もしもギアスの無い世界だったら、という仮定の下で、アニメI期開始時点より始まる再構成です。
にじファンよりの移転です。
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「参ったな……」
アッシュフォード学園生徒会の副会長、ルルーシュ・ランペルージは、紫の瞳に明らかな困惑を浮かべ、窓の外を目まぐるしく流れていく景色を見送った。
整った容貌と、年齢にしては少々華奢な肢体を学生服に包んだ彼は、現在、旧日本の地下鉄を爆走中である。正しくは、彼の乗り込んだコンテナが、彼の意思とはお構い無しにひた走っている。先ほど、新宿三丁目という駅の標識が通り過ぎていくのが見えたから、ここは既に、神聖ブリタニア帝国、エリア11の中でも治安の悪い、日本人――イレブンたちの居住区である新宿ゲットーの内部だろう。ブリタニアの学生には無縁の場所である。
本来なら今頃、学園で午後の授業を受けていた筈だったのに、どうしてこんなことになったのか――事の発端は、昼休みに生徒会のリヴァルと行った、チェスの代打ちからの帰り道だ。後ろから猛スピードでやってきたトレーラーが、二人の乗ったバイクを避け損ねて、道路の脇に衝突してしまったのだった。
誰も中の人間を救助しようとしないのに業を煮やして、トレーラーのコンテナに乗り込んだ、までは良かったのだが……トレーラーは、再び走り出し、現在に至っている。おそらく運転者はルルーシュが乗っていることを知らないし、ルルーシュも敢えて知らせるつもりはなかった。
なぜなら相手は、おそらくテロリストだからである。
走り出して間もなく、拡声器でテロリストに対し投降を呼びかける声が聞こえてきた。線路に入り込む直前には、運転席から出てきた赤毛の気の強そうな女が、ルルーシュに気づくこともなく、積み込まれていた人型兵器、ナイトメアフレームに乗って外に飛び出していった。
トレーラーの中には、大人一人よりもなお一回り以上も大きい装置のようなものが残っている。脱出に使えるような代物には見えないし、そもそもテロリストのトレーラーに載っているものが、まともなものである筈がない。勝手にいじって、もしも毒ガスが噴出してきたらどうする。
さてどうするか、と頭の中で状況を整理して、打開策を練っていた時のことだった。突然の衝撃がトレーラーを襲った。碌に受身も取れずにコンテナの壁に叩きつけられ、内蔵を圧迫されて、喉から呻き声が洩れる。
どうにかルルーシュが立ち直ったときには、トレーラーは既に停止していた。衝撃で開いてしまったコンテナの側壁から、よろめきつつ足を踏み出すと、瞬間、風を切る音が耳に響いた。
横合いから躍りかかってきた人物の蹴りを咄嗟にガードできたのは、ルルーシュの運動神経からすれば、奇跡に近い。だが、鍛えていない体は、コンテナの奥の壁に向かってたやすく吹き飛んだ。
「これ以上、殺すな!」
人影が、何事か叫びながらさらに追い打ちをかけてくるのを、ルルーシュは必死に防いだ。飛んでくる拳を、手を交差させて防ぐ。そこで、ルルーシュは、相手がマスクをつけた重装備の歩兵だと気づいた。時折メディアで紹介されているブリタニア軍の兵士そのものだ。どうやら自分はテロリストと思われているらしい。冗談ではない。
気迫を込めてマスクに覆われた相手の顔を睨み付けると、相手の身体は僅かに揺れた。やがて、その腕から力が抜けて、拳を引くのを、ルルーシュは油断なく見守った。
「ルルーシュ。ルルーシュだよね」
思いがけなく歩兵に名前を呼ばれて、目を見開く。ルルーシュには、ブリタニア軍の兵士に、親しげに名前を呼ばれるような知り合いはいない。
「僕だよ。スザクだ」
兵士は、躊躇いもなくマスクを取って素顔を晒した。ルルーシュに向かって、屈託なく微笑む。
