月面に位置する地球軍の軍事基地、その格納庫は妙な緊張を帯びていた。整備スタッフたちが落ち着かない様子で首をしきりに同じ方向へと向けていた。そこには、本来ここにはないはずの機体、ザフト軍に所属する機体があった。
黒い外装に畳まれた翼を思わせるバック・パックのユニット。悪魔を思わせながらも、そうと片づけてしまうには譲れない美しささえ感じさせる。黒い天使、この表現がしっくりときた。
ZZ-X1Z300SAAガンダムメルクールランペ。鬼才ゼフィランサス・ズールが直接手がけたガンダム・タイプを前に、整備スタッフはおもちゃを前にした子どものように落ち着きをなくしていた。もしかすると整備に関われるかもしれない。そんな期待に胸膨らませているのだろう。
そんな中、ガンダムを正面に見据える特等席の少年だけはひどく落ち着き払っているように見えた。ザフト軍のエリート兵の証である赤い軍服を身につけたシン・アスカは手すりに手を預けてちょうど目の前に見える自機を見ていた。ふと手元の円盤に目を落としてもメルクールランペの心である水銀燈は顔を見せることはない。
シンはこれまでの激動が嘘のような静けさに戸惑っているのだろう。
だからこそ足音が近づいてきたとしてもシンは相手を確認するために少し顔を上げただけだった。
「キラさん」
幸いにして相手は見知った人物だった。黒い軍服を身につけた若者に、シンはこれまで2度、顔をあわせている。
ファントム・ペインの隊員は声をかけるに適した距離で、軽く切り出した。
「隣、いいかな?」
もちろんです、そんなシンの言葉を聞くとキラ・ヤマトは同じく手すりによりかかった。
「思ったより落ち着いてるね。ザフトの君がこの基地に来たことはないんじゃないのかい?」
「戸惑いすぎてて何していいかわからないだけですよ。キラさんはどうしてここへ?」
まさかシンが不安がっているだろうと見舞いに来たとは思えない。事実、キラはねぎらいの言葉なく本題へと入った。
「実は君をスカウトしにきた。僕の部隊に入らないかい?」
「俺にファントム・ペインには入れってことですか?」
「給与はザフト時代の倍は出せると思うし、階級は少尉から始めようか? それにプラントの軍学校時代の成績の編入が認められれば士官待遇も不可能じゃないと思うよ」
やや呆気にとられたように隣のキラを見つめるシンだったが、特段、損得を計算していた訳ではないのだろう。ただ急な話に戸惑っているにすぎないらしかった。
「外人部隊に比べれば破格の待遇だと思いますけど、やっぱりやめておきます」
「理由を聞いても?」
「俺みたいな戦争孤児が軍人になること自体、おかしなことだったんですよ。泥棒に入られたから泥棒になりますなんて意味分からないじゃないですか?」
一瞬、シンが後悔したように目を伏せたのは軍人であるキラを目の前にして言うべき言葉でなかったと考えたからだろうか。
「俺がザフトに入ったのも、生活のためだったり、母さんをなくしてヤケになったからですから」
キラは気にした様子を見せないまま、メルクールランペをふと見上げながら話を続けた。
「君がエインセル・ハンターを討ったのは、母親の復讐のためだったのかな?」
「俺の立場からしたらそうなんだと思います。でも、あの人の前に立った時、母さんの仇だとかじゃなくてただこの人を止めないといけないんだって必死でした。だから、ただ復讐したっていわれると違和感があるんです」
母の仇を討って流した涙は、決して喜びの涙ではなかったから。
「母さんは俺のために命をかけてくれました。でも、そんな母さんに俺は何もできなかったばかりか、その気持ちを疑ってしまったんです。そんな俺が母さんのためにできることって言ったら、これ以上、母さんみたいに理不尽に焼かれる人を少しでも減らすことだって、そう考えたんです」
「エインセル・ハンターという魔王が倒れて、じゃあ、世界は平和になったのかな?」
「言いたいことはわかりますよ。でも、軍隊に入ってわかったことって、軍人は権力者の道具でしかないってことなんです。自国民を守るために戦うことはできなくても、敵の市民を焼く命令には従わされる」
