目を開く。見えてくるのは見慣れた白い天井。体は清潔なシーツで包まれている。プレア・レヴェリーは自分の小さな体がベッドに寝かされていることに気づいた。もう何度目のことだろう。突然意識を失ってベッドの上で覚醒したこと。体を蝕む倦怠感に邪魔され口だけで失望を表現したのは。プレアは言葉をため息に含ませた。
「僕はまた……」
もう何度も見てきたのだ。白い、あまりに味気ない天井を。ただ、それは単なる八つ当たりに過ぎないことをプレアは理解していた。別に白が嫌いな訳ではない。白い顔が赤い瞳でプレアの顔をのぞき込んだ時、不快感や嫌悪感は一切起きなかった。
「プレア……」
プレアの直属の上司であるゼフィランサス・ズールはいつものように漆黒のドレスに純白の肌をして、ベッドのすぐ横に立っていた。ゼフィランサスが名前を呼んでくれている間に、何とか上体を起こすことができた。ただそれも、ゼフィランサスが支えてくれたからこそできたことだ。
「ゼフィランサスさん、すいません、こんなところで寝ていて」
完全に上体が起きあがったところで、もう十分と判断したのかゼフィランサスは離れた。白状させてもらうなら、少し残念に感じた。元いたベッドの脇に戻ってから、まるで硝子ケースに飾られた人形のように動きを止めてから、ゼフィランサスはプレアに赤い瞳を向けた。
「問題ないよ……。肝心の部分はまだ手出しできないから……」
ゼフィランサスの顔に表情はない。顔が判断材料にならなくとも、この人が優しい人だとは、ともに仕事をして学んでいる。同時に、妙な気遣いをしない人だとも。言葉に優しい嘘はない。プレアを気遣ったのではなく、新型の開発は本当にプレアの不在に耐えられるところまで進展しているのだ。
それもすべて、ゼフィランサスのおかげである。口からは自然と感謝の言葉がこぼれた。
「ありがとうございます、ゼフィランサスさん」
瞬きをただ1回だけ。これがゼフィランサスの見せた反応のすべてである。最初は戸惑ったが、今ではそれがゼフィランサス主任らしいと落ち着く。
この人とモビル・スーツ開発に取り組んでそろそろ1月になる。プライベートな付き合いなど一切なかったが、どんな他愛のない話にも嫌な顔1つせず応じてくれた。そんな安心感は、今もプレアの胸に残り続けている。
「僕にとってこのプロジェクトは賭けでした。成功しないかもしれないってわかってましたけど、でも成功させればザフトに多大な貢献ができる」
自分に残された時間の中で、何かを成し遂げるためには多少なりとも賭けは必要だと、そう判断して。
「そう、反対するサイサリスさんにお願いしました」
プレアはゼフィランサスから目をそらしてしまった。なぜだか、会話の最中にほかの女性の名前を出すことが咎められた。
「でも、実際は厳しくて、だめかもしれないって諦めかけたこともあります。だからゼフィランサスさんのすごさはよくわかります」
褒められたことくらいでゼフィランサスは表情を変えようとしない。欲を言うなら、喜しそうな顔を見せてもらいたかった。表情のない顔。それ以外のゼフィランサスを見たことがないことは、残念以外の何者でもない。きっと、お礼を言っても何の反応も見せてもらえないのだろう。
「本当に、ありがとうございます……」
それでも、淡い期待をかけてお礼を言ってみる。ゼフィランサスは長めの瞬きをしただけだった。何も無視されているわけではない。もしプレアに関心がないならこんなところにはいないだろうし、すぐに出ていくはずだから。ただ表情に乏しいだけの人であることは1月仕事をともにしてわかっている。
優しくて、仕事もできる女性である。プレアが心血を注いでいた設計をたやすく組み上げてしまえる人である。それがうらやましくないはずはない。この人は、プレアがどうしても手に入れることのできないものをどれくらい持っているのだろう。
「ゼフィランサスさん、好きな人って、いますか?」
言い終えてから、自分でもどうしてこんなことを聞いたのかわからない。
軽く自分の頬を撫でた。ゼフィランサスはこの程度の反応を見せただけで、あっさりと話に応じてくれた。
「親愛として……? それとも愛情の方……?」
何か胸に詰まるような息苦しさを覚えるのは、きっと予想外に話に乗ってくれる事実に困惑しているためだろう。
「できれば、愛情の方でお願いします」
胸にできた違和感はまるでしこりのように重く、肺を圧迫する。プレアは自分で望んだことでありながら言葉を繋ぐことに苦痛を感じていた。
赤い瞳がまっすぐにプレアのことを見て、ゼフィランサスは躊躇というものを見せなかった。
「いるよ……。今ちょっと距離をおいてるけど……」
このことを聞いたことで、何かが変わることはない。変わらず、胸には違和感がこびりついて離れない。笑顔を作ろうとすると、筋肉が妙な緊張に見舞われた。
「やっぱり、ゼフィランサスさんが羨ましいです」
この一言に、プレアを襲う不愉快な想念の正体があるのだと理屈で判断することができる。このほかに考えようがない。プレアは嫉妬しているのだ。この人は自分にないものをすべて持っている。優れた技術も、研究者としての名声も、愛を語らう人も。
ゼフィランサスのことを見ていると、苦しさは募る。それでも話を続けようとするのは、ちょうど毒素を吐き出していることと同じかもしれない。食道と口腔が焼けても嘔吐物を体内に残しておくよりはいい。
「僕の両親は……、僕に偉大な学者になって欲しかったそうです。そして、世界の役に立って欲しいって、通常では行わないくらいに過度な遺伝子調整を希望しました」
