C.E.61。C.E.71より数えて10年前。すべてが始まりを告げた年。
少年の声が聞こえる。
「やってるな、テットの奴」
異常なほど白く清潔な壁。照明に照らされ淡い白の照り返しを放つ。どこぞの病院か研究室を思わせるその場所は、断続的に激しい揺れにさらされていた。窓の外に広がる広大な密閉空間。その中で暴れる2体の巨人がその原因である。
それは機械でできた体、剥き出しのフレームを持つ10mを越える巨人であった。後にモビル・スーツと呼ばれる機体群、その雛形である。コクピットは胸部から突き出たガラス・ケース内に設置されており、観戦席とも言うべき部屋からさえパイロットの様子が見えた。
栗色の髪をした子どもが操縦する巨人が対峙する巨人を力任せに壁に叩きつけると、ぶつけられた巨人はそのまま動かなくなる。揺れが伝わり窓ガラスがしなる音がする。
部屋には少年と少女。少年は濃い紫色の髪を、少女は金髪をしている。どちらとも5歳程度の身長であった。2人は窓越しに巨人の決闘を眺めていた。
少女はため息をついた。
「やっぱりゼフィランサスの機体はすごいな。パワーがまるで違う」
「その代わり、お金もサイサリスの3倍はかかってるんだってさ、ギーメル」
少年は少女をギーメル・スリーと呼び、少女は少年をアルファ・ワンと呼び返す。
「それにゼフィランサスの機体ならテットの思い入れも強いだろうからな。意地でも勝んじゃないか、アルファ」
「言えてる」
2人の子どもの見つめる先、壁に寄りかかるように倒れる巨人とその前で膝をつく巨人がある。部屋の壁からアームがゆっくりと巨人たちの方へとのばされていく。アームの先端にいるのも子どもであった。数は2人。先端にとりつけられたリフトの上で、1人は備え付けのモニターを覗き込み、もう1人は手すりに手をおいて跳ねていた。どちらも青い髪をして、寸分違わぬ容姿をしている。
声を上げたのは手すりにいる方の少女である。
「あ~もう。サイサリスお姉ちゃん、テットの奴またやったよ!」
「大丈夫、大丈夫。これくらい修理できるからローズマリー」
顔は同じでも持つ雰囲気はまるで異なる。サイサリス、サイサリス・パパと呼ばれたモニターの少女は穏やかな表情を浮かべている。落ち着きなく跳ねるローズマリー・ロメオとは正反対であると言えた。この2人は姉妹であった。ヴァーリであり、第6研のPとR。
勝利を飾った巨人の胸のケースが開き、少年が姿を現す。まだ幼いながらも危なげない足取りでケースを出ると、ハッチ脇の乗降用ケーブルに足をかけするりと降りていく。
ローズマリーはリフトの上から手すりにかぶりつくように降りていく少年を見下ろす。
「こら、テット! テット・ナイン!」
「ローズマリーもサイサリスも安物をどれだけましにできるかばかり考えてないでさ、もっといい機体造ってよ。それと僕をナインて呼ぶなよ!」
「限られた予算でいいもの造るってことの大変さ、わからない!?」
少年は聞く耳持たない。ローズマリーのことを見ようともしないで誰かを探して首がせわしなく動く。やがて目当ての人物を見つけると同時にテットは破顔した。
「あ、ゼフィランサス!」
まだケーブルが下につていないというのに飛び降りてまでテットは先を急いだ。支えを失ったケーブルが不規則に跳ね回る。また、ローズマリーの顔にも秩序立っていない痙攣が見られた。
「今度、テットの機体に爆弾しかけてもいいかな、いいよね、サイサリスお姉ちゃん……!」
「駄目に決まってるでしょう、ローズマリー」
サイサリスはこの戦いで得られたデータをまとめるべく、指先がせわしなくコンソールを叩いている。
純白で覆い尽くされた廊下。くだんの人型兵器の実験場と通じる道。赤い髪をして、しかし顔はサイサリスとローズマリーとも変わらない少女が2人。その中で1人、ロベリア・リマが深いため息をつく。その口を手で隠そうとはしていない。隠そうにも、ロベリアには両の手が存在していない。
「あ~あ、私も操縦してみたかったなぁ~。義手つけてやってみようかな?」
上げてみる右手。その手には肘さえなかった。せめて肘があったなら高性能な義手もつけられるのだが。
ロベリアの隣を褐色の肌と赤い髪をしたヴァーリが歩幅をあわせて歩いている。2人はまだ幼く身長差はないに等しいが落ち着いた表情の分だけ、カルミア・キロの方が年上の印象を受ける。
「やめておいた方がいいんじゃない? テット君は誰に対しても手加減なしよ」
「いいよ、アルファ君に相手してもらうから。ギーメルちゃんだけは嫌だけどね、カルミアお姉ちゃん……」
「大丈夫じゃない? 操縦はうまいから殺さない程度にとどめてくれるわ」
「死んでないってだけなんて嫌だよ……」
同じドミナントでも性格はまるで違うのだから。テットは末弟であるせいか子どもっぽい。アルファはさすがのお兄ちゃん。ギーメルは女の子なのに乱暴。それがロベリアのおおよその認識なのである。
あの中の誰がアスラン・ザラに選ばれるのだろう。そんなことを考えている内に、ロベリアの目に入ったもう1人の姉の姿に声を出して駆け寄った。
「ジャスミンお姉ちゃん!」
ジャスミン・ジュリエッタは駆け寄る妹に目もくれない。しかし何かを見ているでもない。元から視力を持たないのだ。そんな姉の様子に、カルミアが尋ねる。
「どう、ジャスミンお姉さま?」
「うん、やっぱり視神経が駄目みたい……。だから難しいかもしれないけど、もしも視力が駄目ならバイザーを用意してくれるって。ちょっと楽しみかも。私、まだ2人の顔見たことないから」
「まあ、同じ顔なんだけど……」
「私の肌は褐色になるよう調整されてるけど」
「ねえ、僕たちさ、髪の色は同じだけど瞳の色はバラバラだよね。だからさ、同じ髪型にしてみない?」