隊長であったレイ・ザ・バレルに軍人とは何かを教えられた。事実、シンは命令に従うまま、小惑星フィンブルの地球降下に貢献してしまった。
この言葉を聞いた軍人はどのような反応を返すだろうか。怒るだろうか、認めるだろうか、現実を見ろと怒鳴るだろうか。少なくともキラの反応はそのどれとも違った。ただ、メルクールランペを見つめているだけだった。
「君の言うことは間違ってないよ。軍隊はヒーローなんかじゃない。でも、これだけは約束させてほしいんだ。これからファントム・ペインが臨むことになる戦いは、必ず人を救うものになることを」
軍隊でそのようなことはあり得ない。そう思わずシンが口にしようとするよりも早く、キラは次の言葉を繋いでいた。
「シン君、君の戦いは、エインセル・ハンターを倒して終わったのかな? 君はもう、自分のしたこと、してきたことに満足してるのかな?」
そうして、キラは再びシンのへと向き直った。
シンがエインセル・ハンターと戦ったのは、母のように理不尽に焼かれる人を1人でも減らしたかったからだ。そして、戦争はこれからも続く。
「それは……、違うと思います……」
しかし、具体的に何が異なるのか、何をすべきなのか、シンは語れず、キラもまた、黙ってシンの考えがまとまるのをまとうとしていた。ただ一つ確かなことはある。それは、シンの瞳に、小さいながらも確かな決意の灯火が宿ったということ。
メルクールランペを見つめるもう1人の姿があった。アイリス・インディアだ。
「私の知らないガンダム」
しかし、かつてはパイロットであったアイリスが軍属を離れてすでに数年。すでにどのようなガンダム・タイプが運用されているのかもわからないまま、興味はすぐに薄れてしまった。
前を歩く男性、かつてプラント最高評議会議員も務めたタッド・エルスマン議員の後を追ってすぐに格納庫を離れた。通されたのはミーティング・ルームの一室らしかった。モニターを眺めやすいよう置かれた楕円形のテーブルに、2人が腰掛けたところで、来客はすぐに訪れた。
癖の強い髪が目立つその男性は、入ってくるなりエルスマン議員へと握手を求めた。
「エルスマン議員、お久しぶりです」
「アマルフィ議員! まさかこのような形で再会することになろうとは。ただ、私は亡命した身、議員と呼ばれるのは……」
「それこそ私も同様です」
ユーリ・アマルフィ。かつてエルスマン議員とプラント最高評議会で椅子を並べた仲であり、派閥こそ異なるものの、同じく息子を戦場へ送り出した父でもあった。そして、約2年前、大西洋連邦への亡命を果たしている。
握手こそ朗らかな雰囲気で終えたものの、旧友と酒を酌み交わすようにはいかない。ユーリはアイリスたちと向かい側の席に腰掛けた。何から話せばいいのか悩んでいるのだろう。そうしているうちに、エルスマンの方から声をかけた。
「お元気そうでよかった」
少々やせた気がしないでもない。しかし、息子を失い、妻と離縁した当時とは比べものにならないほどだ。
「いろいろと慣れないこともありますが、プラントで言われていたほどには地球の暮らしも悪くはありません」
「おや、アマルフィ殿が皮肉を嗜まれるとは」
2人はくすりと笑いをもらすも、中和剤にしても少々頼りない量でしかなかった。
「議員というのは私にはそれほど重荷でした。ニコルを失った時、私の胸中にあるのは悲しみと怒り、それだけでした。地球に対する感情的な抗戦論を助長こそすれ、諫めようなんてつもりはありませんでした」
「あなたと私は本当によく似ている。何もできなかったと言われるなら、私も同罪だ。ご存じの通り、プラントは現在、デュランダル議長の独裁状態にあり市民はそれを受け入れている」
「パラドックスですね。もしも国民が投票によって民主主義を否定した場合、民主主義はその正統性を失う。しかし、それならば民主主義を否定するという民意も何の権威も持たないことになる」
つまり民主主義は否定されず、市民には決定権があることになる。よって、市民は民主主義を否定できることになる。しかしそして民主主義が否定された場合、市民は民主主義を否定できる権限を失う。
