「ウォルター、起きてください」
リニスの声に、半覚醒状態で寝ていた僕は瞬時に覚醒する。
瞼を開き、掛け布団を避けて上半身を上げた。
それから辺りを見渡しデジタル時計を見つけ、表示されている時間に思わず首を傾げる。
「あれ、リニス、今日は9時出発じゃあなかったか? まだ5時なんだが……」
勿論訓練で時間を埋めればいいのだが、今日は折角の休暇なので訓練は禁止と昨夜リニスに言い含められたばかりである。
疑問詞を浮かべる僕に、リニスはニッコリと笑いながら、片手を腰に、もう片手の人差し指をピンと立てた。
可愛らしいウインクを一つし、告げる。
「折角のお出かけなんですから、ウォルターもお洒落をしたらどうでしょうか、と思いましてね」
「…………4時間かけて?」
「食事もしますから、3時間半ぐらいじゃないですかね?」
いやいやいや。
思わず空いた口が塞がらない僕を、一体誰が責められようか。
冗談かと思ってリニスの目を見つめるが、そこに一切嘘偽りの色は無い。
本気の目である。
思わず敬語が口から漏れでる。
「あのー、リニスさん? 正気ですか?」
「フェイトとは再会するまでお出かけする事は中々無かったですから、コーディネートをするのは久々なんですよね。
ふふふ、燃えてきましたよ。
フェイトと一緒にフェイトのバリアジャケットを考えた時以来です」
あれはリニスのセンスだったのかよ。
いや、リニスはプレシア先生の使い魔なので、結局プレシア先生のセンスでもあったのだろうか。
どっちでも微妙に嫌な予感しかしないのだが、かくいう僕のセンスもギンガとスバルに酷評されたばかりである、あまり大きな事は言えないだろう。
が、どちらにしてもだ。
「俺寝るから、7時頃にまだ寝てたら起こしてくれよ」
と言ってベッドの中に戻ろうとする僕に、剃刀のように鋭い一言が突き刺さった。
「クイントと一緒に出かけるのに、いいんですか?」
ピタリと。
僕の動きが止まった。
「いえ、別にウォルターがいいのなら、私は構わないんですけどね?
ただ、ウォルターが出かけてから、もっとお洒落に気を遣ってから出てくれば良かった、と後悔したら嫌だなぁ、と思っただけでして」
既に寝転がってリニスを背にしている僕だが、声色と気配から、リニスが本気で僕の事を慮っているようだと言うのが分かる。
僕は別にクイントさんの前だからお洒落に気を遣うべきだなどと思っていない。
ただそこで思い浮かべるのは、リニスに苦労をかけていると実感した、数日前の事である。
彼女に報いなければならないと思うのなら、できる限り彼女の心配はきちんと受け止めてやるべきではないか。
そんな風に思って、僕はゴロンと転がり反転した。
リニスの瞳を見つめ、そこに嘘偽りの色が無い事を再確認し、静かに言う。
「うん、じゃあ、お願いするさ」
パァァ、と花弁が開くような、素晴らしい笑顔。
両手を組んで身を乗り出し、リニスは弾むような声で言った。
「分かりましたっ! じゃあ早速、えーと確かあの服はこの辺に……」
言いながら服を探し始めるリニスに、苦笑気味になりつつ、僕は上半身を起こし、ベッドに腰掛ける。
たったこれだけでリニスがこんなにも喜んでくれると言うのなら、それだけでも今日の休暇は価値ある物だっただろう。
そんな風に心の中を暖かくしながら、僕は静かにリニスを待つ。
待ち時間の間、僕は僅かに思考を巡らせた。
クイントさんが僕にとって特別な人物である事は確かだろう。
なら、先ほどは想像する事すらせずリニスの言葉を受け入れたけれども、本当にそんな事態になったら僕はどんな気持ちになるだろうか。
例えばと、クイントさんにごめんダサいねウォルター君、と言われた時の事を想像する。
ドスン、と僕は臓器が重くなる感覚を味わった。
まるで重力が強くなってしまったかのようで、体中が鉛のように重く感じられる。
有り体に言えば、僕はショックを受けていた。
ただの想像でこんなにショックを受ける自分に驚く。
いやいや、いくらなんでもこれでは、僕はメンタルが弱過ぎないだろうか?
