ノックの音が、室内に響く。
部屋の奥、窓を背にして設えられた執務机に座った青年将校は、書類から顔も上げずに入室許可を出した。
「入れ」
声に応じてするりと入ってきたのは、浅黒い肌、長い銀の髪を横で一つにまとめた、なかなかの美女だ。青年と同じく、軍服に身を包んでいる。
ここはエリア11ブリタニア総督府の中、栄えある総督直属のナイトメアフレーム一隊を率いる、辺境伯ジェレミア・ゴッドバルトに与えられた執務室だ。
部屋の主は新宿ゲットーのテロリスト掃討作戦から帰還し、後始末の書類処理に追われているところだった。
「どうした、何かあったか」
帰投早々に、部下には休息を許可している。副官であるヴィレッタも例外ではない。
「それが……少々気になることがございまして」
その言葉に、ジェレミアは書類を繰る手を止めて、顔を上げた。
「何だ。言ってみろ」
「先ほど、中央病院から問い合わせがあったとか……ブリタニアの学生が撃たれて、運びこまれたそうですが、場所と時刻からして、ゲットー作戦時に巻き込まれた可能性が高いと」
ジェレミアは目を細める。
「ナイトメア戦に巻き込まれたという可能性は?」
「銃瘡で、ナイトメアのものとは口径が違います。我が軍の兵士に配付されている銃と同じものということです」
「なるほど」
作戦の舞台となったのは、新宿ゲットーの只中、ブリタニア人が好き好んで近づくような場所ではない。仮にブリタニア人がいたのなら、ひどく目立ったはずだ。
そもそも、今日の作戦は銃撃戦と呼べるものはほとんど展開されなかった。流れ弾に当たりようもない。当然のことながら、ブリタニア人を撃ったという報告もジェレミアの目には触れていなかった。
よしんば数少ない流れ弾に当たったのだとしたら、その場で軍に救助を求めればいいだけの話だ。戦闘に巻き込まれた民間人の救助も軍の役目なのだから。
なぜ、少年はそうしなかったのか。
「面白い」
テロリストの仲間割れか、それとも軍の仕業か。
後者の可能性は低い。逼迫した戦況下でもなく、民間人を無差別に撃つなど愚挙であるし、他部隊に対して隠しおおすことは難しい。
――いや。今日の作戦では、バトレー将軍の直接の命令を受けて、完全に独立して動いている一隊がいた。彼らが少年を撃ったという可能性はあるだろうか?
それは、十分にありえそうなことに思えた。
ジェレミアは、書類を置いて立ち上がった。
「その少年が運びこまれたという病院へ行く。信頼できる部下を何名か選出せよ」
「ジェレミア卿が直接出向かれるのですか!?」
「ちょうど書類書きも飽きてきたところだ」
たかが撃たれたという少年一人、本来ならジェレミアが出向くほどのことではない。
だが、万が一にも、盗まれた機密物体の回収を目的とした部隊に撃たれたのだとしたなら、おそらく少年は機密物体を目撃している。
総督と将軍をあれほどに慌てさせたものが一体何であるのかは、大いに興味があるところだ。だが、それを聞き出すことはおろか、興味を持っていることを知られるのはまずい。たとえヴィレッタと言えど、人任せにはできないことだった。
* * *
春の穏やかな日差しの元、美しく手入れされた庭園で、ナナリーは色とりどりの花を摘んでは歩き、また摘んで、歩いていた。歩き始めてすぐに、左手に下げた花籠は一杯になってしまった。隣を歩く義姉の籠を見れば、同じように一杯になっている。
二人は笑いあいながら、弾むような足取りで、四阿へと歩いていく。そこには、大好きな人達が待っている。穏やかな微笑みを浮かべた美しい母と、母に良く似た面差しの兄だ。
――ああ、これは夢だ。まだナナリーが歩けて目も見えた時代の、曇りなく幸せだった子供時代の夢。この頃は自分を包む優しい世界が壊れてしまうことがあるなんて、想像したことすらなかった。
