深く水の中を潜んで進む艦。アラスカをたった潜水艦の船団。その腹の中に本来アラスカに置かれているべきものをたらふくため込みながら誰に知られることもなく海中を進んでいる。
アラスカにあるべきもの。それはたとえば、防衛のための戦力である。潜水艦の格納庫には複数のモビル・スーツが搭載されていた。GAT-01デュエルダガー。あるいは、GAT-X1022ブルデュエルガンダム、GAT-X103APヴェルデバスターガンダム。ヘリオポリスで開発されたGATシリーズの改修機が積み込まれている。どちらもGATシリーズの量産化を踏まえてのテスト機であり、その意味では真の意味においてのGATシリーズであると言えた。
GATシリーズ。ムウ・ラ・フラガが奪わせ、ラウ・ル・クルーゼが奪い、キラ・ヤマトがGAT-X105ストライクガンダムで戦った。何とも複雑な経緯を持つこの機体群を、ラウ・ル・クルーゼは感慨深げに見上げていた。
すでに仮面を外し、サングラスに変えている。その身を包むのは大西洋連邦軍の軍服であり階級章は大佐のものである。
ブルデュエル--GAT-X102デュエルガンダムに追加武装を付与した姿をしている--を見上げていると、ちょうど機体の調整を終えたパイロットが降りてくる場面に出くわす。ノーマル・スーツではなく軍服姿。赤い髪を持つ少女が、コクピット・ハッチからロープを頼りに降りていた。ラウは単に機体を見ていただけっであったが、少女は自分が見られていると捉えたらしい。格納庫の床に降りるなり、ラウの前で敬礼する。
赤い髪。そしてヴァーリの顔をしている。
「君は、ロベリアだったか?」
何とも特徴がない。髪は長くもなければ短くもない。切り整えられていると言えなくもないが、ゼフィランサス・ズールやヒメノカリス・ホテルのロング・ウェーブのような特徴的な髪型という訳でもない。ヴァーリの顔だけが印象に残る。
「ロベリア・リマ。Lです。名前が似ていてよくカルミアお姉さまと混同されるんです。それに、ダムゼルの方々は特徴的な人が多いですけど、普通のヴァーリなんてこんなものです、クルーゼ大佐。それにもう、カルミアお姉さまと間違われることもなくなりましたから」
当人としても自覚しているのだろう。ただ、比べる相手が悪いと言えなくもない。顔立ちは整い、ヴァーリらしくかわいらしい少女であることに変わりはないのだから。無論、ヴァーリであることも。姉であるカルミア・キロ。Kのヴァーリはアフリカ戦線で戦死している。ヴァーリはその半数がすでに死亡している。まだ二十歳にもならない娘たちがだ。
「いや、すまない。さすがに26人ではな。これは余計なことだが、大佐はつけなくていい」
そもそもラウとて26人全員に会ったことなどない。出会ったヴァーリの方が少ないほどだ。
気さくな指揮官を気取りたい訳ではないが、ザフトに慣れていると階級で呼ばれることに違和感を感じてしまう。何にせよ、ザフト時代が長かったということらしい。偶然にも、ロベリアが気にかけた点もそのことであった。
「クルーゼさんは、ザフトのエースだったとお聞きしました。お聞きしてよいものかわかりませんが、どうして大西洋連邦に?」
「それは反対だ。大西洋連邦の人間だからこそザフトに潜り込んでいた。私はスパイだからな」
「そうなんですか? でも、コーディネーターなんですよね?」
「おかしな認識だな。地球の国々にもコーディネーターは大勢いる。プラントにナチュラルがいるようにだ。そもそもこの戦争は、言ってしまうなら宗主国と植民地の独立を巡っての争いのようなものだ。コーディネーターという要素は確実に存在したが、ナチュラル対コーディネーターの構図を持ち込んだのはそれこそプラントの方ではないのかね?」
「そうでしょうか?」
なるほど、感覚もどこかありふれている。ヴァーリとして世界の裏側を見てきた訳でもない、ごく普通の少女であると言えた。
ロベリアはフリークとして放逐されたと聞かされている。ヴァーリであるロベリアが大西洋連邦軍に参加しているのはそれなりの訳と理由があるのだ。
「私はプラントを滅ぼしたいと考えている。それは君も同じだろう。それは何故かね?」
「プラントが私たちに辛く当たるからです」
即座に返された言葉。ロベリアの瞳は妖しい色を帯びる。
ロベリアもヴァーリなのだ。復讐の従者であり、1つの命を26に分け合った存在。そして何より個々の意志よりも道具としての価値を優先されてきた少女なのだから。その誰もが世界のあり方に含みを持つ。たとえ、ただ麗しい少女としか見えなくとも。
「プラントでは障がいを持つことは犯罪も同然です。最悪収容所送り。劣等遺伝子を持つことで社会を脅かして、その癖働くこともできない社会の病巣だからだそうです」
優れていなければならないコーディネーターの中で障がいを発現させる遺伝子を持つということは、将来子どもを持つことを禁じる根拠となる。事実、プラントの憲法、その24条3項には国は国民と協力して優秀な遺伝子を次世代に伝える責任があるとされている。国は遺伝子調整を禁じることは許されず、国民は優れた遺伝子を残すための努力をしなければならないのである。
「当然ですよね。プラントは優れた人たちの国。劣った人の存在なんて本来あってはいけないことなんですから……」
「ジャスミン・ジュリエッタだな、君の姉君は。彼女のことはよく知っている。ザフト時代の部下だからな」
ジャスミンは生来視力を持たない。このロベリアにしても両腕なく生まれてきたと聞かされている。しかしロベリアの腕は確かに存在している。まるですがるようにラウの手を掴んだのは、紛れもなくロベリアの右腕であったからだ。
「どんな様子でした、ジャスミンお姉さまは……?」
「優秀だが気後れする傾向にあった。自分をつまらない人間だと思いこんでいる節がある」