「スザク……!? スザクなのか!」
マスクの下から現れた、茶色がかった髪、穏やかな黒い瞳、人の良さそうな顔は、確かにルルーシュの過去の記憶を刺激した。自分と同年代の少年兵士は紛れもなく、七年前、ブリタニアが日本を占領した際に別れたきりの、幼馴染みだった。……かつてルルーシュが、幼い日にブリタニアへの復讐の誓いを告げた、ただ一人の相手だ。
「そうだよ、僕だ」
「お前、ブリタニア軍の兵士になったのか……」
ルルーシュは、複雑な思いで呟いた。日本人――イレブン。母国を占領され、日本人という名前を取り上げられた彼こそ、何よりブリタニアを憎んでいてもおかしくないというのに。まして、占領当時、ルルーシュ以上に彼の立場は微妙だった。
「うん、名誉ブリタニア人になったんだ。ルルーシュ、君は……? こんなところにいるなんて、まさか」
「馬鹿、そんな訳ないだろ」
眉をひそめる幼馴染みに、ルルーシュは慌てて否定した。
「俺は、巻き込まれただけだ」
すると、スザクはほっとしたように微笑んだ。
「良かった。君にまた会えて嬉しいよ、ルルーシュ」
純粋に七年ぶりの再会を喜んでいる様子の相手につられて、ルルーシュも微笑む。
「ああ。俺もお前が無事で嬉しい」
「でも、どうしてここに?」
「それが……」
ルルーシュが言いかけたところで、トレーラーの横合いから、眩しい光が辺りを照らし出した。コンテナの開いた部分に立っていたルルーシュは、避けようもなく、姿を露わにされる。
「よくやった、柩木一等兵」
皮肉下な声が地下鉄構内に響き渡った。眩しさを堪えて見れば、ブリタニアの兵士たちが、トレーラーの外に銃を構えて立っている。一団を率いているのは、先頭に立った片頬に大きな傷の走った男だ。服にいくつもの階級章をつけていることから、かなり地位の高い士官であることが分かる。
名前を呼ばれた少年兵士が、そちらに向き直り、姿勢を正して敬礼する。
「はっ、目標を発見し、巻き込まれた民間人を保護致しました」
「民間人?」
スザクの報告を聞くと、男は、舐めるようにルルーシュの頭の上から爪先までを検分し、鼻を鳴らした。
「ブリタニアの学生か。柩木一等兵、こちらへ」
素直に目の前までやってきたスザクに、男は拳銃を差し出した。
「貴官の功績を認めよう。ただし、目撃者は必要ない。許可する。撃ち殺せ」
スザクとルルーシュは同時に息を呑んだ。
「彼は一般人です」
「テロリストだ」
抗議の声に、男は温かみというものを一切感じさせない声で言い放った。スザクは反論の言葉を探して、やがて首を振った。
「一般人を撃つなど、自分には」
「馬鹿かお前は」
皆まで言わせず、ルルーシュは後ろから口を挟んだ。
スザクがぎょっとして振り向く。士官の男はやや意外そうにルルーシュに視線を寄越した。
「この場での軍命無視に何の意味がある。お前がやらなければ、そこにいる兵士どもが俺の身体を蜂の巣にするだけだ。……どうせ俺が死ぬのは同じなら、せめてお前がやれ」
「ルルーシュ!?」
驚愕の声を上げる相手に、ルルーシュは、目配せとともに、僅かに唇を動かして見せる。スザクは目を見開いた。
「ほお、潔い覚悟だな。柩木一等兵、貴官も見習ったらどうだ」
さすがブリタニア人だ、と男はルルーシュをテロリストと断じたその口で、今度は名誉ブリタニア人であるスザクを貶める。
幼馴染が拳を握りしめるのが、ルルーシュには見えた。数瞬の逡巡の後、男の差し出す拳銃を取ると、振り向いて、のろのろとルルーシュに銃口を向ける。逆光に照らし出されたのは、今にも泣き出しそうな顔だった。
「さっさとやれ。苦しむのはごめんだ」
無様に逃げ出したところで意味はない。これだけの人数に囲まれていれば、あっという間に蜂の巣だ。だから、ルルーシュは目を瞑ってその時が来るのを待った。