こんな言葉遊びがしたいのではないことを、かつての議員たちは理解している。
「民主主義は決定権が市民になるというだけで、その正しさが保証されるわけではない、ということだね」
「民主主義の弱点はまさにそこなのかもしれません。前提として、市民に正しい判断ができる能力が必要となります」
「しかし、市民が自らの責任で選んだ道だとしたらどのような結果であっても受け入れるべきではないかな?」
「それも一つの考え方でしょう。ただ、権力者はいつの時代も強力で身勝手だ。マスコミを操り自身に都合のいい情報を垂れながして自分が優れた為政者だと嘘をつく。それを信じた市民が間違った選択をしたとして市民の責任とばかりは言えないでしょう」
さらに言うのであれば国民にどのような教育を施すか決めるのも権力者だ。権力に従うことを美徳とし、自ら考えることを放棄することを是と教え込むことができてしまう。
もっとも、ユーリはいまさらこんなことを付け加えるつもりはなく、次の話題へと移っていた。
「民主主義の名の下、硬直した権力基盤が完成してしまう。寂しいかぎりですよ。我々コーディネーターはより優れた知性をもって誕生したはずでした。しかし、地球の国々が抱える政治的課題は、プラントにもそっくり当てはまってしまう」
敵か味方か、そんな単純な二分論に陥り地球そのものを滅ぼそうとした国家は、歴史上、プラントただ一つだった。当時の議長、パトリック・ザラは妻を戦争に奪われた復讐として地球そのものを焼き尽くそうとし、ユーリはそんなザラ派の議員であった。
ユーリは苛立っているというよりも、むなしさを強く感じているらしかった。
「人は孤独です。この広い宇宙で知的生命体が地球にしか存在しないなんて天文学的な低確率です。にも関わらず我々はいまだに文明の痕跡を外宇宙に見いだすことができない。一つの学説によると、文明には寿命があるそうです。事実、我々は滅亡の危機に瀕しています。これまで、どんな独裁者が登場したとしても世界を滅ぼすことなんてできませんでした」
「まさか石と棍棒で地球を叩き割るわけにはいかないからね」
「しかし人類は宇宙進出を前後に核兵器を獲得しました。地球を滅ぼしてあまりある力を手にしたのです。仮にこの戦争で核兵器が際限なく使用されたとしたら、人類は宇宙に何の痕跡を残すことなく死滅してしまうことでしょう」
「宇宙進出から他惑星への植民に成功するまでの間、そこが文明の終着点だということかな? 他の知的生命体もその段階を乗り越えることなく滅亡してしまった。だから知的生命体は確率論的に存在しているべきにも関わらずその痕跡を我々人類が見つけられないのだと」
「プラントでは、ナチュラルを狙った大規模な暴動が起きたと耳にしました」
優れた能力を約束されたコーディネーターの登場でも人は戦争を乗り越えることはできなかった。それどころか、250年ぶりの世界大戦を招来し地球滅亡の一歩手前まで到達してしまった。
これが人の限界と嘆くべきか、あるいは、コーディネーターが歪なのだと逃げるべきか。
かつて議員であった2人は難しい顔をしたまま、何も言い出せないでいた。
ここでいたたまれないのはアイリスだ。不安げな表情を隠せないまま、つぶやくように口を開いた。
「どうしてこうなってしまうんでしょうか? その、世の中って、ひどい人も、悪い人もいます。でも、ほとんどの人はそんなことなくて、戦争だってしたくない人がきっと大勢だと思うんです。でも、それなのにどうして戦争ってとめられないんでしょう?」
わずかな沈黙のあと、答えたのはタッドの方だった。
「動物は縄張りを持つ。他の獣に縄張りを奪う意志なんてないかもしれない。ただ、そのことを確認する手間を獣は惜しむ。善意の獣を追い払うデメリットなどたかがしれているが、縄張りを奪われるリスクは計り知れない。ザフトが敗北すれば市民が地球軍に虐殺されると言っているプラント市民に聞いてみるといい。ではザフトが勝利した場合、地球の民を虐殺するのかとね?」
