エインセル・ハンターは待っていた。
黄金のガンダムがホールにたたずみ、その胸部の上にスーツ姿のまま座っている。その様はまるで、昼下がりの公園でくつろいでいるようでさえある。その見上げる視線の先には天井しかないが、そのさらに上では今もなお戦いが繰り広げられていることだろう。
ここにはフォイエリヒガンダムがある。それはつまり、プラントを狙う大量破壊兵器であるユグドラシルのコントロールがあるということに他ならない。ザフトにとってもはやフォイエリヒの破壊は国是とも言うべき大事であった。
だからやってくるのだ。ここにはザフトが。
そう、エインセル・ハンターは待ち構えていた。
このホールへと繋がる巨大な扉が真一文字に切り裂かれた。月の微重力は思いの外、物体をゆっくりと落下させる。さも劇的な演出を狙って時間を間延びさせたかのように。そうであるかのように、扉はゆっくりと倒れた。
そして黒い天使は姿を現す。
背負われた大型のフィン・スタビライザーは翼、その手に持つ西洋剣は悪魔を滅ぼす天の剣。その身を包む漆黒の鎧は地獄をくぐり抜けてきたことの穢れだろうか。だとすればそれは天使だった。
地獄の底で黄金の玉座に座する魔王を打ち倒すことを使命とした天使だった。
天使は剣を床へと突き立てた。魔王の前へと歩み出ると、18mの天使が魔王を見上げる構図となる。
メルクールランペが胸部コクピットのカバー・ハッチを開いた。上向きに開かれたコクピットからザフトのノーマル・スーツを身につけたパイロットが歩み出た。
魔王は見下ろし、ザフトのパイロット、シン・アスカはヘルメットを外しその眼差しを受け止めた。
魔王は静かな顔をしていた。人のすべてを知り尽くし、そのすべてに飽きてしまったかのように。
少年は惑った顔をしていた。決意を迷いとをない交ぜにし、まだ何もわからないかのように。
ここに、天使は魔王と、少年は魔王と出会った。
戦いは続いている。
攻めるザフト軍の士気は高く終始、攻勢を強めていた。しかし被害も少なくはない。準備不足のままユグドラシルの阻止を優先した作戦行動はもとより無理があったのだ。
各所に設けられた無人の高射砲はめまぐるしい数の曳光弾を暗い空へと打ち上げており、突破を目指すザフト機に少なからず損害を与えていた。上空では展開した地球軍の戦艦が砲台となり砲弾をばらまいている。
戦艦にしろ砲台にしろ、単に破壊するだけならモビル・スーツには造作も無いことである。しかし、時間をかけては相手の思うつぼである。どうしても無茶な突破をせざるをえず、そのことがザフトの戦力を余計に消耗させているのだ。
そしてもう一つ、ザフトには拭いきれない油断があった。地球軍はエインセル・ハンターに煽動されているにすぎないという思い込みである。命がけで戦っている者など限られる。少し戦況が悪化すればエインセル・ハンターを見捨てて逃げ出すはずだという意識がザフトの根底にはあった。
しかし、ザフトが防衛線を突破していく度、地球軍はかえって抵抗を強化していった。
白いウィンダムがゼーゴックを一刀のもとに切り捨てる。ヒメノカリスは父がプラントを焼き払い脱出するまで戦線を維持するつもりでいた。
「お父様は、やらせない!」
ノワール・ストライカーに装備されたレールガンが火を噴く。それはヅダを正確に捉えそのコクピットを正面から吹き飛ばした。
ウィンダムに対し、ザフト軍は対処に苦慮していた。戦闘に時間をとられては元も子もない。しかし、無視するには手練れである。そう判断に悩むこと自体、彼らに残された時間を致命的に損耗させた。
降り注いだビームがザフトの小隊をまたたく間に焼き払ったのである。
ザフト軍は着実に前進している。しかし、その速度に比例する形で損耗していることも事実だった。
