夜になって与えられた部屋に入ってベッドで眠る。この部屋は白くて、ベッド以外の何かは置かれていない。監視観察がしやすいよう、部屋に不必要なものは置かないように言いつけられているからだ。
アイリス・インディアが外の音に目を覚ました時、最初に見えたのもそんな部屋の光景であった。補助灯のかすかな明かりの中、律儀なほど正方形の部屋が浮かび上がる。部屋の中央に置かれたベッドから、アイリスはその小さな体を床へと降ろした。
すでに消灯時間はとっくに回っているはずだった。それなのに部屋の外の騒音はこれまでに聞いたこともないほどうるさくて、生まれて初めて聞くほどの音量が部屋に飛び込んでいた。断続的に聞こえる破裂音。これは銃声だろうか。ドミナントの人たちの射撃訓練を見た時に聞いたことのある音に似ている。
何か異常な事態が起きている。
アイリスは慎重に、それでも迷いなくドアを開いた。スライド式の扉が開いた途端、音は一気に戦場の喧噪を奏でた。つい両手で耳を塞ぐ。人の声なんてこれではまともに通らない。非常灯の明かりがせいぜいの暗い廊下は、離れた突き当たりで壁に火花が走っている。銃撃戦が行われていることは明らかだった。
何が起きているのだろう。生まれてからこの研究施設から出たことなんてなかった。ここが世界のすべてであったアイリスにとって、これは異星人の襲撃に突如さらされたにも等しい出来事と言えた。
何もできずにドアの縁に立っている。すると、突然聞こえてきた足音に、アイリスはつい体を小さくした。音の大きさを聞けば、相手は子どもであることはすぐにわかったはずなのに。壁に隠れながら暗い廊下の先を覗き込むと、足音の主はアイリスの部屋の前を走り抜けようとするテット・ナインであった。まだ5歳の子どもながらしっかりとした走りに、その顔は焦りと使命感をない交ぜにしていた。
「テット……!」
ドアから、部屋から出てテットの前に姿をさらす。テットにしてもアイリスのことには気づいていたのだろう。特に驚いた様子もなく走り続けようとする。
「アイリス、君も来るんだ!」
止まってくれる様子はない。アイリスは仕方なくテットに遅れて走り出した。
「テット、何があったの?」
「わからない。知らない人たちが攻めて来たんだ! アイリス、僕は巨人を動かす。君も操縦できるだろ」
「できるけど、戦うなんてしたことないよ……」
「みんな殺されるぞ!」
突如鳴り響いた警報音。アラームが如何にも焦燥感をかき立てるリズムを刻み、赤色灯が暗闇を照らす光景は非常事態をこれでもかと言わんばかりに強調していた。
この非常な光景を、ラウ・ル・クルーゼは巨人のコクピットの中で眺めていた。
研究施設の壁を突き崩す。騒ぎを施設の外まで伝え、ここで行われていた研究内容が世間に知られる切っ掛けとする。それが計画であり、担ったのがラウであった。ラウは研究施設から巨人兵器の奪取に成功し、壁を砕きその姿を外にさらして見せた。ここまではよい。問題は、当初から危惧されていたプラント側の証拠隠滅の非常手段が採られることであった。
(アラームは施設の内部だけか……)
それが研究施設の設備であるため当然だが、しかしこれほどの騒ぎを施設内に閉じこめ隠蔽することはできない。コロニー全域に警報が発せられてしかるべきだが、そうでない以上、ジョージ・グレンは想定されていた以上の非常手段を採ったと判断すべきだろう。
「しくじったのはエインセルか、それともムウか?」
2人は施設奥に向かったはずだ。
砕かれた壁を通して見える静まりかえった外の光景。内へと巨人の身をひねると、世界の終わりでも訪れたかのようにあわただしい警報が鳴り響いている。
ラウがここまでに来る間に砕いて開いた壁の穴。穴の闇から伸びた腕が砕けたコンクリート壁の断面を掴んだ。新たな巨人が壁を手がかりとしてラウの前へと姿を現す。剥き出しの骨組みを持つ巨人。胸部にコクピットを備えている点もラウのものと同様である。同じ視線の高さに風防を通して相手の姿が見えた。
「子ども……、ドミナントか!?」
「お前たちは誰だ!」
マイクを通して聞こえた声は子どものものである。この施設では次世代型コーディネーターとしてドミナントを作り出すとともに訓練を行っていると聞かされている。ただの子どもではないということだ。油断はしないでおくことにしよう。
ラウは自然と自身の口元が緩むことを自覚していた。
「君とは近しい存在とだけ言わせてもらおう」
先に動いたのは少年の巨人である。大きく振りかぶられた腕が突進とともに突き出される。巨人の上体をひねり、ラウは相手の拳を確かにかわしたつもりでいた。ところが、少年は攻撃を強引に体当たりに変更。床にひびが走るほどの踏み込みからラウの機体を弾き飛ばす。
受け止められる気でいたが、機体は飛ばされ壁へと叩きつけられる。未完成のショック・アブソーバーは衝撃を殺しきれず、ラウは自身が壁に叩きつけられたようにむせかえる。
少年の巨人は攻撃の手を緩めない。
「サイサリスの機体で勝てると思う!」
今度こそ拳が突き出され、ラウは大きく回避することを余儀なくされた。巨人の拳が先程までラウのいた壁を突き崩す。反撃するには回避を大仰にしすぎていた。だが、こうでなければまた体当たりにさらされていたことだろう。
「こうも機体の性能が違うとはな」
姿格好は同じでも中身は相当異なった設計思想で作られているらしい。特に問題はラウの機体の補助システムである。オート・バランサーが極めて優秀で機体のバランスが崩れれば即座に立て直そうとする。それは操縦者の意志に反して強制的に行われるため、過保護と言えなくもない。事実、先程の体当たりを受けてしまったのも回避のために崩れた体勢を勝手に修正しようとしてむざむざ敵に上体をさらしてしまったことも原因の一つであるのだから。
パイロットをサポートし誰であっても扱いやすい機体。兵器としてはこちらの方が遙かに優秀なのだろう。ラウはオート・バランサーを解除した。