失望か落胆か。あるいは姉の生存を確認したことへの安堵であるのかもしれない。ロベリアの手は力なくラウから離れた。
「プラントって、やっぱり何も変わってませんね。優れた人たちだけの世界なんて、まやかしでしかないのに……!」
突如乱れた呼吸。ロベリアは声を出すことさえ苦しさを覚えたように不自然な息を吐き出すとともに足下から力が抜けたように崩れ落ちようとしている。前から抱き抱えるように受け止めると、少女の体は思いの外軽く、受け止めることができた。
「大丈夫……、大丈夫、ですから……」
そうは言っているものの、体調が思わしくないことに代わりはない。ラウが支える手の中でロベリアは力なく、その足は自身の体重さえ支えられずにいる。
ジブラルタル基地の通路。一面ガラス張りの壁からはこの基地が保有する世界でも有数のマスドライバーが海へと向かって反り返っている光景が見えている。軍事施設として特に重要な通路という訳ではないが、基地に所属する者にとって使い勝手のよい道である。
アスラン・ザラはこの通路を利用している最中に、かつての同級生と偶然巡り会うことになった。
銀髪を綺麗に切りそろえ、そのあどけない表情の割に目つきが厳しい。口を真一文字に結ぶ様子など、かつてと何も変わっていない生真面目な様子がたやすく見て取れた。偶然すれ違いそうになり、互いに互いのことに気づいて立ち止まる。声は、アスランの方からかけた。
「久しぶりだな、イザーク」
イザーク・ジュール。かつて同じ軍学校に在籍し、同じく優秀生の証である赤服をいただいた仲間だ。
「ああ、軍学校で首席のお前の背中を見送って以来だな」
「あれはたまたまだ」
「すべての教科で万年次席だったんだがな、俺は」
特に嫌みな様子ではないが、イザークは昔から何かとアスランに突っかかってきた。それは卒業後、それぞれ別の部隊に配属されてからも何も変わっていないらしい。戦争の体験はよくも悪くもイザークを変えていない。
アスランは苦笑いを含む必要があった。
「君もジブラルタルに?」
「ここにいる以上当然だろう。ジブラルタル周囲のザフトは大体集められた。地球軍の反撃が勢いを増しているからな。やはりアラスカでの敗退は大きい」
オーブを離れた後、アスランがジブラルタルに転属させられたのは、上層部がジブラルタルの防衛を強化するだめだろう。もっとも、ここを地上最後の砦にしなければならないとまでは考えていなかっただろうが。
「転属で命拾いしたそうだが、お前たちが追っていたガンダムというのは本当にそれほどのものなのか?」
「いつか目にすることがあれば、きっと驚くことになる」
やはり皮肉というよりも事実の確認。このイザークという男はさばさばとしていて現実主義者な一面がある。決して付き合いにくい人間ではないが、どうもアスランは軍学校以来避けられているような気がする。
実際、これ以上世間話をする理由も時間もなかった。
「アスランさん!」
目的地とする方角にジャスミン・ジュリエッタがいた。バイザー越しにも焦ったような表情がわかる。
「すまない、俺はこれで」
イザークは別れの挨拶らしい仕草さえ見せずに歩き出す。こう飾り気のないところも以前と変わらない。
先を急いで、ジャスミンの下に小走りで移動する。
「ラクスお姉さまからお電話です」
白状するなら、この言葉を聞かされた時、軽い緊張を覚えた。ラクスが怖い訳ではない。ただ、ラクスが電話まで使って話をしてくる時、大概途方もないことを告げられると体験として知っていたからだ。
さて、今回はどれほどのことを聞かされるのだろうか。
ソファーが特に規則性もなくいくつも置かれている。自由に座り、自由に話をすることができる。パーティーの会場のような部屋である。この部屋の主はここを応接間として使用している。型にとらわれない住民の気質がうかがえるような配置である。
キラ・ヤマトは1人で座るには大きめのソファーに1人で腰掛けていた。
「アーク・エンジェルの亡命を受け入れてくれてありがたく思うよ、エピメディウム」
この部屋の主、エピメディウム・エコーは離れたソファーの背もたれに腰掛けてながら微笑んでいる。
「お礼を言われるほど高待遇って訳じゃないよ。オーブとしても戦争を睨んで少しでも戦力が欲しいのが本音だしね」
「脱走兵か。多くは戦死するか、大西洋連邦側に拿捕。ことが落ち着き次第軍法会議にかけられるそうだ」
カガリ・ユラ・アスハだ。4、5人がけのソファーの中央に1人だけで腰掛けて、占領するように背もたれに両手を広げている。この部屋には他にアイリス・インディア、ディアッカ・エルスマンの2人がいるが、この2人は同じソファーに座ってどこか遠慮がちに見える。
わずか15でオーブを裏から動かすエピメディウムは余裕と思えるほど表情がやわらかい。
「恐らくことはすぐには動かない。裁判は公開が原則だし、今ここで味方を巻き添えにした作戦が露見することはブルー・コスモスにとっても喜ばしい時じゃないはずだからね」
「だがいつまでも隠し通せるはずもない。まるでプラントさえ滅ぼせれば後はどうなってもかまわんという口振りだな、ムルタ・アズラエルは」
「オーブもこれから大変になるよ。でも、亡命なんて大変だよね。国も帰るところももうないってことだからさ」
アーク・エンジェルのブリッジでは、ナタルが艦長席の前で立っていた。座りながら応対できることではない。他にも、パイロットやブリッジ・クルーの主立った面々がブリッジには集まっている。
ナタルの前に立ち、敬礼するのはまだ若い割に少々お腹に締まりのない青年である。これまで寡黙で目立つことがなかったロメロ・パル軍曹である。火器管制を1人で担当していた重要なクルーではあるが、オーブにて艦を降りると決めたのである。
引き留めることはできないと、ナタルもまた敬礼する。