本来ならもっと楽な戦いができるはずだった。ザフト軍の猛攻にさらされた地球軍は慌てふためき、我先に逃げ出すはずだったのだから。そして、逃げ遅れたエインセル・ハンターを捕らえる、あるいは殺害してしまえばこの戦いは終わるのだ。
しかし、現実はいつまでも減らない抵抗にザフト軍の方が被害と焦りをつのらせている状況だった。
ルナマリアの部隊も対空砲をかいくぐり到着した。
「どうしてなのよ! どうして平和への思いを邪魔したがるのよ! ユニウス・セブンで20万も殺しておいてまだ殺したりないの!」
ルナマリアが白いインパルスに斬りかかったのは何のことはない。ただ目立ったからだ。まさかそこに地球軍の狂気の象徴と見いだした訳ではない。
両手にビーム・サーベルを構えるインパルスガンダム、対峙するウィンダムもまたノワール・ストライカーからビーム・サーベルを抜き放つ。ビームとビームの衝突がスパークを発生させ、両者の激突をまばゆく彩る。
「あたしたちは負けない! 絶対に勝つんだ! あんたたちなんかに世界を踏みにじらせなんかしない!」
「お父様の敵なら、私の敵。死になさい!」
戦いは続く。
前線と後列とでは温度差が見受けられた。最前線のザフト兵にとって地球軍は悪魔のような男に命までかける得体の知れない存在であったが、戦場を眺めると必ずしもその印象は正確ではなかった。
ザフト軍に突破された防衛戦では地球軍の撤退が始まっていたからだ。
ちょうど戦闘空域の外側にいたザフトの軍艦からはそれが確認できた。
年配の艦長はその恰幅のよい体つき同様、ゆったりとした口調でそのことを口にしていた。
「ふむ、地球軍の離脱が始まっておるようだな」
何隻もの地球軍の軍艦がこの基地から離脱しようとしていたのだ。しかしその動きは統制がとれていて、逃げ出しているというよりはそれこそ離脱していると言った方がよいだろう。ザフトに突破された、つまり役目を終えた場所から兵を逃がしているようにさえ感じられた。
もっとも、そう考えているのはこのブリッジの中でも少数なのだろう。事実、副艦長は文字通り鼻で笑うと言えるほど荒い鼻息をしていた。
「ナチュラルなんてコーディネーターが妬ましくて騒いでるだけですから。エインセル・ハンターもしょせんは道化でしょう。どうやら見捨てられたようですね」
「だがそうにしては部隊の連携がとれている。まるで離脱することが予定されていたかのようにな」
皺だらけの指を突き出し、モニターに映る軍艦の隊列をなぞるように確認している。この艦長の仕草は、まだ若年層が多いブリッジ・クルーからは奇異にさえ見えたのだろう。中には思わず笑い出してしまい慌てて口を押さえる者さえいた。
副艦長は、それに比べれば冷静な方だと言えた。
「艦長、お言葉ですが最近の艦長のお言葉は精彩を欠いています。我々コーディネーターに比べナチュラルが劣っていることは明白です。コーディネーターを基準にナチュラルを捉えては実態を見誤ることになります」
「私の歳を知っているかね? そろそろ60に手が届く」
「それは、おめでとうございます……」
「ファースト・コーディネーターであるジョージ・グレンがコーディネイト技術について発表したのが59年前の話だ。わかるかね? つまり私は正真正銘の第1世代のコーディネーターということになる。両親が熱心なジョージ・グレンの支持者でね、子どもに真っ先に遺伝子調整を望んだそうだ。プラントができた時には真っ先に送り出してくれた」
「先見の明あるご両親ですね。誇らしいのではありませんか?」
「何を言っとる? 両親はナチュラルだ。ナチュラルはコーディネーターに嫉妬するだけの存在なんだろう? 2人とも腹の底では私への妬みに凝り固まったまま死んだはずだ。違うかね?」
「お亡くなりになったのですか……?」
「ああ。10年前、我々プラントがニュートロン・ジャマーを投下したことでね。アイスランドに住んでいたんだがまだ寒い季節だった」