「だが、性能の差が戦力の決定的な差ではなということを教えてやろう、少年」
敵が攻めてきた。銃の音がやかましくて、でも代わりにお父様と会わせてくれなかった連中がばったばった死んでくれた。もう殴らなくちゃいけない面倒な男もいなくて、すぐにスタンガンを使ってくる警備の連中もいない。死んだか、敵と戦ってる。
ヒメノカリス・ホテルは拘束具が投げ出されたベッドを抜け出して、大人たちがクラッカーを鳴らす夜のパーティーをすり抜けて、小さな冒険を楽しんでいた。
好きな場所にいってお父様を探す。
最初の扉を開けた。鍵がなかったから拾ったナイフで基盤をこじ開けて、配線を無理矢理つなげた。中には何もない。人が大勢血を流して倒れているだけ。お父様はいなかった。次に行こう。
何か踏んだ。外は固くて、中が柔らかいもの。踏むとプヒって音がするもの。なぞなぞの答えは、防弾チョッキを着た死体。血が絞り出される音は豚の悲鳴みたい。
この死体ばかりじゃない。目の前、廊下には死体が蟻の行列--見たことのない生き物--みたいに並んでいた。どこに行くのだろう。お父様はいるのかな。死体を踏んで、越えて歩いていく。ここは知ってる。この部屋は知ってる。開きっぱなしのドアがあって、中を覗くとやっぱり死体。小さな部屋の中央に床から飛び出た台座があった。お父様の大切なものをしまっておく宝箱。なのに、台座の先には何も置かれてない。
誰かが持ってった。お父様の大切な物なのに。だから取り戻して差し上げよう。お父様のために、ヒメノカリスが。
警報は鳴り止まない。こんな時、アルファ・ワンはガーベラ・ゴルフを連れてシャトルが置かれてる地下に行くようジョージ・グレン様から言いつけられていた。普段使用が禁止されている直通のエレベーターがある。パスワード入力式で限られた人にしか使用は許されない。アルファはその使用が許された以上、自分は選ばれた存在なのだと少なからず理解していた。同じく選ばれたガーベラとともにここを脱出しなければならない。たとえ、仲間たちの無事を確認できなくても。
エレベーターの前にはすでにレノア・ザラの姿があった。もう1人、見たことのない若い男の人も一緒にいる。
「レノアさん!」
「グレン様がユニウス・セブンの放棄を決断されたわ。早くシャトルに向かいなさい」
何かがおかしい。駆け寄った時、レノアは微笑んでくれると思っていた。実際は表情固く当たり前のことを言ってくれるでしかなかった。エレベーターはすでにパスワードが解除されて扉が開いている。レノアは目配せでエレベーターに入るよう促す。
「レノアさんも一緒に?」
「私はこの人と最後の仕事を終えてから行くわ。すぐに追いつくから」
これもおかしい。それならどうしてエレベーターを開いたのだろう。そして男性にはどうしても見覚えがない。機密情報を扱う研究施設は人の出入りを厳しく制限している。見知らぬ人がそうそう立ち入れるはずがないのだが。
何かおかしい。
アルファは男性のことを見ていた。白いスーツは清潔で格好だけ見るなら怪しい人には見えない。白い布地は綺麗で汚れ一つない。ただ一点、本当に点として何かあった。つい目を細めて注目して、アルファが気づいたのとガーベラが叫んだのは同時だった。
「アルファ!」
懐に隠していた拳銃を抜く。躊躇いなく男性へと向けて引き金を引いた。手に伝わる確かな反動に、宙を舞う空薬莢。硝煙のくゆる向こう側で、男性は身をひねっていた。かわせるはずなんてない。そう思って放った銃弾はかわされていた。
まるでスローモーション映像のように男性がアルファを見ていた。澄んだ青い瞳は冷たい。襟首についた点--小さな飛沫血痕--がまざまざと見せつけられてる気がして、男性に握られていた銃口が向けられていく。動けない。確実に射殺される理解とともに、レノアが男に抱きつくように動いたことも見えていた。発砲音がして、アルファの顔に暖かい血がかかる。
この時、時間が元通り歩み始める。
アルファの反応は早かった。上体をひねり、右手の肘を後ろへと突き出す。この肘に後ろにいるガーベラの体をひっかけてそのままエレベーターの中へとなだれ込む。ガーベラは突き飛ばされる形でエレベーターの床に尻餅をついた。アルファはすぐさま立ち上がりボタンを押し込んだ。
「レノアさん!」
すぐに扉はしまってしまう。レノアは男の右腕に抱きついたまま、口の端から血を流して、それでも力の限り叫んでいた。
「行きなさい……、早く……!」
どうしたらいいのかわからない。わからない内に扉は閉まろうとする。閉まりかけたドアに挟まれ消えたレノアの姿にアルファは手を伸ばす。しかしその手は閉じたドアに遮られ決して届くことはなかった。
一つの後悔と一つの疑問。エインセル・ハンターの胸中に渦巻いているのはこの二つに限定できた。
ドミナントとヴァーリを見送り、エレベーターが動き出したことを確認するかのようにレノア・ザラはしがみついていたエインセルの腕を離れ、エレベーターの扉に背中を預けるように倒れた。扉には塗りたくった血が上から下へと向けて描かれ、床には血だまりが広がっていく。
エインセルが弾みではなった弾丸はレノア・ザラのわき腹を貫通していた。衣服の上からでは傷の様子を正確に判断できないが助からないだろう。経験からして致命傷である。もって数分。
エインセルは後悔していた。ドミナント、ヴァーリは殺さない。そう友と誓い合ったのだ。銃撃されたとは言え反射的に銃を向けてしまった。それは失態以外の何者でもない。
疑問を抱いていた。アルファ・ワンの攻撃、エインセルの反撃は1秒と満たない時間で行われた。訓練を積んだ者でなければ反応することさえできない戦士の時間であった。それにも関わらず、レノアはアルファを庇い、エインセルの銃口をそらしてみせた。なぜそんなことができた。レノア・ザラ女史は学者である。訓練を積んだ兵士ではない。恐怖心はなかったのだろうか。事実、致命傷を負っている。仮にわずかな躊躇でもあれば間に合うはずがない。
何より、なぜドミナントを庇うのか。