それだけ遺伝子を弄くってしまえば、もう自分たちの子どもでさえなくなってしまうのに。現に、プレアの遺伝子型と親のものとを比べたところで親子鑑定は否定される。それどころか、親戚縁者とも判断されないほど、変わってしまっている。こんなプレアを、それでも彼らは息子と呼んだ。わずか1歳にして言葉を話し、5歳で大学入学が認められたことを我がことのように喜んでいた。その対価に人よりも短い時間しか与えられていなくとも、彼らは関心を払いはしなかった。永遠の灰色よりも一瞬の虹色の方が美しいからと。
手に力がこもり、シーツを強く掴んでいた。
「僕は両親を憎んでいます。こんな蜻蛉の体を……、いえ、次世代を残せる分、蜻蛉の方がはるかに有意義な生を全うできますね」
蜻蛉の一生が短いと感じるのは、人間の主観でしかない。彼らにとっては間違いなく一生であり、たとえ1000倍の時間がプレアにあったとしても、蜻蛉はその儚さを同情してくれるかもしれない。プレアが、プレアを憐れんできたように。
「物心ついてからいつも焦らされるんです。僕はこのまま、何もできず、何の貢献もできず死んでいくんじゃないかって!」
手元に視線を落とすと、大きく皺をつくったシーツが見える。それだけの力くらい、プレアにも残されていることがおかしい、くやしい、馬鹿らしい。どうせ、生きられたとしても数年。何をしても、何を得ても、すぐに失われてしまう。握力なんてあったところで何の意味があるだろう。
「……それじゃあ、僕は何のために生まれたんですか?」
もう涙も流れない。こうして眠れない夜は幾度となくすごして、その度に泣いてきた。耐えられないほど辛いことでありながら、耐えても待っているのは死以外の何者でもない。
ただ、今日は何かが違った。それが何であるのかは、考えてみるまでもなかった。ゼフィランサスがいるのだ。こんなこと、誰にも話したことはなかった。父にも母にも、いや、プレアに生物学上の両親なんていやしない。ともかく、親では決してない2人に話したことはなくて、誰にも話したことはなかった。
初めてのことだった。誰か、他の人に話すということは。こんなことを聞かされても、きっとゼフィランサスなら無表情で受け止めるのだろう。そう、顔を上げて様子を見ようとする。
すると、甘い香りがして、顔にやわらかい布地が押し付けられた。頭の後ろにフリルをあしらった袖口の独特の感触がして、ゼフィランサスに抱きしめられたのだとわかった。
「同類への憐憫でもいいなら……、私はあなたを憐れんであげられるよ……、プレア……」
泣くことに飽きてしまったはずなのに、暖かい腕の中でプレアは涙を堪え切れない感じを思い出していた。
2週間。それがどのような時間であるのかは個人差が激しいはずだ。新型モビル・スーツの量産に成功した地球連合にとっては雌伏の時を終えた喜ばしい時期であったことだろう。ビーム兵器を装備した新型を相手にするザフト軍にとっては苦しい戦いが続いた期間でもあった。
そして、アスラン・ザラには、親友を失ってから経過した時間そのものである。
バナディーヤ。ほんの2週間前は砂漠の虎の威光で満ち満ちていたこの街も、この地区最大の防衛拠点として物々しい雰囲気に包まれる。街中の、ザフトが徴用している屋敷でも。
アスランは開けた部屋のソファーに腰掛けていた。これまでは共同スペースとして利用されていた部屋だ。アスランのもの以外にもいくつもの椅子が並べられている。ただし、それに見合うだけの人は見いだせない。アスランを除いて、ここにはわずか2人しかいなかった。
この屋敷にいた多くの兵は物量で広域に押し寄せてくる地球軍を相手にするため各地に散っていった。まだ敵の量産型モビル・スーツの数が揃っていないため押し負けることはないようだが、どこも苦戦を強いられている。
ここに残っている者は2種に限定される。本来の勤務地がこことは異なる者。あるいは、こここそが戦場である者。前者はジャスミン・ジュリエッタ。アスランの隣に座ったまま、その視線はバイザーに覆われてうかがいしれないが、うつむいているようだ。
先ほどからまったく話をしていない。一体何を話題にしてよいものかわからない。音の空隙である。自身の心音が一番大きな音に聞こえる。時折窓から吹き込む風が震える以外、何も耳に触らない。
どんな些細な音でもいい。何かしら行動するだけでこの空間をその音は占有できることだろう。たとえば、規則正しい足音のようなものでも。聞こえてきた足音は次第に存在感を増していく。それは単に人がアスランたちに歩み寄っているからに他ならない。そして、足音はソファーのすぐ横で止まった。
首を曲げて見上げると、そこには歳の割に若い印象を受ける男性が立っていた。明らかにアスランとジャスミンを見ている。
「マーチン・ダコスタ指揮官代理」
そう相手を呼びながらアスランも、若干遅れてジャスミンも立ち上がり敬礼する。マーチン代理は敬礼を返した。
「君たちはこれからどうする?」
何とも実直な聞き方である。軍人とは本来こういうものだが、アンドリュー・バルトフェルド指揮官にアスラン自身毒されていたらしい。感じたのは違和感よりも懐かしさ。もうバルトフェルド指揮官はいないという事実は、ニコル・アマルフィの不在とともに胸にいやな染みをつける。
敬礼を解いて、休めの姿勢を維持する。こんなところも、変化を実感させる。
「自分たちはまたガンダムを追います」
本来の任務に戻るだけ。それだけのことだ。ただそれだけのことに、不思議と寂しさがわいた。それは、ジャスミンが必要以上に感傷的な声をしているせいかもしれない。
「これまでお世話になりました」
これが今生の別れであるみたいにジャスミンはかすかに声を震わせていた。ダコスタ代理は長い瞬きをした。もったいぶったように目を閉じて、開いた途端に話題を変えた。