「短い間ではありましたが、ありがとう」
ロメロは体に力を入れて、姿勢を今一度整えた。
「こちらこそ申し訳ありません。ですが私は、やはり祖国に弓引くことはできません」
アラスカでは急進派に抹殺されかかったとは言え、それは大西洋連邦の総意では決してない。ロメロの気持ちは、わからないではなかった。周りのパイロット、クルーたちも敬礼をする。それは戦場を去る戦友へを見送るためである。敬礼の手を降ろしたロメロ軍曹の顔に、迷いはない。
「失礼します」
ロメロ軍曹が艦長席の後ろに回り込み、ドアが開く音、続いて閉まる音が聞こえる。ようやく張りつめた空気が和らぎ、皆が思い思いのタイミングで敬礼を取りやめた。ナタルも艦長席に腰掛ける。
人々の中から抜け出してきたのは、薄いサングラスに、癖の強い髪をしたダリダ・ローラハ・チャンドラⅡ世である。
「しかし、ロメロ・パル軍曹の除隊は痛手です。ただでさえ人手不足ですし」
その言葉通り、たしかに現在のアーク・エンジェルは最低限を通り越した人数で運用されていた。オーブ軍に人員の補充を要請すれば人数は集まるかもしれないが、所属の異なる軍の装備をすぐに扱えるようになるとは考えられない。
ナタルが口元に手を添えて頭を悩ませていると、問題ないと発言した人物がいる。まるで美容室で見せられるモデルのようにきっちりと整えられた髪型をしているアーノルド・ノイマン小尉。
「ダニロフ級が廃船になることに伴い、乗員が受け入れ先を探していました。ブリッジ・クルーを務めていたとのことです。恐らく、力になってくれることでしょう」
ダニロフ級。大西洋連邦軍が使用しているイージス艦のことである。アラスカから逃れる際、ザフトの包囲網を突破できた友軍の艦船が何隻かあったが、その内の1隻の話であろう。はっきりと記憶していないとは言え、損傷がひどいものは確かにあった。
まさに渡りに船である。
ただ、この男は、アーノルド小尉はそんな根回しを行うようなタイプであっただろうか。どちらかと言えば、上からの命令を良くも悪くも実直に守るような人物である。この疑問は正直に口から出た。
「話はあなたが通してくれたと?」
アーノルドは、つい皮肉交じりの口調となったことに気づいた様子はない。ブリッジの出口の方へと歩き出した。どうやら、すでに外で待たせていたらしい。アーノルドはあっさりと戻ってくる。若い、3人の娘を連れて。3人はナタルの前に並んだ。皆、大西洋連邦軍の白い制服を身につけている。
まずはナタルから見て右側の女性。くすんだ金髪にしっかりと通った鼻梁をしている。偏見でしかないとはわかりながら、この3人のリーダー格のような印象を受けた。
「アサギ・コードウェルです」
どこか笑顔が柔らかい。階級を名乗っていない。制服の階級章から、軍曹であると自分で確認せざるを得なかった。
そうしている内に、隣りの女性が一応敬礼して話始める。
「マユラ・ラバッツです」
髪を長くもなく、短くもなく整えている。それこそ偏見だが、このタイプの女性は概して気が強い。階級は伍長である。
最後に、左端の女性。髪を肩にまで伸ばして縁取る顔には眼鏡をかけている。
「ジュリ・ウー・ニェンです」
やはりこの娘も階級を名乗らない。ちなみに伍長である。女の勘と言うべきか、軍人としての本能と言うべきか、この三人に言いしれない不安を感じさせられる。
「ナタル・バジルール、中尉です」
階級を語る声が不思議と意識された軍人であるということを疑っているわけではないが、何かがおかしい。
「アーノルド・ノイマン小尉、彼女たちとは一体どこで?」
やはり、人材不足を見越して友軍と連絡をとっていたとは考えにくい。そう考え、アーノルド小尉の答えを待つ。ところが、返事は意外なところからあった。アーノルド小尉の後ろ、なぜか不機嫌そうに牙をむき出しにするフレイ・アルスターからである。
「軍服のままで喫茶店に入ってたら、話しかけてきたんです!」
何故フレイがそんなことを知っているのか。考えるまでもない。その場にフレイもいたからであろう。恐らくはそう言うことである。
眼鏡をかけたジュリ伍長がフレイへと向けて手を振る。
「あら妹さん、こんにちは」
「私は妹じゃありません!」
粗方2人の時間を邪魔されて気分を害しているのだろう。アーノルド小尉とフレイ1等兵の年齢差を考えれば、確かに恋人同士にはなかなか見えにくいかもしれないが。クルーの補充ができることはありがたいが、気のせいか、余計な問題まで抱え込もうとしている気がしてならない。それでも、背に腹は代えられないという言葉がある。
「と、ともかく、あなたたちはブリッジ・クルーをしていたと?」
「は~い」
3人は示し合わせたようなタイミングで、妙に間延びした返事をした。こんな返事の仕方、ナタルはプライベートでもしたことがない。ここは息は合っていると判断しておくことにしよう、多少、無理矢理ではあるが。
「わかりました。では、詳しい打ち合わせはクルーたちと……」
言い終わる前に、ジュリ伍長がアーノルド小尉の腕に抱きついた。
「アーノルドさん、いろいろ教えてもらえますか~?」
続いて、マユラ伍長がジュリ伍長とは反対側の腕に狙いを定める。
「あ、ジュリ、ずるい~」
アサギ軍曹は3人のまとめ役であるのか。騒ぎに加わろうとしない。ただ、それは楽しみ方が違うというだけの話であるらしい。その顔は、明らかにこの騒ぎを楽しんでいるという様子である。
当のアーノルド小尉は極めて冷静だが、気が気でないのはフレイの方である。
「アーノルドさんはパイロットです!」
まずマユラ伍長を引き剥がす。マユラ伍長はそんなフレイの様子を面白そうに眺めながら、あっさりと身を引いた。
その隙に行動を起こしたのはジュリ伍長である。
「素敵~。パイロットさんだったんですね~」