地球に無警告で投下されたニュートロン・ジャマーの存在は当然、プラント国民に対しても極秘とされた。この艦長は知らなかったのだ。新たな母国が両親に危害を加える準備を着々と進めていることなど。
「私もすぐに両親の元に向かうつもりだったが、インフラが壊滅している状況だった。すぐには無理でな。ようやく降りられたのは3年も経った後だ。最寄りの駅前にうまいパイを出す店があってな。母は甘いものに目がなくてね、帰省の度に一緒に行こうと急かされた。私はどちらかと言えば甘いものが苦手だったが、無下にもできなくてな。プラントの話をしながらコーヒーで流し込んどった。父とはよく釣りに行ったもんだ。父と一緒に始めたんだがほとんど手探りだった。いろいろな餌を試したが、乾燥したすり身を使った時は失敗だった。匂いがないらしくてな。なんとも魚の食いつきが悪かった」
何でもない話だ。ただ、艦長が帰省した時どんなことをするのか、そんな世間話を聞かされているにすぎないのだから。しかしそんな話に、クルーの多くは戦闘中であるにも関わらずつい手を止めていた。
「他愛もないことだろう? だが、そんなどうでもいいことが楽しみでもあった。すべて変わってしまったがね。電気が使えなければ火で暖をとるしかない。しかし、それではいつ火事になっても不思議ではないだろう。駅前の店も煤けた柱が残っとるだけだった。いつも行っていた池には貴重な化石燃料を使ってまで連れてってくれる船がなくてな」
今ではどうなっているかわからない。そう告げる艦長の顔は普段と何もかわっていなかった。10年の間、両親を殺されたことをおくびにも出さずに国に仕え続けた男にとってそんなことは簡単ことだったのだろう。
「近所に住んでた人から聞いたんだが、両親は抱き合ったまま凍え死んどったそうだ。議長は我々はいつも被害者だと言っておられたが、まさにその通りだ。エイプリルフール・クライシスで家族を殺されたプラント国民は決して少なくないだろうからな」
その時、艦を衝撃が揺さぶった。破損した味方モビル・スーツがどこかに衝突したのだ。ブリッジの空気は一気に戦いの匂いに染まっていく。
「ほれ、何しとる。ここがふんばりどころぞ。故郷を理不尽に奪われることがどれほど惨めか、知りたくもないだろう?」
戦いの音は聞こえない。ここは静かだった。
玉座の間とも言うべき場所なのだろう。現在でも城壁では戦いが続いているが、そんな喧噪とは無縁の場所である。
月の地下にあり、並び立つ幾本もの柱。人々を焼き尽くす光の柱を導く力は黄金の玉座に宿っている。魔王と呼ばれた男はフォイエリヒガンダムに腰掛けたまま、王に会うべく出向いた若者と対峙していた。
シンはコクピットハッチの縁に立ったまま、ただエインセル・ハンターを見上げていた。
「その……、来ました……、俺は、来ました!」
何を言っていいかシンにはわかていない。ただ、沈黙に耐えられるほどの気概も持てなかっただけのことだった。
そんなシンへと、エインセルは誰に対してもそうするように微笑みかけた。
「あなたが最初に来るとは、さすがに考えていませんでした。では問いましょう。あなたはなぜ、ここに来たのですか?」
「俺は、ザフトです。作戦目標を設定されたらそれに従うまでです」
そうは言っておきながら、シン自身、詭弁に過ぎないとわかっていたのだろう。手にするヘルメットに視線を落とし、しかしすぐにエインセル・ハンターを見つめ直す。
「やめてください。戦争で人が死ぬことはあっても、けど、市民を狙うような攻撃、しちゃいけないはずなんです!」
「同感です。この攻撃が成功したならプラント市民の犠牲は50万人を超えると試算されています。しかし政治中枢はすでにゴンドワナ級に移設されたことは確認されていることに加え、居住プラントの破壊に戦略的価値はありません」
「じゃあ、どうして!?」
「事実が必要なのです。魔王が最終兵器を持ち出してプラントとの決着を図ったとする事実が」