義姉と二人で花冠を作って、兄がどちらを被るかで、今度は他愛の無い口喧嘩が始まった。兄は困った顔で二人を交互になだめている。あの時、兄はどうしたのだったか。
今は遠すぎる、幸せな時代の残像に、目頭が熱くなるのを止められない。
ふいに、場面が変わった。気がつけば、小さなナナリーは、華やかな音楽の流れる夜会の中に立っていた。覚えている。この時ナナリーは、新しいドレスを仕立ててもらったのが嬉しくて、ご機嫌で母について歩いていた。
(やめて。この先を私に見せないで)
ナナリーはこの夢の続きを、嫌になるほど知っていた。七年前から、何度見たか知れない悪夢だ。
母の周りを飛び跳ねるように、長い階段を降りているときだった。けたたましい銃撃の音ともに、ガラスの砕け散る音が耳に突き刺さるのと、軟らかい感触に階段に押し倒されたのはほとんど同時だった。背中の痛みより先に、両足の激痛を感じた。
そして、ナナリーは、先ほどまで優しく微笑みを浮かべていた、美しい母の無残な姿を見た。見開かれた瞳は、もはやナナリーの姿を映すことはない。自分をかばって倒れた、その背中からはとめどなく温かい液体が流れ出して、ナナリーの手を濡らしていく。
(どうして。どうして。こんな光景、見たくない、見たくないの)
絶叫すると、場面が変わった。
ナナリーは、真っ暗な世界で、痛みと孤独と戦っていた。事件の直後、夢を見るのが怖くて、いっそ死んでしまいたくて、人形のように寝台に横たわっていた頃だ。絶望に彩られたナナリーの世界に、今にも泣き出しそうな声音の言葉が響く。
「ナナリー、しっかりしろ……こんな傷、きっとすぐに良くなる。母さんもお前も失ったら、僕は……」
その声は、ナナリーと同じように、恐怖と絶望と孤独と戦っていた。
(ああ、私がいなくなったら、お兄様の心もきっと壊れてしまう)
ナナリーが戻らなければ、ルルーシュは一人になる。父はいるが、自分たち二人は数えるほどしかお会いしたことのない、遠い方だ。こうして伏しているナナリーの見舞いにさえも来ない父が、兄を支えてくれる筈もない。
現実に立ち戻るのは怖くて辛くて悲しい。けれど、自分が戻ることで兄の心が守られるというのならば、戻らなければ。
その時、ナナリーは確か、そう思ったのだ。
ナナリーが徐々に自分を取り返し始めると、ルルーシュは献身的に世話をしてくれた。それからずっと、二人で支え合うようにして生きてきた。精神的ショックから目を閉ざし、銃撃を受けた後遺症で歩けなくなったナナリーは、物理的には何らルルーシュを助けることはできなかったが、お互いがお互いの生きる理由なのだと、口に出さずとも分かっていた。
また、場面が変わる。
目の前に、まだ幼い時分――ナナリーの記憶に残るそのままの兄が、倒れていた。母のように、背中は銃弾で真っ赤に染まり、大好きだった綺麗な紫の瞳は、ガラス玉のように虚ろだ。
(そんな、こんなの嘘――。第一、お兄様は既に高校生で、こんな小さな頃にこんなことは起きてません)
こんな夢は間違っている。目覚めなければ、という思考とともに、意識が急速に現実に近付く。
真っ暗な世界に、現実の世界でミレイの呟いた言葉が谺した。
「いつ鼓動が止まってもおかしくない状態……」
母と歩行機能、そして視界を失ってから七年、兄の優しい声だけがナナリーの心に差し込む唯一の光だった。なのに、神様はそれすらもナナリーから奪おうとしている。永遠に。
兄を亡くしてしまったら、この世界で生き続けることなど考えられない。ならば、せめて最後に、ナナリーの名前を呼ぶ優しい声を聞きたかった。それが叶わないなら、まだ生きている兄の姿を、この目に焼き付けたい。
視界を閉ざしたあの日以来、初めて焼け付くような気持ちで、世界を見たいとナナリーは願った。