上目遣いでアーノルド小尉の顔を見上げている。やはりアーノルド小尉は妙に平静である。フレイ1等兵がその分もまとめて引き受けているように顔を赤くしている。
「ちょっと、離れなさいよ!」
フレイ1等兵の手で、ジュリ伍長もまた引き剥がされる。端から見せられているせいか、妙に気恥ずかしい光景である。何はともあれ、亡命先で、アーク・エンジェルは新たな人員を手にすることができた。
「ムルタ・アズラエルが3人いるというのか?」
キラがムルタ・アズラエルについて切り出すと大方の予想通りカガリが一番の食いつきを見せた。聞いた話では暗殺を狙ってムルタ・アズラエルを追い回していたそうだから。
「エインセル・ハンター。それに、大西洋連邦軍大尉のムウ・ラ・フラガ。ザフトのラウ・ル・クルーゼも、たぶん間違いない」
「ちょっと待て! 隊長がブルー・コスモスだって……!」
「黙っていろ」
カガリはディアッカ・エルスマンめがけて、正確なスローでソファー備え付けのクッションを投げつけた。話に横から入り込まれたことが気にくわなかったのだろう。キラのことを興味津々といった様子で、同時に睨んでいるほどに見ている。
ディアッカの方は所詮クッションだ。顔面に直撃したようだが、特に怪我をした様子もなくクッションを手にしていた。すぐ隣のアイリス・インディアは気遣われていた。
「大丈夫ですか、ディアッカさん」
「ああ」
小さく肯定の返事をするディアッカ。しかしこれ以上ディアッカの様子を気にしていてはキラが次の標的にされかねない。
「なるほど、道理で足取りが混乱した訳だな。ところで、どこかの誰かが三つ子だとか言ってなかったか?」
横目でカガリが睨んだ先ではエピメディウムが手をひらひらと振っている。
「いくら何でも誤解甚だしいよ。それより僕も興味がある。詳しく聞かせてもらえるかな?」
「アラスカでムウ・ラ・フラガに会った。その時はっきりと言っていたよ、自分はムルタ・アズラエルの1人だって」
「でもわからないな。そんなことして何になるんだい? ラウ・ル・クルーゼがスパイならザフト軍がガンダムを狙っていることくらいわかりそうなものじゃないか?」
「それは逆にも考えられないかな? 共謀していたからこそ、好きなタイミングで襲撃を設定できるし、奪われた後のことも自由にできる」
当時の大西洋連邦にとって最新鋭の機体であるGATシリーズの強奪を主導したラウ・ル・クルーゼ。このザフトきってのエースがムルタ・アズラエルだということに関してエピメディウムは懐疑的であるらしい。だがキラは知っている。クルーゼがブルー・コスモスとしてユニウス・セブンを訪れたことを。カガリも、まだ話を信じるつもりはないようだが。
「それでは説明になってない。そもそもガンダムのような最新機をみすみすザフトにくれてやる理由になってない」
「それも考えられないことじゃない。まず、ラタトスク社は企業だ。ガンダムという機体が活躍すればそれだけ自社製品の宣伝につながるし、ガンダムに対抗できるのがガンダムだけ。正確にはフェイズシフト・アーマーを破ることができるのはビームだけということになればこぞってビーム兵器を購入することになる。実際、ザフトはガンダムの追撃を鹵獲機であるガンダムを実戦投入するなんておかしなことまでして行ってる。ラウ・ル・クルーゼ指揮の下ね」
「いいや、まだ納得できん。それならガンダムでザフト機を圧倒させればすむ話だ。わざわざガンダムのデータをくれてやる理由にはならない」
エピメディウムは片手をあげる。
「僕も同じ意見だよ。賛成するにはまだ根拠が弱いかな。まあ、ヘリオポリスでの一件のせいで、モルゲンレーテを通じて盗用した技術は無駄になっちゃったけどね。結構危ない橋渡ったのにさ」
「ムルタ・アズラエルは、ムウ・ラ・フラガはGATシリーズよりも高性能な機体に乗ってた。開発にかかる時間から考えて、恐らくもっと前に完成していたはずのものだ。それに、デュエルダガーの実戦配備が早すぎる。認識を改める必要があると思う」
「どういうことだ?」
「まず、ブルー・コスモスはオーブの盗用に気づいていながら放置している節がある。GATシリーズだって、結局データはオーブを通してザフトに流れる手はずだった、違うかな」
「まあね」
「だがそれならはじめからオーブを介在させなければいいだけの話だ」
「そこにロジックがある。大西洋連邦は一枚岩じゃない。勘違いしてるかもしれないけど、ガンダムを造らせたのはブルー・コスモスじゃなくて穏健派の重鎮であるデュエイン・ハルバートンだ」
穏健派はラタトスク社、オーブのモルゲンレーテ社の協力を得る形でヘリオポリスでモビル・スーツを開発していた。そこで完成したGATシリーズのデータを基に量産機を開発。ザフト軍との戦いに備えるとともに大西洋連邦軍内部での立場を確立しようとしていた。
穏健派にとってGATシリーズの開発計画は秘中の秘であり、そのためヘリオポリスのような中立地帯--条約に違反していると知りながら--で厳重に管理されていたことだろう。このデータは穏健派が握ったまま、しかし急進派はモビル・スーツをすでに開発していた。
時系列が逆なのだ。GATシリーズから量産機が開発されたのではなく、少なくとも量産機とGATシリーズは平行して開発が進められていなければならない。
「だがゼフィランサスが関わってたんだろ?」
「穏健派は単独でモビル・スーツを開発できるほどの技術力はないからね。恐らく、ラタトスク社の一部署を取り込んだつもりで開発させていたんだと思う。ただ、それをザフトにも急進派にも気取られないよう、中立地帯であるヘリオポリスを必要として、資材と場所を与えてくれるモルゲンレーテ社に依頼せざるを得なかったんだ」