「レノア・ザラ。あなたにとってドミナントとはどのような存在であるのです?」
返事はない。すでに息も絶え絶えで呼吸の度、傷口の周囲の服が赤く染まっていく。エインセルは片膝をつき、瀕死の女性へと視線の高さをできる限りあわせた。
できるはずのないことを、この女性は行った。反応できる時間ではなく、庇うべき存在でさえなかったはずだ。ドミナントがただの作品であったのなら。いつもドミナントのことを思い、いざという場合には命を捨てる覚悟さえ想定していたのだろう。そう判断する他ない。そうでなければ反応さえできなかったことだろう。決断が間に合ったはずがない。
女史の血塗れの腕は、錆び付いたブリキ人形のようにぎこちない動きで、それでもエインセルの懐へと伸ばされた。そのまま、スーツの内ポケットからケースにしまわれた記憶媒体を取り出し、力尽きたように腕が床へと落ちる。それでもまだ記憶媒体を手放そうとはしない。
まだドミナントのことを守ろうとしていた。ここにあるデータはプラント糾弾のために、ドミナントという存在を否定するために使われるものであるのだから。
「お許しください、我らが非礼を」
右手は血で汚れ、銃を握りしめたままである。左手でそっとその尊顔に触れ、開かれたままのまぶたをそっと閉じる。すでにレノア・ザラは息絶えていた。
水音がした。血を踏みつける音だ。それまで接近に気づかなかった訳ではなかったが、ここで初めてエインセルは近づいていた誰かに目をくれた。レノア・ザラ女史の血だまりを踏みつける小さな足。片膝をついているエインセルと目線が変わらない小さな体。ふわりとした桃色の髪に、その青い瞳がエインセルのことを見ている。
何ともかわいらしい少女であった。
弾ける水音。少女の踏み込みとともにナイフが鋭い勢いのままエインセルを襲う。銃を持ち上げた。発砲のためではない。刃の軌跡に滑り込ませた。甲高い金属音とともにエインセルはその場を飛び退いた。
(動かなければ確実に頸動脈を切断されていた……)
銃身には確かにナイフが激突した痕跡が小さな傷となってつけられていた。躊躇ない必殺の居合い。少女の細い腕から放たれた一撃は確実にエインセルの殺害を狙っていた。少女は道ばたの花でも摘むように、命をなくしたレノア・ザラの手から記憶媒体を奪い取る。
「これはお父様のもの。あなたごときが触っていいものじゃない!」
その顔のかわいらしさにそぐわない、見開かれた目には殺意が感じられた。こちらの挙動すべてを狙って逃さない瞬きのない眼差し。すなわち殺意を意味しているのだから。
少女はヴァーリであり、桃色の髪は第3研出身--ラクス・クラインを輩出したとされる場所である--であることを意味している。
「私はエインセル・ハンター。お名前をお聞かせ願えますか?」
銃は必要ない。カートリッジを抜き、乱雑に投げ捨てる。銃身に残された一発は床に撃ち込んだ。
「ヒメノカリス」
ヒメノカリス。Hと名乗った少女は右手にナイフを、左手に記憶媒体を保持したまま飛び出した。子どもとは思えないほどの動きで、子どもの手には余るナイフ--果物ナイフどころではない、肉厚の刃--を軽々と振り回す。足を交互に後ろへ後ろへ。体を逃がしながらエインセルはナイフをかわし続けた。そして、突き出されたタイミングに合わせて少女の手をしっかりと掴み止める。少女の小さな体では間合いが狭い。力も弱く、攻撃を防ぐことはたやすい。
「お返しを。それはあなた方のお父上を糾弾するために必要なものなのです」
左腕で少女の右腕をひねり記憶媒体へと手を伸ばす。エインセルの残された右腕が触れたのは、しかし記憶媒体ではなく、少女の靴底であった。少女は右腕が痛むこともかまわず飛び上がるなり体を回転、その勢いのまま蹴りをエインセルの顔面へとめがけて放ったのである。完全なカウンター。エインセルは思わず左腕を放した。
少女は一度距離を開け、エインセルを瞬きもせずに睨んでいる。才能や素質だけでは説明できない、よほど人を傷つけることに慣れた者にしかできない動きであった。
「わあああぁぁぁぁ!」
叫んで、叫んで、とにかく叫んだ。それしかできない。アイリスは試作機のコクピットで死と隣り合わせの戦いの空気を確かに感じていた。実験や訓練と違って急所を確実に狙ってくる。いつも戦い慣れた人が相手ではない。見ず知らず、初めての人と殺し合いをしなければならない。
いつも休憩に使っていた吹き抜けの広場が戦場であった。
巨人の腕を払う。吹き抜けから見える廊下に腕が割り込むように刺さって、そこにいた敵の兵隊を弾いて潰すように腕が廊下全体を打ち払う。手すりは砕けて壁はずたずた。動かなくなった人たちが一カ所にかたまるように潰れてた。
コクピットを狙う銃撃があった。1階部分から見上げるようにたくさんのライフルがアイリスを狙っていた。ガラスばりのコクピットは銃口が確かにアイリスを向いていることを見せつけていた。
殺さなきゃ殺される。だから仕方がない。
アイリスが操縦桿を動かすと巨人が片足を持ち上げた。車くらいの大きさのある足が持ち上がって、まずアイリスは目を強くつぶった。巨人の足がバリケードごとその後ろに隠れていた人達を踏み潰す。見たくなかった。それでも機体を通して伝わる振動と操縦桿に生じた抵抗は、何かを潰したことを否応なしに伝えてくる。
見なくても現実は変わらないのに目を開けることができない。それでも押し寄せる現実は手加減なんて言葉を知らなかった。
何かが割れる大きな音。見てしまうことよりも見ないことの恐怖が勝って、アイリスは目を開いた。コクピットを守る風防に弾痕がいくつも開き、ひびが広がっていた。
「ひっ!」
コクピットと同じ高さにある廊下からライフルで狙っている人がいる。1発ずつ放たれた弾丸はガラス--コーティングが施されある程度の耐弾性はあると聞かされていたのに--を貫通してひびを走らせる。危うい一撃がアイリスの頭をかすめてパイロット・シートの背もたれを貫通。中の綿が吹き出した。
「ああ……!」
