世界は目撃しようとしていた。
全世界的に放映されていたギルバート・デュランダル議長の演説をジャックする形で入り込んだのはもう1人のラクス・クラインだった。緑色の髪こそしていても、衣装は意図的に歌姫に寄せたのだろう。2人の少女が同じ顔をしていることは強烈に印象づけられた。
「初めまして、みなさん。私はラクス・クラインではありません。エピメディウム・エコーと申します。Eのヴァーリで、ラクス・クラインの妹です」
人々は戸惑い、解答を求めるかのようにモニターの半分に映し出されるラクスの顔色をうかがおうと視線を流す。しかし、ラクスは何事も起きていないかのように表情を変えることはない。
「戸惑われたことと思います。ラクス・クラインはかつてのプラント最高評議会代表シーゲル・クラインの娘であることを知る人はプラントの内外問わず多いことと思います。でも、こう考えたはずです、妹なんて聞いたことがないと」
エピメディウムと名乗った少女がしばし間をおいたのは、妹なんて聞いたことがあっただろうかと、聴衆に自問させるためだろう。
「妹どころか、姉さえいます。それがヴァーリだからです」
その言葉を合図に、エピメディウムの背後に左右から少女たちが歩みでた。姿格好は様々だ。黒いドレスを身につけた、白い髪、赤い瞳の少女がいる。桃色の髪の少女は2人、1人は先のアルビノの少女と同様のデザインながら白いドレス姿だ。あるいは赤い髪、黒髪、金髪など。
そして、全員が同じ顔を、ラクス・クラインの顔をしていた。エピメディウム含め8人のラクス・クラインが並んでいた。
「私たちはヴァーリ。プラントが次世代型コーディネーターの開発計画で生み出された26人の姉妹たちです。ごらんのように一つの胚をクローニングし別々の遺伝子調整を施すことで顔は同じながら別々の特性を与えられた姉妹なのです。では、どうしてクライン家はラクス・クラインにだけ、ラクス・クラインと名乗ることを許したのだと思いますか?」
モニターには幼少期と思われるヴァーリたちの顔写真が並ぶ。全員が同じ顔をして、しかし髪や瞳の色は9種類に分類された。
「ラクス・クラインと認められるだけの性能を発揮した1人だけを娘と認め、他の25人にクラインの名を名乗ることを許さなかったからです。失敗作として生まれた以上、失敗作の立場に甘んじなければならないのが私たちヴァーリでした。私たちは来年、ようやく20歳を迎えます。でも、すでに10名近くがその命を落としています」
ヴァーリたちにはアルファベットがそれぞれ割り振られ、Gのヴァーリが強調される。それとともに、次々と明度の落とされるアルファベットがあった。死を暗示しているのだろう。
「その中には、私の大切な妹もいました。彼女は失敗作の中ではまだましとされた私を生かすために自ら命を絶ちました。彼女の遺伝子は、生きるに値しない遺伝子だと判定されたからです」
モニターに表示されたのはF。エピメディウムと同じ緑の髪をしている。続いて灰色の髪をしたYが表示された。
この映像の受けとめ方は一般人とそうでない人でも分かれた。エコー、ヤンキー、それぞれ、名前などではなくアルファベットの誤認防止用の言い換えにすぎないと職業柄知っていたからだ。
「ユッカ・ヤンキーも同じです。すぐれた妹を生かすために殺害されその心臓を摘出されました。それでも彼女たちは満足して死んでいったのでしょうか? 遺伝子から判断されたその役割を全うできたはずなのだからと。私の妹、フリージア・フォクスロットは泣いていました。まだ5歳でした。大人用とは言え1人乗りの脱出艇に3人で乗り込まなければならない状況でした。1人減れば残された2人の生還率は確実に高まります。でも、それがフリージアでなければならなかった理由は何でしょうか? 周囲の大人たちが、フリージアにあなたは失敗作だと言い続けてきたことでしょうか?」