「ニコル・アマルフィとバルトフェルド指令を引き合わせたのは私だ」
亡き親友の名前は、あまりに唐突に聞こえてきた。
「はじめはいかにもお坊っちゃんだと感じたが、ガンダムを甘く見ていた我々を諫めた威勢はすばらしいものだった」
厳めしい軍人の顔ではなく、代理は意識して微笑んでいるようである。声が柔らかい。
「私がここにいられるのも、彼のおかげだ」
ダコスタ代理の手がゆっくりと側頭部へと持ち上げられる。敬礼にしてはあまりに緩慢としてその仕草は、それでも間違いなく敬礼であった。
「ニコル・アマルフィには軍人としてではなく1人の人として、敬意を払いたい」
アスランは反応できなかった。どうしていいかわからなかった。代理はそのことを見咎めることなく来た時と同じような足音を響かせて部屋を出ていった。その後ろ姿が見えなくなると、体から力が抜けてしまったように、アスランはソファーに座り込んだ。ジャスミンは遅れて座りなおした。その位置は以前よりアスランに近く、まるで寄り添う恋人同士のような距離である。ただ、それが動揺を生むには、アスランの心は重く淀みすぎていた。
「ニコルさん、いい人でしたよね……、本当に……」
ジャスミンはアスランの顔を見ようとしない。アスランも、その気にはなれなかった。
「そうだな……」
この言葉を言い終えるよりも早く、ジャスミンの次の言葉は始まっていた。
「私たちを逃がすために戦って……」
もう返事の必要もないだろう。膝の上で拳を握って前かがみになるジャスミンとは反対に、ソファーの背もたれに寄りかかる。
「何が、あったんですか……?」
記憶の水たまりに触れたジャスミンの言葉は、その当時の情景を吸い上げる。2週間も前の戦いの記憶を。
「相手の方が強かった、それだけだ……」
それは、陳腐な喩えを用いるなら悪魔のようであった。GAT-X105ストライクガンダムがただ黒く染まっただけではない。肩から飛び出た増設スラスターカバーは鋭く尖り、機体の印象を鋭角にまとめている。背部のウイングは翼と形容するにはまがまがしい。
それに対して、GAT-X207ブリッツガンダムは墓所で風化した屍のようである。装甲のいたる所が損傷し、ちぎれ綻びた骸布を纏う姿にも似ている。パイロットであるニコル・アマルフィ自身、ヘルメットの中で荒い呼吸を繰り返す有様である。
黒いストライクは強い。地球軍の量産機はこの機体が登場するやいなや、遠巻きに眺めるだけとなった。数だけなら量産型の方が遙かに恐ろしいはずが、感じるプレッシャーは黒いストライクの方が遙かに強烈であった。
呼吸を読み、敵の隙を見つけ出し攻撃を仕掛ける。そんな上品な戦いのプロセスを、黒いストライクは一切合財無視した。駆け出す。地を踏みしめ、夜露を裂く勢いでストライクが近づいてくる。黒いストライクは早かった。踏み込み、重心移動、居合い。モビル・スーツの動きというよりは、抜刀のそれがブリッツとの距離を一気に詰めた。バック・パックから抜き放ったビーム・サーベルはまるで無駄がなく、太刀筋そのものが鋭さを感じさせた。反応は辛うじて。上体を後ろへと傾けるが、逃がし遅れた左腕があっさりと切断される。ビームの輝きとフェイズシフト・アーマーの灯火が混ざりあった独特の波長の光が切断面を覆い、爆発する。
この爆発を隠れ蓑に、大きく跳び退く。接近しては強力な剣を持つ黒いストライクが有利。砂漠に着地すると同時に右手の複合兵装を突き出す。トリガーに指をかけるとともに、強い衝撃が全身を襲った。どこが狙われたのかも意識できない。ただ、撃ち抜かれたことだけは辛うじて理解した。ブリッツが3歩後ずさって踏みとどまる。
流れる煙の先から黒いストライクがレールガンを突き出していた。ウイングに水平になるように持ち上げられて、サーベルが格納されていた側とは反対から起きあがったレールガンが肩越しにブリッツを向いていた。
サーベルとレールガン。武装と戦力をバック・パックに集中するところはストライクガンダムと同様の設計思想が見て取れる。ストライクガンダムは3種のバック・パックを併用していた。それぞれの長所を残しつつ組み合わせることに成功している。レールガンをウイングに戻す黒いストライク。手にはサーベル。ウイングを横に広げたその姿はストライクガンダムがかつて1度だけ見せた高機動バック・パックを用いた姿を彷彿とさせる。かつて、ストライクガンダムがアリスの暴威を見せたその姿と。
地球軍は一体いつの間にこんな新型を造り上げたのだろうか。ストライクがロールアウトしてからそんなに時間はなかったはずだ。そもそも新型を開発できるだけの十分なデータがあるのならわざわざヘリオポリスのような中立地帯で兵器を開発する理由がない。
(何にせよ、この敵をどうにかしないといけないようですね……)
あらゆる意味において不気味な相手だと言えた。
ビーム・サーベルを発現させる。身構えていると、何故か、黒いストライクに動きが見られない。その理由は、声として届いた。
「ニコル!」
熱源反応。2機の漆黒のガンダムの間にビームが着弾し、派手な火花を咲かせる。砂を巻き上げる。そして、満身創痍のバスターガンダムが、アスランがブリッツの傍に降り立った。装甲のところどころに被弾の跡が見られ、頭部は半壊さえしている。
救援が来たことの喜びを覚えるよりも先に、ニコルは自制を忘れ、声を荒げた。
「どうして来たんですか!?」
バスターガンダムがブリッツと背中を合わせるようにして武器を構えた。背部を映すモニターにはデュエル・タイプとバスター・タイプが姿を見せた。3角形の頂点を構成する位置に敵のガンダムが並び、完全に取り囲まれていた。