「俺、難しいことなんてわかりません。あなたがどうして俺に力を与えたのかも」
「敵であって敵ではない者に、復讐者にして復讐者ではない者に、何より愛を知る者に私は倒されなければならないからです」
エインセル・ハンターと対峙するだけでシンは極度の緊張を強いられていた。黄金の男は何も答えていない。それでいてシンのすべてを見透かしたような静かな気迫を纏っていた。
シンに道を示すことはなかった。何が正しいと一度もシンを導くことも煽動することもなかったのだから。
また、シンにすべてを許すこともなかった。シンに母の弔いをといたのは他ならぬエインセル・ハンターなのだから。
エインセル・ハンターは立ちあがると、その体を浮き上がらせた。呼応するかのようにフォイエリヒガンダムが動きだし、エインセルを追いかけ浮かび上がる。すると、そのままエインセルの体をコクピット内へと取り込んだ。
その時のことだ。先ほどまでシンがエインセルから感じていたプレッシャーが、今はフォイエリヒから直接放たれているかのようだった。剣の達人と対峙した時、まるで剣そのものと戦っているかのように錯覚させられることがあると言われる。そうだとすれば、エインセル・ハンターこそがガンダムなのだと言えた。
「これがエインセル・ハンター……」
シンは思わず気圧されたが、すぐに気を持ち直す。恐怖を振り払うように首を振ると、そのままコクピットへと滑り込んだ。全天周囲モニターが立ち上がり目の前に黄金の輝きが広がる。
これまで、シンはフォイエリヒガンダムと二度の戦いを経験した。最初の戦いは小惑星フィンブルの地球落着の時、しかしこの時のパイロットがエインセル・ハンターではないとシンは確信している。二度目はダーダネルス海峡での戦いだった。その時、シンは文字通り手も足もでなかった。
そして今、シンにはゲルテンリッターがある。
戦いは、始まった。
月面では戦闘が続いていた。地球軍の撤退に伴い、徐々に規模こそ縮小しているものの、それは戦闘が行われている場所が小さくなっているだけであり、いまだに戦闘が行われている場所ではその激しさは何も変わらない。
月の荒野のその上でビームの輝きがいくつも交差し、爆発が何輪もの花を咲かせていた。
そして、月に光の十字架が描かれた。
それは何のことはなく地下で放たれたビームが地表を突き破り現れたにすぎない。しかし、これだけの光の十字を描くにはおびただしい量のビームを必要とする。それだけの出力を誇る何かがそこにはいることになる。
光の十字の中から2機のモビル・スーツが飛び出した。黄金のガンダム、そして、黒い翼のガンダムである。
その光景はひどく現実離れしていた。
全長25mもの巨大なモビル・スーツが8本もの光の剣を振り回す。その様は異形の怪物がその暴威のままに暴れ回っているようである。
そして、対決するのは黒い天使。装飾さえ施された西洋剣を手に黄金の悪魔へと降下しては切り結び、再び月の空へと舞い上がった。
このコズミック・イラの世に天使と悪魔が戦っている。神を信じぬプラントの民でさえその光景は思わず目を奪われるもののであった。ほんのわずかな時とはいえ、この戦場のすべての人が戦う手を止め天使と悪魔の戦いに見入った。
一瞬、戦いが止まったのだ。
しかし、シンはそのことに気付いていなかった。それだけの余裕がなかったからだ。
「エインセル! ハンター!」
意識を加速させる。インパルスガンダムとは比べものにならない加速力でメルクールランペが接近すると剣を振り下ろす。しかし、フォイエリヒは素早くこれをかわすと8本のビーム・サーベルで月の地表を撫でた。ビームによる圧倒的な熱量が爆発を引き起こし爆煙がまたたく間に2機の姿を覆い隠す。だが、すぐにメルクールランペが上空へと煙を抜け出すと、しかし見下ろす煙の中にフォイエリヒの姿はない。気付くと、すでにフォイエリヒはシンのさらに上をとっていた。