おそらく、努めて平静でいたいと考えてはいたのだろう。しかし、エピメディウムの声の変調は誰の目にも明らかだった。やや早口に、辛い出来事からは早く遠ざかりたいと願っているかのように。
「レーベンズボルン・プラン。これは、ギルバート・デュランダル議長が立案したものではありません。私たちヴァーリこそがその先駆けなのです」
ついでエピメディウムの背景に映し出されたのは王冠を戴く王を描いた西洋絵画だ。
「人権の歴史は、王権簒奪の歴史と言っても過言ではありません。かつて王が神から賜った権利を独占していました。しかし西暦1215年、マグナカルタでは貴族たちが、1789年フランス人権宣言では富裕層が、1915年ワイマール憲法では労働者が権利を獲得し、その度に、王の権限は切り取られていきました。では、王様は小さく小さく消えてしまったのでしょうか? 考えてもみてください。そもそも、コーディネーターとは何なのか? 遺伝子を調整された人のことです。では、どこの誰が始めたことなのか? みなさんの中の誰1人として理解していないことでしょう。ファースト・コーディネーター、ジョージ・グレンの突然の告白が世界を変えました。でも、彼はコーディネーターを創ることはできません」
歴史の中に埋没した、本来であれば誰もが知りたかったはずの事実。それが明らかにされようとしていることへの期待と不安。それはモニターを通じて確実に世界中へと浸透しているようだった。
「あなた方はどうしてコーディネーターが創られたのか、その目的さえ知らないのです」
ジョージ・グレンは新しい世界への調整役だと発言したことがあった。では、新しい世界とは。最初のコーディネーターは何も語ってはいない。
「もう一つ謎かけをしましょう。王にふさわしい遺伝子の持ち主が10人いたとしたらどうしますか? 反対に、奴隷になるべき遺伝子の持ち主が1000人必要なのに800人しか集まらなかったとしたら? レーベンズボルン・プランは必然的に、遺伝子の管理と操作を必要とするのです。王は1人でよく、王の遺伝子を備える者は2人いらないのです。そして王の遺伝子を特定の一族で独占することができたとしたらどうでしょう?」
人のもつ遺伝子は社会に都合のいい割合で存在しているのだろうか。もしも違うなら、奴隷となるべく200人分、奴隷の遺伝子を持つ存在を作り出す必要がある。9人の王を排除しなければならない。そして、王の遺伝子を独占する一族は、さて、王族とでも呼ばれるのだろうか。
「そう、代々王となるべき、王の一族が誕生するのです。王の権利を神様に頼ったりなんてしません。王権遺伝子授説とでも名付けましょうか? そして、プラントは私たちヴァーリや、もう一つの新型コーディネーターであるドミナントの研究から王の遺伝子の探求を終えています」
レーベンズボルン・プランはプラント主導で進められることになるだろう。そして、王の遺伝子がプラントの手中にあるとしたら。
点と点は、少しずつ線で結びつけられようとしていた。
「そう、コーディネーターという存在は、王政復古のために壮大な前振りにすぎないのです」
すべては王の遺伝子をその手に納めるために。では、誰が王の遺伝子を望んだのか。
「かつて王位を追われた王の一族、それは雌伏の時を耐え抜きました。いつかまた玉座を独占する日を夢見て。クライン家、ザラ家、そしてデュランダル家の三家を中心として結成された秘密結社の名前はロゴス。このロゴスこそがコーディネーターの生みの親です」
ジョージ・グレンの告白を直接耳にした人々は、当時と同じ衝撃に見舞われたことだろう。
「コーディネーターという存在は世界を大きく突き動かしました。そして、それ自体が王の遺伝子を独占するための鍵でした。この戦争の本質は人類の未来を賭けた戦いでもなければ、差別と無理解による争いでもありません。ロゴスが民主主義を破壊するための楔を打ち込むだけの隙間を作り出すためだけの戦いだったのです」
ギルバート・デュランダル議長は戦争に疲弊した世界へ向けて停戦を呼びかけ、そのための手段としてレーベンズボルン・プランを提案した。