目に飛び込んで来た光と、それに伴う鈍い痛みに、ナナリーは思わず目を瞑った。長い間使用していなかった神経が、突然の刺激に悲鳴を上げている。
――光? 目を瞑る? ナナリーは恐る恐る目を開けてみた。それは、呆気なく開いて、外の世界を映し出す。どんな医者にかかっても、どんなに兄が励ましてくれても開かなかったナナリーの瞳は、新たな精神的なショックを受けて七年ぶりに治ったというのだろうか。だとしたら、何という皮肉なのだろう。
無機質な白い天井と壁、鼻をつく消毒薬の匂い。絶え間なく響く規則的な電子音。夢ではなく、現実だ。
眠っている間に流れていた涙を指の先で拭う。
「じゅあ、ルルはテロに巻き込まれたっていうの?」
「たぶん……」
ぼそぼそと交わされるシャーリーとミレイの声に、ナナリーは視線を横にずらした。
二人の女性がこちらに背中を向けて立っている。そして、その向こう。透明なケースで覆われた寝台、そこに横たわっている人物に、ナナリーは息を呑んだ。
「お兄様……!」
二人は弾かれたように振り返った。
「ナナちゃん、眼……!」
ミレイと思しき女性が目を丸くするのも、ナナリーの目には入っていなかった。ナナリーはただ、その人のことだけを見ていた。母によく似た面差しの、秀麗な顔立ち、漆黒の髪。白皙の肌は血の気を失って青白く、命の気配のほとんど感じられない横顔。
呆然として身体を起こして、兄の眠る寝台に向かって手を伸ばす。バランスを崩して簡易寝台から落ちかけた身体を、脇から咲世子が支えて、車椅子に乗せ替えてくれる。礼を言う余裕は、今のナナリーには無い。
二人が空けてくれた、ルルーシュの枕元に車椅子を進める。
そうして、震える手で寝台の表面を覆う透明なケースを撫でて、兄の顔を覗き込む。涙が一滴、二滴、とその上に滴り落ちた。
「お顔を拝見するのは七年ぶりですね……こんな……こんな形で、お兄様の姿を、見ることになるなんて……」
背後でシャーリーの、鼻をすする音が響いた。
「お兄様、ナナリーです。どうか……どうか、お兄様の綺麗な紫の瞳をもう一回見せてください。私、目が見えるようになったんです。お願いです。私の名前、もう一度、呼んでください……」
――行って来るよ、ナナリー。最後に聞いた言葉が朝に聞いたその言葉だけなんて、あんまりだ。
「ナナちゃん……」
それきり絶句するミレイの声も、完全に涙声だ。
ナナリーは寝台に縋って、ただケースの上を撫で続けた。
どのくらいそうしていただろうか。室内にはただ、絶え間ない嗚咽と、鼻を啜る音、そして規則的な電子音が響くだけだった。
永遠にも続きそうなその合唱を中断させたのは、ピルル、ピルル、と場違いな明るい携帯電話の着信音だ。
「ちょっと……ごめん」
ミレイは断ってから、携帯を耳に当てた。
「はい、どうしたの? ……え? ……そう、分かりました。全員でここを出ます。正面入口で待っていて」
思いがけない言葉に、ナナリーは思わず振り返った。
「会長?」
シャーリーも抗議の声を上げる。
「ごめん。祖父が、心配して、私たちの夕食の手配をしてくれたみたい。車が迎えに来てるから、申し訳ないけど、祖父の顔を立ててもらえるかしら」
「会長のおじいさま……って、もしかして理事長!?」
そうよ、とミレイが頷けば、シャーリーは居住まいを正した。ミレイの祖父はアッシュフォード学園の理事長だ。そういえば、そろそろ寮の門限である。友人が危篤とはいえ、家族でもないシャーリーは付き添う理由にならないのだろうか。
「私はお兄様の側にいます」
ナナリーが首を振って答えると、その答えを予想していたように、ミレイは目を伏せた。ナナリーの側にやってきて、耳元に屈む。
「ブリタニア軍の一隊がこの部屋に向かってるそうよ。入口で問い合わせをしているのをうちの者が見たって」