そんなことを言い出したのはEのヴァーリ。緑の髪を伸ばしていることはここにいる3姉妹全員が共通している。それは当然のこと。すべてのヴァーリは同じ研究所出身の目印として髪の色が統一されている。第2研は緑なのだ。ただ唯一、瞳だけは共通していなかった。
赤と緑のオッド・アイはDであるデンドロビウム・デルタ、Eのエピメディウム・エコー。Fであるフリージア・フォクスロットは両目とも緑である。そして、DとEは左右の組み合わせが反対である。
立ったまま、座っている姉と妹に話しかけるエピメディウムはどこか楽しげだった。デンドロビウムは椅子にだらしなく腰掛けていた。
「そんなことしても意味ないだろ。後ろ姿が紛らわしくなるだけだ」
「そんなこと言わないでさ、デンドロビウム。フリージアはいいアイディアだと思うよね?」
「エピメディウム姉さんがしたいなら私はいいと思います」
第3研の末妹は椅子に小さく腰掛けたまま気後れした様子でそうと答えた。その様子は小動物を思わせて母性をかきたてた。5歳。まだ母と呼ぶには早すぎる歳ながら、エピメディウムは妹の頭に抱きつく。
「まったく、かわいいんだから~」
髪に手を入れられ困惑顔のフリージア。デンドロビウムの言葉はさらにFのヴァーリを困らせた。
「じゃあ、私が嫌だと言えば、フリージアはどうする?」
「え! え~と……、その……」
ここは実験室ではなくて孤児院か託児所なのではないだろうか。時折、ここの職員たちはそんなことを考えた。
大きな吹き抜けのフロア。子どもたちが閉鎖された空間で余計なストレスをためないようにと、小さな滝のある噴水に観賞植物が小さな森を形作っている。子どもたちが時間があいた時、よくここに姿を見せていた。
上階から見下ろして、男性職員に手すりに体を預けている。今は車椅子に座るズールとそれを押すナイン--付き合っていると施設内公認のカップルだ--の姿が見える。
同僚が話しかけてきたのは、そんな仲睦まじい恋人たちのことを眺めている最中のことであった。
「どうだ? 我らが姫君たちの様子は?」
「元気なものだよ。子どもを育てるってことは家の中に台風を放つようなものだなんて言ってた学友がいたけど、今なら奴の気持ちもわかるな」
そんな彼も次に3人目の男の子が生まれるそうだ。大変だとうめきながら今度の子の髪の色は青にしたと楽しげに話していたことが印象的だった。できるかぎりナチュラルにない色にしたかったのだそうだ。
「ヴァーリが26人。ドミナントも含めれば35人だからな。そう言えば知ってるか? そろそろダムゼルとアスラン・ザラが決まるそうだ」
「そうか……。では、彼女たちは離ればなれになってしまうな。ところで、下馬評はどうなってる?」
同僚は背もたれに体を預けた。
「アスランはアルファ・ワンじゃないかって言われてるな。ガーベラ・ゴルフは手堅いだろう。後は第2研の双子。あくまで噂だが、ズールが内定したって話もある」
ズールについては特に驚くに当たらない。それほど優れた技術者であって、技術顧問であるジャン・カローロ・マニアーニ主任も推していた。聞いた名前は、すべて順当なところだろう。反対にない読み上げられない名前に、男性研究員は表情を曇らせた。
「フォクスロットは駄目だったか……」
「それは仕方がない。一つの研究所から2人もダムゼルが出ること自体すごいことだからな。ただ……」
同僚が口ごもる間、フリージア・フォクスロットについて考えた。第2研の第3世代。優秀な姉2人と凡庸なヴァーリであるフリージア。優れた第3研で唯一ダムゼルに選出されないヴァーリが誕生してしまうことになる。
こんなことを考えている内に、同僚は決意を固めていた。
「ヒメノカリス・ホテルは、やはり無理らしい……」
「……そうか」
これでHのヴァーリはもうお終いだろう。洗脳が強く作用しすぎた。ダムゼルになれない以上、もはや心が壊れてしまうだけだろう。遅かれ早かれ処分されることになる。
騒ぎが聞こえ始めた。職員たちが慌てた様子で走っていた。またホテルが暴れているのだろう。噂をすれば影とは言えない。それほどホテルが暴れ出す頻度は高まっていた。
男性職員は同僚ととも走り出した。職員たちが集まっていく方向。騒ぎの震源地はすぐに見つかった。不自然に開かれたままのドアから堅い音がするとともに男が仰向けに倒れた。ドアの縁を跨ぐ形で倒れた男は完全にのびているらしく、鼻がおかしな方向に曲がって血が出ていた。
「お父様……、お父様ぁ……!」
少女の悲鳴にも似た叫び声が染み渡る。
倒された男には悪いが介抱することもなく部屋の中を覗き込むと、桃色の髪を振り乱して少女が暴れていた。目は血走り年端のいかぬ子とは思えない形相をしている。床には他にも3人の男が倒され、今しがたホテルを押しとどめようとした1人が顎を強打され腰から崩れ落ちた。
「お父様はどこ……!?」
涙を流しながら。怒号を発しながら。
女性職員を中心とした人垣が部屋の中には作り出されていた。ヒメノカリスの素質も素養も並の5歳とでは比べものにならない。ただの大人では取り押さえることさえ難しい。
まだ部屋の入り口付近に留まっていた男性職員を押しのける制服が見えた。警備だ。警備は腰からピストル--拳銃ではなく発射式のスタンガンである--を抜くなり、ホテルへと向けた。
「電気銃を使う。離れていろ!」
「子どもにそんなものを使うのか?」
「もう5人も殴り倒されてる。そんなことを言っている場合か!」
警備は引き金を引く。発射されたソケットがヒメノカリスの衣服に付着すると、ケーブルで銃と体とが繋がる。その途端、ヒメノカリスが倒れた。端から見ているだけでは何が起きたのかわからないが、体の自由を奪うほどの電流が流れたのだ。苦痛に呻きながら、それでも立ち上がろうとするヒメノカリスに、警備は再度電流を流す。動こうとする度に電流を流す。やがて、ヒメノカリスが動かなくなるまで。