「要するにこう言うことか? 穏健派は自分たちが主導で話が進んでると思いこんで、その実、急進派が裏から手引きしていた。急進派にしても穏健派の切り札を封じることができるし、懸念される情報の流出も端から予定していれば問題ない」
「そう考えないとつじつまが合わないことが多いんだ。たとえばアフリカで投入された新型。アイリスやディアッカの含めたガンダムは一部改修機だけど、デュエルダガーの実戦配備はどう考えても早すぎる」
仮に穏健派が目論見通りにモビル・スーツ開発を独占したいたのだとすれば急進派が量産機を開発することはできない。情報が流出していたとするだけではまだデュエルダガーの開発の時間が足りていない。しかしガンダム開発そのものが急進派の手によって行われていた、穏健派はただ踊らされていたと考えれば様々な説明がつく。
エピメディウムとてそれだけは納得してくれたようだ。
「それは、言えてるね」
「繰り返すけどアラスカじゃ、ムウ・ラ・フラガがガンダムに乗っていた。GATシリーズのデータを利用したにしてはいくら何でも早すぎる」
「少なくとも量産機はGATシリーズと平行して、新型のガンダムはそれ以前から開発されていなければ辻褄が合わないか……。だが、穏健派を出し抜くにしてはいささか手が込みすぎてはいないか?」
カガリは眉をつり上げていた。普段から感情を隠すということをしない人だ。わかりやすく、まだ疑問を抱えていることを示していた。
キラはまだ話を続ける必要があった。
「もう一つ、ザフトを欺くためかもしれない。穏健派はGATシリーズこそが大西洋連邦初のモビル・スーツと考えていただろうし、そのように動いていた。ザフトもそのために北アフリカ方面軍の指揮官であるアンドリュー・バルトフェルドを動かしたくらいだ。でも、量産型モビル・スーツの投入はザフトが想定したよりも遙かに早いことになる」
この事実は、キラがアフリカで直に目にしたことだ。アンドリュー・バルトフェルドを倒したのはキラだが、その後大西洋連邦軍によって投入されたデュエルダガーの部隊はザフト軍を圧倒している。今考えれば、アーク・エンジェルを囮にアンドリュー・バルトフェルドをおびき寄せるためであったのかもしれない。
「確かに面白い話だけど、まだ一歩かな?」
「ただ、今の状況はあまりにできすぎてるように思う。地球軍のモビル・スーツ投入によるザフト軍の後退がパトリック・ザラ議長を焦らせた結果、アラスカへの奇襲が敢行された。ブルー・コスモスは反対勢力と敵対勢力を同時に弱体化さることに成功したことになる。それに、急進派を勢いづかせる切っ掛けになったユーリ・アマルフィ議員の転向も、元はと言えば子息のニコル・アマルフィの戦死に……」
「ニコルが死んだ!?」
立ち上がったのはディアッカだ。さすがに今回ばかりはカガリもそれを止めようとはしなかった。捕虜として情報から隔離されていたディアッカは戦友の死を知ったことになる。どうしていいのかわからないのだろう。勢いよく立ち上がったまま、ディアッカは呆然としていた。
「お前たちの部隊の隊長は、今思えばムルタ・アズラエルの1人とされる人物だったな」
「それどころかアスラン・ザラにディアッカ・エルスマン。プラント最高評議会の議員の子息が3人もあの部隊には所属していた」
カガリもそろそろ気づきつつあるのだろう。偶然にしては、ありとあらゆる状況が重なり続けているということに。
エピメディウムの方が一足先に状況の深刻さを受け入れる覚悟を決めたらしい。
「僕たちは、とんでもない人たちを敵にしているみたいだね……」
ついたてで仕切られただけの簡単な個室に小さなテーブル。その上にモニターが置かれている。現在遠く離れたラクスと通信が繋がっている。モニターの中で、ラクスは暗い部屋の中腰掛けていた。
アスランはジャスミンの方を手で指し示す。
「ラクス、ジャスミンもいるんだが別にかまわないだろ?」
「はい。ちょっとした戦略論についてお話するだけですから」
「と言うと?」
モニターの向こう側でラクスは視線を落とす。何か資料を見ているのだろう。モニターの隅にめくれる紙が時折見えた。
「私はお父様の命を受け大西洋連邦の動きを探っていました。此度地球を訪問していたのもそのためです。幸いなことにいくつか確証を得るに至りました。結論から参りましょう。ムルタ・アズラエルははじめからガンダムをプラントに渡すつもりだったのです」
「ムルタ・アズラエルって、ブルー・コスモスの代表ですよね?」
「ああ。でもラクス、正直結論が早すぎて何を言われてるのかわからない」
「アスラン、ザフトでは地球用のモビル・スーツの開発が進められていたことをご存知でしょう。本来ならばすでにロール・アウトを果たし、地球でのザフトの前線を大いに押し進めるはずでした。ところが、現在においてさえ実戦配備さえされていません。それは何故でしょう。ジャスミン?」
「え、え!?」
突然話をふられたことで、ジャスミンは目元を覆うバイザーを落としそうになるほど体を揺り動かす。ジャスミンにはそもそも新型機のこと自体知らないのだろう。
「ラクス、あまりジャスミンを虐めないでくれ」
「こうでもしませんと、ジャスミンはなかなか話してくれませんもの」
まったく、意地の悪い姉--ラクスはG、ジャスミンはJ。ラクスは3女であり、ジャスミンは4女にあたる--だ。
「では正解です。それは、ザフトが急遽モビル・スーツ開発の人材と資金を別のことに流用を始めたからです。では次の問題……」
「ラクス」
先回りして出題をふさいでおく。ラクスは少し朽ちを尖らせて不機嫌を装う。
「ラクス。だから……、ガンダムを造るためなのか……?」
わかりやすく説明してもらいたい。そう言おうとしている内に、アスランは先に自分なりの答えにたどり着いていた。