ブリッツは無事であった。ただ、装甲のところどころが剥げ落ち、左腕さえ切断された状態を無事だと言い張ってしまえばの話である。もっとも、同じ基準で判断すれば、こちらも無事ではない。こんな状態の2人を相手に、間合いや呼吸もないだろうが、敵のガンダムは囲みを維持したまま動かない。情報交換でもしているのだろうか。そんなことだけなら、こちらと条件は同じである。アスランもまた、ニコルと話をしていた。
「アスラン、ここは逃げてください……」
別に音量の大小が傍受される危険性と直接関係するわけではない。それでも、ニコルの声はひどくひそめたものに聞こえる。そんなことする必要はない。アスランは意識して声を大きくした。
「お前を残していけるか!!」
「行ってください!」
ニコルは決して臆病者なんかではない。だからこそ、続く戦友の言葉は現実的な響きをもって耳に届く。
「わかってるはずです! もう、足止めは十分です。でも、2機がそろってこの状況を脱出できるとは考えられません!」
否定などできない。歯を食いしばり、その隙間から息を吐く。悔しさをこらえるための仕草だが、こうしたところで感情が抑えられるわけでもなければ、打開策が生まれるわけでもない。それがなんとも悔しい。操縦桿を握りしめる手が痛いほどだ。
「それなら俺が残る!」
「アスランの方が僕よりも高い確率で脱出できます!」
「お前を死なせることなんてできるか! アマルフィ議員になんて言い訳させるつもりだ?」
父であるユーリ アマルフィ議員の名を挙げたことで、さすがにニコルも押し黙る。
「囲みを脱出してレセップス級と合流するぞ 今ならまだ間に合うはずだ」
「わかりました……」
敵はストライクにバスターにデュエル。どれも新型の武装が施された機体だ。機体そのものを強化したというより扱い易さの向上が図られた機体であることはすでに確認した。
「デュエルの方を抜けるぞ タイミングを合わせろ!」
「了解!」
返事をしている暇はなかった。デュエルもどきがピストルとレールガンを構え、バスターもどきがライフルとレールガンを突き出す。一斉に放たれるビームと弾丸が次々と爆発とともに砂柱を跳ね上げる。この爆発の勢いに乗るように、アスランとニコルは飛び出した。
目標はデュエルガンダムの新型。追加装甲の施された白兵戦に特化した装備のようだ。アスランがこの機体を突破口に選択したのは無論脱出経路の問題もあるが接近がもっとも容易と踏んだからだ。バスターの新型はビーム・ライフルとレールガンが各2門。点ではなく面で狙い撃つことを得意とする仕様であることは見て取れた。
アスランは射撃用の機体で白兵戦を得意とする敵に接近するという戦術を選んだのである。
「ニコル、デュエルは俺が叩く お前はバスターの牽制を頼む!」
返事はなかった しかしブリッツはライフルを放ち、放たれたビームはバスターもどきのそばに着弾する。何も命中させる必要はないのだ。噴きあがった砂柱がバスターもどきを揺るがしてくれたならそれだけで十分な時間稼ぎが可能となる。
だが、一瞬たりとも機動を止めてはならない。アスランはスラスターに火を入れたままバスターにライフルを構えさせた。高速で機動するバスターにとって、足下の砂はまるで流砂のように流れて見えた。右腰から長大なライフルを突き出し、右手で保持する。
このビーム・ライフルがバスターに唯一残された武装である。
ライフルを発射する。砂々を焼き焦がし、天空の星々に当てつけるかのような閃光が一筋に放たれる。デュエルもどきは青い残像を残して射線を逃れた。GAT-X102デュエルガンダムとよく似た機体である。全身のほとんどが灰色であるが、所々に配色された青が妙に目に付く機体だ。その青を頼りに横へと逃れた敵機を目で追う。デュエルもどきは一息に前へと、こちらへと跳び出した。
何があっても道を譲ってくれるつもりはないらしい。
ライフルを向ける。しかし、ビームは連射性能が決して高くない。そのために左腰にレールガンがあったのだ。ガンダムを破壊することは不可能でも、牽制くらいはできたはずだ。
デュエルもどきは意趣返しのように、右肩に取り付けられたシールドと右腕の間に装備されているレールガンを銃口をバスターガンダムへと向けて回転させた。高速で放たれた弾丸はバスターの右肩を捉える。損傷はないが、輝く光量から少なからず衝撃がバスターを襲ったことがわかる。踏みとどまってなどいられない。バスターを強引に加速させ、2機のガンダムの距離は急速に縮まっていく。
砂上を飛行するバスターの周囲にはバスターもどきからの砲撃が砂柱をいくつも立てていたが、それは次第に数を減らしていく。ニコルが善戦してくれていた。アスランから離れないよう加速を続けながら、ブリッツのビームは際どいところへ命中する。直撃弾こそないものの、バスターもどきは嫌がるように距離を開けた。
これで目の前の敵に集中できる。
デュエルもどきはビーム・ピストルとも言うべき小型のビーム発振装置を両手に握ったまま突進している。小さなビームの塊が次々と飛来するもかわす力も余裕もない バスターに命中する度、フェイズシフト アーマーが瞬く。
「基本性能は変更されていない!」
ジェネレーター出力に手が加えられている様子はない。単にお着替えをしただけの話だ。もはや旧型呼ばわりされるであろうバスターガンダムでも十分に対抗できる。アスランは自分を奮い立たせるためにも分析を敢えて口にした。
ビーム・ピストルの攻撃は一撃一撃が軽い。同じ箇所に連続して浴びなければそれでいい。フェイズシフト・アーマーは強烈な輝きを発してビームを防ぐ。
(接近するまでの間、保ってくれればいい!)