「シン・アスカ。母の弔いはできましたか?」
そして振り下ろされる8本もの光の剣。さきほどの爆発で飛び散った塵の一つまで焼き切らんばかりに四方からすべての空間を切り裂きながら迫り来る利剣からはただ逃げ出すことしかできない。
シンはメルクールランペを後先考えずに飛び出させるしかなかった。自分でもどのような姿勢で飛んでいるのかわからない無理な機動に満足な着地さえままならない。そのまま月面に叩きつけられるように着地するも、思わず膝をついた。
「わかりません! ただ、俺のしてることだって母さんのためになるかもしれないって、そう思えるんです!」
地球上ではあり得ないほど土煙を上げメルクールランペが突撃する。どのような物質であれ切断するその剣は確かにフォイエリヒを捉えたはずだった。手応えさえ感じる必殺の間合い。しかし、フォイエリヒはまるですり抜けたように攻撃をかわすといつの間にかメルクールランペの背後にいた。
「それはなぜですか?」
「隊長から言われました。弔いはただ花を手向けることじゃないって。だったら、俺が母さんのためしようと思ったことが弔いなんだって思えたから!」
メルクールランペが体を翻す勢いのまま剣を振るう。だが、フォイエリヒにかすらせることしかできない。
「よい答えです。ですが、それは始まりにすぎません」
そして、フォイエリヒは再び両手足、バック・パックの4本のビーム・サーベルを振りかざす。8本ものビーム・サーベル。それが向けられた時、シンが感じたのは、あからさまな恐怖だった。
思わず飛び上がるシンのメルクールランペ。その動きに、フォイエリヒはまるで最初から示し合わせていたかのように追従する。
「あなたが母へと向ける思いとは、果たして何なのでしょう? 復讐のために私を殺すことなのですか?」
8本のビーム・サーベルが光の軌跡を描きながら幾重にも重なり光の壁を創り出す。触れればまたたく間に蒸発させられる死の壁だ。シンはただ機体を逃がすことしかできない。
「それは……」
一度、剣の勢力圏外に逃れたシンは必死に気を取り直し反撃に移ろうとする。スラスターを全開に相手に飛び込むつもりだった。
だが、できなかった。
フォイエリヒガンダムのビーム・サーベルの壁が完璧であったからだ。
「言葉を変えましょう。あなたは私に復讐がしたくてここに来たのですか? では、人を焼いてはならないとするあなたの言葉は単なる口実にすぎなかったのですか?」
シン・アスカはプラントの理念に賛同していた訳ではない。つまり、エインセル・ハンターとは世界を脅かす悪魔などではなく単に母の仇でしかなかった。プラントを守るための戦いなどではなかった。
フォイエリヒが25mもの巨体にも関わらずふわりと浮き上がるような滑らかな動きでメルクールランペに迫る。
シンは、ただ逃げるしかできなかった。
「あなたにとって母親とは何なのですか?」
まさに結界なのだ。8本のビーム・サーベルはそれぞれが独立した動きをしている。フォイエリヒと対峙することは8人もの剣豪と同時に相対することにも等しい。いや、完全な連携がとられている以上、まだ8対1の方がましだろう。
シンにはまるで見えていなかった。どの角度、どのタイミングで攻撃を仕掛けたとしてもビーム・サーベルに切り裂かれる予想しかできない。意識の加速は、そのすべての終着点はシンの死を結末としていた。
「私にもかつて父と呼んだ男がいました。しかし彼は私の力に興味を持つことはあれど私を愛することは決してありませんでした。そのために私は、彼を自ら手にかけました」
死の恐怖ではない。勝てないという恐怖がシンの体を自然と震わせていた。これまでにフォイエリヒと対峙した時には感じたことのない恐怖だった。
シンは確かに強くなったはずだった。意識の加速を身につけゲルテンリッターの初号機に搭乗している。その実力は3年前、ただフォイエリヒガンダムを見上げることしかできなかった時に比べたなら遙かに強くなったはずだった。