新型機の開発が滞っている。それはすなわち二つのことが考えられた。内部的、あるいは外部的要因だ。技術的な壁にでもぶちあたったのでもなければ、ラクスの言うとおり外部的、すなわち予算の削減がもっともわかりやすい。では予算はどこに流れて行ったのか。
ゼフィランサスが造り上げたYMF-X000Aガンダムドレッドノートが唐突に思いついたのだ。
ラクスはおかしそうに笑って、楽しそうに告げる。
「正確には不正解です。正解は、ビーム兵器を装備可能な量産機を開発するためです。国防委員長であるパトリック・ザラはビームに魅せられました。その高い攻撃力に。ご高見確かなことはジンでガンダムと対峙したことのあるお2人ならおわかりでしょう」
うなずくまでもないことだ。ZGMF-1017ジン--ザフト軍主力モビル・スーツ--の攻撃力ではビームを前に手も足もでなかった。また、不意をつかれたとは言え、アフリカ戦線ではジンオーカーが圧倒されている。
パトリック・ザラ、アスランの養父がビーム兵器の開発を急がせたことは決して間違った判断ではない。
「そしてラウ・ル・クルーゼはガンダムの開発者をつれてきました。パトリク・ザラの心は躍ったことでしょう。憎きナチュラルの起死回生の技術をたやすく手にできるのですから。そのために、ザフト地上軍の力となるはずのモビル・スーツの開発は後回しにされてしまったのです。ガンダムさえザフトの手になかったなら、ゼフィランサスさえプラントにいなかったとしたら?」
ラクスの言葉をまとめるとすればこうだ。ブルー・コスモスはガンダムを敢えてザフトに鹵獲させることでビームに関する技術を意図的に流出させた。そしてその開発を促すことで新型機の完成を遅らせた。
「いや、ちょっと待ってくれ! クルーゼ隊長の奇襲は地球側にとって想定外のことであったはずだ。もしかしたらすべてが台無しになっていた危険性だってある」
「オーブでの戦闘行為。このことに関する証言を求められ、召喚されているはずのラウ・ル・クルーゼは行方をくらませました」
「隊長が……?」
「ラウ・ル・クルーゼは大西洋連邦と通じていた。こう考えることですべての説明がついてしまいます。これまでは、あれほど果敢に地球を攻め立てる将がスパイであるはずがない。そう、見過ごされてきたのです。本来ならば地球再侵攻用モビル・スーツは二月は早くロール・アウトされるはずでした。当初はそれでよいとされていたのです。地球側は未だにガンダムという試作機の段階であり、本格的な反撃は当面先の話だとして」
ビーム兵器の開発がいつになるかはわからないが、それでもすぐに量産体制が整うとは思えない。完成すればそれは大きな力になることは間違いないだろうが、それまでの間、前線の兵は新兵器の恩恵を受けられぬまま戦い続けることになる。
もしもそのすべてが計算されていたことであるとすれば、隊長は、いや、ブルー・コスモスは一体いつからアスランを、ジャスミンを欺き続けていたのだろう。
「この二月の間に様々なことが起こりすぎました。ユーリ・アマルフィ議員の転向にニュートロン・ジャマーの封印が解かれたこと。地球軍の量産型モビル・スーツの配備は地中海沿岸の勢力図を書き換えました。そして、新議長に選出されたパトリック・ザラ議長に功を焦らせた上でのアラスカの焦土作戦」
すべてはガンダムによって始まり、そして1本の線によって結ばれている。
「現在、地球軍はオーブ、そしてジブラルタルのマスドライバーを狙い動き出しています。アスラン、これから何があっても心を強くたもってください」
「大西洋連邦は着々とオーブを攻める準備を進めている。まあ無理もない。地球からザフトを追い出せば、次は宇宙だ。マスドライバーが喉から手がでるほど欲しいはずだ」
1から造るよりも奪う方が早い。そして、数少ないマスドライバーをオーブは有している。しかしそれは攻める理由であって動機ではない。そのことを指摘したのはディアッカである。
「しかし、オーブは中立国だ。自分たちに従わないから攻めるじゃあ、誰も納得しない」
「そうだ、お父様としても極力開戦を長引かせ、アラスカでの一件が公になって急進派、ブルー・コスモスの信頼失墜の時をまって厭戦機運を高めることを狙っている。奴らとしても世論を無視しては戦えないだろうからな」
ここでカガリの言うお父様とはウズミ・ナラ・アズハ。オーブの元代表--ヘリオポリスでの兵器開発の責任をとる形で辞任している--であり、今は大西洋連邦との会議に出席している人物である。
キラはあくまでも冷静に答える。
「あれほどの知略家であるムルタ・アズラエルがその程度見越してないとは思えない。ブルー・コスモスの代表をしているほどの男だ」
エインセル・ハンター、ムウ・ラ・フラガ、ラウ・ル・クルーゼは世界的な思想団体であるブルー・コスモスの代表を務めている。人心というものを扱わせたならエインセルほどの者はざらにはいないはずなのだ。
フレイがうつむきがちなままで発言する。
「エインセルさんて、そんなに悪い人なの?」
「極悪人だ」
カガリは無げに答えた。フレイは気分を害したように口を尖らせ、エピメディウムは笑いを漏らす。
「僕には悪い人かどうかはわからないけど、まずは見てみようじゃないか」
そう、エピメディウムが視線で指し示す先のモニターには、白いスーツを身につけたエインセルの姿があった。風景から判断するに、どこかの会議場であるらしい。縦に長いテーブルの両脇を赤褐色の上着を身につけた人々が座っている。オーブの重役の面々である。エインセルはその先に1人、立っていた。
「お父様のネクタイ・ピンにちょっとね。会議は本当は撮影禁止なんだけど、今回くらいは見逃してもらおうかな。みんなエインセル・ハンターには興味があるんだよね」
そう、少年少女たちは現在、エピメディウムが座る机におかれたモニター画面を寄り集まってのぞき込んでいる。そんな仲間たちへ、オッド・アイのヴァーリはウインクをして見せた。赤い瞳が隠れ、緑の瞳が露わとなる。