「ごめん……」
悲痛な声と共に、一発の銃声が、辺りに響いた。
* * *
兵士たちがコンテナに載っていた謎の物体を運んで去ってしまうと、後に残されたものは、無残に破壊されたコンテナと、運転席で息絶えたテロリスト、そして血溜まりの中、コンテナの側に打ち捨てられたように倒れ伏す少年だけだった。
しかし、命あるものが完全に失われ、その場に静寂が戻ったかのように見えた瞬間、少年はむくりと起き上がった。
途端、腹部を貫いた痛みと、流れ出ていく血――命の気配に、ルルーシュは顔を歪めた。
弾が急所を外れているのかは怪しい限りだが、あの状況で、即死を免れているのだから、スザクに感謝する他ない。「急所を外せ」というルルーシュの唇の動きを、彼は正確に読み取ってくれたようだ。
幼馴染みが軍務より自分を優先してくれたのは、思いがけない僥倖だったが、急いで止血をしなければ、その幸運がたちまちのうちにルルーシュの元から駆け去ってしまうことは確実だ。既に、胸と背中は自らの流した血でべっとりと濡れている。
去り際にスザクが足先でルルーシュの身体の下に押し込んでくれたものを手に取って、ルルーシュは苦笑した。軍用の救急医療用キットだ。
七年前のルルーシュは、一人では何一つ満足にこなせない子供だった。その頃しか知らないスザクから見れば、ありあわせの物で傷の手当てなどできるわけがないと思ったのかもしれない。その判断に感謝する反面、悔しくもあった。その判断が正しいからこそ尚更だ。
中に入っていた止血帯で撃たれた箇所を巻き、ついでに痛み止めを自分の体に打つ。
一大作業をこなし終えて、ルルーシュは息を吐いて横たわった。遠くに爆音が聞こえる。おそらくテロリストとの戦いがまだ続いているのだ。それが終わるまで、下手な動きをするのは危険だ。
スザクに撃たれたことに、悔いはない。あの瞬間、助かるための算段をいくつも考えたが、一番助かる可能性が高いのはこの方法だった。……悔いがあるとすれば、余計なプライドなぞを発揮して、事故車の救助になど向かった自分の甘さだ。たとえ事故が自分たちのせいだろうが、見ないふりで、学園に戻るべきだったのだ。
無様だ。自分が無力であることくらい、十分に承知していたつもりだったのに。
(守るべきものをおいて、こんなところで、俺は死ぬのか)
脳裏をよぎるのは、盲目の上に、自力では歩くこともできない妹の姿だった。七年前から、二人で支え合うように生きてきた。自分がいなくなったら、妹は――ナナリーはどうなる。
携帯電話をポケットから取り出す。時間は午後二時を指している。幸いにも、地下とはいえかつての駅の近くなのだろう、電波は辛うじてつながっていた。登録された番号の一つを呼び出して電話をかけると、場に不釣合い極まりない、明るい声の留守番電話が流れ出す。
「は~い、あなたのミレイ・アッシュフォードはただいま授業中のため電話にでられませ~ん! ご用の方は、ブザーのあとにご用件をどうぞぉ!」
ルルーシュは、一拍おいて話し出した。努めて平静な声を装うが、成功したとはお世辞にも言いがたい。
「会長、ルルーシュです。少し、ドジをやってしまって動けませんので、迎えを寄越してもらえませんか。位置を送ります。おそらく近辺は、軍に封鎖されていますから、封鎖が解け次第、人目につかないように回収してもらえるとありがたいです。それから……ナナリーのこと、よろしくお願いします」
最後に迷って一言を付け足し、ルルーシュは通話を切った。携帯電話を持つ手を下ろし、目を瞑る。出血のせいか、それとも痛み止めのせいか、ひどく眠い。