それなのに、シンはこれまでに感じたことのない恐怖を覚えていた。
「う、うわぁー!」
迫るフォイエリヒについ飛び退こうとする。だが、フォイエリヒは速い。大きく息を吸い込み胸に閉じ込める。ただそれだけの間にメルクールランペのすぐ目の前にフォイエリヒの姿があった。コクピット中に黄金の輝きが満ち、シンは自分をのぞき込む黄金のガンダムに気圧されていた。
「愛されてなどいないことがわかっていたからです。私は、そもそも彼の弔いをするつもりはありません。それとも、こうして彼が望んだ力を存分に奮うことこそが、かの男の期待した通りのことであり、ゆえに弔いとなるのでしょうか?」
シンのもはや声にもならない悲鳴にとともにメルクールランペはその西洋剣を力任せに振り下ろす。モビル・スーツならば簡単に両断できる大剣は、しかしフォイエリヒを傷つけることはできない。突如その姿がかき消え、背中から突き上げるような激しい衝撃が襲ったからだ。
「それは違います。弔いとは何をするかではなく、何をして上げたいかによって定まるものだからです」
背中を蹴られた。そう判断するとともにシンは剣を後ろへと向けて振り抜く。それは反撃というよりもたかる蜂を追い払おうと足掻いたにすぎない。そんな一撃がフォイエリヒを捉えられるはずもない。
「あなたにとって母は誰であって、そして、母にどう報いたいのですか? その答えもないまま私の前に立ったのですか?」
まるで炎と戦っているかのようだった。炎は斬ることも掴むこともできない。だが、人を焼き、殺す。しかしフォイエリヒガンダムは炎ではない。炎は意志を持たない。
シンは確信していた。攻撃は光の壁に阻まれ届かないと。しかし剣の切っ先がフォイエリヒをかすめることもあった。絶対に回避不可能と思える剣の光から、それでも逃げおおせることもあった。それはすべて、シンの実力でも意志でもない。すべてフォイエリヒが、エインセル・ハンターが決めたことだ。
エインセル・ハンターが間合いに踏み込ませると決めた。すると、シンはフォイエリヒに切りつけることができた。殺さないと決めた。すると、シンはフォイエリヒの8本もの剣から逃れることができた。では、逃がさないと決めたなら、殺すと決めたならどうなるのか。
「それでも……、俺はあなたを止めないといけないんだ……!」
もはや自分を奮い立たせるためではない。自分の気力を繋ぎとめる最後の悪足掻きでしかない。
フォイエリヒに勝てないことを、シンは理解していた。理解してしまっていた。これまではただがむしゃらにエインセル・ハンターの影を追いかけておけばよかった。たとえ遠くからでも山の偉容は見て取れる。しかしその山を踏破する困難さは麓に立つまでわからない。
シンは強くなった。だからこそようやく、エインセル・ハンターの強さを理解することができた。決してかなわぬ相手なのだと。
メルクールランペが縦に力任せに振り下ろした一撃は、シンにとっても当然のように回避される。かわされた先を追って剣を振るったところで火に刃を叩きつけただけかのようにその黄金の装甲を捉えることはできない。フォイエリヒはまるで通り抜けたかのようにいつの間にかメルクールランペの後ろに回り込んでいた。シンに炎にあぶられたかのようなひりひりする緊張感と恐怖を与えながら。
「私を倒すべきは敵であって敵ではない者であり、復讐者にして復讐者ではない者にして、何より愛を知る者でなければなりません」
シンが急いで振り向いたのは敵の姿を探すためというよりは、単に恐怖に駆られた行動にすぎなかったのかもしれない。
フォイエリヒと向き直ったメルクールランペには、8本のビーム・サーベルが突きつけられていた。わずかでも動こうものなら焼き切られる。すべてのサーベルが致命傷の一歩手前で寸止めにされていた。