小さな体が痙攣して震えていた。地面に擦りつけられた顔は表情を作ることさえできずに垂れ流される唾液が床を汚していた。
ヒメノカリスが取り押さえられた部屋は、吹き抜けに面したところにあった。吹き抜けの対岸からなら、その光景ははっきりと見えていた。苦しげに暴れ回り、電気ショックに倒れるヒメノカリスの姿を、同じく桃色の髪、青い瞳をした2人の少女は目にしていた。
アイリス・インディアは隣のほとんど身長の変わらない姉の袖をすがりつくように掴んでいた。
「ねえ、ガーベラお姉ちゃん……! どうしてお父様は来てくださらないの? ヒメノカリスお姉ちゃんはあんなに辛そうなのに……」
「お父様にはお父様の御心があるのです、アイリス」
怯えたような今にも泣き出しそうな表情をしているのはアイリスばかりであって、ガーベラ・ゴルフは平然と、表情を変えることなくヒメノカリスの、妹の様子を眺めていた。
遠く、遠く、電気に筋肉を侵されのたうつ妹の姿を。
「でも……!」
「お父様はいつだってすべての人の幸福を考えておられます。今は耐えてください、アイリス」
デンドロビウム・デルタ。エピメディウム・エコー。第2研の第1世代、第2世代の2人がダムゼルに選出されることが決定した際、関わった職員たちの喜びはひとしおであった。至高の娘、ラクス・クラインこそ逃したものの、2名ものダムゼルを輩出した研究所は他になく、誰に対しても誇れる快挙であった。
当然のように宴が催され、会場は割れんばかりの歓声に包まれていた。誰もが喜びを謳歌していた。ダムゼルに選出された2人の少女も、研究員たちも我がことのように歓喜を素直に表現していた。
そして、唯一ダムゼルに選出されなかったヴァーリもまた、その思いだけは決して変わることはない。しかし、フリーク--失敗作--であることが決したヴァーリは、1人廊下の片隅で壁に背中を預けていた。会場からさほど遠くもないが近くもない。人の声が聞こえなくなるのは怖くてできなくて、でも喜ぶ人の声が辛かった。だからフリージア・フォクスロットは近くも遠くもない廊下で1人立っていることを選んだ。
寂しいのか辛いのか、それともダムゼルに選ばれた姉への嫉妬であるのか、まだ幼いフリージアは区別することができなかった。ただあの場所にはいたくない。そんな思いに素直に応えた。
ただ1人でいられればよかった。それは叶わない。ふらりと訪れた女性職員がフリージアの姿を見つけたのだ。いつも白衣姿で、その癖に香水の匂いがきつかった。女性はそんなフリージアの気持ちを知ることもなく、知ろうともしないで話しかけてきた。
「フォクスロット、こんなところにいたのですか」
「みんなすごく嬉しそうで、少し疲れちゃいました……」
「あなたも誇らしいことでしょう。あなたもこれからは2人を姉としてではなく、ダムゼルとして敬う気持ちを忘れてはいけませんよ」
姉たちはダムゼルでお父様のために働くことができて、フリージアにはそれができない。
フリージア・フォクスロット。レノア・ザラ部長がヴァーリに花の名前を与えてくれるまで、フリージアは単にF、フォネティック・コードでフォクスロットと呼ばれていた。そんな記号で呼ばれることが嫌で、フリージア、かわいらしい名前をもらった時嬉しかった。でも、花言葉は憧れ。
「はい……、わかってます……」
フリージアは、この時、自分の名前が少し嫌いになった。
暗い部屋。扉が軋んだ音とともに光が射し込み、部屋中に整然と置かれた棚と並べられた容器に光が当てられる。光のさす道を歩くのは黒髪の少女。生まれてから一度も切っていないのではないか、それほど長い黒髪をしている。
ミルラ・マイク。Mのヴァーリは嬉々とした様子で小走りに、棚へと近づいていく。部屋の照明は灯されていない。開かれたままの扉の隙間からの明かりをすべてに、ミルラはガラス容器に手をついた。
これが毎朝の日課なのだから。
「おはよう、お姉さま」
姉からは返事がない。
「ヴァーリが決まりそう。でも、私は無理なようだ。ガーベラがラクス・クラインにきっとなる。デンドロビウムお姉さま、エピメディウムお姉さまもほぼ確定だろう。後はゼフィランサス、サイサリス、ニーレンベルギア、アリュームなんかだ候補に挙がってる。私も候補には挙がっているようだが、無理だという気がしている」
やはり姉からの返事はない。ミルラは構わず姉に語りかけた。
「これで私もフリークだ。お姉さまたちと同じだな。そう言えばお姉さま、これは私の想像なんだが、ローズマリーの奴、テットのことが好きらしい。それなのにテットはゼフィランサスにお熱だ。このことは……、ああ、話したのは別のお姉さまだったかな?」
でもいい。今日はこのガラス容器の中のお姉さまに話したいと決めていたのだから。返事がなくても構わない。無理もないことだからだ。容器の中のお姉さまは喉を持たないのだから。
保存液の中に、お姉さまは目を閉じて眠っておられる。丸い肉塊。その体表のあらゆるところが目で埋め尽くされて眠っている。眼窩を作れ、水晶板を作れ、眼球を作れ、そんな誘導が全身めがけて放たれたのではないか。そんなことを研究者たちが話していた。
ミルラができあがるよりも前に生まれることさえできなかった姉は名前さえない。
まだまだ大勢いる。この部屋には、保存液に浮かぶお姉さまたちが。ミルラは毎朝訪れては他愛のないおしゃべりをした。
結合双生児のお姉さまとは新しいサイサリスとゼフィランサスの作るロボットの違いについて。無脳児のお姉さまとは9人のドミナントについみて。人魚症のお姉さまとはダムゼル選定についての不安を相談した。
みんな、みんな、ヴァーリと呼ばれるべきお姉さまなのだから。
ここはユニウス・セブン。プラントの夢を担うところ。