暴動でナチュラルを袋叩きにしていたコーディネーターに、差別意識を隠そうともしない兵士たちに、あるいは、妻の復讐のために地球を滅ぼそうとした為政者に。
「答えはもちろん、ノーだろう。彼らはまっとうな人間だからね。ただ、敵を同じ人間だと考えていないだけでね。人はきっとわかりあえるのだろう。しかし悲しいかな、そのためのコストを多大に見積もる傾向にある」
ユーリは考えるように口元に手をやっていた。
「それこそ、縄張り争いをする獣のように、ですか?」
「人の本質は変わっていないのだろう。だからこそ、社会を変えていかなければならなかった。人権、憲法、民主主義、これらはすべて人がよりよく生きていくために生み出された発明品に他ならない。しかし、人はこれを重荷に思うのだろうね。人権がなければ、人を道具にすることも許される。憲法がなければ、権力者が制約なしに動ける。民主主義は意志決定が遅い、とね」
エルスマン議員の言葉に、アイリス、アマルフィ議員の返事は様々だ。
「それで得をするのって、国だけだと思いますけど」
「国が大きくなれば国民にも利益が回ってくる。いわゆるトリクル・ダウンという発想がありますが、そんなことがあるなら、世界に貧富の格差など起きなかったことでしょうね」
「しかし、国が巨大にならなければ敵に対抗できない。それは恐ろしいことだ。何せ、敵は人間じゃない。無慈悲でどんな卑怯な手も使う化け物なのだからね。自分と違う人を信じることのできない心の弱さ、それを克服できないかぎり、人類の未来は崖へと向かうレールの上にある」
プラントで描かれる地球軍は悪辣な軍隊だ。地元住民を脅し土木工事をさせ、逃げだそうとすれば射殺さえ辞さない。降り立ったモビル・スーツが難民キャンプで虐殺を働く。なぜなら、相手は自分たちとは違う怪物なのだから、そんな蛮行を働いても何の不思議もない。
人類の性能を高めたはずのコーディネーターは、しかし人類が戦争を乗り越える希望とはなっていない。
アイリスは無意識にお腹に手を当てていた。そこに宿った新しい命が生まれてくる世界を憂いたか。
「じゃあ、どうしたらいいんですか? 私たちは、このまま滅びるまで同じ人同士で殺し合わないといけないんでしょうか?」
事情を知らないアマルフィ議員はともかく、エルスマン議員は孫の存在を知っていた。
「すまないね。弱気になってしまった。法の理念と力を信じ、戦い続けると心に決めたはずだったのだがね」
たとえ無理にでも空気を暖めなおしたい。そのような意図にアマルフィ議員も応じたようだった。妙に大振りな手振りで自身に注目を集めようとする。
「そうでした。我々にはまだまだいくらだって打つ手はあるはずです。エルスマン議員、この際、勢い任せで言ってしまいますが、ご子息は無事のようです。情報では、ムスペルヘイムに収監されたとか」
「いざとなれば議長の搭乗も予定されている旗艦に乗せるとは、少なくともすぐに命をとるつもりはないようだ」
「エルスマン議員、プラントにいるのは我々と同じ人間です。血も涙もない怪物などではありません」
「それは確かに」
これにはさすがのエルスマン議員も笑みをこらえきれなかった。それはアイリスも同じらしく表情をゆるませている。
「ディアッカさんが無事なら、きっとフレイさんも無事ですよね」
「君は、やはりアイリス君でいいのかな?」
「はい、そうです」
「よかった。桃色の髪とまでは聞いていたのですが、この基地にはヒメノカリス君もいるとのことだったので。あなたにお手紙があります」
そう、アマルフィ議員から差し出された手紙はまるで舞踏会の招待状のように格式高いものだった。
「どなたからでしょう?」
「あなたのお姉さまからです」
こう言われてもアイリスは誰のことかわからなかった。なにせ、ヴァーリであるインディアには最大で20人の姉がいたのだから。
全長1kmにも及ぶ巨大な軍艦が宇宙空間を漂っている。ゴンドワナ級1番艦ムスペルヘイムだ。ザフト軍最大の軍艦にして、通常クラスの戦艦さえ格納できる、まさに動く要塞とも言うべきこの船は、その重要性を拡大していた。有事の際にはギルバート・デュランダル議長の搭乗さえ予定され政治、軍事両面からその権能を拡大していたのである。