それだけで、ナナリーは彼女の言わんとする事を理解した。ミレイは、ナナリー達の本当の素性を知る、数少ない人物のひとりだ。ナナリーもルルーシュも、軍との接触は極力避けるべき立場だが、ルルーシュは今はとても動かせない。だからナナリーだけでも逃げろと言うのだろう。おそらく夕食云々は、この場から人を引きはがす為の方便だ。
「私は、お兄様と運命を共にします」
それが分かっても、ナナリーは返事を変えなかった。変えられる筈がない。
「ナナちゃん……」
「お兄様がいたから、私は今日まで生きてきました。……だから、死ぬのも一緒です」
囁いて、にこりと微笑むと、ミレイがそれ以上何も言えなくなるのが分かった。車椅子の向きを変えて、シャーリーと咲世子にもぺこりとお辞儀する。
「ごめんなさい、私、お兄様と二人でお話ししたいんです。……時間が勿体なくて」
それもまた、ナナリーの偽らざる本音だ。
「……仕方ないわね」
ミレイは、諦めたように溜め息をついて身体を起こした。
「すみません、ミレイさん。ミレイさんのおじいさまに、私からお礼とお詫びをお伝えしていただけますか? 今までありがとうございましたと」
「分かった。伝えるわ」
そのやりとりに、部屋からほとんど出かけていたシャーリーが立ち止まって怪訝そうに振り向く。
「ナナちゃん……?」
「さ、兄妹の語らいを邪魔しちゃダメよ。私たちは行きましょう」
ミレイと咲世子がシャーリーを半ば強引に押し出して出て行くと、病室の中には束の間の静かな一時が訪れた。ただ、規則的にルルーシュの鼓動を示す電子音だけが時を刻む。
ナナリーは、物言わぬ兄を見つめながら、その時をじっと待った。
ルルーシュを撃ったのは、ブリタニア軍なのかもしれない。そうでなくとも、ナナリー達の事が知られれば、どうなるかは分からない。もしも軍が、ルルーシュにとどめを刺すというのならば、ナナリーは、ここで兄と共に果てるつもりだった。元より、抵抗する術も逃げる術もない。
やがて複数の足音が廊下から響いてくると、ナナリーは膝の上で掌を握り締めた。
「お兄様……愛しています。私だけは、ずっとずっと一緒です……」
* * *
「ヴィレッタ」
ジェレミアは示された病室の手前で立ち止まり、副官の名を呼ばわった。
「心得ております」
返事と共に、ヴィレッタ以下、ジェレミアについてきた四人の兵士が銃を取り出して、それぞれ問題の部屋のドアの左右の壁に張り付く。
周辺に人の気配はなく、要請どおり、人払いが為されているようだ。ここまで案内してきた看護婦も、先ほど怯えた顔で引き返していった。
目配せの元、四人はドアを開けて一斉に突入する。
「動くな! 我々は総督直属軍だ!」
室内に、抵抗の気配はない。
入室して、まずジェレミアの視界に入ったのは、寝台の脇に佇む、車椅子の後姿だった。横たわる患者と思しき人影の顔は車椅子に遮られて見えないが、枕元のモニターには、心臓の波形と思しき曲線が規則正しく踊っている。
「ゆっくりとこちらを向け!」
銃を構えたままヴィレッタが威圧すると、車椅子は静かに回転した。
座っているのは、波打つプラチナブロンドの長い髪と紫の瞳の、面差しに幼さを残した可憐な美少女だ。充血した眼と、腫れぼったい目元は、少女がたった今まで泣いていたことを窺わせる。
「……軍が、私達に何のご用でしょうか」
泣いて枯れた声で少女は言った。銃を突きつけられているというのに、不思議と物怖じしている様子はない。
「そちらの少年に聞きたいことがある」
ジェレミアが横柄な口調で言うと、少女は首を振った。
「申し訳ありませんが、お兄様は、話ができる状態ではありません」
そんなことは病院から知らされている。ジェレミアは鼻で笑った。
「ショックを与えてでも、一時的に話ができればそれでよい」