どんな操作をしたかなんて意識しなかった。目を閉じて、だだをこねる子どもみたいに操縦桿を動かした気がする。固いものが砕ける音がして、コンクリートを砕いたことくらいわかった。
もう銃声は聞こえない。それでも目を開けるまでには、数秒くらい時間をかけてしまった。銃を持っていた人が立っていた廊下はコンクリートが砕けて崩壊していた。巨人の腕は無理に動かされたことで小手の部分の回路が切断されてしまっているようだった。コクピットのモニターにそう表示されていて、目で確認しようとしても死角にある。見えない訳ではない。腕はまだ動かすことができたし、コクピットの見やすい位置に持ってくることもできた。それでも腕なんて見えない。
腕よりも指。指の間に挟まっていたものがアイリスの視線を奪い取った。人の体を雑巾みたいに絞って、指の間に巻き付けたらきっとこんな風になる。巨人の指の間にライフルを撃っていた人が張り付いていた。無理やりふるった腕のその指先にひっかかってしまったのだろう。体なんてぐちゃぐちゃなのに、顔だけは無事で巨人の人差し指の上に首が乗っていた。
見たこともない女性の顔。目が虚ろで生気なんてない。ただの生体レンズでしかなくなったはずのその瞳がアイリスのことを見ている。溶けた肉と血を巨人の指先から赤い涙みたいに流して。
汚いものでも振り払う。巨人はアイリスに命じられるまま、腕を振る。決して広くない吹き抜けの中で、腕は壁にぶつかって手首のフレームが折れた。機体そのものにも強い衝撃が走ってバランスを崩した巨人は壁へと叩きつけられるように倒れた。
どこか痛いのではない。それでもアイリスはシートの上で体を丸めたまま動くことができないでいた。涙を流す。どれほど流す。いくらでも流す。そうしても何も流れ落ちてはくれない。死んだ女性の姿も、光をなくした視線も。
ずたずたにされた体をどうしても思い浮かべると、肉の臭いが鼻孔に突き刺さる気がして突然の嘔吐感に襲われた。最後に食事をしたのはもう6時間以上も前。ただの胃液が食道と喉を焼きながらコクピットの床を汚す。
「お姉ちゃん……、ガーベラお姉ちゃん……、ヒメノカリスお姉ちゃん……」
胃酸に焼かれた喉は姉のことを呼ぶしかできない。涙に疲れた体はパイロット・シートから起きあがる気力さえ奪っていた。ただ泣きながらあらゆる痛みに耐えていることしかできないっでいた。
断続的に聞こえていた地響きと振動。それが突如肥大化した時、エインセル・ハンターは反射的に身を低くした。コンクリート片が飛んでいる。壁に入った亀裂が一挙に広がり、それは床にまで達した。
何か--おそらく、人型兵器の試作機であろう--が壁に外側から激突し、この階が崩壊しようとしている。
それでもヒメノカリスは攻撃の手を緩めようとはしなかった。強引にでもエインセルに切りかかろうとして、浮き上がった床に完全に足をとられた。つい痛みを共感させられてしまうほどの勢いでヒメノカリスは床に激突した。
ナイフが転がり床に生じた亀裂に飲み込まれて落ちた。記憶媒体だけはヒメノカリスは決して手放すことはない。床はすでに崩壊を始めている。壁は大きく崩れ落ち、口を開くようにヒメノカリスが倒れている場所へと順番に崩壊していく。
ここは吹き抜けに面した8階である。記憶媒体が破損するには十分すぎる高さであった。
次なりふり構わず駆け出すのはエインセルの番であった。崩壊に伴う振動は続いている。床はすでに平らな場所などなく、壁の脱落に引きずられて傾き始めていた。
ヒメノカリスの体が滑り始める。意識はあるようだが、軽い脳震盪を起こしているのだろう。立ち上がる気配はない。それでも、記憶媒体を手放さないまま、顔には笑みさえ浮かべていた。
「これは、絶対に渡しません……。だからヒメノカリスのこと、誉めてください、お父様……」
床が割れ、勢いづいていたヒメノカリスの小さな体は吹き抜けへと投げ出された。エインセルは勢いよく床を蹴り、ヒメノカリスを追いかけ飛び出した。
研究施設地下にもうけられたシャトルの発着場。ドミナント、ヴァーリ、上位研究者を逃がすための緊急避難所をかねた格納庫である。
ジョージ・グレンはユニウス・セブンの原子炉を意図的に暴走させた。二次循環系を止め、ナトリウムの冷却を停止したのである。原子炉内部では熱暴走を引き起こしている最中であろう。高エネルギーを持つ核燃料が分裂する。すると大量の熱と中性子が放たれ、中性子は次の原子を分裂させ、熱と中性子が再び放たれる。この再現のない繰り返しが、炉心を融解させ、格納容器を破壊。やがて格納容器の底を抜けた高熱の燃料はチャイナ・シンドロームを引き起こす。それとも先に爆発が発生するか。どちらにしろ、ユニウス・セブンは崩壊する。
ジョージ・グレンの心は落ち着き、冷たいほど静かに思考が流れていた。
ユニウス・セブンの約20万の人々。それは確かに尊い命であることに変わりはない。しかしその命を惜しんで研究が漏洩するようなことになればプラントは終わる。2000万のために20万を犠牲にする。この冷たい方程式を、しかしジョージ・グレンは正しいことと確信していた。
シャトルの周囲の人々の動きが慌ただしい。できる限りの資料を詰め込み、爆発の前に脱出すべく準備を進めているのだ。
ジョージ・グレンにとってすべきことはない。ただシャトルの前に悠然と構え、人々に誇りを与え続けていた。一時の涙が未来を導くために必要なことがある。そのことをファースト・コーディネーターは一切疑ってなどいない。そう示し続けていた。
尊い犠牲を払ってでも守らなければならないもの。それはジョージ・グレンへと駆け寄ってくる子どもたちでもある。
アルファ・ワン。ガーベラ・ゴルフ。最高のドミナントと最高のヴァーリが息を切らせて走り寄ってきた。
「グレン様! レノアさんが敵に囚われています! 早く助けないと!」
「アルファ、いや、アスラン。なぜ君がそれを知っているのかね?」
アルファ・ワンを敢えてアスラン・ザラと呼ぶ。