「今年、コズミックイ・イラ75年は、西暦に換算すると2215年になります。始まりであるマグナカルタから数えてちょうど1000年目です。そう、レーベンズボルン・プランとはロゴス1000年の夢なのです」
ヴァーリ告白。それは世界に反響し、一晩を経た今であっても余韻は落ち着いていない。それどこか、徐々に高まりさえ見せていた。その理由は様々だ。たとえば、収まらぬ怒りだとか。
プラントの一室に、床にたたきつけられ砕け散るキーボードの音が響いた。すぐそばにはPのヴァーリ、サイサリス・パパの姿がある。推測通り、器物破損の犯人である。
「これは明らかにお父様への反逆だよ! ヴァーリどころかロゴスのことまで暴露するなんて!」
すぐ後ろには倒れた椅子。作業に集中するつもりが激昂したのだろう。思わず立ち上がり、感情のまま行動した結果がこれだ。
だが、ヴァーリはこの告白の意味を誰よりも理解する姉妹たちだ。ソファーで暇をつぶしていたミルラ・マイクは珍しく神妙な面もちをしていた。手持ちぶたさに点けたモニターには、何度も繰り返しエピメディウムを中心とした8人のヴァーリの姿があった。
「私は呼んでもらえなかったな。ラクスについたのは間違いだったか?」
せっかくのテレビに出る機会を逃してしまった。そう仰々しく嘆くミルラの襟元は、怒りに瞳をふるわせるサイサリスの手によって力強く握りしめられた。降参だ、そうとでも言いたげに両手を開いてみせるミルラに、サイサリスは徹底抗戦の意志を認めた。
それも、至高の娘がいつものようにどこからともなく姿を見せるまでの話だ。
「いつでも移動されて結構ですよ。ただし、退職金は出しませんけれど」
「く、定年まで勤め上げるのが先か!?」
サイサリスはミルラをソファーへ突き飛ばすように襟元から手を離した。
「ラクスもラクスだよ! 状況、わかってる!?」
「地球はおろか、プラント内でも悪い動揺が広がっているようです。その点では、全権委任法がすでに成立していたことは幸いでした」
プラント国内はなんとでもなる。
「青写真に変更はあるのか?」
「必要とは思いません。プラントの論理はいつだって明白です。私たちはただ、神の来訪を待てばいいのです」
エイプリルフール・クライシスで10億の民をそうしたように、ジェネシスが地球の命を平等に扱ったように。そして、どこからともなくやってきたフィンブルの地球落下を認めたように。
ただ廊下を歩く、それだけのことに、カガリ・ユラ・アスハとエピメディウム・エコーは苦労させられていた。少しでも視界の通る場所にでるとレコーダーを突き出したジャーナリストたちが2人を追いかけ始めるからだ。
「ジャーナリストというのはどこからともなく自然発生するのか?」
少なくとも、昨日まではここまで多いとは感じていなかった。一言お話を、異口同音にそう繰り返すジャーナリストたちに追われながら2人は自然と早足になっていた。
「熱心でいいと思うよ。ちょっと、苛烈だけど」
追いつかれつつあると感じた2人はさらに足を早めた。しかし、正面からもジャーナリストの壁が迫りつつあった。まもなく、2人は取り囲まれてしまう。
ヴァーリとは何か、報道内容は真実なのか、他にヴァーリに該当する人物はいるのか、レーベンズボルン・プランとは、プラントの動向、ドミナントというわずかに語られた存在、いくつもの質問が記者ごとにばらばらに投げかけられるのだ。とても対応できるものではない。
しかし、ジャーナリストたちもV.I.Pを逃がすつもりはないらしい。カガリはどこか血走った目をした記者たちを見回し、覚悟を決める一瞬前に見知った顔を見つけた。
「ナタル・バジルールじゃないか!? ジャーナリストに転向したとは聞いていたが、お前がヴァーリについて尋ねることなどあるのか?」
そう、アーク・エンジェルのかつての艦長、ナタルが完全に記者の壁になじんでいたのである。