ここは研究室の一室であり、施設の他がそうであるように壁は白一色で塗り固められ、余計な張り紙さえ許されていない。慣れた者には当然の環境であっても、不慣れな者には白がまぶしく目にあたるようだ。モニターを前にコーヒーをすする女性にはともかく、そのすぐ脇に腰掛ける男性は先程から落ち着きなく瞬きを繰り返していた。
女性は白衣に身を包み、いかにも研究者と言った様子で髪を短く束ねている。しかし化粧など最低限の礼儀は決して欠かすことなく、女性を魅力的な大人の女性として見せていた。その顔は柔らかく男性のちょっと仕草にも微笑みをもらした。
女性、レノア・ザラはモニターに手をかけて画面を回す。隣の男性にも見える位置へと動かした。
「ねえ、パトリック。私たちの子どもはこの子にしようと思うの」
モニターには紫色の髪をした少年が映し出されている。アルファ・ワン。ドミナントの中でも優秀な子どもである。
画面を見る男は、彫りの深い顔にさらにしわを寄せる。パトリック・ザラ。レノア・ザラの夫であるこの男性は、国防委員が身につける紫の制服を身につけたまま、さもここが職場であるようなかのように緊張した面もちを崩そうとはしなかった。こんな男性が壁の白さに時折瞬きを繰り返す。そんな様子を、レノアは微笑みながら眺めていた。パトリックがある子どもの話題を口にするまでは。
「子どもか。しかしこれはただの君の作品だろう。私たちの子どもは……」
「あの子のことは忘れましょう」
「できるものか、そんなこと……」
余計な話が入ってしまった。レノアはモニターを元の位置へと戻す。パトリックはドミナント--レノアとパトリックの遺伝子情報は使用されていない--を子どもとはなかなか認めたがらない。
そんなことはわかっていたことだと自分を諫めながら、しかしレノアはため息をついもらす。
「パトリック。親の愛情って、一体いつ生まれるのかしら? 子どもが生まれた時、それとも母胎に宿った時? 生まれた時なら、妊娠中の女性はお腹の中の子どもをどう考えているのかしら? 母胎に宿った時なら、父親の愛情が生まれる理由がわからないでしょ」
「子を持つ親は当然のように子に愛情を持つと考える者は多い。だが反対に血のつながりはなくとも子に愛情を注げるものと考えることだろう。だがそれは矛盾だ。血のつながりがなくとも愛情さえあれば親子になれるのだとすれば、血のつながりがあっても愛情がなければ親子にはなれないということを認めることになる。やはり家族を繋ぐものは血だ」
この人はコーディネーターの熱狂的な推進派である。そのことがレノアには時折理解できないことがあった。コーディネーターは遺伝子を調整する。時には親子鑑定が難しくなるほど改変することもあるのだが、それでもパトリックは家族を血で考えたがる。
レノアはコーヒーを口に含んだ。
「愛は不思議ね。元々感情とは生物が集団生活を行う過程で互いを理解しあうために生まれたものだとする説があるわ。でも、愛は同時に本能とも切り離せない」
「子殺しか?」
「よくわかったわね」
「君がよく話題にすることだからな」
このことには素直に驚くとともに、それほど、ドミナントをザラ家に迎えることについてこの夫婦は長きにわたって話し合いを続けてきた。反対もしないが積極的に肯定もしないパトリックの説得は、相手がプラント最高評議会議員の座を狙うほど野心的な議員であるということもあってか苦戦している。
「ライオン。私は実物を見たことはないけれど、アフリカに生息する大型のネコ科の肉食獣だそうよ。ハーレムを形成して、雄が多数の雌を独占する群を作って、雌はその雄の子どもを生み、そして育てる。ところが、ハーレムは激しい競争にさらされている。他の雄がハーレムを奪おうとリーダーの雄と争うことがよくあるのよ。そして新しい雄が勝ってリーダーの座につくと、前の雄の子どもは殺される」
別にこれはライオンに限らない。ハーレムを形成する動物ではよく見られることである。また、子育て中の雌にとって最も危険な生き物は同種の雄だとも言われている。雌は子育ての最中は交尾をしたがらない。だから雄は子を殺してでも雌と交わる機会を持とうとする。
「愛って何かしらね?」
もう一度コーヒーを口に入れる。パトリックは少し嫌そうな顔をした。コーヒーの飲み過ぎで胃を傷めていることを知られているからだ。
「この話は別にライオンに限らないわ。人間も同じ。虐待されて亡くなった子どもがいた。犯人は実の母親とその恋人。残念だけど、決して珍しい話じゃない。生存本能があるでしょ。自分の遺伝子を持つ子孫を残すことを至上命題に掲げる生物にとって、母親の連れ子なんて邪魔な存在でしかない。自分の遺伝子を持たない上、自分の雌を不当に独占する子どもは邪魔以外の何者でもない。人間もライオンも同じ」
生命は本能でその種を縛り付け、種を保存するための行動をとらせたがる。大脳新皮質を発達させ理性で感情を縛る方法を作り出した。それでも、人と動物の境界は驚くほど曖昧なままである。
「愛って何かしらね? たとえば仮に一卵性の双子がいるとするとして、この場合、ごくわずかな例外を除けば両者の遺伝子は一致する。でも、そんな双子の兄弟の子どもを自分の子として愛することはできるのか? 遺伝子上は、自分の遺伝子を持つ存在だけどそんな疑問も浮かぶかもしれないわね」
「誤作動だな。生物にはその生き物が自分の遺伝子を持っているか判別する術なぞない。現実がどうであれ、自分の遺伝子を持っていると確信できなければならない」
「そう考えると女の方が男よりも子どもを愛することも頷ける。子どもの本当の父親を知っているのは母親だけだもの。女は確実に遺伝子を残せるけれど、男はそうとは限らない。だからできる限り女を独占しようとする。かわいいものね。ハーレムを作りたがる男の子って、それだけ本能に忠実ってことなのかしら? それとも雌をつなぎ止めておく自信がないのかしら?」