フェイズシフト・アーマーはチタン合金はビームの猛攻に耐えた。全身の塗装がはげ落ちてしまったかのような満身創痍のバスターの姿は、デュエルもどきを確実に捉えた。
その時のことだ。
右肩のレールガンが再びバスターガンダムを向いた。これが奴の狙いか、だからビーム・ピストルによる攻撃を続けていたのだ。バスターは加速している。今更止まることなんてできるはずがない。
「アスラン!」
アスランが重い描いたのは、破壊されるバスターでもなければ、案じてくれる友の姿でもなかった 狂犬と呼ばれた戦士が見せた、何よりも鋭い牙であった。
ハウンズ・オブ・ティンダロス。
(たとえ、あなたの真似はできなくとも!)
まるで自分がバスターガンダムになったかのように、まるでレールガンの軌道が見えるように、アスランは動いた。弾丸がバスターガンダムの頬を撫でた音が聞こえた気がする。突風が通り抜けたが、しかしバスターは加速を続けていた
バスターが突進する勢いのまま蹴りを放つ。デュエルもどきはビーム・サーベルを抜く間もない。右肩を突き出して、肩に固定されたシールドで防ごうと身構える。
「お前には縁がある!」
デュエルなら2度撃墜している。まだまだ勝ちを譲ってやるつもりはない。
2機のガンダムの激突。足のフレームが悲鳴を上げ、デュエルもどきのシールドはひしゃげるとともにその体勢を大きく崩した。まだ互いの慣性は残されている。バスターは前に進もうとする力が残り、デュエルもどきには正反対の力が働いている。両機が接触していられるわずかな時間に、バスターは追撃として回し蹴りを敵の側頭部へと放った。正確に頭部を捉えた一撃はフェイズシフト・アーマーを輝かせ、完全に体勢を崩したデュエルもどきは砂に叩きつけられるとともに急速に遠ざかっていく。
改めてバスターに加速させる ニコルのブリッツはすぐ横についてきていた。
「やりましたね、アスラン!」
「ああ」
ニコルの言葉通り、アスランとニコルはガンダムの囲いと突破することに成功したのだ。ずいぶんと分の悪い賭けだったが、その分配当も大きい。
月明かりが照らす砂漠の砂のその上を、バスターとブリッツがならんで飛行する ガンダムは飛行はできない。あくまでもスラスター出力に頼った滞空であるため高度を上げることはできず、また長時間の滞空も難しい。だが、それは敵にとっても同じことであり、量産型であればさらに低い機動力を強いられることになるのではないだろうか。
一度距離さえ開けてしまえば相手が追いつくことは難しいのだ 後は味方のレセップス級に合流するだけでいい。
この安堵が、油断を招かなかったとは言えない。
突然月明かりを覆い隠した何かが降りてくる。モニターには、黒いガンダムの姿が映し出されていた。そして、強烈な衝撃。
着弾したレールガン--肉眼で確認できたわけではないが、威力と初速からそう判断する--が発生させた砂柱が機体を揺り動かす。バスターとブリッツは左右に離れた地点に後ろ向きに着地した。加速していた勢いを殺すために足が砂を削る。
ジンであれば関節がとっくにいかれていたことだろう。ガンダムというものは、何にしても規格外の性能を持っている。
追いついてきたのもガンダムだった。黒いストライクが両手にビーム・サーベル--ストライクがかつて使用していた大剣を小型化したような剣だ--を構え、その背中には黒いウイングがある。たとえとして悪魔だとか死神を思い浮かべるしかないような姿だ。
「ニコル、無事か? 」
「はい、なんとか……」
黒いストライクは他のガンダムとは何かが違う。敵を前にすぐに行動を起こすではなくゆったりと構えるその姿は余裕を持ってさえ感じられた。
「時間がない 一気にしとめるぞ」
ビーム・ライフルをバスターとブリッツが一斉に向ける。まず攻撃するのはバスター。ビームが、しかし黒いストライクにはかわされると、敵の逃げた方向へすぐにブリッツが追撃をかける。ブリッツの攻撃もかわされると、すぐにバスターが追撃を仕掛けた
数の上ではこちらが有利である。アスランとニコルはうまく位置を変えながら黒いストライクを追いつめていく。射線が十字になるよう連携しながらビームを放ち続ける 射撃をもっともかわしやすいのは横へと逃れることであり、反対に無意味なことは縦に逃げることだ。敵はアスランの攻撃を横にかわすとそれはすなわちニコルの射線上にとどまることを意味する。
十字砲火は基本的な多数者の戦術なのだ。
黒いストライクは無駄のない身のこなしで攻撃をかわし続けている。砂柱がいくつも立ち上る光景は、もはや砂漠戦で恒常的に見られる光景と化していた。だがそれも長くはないだろう。
敵は焦るはずだ。反撃することも許されず、ただ危険な回避を迫られる。その焦りをつくつもりでアスランは機会を待っていた。
黒いストライクはたまらず反撃にうってでた。バスターを狙い加速してきたのだ 向かってくる敵を撃つ場合の相対速度は最高に達する。アスランは冷静にライフルで狙い、引き金を引く。
そして見たものは夢のような出来事であった。ビームが敵を素通りしたのだ。ハウンズ・オブ・ティンダロス。この概念を思い出す間もなく、バスターの長大なライフルが切断される 破壊された銃身が爆発するを待つこともなくストライクの蹴りがバスターの腹部に突き刺さった。
衝撃にコクピットのモニターが砕けた。弾きとばされる衝撃はライフルの爆発のものとも区別できない。辛うじて踏みとどまったものの、バスターは片膝をついた。パイロット自身も口の中に血の味が広がっていた。