「ヴァーリそのものではありません。なぜこのタイミングで、いえ、なぜ公表そのものに踏み切ったのかについて聞きたいのです」
「プラントから脱走同然で帰ってきたばかりじゃないのか?」
そのやりとりは、重要人物と顔見知りの記者の他愛ないやりとりにも見えたことだろう。記者の中に1人の事情通が見いだされるまでは。誰かが言ったのだ。
「ナタル・バジルールって、あのアーク・エンジェルの艦長の……?」
アーク・エンジェル。かつてあのガンダムを最初に運用した軍艦の名は、子どもでも知っていることだった。
人は心に矢印を持っている。それは確かなことだ。この言葉を聞いた記者たちの矢印が驚くほど一致したタイミングでナタルへと集中したことが誰の目にも明らかだったからだ。
「よし、今のうちだ!」
意図せず身代わりを差し出した形となった。記者たちはナタルを取り囲み、その隙にカガリたちは脱出に成功したのだ。
ジャーナリストと言っても様々だ。誰もが大手と認める新聞社では、泥臭くかけずり回ったりなどしない。一室にインタビュールームを設定し対談の形式を整えていた。車いすの男性、ブルーノ・アズラエルの向かい側に、スーツ姿の記者の姿があった。レコーダーどころか、メモさえ携えていない。のりの利いたスーツ姿はまさに会談を思わせた。
かつてラウ・ル・クルーゼを名乗ったアズラエル家の男は、意図して戸惑っている風を装っていた。
「しかし私はオブザーバーにすぎない。お門違いではないのかね?」
「我々はすでに次の段階に移っています。ヴァーリに続くもう一つの次世代型コーディネーター、ドミナント。あなたはその、試作されたお1人だったとか?」
「公表からまだ半日も経っていない。よくそこまで調べがついたものだ」
「人の口に戸は立てられません。関わった技術者が今回の一件で一斉に口を開きました。もはや洪水です」
昨夜は徹夜で駆けずり回ったのだろう。よく見ると記者は目元のくまをメイクでうまく隠している。
「なるほど、君たちも馬鹿ではなかったようだ。目星はつけていたということか」
「あなたが初期のドミナントであることはもちろん驚かされました。他にも、あなたにとって、技術的な弟であり、引き取った義妹の夫でもあるという点で二重の意味で弟であるキラ・ヤマト氏もまた、ドミナントだったとは。彼は知る人ぞ知るエース・パイロットです。そのクラスの名前が調べれば調べるだけ出てくる。わかりますか? この興奮が!?」
たしかに普段はややエリート意識が鼻につくと揶揄されることも多いこの記者にしては取り繕い切れていない。
「そしてドミナントであるあなたがコーディネーターの排斥運動を……」
「私はコーディネーター技術の即時停止を要求しているにすぎない」
「失礼。ですが、ヴァーリ、そしてドミナントの研究が行われていたのはかのユニウス・セブンです。これを単なる偶然と片づけるつもりはありません。お話ください、ミスター・ブルーノ! C.E.61年2月14日、いったい何があったのですか?」
会見に出席したヴァーリの多くは、中庭に集まっていた。噴水があるようなちょっとした憩いの場で、花の少女たちがゆったりとした時間を過ごせているのは警護がガードを固めているからだ。
中庭への入り口に、シン・アスカは同僚になったシャムス・コーザとともに立っていた。新聞記者らしき人物たちが時折、視線を投げつけてはシンたちを忌々しく見つめていた。もっとも、シンにしてみれば初めての要人警護ということもあってか、まるでアイドルの控え室に押し寄せるファンを押しとどめている気分でさえあった。事実、シャムスはつい先ほどまで浮かれた様子だった。しかし、急に真面目な顔つきになったのは何のことはなかった。上官であるキラ・ヤマトが廊下の向こうに見えたからだ。
シンが思わず敬礼すると、わき腹をシャムスに軽く小突かれた。
「敬礼がザフト式になってんぞ」
急いで手首の角度を変えたところで、キラは1人の女性をともなって現れた。