ちょっと皮肉がすぎただろうか。パトリックわかりやすく唇に力を込めていた。不機嫌な時の仕草である。
「イスラム教におけるハーレムは戦争において増えた寡婦を財政的に裕福な男性が保護すべく始められた一時しのぎの救済策が始まりだ。男の欲望を安易に肯定したわけではない」
「でも、殿方は不安なんでしょ。子どもが本当に自分の子どもなんだろかって。だからいつまも疑って独占欲が強い。おまけに子どものことも信じられなくて愛情にも乏しい」
「私がアルファ・ワンを認められないこともそれが原因だと言うのか!?」
パトリックが立ち上がる。その動きはただ立つとは違って動作が大きく、椅子が大きな音を立てるほどであった。部屋をすぐにでも出て行きそうなほどの剣幕のパトリックを引き留めるため、レノアは意識して声を大にした。
「パトリック! この子は私たちの子どもよ」
再びモニターを回す。辛うじて立ち止まったパトリックは、モニターに目をやりながらも厳しくもどこか寂しげな眼差しを崩そうとはしない。視線こそ強いものの、眉を潜めてまではいない。
「レノア……。プラントに、コーディネーターの未来のためにこのような存在は必要なのか?」
「結婚前に話したでしょ。ザラ家とクライン家が長年にわたって追い続けた夢がある。プラントはそのために作られた国だってことも。パトリック・ザラ議員様」
どこか諦めにも似た境地に至ったのだろう。次第に視線からもこわばったものが薄れていく。それでも椅子に座り直そうとしないところを見ると、アスランを受け入れてもらうためにはまだまだ時間がかかりそうだ。
パトリックは卓上カレンダーにふと目をやった。
「13日か……」
「鷹派の議員が迷信を怖がるの?」
2月13日。特に金曜日という訳ではない。パトリックが単に話題を逸らすための方便に利用しただけかとも思ったが、思いの外真面目らしい。
「完全に無意味だとは証明されていないからな。強迫観念を感じるまでこだわるのは馬鹿げているが、避けるくらいの労力で危険を回避できる可能性があるのであれば悪くない」
理屈屋の子ども。男を評するならこんな感じになるのではないだろうか。目標に向かって一筋な堅物。でもどこか子どもっぽさが抜けきらない。そんなところは出会った時から変わっていない。
1日早いが、もう渡してしまってもいいだろうか。レノアは引き出しから1枚のカードを取り出した。
「はい。1日早いバレンタイン・カード」
明日は2月14日。記念すべきバレンタイン・デーなのだから。
「私は何も用意していないぞ」
「期待してないわ。今度アスランを連れて行くから会ってちょうだい」
「コーヒーはほどほどにしておけ」
「これでもだいぶましになったのよ。昔はブルー・マウンテンしか受け付けなかったもの」
笑うレノアに対して、パトリックは苦い顔をしたままカードを受け取った。コーヒー依存症の妻に対して呆れたようにため息をつきながらも決して禁じようとまではしない。
渋い顔をしたまま、パトリック・ザラは部屋を後にした。
そして、日付が変わる。
C.E.61.2.14。
レノアは未だにモニターから離れることができないでいた。徹夜するつもりはなかったのだが、どうしても今日中--もう日付は変わってしまったが--に片づけてしまわなければならない仕事があった。
気付け薬にコーヒーを胃に流し込む。舌を焼く熱さに口腔に広がる苦み。カフェインでは眠ることができなくはなっても眠気までなくなってくれる訳ではない。やはりそろそろ眠った方がいいだろうか。
ノックが聞こえた。インターフォンがあるにも関わらず、誰かが外から扉を叩いている。音は扉の左上部分から聞こえている。こんな時、来客は右利きだとわかる。そんなことを古い推理小説で読んだ気がする。
ただ、来客の予定はない。訝しがりながらも、レノアはドアへと向けて返事をする。それこそコーヒーを新たにすするほどの気楽さで。
「パトリック、何か忘れ物?」
以前、パトリックが大切な資料を忘れたと駆け込んできたことがあった。しかし言い終えて気づいたことだが、パトリックがユニウス・セブンを立つ便のとっくに出発している時間である。
モニターには扉の前にたたずむ少年がいた。カメラを見ておらず、よく顔は見えない。しかしこんなくすみのない金髪の少年などいただろうか。何の気なしに扉を開く。
すると、レノアは口に含んだコーヒーを一息に飲み込んでしまった。喉が熱い。それでも痛がることさえ忘れて来客を眺めていた。
美しい少年であった。黄金の髪は柔らかく、青い瞳は鮮やか。中性的でありながら大人の男のたくましさと少年らしいあどけなさが共存している。好みに差はあれ、美少年だと言えば10人が10人納得する、そんな少年である。
白いスーツが決して背伸びを思わせずよく似合っていた。
「こんばんわ、レノア・ザラさんに相違ありませんか?」
声もまた、透き通るような美声である。
「そうだけど、あなたは?」
街中で見かけたならともかく、厳重な警備が敷かれているはずのここに見ず知らずの人物がいることはあり得ない。迂闊に扉を開いてしまったことを後悔しながら怪しんでいない風を装って、警備室へと異変を知らせる直通ボタンを押した。これで、ほんの数分もすれば警備員が駆け込んでくる。
少年は眩しいばかりに微笑む。
「初めまして。私は、エインセルとでもお呼びください」
「エインセル。たしか妖精の名前ね。確か、子どもと遊ぶ女の子の姿をした妖精だったかしら?」
「ええ」
話をしながら、椅子に座ったままであることに気づいた。客人を迎えるのにこれでは不自然であろうか。しかし、急に立ち上がることも同じくらい自然ではない動作である。
イングランド地方の民話に語られる妖精のお話。