ブリッツがビームを放ちながら敵を牽制してくれている。これが一つの幸いとしてアスランが追撃を受けることをとどめる効果があったが、今度はニコルが危険にさらされるおそれがあった。うまく声が声にならない。警告を発することもできないまま、あっさりと懐に入り込まれたブリッツが右腕に深いビームによる傷を刻まれた。
ニコルは至近距離からビームを発射しようと複合兵装に取り付けられたライフルの銃口を黒いストライクへと向ける。引き金は確かに引かれた。
黒いストライクは飛び上がり、ブリッツと距離をとった。ハウンズ・オブ・ティンダロスが完璧ではなく、近距離では使用できないのかもしれない。これは憶測 一つ確かな事実として、ブリッツはライフルを使用できない。腕を切りつけられた際、重要なコードを傷つけたのだろう。
バスターのライフルは破壊されている。ブリッツのライフルは使用できない。敵が動かない理由がなかった。
「受け取って、アスラン!」
ブリッツが右腕を大きく振った。複合兵装に装備されたビーム・サーベルが切り離され、器用に放り投げられた柄だけの剣をバスターは掴み取る。ビームが発生し、サーベルの形を形成するなり、バスターはサーベルを接近しつつあった黒いストライクへと振りおろした。
敵としても虚を突かれたのだろう。回避はされた。しかしハウンズ・オブ・ティンダロスによるものではなく体勢を崩した形で砂上に降りた。
思いの外、コクピットを強打された傷は大きいものであったのかもしれない。追撃をかけようと意気込む心とは裏腹に、体は踏み込みを躊躇した。まとわりつくめまいの向こう側で、黒いストライクはレールガンの銃口をバスターへと向けていた。
それは銃身の奥まで覗きこめそうなほどまっすぐにバスターの頭部へと向けられ、衝撃がバスターの奥、深く深くにまで食い込む。
ビームによる攻撃を受けすぎていた。フェイズシフト・アーマーは十分な防御力をすでに有していなかったのである。メイン・カメラ、チュアル・センサーを失いモニターが一気に不鮮明になる。
敵はすでに動いている。動かなければならないが動けない。
不明瞭な視界に不鮮明なモニターの中で、黒いストライクが急速に接近し、間に黒い機体が割って入ったことが見えた。ニコルの、ブリッツだ。
黒いストライクのサーベルはバスターへと向かい、立ちふさがったブリッツの腹部に吸い込まれるように食い込み、そして膨大な光が砂漠の夜を包み込む。
ひび割れたモニターにはブリッツのコクピットを表示させる。最低限の照明でしか照らされていないはずのコクピットに光があふれていた。
ブリッツの体からはおびただしい光が吹き出していた。フェイズシフト・アーマーのミノフスキー粒子がビームの熱量を吸収し、必死に光として放出しようとしているのだ。しかし、その輝きも次第に薄れ始めた。
フェイズシフト・アーマーの被膜が薄くなってきている。
「ニコル……」
すでにブリッツのコクピットには光が差し込み始めていた。ニコルのフェイス・ガードはひび割れその顔をうかがうことはできない。
「アスラン……」
かすかに聞こえたのは、間違いなくニコルの声だった。
「逃げて……」
光がやんだ。これまで耐えきっていたことが嘘のように黒いストライクの剣が振り抜かれ、ブリッツの上体が不格好な軌道を描いて砂に落ちる。下半身はしばらくしてから、斬られたことを思い出したように崩れ落ちた。
「ニコル……」
返事はない。コクピットを映していたはずのモニターはとうに映像を見せることをやめていた。
「ニコル……」
破壊された上半身が砂に埋まっている。左腕を失い、右腕には深い傷跡があった デュアル・センサーの双眸は光を失い、どうしても墓標を思い浮かべない訳にはいかない。
そう、ニコルは、死んだのだから。
「ニコルー!」
仲間を失った。故郷で待つ彼の父に対する言い訳を。奪った敵への怒り。そのすべての区別が曖昧であった。
ブリッツから手渡されたビーム・サーベルが風を切るほどのうなり声をあげて黒いストライクへと叩きつけられる。サーベルで弾かれ、いなされ、それでもアスランは攻撃をやめないやめられない。
冷静な判断力を失うことを目が曇るという。まさにその通りだ 食いしばった口 止めどなく流れる涙はアスランの視界を完全に塞いでいた
まもなく遅れていた敵の部隊が到着する 残されたのはビーム・サーベルをだだをこねる子どものように振り回すだけのガンダムが1機。量産機でさえしとめることはたやすい。
そんなアスランの窮地を救ったのは、それこそ亡き友の遺志であったのかもしれない。
叩きつけたビーム・サーベルが黒いストライクに止められる。何か遠めにきっかけを見いだすことは難しい アスランは思い出していた。ニコルがアスランの生存を願い、その身を挺して助けてくれた事実を、友の最期の言葉を。
「ニコル……、俺は、俺は生きる!」
黒いストライクから距離をとったバスターの次なる標的は仇ではない逆手に持ち変えたサーベルを、アスランは雄叫びさえあげながら砂の大地へと突き刺した 膨大な熱量を約束されたビームが我が意を得たとばかりに暴れ狂い、砂を煙りとして柱として、嵐として煙幕としてまき散らす。
その砂煙の中に、仇の姿も、友の亡骸もかすんで消えた。