「シン君、この人は関係者だから通していい。ヒメノカリスのところにまで連れて行ってくれないか?」
「わかりました」
眼鏡が印象的な知的な女性で、スーツ姿も相まっていかにも秘書を思わせた。まだ新人であることが不安なのか、シンに対する妙に品定めするような視線を浴びながら、シンは中庭の中を誘導することになった。
中にはではいろいろな意味で花々が咲き乱れていた。実際の花はもちろん、ヴァーリたちの名前の意味を、シンも聞かされたからだ。
3人のヴァーリが座っているテーブルの脇をシンと秘書の女性は通り過ぎようとした。
スーツ姿のヴァーリは、大げさな様子で嘆いていた。
「外を歩いてたのに誰にも呼び止められなかったんだけど」
たしかに、顔は同じなのに他のヴァーリに比べて不思議と地味な印象を受ける。スーツ姿がどこか背伸びしたアンバランスさを周囲に与えるためだろうか。
「いいじゃない、ロベリア。そんなに存在感消せるの、ある種の才能よ」
「ニーレンベルギア姉さん、それって、誉めてないよね?」
もっとも、ニーレンベルギアと呼ばれたヴァーリも、会見用に着飾った衣服の上に白衣を羽織るというアンバランスさでは同じだったが。
さして広くもない中庭だ。目的の噴水まではすぐにたどり着いた。
そこには、現実と思えない、というよりは幻想的な光景が広がっていた。
噴水の縁に、2人の少女が腰掛けている。1人は、白い髪に赤い瞳、漆黒のドレスを身につけていた。もう1人は、桃色の髪に青い瞳、ドレスの色は純白だ。コントラストが美しい。妖精王の娘が水浴びのために人間界に舞い降りた、そう言われても思わず信じてしまいそうな光景なのだから。
「わからない。エピメディウムはダムゼルで、シーゲル・クラインのことを崇拝していた。それが洗脳だとしても。どうしてプラントに不利なことをするの?」
「今のプラントにシーゲル・クラインはもういないから。ニーレンベルギアお姉様が言っていたけど、エピメディウムお姉様はラクスお姉様がお父様を独占していると不満を漏らしてた」
「それが、命まで狙われた理由?」
「でも、本当にラクスお姉様はエピメディウムお姉様を排除しようとしたのかな?」
「らしくない? でも、ラクスはお父様のお人形。お父様の望みならば何でもする、でしょ?」
「そっちじゃなくて、ラクスお姉様にはエピメディウムお姉様を排除する機会があった。なのに、失敗したでしょ?」
「完璧な人間なんていない。いるとしたらそれはお父様であって、ガーベラ姉さんじゃない」
ガーベラという名前が、ラクス・クラインのヴァーリとしての名前だとシンは後で聞かされることになる。そしてヒメノカリスが、ラクス・クラインと同じ部署の出身で、他のヴァーリ以上に関係が深い間柄だということもだ。
ゼフィランサス・ズールは、今は子どもを連れてはいなかった。
「私たちは世界で一番特殊で異常な姉妹だと思う。姉妹の情なんて言葉があまりに多義的になってしまうほどに。それでも、至高の娘が計画の邪魔になる存在に手心を加えたとは思えないの」
「それはきっと……」
ヒメノカリスの言葉がとぎれたのは、シンが連れてきた女性のハイヒールの音に気づいたからであることに間違いなかった。
「ヒメノカリス、よく、無事でいてくれました」
しかし、そんな女性の言葉とは裏腹に、ヒメノカリスは不快感を隠そうとしない。
「お父様はあなたといつも一緒で、ハイヒールの音がするとお父様が来てくれた」
「エインセルはもういません」
「そんなことわかってる!」
「悲しいのは私も同じです。だから私は少しでもあなたの支えになれればと」
女性がのばした手を、ヒメノカリスは払いのけた。
「私はあなたの母親です!」
「お父様の妻ってだけ! 私には、お父様しかいなかった!」
キラが案内役にシャムスではなくシンを指名したのは、きっとこれを見せたかったからなのだろう。自分が手に掛けた男性の妻、その名前がメリオル・ピスティスだと知ったのも、やはり後になってからのことだ。