暗にその後の生死は問わないという言葉に、少女は瞳を限界まで大きく見開いて、ジェレミアの顔を見上げてくる。
そのとき、微かな既視感にジェレミアの胸がざわついた。この少女は、記憶の中の誰かに似ている。
「そんな……お兄様を、殺すと言うのですか」
ジェレミアは、まとわりつく既視感を振り払うように、歩を進めた。
「どいていなさい、お嬢さん。我々は武器を持っていない、か弱い女性に暴力を振るう気はない」
「いいえ!」
少女は、果敢にも両手を広げて、ジェレミアを通すまいとする。
「無礼者!」
ヴィレッタがすぐさま取り押さえて、車椅子ごと乱暴に脇にどけた。少女が遮二無二暴れだす。
「お兄様まで……お母様だけでなくお兄様まで、私から奪おうというのですか。私達が何をしたというのです……!」
泣き叫んでヴィレッタを押し返そうとする少女に、戦場にあっては毅然とした強さで敵を駆逐する女騎士も、少々困惑顔だ。無理も無い。テロリスト相手ならばともかく、懸命に向かってくるのは、あきらかな一般人の、それも足が不自由なか弱い少女である。攻撃の意志はなく、ただひたむきに兄の傍に行こうとするその姿は、見る者に哀れを誘った。命令でなければ撃ちたいとは思うまい。実際、他の兵士も困ったように眉を寄せて眺めるだけで、手出しをしようとはしなかった。
ジェレミアは少女を無視して、寝台の傍らに進んだ。患者の周囲を無菌に保つ透明な覆いを開こうと枕元のスイッチに手を伸ばし、ふと中の人物を見下ろして、動きを止める。
青白い顔で横たわっているのは、艶やかな黒髪に縁取られた、端正な顔立ちの少年だ。
「やめて、やめてください! お兄様はまだ生きてるのに!!」
ジェレミアが動きを止めたのは、悲痛な叫びに憐憫の情をもよおしたからではなかった。またも胸をざわつかせた既視感のせいだ。無視できないほどに育ったその感覚が、ジェレミアの手を制止している。
――似ている。
軍人であれば、瀕死の人間を見るのも、死体を見るのも珍しいことではない。だが、ジェレミアに今異変を訴えかけているのは、七年前から悔恨と共に繰り返し思い出し続けた、もはや脳裏に焼きついて離れない、特別な意味を持つ記憶だった。
無数の銃弾を受けて、高貴な人の背中から流れ出した血が、緩やかに階下へと滴り落ちて行く。見開かれた青い瞳に光はなく、彼女の魂が既にそこから飛び去ってしまったことは明白だった。そして、彼女に庇われて命こそ助かったものの、両足を撃ち抜かれたプラチナブロンドの髪の少女と、半狂乱で二人に取りすがっていた黒髪の少年――今も鮮やかに浮かぶ彼らの姿に、ジェレミアはまじまじと横たわる少年を見つめた。
咄嗟に思い浮かべたことの突拍子の無さに、頭を振る。
馬鹿馬鹿しい。二人は、とうにこの世から喪われている。もう七年も前のことだ。彼らは、まだ日本と呼ばれていたこの地に送られて、命を落とした。そう、この地で。
あの少年に、この少年は、ひどく似ている。まるで、そのまま歳を取ったかのようだ。
愚かしいことを考えていると分かっていても、ジェレミアには己の世界に突如として差し込んだ一縷の光を無視することはできなかった。
「ヴィレッタ。この少年の名前は何と言ったか」
「は……? ルルーシュ・ランペルージです」
上官の唐突な質問に戸惑いながら、ヴィレッタが答える。
ジェレミアは、泣き叫びながら、懸命に傍へ近づこうとする少女を見やった。年頃、髪の色、紫の瞳、不自由な両足。――その、顔立ち。
コツリ、と向きを変えて、ジェレミアは少女を見下ろした。
「……名は?」
掠れた声で問うジェレミアに、ヴィレッタが眉を寄せる。
「は? ですから、ルルーシュ・ランペルージと……」
「この少年の名前ではなく、その少女の名前だ」
ジェレミアの言葉を聞くやいなや、少女はぴたりと暴れるのをやめた。
「おい、名は何と言う」