アスランの言葉を静かに聴いていたジャスミンは、静かにバイザーを外した。髪留めの役割をしていたバイザーが外されたことで、第4研究所特有の赤い髪が肩に落ちる。
「いつも自分のことより人のことばかりで、端から見ていても怖いくらい優しくて……」
視点の定まらないその瞳から、涙が流れていた。
「自分が傷つくことよりほかの人が傷つけられることばっかり怖がってました……」
そう、ニコルはそんな奴だった。両親から十分な愛を与えられ、だからこそ人にその愛を分け与えて上げられた。だからこそ優しくなれた。そして、優しい人は、ただそれだけで強い。ニコルは強いからこそ優しくて、優しいからこそ強い、そんな奴だった。
何かを恐れることはあっても、怯えたりなんてしない。ここに考えが及ぶと、アスランは片手で目を覆い隠した。涙を隠したわけではない。ただ、あまりに自分がみっともなかった。
「そうか……、そうだったんだな……」
戦いを前にニコルは不安を隠そうとしなかった。そのことを、アスランはガンダムの性能を恐れてのことだと、ストライクと交戦することへの拒否反応であると捉えていた。どれだけ勇敢かも忘れて。どれほど優しいかも失念して。勇気を奮い立たせろ。そんな見当違いな言葉しかかけてやれなかった。
ニコルは戦うことも傷つくことも恐れてなんかいなかった。ただ、自分が誰かを傷つけてしまうことを恐れていただけだ。アリスに暴走させられ、アスランさえ傷つけようとしたこと。そのことこそがニコルを責めていた。
「お前は優しいから自分を責めて、こんな、こんな責任の取り方をしようとしたんだな……」
命に代えてもアスランと仲間を逃がそうとした。どこかで自棄をおこしたように感じていた。仲間を傷つけた事実から逃げ出そうとしているのではないかと疑っていた。なんて馬鹿なことを考えたのだろう。
「俺は、お前のこと、何もわかってやれなかった……」
目から手を払いのける。開けた視界の中で、ジャスミンはまだ泣いていた。涙を流して静かに。戦友を失ったのはこれで3度目になる。それなのに、いつまで経っても上手な慰め方というものは身につかない。
ジャスミンと同じ顔をして恋人のことを思い出さないことはなかったが、せめて肩でも抱いてみようと腕を大きく隣りで泣く少女の背中側から回した。
ここは部屋であり、長いテーブルとその両脇の長椅子が置かれている。言い訳程度に片隅に置かれた観葉植物が、ここを辛うじて本来の用途である応接間としての雰囲気をかもしている。地球から遠く離れたここプラントでも、地球を捨てた民が建国した国でも植物の使途はさして変わらない。
空気を生み出すだとか、場の雰囲気を和ませるだとか。プラントの兵器開発局に身を置いたゼフィランサス・ズールが名も知らない前任者からこの部屋を引き継いだ際のおまけである。あまり関心はない。時折水を入れるくらいにしか世話をしていないせいか、葉が痛み始めている。ゼフィランサスが応接間で応対する人物は、どこかこの、しおれ始めた観葉植物を思わせた。
ゼフィランサスは長椅子に体に合わない大きな白衣を意固地になって着ているプレア・レヴェリーと並んで座っていた。客人はテーブルを挟んだ反対の長椅子である。
癖の強い髪をした中年男性。よく言えば優しげで、一言で片付けてしまうなら頼りなげなその男性はプラント最高評議会議員の制服を身につけていた。しかし、以前会場で見た時よりも頬がこけ、くぼんだ眼窩はその視線を影に沈めている。
しおれた観葉植物。客人は、テーブルに置かれたアタッシュ・ケースの上を通して手を差し出した。
「ゼフィランサス女史とは議会で一度お目にかかったけれど、私はユーリ・アマルフィ」
握手に応じながら、ゼフィランサスは自身と、隣に座るプレアの紹介を終えることにした。
「アマルフィ議員……。私はゼフィランサス・ズール……。助手のプレア・レヴェリーです……」
アマルフィ議員はゼフィランサスとの握手を終えると、すぐにプレアとの握手に移った。ゼフィランサスの手には、成人男性と握手したとは思えない感触が残された。握手を終えたアマルフィ議員は長椅子に座り直すなり、アタッシュ・ケースに手をかけた。
「では早速話に入ってもいいだろうか?」
プレアは律儀にはいと返事をしていたが、ゼフィランサスは無言を貫いた。不必要なことはしたくないわけではないが、わざわざ返事をする必要性は覚えなかった。ケースを開けながら、アマルフィ議員は話し出す。
「ザラ委員長のお願いでね、君にこのデータを委譲することにしたよ」
開かれたケースが、ゼフィランサスたちにも中が見えるように90度回転させられる。中には記憶媒体や紙資料が雑多に放り込まれていた。整理されているとは言いがたい。よほどいい加減な人物か、よほど焦った人物がでたらめに詰め込んだように。ゼフィランサスはとりあえず記憶媒体のケースを手に取った。その瞬間、自身の失策を感じた。記憶媒体を直接読み取ることのできるコーディネーターなんていないし、そんなヴァーリも開発されていない。まったく意味のない行動をしてしまったのである。それに対して、プレアは冷静に資料を取り上げて軽く一読すると、途端に慌てた様子でアマルフィ議員へと視線を飛ばした。
「これはまさか……!?」
一体プレアの慌てようが何であるのか、残念ながらわからない。何故なら、興奮した様子のプレアが資料を強く握り締め、横からでは文字をほとんど読み取ることができないから。
「プレア……」
