場においても、泣けなかった。悲しみがその心を覆う前に、滑り込んできた憎しみが、千草に泣く事を禁じた。
「ぁあああん、あああ、ううあぁあ……」
泣いてしまえば、何かが終わってしまう気がしていた。何かを忘れてしまう気がしていた。だから、泣けなかった。
「あ、あ、ああ、う、う、ふ、ふぅぅぅ……、ぅう~っ……!」
ぼろぼろと毀れる涙は、拭っても拭っても尽きない。悔しくて、悲しくて、苦しくて、愛おしくて。全ての感情が混じり合ったまま、千草は迷子の子供が親を呼ぶかのように、只泣いた。やがて千草は、その場に蹲り、顔を覆って更に泣き続ける。小太郎は、泣き始めた『姉』に驚きながらも、その背中の寄り添うと、そっと撫でた。千草は、その手を拒まなかった。
「夜が、明ける――」
誰かが、そう呟いた。その言葉通り、東の空から顔を覗かせた日の光が、夜の闇を掻き消して行く。長い夜を超え、迎えた黎明の空の下、漸く泣く事が出来た一人の女の涙と共に、修学旅行を巻き込んだ京都の事件は、終わりを告げた。
【あとがき】
次回は、『京都修学旅行編』のエピローグになります。京都編において原作を読んでいて一番不思議に思ったのが、千草の両親の死因でした。魔法使いと反目し合っていた筈の(おそらく)陰陽師である千草の両親が、なんで「魔法世界」で起こった戦争が原因で亡くなったんでしょうか。……まぁ、先におそらくと付けた通り、本当は千草の両親は陰陽師ではない可能性もあるんですけど。
それでは、また次回。