アスランはジョージ・グレンの前で呼吸を整えながら答えた。
「レノアさんが僕たちを逃がしてくれたからです」
「では、君たちはいま何をすべきと考えるかね?」
「逃げる、べきでしょうか……?」
「うむ。それは確かにレノア君の望みに叶うだろうね。そうすべきだろう。さあ、早くシャトルに乗り込みたまえ。まもなく出発する」
アスランはまだ迷いを捨てきることができないでいるようだ。それは仕方がない。まだ子どもなのだ。
世界のすべての人々を救うことなどできない。しかし1人でも多くの人を幸福にすることはできる。そういうことなのだ。理想を抱くと言うことは。
ガーベラ--今後、ラクス・クラインと名乗ることになるだろう--はアスランの手を後からそっと掴む。
「アルファ。グレン様のお言葉です」
ようやく迷いは晴れたのだろう。アスランはシャトルの方へと歩き出した。ラクス・クラインを連れて。
これでよい。人は悩む。悩んでこそ人なのだ。だからこそ、悩みを乗り越えた者が導き、あるべきところへと連れていかなければならない。ファースト・コーディネーターとして、来るべき未来の調整者としての使命なのだから。
さあ、まもなく出発する。最後にブルー・コスモスの若者は果たして逃げきれるだろうか。ドミナントとヴァーリを減らしてしまうことは惜しいが、そう、すべての人を救うことなどできないのだ。
ジョージ・グレンは見上げるように格納庫の隅をへと目をやった。わずかに動く影。そうと気づいた時には、高速で飛翔する何かがジョージ・グレンの頭上を飛び越え背後で巨大な爆発を引き起こした。衝撃波に床へと投げ出される。転がるように床に倒れたジョージ・グレンは引きちぎられたシャトルを目にした。
突然の衝撃に耳鳴りさえする。上体を起こしながら状況を確認する。周囲には火のついた残骸が転がり、シャトルは機首部分が切り落とされた首のように垂れ下がっていた。機体そのものは食い破られたように破壊され、中で火が燃えさかっている。
「次に通気孔作る時は、人が通りやすいようにしてくれな」
聞き覚えのある声だ。よろめくように立ち上がると、若者--司令室に乗り込んできた者だ--が全身を傷だらけにして立っていた。服はほころび、所々に裂傷が見られる。通気孔を通ってきたというのも嘘ではないのだろう。その手には金属製の筒。それを肩に担ぐように持っていた。金属製の筒は投げ捨てられる。床を打つ鈍く固い音がした。
「まさかロケット・ランチャーまで持ち込んでいるとはな。大したものだ」
これがシャトルを一撃で破壊したものの正体である。まさかこんな重火器まで持ち込ませるとはプラントの税関は緊張感が足りていないらしい。それとも、ブルー・コスモスの熱意が上回ったのだろうか。
「それはシュタイナーのおっさんに言ってやってくれ。これが今日中に届かなければ不渡りが出る。あの堅物のおやじがそんな芝居まで打って俺たちに届けてくれた虎の子の一発だ」
はて、シュタイナーとは誰であろうか。答える気はないらしい。若者は懐から拳銃を抜き、ジョージ・グレンへと向けた。周囲には燃える残骸。炎はちょうどジョージ・グレンと若者とを外界から分けるように燃えくぶぶっていた。
「君は私を殺すのかね?」
「ああ」
「それはなぜかね?」
若者は鼻で笑う。銃を向けたまま。
「あんたが聞くのか? あんたは一度だって疑問に答えたことがなかった。どこで生まれた? 誰が作った? コーディネーターは人権侵害につながることはないのか? 人を道具にしてしまうことはないのか? 技術的に安全なのか? 新たな差別を生みはしないか? 優れていない子どもには生きている価値がないのか? 人の価値は能力の多寡だけで決まるのか? あんたは一度だって答えなかった。そうだろ。コーディネーターはすばらしい。だからみな私に続け。コーディネータの未来は明るい。プラントは人類の未来を切り開く。あんたは自分が言いたいことを言うだけで一切疑問に応えようとしなかった。まるで自分の言葉がそのまま真理みたいに思いこんでな」
撃鉄が引かれ、銃口は迷うことなくジョージ・グレンへと向けられている。
「だから俺たちはあんたを殺す。それが、俺たちにとって疑問を差し挟む余地のない当然のことだからだ」
シャトルの燃料に引火した火が爆発を引き起こすとともに轟音をまき散らす。黒煙が吹き出し、周囲のすべてを塗り潰す。
爆発が収まった時、すでにすべてが終わっていた。
降ろされた拳銃。立っているのは若者、ムウ・ラ・フラガと名乗る若者1人だけ。通信機を耳にあて、その顔は友人と週末の約束を交わしているかのように穏やかで、しかし達成感に満たされてはいなかった。
「ああ、終わった。いや、これが始まりなんだろ。俺たちの戦いは、始まったばかりなんだからな」
恐ろしいまでの勢いで巨人の後頭部が壁へと叩きつけられた。巨人の顔を鷲掴みにする巨人の手。手は勢いを一切減じることなく、相手の頭を壁に叩きつけそのまま壁をぶち抜いて争う2体の巨人は壁の向こう側へとともに倒れ込む。
頭部を砕かれた巨人は仰向けに倒れ、頭はすでに肩の上にない。対峙していた巨人の右手の中にすでに原型残さぬほど破壊された状態で握られていた。同時に勝利した巨人もまた左腕を失いフレームのいたるところが歪んでいた。壮絶な痛み分けは、この巨人さえ顔面を形をとどめないほど破壊されていることからもわかる。
立っている。そうとするよりはもはや倒れるだけの力も残してない巨人のコクピットからその姿を現したのはラウ・ル・クルーゼであった。ロープで降りた先、そこには少年が操縦していた巨人が横たわっている。
コクピットの付近に着地すると、コクピット内部を覗くことができる。ガラスは砕け、細かい破片となってコクピット中に散らばっていた。しかしパイロットである少年の姿はない。向くと、コクピットから一定の方向性をもって血の跡が続いている。決して軽くはない傷を負っているはずだが、やはり単なる子どもではない。