「エインセルは子どもと楽しく遊ぶ。でも、ふとしたことから火の粉を浴びて怪我をしてしまう。エインセルは大きな悲鳴を上げた。すると、その悲鳴を聞きつけてエインセルの母親が現れた。母親は怒り、娘を傷つけた犯人を探そうとする。少年はある言葉のお遊びから奇しくも難を逃れることができた。そんなお話でしょ」
「少女が自分の名前はエインセルと名乗った時、少年もまたエインセルと名乗りました。エインセルとは私自身であり、少年も僕も僕自身だよと答えたのです」
「エインセルは母親に怪我をさせたのはエインセルという少年だと答えた。ところが、母親は自分自身で傷つけたと思ってしまった。母親はエインセルを連れ戻し、少年は難を逃れた」
そんな火にまつわる少女の妖精のお話。
時間は稼いだはずである。それでも、警備員が到着する気配がない。ここにはレノアと少女の名前を持つ少年。では、警備という母親がエインセルを連れ出してくれない限りお話は終わらない。
少女の名前を持つ少年は穏やかに微笑んでいた。
「恐ろしい顔をした母親が現れなければ物語は終わりません。では、どういたしましょう?」
眩しいばかりの微笑みが途端恐怖の対象となる。思わず立ち上がると、机の上のコーヒー・カップが倒れ、熱いコーヒーをまき散らす。
エインセルは身につけた白いスーツの中から拳銃を取り出してみせた。グリップの底からカートリッジが外される。コロニーの擬似重力に引かれて落ちたカートリッジは軽い音を立てた。新しく取り出されたカートリッジを銃底に取り込むと、銃身をスライドさせ、またスーツへと仕舞い直す。では、空のカートリッジに入っていたはずの弾はどこへと行ったのか、聞けるはずもない。
「私はエインセル。あなた方自身が望んだ成果が、火を纏い参りました」
ユニウス・セブン。プラントの全12市の一つ、ニユウス市第7コロニー。
それはユニウス・ファイブからユニウス・エイトまでの一続きの食料生産プラントの一つであり、コロニーは、しかし地球の民が考えるような牧歌的な光景とは無縁である。
黄金の穂を垂れる金色の絨毯など存在しない。青々として牧草地に放たれた家畜ののどかな声を聞くこともない。
コロニーにおいて自然というものはすべて作り出すものである。雨は降ることがない。水を必要とする植物にはスプリンクラーが適時必要な水分を補充すればよい。わざわざ天から水を落とし、服を汚し、屋根を湿らせる意味をコーディネーターは見いだすことはなかった。風が吹くこともない。空調によって完璧な温度管理が施されたコロニー内においてわざわざ大気を揺り動かす意味などないのである。
そんなコーディネーターにとって、農業という概念は根底から地球と異にしていた。天候に左右されることはばかげている。すべて管理することができる。生鮮食品に必要なものは管理である。
野菜、果物、穀物は野菜工場の棚にところ狭しと並べられ、植物の生長に必要な養分を含んだ培地に、吸収のしやすい波長の光が浴びせられる。徹底したコンピュータ管理の下、熟したものから順番に食卓へと送られていく。プラントにとって、植物とは炭素、水素、酸素、窒素、硫黄、燐、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄、光を人が利用可能な栄養素に変換するための装置でしかない。
家畜は育てるではなく生産する。狭い家屋に繋がれ、ただ与えられたものを食らい、肉を肥え太らせる。最も滋養に富む肉質を生み出す遺伝子配列はすでに発見されている。そのため、プラントの家畜はすべて単一の遺伝子を持つクローンで占められていた。家畜とは製品でしなく、いかに単一品質を安定供給できるか、それこそが社会的要請に他ならない。
徹底した管理。それを実行するためには、太陽の光も気まぐれな雨も、遺伝子の多様性さえ必要としない。すべて邪魔なものでしかない。
ユニウス・セブンは食料生産コロニーである。工場が所狭しとひしめき、稲田など1ヘクタールと言えども存在していない。すべて工場の中、徹底した管理下に置かれている。
そのような工場群の中、仮に人を対象とした遺伝子技術研究所が紛れ込んでいたとしても、誰も気にとめることはないだろう。
プラントの大地は円盤をなす。砂時計のような形状の両底に大地が築かれ、工場がひしめいている。その中に隠れるように、ドーム状の施設が築かれていた。表向きには遺伝子組替食品の研究施設。しかし家畜の遺伝子操作に寛容なプラントにとって人と動物の境界はひどく曖昧である。事、遺伝子操作においては。
研究施設として商品を出荷することはない。研究者が何人入ろうと誰もいぶかしがることなく、また荷送トラックの出入りがなくとも不自然なことなどない。そうして、ドミナント、そしてヴァーリは内外から隠し通されてきた。
今日、この瞬間まで。
突然のことだ。何かが爆発したような音に、トラックの運転手は体が跳ねるほどの驚きを見せた。すでに夜中の3時を回っている。暗い夜道を運転することは退屈でしかなく、運転手はあくびさえしてハンドルを握っていた。
そんな時に轟音を聞かされたのである。
路肩に停車するトラック。慌てて外に飛び出た運転手が目撃したのは、突き破られたドームの壁と、そこから上半身を突き出す機械仕掛けの巨人の姿であった。それは体中の皮を剥ぎ取られた鬼のように、街灯に照らされていた。
「兵器として面白いが、コクピットがこうも剥き出しとはな。所詮試作機ということか」
ガラス張りのコクピットが巨人の胸から突きだしている。その中に男の姿はあった。その姿はトラックの運転手同様の作務衣であり、目元を隠してサングラスをかけている。そのミスマッチは、男が決して運転手ではないことを示していた。
男が操縦桿を動かすと、ドームから体を尽きだしていた巨人が足下に残されていた壁を突き破って道路へと足を降ろす。モニター越しではない、ガラス越しの光景は男に路肩に止まるトラックを見せた。10mを越える機体には一抱えの荷物ほどの大きさがあるそれを、巨人はおもむろに蹴り飛ばす。トラックが転がりながら街路樹をなぎ倒す。