果たして、封鎖が解けるのと、命が尽きるのと、どちらが先か。ルルーシュの体力から言って、助かるかは五分五分か、それよりももう少し低いだろうか。だが、自分は、こんなところで死ぬわけにはいかない。
「俺は……俺は、生きるんだ……」
瞼の裏に浮かぶ愛しい妹の姿に呟いたのを最後に、ルルーシュの意識は闇に落ちていった。
* * *
重苦しい気持ちで軍本部に戻ったスザクを待っていたのは、眼鏡をかけた銀髪、白衣の青年と、肩で黒髪を切りそろえた女性士官だった。
いかにも科学者然とした雰囲気を漂わせた青年は、スザクの姿を視界に認めると、瞳を輝かせて歩み寄る。一歩遅れて、困ったような顔の女性仕官が続いた。
「君が~枢木スザク君?」
軍には不似合いな間延びした声で、青年が聞く。スザクが肯定すると、青年の瞳がきらりと輝いた。
「君、ナイトメアフレームの騎乗経験は~?」
唐突な質問に、スザクは戸惑いを隠さずに答えた。
「自分は名誉ブリタニア人で、騎士にはなれません」
軍内では、ブリタニア人と、ナンバーズ出身である名誉ブリタニア人の扱いは、一線を画している。名誉ブリタニア人には、普通の武器の携帯すら許可されない。軍内でのエリート――ナイトメアフレームの操縦者になるなど望むべくもないことだ。だから、スザクの答えは、軍の常識から言えば、聞くまでもない。
「お~め~で~と~う! 世界でたった一台のナイトメアフレームがあるんだよ」
くるくると指先で何かのキーを引っ掛けて回し、にこにこと言う青年を、スザクは、呆気にとられて見つめた。
青年はロイド、女性はセシルと名乗った。特別派遣嚮導技術部という、第二皇子の元でナイトメアフレームの研究開発を行っている部隊だという。
「盗まれた物は取り返したので、まもなく作戦は終了するのではないのですか?」
途端、遠くで轟いた爆音に、スザクは眉を曇らせた。テロリストがまだ頑張ってはいるようだが、此彼の戦力差からいって、鎮圧されるのは時間の問題だ。
「それが……」
しかし、スザクの当然の疑問に、セシルは困った顔で言い淀んだ。
「間抜けにも、輸送中のナイトメアフレームを、テロリストに奪われちゃったらしくて、ちょっと長引きそうなんだよね~」
声を潜めることすらせず、代わりに答えたのはロイドだ。他の部隊に対する遠慮とか配慮といったものは彼の頭には無いらしい。
スザクはその答えに、表情を強張らせた。戦闘が終了し、この一帯の封鎖が解けなければ、先ほど自分が撃った友人の脱出は難しい。彼が撃てと言ったからには、勝算があってのことだろうとは思う。だが、急所を外したとはいえ、一秒鎮圧が長引くごとに、ルルーシュの生存率は下がっていくはずだ。――今、この瞬間にも。
本音を言えば、すぐにでも軍を抜け出して、彼を助けに行きたいと思う。それをしないのは、封鎖が解けない限り、軍に見つからずに救助できる可能性が限りなく低いと分かっているからだ。生きていることを知られれば、今度こそ確実にルルーシュは殺される。
血を流し、地面に倒れ伏した幼馴染の姿を思い出せば、背筋が冷えた。……そんなことにはさせない。
「ま、時間の問題だとは思うけどね。せっかくデータを取るチャンスだし、ごり押しで出撃許可をとるつもりだよ」
能天気なロイドの横で、セシルは対照的に気遣うような表情を浮かべている。
「相手はイレブンなのだけど……」
ナイトメアフレームに乗ってほしい、という驚くべき、そして願っても無い申し出に、スザクは即答した。
「乗ります。いえ、乗らせてください」
敵は同胞と言えど、テロという間違った手段を用いた相手だ。討つことに躊躇いはない。とにかく、今は、ルルーシュを助けるために、戦闘を最速で収束させる。
友のいるだろう方向に一瞥を投げて、スザクは拳を握り締めた。
* * *