ラウは血の跡を追いかけて歩き出す。巨人の体から飛び乗ることのできる範囲にあった床へと移動する。かつては2階の床だったのだろう。裂けた穴からは下の床が見られ、瓦礫が階下には山と積まれている。2階のこの床にも細かな破片が散らばっていた。血の跡は瓦礫の上に点在し通路の奥へと続いている。
血は数こそ多いが致命的な出血量には思われない。廊下そのものは暗いが、壁の亀裂から差し込む光--点滅する非常灯の明かりである--を頼りに血を追う。
それはやがて、一つの部屋へとつながっていた。
暗く判然としないが病室だろうか。開け放たれたままのドアをくぐると決して広くはない部屋に心電図の独特の音が響いていた。時折、肩で息をする吐息も聞こえてくる。少年の姿はあっさりと見つけることができた。ベッドに寄りかかって座り込んでいる。肩を押さえているところを見ると傷は肩にあるのだろう。子どもには辛い傷のはずだが、少年はラウに気づくなり立ち上がり、なおも睨みつけてくるほどだ。
まるで大切な何かを守るように。
ベッドの上には眠る少女の姿があった。血管が透けて見えてしまうほどの白い肌。その顔立ちからヴァーリであるとわかる。近づけばより確認できるのだろうが、それは少年が許さないことだろう。
「少年、この娘は?」
睨まれるばかりで答えてはもらえない。
傍らには心電図が表示する装置が置かれている。心臓は確かに脈打っているようだが、時折不規則な脈動が見られる。医術の心得のないラウにとってさえ、これが思わしくない状態を示していることくらいわかるものだ。まもなくこの砂の城は崩れ落ちる。どちらにせよこの少女をこのままおいておくことはできない。
ラウは構わず少女へと近づくこととした。
「触るな!」
娘を抱き上げようとすると少年がラウを制止して腕を掴んだ。怪我をしている。まだ子どもである。さして強い強制ではなく、掴まれた手の感触は思いの外小さいものであった。こんな小さな子どもなのだ。こんな子どもが、あのような兵器を扱っていたのだ。
無理に引き剥がす気にはなれない。
「だがこの娘、このままでは死ぬぞ」
そんなことは少年とて理解しているのだろう。子どもらしく悔しさを顔一杯で表現しながらラウを掴む手を離した。
幸い、生命維持装置の類と繋がっていることはないようだ。体からコードの類を取り外し、それこそビスク・ドールでも持つように慎重に抱き上げる。子どもの体というものは信じられないほど軽いものだ。
「ここはいずれ崩壊する。君も私とともに来い」
「嫌だ!」
子どもらしいおかしな意地を張っているのだろう。今にも倒れそうに足を震わせながら、その目は敵意に染まっている。
「ゼフィランサスは絶対に取り戻す! それまで、おまえに預けてやる」
つくづく子どもと侮ることができない。この若さでこれほど強い眼差しを持つ者などそうはいないことだろう。この少年はやがてラウの前に現れることになるだろう、必ず。
「私の名はラウ・ル・クルーゼ。少年、名を聞いておこうか」
「テット、テット・ナインだ!」
ユニウス・セブンは普段と何ら変わらぬ日常が続けられていた。研究施設の襲撃が事故として片づけられ、その内容が市井に伝えられることはなかった。警察、消防の車両が動き回ったところで、眠る人々に火急の事態が迫っている意識させることはなかった。
事故が起きた。明日、ニュースで確認しよう。微睡む人々はそんな意識で再び眠りにつく。
まもなく、すべてが吹き飛び、消えてしまうと教えられることもなく。
街の平穏とは打って変わり、施設では生き延びるための方法が模索されていた。脱出までの時間は決して多くはなく、方法は限られていた。司令室として機能すべきだった部屋がブルー・コスモスによって襲撃され、最高指揮官であるジョージ・グレンは早々に脱出のため部屋を離れた。
そのため、せいぜい避難訓練程度の緊急時にしか対応できない研究者、職員、警備員は組織だった連携、避難を行うことができず、また、状況を認識している者は決して多くはなかった。下位職員に避難命令が告げられることはなく、自爆装置の存在を知らされていた一部の人々が独自の判断で動いたことも混乱に拍車をかけた。
非合理的で非効率。襲撃された地点からは離れた、しかし彼らから最も近い脱出ポッドの置かれた箇所に職員が殺到。場所によっては定員の5倍もの人が集まりながら定員の半分さえ集まらない場所にさえ別れた。悲劇は、我先に脱出ポッドへ殺到する人々の後から、ゆっくりと忍び寄っていた。
そして、もう一つの悲劇があった。ドミナント、そしてヴァーリは子どもである。体格、力では大人にはかなわない。脱出ポッドに入ることができるのは単純に腕力に勝る者からである。この研究施設の至宝であり、成果である作られた子どもたちを、しかし大人たちは命をかけてまで守ろうとはしなかった。
子どもたちは子どもたちのやり方で自分の命を守らなければならなかった。
D、E、F。一続きのアルファベットを持つヴァーリであるということはすなわち、同じ研究室から誕生した姉妹であることを示している。
D。デンドロビウム・デルタは瓦礫の山へ唾を吐いた。血が混じった赤い唾液だ。大人たちに突き飛ばされた時の痣が口の端についていた。
「1人乗りの救命ポッドか……」
重たい瓦礫を押しのけ辛うじて見つけることができたのは1人乗り、小型の救命艇であった。しかし、ここには3人がいるのだ。
E。エピメディウム・エコーは壁に埋め込まれた救命艇の扉、そこに書かれた内容を拾っていた。約20時間の生存が可能である。ただし、救助はいつ来るかはわからない。
「でもこれ大人向けだから僕たちなら3人でもそこそこ持つよ。それまでに救助されるかどうかは賭けだけど……」
普段明るい表情を絶やすことのないエピメディウムさえ、ぎこちない笑みにならざるを得ない。しかしこれ以外に方法はない。今から他の脱出艇が見つかる保証もなければ、大人たちの奪い合いに巻き込まれてしまう危険もある。