元々精神的に強い人間だとは思っていなかったけれども。
(もしかして、この感情で僕は弱くなっているのかな)
『データにありません』
(いや、それはもういいって……)
苦笑交じりに堪える僕に、胸元のティルヴィングが明滅する。
『しかし貴方は信念を貫きたいと言い、その為に強くなってきました。
その目標の為には、力は失われるべきではありません』
(その為に、僕とリニスはその感情を調べようとしているのさ)
『了解しました。
マスターとリニスは力の為に、信念を貫く為に、その感情を調べています』
確かに僕が信念を貫くためには、精神的にも弱くなるべきではない。
しかし事が精神や感情によるものなのである、今までのように力押しでは上手くいかない事も多いだろう。
その事を分かっていなさそうなティルヴィングに、僕はやれやれと肩を竦める。
そんな風にティルヴィングと答弁を続けている僕に、目的の服を見つけたらしく、あっ、とリニスが声を上げる。
思考を脇にやりリニスに視線をやると、彼女は手にした服を僕に向け、言った。
「これなんてどうですか、ウォルター。鏡で合わせてみましょうよ!」
手にした服を見て、僕は思わず思ってしまう。
……早まったか、と。
――唐突だが、現実逃避の為に回想を始める。
先日、休暇だ、とゼストさんは僕に告げた。
なんでも通常体力的に劣る見習いには隊員よりも多くの休暇を与えられるらしく、祝日もそのうちの一つなのだと言う。
僕はむしろ体力的にはゼストさんと互角以上なのだが、決まりは決まりだ。
僕はオフトレにでも使うかギンガとスバルの相手でもしようかと思って休暇を承諾した。
しかし当然リニスも休みなので、彼女の為に時間を作るのもいいかもしれない。
そんな事を考えながら帰宅し夕食をとった後、クイントさんが出し抜けに言ったのだ。
――明日は私も休暇なんだけど、一緒に映画でも見に行く? と。
僕は驚きのあまり、椅子から転げ落ちそうになってしまった。
驚きで頭が真っ白になってしまい、僕はパクパクと口を開け閉めする事しかできない。
硬直している僕へと、苦笑気味にゲンヤさんが家族で出かけるんだがな、と付け加えなければ、果たして何時復帰できたものだろうか。
僕はコホンと咳払いをし、全てを無かった事にしつつ、家族水入らずの所に邪魔するつもりはないさ、と言ったのだが。
ギンガとスバルの、うるうるとした2対の目が上目遣いに僕を貫いた。
ちらりと視線をやると、ゲンヤさんは対僕では何時もの通りの無表情で、クイントさんはギンガとスバルの2人と同じ目で僕を見てくる。
仕方なしに、僕はため息混じりに頷く事となったのであった。
などと現実逃避をしているうちに、2時間半程が経過していた。
虚ろな目をしつつ服を合わせ続けた僕は、7時頃になるまで拘束され続け、朝食という事になりようやく開放される。
が、食後もリニスは僕に幾つかのコーディネートを試着させ、その中で彼女が一番いいと思った物を、試しにギンガとスバルに見せる事になったのだ。
期待に滾る2人を前に扉を開き、僕の姿を見せて。
「…………」
「…………」
「どうです、格好いいでしょう?」
この有様である。
ポカーンと口を開けたままになった2人を前にする僕は、一言で言えばラバー素材の服を来ていた。
全部が全部ラバーではないが、体に吸い付くようなフェティッシュな服ばかりで、体のラインが浮き出ているのが自分でも分かる。
10歳にも満たない少女にこの姿を見られていると思うと、羞恥でこのまま昇天したくなってきた。
目が死んでいるのを自覚しつつ、助けを求めてギンガとスバルを見つめていると、僕の意思を汲み取ってくれたのか再起動する2人。
「え、えっと、格好いいけど、映画館に行くんだし、もっとカジュアルな格好の方が似合うんじゃあないかな」
「う、うん、そうだね、似合ってるけど今回はちょっと派手過ぎるかも」
「う~ん、そうですかね?」
頑張れギンガ、頑張れスバル!