緩やかに波打つ金髪の、学生にしてはやや大人びた雰囲気の女子生徒――アッシュフォード学園生徒会長、ミレイ・アッシュフォードが授業を終えてクラブハウス棟の生徒会室にやってきたのは、午後三時を少し回った頃合だった。
既にやって来ていた青みがかった髪の男子生徒が、ミレイの姿を認めて、盛大な嘆きの声を上げる。生徒会役員の一人、リヴァル・カルデモンドだ。
「会長、聞いてくださいよ、ルルーシュの奴、ひどいんですよ~」
他の役員の姿はなく、誰かに愚痴を聞いてほしくて仕方がなかったようである。だが、彼が同じクラスで副会長のルルーシュにぞんざいに扱われているのはいつものことだ。
「あいつが俺を置いてけぼりにするから、俺は授業に間に合わなくて……」
「あーはいはい、可哀想ねー」
くどくどと続けるリヴァルの言葉にあからさまに適当な相槌を打ち、ミレイはテーブルの上に置いた鞄の中から、点滅を繰り返す携帯を取り出した。授業中に何やら着信が来ていたようだ。発信者の名前を見て、ミレイは肩を竦める。
「おや、噂のルルーシュから着信があったみたい」
「全く、変な方向にプライドを発揮するのはやめてほしいって言うか……って、マジっすか!?」
俺のことは放置かよ、と嘆くリヴァルを無視して、ミレイは留守番電話の録音を再生した。
耳に当てた携帯電話から、聞き慣れた声が流れてくる。しかし、様子がおかしいことに、ミレイはすぐに気が付いた。妙に苦しそうだ。用件の内容、締めの言葉に、ますます違和感を強くする。
――ナナリーのこと、よろしくお願いします。
最後のその一言の前には、躊躇うような間があった。ルルーシュという少年は、ミレイの知る限り、非常にプライドが高く、滅多なことでは他人に助けを求めたりはしない人間だ。まして、彼の最愛の妹に関しては、過保護もいいところで、人任せにすることなどありえない。そうせざるを得ない何かが彼の身に起きたということか。
場所は軍の封鎖地域だという。考えられる最悪の事態に、全身から血の気の引く音が聞こえてきそうだった。
震えてしまいそうな手を叱咤して、慌ててルルーシュに電話をかけ返す。祈るような気持ちで電話が繋がるのを待ったが、いつまでも呼び出し音が響くだけで、一向に通話に出る気配はない。
「リヴァル、ルルーシュとどこで別れたの?」
自然と詰問口調になったミレイに、リヴァルはきょとんとした顔を向けた。
「どこって……今話してたじゃないすか。国道の途中で、俺らの後ろを走ってた車が事故っちゃって、その救助に行っちまったんですよ、あいつ」
どうかしたんですか、と聞くリヴァルを他所に、ミレイは部屋に取り付けられたテレビに、ニュース番組を映し出した。
途端に、煙を上げるビルの写真が大写しになる。
「……を爆破したテロリストですが、新宿ゲットーに逃げ込み、抵抗を続けておりましたが、つい先ほどクロヴィス殿下の指揮の元、鎮圧されたとの情報が入りました。まもなく交通規制も解除される見通しです」
「へ~、イレブンのテロがあったのか~」
リヴァルはテレビ画面を見つめて呑気な感想を口にするが、ミレイはそれどころではない。
「ちょ、ちょっと会長!?」
ミレイは、驚くリヴァルの声を後ろに聞きながら、生徒会室を走り出た。慌ただしく家に電話をかけながら、クラブハウスの出口へと向かう。
「ミレイだけど。信用できる人を至急車付きで学園まで迎えに寄越して頂戴。……え? 大丈夫、危ない事じゃないわ。足を挫いて動けない友人を拾いに行くだけよ。念の為毛布と担架も持ってきて」
電話に出た執事に矢継ぎ早の指示を出しながら、ミレイは不吉な想像が、間違いであるように祈っていた。
渋る家人を宥めて、どうにか新宿ゲットー、廃線となっている地下鉄新宿三丁目の駅にミレイたちが辿り着いたときには、時刻は三時半を過ぎようとしていた。