エインセル・ハンターはオーブ首脳陣を聘睨していた。
性別年齢。生い立ち経験まで違う首脳陣とて、エインセルの前では等しく同じ反応を示す。目の前に差し出された書類を目の前に、誰もが息をすることさえ忘れていた。
「それが、我々の条件です」
エインセルの瞳は海を青さを思わせて冷たい。激昂したのはオーブの前代表であるウズミ・ナラ・アスハ。豊かな口髭は顎髭とつながり、それは年相応の威厳を感じさせるものである。
「馬鹿な! これでは事実上の降伏ではないか!?」
ウズミは書類の束をテーブルへとばらまいた。紙は長いテーブルを駆け抜け、一部とは言え、エインセルのそばにまで届く。
エインセルは身じろぎもしない。
「オーブ代表はホムラ氏と耳にしておりましたが、オーブの獅子自ら応対していただけるとは光栄です」
ウズミの隣り座っているのは、ウズミから地位を引き継いだホムラである。ウズミの弟であり、この会議の間は兄と並んでエインセルの正面に座っていた。先代のウズミに比べると、顔かたちに似通ったものは感じさせるが、その眼差しはどことなく伏せがちであり、エインセルを直視できないでいる。
エインセルとて、その瞳はウズミへと向けていた。
「こんなものは誰が見ても呑めた内容ではない」
果たしてそれがどのような内容であったのか、ウズミは並べようと口を開く。
エインセルは腕を振るう。目前にまで迫っていた資料が舞い上がり、それは風が通りすぎていったよう。
「交渉の余地はありません。話し合いなどするつもりはないのです」
最も優雅な髪をして、最も澄んだ色を持つ瞳、最も気高いとされた肌の色をしたその男は、何をしても美麗であり、優美である。
「私は世界に火をつけに参りました。剣を与え、親と子を、子と親を戦わせるために参りました」
それは燃え盛る火。時に崇拝の対象となりながら、その存在は苛烈。火はただ燃えているだけであり、人への悪意も善意も持ち合わせてなどいない。それでも、人は崇めずにはいられない。焼かれずにはいられない。
「目前から嵐が迫っている。嵐はあなた方を蹂躙するでしょう。挑むか耐えるか。あなた方に与えられた選択は、それだけにすぎないのです」
居並ぶ首脳陣はようやく気づかされた。ここは交渉の場などではない。祭壇の上で灯されようと、屍を片づけるためのものであろうと火は意に介しはしない。ウズミが受け入れようと受け入れまいと、エインセルは何も問題とはしないだろう。
ならばせめて、意地を通す。それがウズミの選択であった。エインセルを見たまま、無言を貫いたのである。
エインセルは、恭しく頭を垂れた。
「戦場でお会いしましょう」
それは脅迫では決してない。声に格別の抑揚はない。単なる別れ際の挨拶でしかない。火はその恐ろしさを吹聴するまでもなく、誰もがその恐ろしさを知っているのだから。
フレイはモニターに映るエインセルの様子から目を離すことができなかった。エインセルはあくまでも綺麗であり、得られる安心感は微塵も変化はみられない。格好いい大人の男性。その評価に修正を加えようとは思わない。
それでも、冷静さが冷徹さに、存在感の大きさが威圧的に感じ始めていた。随分と強気な印象を受けていたカガリと呼ばれていた女性も、その表情はどこか強ばったものに変わっている。
「無茶苦茶だな。これでは引き延ばし工作などできるものか……」
「こいつがエインセル・ハンターか……」
「ディアッカ君、君にとって彼は仇の1人かもしれないけど、戦争では切りがない。それにここはオーブだ。申し訳ないけどやんちゃは控えてもらうよ」
ディアッカの声に苦いものを感じたのだろう。エピメディウムは決して攻撃的ではないにしても、しっかりとディアッカの目を見ていた。
「安心しろ。迷惑かけるつもりはない」
ディアッカはそれで納得したらしい。だが、フレイにはとてもではないができそうにない。
エインセル・ハンター。フレイにとっては大切な恩人で、それでいてエインセルは戦争を起こそうとしている張本人である。復讐のための力を与えてくれて、それでも復讐しないように諭してくれた。
どちらが本当なのだろう。フレイに復讐をさせたかったのだろうか。それとも、復讐に憑かれなかったことを誉めてくれるだろうか。確かめたい。そう気が急いて、フレイは走り出した。この建物の構造は大体掴んでいる。今すぐ行けば間に合う。
「フレイさん!?」
応接間の扉を抜けようとしたところで後ろからアイリスの声がしたが、かまわず駆け抜ける。目的は内閣府の入り口である吹き抜けの階段である。会議場をすぐに退席したのなら、そこで追いつけると踏んだのだ。さすがに政府要人が集まる場所だけあって、角という角、通路という通路に警護が配されていたが、軍服--今はオーブのものを着ている--を着ているとは言え、子どもにすぎないフレイを本気で止めようとする人はいなかった。
やがて、最後の角を曲がったところで、そこは2階部分、吹き抜けを見下ろすことのできる廊下に出る。
貴族の邸宅のような踊り場で左右に分かれる豪勢な階段を降りている人たちが見えた。背の高いスーツ姿の男たちが前と後ろから挟むように歩いている。彼らがSPであることは容易に想像がついた。
護衛に守られているのは3人。黒いスーツを着た眼鏡の女性とその隣りに白いドレスを身につけたアイリスそっくりの少女。
そして、2人の女性の前で階段を降りる男性の姿を見紛うことはない。
「エインセルさん!」
フレイは差叫んで手を振る。すると、エインセルもあっさりとこちらに気づいてくれた。笑顔が穏やかで、アーノルドとは違った大人の男性である。急いで近づこうと駆け出す。右側。そちらに階段がある。絨毯が引かれた少々変わった階段である。