F。フリージア・フォクスロット、唯一ダムゼルに選出されなかったヴァーリは、冷たい計算を完成させていた。姉2人が脱出艇を起動し扉を開けているそのすぐ後で、フリージアはガラス片を拾い上げた。鋭く尖った、ナイフのようなガラスを。
「それなら2人の方がもっと確率があがるよね……」
「何だって?」
「姉さんたちは生きなきゃ駄目。ダムゼルなんだから……」
少女の喉元に突き立てられたガラスは、たやすくその細い首を刺し貫いた。
頭部を撃ち抜かれた人々の死体が並んでいる。本来ならばシャトルで安全に脱出はずであった人々は、逃げる手段を失ったことで突然限られた脱出艇を奪い合う立場に追いやられた。これらの死体はそんな人々の成れの果てである。
ラクスを後に守るようにアスランは引き金を引いた。逃れるように尻餅をついていた男性職員の眉間に穴が開き血が吹き出す。
「あなたたちを犠牲にしたこと、俺は生涯忘れない」
まだ子どもでしかないアスランが生き延び、ラクスを守るためには他に手段などなかった。
涙を流した。嘔吐して喉を焼いた。できることならずっと泣いていたかった気が済むまで泣いていたかった。それでも、このままだと死んでしまうこともわかっていた。アイリスは銃弾で穴だらけにされてしまった風防から泣きながら這いだした。
うず高く積もれた瓦礫を頼りに少しずつ下っていく。床に足をついた時、踏んでしまった細かい破片に足をとられそうになりつつも辛うじて踏みとどまることができた。
目の前には脱出艇があった。まだ誰も使用していない。アイリス自身はこの時知ることはなかったが、職員たちの多くは襲撃された箇所を避けて脱出艇を探していた。戦場のただ中に身をおいていたアイリスこそが最も安全に脱出艇を得ることができるという皮肉が、そこにはあった。
ギーメル・スリーは恵まれた幸運を、決して逃そうとはしなかった。ヴァーリの仲間たち数人を集めて大型の脱出艇を確保することができた。ギーメルの寝室、特定のヴァーリの研究室がたまたま襲撃された地点から離れた外れにあったことが戦いからも生存競争からも彼女たちを遠ざけていた。
救命艇にはまだ開きがあった。ギーメルは1人でも多くの仲間を助けようと仲間たちに無理を言って救命艇から飛び出した。1人でも、1人でも連れ戻ることができればいい。そう考えていたのだ。
まだ少女と呼ぶことさえ早いように思えるギーメルの小さな体は瓦礫を一つ乗り越えた。すると、一つの別れを目にすることとなった。
血溜まりに顔をつけるようにうつ伏せの状態でヴァーリが倒れていた。青い髪。思わず抱き上げると、顔は潰れて誰かわからない。見上げると、砕かれた床があった。壁が根こそぎ破壊されて床の断面が剥き出しになっていた。だいたい5階分。その内のどれかから落ちたのだろう。それとも突き落とされたか。
顔は潰れ、髪の色から第6研の誰かしかわからない。顔が同じヴァーリにはおかしな話だが、似てはいてもやはり特徴というものはあるものだ。どんな表情を多用するかで顔面の筋肉の発達具合は異なる。それが顔に特徴として現れることになるのだから。
おそらく、PかR。この2人は第6研の中で特に似ていたから。サイサリス・パパとも、ローズマリー・ロメオとも呼ぶこともできず、ギーメルは遺体をそっと横たえた。
ユニウス・セブンの崩壊。それはあまりにショッキングな出来事であり、発生当初から多くの憶測が流れた。地球、プラント両政府が公式発表を先送りにし、関与が疑われたブルー・コスモスは沈黙を貫いたことが流説の流布に拍車をかけた。
構造欠陥。スペース・デブリの衝突。太陽風の影響。食料生産コロニーであったことから堆肥から発生したメタンガスの爆発。戦艦の衝突。人々は想像の翼を逞しく羽ばたかせた。
何より、ブルー・コスモス所有の宇宙船が付近を非公式に航行中であったことからテロだという説がプラント国内では支配的になっていく。
ユニウス・セブンは巨大な爆発に巻き込まれ、一瞬にして崩壊した。瓦礫から放射性物質が検出されたことから核爆発にさらされたことが決定的となると、疑惑は確信へと変わる。地球のナチュラルが核ミサイルを撃ち込んだ。誰かがそう叫び、そして誰もが異を唱えることはなかった。
地球政府は核攻撃を否定。すべての核ミサイルはシリアル・ナンバーによって厳重に管理されており、核ミサイルが使用された事実はないいとして否定し続けた。
プラント政府は公式に核攻撃の事実を認めることこそなくともブルー・コスモスによるテロと断定。地球各国に犯人の引き渡しを求めた。テロであると認めていない地球各国はこれを拒絶。プラント国内では近年の独立機運に後押しされる形でナショナリズムが急速に台頭。ナチュラルによる地球規模の陰謀論さえ囁かれはじめ、次第に核ミサイルがユニウス・セブンに撃ち込まれたとの憶測が強固な足場を固めていった。プラント政府がこれを強く否定することなく、国内の不満をかわす狙いからその説を暗に後押しした結果、プラント国内ではブルー・コスモスによる核攻撃としか考えられないと意見が集約されていった。
私は犯人ではありません。
我らは血を支払い、この怒りと悲しみを忘れることはない。
人はより信じやすい情報を選び取り、よって人々は被害者の悲痛な叫びを聞き取った。地球でさえ核攻撃説が支配的になった際、悲劇は上塗られた。
地球に、そしてナチュラルに復讐を。プラント政府が利用、助長さえさせた陰謀論はやがて政権を脅かすほどの勢いにまで発展した。同胞を殺され犯人の引き渡しさえ実現できない現政権への不満が蓄積されることとなったのである。
当時のクライン政権はこの事態を重く見、C.E.65.4.1、かのエイプリルフール・クライシスを起こさざるを得なくなったとされている。当時のプラント最高評議会議事録はいまだ公表されておらず詳細な経緯は謎に包まれたままである。一つの事実としてエイプリルフール・クライシスによってクライン政権の支持率は持ち直し再選を果たす原動力になったと分析されている。