「本当にこの先にご友人がいるのですか」
言われるまま担架を担いでやってきたアッシュフォード家の召使たちの疑問は、尤もなことだった。
駅の構内は、完全な廃墟と化しており、電気もない。地下に降りれば、先を行くミレイが持った懐中電灯の細い明かりだけが頼りだ。人の気配はなく、物音といえば、ミレイとミレイについて歩く二人の足音が寒々しく響くだけだった。
「そうよ」
ミレイはそれだけを言って、駅のホームから線路の上に飛び降り、小走りに近い速度で線路沿いに歩きだした。男たちは顔を見合わせると、諦めたように溜め息をついて、後を追って歩いてくる。
一刻も早くルルーシュの元へ行かなくてはならない。ミレイの頭はその思いでいっぱいだった。こんな場所に好き好んで入り込む筈がないから、彼は何か事件に巻き込まれた筈なのだ。おそらくは、命に関わる何かに。
やがて、視界の先に、トレーラーと思しき車の背面が見えた。ここは地下鉄で、道路ではない筈なのに、電車ではなくトレーラーだ。ルルーシュが事故車の救助に向かったと言っていたリヴァルの言葉を思い出して、ミレイは走り出した。
トレーラーは荷台の側面が開いており、そこからぽかりとした暗闇が覗いていた。明かりを近づけて、その下に照らし出された光景に、ミレイの喉から悲鳴が漏れる。
地面の上に力なく投げ出された手足、血の気の失せた白い顔。瞼を閉じた秀麗な顔立ちは、まさしく探していた人物のものだ。
「ルルーシュ!」
叫んで駆け寄るが、ルルーシュは、ぴくりとも動かない。胸にまかれた布と、彼から流れたと思しき血だまりを見て、ミレイは泣きたくなった。間に合わなかったのだろうか。留守電なんかにせず電話に出ていれば。
「お嬢様!」
追いついて来た男達がルルーシュを見て、息を呑む。
「失礼します」
片方の召使がミレイの前に出て、ルルーシュの脈を取る。厳しい表情が少しだけ緩んだ。
「まだ生きています。とにかく急いで運び出して病院へ」
動かしても何の反応も返さない少年を担架に乗せて、一行は、走るような速度でその場を後にした。
* * *
アッシュフォード学園、女子更衣室。
水着から制服へと着替えをしていた女子生徒は、鞄の中から響く着信音に、手を止めた。まっすぐな栗色の髪は、腰まで届くほどに長い。溌剌とした光を湛えた大きな翠の瞳が、ひどく爽やかな印象を与える少女だった。
名前はシャーリー・フェネット、学園の生徒会役員の一人である。今は所属している水泳部の活動を終え、着替えているところだった。
携帯電話を取り出して開けば、液晶にはミレイ・アッシュフォードの名前が表示されている。意外な相手に、シャーリーは僅かに首を傾げた。生徒会メンバーに用事があるときは、豪快に校内放送で呼び出すのを常とする彼女が、わざわざ電話をかけてくるとは珍しい。
「はい、もしもし?」
「あ……シャーリー?」
通話に出て、シャーリーは眉をひそめた。
返ってきた声には、いつもの勢いがない。しかも、妙に掠れていて、鼻声だ。まさか泣いているのだろうかと一瞬思ったが、女王様然としたミレイが泣くところなど全く想像ができないから、気のせいだと思い直す。
「はい、どうしたんですか?」
「ちょっと、お願いがあって……迎えの車を寄越すから、ナナちゃんを連れてきてくれる?」
会長の口から飛び出した、これまた意外な言葉に、シャーリーの胸にもやもやとした不安感が頭をもたげた。
ナナリー・ランペルージは、生徒会副会長のルルーシュ・ランペルージの妹だ。足が悪く、盲目なため、特別に許可されてクラブハウスに兄と共に住んでいる。生徒会室がクラブハウスにある都合上、中学生ながら、半分生徒会メンバーみたいなものとして扱われているが、身体の事情から、連れ出す時はいつもルルーシュが傍についていた。