僕の眼球から放たれる頑張れ光線を受け取ってくれたのか、2人は物凄い勢いでリニスを説得すると、今度は私達がコーディネートする番と言ってリニスを追い出してくれた。
リニスが視界から消えた瞬間、安堵のあまり崩れ落ちる僕。
ある意味これ以上ない強敵に、僕は消耗し尽くしていたのだ。
そんな僕を労りの目で見つつ、スバル。
「リニスさんって……」
「俺もアイツのこういう趣味は初めて知ったよ……」
死にそうな顔をする僕に、うん、と一つ頷くと、ギンガが胸を張って告げた。
「じゃあ、今度は私達がウォルターさんをきっちりコーディネートしてあげますからねっ!」
「……あ、あぁ、お手柔らかに頼むぞ」
***
白く清潔な空間だった。
壁も白ければ天井も白く、床も矢張り白。
階段までもが白く、エスカレーターの黒との対比で際立つように見えていた。
そんな映画館の中、リニスはギンガと手をつなぎ、一行の最後尾を歩いている。
その前をウォルターとスバルが、先頭をゲンヤとクイントが歩く形になっており、必然ウォルターは2人を後から見る形になった。
ウォルターとリニスが子供の相手をしている為だろう、ゲンヤとクイントは折角だからと2人で並び歩く事になったのだ。
2人は、互いに腕を絡めながら歩いていた。
後ろから見るだけでも愛し合っているとよく分かる背に、リニスと手をつなぐギンガは何処か誇らしそうにすらしている。
代わりにリニスからは背しか見えないウォルターは、その背だけで何処か寂しげな感情を抱いている事がよく知れた。
暫く歩くと、一行はチケット売り場にたどり着く。
矢張り白を基調とした売り場には、大人2人が並ぶ事となり、ウォルター達は離れた所で待つ事となった。
自然、お喋りを始めるギンガとスバル、それに相槌を打つウォルターに、見守るリニスと言う役割になる。
リニスは、ウォルターが時々ふらりと視線を動かすのを見つけた。
そしてその先がクイントに向かっており、彼女と腕を絡めながら待つゲンヤを視界に入れている事を。
そしてそれを見て、時折ウォルターが今にも泣き出しそうな顔をしてしまう事をも。
――これは、仕方のない事なんです。
そう内心で呟きながら、リニスは今にもウォルターを抱きしめに行きたくなる自分を抑える。
そも、ウォルターがクイントに淡い恋慕を抱いている事にリニスが気づいた瞬間から、こんな日が来る事はわかりきっていた事だ。
クイントは初めて出会った日から明確に夫を愛していたし、それは今でも変わらない。
倦怠期と言う程の物もなく、精々喧嘩中で機嫌が悪い程度で、非常に仲の良い夫婦だった。
2人が揃っている場所に、ウォルターが割って入る隙間は無い。
いや、例え2人を死が分かつ事があったとしても、クイントはウォルターのような子供を相手する事は無いだろう。
確信を持ってリニスはそう考える。
それ故に、ウォルターの失恋は確定している、とリニスは思っていた。
故にリニスは、ウォルターに初恋を通して心の成長を促し、そしてできれば人に恋する事の素晴らしさを知ってほしいと考えている。
仮面を被ったままでは、人に恋をする事はできない。
器用な人間なら可能かもしれないが、生真面目で硬い所のあるウォルターにそれは不可能だろう。
それならばウォルターは、仮面を外した人生を本気で考え始めるのではないか。
少なくとも、今までよりもそれを欲する事となるのではないか。
そしてそれは、きっとウォルターの幸せに繋がるのではないか。
そこに必要以上の介入をするべきではない、とリニスは考えていた。
なるべくウォルターには純粋な恋を味わってほしいし、そもそもリニスに恋の経験は無いのだ、上手い介入の仕方が分からない。
そも、倫理に反する恋である、リニスはウォルターを本格的に応援する気は無かった。
恋に気づかぬまま去るのではなく、気づき、その価値を知ってほしいというだけだ。
故にリニスは我慢を続け、ただただウォルターを見守る立場を取る。
「ウォル兄?」