しかし反地球、及び反ナチュラルを謳う急進派は一連の騒動で大躍進を果たす。地球側もまた警告なしに行われた暴挙に怒りを隠そうとはしなかった。
両勢力はなし崩し的に戦争へと突入する。C.E.67。ユニウス・セブンから6年の月日が流れていた。
そしてさらに4年。戦争は停滞期を挟みながらも終わることなく、前線を幾度も書き換えながら拡大の一途を続けていた。
オーブが建造を予定していた軌道エレベーターは、戦争勃発とともに中断を余儀なくされていた。現在は基礎部分にあたる宇宙ステーションだけが衛星軌道上に漂っているばかりである。
アメノミハシラ。この事実上の宇宙ステーションの設計図を見た時、エペメディウム・エコーはただ一つだけわがままを押し通した。展望室を地球の反対側の上部ではなくて下部につけるよう提案した。上部では空には月が浮かぶ他星空しか見えない。地球の大気に邪魔されない満天の星空を楽しみたい人にはいいかもしれない。ただ、星の間に透けて見える宇宙の暗闇を眺めているとその暗さに閉じこめられてしまいそうで好きにはなれない。
だからエピメディウムは展望室を下に取り付けさせた。地球が、その展望室の空の真ん中にその青い姿を湛えている姿が見たかった。
誰もいない展望室の椅子に座って空を見上げる。無重力の中、上も下もないはずだがそれでも地球は天に浮かんでいた。宇宙で生まれたエピメディウムにとってもそれは違和感を覚える光景だった。それだけオーブでの生活が長かったということなのだろうか。
足音がするのも、地球暮らしからなかなか解放されない人の性なのかもしれない。地球生まれの地球育ち。重力に鍛えられた逞しい体つきのレドニル・キサカはエピメディウムに対してさえも律儀に敬礼する。
「エピメディウムさま。デンドロビウムさまがお見えです」
「ありがとう、レドニル」
普段はカガリ・ユラ・アスハと一緒に行動してもらっていた。そのせいかレドニルの姿を見るとついカガリの姿を探してしまう。実際にレドニルと入れ替わるように入って来たのはたとえて言うなら鏡。
赤と緑のオッドアイと、緑の瞳の方にだけ垂らした三つ編みはエピメディウムとちょうど鏡合わせの対称の姿を示している。
姉であるデンドロビウム・デルタはいつも不機嫌そうに口に力を込めている。後にはいつもコートニー・ヒエロニムスを従えている。そう、姉はいつもとまるで様子を変えていない。
「オーブを失った件はおとがめなしだそうだ」
そんなことを言うためにわざわざこの姉は衛星軌道上にまで来てくれたのだろうか。
立ち上がって向かい合うと本当に鏡を見ているような気分にさせられる。瞳も髪も左右非対称の姿。
「ねえ、デンドロビウム。僕たちは誓ったよね。フリージアのこと絶対に忘れないって。だから僕たちは半身にフリージアを宿してる」
フリージアは緑の瞳をして、左右に垂らした三つ編みをしていた。だからエピメディウムもデンドロビウムも緑の瞳の側に三つ編みを垂らした。互いに半身を切り取って左右で重ね合わせればフリージアの姿ができあがる。デンドロビウムのことを見ることで5歳で命を落とした妹の成長した姿を、ほんの半分だけ見ることができる。
きっとデンドロビウムもフリージアのことを見ている。
「フリージアの犠牲は絶対に無駄になんてしない。絶対に!」
「僕も同じ気持ちだよ。でも、僕たちのしていることって、結局何なんだろうね? 誰かに犠牲を強いて。目的のためには仕方がないって思いこんで。結局、フリージアみたいな人を増やしてるだけなんじゃないかなって思うことがあるよ」
「途中で諦めたらフリージアの死が無駄になる!」
「わかってる……、わかってるよ……、そんなこと」
ジャスミン・ジュリエッタは更衣室に1人。クルーゼ隊にいた頃は周りに男性が多くて着替えは1人のことが多かった。もう慣れてしまったはずのこと。
ジャスミンの手には写真があった。目元を完全に覆うバイザーを通す必要があるため手元で眺めることができない。少し離したまま、眺めていた。クルーゼ隊のみんなと並んで撮った写真である。興味がないと一緒に撮ってはくれなかった隊長以外のみんなが写っている。中には名前を覚える前に戦死してしまった人もいて、10人を越す人の半分は名前がわからないか、名前くらいしかわからない。そしてこの内の多くが戦死してしまっている。
まだ名前を覚えていなかったオロール、マシュー。頼りになるお兄さんだったミゲル・アイマン。心優しかったニコル・アマルフィ。
部隊を変えたディアッカ・エルスマン。元から立場の違うアスラン・ザラ。そして、ラウ・ル・クルーゼ。
みんな、写真には写っている。もちろん、隊長は除いて。この写真は肌身離さず持ち歩いてた。所属を変え、戦艦を幾度乗り継いでも手放すことはなかった。それでも、今回は置いていこう。ノーマル・スーツ以外私物は一切置かれていないロッカーの棚へと写真を乗せる。今着ている制服をしまってしまえばそれで私物のすべてになってしまう。しかし、何かロッカーに残しておきたいものが想像できた訳でもなかった。
上着を、シャツを、スカートを脱いで下着姿になる。目のバイザーはそのまま。わざわざはずすことなく着替えることができるよう、ノーマル・スーツはできている。そのことを便利だと考えることはあっても、ありがたいと考えることはなかった。
バイザーを外すと視力が失われてしまうため、ついつけたまま着替えてしまう。肉眼とバイザーの大きな違いは目を閉じるということができないこと。電源を落とすことはできても、再起動にはだいたい10秒くらいかかってします。だからいつもつけたまま、見たくもないものを見てしまう。
下腹部にある傷。すでに白く塞がり、一直線の傷跡は手術痕である。
もう何回も見たはずなのにこの傷を見る度にお腹から広がるような嫌な感覚が脳へと伝わってくる。
仕方のない手術だった。手術を受けるべき正当な理由があった。だから仕方ない。手術を受けるべきだった。そんなことはわかってる。わかっているはずなのに、ジャスミンは自然とお腹に手をあてて、そうしたまま立ち尽くしていた。