「お願いできる?」
「は、はい、水泳部の練習も終わりましたし、それは構わないんですけど……」
「良かった、悪いけどお願いね」
続いてぷつりと聞こえた切断音に、シャーリーは目を瞠る。
「ちょっと、会長!?」
叫んでも、既に通話は切れている。まるで、シャーリーに反問されるのを恐れているかのような性急さだ。
「私が連れてくって、ルルは~? なんなのよ~もう~」
胸に暗雲のように湧き出す不安を振り払うように、明るい口調でぼやきながら、シャーリーは手早く着替えを済ませて、更衣室を飛び出した。
* * *
テーブルの上の通話機が音を立てるのに、車椅子に座った盲目の少女は、膝の上の点字本から顔を上げた。
波打つプラチナブロンドの髪に縁取られた秀麗な顔立ちは、まだ幾分か幼さを残していた。小柄であることもあり、ひっそりと咲く小さな白い花のような風情を漂わせた可憐な少女である。
ルルーシュ・ランペルージの妹、ナナリー・ランペルージだ。ここは兄妹の住んでいるクラブハウスの一室である。
間をおかず、二人を世話してくれているメイド、咲世子の平坦な声が通話機から響く。
「シャーリー様がいらしておいでです」
「まあ、シャーリーさんが? でも、お兄さまはまだ」
「ナナリー様に御用だと伺っております」
「私に?」
ナナリーは首を傾げた。
珍しいこともあるものだ。生徒会のメンバーとはルルーシュを通じて親交があるが、個別に親しいわけではない。
「分かりました。こちらに繋いでください」
「かしこまりました」
プツリという音とともに、通話モードが切り替わる。
「こんにちは、シャーリーさん。すぐにそちらに伺いますね。生徒会室でいいのでしょうか」
ナナリーの問いに、返ってきたのは妙に歯切れの悪い声だった。
「あ、ううん、実は、会長にナナちゃん連れてきてほしいって頼まれてて……」
私にもよく分からないんだけど、とモゴモゴ言い訳じみた言葉が続く。
ナナリーは眉をひそめた。
「ミレイさんが、学園の外にですか?」
「う、うん、多分……」
珍しいことの連続に、不安が胸を掠める。何かあったのだろうか。
ミレイがナナリーを単独で学園の外に呼び出すなどということは、記憶にある限り、初めてのことだ。
「……分かりました。咲世子さんと一緒にそちらに向かいます」
咲世子に車椅子を押されてクラブハウスの外に出ると、軽い足音が寄ってくる。
「すみません、お待たせしてしまったでしょうか?」
「大丈夫、全然待ってないから」
明るい声の返事が帰って来たが、明らかに無理をしている風だ。彼女も不審に思っていることがあるらしい。
正門を出たところで、ナナリーは咲世子に抱き上げられて車に乗り込んだ。隣に咲世子、助手席にシャーリーが乗って、車は緩やかに走り出す。
「あの……どちらまで行くのでしょう?」
「それが、会長ったら言ってくれなくて」
不安に耐えきれず口に出した疑問に、シャーリーが困惑と不安がないまぜになった声で答える。
「あなたはご存知なのでしょう」
思い切って、ナナリーが今度は運転席の男に声を掛けると、躊躇うような間を置いて、答えが帰ってきた。
「中央病院にお連れするよう言われております」
「病院!?」
シャーリーの悲鳴のような叫びが車の中に響く。ナナリーは、まるで奈落の底に落ち込んでいくような錯覚に捕われた。思わず咲世子の手をぎゅっと握ると、温かい手が励ますようにナナリーの手を包み込んだ。
「まさか、お兄様の身に何か……あったのですか?」
今度も一拍置いて、運転席の男が答えた。
「自分にはよく分かりません」
努めて感情を出さないようにしているが、ナナリーは、その声に僅かに含まれた憐憫の情を感じ取った。がくがくと、体が勝手に震え出す。