ヴィレッタの問いに、少女は躊躇うように、顔を俯かせた。
「さっさと答えろ。お前の兄がどうなってもいいのか」
「……ナナリー・ランペルージと、申します」
蚊の鳴くような声で、少女は答えた。
ルルーシュとナナリー。ジェレミアは口の中でその名前を転がした。
これは本当に偶然だろうか。二人の歳格好と、名前と、エリア11という場所の三つもの符号の一致。果たして、そんな奇跡のようなことが、本当に起こりうるのだろうか。
間諜という可能性を考えて、ジェレミアはすぐにそれを否定した。横たわる少年が瀕死の状態であるのは疑いもなく確かなことであったし、少女の嘆く様子は演技にはとても見えない。そもそも、間諜であるなら、ジェレミアに対して、もっと違う名前を名乗っていたはずだ。――ならば。
ジェレミアは眼をかっと見開いた。
「全員、この部屋より退室し、廊下で待機せよ。その少女と二人で話をする」
「ジェレミア卿?」
「命令だ」
有無を言わさない強い口調に、ヴィレッタ達が、渋々といったように退出していく。
二人だけになると、ジェレミアは改めて車椅子の少女に向き直った。躊躇いもなくその前に跪き、頭を垂れる。
「ご無礼を何卒お許しください。私はジェレミア・ゴッドバルトと申します。辺境伯の爵位を賜っております」
病室の中に、息を呑む音が響いた。
* * *
ナナリーは目の前に跪く青年将校を見つめた。貴族の傲慢さが表面ににじみ出ているような青年だ。その印象の通りに、先ほどまでは横柄な態度であったのに、今はそのような気配は微塵も無い。声には、本物の敬意が込められている。
対応を迷ったのは数秒ほどだ。その数秒こそが何よりの肯定となることを知りつつも、ナナリーは白々しく答えた。
「どなたかと、お間違えではありませんか。私は伯爵閣下に跪いていただくような身分の者ではありません」
青年は、がばりと顔を上げて、ナナリーを見つめた。その瞳には、訴えかけるような真摯な光が宿っている。
「ナナリー様……! わたしは……八年前、アリエス宮の警護任務についておりました」
その言葉に、ナナリーは動揺を抑え切れなかった。アリエス宮。ルルーシュとナナリーが生まれ育ち、そして母が殺された忌まわしい場所の名前。
「……私は、そのような場所の名前は存じません」
それでも、ナナリーはそう答えるしかなかった。戦争が終ったあとも、ブリタニアから隠れることを選んだ兄は、かつての場所に戻ることを望んでいなかった。むしろ憎んでいたと言ってもいい。兄の意識が戻らない今、命を守ることは無理でも、その矜持だけは守りたい。それだけが、今となってはナナリーがルルーシュのためにできる唯一のことだった。
「ナナリー様……ブリタニアを恨んでらっしゃるのですね。お二人を捨てたブリタニアを……」
ジェレミアと名乗った男の両目から、突然ぶわりと涙が溢れだし、ナナリーは意表をつかれて、さらに動揺した。
「お許しください! マリアンヌ様さえご存命であったなら、お二人が日本に送られることも無かった! マリアンヌ様をお守りし切れなかった私が、お二人を死に追いやったも同然です……! しかし、しかし、お二人は生きておられた! どうか私に、七年前の償いの機会をお与えください! このジェレミア・ゴッドバルト、身命を賭してお二人をお守り致します」
どうか、と言って顔を伏せた青年の涙が、床に一滴二滴と垂れた。その声にも、涙にも、嘘は感じられない。迷った末に、ナナリーは口を開く。
「とても、辛いお気持ちだったのですね」
ナナリーが労るように言えば、青年将校はおお、と感激したように顔を上げた。
「私には詳しい経緯は分かりません……でも、そのお二人は、きっとあなたを恨んではいないと思います」
だから、気になさることはないのです、とナナリーが続けると、青年は目をさらに見開いて、激しく首を振った。