別に絨毯を踏みつけたことを咎められたわけではないが、SP2人に道を塞がれてしまった。
「ちょっとお話したいだけよ!」
階段の中腹にいるため、フレイの方が高い位置にいる。それでも、SPの男の目線の方が高い。エインセルと同じ人間かどうかも疑わしい、ゴリラみたいな顔つきをしている。
きっと、言葉が通じなかったのだろう。SPはまるで道を開けてくれる気配がない。
「通していただけませんか? その方は私の友人です」
透き通った声がして、SPが道を開ける。すると、エインセルがフレイへと手を差し出していた。エインセルは踊り場に立っているため、フレイの方が頭の位置が高い。それはまるで、ひざまずいて踊りの相手でも求められているみたいだとするのは夢見がちであろうか。
気のせいか、階段の下から白いドレスを着たアイリス--正確には別人だが、顔がよく似ている--がこちらを睨んでいる気がする。
フレイはエインセルに導かれるまま、階段の踊り場にまで移動する。足場を等しくすると、やはりエインセルは背が高い。それでも、いざ向き合ってみると、威圧的でも高圧的でもなかった。
「いい目をするようになりましたね」
その声はあくまでも優しい。
こんな人が戦争を起こそうとしているとは、未だに実感として伴わない。宇宙要塞アルテミスでは、フレイの命を救ってくれて、力まで貸してくれた人なのだ。
いただいた銃を取りだそうと、胸に手を入れる。すると、服の上からエインセルが銃を掴む手にそっと手をおいた。
「今ここで取り出してはいけません。わかりますね」
見ると、SPたちが体を強ばらせている。たしかに、こんな場所で銃を持ち出すことは不自然どころか危険な行為そのものである。エインセルがそっと導いて、フレイはゆっくりと懐から手を出した。SPが緊張を解くのがわかる。
「教えてください。どうして空砲を仕込んだんですか?」
ミリアリア・ハウが怒りに憑かれてディアッカのことを狙った時、弾は出なかった。第1発目だけに、空砲が込められていたのだ。結果として、ディアッカを庇おうとしたアイリスは命を落とさずにすんだ。ミリアリアは人を殺さずにすんだ。
エインセルはフレイの頬を撫でた。いやらしさなんて微塵も感じない。
「激情に駆られて行動したとしてもそれは本意ではありません。やがて自分のしたことを知り、その後悔に襲われることがあるでしょう」
まるで神を語る人のよう。ミリアリアが銃を使ってしまった時、友達を危うく傷つけてしまいそうになったことに怯えて、涙していた。
「それでも、犯した罪は消えず、失われたものは帰ってはきません」
仮に実弾が込められていたとしたら、アイリスは死に、ミリアリアは一生消えない傷を負うことになっただろう。
「そして自分の成したことの恐ろしさに気づいたところで、すでに取り返しがつかなければそれはあまりにも悲しい。しかし、銃を撃ったのはあなたではないようです」
エインセルは本当にうれしそうに笑う。1度もフレイが撃った訳ではないと言っていないのに、その青い瞳はすべてを見透かしたように。ただそれでもフレイが本当に知りたいことはまだ明らかにはなっていない。
つい目を反らして、うつむいてしまう。
「教えてください。あなたがブルー・コスモスの代表だって言うことは本当ですか?」
できることなら嘘だと言ってもらいたかった。こんな優しい人が、世界を戦乱に陥れている1人だとは思いたくなかったから。
それでも、エインセルはあくまでも素直で正直な人だった。
「はい」
澄んだ声。
「アイリスがコーディネーターだということも知ってましたか?」
エインセルはアイリスの支援者であり、言わば養父である。エインセルはフレイがコーディネーターへの怒りを抱いていることを知っている。エインセルはフレイにコーディネーターへと復讐するための力を与えた。
エインセルはやはりすべてを知っていた。
「はい」
フレイが銃を撃たず、いまだ復讐を実行していないことをエインセルは本気で喜んでくれたと思う。それでも、仮に復讐を実行して、アイリスを傷つけようとしても、殺そうとしても構わなかったのではないだろうか。アイリスがコーディネーターだと知っていた。フレイの憎しみをわかっていた。
涙がこみ上げてくる。
「結局何もかも知ってて、私のこと弄んでただけなんですね……」
恨み言が聞こえなかったわけではないだろう。
「はい?」
淀んだ声。何でもわかっている人なのに、さも事態を把握できていないかのように取り繕っているのだ。
「信じてたのに……」
優しい人なんだと、頼れる人なんだと。フレイは腹の底からの大声で叫んだ。
「傷心の私につけ込んで弄んでただけなんですね! この変態! 死んじゃえ!」
来た時とは違い、誰も止めようとはしない。フレイはその場から逃げ出すように走り去った。エインセルと、形成されてしまった微妙な空気を残して。
SPが、エインセルと決して視線を合わせようとはしない。職務に忠実である以上に、見てはいけないものを見てしまったように。
「誤解です……」
エインセルは努めて冷静でいようと心がけているが、普段は見られない不必要な動作が増えている。また、ある特定の方向を目にしようとしないことも、不自然な行動である。
そちらは階段の下。
「お父様……」
「エインセルさま……」
妻と娘の声がする。これまでに聞いたこともない、深い水の底から、耳を塞いでも、それでも届いてくるような声が。2人の女性の顔を見るほどの力は、エインセルにはない。
「年増に飽きたならどうして私に……」
「あんな小娘のどこが……」
エインセルは生まれて初めて、冷や汗というものを背に感じていた。舌は渇き、喉は枯れる。その英知を結集してさえ、言い訳の言葉は思いつきはしない。
「ご、誤解です……」
しかし残念なことに、この言葉が効果的でないことだけは、エインセルは理解していた。