出し抜けにスバルが問うたのは、リニスがそんな考えを一通り回想した頃であった。
不思議そうにウォルターの顔を覗きこむスバルに、ウォルターが首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「ウォル兄、なんか寂しそうな顔してなかった?」
虚を突かれ、ウォルターは目を瞬いた。
幸い、ギンガがそんな事ないよ、と言うのに反論するため、スバルの視線が外れた瞬間の事である。
ウォルターは目を細め、2人の背丈に合うよう腰を下ろした。
柔らかな笑みを浮かべ、口を開く。
「そんな事無いさ」
「ほら、言った通りじゃない」
「む~、本当だもんっ!」
「けれど……」
言い合いになりそうな2人に割って入りウォルターは続けた。
「けれど、もしそうだったとしたら、俺はスバルにお礼を言わなくっちゃならなかったな」
「ふぇ?」
「んえ?」
不思議そうな顔をする2人に、苦笑気味にウォルターが笑顔を作る。
それに顔を見合わせ、2人は互いの意思が同じである事を確認。
再びウォルターに視線を向け、異口同音に告げる。
「よく、わかんない」
「そっか、まぁそれでも……」
立ち上がろうとするウォルターを制し、スバルが動いた。
えいっ、と手を伸ばし、屈んだままのウォルターの頭の上に置く。
「けど、とりあえず撫で撫でしてあげるよ!」
「あっ、私も!」
続くギンガがウォルターの頭を撫で、姉妹は仲良くウォルターの頭を撫でる作業に夢中になった。
それに苦笑しながらも、ウォルターは黙ったまま目を閉じ、それを受けていれる。
その顔が、まるで涙を堪えているかのようにすら見えて、リニスは僅かに目を細めた。
靴裏が硬い床板を叩く音が4人の元に向かってくるのを、リニスは耳にする。
振り向くと、不思議そうな顔をしたクイントと、僅かに苦い色を帯びた顔のゲンヤとがチケットを持って歩いてきていた。
***
白いテーブルにベージュのソファ、床は暗い木目のフローリングがコントラストを作っている。
照明は明るく快活な印象で、窓の外から差し込む光がそれを助長していた。
そんな中、6人用の座席には僕とリニスが向かいに、僕とゲンヤさんでスバルを、リニスさんとクイントさんでギンガを挟むように座っている。
食事を注文してから待つ間、ギンガとスバルは興奮しながら先ほど見た映画について語っていた。
「格好良かったよね、敵がガーってきたのを、ババーってやっつけてっ!」
「うん、凄かったっ!」
擬音満載の台詞を言うのは快活なギンガであり、終始それに同意しているのが大人しいスバルの方だ。
イメージ通りの2人に、思わず笑みを漏らしながら、時たま同意を求める2人に肯定的な返事を返す。
映画は、子供向けと思われるアニメ映画だった。
少年がある日不思議な力に目覚め冒険活劇をするというありがちな内容だったが、細部は中々練られた内容で、見ていて僕も関心してしまう程であった。
子供を惹きつける仕事も大変なんだな、と思いつつ食事を待っていると、そうだ、とスバルが僕の膝の上に掌を置いた。
小さな子供特有の、高い体温が僕に伝わる。
引っ込み思案な所のあるスバルが言いよどまぬよう、僕はなるべく優しい声色を使って問うた。
「うん? どうした、スバル?」
「あのね、ウォル兄が小さい頃はどんな映画やってたの?」
虚を突かれ、僕は目を瞬いた。
僕の過去に興味があるのだろう、リニス以外の全員の視線が僕に集まるのが分かる。
過去の事は欠片も明かす気は無かったが、元々知らない事だ、答えようが無い。
僕は困り果てつつ口を開いた。
「悪いな、覚えてないんだ」
「えー、そうなの? それじゃ、小さい頃何して遊んでたとか、そういうのは?」
瞬間、僕の脳裏に鮮烈なあの表情が浮かんだ。
UD-182。
あの心が燃え盛るような、齢10にして凄まじい表情。
しかし、僕の記憶の劣化は余程早いらしく、咄嗟に5年前以前に遊んだ内容の事は思い出せなかった。