しかし扱うのが人間である以上、かわらないものもいくつもあった。たとえば、通路の大きさだ。通常の軍艦の5倍を超える大きさとは言え、通路は人が通行するのに適したサイズに抑えられている。
そんな通路を、アスラン・ザラとサイサリス・パパ、珍しい組み合わせが、無重力の中、漂うような調子で歩いていた。
「人間爆弾をラクスに反対されたって?」
サイサリスはわかりやすく目をとがらせる。
「そうじゃなくて誘導装置にするだけ。コスト・パフォーマンスはいいと思うんだけど」
「本当にそうかな? たとえば、1人で5隻の戦艦を落とせるエースを1隻の戦艦に体当たりさせれば4隻分、損するじゃないか?」
「そういうエースには使わないで、新兵とか見込みのない兵士を使えばいいんだって」
「正攻法で敵艦に食らいつけない連中が、体当たりの時だけはうまくやれると考える理由は?」
「だから、アリスを使えばいいんだって。それなら兵士の練度なんて問題ないし、座ってるだけだから子どもでも兵器にできるでしょ?」
先をゆくアスランは一度も振り返ろうとはしなかった。サイサリスを嫌っているというより、まともに相手にするつもりがないのだろう。
「アリスがどうして量産機に搭載されていないか知ってるだろ? コスト・パーフォーマンスに響くんじゃないか?」
ビーム兵器。フェイズシフト・アーマー。アリスの搭載。これがガンダム3大機構であったが、今となっては事実上、アリス搭載の有無がガンダムか否かを分けている。その壁はコストだ。
サイサリスにとってモビル・スーツの専門家としての知識が邪魔をするのだろう。アリスを搭載した場合に跳ね上がるコストを無視できなかった。
旗色が悪いことを理解しているサイサリスであったが、助け船があった。ちょうど通り過ぎた部屋の中に知った顔を見つけたからだ。
「先行ってて」
そう、アスランから離れるサイサリス。ここでアスランはようやく振り向いたが、サイサリスの消えていった部屋が医務室だと気づいて、すぐに何かを察したように向き直った。船内の医務室と言ってもそもそもが巨大船ムスペルヘイムの艦内だ。ちょっとした病院のロビーほどの大きさの部屋でたまたまその顔を見つけられたのはサイサリスにとって幸運だった。
褐色の肌の青年が、額の傷の手当てを受けていた。サイサリスが目を付けた相手、それがまさにこのディアッカ・エルスマンだ。アスランに乗っている車を破壊され連れてこられたとすでに聞いている。傷はそのときのものだろうと軽く考え、サイサリスは医師が包帯を巻いているのもかまわず声をかけた。
「ねえ、あなた、ディアッカ・エルスマンでしょ?」
「そうだが、水色の髪のヴァーリには会ったことなかったな」
事実、2人に面識はない。
「私はサイサリス・パパ。Pのヴァーリ。でも、そんなことはどうでもいいの。それより、ジャスミンの仲間だったディアッカならわかるよね? ジャスミンたちが立派に死んだってこと」
ディアッカが明らかに頬をひきつらせたにも関わらずサイサリスはそれに気づかなかった。
「新兵や傷病兵、ああ、もちろん障がい者もだけど、戦争に貢献できない人を中心にミサイルに乗っけようと思ってるんだけどなかなか了承されないの。ラクスの説得に協力してくれれば、夕食にプリンがつくようにしてあげられるけど?」
便宜を図ることは事実としても無論、スイーツの差し入れなど冗談にすぎない。よってディアッカも賄賂の交渉がしたかったわけではない。
「ふざけてんのか?」
包帯がずれる恐れがあったからか、医師がディアッカの肩を軽く抑えた。その程度で抑えが効く程度ではあっても、しかし、この隻腕隻足の元パイロットが激昂したことに代わりはなかった。
「その手の話がしたいなら切り株の虚にでも叫んでこい」
「な! あんた、ジャスミンの仲間じゃなかったの!? この兵器の利点を認めないってことはね、国を守るために立派に死んだジャスミンたちを侮辱するってことだってわからないの!?」