次に巨人の腕はドームの壁を殴りつけた。堅いコンクリートは破片となって周囲に散乱し、トラックの運転手が恥も外聞もかなぐり捨てて逃げ出す様を男は口元をゆがめながら眺めていた。それほど滑稽に見えたのだ。走っては転びそうになり、足をもつれさせてもとにかく逃げだそうとする姿が。
やがて聞こえてくるサイレン。マイクが拾うとともにガラス越しに直にも聞こえてくる。パトロール・カーが赤いランプを夜空に明滅させながら巨人を目指していた。
巨人からすれば車は踏みつけるにはほどよい大きさをしている。しかし男は笑うばかりで機体を動かそうとはしない。
「青き清浄なる世界のために」
これが呪文であり、効果は爆発。ドームを中心に一斉に生じた爆発は一つ一つは小規模ながら車を吹き飛ばすには十分であった。爆発に吹き飛ばされ完全に逆さまになった状態のままパトロール・カーは巨人の足下へと滑っていく。
黒焦げた車体。ひしゃげたドア。虫の腹のような底部をさらした車を、巨人は踏みつぶす。
夜の静寂は、もはや息絶えていた。
研究施設に警報が鳴り響く。これは訓練ではない。これまで一度も敵襲を迎えたことのない施設は慌ただしく走り回る警備の足音に人の声さえかき消えんばかりである。
緊急用のケースが力任せに割られ、中からアサルト・ライフルが取り出されては次々訪れる警備に投げ渡された。
防弾チョッキを身につけ終えた者から次々と跳びだしていく。
引き倒されたテーブル。手短なものを最大限利用して組み上げられたバリケード。壁の裏に隠れた警備が飛び散る火花から身を隠しては狙いさえつけることなくバルケードの向こうへとライフルを連射する。
ヴァーリの子どもたちが憩いの場としていた吹き抜けは、主戦場と化していた。噴水には血が混じる。警備服を身につけた一団と作務衣を身につけた一団。銃声が、観葉植物の葉を引きちぎっては床がおびただしいゴミで埋め尽くされている。空薬莢、ちぎれた葉、死体、破壊されたバリケード。
テーブルを引き倒し、持ち込んだ椅子の山を組み合わせたバリケードの裏に隠れて警備は銃撃戦を続けていた。敵の正体も掴めぬまま、ただ銃の引き金を握り続ける。
すぐ隣の壁がほんのわずか膨らんだ。そのことに気づく者はいなかった。気づいたところですべてが無駄であったことだろう。壁は突如膨れ上がり、横殴りの爆風がバリケードごと警備を吹き飛ばす。
壁に仕掛けられた指向性爆弾。そこには扉のようにきれいに壁が切り取られ、作務衣の一団が白煙の中から一斉に跳びだし、警備員を急襲する。
「慌てるな。敵の攻撃は第7区画に集中している。決してさばき切れぬ数ではない。それよりも第2波、第3波に備えろ!」
研究所の中央制御室。ここは単なる研究施設としては機能が充実しすぎており、もはや小規模であれば要塞の司令室としてさえ機能できるほどである。
壁一面に埋め込まれた複数のモニターには研究所で戦闘が繰り広げられている光景が映し出されている。しかしそれは大規模なのはあくまでも吹き抜けを中心とした一角だけであり、施設周辺を一斉に攻撃した部隊からの続く攻撃はない。波状攻撃に備えるよう、司令官は居並ぶクルーたちに指示を強い調子で飛ばす。
強い調子。静かな声音。どちらが大きく聞かれるかと問われれば、前者であろう。しかし、この場に限っては、この男に関してはすべての常識が通用しない。
「いや、それは得策ではない」
慌ただしい司令室の中でさえ、その声は確かに響いた。
その姿はすでに80に手の届く老人ながら、その眼差しは気炎万丈。ゆったりと折り重なる衣服は男を仙人か、あるいは司教、枢機教、世俗離れした雰囲気を纏わせていた。かつて世界中の耳目をこの男は集めた。そう聞かされて誰もが納得させられる。威風堂々たる雰囲気を纏う。
その男の姿を身なり、司令官はつい敬礼をしてしまう。
「グレン様!」
ここは軍隊ではない。赤道同盟で少佐の位を持っていた司令官の悪癖に、グレン、ジョージ・グレンと呼ばれた男は平然と悠然と歩き、ただ手振りだけで敬礼をやめさせる。
ジョージ・グレンがその前にまで移動すると、そこに座っていたクルーたさも当然のように席を譲る。ファースト・コーディネーターは席につくなり、説教でも始めるように口を動かす。
「プラントはコロニーだ。知っての通り、コロニーは地球の島国とは比べものにならないほど密閉された空間だ。税関をくぐり抜けて密輸入するにはひどく手間がかかる」
「確かに」
「そんな場所に市街戦やら大規模テロを引き起こすほどの武器弾薬をやすやすと持ち込めると思うかね?」
「と、申されますと?」
そんなことさえわからないのか。ジョージ・グレンは決してそのことを態度に示した訳ではなかった。ただ司令官が一方的に恐縮し、その身を堅くする。
ジョージ・グレンはあくまでも静かな態度を崩そうとはせず、語り口は平静であった。しかし、それに反比例するかのように、司令官は自身の失策を自覚させられる速度が加速していた。
「おそらく、この攻撃が彼等の精一杯なんだろう。派手な攻撃に試作機を奪ってこちらの警戒を集めているが、規模としては小規模だ。辛うじて持ち込めた爆弾を同時に爆発させることでさも1個中隊に攻め込まれたかのように演出してはいるがね」
「では、陽動であると!?」
「敵の規模を見誤ったな。いもしない敵のため、あたら戦力を警戒にあたらせ無駄にした」
「も、申し訳ありません! ですが、ならば殲滅もたやすいかと!」
「敵の無能を期待することは敵が賢明であることを期待するほども愚かなことだ。敵の狙いは何もユニウス・セブンの陥落ではあるまい」
立ち上がりながら、ジョージ・グレンはすでに司令官の姿を見てはいなかった。無能な部下を責めているのではなく、しかし呆れているでもない。司令室の入り口を眺めていた。