彼の輝ける魂だけは記憶しているし、その具体的内容も覚えているものの、それ以外の日常が霞がかったように思い出せないのだ。
思い出せるのは、実験で次々に実験体が減ってゆき、そして実験体達は用済みになれば陵辱されて廃棄処分された事だけ。
矢張り困り果てた表情のまま、僕は言う。
「悪い、小さい頃の事は本当に覚えていないんだ」
「え~、そうなの?」
「そうなんだ、すまんな」
急な話の転換であったが、僕より幼いギンガとスバルにはよくある話であった。
ふと、そういえば僕にはそんな時期は無かったな、と思うが、思索に入るより早くクイントさんの不満そうな声が響く。
「え~、私もウォルター君の過去、興味あるんだけどな~」
「って言われてもな、覚えていないのは仕方がないさ」
「ぶ~、リニスは何か知らない?」
「いい大人がぶーたれないでくださいよ、クイント」
とリニスとクイントさんが会話の応酬を繰り広げるのに、スバルが僕の膝の上の手をぎゅ、と握った。
視線をスバルにやると、大きな目を見開いて僕を見つめている。
僕は狭い席でできる限り腰を屈め、スバルの頭に手をやった。
ぽん、と軽く触れてやると、少しだけ目を細めつつ、スバルは僕にキラキラと輝く瞳を向け続ける。
「どうした? スバル」
「その、映画も面白かったけど、戦っているの見たら、この前のウォル兄の戦いを思い出して」
「ゼスト隊でのか」
「うん、格好良かったなぁ、って」
流石に自分の半分も生きていない子供に純粋な憧れの視線を向けられると、僅かに頬が火照るのは止められなかった。
隠し切れない嬉しさを表情に滲ませつつ、僕はニコリと笑みをスバルに向ける。
くすぐったそうに、目を細めるスバル。
気づけば僕とスバルを除く4人は、一言も喋らずに僕とスバルの動向に注目しているようだった。
「何時も乱暴な事は怖いって言ってたスバルが、か」
「そうだけど、ウォル兄はちょっと別で。
何て言えばいいのか分からないけど、兎に角、凄かったから。
だから……ウォル兄みたいになりたいな、って思うようになったんだ」
「……俺のように?」
「うん、強くなりたいな、って」
僅かな驚きを、僕はどうにかして内心で処理をする。
大人しいスバルは戦いを嫌っている所があり、魔法にも手を出す様子は無かった。
偶に運動をする範囲で、ギンガと交代で僕と模擬戦の真似っ子をするぐらいであった。
それがどうだろう、自分から強くなりたいと言うようになるなどとは。
僕は、胸の中がいっぱいになるのを感じた。
明らかにスバルは僕の影響を受けて、強さを志してくれた。
それだけならば、今までにも何度もあった事だ。
偽りとは言え僕の信念に共感し、心の炎を灯らせてくれた人々は居た。
けれど。
日常の中に居ながら誰かの心の炎を灯らせる事ができたのは、初めてだった。
日常の中に居る事が、僕の信念を貫く事を邪魔しない事が、証明されたのだ。
意外な程の衝撃が僕の中をめぐり、一瞬、涙すら出そうになってしまう。
僕はそれを隠し、できる限りの優しい笑みを浮かべ、一言告げた。
「そうか」
思わずくしゃり、とスバルの頭を撫でる。
くすぐったそうに笑みを作るスバル。
そこに、思わず、と言った様相でギンガが割り込んだ。
「わ、私だってウォルターさんみたいになりたいですっ!」
「あぁ、ギンガもありがとうな」
と言って、僕はテーブルに手をつき身を乗り出したギンガの頭を、軽く撫でてやる。
しかし不満そうな表情で、ギンガ。
「……スバルと態度が違う気がする」
「そ、そうか?」
「レディは平等に扱わなくっちゃいけないんですよっ!」
「そりゃスマンな。それじゃあ……」
大人ぶって告げるギンガに、さてどうやってギンガを扱おうかと考えた時、料理が運ばれてきた。
頼んだ料理が配膳されていくのに、渋々と言った様子でギンガは席に腰を下ろし、埋め合わせは食後にしてあげますからね、と告げる。
怖い事だ、と思いつつも、僕は湯気をあげるハンバーグを切り分けながら、ちらりとクイントさんに視線をやった。