8度分の死を突きつけられた状態で動けるはずもない。シンはビームと、その輝きを照り返す黄金の装甲がメルクールランペのコクピット内を眩しく照らしている。そんなまばゆい光の中でさえ、シンは目を見開いていた。その瞳は怯え、黄金の死を見つめ続けている。
光の中に響き渡るは魔王の声。
「あなたではないようです」
ビーム・サーベルが消滅する。死の危険は去った。しかしそれでもシンの体を蝕む恐怖は消えてはくれない。それは興味を失ったとばかりにフォイエリヒが飛び去った後でさえも変わることはなかった。
まだ剣を突きつけられているかのようにシンの体は固い。操縦する手さえおぼつかない。ガンダムメルクールランペの体は月の重力に引かれゆっくりと落ちた。衝撃が走って初めて、シンは機体が着地したことを知ったほどだ。
月に大気はなく、上空ではいまだに砲火が飛び交っているにも関わらずコクピット内は静かなものだった。激戦の最中、戦場の外れで動かない機体をわざわざ狙う余裕がある兵がいるはずもなく、シンは多ただ1人、戦場から取り残された。
動かすつもりもないまま操縦桿を握りしめている。そんなシンの胸中ではエインセルハンターの言葉を反芻していることだろう。
結局、シンは母のことを解決できないままこの戦場に立ってしまった。
「隊長にも、あのアウルって奴にも言われたな……」
シンは、母親のことをコーディネーターとその母親という関係に囚われすぎて考えようとしているのだと。それは一つの考え方としては正しいのかもしれない。だが、そんなことを作戦行動中に言われても考える時間などあるはずもない。
そして何より、大きな問題がある。
「でもわかるはずないだろ……。母さんはもう、死んでるんだから……。何をどうしろって言うんだよ……」
聞くこともできない。尋ねることもできない。それに、仮にそんな機会があったところで、シンに果たして問いかける勇気が持てただろうか。エインセル・ハンターに言われた通り、それができないまま母に認められようとし続けたのだから。
母の死後でさえ。
ようやく操縦桿から手を離す。そして、シンは両足を抱えて体を丸くした。強い不安を感じた時にこうするのはシンにとって癖のようなものかもしれない。そう、戦いの中で、シンはいい知れない不安に襲われていた。
死とは不思議なものだ。シンのオーブ時代の友人の中には、もう二度と会うことのない人もいることだろう。しかし、その人に対してシンは死別の悲しみを感じてはいない。それは生きている以上、再会する可能性があると頭で理解しているからなのだろうか。それほどまでに人間とは前向きで合理的な生き物だっただろうか。ただ死という事実は人にとって特別なものだということなのかもしれない。
二度と会えない、それ以上の意味をもつ。
「母さんは……、もういないんだ……」
左頬の痣がうずくのだろう。シンは傷跡を覆うように左手を当てた。母のことを思い出す度に、シンはこの傷に痛みを覚えた。それは母が焼かれた日に負った傷であることと無関係ではないだろう。
シンはただ、膝を抱え、傷を撫でることしかできないでいた。
光がコクピットの中に生まれるまでは。
それは突如現れた光の柱、それは手のひらサイズの小さなものだったが、その光の中に少女の姿が浮かび上がった。白く長い髪、身に纏う漆黒のドレスはエインセル・ハンターの屋敷で出会ったゼフィランサス・ズールを強く連想させる。少女がその瞼を開き赤い瞳を露わにした時、その印象はより強いものになった。
ゲルテンリッターの心、アリスはゼフィランサス・ズールをモデルに設計されているが、その中でもこのアリスはよりゼフィランサスに似ているように思われた。
「アリス……、なのか……? メルクールランペの……?」
ゲルテンリッターの初号機、ガンダムメルクールランペの心であるアリスがシンの前に初めて姿を現した瞬間だった。