視線につられ、クルーたちが入り口の方を向く。扉は開け放たれ、そして、クルーの1人の額にも穴が開いた。銃声が聞こえた。
「ご名答」
銃を構える若者。他にも3人ほど銃を持つ作業着姿の男たちの姿があった。先頭の若者はひどく余裕があるように感じられたが、残りの男たちは拳銃を両手で構えて瞬きさえ忘れている。4人という少人数。ジョージ・グレンの読みは外れていなかったのである。
若者は銃を向けられ身動きできないクルーたちを無視し、老人を眺めた。
「ジョージ・グレンだな」
「さよう。君は?」
「ムウ・ラ・フラガ。そう名乗ろうと思う」
「ではフラガ君」
ムウと名乗った若者--まだ10代だろう--は痒いものでもあったかのように首を大げさにふる。
「ムウでいい。ファースト・コーディネーターに畏まれたら罰があたる」
「ムウ君、君の狙いは私の命ばかりではあるまい。仲間が今頃データ・バンクの奪取をもくろんでいる。これは正解しているかね?」
「ご明察。あんたらがここで何をしていたのか、世界に暴露してやるつもりだ。まあ、これだけ騒ぎを起こせば、嫌でも目につくだろうがな」
奪い取った人型兵器が施設の破壊よりも外部へとその姿をさらすことを優先したのはこのためなのだろう。ドミナント、コーディネーターのことを除いても食料生産コロニーで兵器の開発が行われていると知れれば、地球各国は黙っていまい。
「結果さえ示せば世論は後からついてくるか、君とは気があいそうだ。だが、ここのことはどこで知ったのかね? 君たちの姿を見るに、研究者としてではなく港湾労働者として侵入する労働者が関の山に思えるがね」
「それも正解だ。確かにユニウス・セブンのガードは堅かったよ。俺たちに非常手段しかないと思わせてくれるくらいにな。だが、何もはじめからユニウス・セブンで研究が行われてた訳じゃない。ドミナントは、他にも2人いるだろ」
これも正しい意見である。元々、ヴァーリの研究はプラント各地で行われていた。ところがその内の一つで研究結果を流用、高性能なコーディネーターを作る実験が無断で行われた。結果として情報は流出、試作されたドミナントもいまだもって行方が知れていない。
そして、ドミナントの研究が始められるとともにヴァーリのすべての研究はユニウス・セブンに集められた。そうしてドミナント、ヴァーリの研究はその事実そのものがユニウス・セブンの内に封印されたのである。
だが仮に知りうる手段があるとするならば、20年も前--ちょうどこの若者が生まれたくらいの時だろう--の事件を知る者ということになる。
なんとも運命の悪戯を感じざるにはいられない。
ジョージ・グランは口元を思わず押さえたそれほど愉快なことであったのだ。
「では君たちには、なるほど確かにこの施設を焼き討ちするだけの動機と手段があったわけだ」
何も無から有を探り出した訳ではない。ここで研究が行われているはずとあたりをつけ、確信を抱くに十分な理由があったのだ。失われたはずのドミナントが牙を向く。これを運命と言わずなんと呼ぶべきか。
ただし、目の前の若者はドミナントではないだろう。それどころかナチュラルであるとさえ思えた。顔作りがナチュラルとコーディネーターでは異なる。造型に意図的な方向性というものがこの若者にはないのだ。
ナチュラルの少年はまっすぐにジョージ・グランを見据えたまま、銃口をゆっくりと向けてくる。
「そういうことだ。だから俺は、俺たちはあんたを殺す」
「世の中には2種類の人間しかいないものだ。有能な人間と、そして無能な人間だ」
目配せをするまでもない。彼等は理解していることだろう。今すべきこと、そしてジョージ・グレンが意図することを。
ゆったりとした布地に隠して鍵を手にする。すぐ脇にはコンソール。そしてケースに包まれた鍵穴が開いている。何も無意味に立ち上がった訳ではないのだ。
「君は無能な人間ではないようだが、決して賢いこともないようだ」
ケースを跳ね上げ鍵を回す。さすがにこの手の動きは気づかれ、若者はためらうことなく発砲した。しかし銃弾はジョージ・グレンに届くことはない。司令官が身を呈してファースト・コーディネーターをかばったのだ。クルーたちが一斉に立ち上がりテロリストたちへと飛びかかった。
パスワードを入力する。慌てることはない。10桁のパスワードを打っている間、クルーたちは次々と射殺され、しかし即死しなかった者は強引に飛びかかる。司令官は全身に数えて5発もの弾丸を浴びていながら若者にとりついていた。
パスワードの入力を完了する。途端、部屋中にアラームが響く。
「何をした!?」
司令官の心臓を撃ち抜きながら若者が叫ぶ。しかし次のクルーがすぐさま取り押さえに入る。この者はすでに背中に弾が突き抜けた血の跡がにじんでいる。
「塵は塵に。灰は灰に。今ここでドミナントも、ヴァーリも、世界に知らしめる訳にはいかんのだよ」
ユニウス・セブンの原子炉は意図的に暴走を引き起こし自爆できるよう設定されている。有事の際には証拠のすべてを抹消できるよう用意されていたものだ。
すでにユニウス・セブンには価値はない。すでに十分な成果は得られ、アスラン・ザラとラクス・クラインさえ無事であるのなら目的は十分に果たされたと言える。
ジョージ・グランは決して慌てることなく、ごくありふれた足取りで部屋を後にすべく歩き出す。部屋の中央付近ではいまだ乱闘が続いているが、動いているクルーは徐々に少なくなりつつあった。
「機密保持のために20万人吹き飛ばそうってのか、いかれてる!」
「君はまだ若い。いずれわかるだろう。理念とは、理想に覚悟が伴ったものだということがな」
「ジョージ! グレン!」
若者がしがみつく男の頭を拳銃で吹き飛ばした時、ジョージ・グレンは閉まりつつあるドアに隠される最後の光景として睨む若者と視線を交わらせた。