人目をはばかる事無く凄まじい速度で食事を続けるその姿は、全くもって何時も通りである。
と、そうしているうちに、クイントさんと視線があった。
ニコリ、と笑いかけられる。
ギンガやスバルとの会話を聞いていただろうに、その顔に一切の負の感情を滲ませる事無く。
それに、少しだけ悔しさを抱く僕。
その意味を一旦捨て置き慌てて視線をハンバーグに戻しながら、僕は今の自分の思考を吟味した。
いや、娘を少し前向きにしてもらったのだから、クイントさんの性格なら負の感情を抱く事などまず無いだろう。
なのに何故、僕は少しでいいから負の感情を抱いて欲しいなどと、そんな事を考えたのだろうか。
なんだか女々しい感情を抱いており、しかもそれで心を一喜一憂させている自分が阿呆らしく、憂鬱な気分が湧いてくる。
ふと視線を上げると、そんな僕をリニスは微笑んでいるような、それでいて同情しているような、なんとも言えない表情で見つめていた。
***
カラン、と氷がグラスを叩く音が響く。
透明なグラスの中には氷と琥珀色のウイスキーが入っており、少し骨ばった手がそれを握っていた。
手がグラスを持ち上げ、薄い口唇へと運ぶ。
重力がウイスキーの水面を傾斜させ、氷が澄んだ音を響かせた。
ウイスキーを啜ると、ゲンヤは気持ち勢い良くグラスをテーブルの上に戻す。
「ふぅ……」
気持ち深い、アルコールの混じった溜息。
僅かに皺が刻まれ始めた老け顔を揉みながら、ゲンヤは隣の妻へと視線をやる。
こちらは好物の冷えた麦酒を傾け、グッグッと喉を鳴らしながら勢い良く飲んでいた。
「プハーッ! んー、今日の子守の疲れも吹っ飛ぶわねぇ!」
雄々しい声を漏らすクイントの桜色の口唇には、僅かに白い泡が付着している。
色気の欠片も無い筈なのに何故か魅力的な妻に、苦笑気味にゲンヤが答えた。
「疲れったって、今日は半分ウォルターとリニスが受け持ってくれただろうが」
「ウォルター君は子供のうちでしょう」
しれっとした顔で言うクイントに、ゲンヤは僅かな驚きと安堵を感じる。
年齢の割にかなり大人びた所のあるウォルターを子供扱いできる所に驚きを。
偶に年齢を超えて魂を震わせるような事を言えるウォルターを、クイントが男と扱っていない事に安堵を。
直後、自分の情けない思考に、ゲンヤは自虐の念を覚えた。
顔を顰めるゲンヤに、クイントが目を細め、軽い声で告げる。
「あら、嫉妬でもしちゃってたの?」
「…………」
その声の裏に何処か真剣な物を感じ、ゲンヤは無言で肯定せざるを得なかった。
そも、元々夫婦の時間を取れる今日は、妻にその事を打ち明ける腹積もりであったのだ。
その事実を妻が察していたというのなら、時間の節約になるし、面倒がなくていい。
そんな夫の感情を察したのだろう、クイントは深く溜息をついた。
深くソファに腰掛け、背もたれに体を委ねながら言う。
「やっぱり、そうなのかな」
「そうだろうな」
「……最近になって薄々感づいていはいたんだけど。もしかしてウォルター君って、私の事を好きなのかしら」
「あぁ」
ゲンヤの答えに、クイントは再び深い溜息。
ズルズルと体をずり下げ、肩が背もたれの中心に来る程にまでなる。
青い髪がクイントの頭より少し上に張り付き、だらしのない印象を助長していた。
暫し、沈黙。
溶けた氷がグラスを叩く音を皮切りに、クイントが問うた。
「あなたは何時から気づいていたの?」
「2年ぐらい前から、薄々だな」
ゲンヤがウォルターに嫉妬に近い感情を感じ始めたのも、その頃からである。
かつてクイントに問うた、気づいていないのか、と言う一言もまた、それを指していたのだ。
次元世界最強の魔導師にして、人の魂を震わせる英雄。
そんなウォルターは、何処か年齢を超越した人間という印象があり、ゲンヤは彼を子供だと心の底からは思えずに居た。
それ故に彼がクイントに淡い恋心を持ち始めた時、ゲンヤは微笑ましさではなく不快感を覚えたのだ。