そう声をかけても、プレアは気づいた様子なくアマルフィ議員に熱く驚愕した視線を送っていた。アマルフィ議員はどこか疲れたようにその眼差しを受け止めている。
「ホワイト議員からも協力を受けているから、ほぼ完璧な品だよ。少々、手を加える必要はあるけど、それは君たちにお願いしたい」
ホワイト議員。おそらくは最高評議会で急進派寄りの中道派で知られるオーソン・ホワイト議員のことだろう。ホワイト議員の名前はニュートロン・ジャマーの開発者として特にその名前が知られている。プレアは上司に状況を伝えることもなく勝手に話を進めようとする。
「よろしいんですか? 穏健派に属するアマルフィ議員がこんなことしたら!」
激昂する様子に釣られて、ついプレアを見ていた視線をアマルフィ議員に向けてしまう。アマルフィ議員は乾いた笑みを浮かべていた。
「まだマスコミには流されていないけど、私は急進派に転向したよ。だから、穏健派に与する必要はもうないんだ」
プレアが手にしていた資料は諦めて、ケースに残された資料から話の主題を探ることにする。目視でどの資料にしようかと悩んでいると、突然プレアが立ち上がった。身を乗り出してアマルフィ議員に詰め寄った。テーブルに身を乗り出しているため、ケースは現在、プレアの手の下で閉じられている。どうやっても資料は取り出せそうにない 訳知り顔の男の人たちは勝手に話を進めてしまう
「でも! アマルフィ議員は国防委員の中でも唯一の穏健派で、悪戯に戦争を広げたりしない人だって、見識ある人だって、皆さん言ってます……」
プレアは残念だとか失望だとか、そんなことよりも悔しさが先行しているように歯を噛み合せていた。とても、資料を渡してだとか、ケースから手を離してと言って許される雰囲気とは思えない。事態を見守る中で、アマルフィ議員の無理したような笑い方がとても印象的であった。
「実は息子が戦死してね。ちょうど、ゼフィランサス主任くらいの子だった。親の贔屓目で見てもいい子で、私の政治活動が弱腰に見られないよう兵士に志願してくれるような子だった」
ゼフィランサスは強く息を吸い込むとともに目を見開いた。色素のない瞳には、照明の弱い光でさえ痛みを覚えるほどである。しかし、そんな痛みが問題にならないほど、アマルフィ議員の言葉に心囚われて、子を失った父を見ていた。涙は枯れる。それは人体から水分が失われたというだけ。それでも人は泣くことができる。今のアマルフィ議員のように、涙を流さなくても泣くことができる。
「顔を合わせる度に妻が泣くんだ。どうして穏健派になどなったの。はじめから急進派であれば、ニコルは戦場になど行く必要はなかった、戦死することはなかった」
プレアは力なく長椅子に体を戻した。手にあった資料はテーブルの上に置かれ、ケースはすでに解放されている。だが、そんなものはもう、見る必要がない。そんなものを見なくては事態を把握できなかった自身の不明を、ゼフィランサスは恥じた。もうわかる。愛する者を失った男が、すべてを失った男が手にした悪意そのものが。しかし、ゼフィランサスがそのことへと意識を至らせる前に、アマルフィ議員は止まることなく言葉を繋いでいく。
「私は過ぎた力は戦争を悲惨な方向へと導くと考えていた。だから穏健派として、過度な戦闘行為の抑制に努めてきた」
その声はか細い。自信の拠り所を失った男の声は、いつ聞いても悲愴で、胸を締め付けられる。キラ・ヤマトがゼフィランサスにすがる時はいつもこんな声をする。そして、そんな声を出すのはもう1人。
「それは、間違ってません……」
プレアは、それでも努めてアマルフィ議員を励まそうとしていた。その思想と理想の結果が子を失い、妻に憎まれることだとしたら、それが正しいと断定できずにいる。アマルフィ議員は髪をかきむしり始めた。柔らかい髪質が、見る間に傷んでいく。
「ありがとう……。でも、頭からどうしても妻の泣き声が離れないんだ。私が戦争を推進していれば、これを早く開示していればニコルは死なずにすんだかもしれないという考えが、どうしても離れてくれないんだ……」
唐突に髪を掴む指が止まって、頭から手が離れる。そのまま、手はケースの上に置かれた。その姿は神に誓いをたてているかのように見える。
「この力は君たちが役立てて欲しい」
このケースには災厄の力が封じられている。開かれた時点で、プレアが資料に目を通した時点でそれは解き放たれてしまった。もう閉めても間に合わない。それでもすべてを与えられた女が後悔と悔恨の内に箱を閉めたようにゼフィランサスもせめてもの救いを探そうとする。
「本当に……、これが正しいことだと考えてますか……?」
議員はもう顔を上げようとさえしない。
「もしもこれが凄惨な結果を招いたとしたら、私が穏健派としてしていたことは正しかったということになる。そのことに、私は慰められる……」
手がケースを離れた。災厄を縛り付けた最後の鎖が解かれたように。アマルフィ議員の顔が上げられると、そこには何もなかった。涙もなく、悲しみもなく、嘆きもなく、後悔も罪悪もなかった。ただ、空虚な微笑みだけが張り付いている。
「実は、これには名前がなくてね。便宜上NJCと呼んでいたけど、好きにつけてもらってかまわない」
ゼフィランサスも、プレアも何も言い出せずにいた。このことを、アマルフィ議員は茫然自失ではなく、疑問と戸惑いと捉えた。
「NJCは、ニュートロン・ジャマー・キャンセラーの略語だよ」