「そんな……」
かみ締めた唇から、呻くような声が漏れる。微かな衣擦れの音がして、シャーリーの振り返る気配がした。あきらかに空元気と分かる声音ではあったけれども、彼女は励ますようにナナリーに話しかけてくる。
「大丈夫よ、会長のことだもの、きっとドッキリか何かよ。私たちが真っ青になって駆け付けたら、ひっかかった~って笑いながら出て来るわよ」
励ましてくれる気持ちは嬉しいけれど、ナナリーには、とてもそうは思えなかった。ミレイは確かにやることなすこといろんな意味で弾けてはいるけども、一線を越えるようなことはこれまで一度もなかった。特殊な事情を抱えたナナリーとルルーシュに最大限気を使ってくれていることを、ナナリーは知っている。
全員が黙り込んで、それからどれくらい走ったのか。永遠にも思える時間が過ぎた後、車が止まった。ドアの開く音に、ナナリーは身の竦む心地がする。一刻も早く兄の安否を確かめたいという思いと、確かめるのが怖いという思いがせめぎあって、息もできないようだった。
しかし、無情にも咲世子はナナリーを抱え上げ、車椅子に乗せかえる。そうして椅子を押されてしまえば、ナナリーに進むことを拒絶する余地は無いのだった。
自動ドアの開閉する音とともに、ナナリーの鼻は消毒液の匂いを捉える。病院特有の匂い。
運転していた男性が、ナナリーたちを先導して歩いて行く。一行は黙々と先に進んだ。入口の賑わいが次第に遠くなって、静かなエリアに入る。
先導の足音が止まると、シャーリーと咲世子が息を呑む音がやけに大きく聞こえた。彼女たちの瞳には、何が見えているのだろう。ナナリーはもどかしさに唇を噛んだ。
続いてノックの音、僅かの間の後に、自動ドアの開く音。戸口に出たのはミレイなのだろう、いつも彼女がつけている香水の香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「会長……!」
耳を打つのはシャーリーの驚きの声だ。その理由は、すぐに知れた。
「ナナちゃん……。間に合ったのね」
いつものミレイとは違って、しわがれた、今の今まで泣いていたと分かる涙声。その声は悲しみに満ちている。ナナリーは、車椅子の肘置きを強く握りしめた。何も聞きたくない。
「とにかく入って。こんなところに立っていたら邪魔になるわ」
私はこれで失礼します、と案内してくれた男性が一礼して、靴音が遠ざかっていく。
また静かに車椅子が動き出して、ナナリーは部屋の中へと入った。奇妙になま暖かい空気が頬を撫でる。空調の音、何かの機械の作動音、そして、ピッ、ピッ、と規則的に響く電子音。まるで心臓の鼓動のようなリズムだと考えて、慌ててそれを頭の中から打ち消す。
「うそ……そんな……」
背後から聞こえて来るシャーリーの声は、絶望の気配に彩られている。
ナナリーは一つの結論に思考が行き着いてしまいそうになるのを、必死に堪えた。
認めたくなかった。認めてしまったら、自分を包む世界はきっと崩壊してしまう。
「何が……あったのですか」
ナナリーは縋るようにミレイがいると思しき方向に顔を向けた。
「病院に運びこんだときには心肺停止状態で……どうにか蘇生はしたけど、まだ危ないって。命が助かっても、植物状態のままのことも考えられるそうよ」
誰のことなのかは、聞くまでもなかった。最悪の言葉に、ああ、とナナリーは溜め息のような声を漏らした。
自分が包まれていた平和で優しい世界が、粉々になって崩れて行く音が聞こえる。いいや、違う。世界なんて、七年前にとうに壊れていた。それを忘れていられたのは、ナナリーの世界を必死に繋ぎ合わせて守ってくれていた存在が、ルルーシュがいたからだ。
「ナナちゃん!?」
――守り手を失った今、世界は、本来の姿に戻るしか、ない。