自分より優れた雄が番に興味を持ち始めた危機感、焦燥感、それでいてクイントが己の妻であると言う優越感。
そう感じるごとにゲンヤは我に返り、ウォルターはまだ子供だと自身に言い聞かせていたが、それでも時折そういった感情を抱き始める事を止められずに居た。
クイントとの間に確かな絆があると思ってはいたが、それでも不快感を抑える事はできなかったのだ。
「それで、2年前からウォルター君の事、微妙に嫌っていたのね」
「笑えばいいさ、ガキ相手に本気で嫉妬しそうになっている俺をな」
吐き捨てるように言いつつ、ゲンヤは溜息をつく。
恋心が強まるに連れ、ウォルターは年齢相応の部分を見せるようになってきた。
特に今日のウォルターなど、初恋に振り回される純朴な少年そのものであった。
自分が今までこんな子供に嫉妬してきたのだと思うと、ゲンヤは醜い自分を直視させられる気分だった。
倍以上の年齢差がありながら、あまりにも大人気なかった自身に吐き気をすら感じた。
それ程までにウォルターが特殊な人間だったと言うのも確かだが、そんな事言い訳にすらならない。
沈み込むゲンヤに、クイントが手を伸ばす。
ゲンヤの頬に、クイントの手が触れた。
指先がまず触れ、それから五指が花開くかのように広がり、掌がゲンヤの頬へと張り付く。
「笑わないわ。私だって、ウォルター君の事をただの子供として見れたのは、偶々あの子に不安を相談されたからだもの」
「……そう、か」
触れられるままにしていたゲンヤに、クイントは伸ばした手を艶やかな動きで首へとやった。
軽い口づけをゲンヤの頬に残し、少女のような瑞々しい笑みを浮かべる。
「私は、何があってもあなた以外の人を愛する事なんてないわ。
例えこれから成長するだろう、ウォルター君が相手だろうとね」
「……あぁ、俺もお前の事を……愛している」
子供に嫉妬してしまうような自身に、それでも愛の言葉を囁いてくれるクイント。
そんな彼女が愛おしくて堪らず、ゲンヤは久しく愛を言葉にしてクイントに告げた。
2人は軽く口付けを交わし、互いに腕を回し抱きしめあう。
互いの体温を、心臓の鼓動を交わし合った後、もう一度口づけを交わし、そして離れた。
そのままクイントを押し倒したい衝動がゲンヤの中を巡ったが、流石に同じ屋根の下に居るウォルターの事を考え自重する。
驚くほど綺麗に、ゲンヤの中にこびり付いたウォルターへの嫉妬が霞んでいた。
代わりに叶わぬ初恋を抱いた彼に、微笑ましさと同情とが湧いてくる。
「ウォルターの事、酷い振り方にならないよう気をつけてやれよ」
「わかってるわよ、もう」
そう何の躊躇もなく言ってのける妻に、ついにゲンヤの嫉妬心は掻き消えた。
ゲンヤは再びウイスキーに手を伸ばし、それを見て、クスリと微笑みながらクイントも麦酒へと手を伸ばす。
氷とグラスが鳴らす音が再び響き、麦酒に喉を鳴らす音が続いた。
ウォルターはいずれ初恋を散らすだろうが、この妻であればそう酷い事にはしないだろう。
初恋の経験はウォルターを精神的に成長させ、元より超人的だった精神を更なる高みに上げるに違いない。
そうなった時のウォルターは、果たしてどれほどの大人物になっているだろうか。
管理局の人間であるゲンヤは立場的に表立って彼を応援する事はできないが、それでも内心ではそう思ってしまう。
娘たちもウォルターに憧れ、踏み出せなかった一歩を踏み出せたようだった。
妻も子供を作れないと分かった時、その心を救われた事があったと聞く。
ゲンヤもまた、妻との愛を再確認する事ができた。
ならばゲンヤは、ウォルターに何時か何か、恩返しをせねばなるまい、と思う。
どんな内容にするかは、確かに難しい。
だが、超人的なウォルターにも歳相応の部分があると知ったのだ、協力できる事はあるに違いない。
――いずれ借りは返す。
内心でそう誓う、ゲンヤなのであった。
あとがき
ちょっと日常回でした。
次回はなのはさん可愛い回になります。