「なぜです、なぜお認めくださらないのです。この私が嘘を言っていると思っておられるのですか」
「いいえ。あなたのお気持ちはよく分かりました。……きっと、そのお二人が聞いたら、喜んだと思います」
それはナナリーの正直な気持ちだった。自分たちは、とうにブリタニアに何かを期待することをやめている。それでも、自分たちの死から七年を経た今も、心を残していてくれた人がいるという事実は、仄かにナナリーの心を温かくした。
しかし、青年は諦めなかった。
「ナナリー様! ……ナナリー様は、兄君を、ルルーシュ様を、お見捨てになるのですか」
ナナリーは、横から殴られたような衝撃に、車椅子の肘掛けをぎゅっと握り締めた。
自分がルルーシュを見捨てることなど、ある筈がない。兄こそが、七年前からずっと、ナナリーの生きる理由だった。
「兄君はまだ生きておられるではありませんか。しかし、兄君を撃った人間が――撃てと命令した人間が、兄君の生存を聞き付けたら、どうやって兄君をお守りするおつもりです」
もちろん、守る手立てなどありはしない。だから、そうなったら、ナナリーは運命を共にするつもりでいた。そう思っているのに、青年の言葉に心が揺らぐのは、弱さの証拠だろうか。
「ブリタニアの最高の医療技術をもってすれば、兄君も助かるかもしれないではありませんか。ナナリー様は、兄君を見殺しにされるのですか!」
重ねられた非難の言葉は、ナナリーの最も弱い所を衝いた。数分ほど、規則的な電子音だけが、沈黙の中に流れる。やがて、ナナリーは、視線をジェレミアからルルーシュへと移した。
「お兄様は……ブリタニアを……皇帝陛下を、憎んでおられます……」
呟いて、ナナリーはぴくりとも動かない、ルルーシュの整った顔立ちを見つめる。
「お兄様は、プライドの高いお方です。ブリタニアに縋って、命を長らえたところで、決してお喜びにはならないでしょう」
その言葉を聞いて、ジェレミアの顔が歪んだ。
「ですが……!」
反論するジェレミアの言葉を遮って、ナナリーは続けた。
「お兄様は、私を、私の心をずっと守ってくださいました。今度は、私がお兄様を、お兄様のお心をお守りする番なのです……」
ナナリーの両目から、堪えきれない涙が溢れ出し、零れ落ちてゆく。
「なのに、私は我が侭です。たとえお兄様が望まないと分かっていても……恨まれても、憎まれてもいい。それでも、私はお兄様に生きていて欲しい。お兄様のお声を、もう一度聞きたいのです。この願いは、罪なのでしょうか……」
ジェレミアは、両目から更なる涙を溢れさせ、激しく首を振った。
「それを罪だなどと、誰に言えましょう。ご家族として、当然のお気持ちではございませんか……!」
「ジェレミア卿……と仰いましたね」
「ジェレミアとお呼びください」
青年は嬉しそうに答えた。
「手を……よろしいですか」
ジェレミアが怪訝そうに、体を起こし右手を差し出す。ナナリーはその手を両手で包みこんだ。
「な、ナナリー様?」
狼狽えるジェレミアの瞳を、ナナリーはじっとのぞきこんだ。きれいなオレンジ色の瞳だ。
「お兄様をお助けするために、どうか……どうか、あなたの力を、貸していただけますか」
青年の手がびくりと震えた。後ろめたさの所為ではなく、心底感激している所為だ。
「イエス、ユア・ハイネス……必ずや、お守り致します」
もう一度深々と一礼し、青年は病室から颯爽と去っていく。
それを見送って、ナナリーは車椅子を寝台に寄せた。その上を覆う無機質なカバーに頬を寄せる。当たり前だが兄の体温など欠片も感じられない。それでも、少しでも近くで存在を感じたかった。
「私は……我がままです。お兄様……ごめんなさい……」
とめどなく溢れる涙を拭いもせずに、少女はただ、同じ言葉を繰り返した。