「あんたの気持ちがわかる。悲しみの埋め合わせをするために私を利用したいだけ! 母親として残された娘を慈しむことで!」
ドレスを振り乱して激昂するヒメノカリスの姿を見たのは、これが初めてのことだった。長い付き合いとはいえない。しかし、シンにとってのヒメノカリスはどこか周囲に無関心な少女だと考えていたから。
「それなら、私はどうすればいいの? お父様は私に何も残してはくだされなかった。私にはお父様のためにできることも、するべきことも、復讐だってきっと許されてない!」
ヒメノカリスが突然、飛び出した時、シンは思わずメリオルとの間に割って入ろうとした。しかし、白薔薇の少女の目標は最初からシンだった。引き倒される形で床に叩きつけられると、最初に感じたのは冷たい水の感触だった。出血ではない。どうやら噴水にたたき落とされたようだ。
ずぶぬれになったシンに、同じく水に濡れたヒメノカリスは馬乗りになっていた。
「どうして! あなたは母親の復讐を果たしたくせに、私はどうして許されないの!?」
ヒメノカリスの瞳が濡れている責任を、噴水に押しつけることはできない。その白い指先は絞め殺さんばかりにシンの首にかかっていたが、胸の息苦しさの原因もそんな直接的なものではないのだろう。
周囲ではメリオルの他、ヴァーリたちも不安げな表情で2人の様子を見つめていた。
シンは、不思議と落ち着いていた。
「俺は、たぶん、復讐について人一倍考えてたと思う。俺にとって、母さんは本当に復讐を捧げる相手なのかって疑問に思ってたから。だから復讐って、本能の誤作動なんだと思うんだ」
噴水につかっていた頭を持ち上げるように上体を少し起こしても、ヒメノカリスは特に抵抗することはなかった。
「感情は人が群で生活するために発達した、そんな学説があるみたいなんだ。だったら、悲しみとか、仲間を奪われたことに対する復讐心もやっぱり群を守るためなんだと思う」
そんなシンの言葉を、ヒメノカリスは涙を拭いもせずに聞いていた。
「復讐なんて本当は割に合わないんだ。だって、果たせたところで奪われたものは帰ってこない。それでも人は復讐心を発達させてきたんだ。それはきっと、復讐相手を大切な仲間を奪った相手っていうより、一度仲間を奪った相手だから次もまた仲間を奪う可能性が高い相手と認識してるんだと思う。だから復讐って、予防なんじゃいかな? これ以上、仲間を奪わせないための」
本能が命じた危険性の排除を、人が勘違いして奪われたもののために戦うのだと指摘に取り繕った。それが復讐なのだとしたら。
「だから復讐が意義をもつのって相手がまだ危険な敵である場合に限られるってことなんだと思う」
「お父様があなたからこれ以上、何を奪うって言うの?」
ヒメノカリスの腕に力が強まったが、シンを再び噴水に沈めるほどではなかった。
「あの人と戦ってる中で俺は母さんが大切な人だったんだって気づかされたんだ。でも、不思議なんだけど、復讐したいって気持ちがまるで起きなかったんだ。ただ、ユグドラシルを止めなきゃいけない、止めないといけないんだって気持ちだけで、俺は剣を握った」
「お父様が本気でプラント市民を焼くつもりだったと思ってるの? それなら最初からヴェサリウス市を狙ってる!」
「エインセルさんに自分の全力をぶつけた時、なんとなくわかったんだ。この人は自分が嫌いなんだって。俺もそうだったから。母さんは俺のために命までかけてくれた。でも、そんな母さんを、俺は疑ったんだ。そのことに気づいた時、なんだか惨めな気持ちになってもっと早く母さんの気持ちに気づけてればこんなことしなかった、したくなかったって。エインセルさんと戦ってわかったのはそんなことなんだ。実際、あの人がプラントを滅ぼす気がないってことは、最後になってようやくわかったよ。邪魔者でしかない俺に、いっさい、怒りや苛立ちをぶつけてなんてこなかったから」