「そこがくだらねえって言ってるんだ! ジャスミンたちは戦争に突き進んだバカ野郎のために捨て石にされたんだ! 俺たちはそのことから目を逸らしちゃいけないし、忘れてもいけないんだよ!」
にらみ合う2人。まだ実戦らしい実戦を経験していないムスペルヘイムである以上、利用者はまばらだが、それでも医務室中の視線が注がれていた。ジャスミンと聞いて理解できる者はサイサリスとディアッカ、両名をのぞけば誰もいなかった。映画、「自由と正義の名の下に」でザフト軍再編の時間を稼ぐために傷病兵、障がい者を中心として結成された部隊が捨て身の戦いを挑む場面は毎シーンとして語り継がれているのだが。
動いたのはディアッカが先だった。もはやにらむ価値もないと判断したのか、ため息とともに吐き捨てた。
「お前たちが守りたいのは死んでいったジャスミンたちの名誉なんかじゃない。あいつらを犬死にさせた国や上層部の無策無能を隠したいだけだ」
「ふざけないでよ!」
医務室から飛び出すサイサリスを、無論、誰も引き留めようとはしなかった。再び通路を歩き出すも、その足はすぐにとまった。かわりに壁を力任せに蹴りつけた。
「どうして誰も認めようとしないのさ! ラクスもアスランも! ゼフィランサスだって! 絶対認めさせてやる。最後に立ってるのはあたしだってこと」
プラントの各州で発生した大規模暴動。それはまさに激動の時間をもたらした。中道派の筆頭であったタッド・エルスマン議員が政治亡命をはかり、保守派であってもデュランダル政権の意向に従わない議員2名が逮捕された。暴動から10日がすぎてようやく開かれたプラント最高評議会は、12名中3名もの欠席を出したまま開催された。
議長こそいても誰もが平等であることを意味する円卓は欠けてしまった。奇しくも3つの空席は一角に集まり、90度の範囲が切り落とされたかのように抜け落ちている。
完全な円は、永遠に失われてしまった。
ここに、最後のプラント最高評議会が始まろうとしていた。
ギルバート・デュランダル議長は、支持者の前でするのと同じようにいっさいの弱点などない。完璧な人間であるかのように振る舞い、開式の合図とした。
「では、議会を始めよう。この度、発生した暴動は、多くの痛ましい犠牲を出してしまった。何よりも悲しいことは、このテーブルに国賊とも言うべき人がついていたことだ。無論、犠牲者のことを忘れるつもりはない。ただ、この事件が単なる悲劇で終わらなかったことは素直に喜びたいと思う」
政敵を排除できたから、と議長は言うまい。プラントに救っていた病巣を切除できた、その痛みなのだとは述べたとはしても。
「では……」
デュランダル議長が議題を述べようとした時だ。1人の議員が立ち上がった。
「議長、お聞きしたいことがあります」
この議員の名前を、デュランダル議長は努めて思い出す必要があった。たしかにこの議員はデュランダル派ではない。かとエルスマン議員を支持することもなく議決では絶えず議長を支持していた。つまりは単なる数あわせ。いてくれなければ困るが、他の誰でも代用がきく、その程度の存在だったからだ。
「この度の評議会では、議長に全権を集中する法案の可決を目指されていると聞き及んでいます。それは事実でしょうか?」
議長はとくに答えず、ただわずかに顎を動かした。それを肯定と受け止めたのだろう。議員は続けた。
「権力の集中は、必ず失敗します。なぜなら、国は歪だからです。かつて民主主義は広場に市民が集まり行われました。しかし、国の規模が大きくなるに連れ、その方法は非現実的なものとなり市民に選ばれた代表が執り行うことになりました」
「代表民主制の講義がしたいのかね?」
「現在の民主主義国家はすべからく少数の代表によって運営されています。仮に権限をすべて与えてしまったらどうなるでしょうか? 国家の規模によって代表者の規模が定められるなら、国は民全体を潤すことは難しくても少数の特権階級を潤沢にするには十分な範囲に必然的に収まります。つまりは国民のことを考えない、一部の富裕層に便宜を図る政治が必然的に成立するのです」
「だが、そんなことをすれば国民が黙っていない。選挙で引きずりおろされるのではないかな?」