ただ理不尽に命を奪われる人をなくすための戦いたい。そんながむしゃらな思いが剣となってエインセル・ハンターに届いた時のことだ。
「あの人も、俺と同じで後悔してた。仕方ないことだって自分に言い訳して、でも、やり直せるならやり直したいって気持ちでいっぱいで」
母を疑い、その苛立ちのまま戦いに身を投じたのがシンなら、エインセル・ハンターはどのような怒りを抱えたまま、後悔を積み重ねていったのだろう。
「あの人と俺って重なるところが多いんだ。だからあの人との最後の瞬間にそれがわかって、俺は、泣いたんだ。水銀燈にも言われたよ。仇を討てて流す類の涙じゃないって。でも、辛かったんだ。あの人はある意味で人生の目標で、母さんの仇で、それでも、一番、俺のことを理解してくれた人だった気がして。いろんなものをいっぺんになくした気がしたんだ」
もしもエインセル・ハンターに出会えなかったとしたら、シンは今でも母の愛を疑い、戦争に苛立ちをぶつけているだけだったかもしれない。
「ヒメノカリスは言っただろ? エインセルさんは何も残してくれなかったって。あの人は、自分の死がこの世界には必要だと考えてた。でも、君に復讐なんて残したくなかったんじゃないかな? きっと君はそれにすべてを捧げてしまうから。それは願いというより呪いになってしまう。エインセルさんは君に君でいてほしかったんだと思う」
いつしか、ヒメノカリスの瞳から怒りが静かに薄れていた。
「だから俺は君のためにも、これ以上、誰かから奪うことなんてしたくない、復讐するに値しない相手でいたいと思うんだ。それが、エインセルさんのためにもなると思うから」
そして残されたのは悲しみだけなのだろう。
「私にはお父様しかいなかった。お父様のいない世界なんてきっと耐えられない」
「君はきっと頑張れる。そう、俺もエインセルさんだって考えてると思う。そうじゃなきゃ、エインセルさんが君を残してなんていけないから」
エインセル・ハンターの死後、ヒメノカリスはシンを前にしてもむき出しの感情をぶつけてくることはなかった。だが、今はこうして押し寄せる感情を押さえきれないまま声を出して泣き出した。父の仇であるはずのシンの胸に顔を埋めて。
夫を奪われた妻は眼鏡を外し、目頭を抑えている。その向こう側では、泣きじゃくる娘に抱きつかれ戸惑う少年が2人して噴水の中にいた。
騒ぎを聞きつけたキラが見た光景がこれだ。
ゼフィランサスがすぐに歩み寄ってくると、2人は静かに立ち去ろうとする。ここには、誰であっても立ち入ってはいけない気がしたから。
「どうなるとか思ったけど、ようやく、どうしてエインセル兄さんがシン君を後継者に選んだのか、わかった気がしたよ」
中庭を歩くキラはすぐ隣のゼフィランサスの顔が、自分に対してあからさまな疑いのまなざしを向けていることに気づいた。
「やっぱりキラは何もわかってない」
「え? どういうことだい?」
「いい? エインセルお兄様は、シン君を自分の後に続かない人だって思ったから水銀燈を託したの。エインセルお兄様はご自身のことが嫌いだった。愛してくれないお父上を手に掛けて、戦争の中、たくさんの人の命を奪ってしまったでしょ。だからいつも考えてたんだと思うの。もしも父が愛してくれていたなら、違った可能性があるんじゃないかって」
「シン君が、お母さんの愛に気づいたようにかい?」
母に愛されていないことを疑い、戦争に加わった少年がいた。
父に愛されていない確信から、戦争を選んでしまった男がいた。
両者の違いはほんの一つにすぎなかったのかもしれない。愛、それだけだ。
「お父様に愛されなかった自分を否定して、お母様に愛されていたシン君に自分とは違った未来を、エインセルお兄様は望んだの」
後継者にならないことを希望しての後継指名。そんな奇妙な出来事を、キラはようやく受け入れた様子だった。
しかし、それは少々、のんびりとしすぎたのかもしれない。事態は、すでに動き出していたからだ。
慌てた様子で、カガリが駆け込んできたのだ。
「地球に核が落ちた!」