ギルバート・デュランダル議長は圧倒的な支持を集めている。たとえ独裁者になったとしても民衆は受け入れる可能性が高いだろう。それでも、議員はひるむことなく続けた。
「かのアドルフ・ヒトラーのナチス・ドイツも、民主主義によって誕生しました。あなたは国民から圧倒的な支持を受けています。それは政権を担う根拠ではあっても独裁体制を敷いてよい理由にはなりません」
「君のすべきことはここで議論するより、市民に教えてあげることではないかな? デュランダグ議長は独裁体制を敷こうとしている、とね」
デュランダル派の議員が6名、あざけるように笑い出した。しかし、とうの議長が笑っていないと見るや、その嘲笑もすぐになりを潜める。
「勘違いしないでもらいたい。たしかに、市民全体に利益をもたらすよりも、特権階級に餌を放った方が政権の維持は容易だろう。しかし、私はそんな悪人ではないよ」
「あなたがそうだとしても、では、あなたの跡を継ぐ者の中で1人として、独裁体制を敷こうとする者が現れないと言えますか?」
今後、プラント最高評議会議地には選挙に関する法さえ変更する権限が与えられる。民主主義とは強固な石壁でもなければ民衆を救う義賊でもない。ひとたび亀裂が入ったなら脆くも崩れ落ち、その破片は人々のうえに降り注ぐことになる。
デュランダル議長は答えず、ただ、円卓に肘を乗せた。
「君は私をヒトラーになぞらえた。するとどうだろう? こんな有名な話を思い出したよ。当時の宗教家は、自らの不作為を嘆いた。ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから」
彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。
「プラントでは障がい者が差別されている。でも、そのことに君は声をあげなかった。君は障がい者ではないからだ。ナチュラルへの迫害だって起きている。しかしそれでも君は声をあげなかった。君はコーディネーターだからだ。小惑星フィンブル落下の時も、君は声をあげなかった。君は地球に暮らしていないからだ。では、私が仮に君から議員の椅子を奪おうとしたとして、君のために声をあげてくれる人が、果たして残っているだろうか?」
奇しくも、議長も議員も今は空席となったタッド・エルスマン議員の椅子を見やった。
「私はエルスマン議員が好きだった。信念を持ち、行動する覚悟だって持っている。何より、明晰なお方だったからだ」
わかっていたのだ、エルスマン議員には。こうなることもギルバート・デュランダルなる男の危険性も。
デュランダルは円卓を離れ、背もたれに体重を預けた。
「では、議決に入ろう。現在、プラントは国難にさらされている。よって、私は評議会の権限を議長に集中する法案を提出したい。なお、プラントの法律では、このように制度に変更を加えるような法案の可決には出席議員の4分の3を超える賛成が必要になる。本来ならば起立をもとめたいところだが、今回は挙手を求めよう」
すでに議員が1人、立ち上がっているからだ。そして、この議員は手を挙げようとはしないことだろう。事実、この議員に加え、もう1人、挙手しなかった議員がいた。やはり、デュランダル派の議員ではないが、いっさいの反対もしてこなかった議員だ。
「9名中7名。めでたく75%を超える賛成をいただいた。やはり私はエルスマン議員を嫌いにはなれない。彼が反対票を投じたなら70%で可決には届かなかったからね」
逮捕された2名の議員のどちらかがいたとしても、いや、この3名が偶然にもこの重要法案の直前に不逮捕特権を停止されなかったなら、この法案は否決されていた。なお、今回、反対票を投じた2名の議員は、議員の不逮捕特権の制限について賛成票を投じていた。
議長は立ち上がる。議長の椅子に、そろそろ飽きてしまったからかもしれない。
「では、最短記録を更新してしまいそうだが、議会はこれで閉会としよう。なお、次回については未定とする」
これを最後に、プラント最高評議会が開かれることはなかった。