夜の帳の中、総督府内部に設けられた飛行場が、煌々と灯りに照らされて浮かび上がっている。平時には華やかな光に照らされながらも、ひっそりと静まり返っているだけの場所に、今は常ならぬ緊張感が満ちていた。
空を見上げて佇む、第三皇子クロヴィスと、その腹心であるバトレーのためである。このエリアを支配する二人の表情は厳しい。
やがて、空の彼方から爆音と共に小型の飛行機が姿を現すと、一層の緊張感がその場に満ちた。
二人が見守る中、優美に着陸したその乗降口に姿を現したのは、クロヴィスの腹違いの兄、第二皇子シュナイゼルである。
「おや、夜遅くにわざわざ迎えてくれるとは、すまないね。バトレーも」
礼を取る二人の頭上に、涼やかな声が降って来る。
「宰相閣下、この度はわざわざのお運び……」
「堅苦しい挨拶はいらないよ。お忍びで来たんだから」
微かに笑いを含んだ声にクロヴィスが顔を上げれば、簡易エレベーターに、いつも通り穏やかな微笑みを浮かべた次兄が立っていた。
「それで、私は間に合ったのかな?」
小首を傾げて訊く声からは、緊張や不安は感じられなかった。まるで明日の天気でも尋ねるような口ぶりだ。
「今は、小康状態と聞いております」
「助かるかはまだ不明か……悲しいね」
「申し訳ありません」
項垂れる義弟を見下ろして、シュナイゼルはくすりと笑う。
「責めている訳ではないよ。早速だが、ルルーシュに会えるかい?ナナリーはもう休んだのかな」
クロヴィスは首を振った。
「いえ、ルルーシュについております。休むように言っているのですが……」
「無理もない。コーネリアとユフィもじきに到着するようだし、ナナリーもあの二人がくれば少しは気も安らぐだろう。ユフィは特に二人と仲が良かったからね」
「そうですね……」
「きみはどちらかと言えば、ルルーシュと仲が良かったね。よくチェスをしていた」
義兄の言葉に、第三皇子は在りし日を懐かしむように微笑む。
「よくご存じですね。ルルーシュときたら強くて、私は負けっ放しで……さすがに義兄上には勝てなかったようですが」
「十歳の子供に負ける訳にはいかないだろう?私は既に大人だったのだからね」
それでも、ヒヤリとすることが無かったわけでは無かった。シュナイゼルは思う。――ルルーシュは、とびぬけて頭のいい子供だった。マリアンヌさえ暗殺されなければ、たとえ母親の身分が低かろうが、ブリタニアの皇子として、自らの才覚を発揮していた未来も十二分にあり得た。
思いはクロヴィスも同じだったようだ。少し躊躇うような間をおいて、言葉は続いた。
「義兄上、私はルルーシュが死んだと聞いた時……、真実惜しいと思っていたのです」
「私もだよ」
シュナイゼルが同意すると、クロヴィスは心の中の苦いものを吐き出すように、溜め息を押し出した。兄妹の皇籍を剥奪したのも、死地へ送り出す決定をしたのも皇帝で、それゆえに、これまで表立って二人の死を悼むことは、禁忌に近かった。
* * *
シュナイゼルが案内されたのは、ひどく殺風景な部屋だった。寝台がさして広くもない部屋の三分の一ほどを占めており、その枕元のモニターには波形が走っている。電子音がその波形にあわせてピッ、ピッ、と無機質に響いていた。
三人が入っていくと、寝台の手前、車椅子に座った少女が、怯えた顔で振り返った。昔の面影を色濃く残した少女に、シュナイゼルは微笑を浮かべた。
「ナナリー、なのかい?」
三人の先頭に立ったシュナイゼルを見上げて、少女の顔は、驚愕に凍りついた。
「シュナイゼル……お義兄様……!?いえ、ご無沙汰しております、殿下」
ナナリーは、衝撃から立ち直ると、車椅子の上で精一杯頭を垂れる。シュナイゼルはおや、と目を瞠った。
「どうしたんだい、ナナリー。君らしくないね」
「私は、既に廃嫡された身です。お義兄様だなんて許可もなくお呼びするべきではありませんでした。……私が礼儀を弁えていなかったら、お兄様まで馬鹿にされてしまいます」
ぎゅっと膝の上で両の掌を握り締め、それは嫌です、と硬い声で答える少女に、シュナイゼルは溜め息をついて近寄った。そのまますんなりとナナリーの前に膝をつく。
宰相の振る舞いに、クロヴィスの背後で、バトレーが目を瞠る。
「ナナリー。ブリタニアが、皇帝陛下が君たちを捨てたも同然のことをなさったのは事実だ……だが、私まで君たちを捨てたと思われているとしたら、少し悲しいな」
「そんなことは、思ってもいないことです」
ナナリーは頭を垂れたまま、嫌々をするように首を振った。
「お願いだから、顔を上げてくれ。ルルーシュと君は私の大事な弟妹だよ。……それとも、七年前に、君たちに何もしてやれなかった私を、やはり恨んでいるのかな」
「いいえ……いいえ」
シュナイゼルが悲しげに言うと、ナナリーは、弾かれたように顔を上げた。紫の大きな瞳には、涙が滲んでいる。
「……お義兄様と、お呼びしてもいいのですか?」
「そう呼んでもらえないと悲しいな。……目が見えるようになったんだね。今まで、ルルーシュと二人だけで心細かっただろう?」
よく頑張ったね、と温かな声で労られて、ナナリーは泣き崩れた。
「お兄様が守って下さったので、辛いことなんて、何もありませんでした……それなのに、私は何も出来なくて……」
「それは違う。ルルーシュは君がいたから頑張れたんだ。自分を卑下してはいけないよ、ナナリー。ルルーシュだってそんなことは望まない」
少女は縋るような表情で、横の寝台に視線を投げる。
シュナイゼルは立ち上がった。寝台の上に横たわる白い肌はむしろ青白く、端正な顔立ちとあいまって、寝姿はまるで石膏像のようだった。僅かに上下する胸だけが、彼がまだ生きていることを主張している。
シュナイゼルは、変わり果てた義弟の姿を眺め、微笑みを消して顔をしかめた。
「やれやれ、生きていてくれたのは嬉しいが……どうせなら、元気な君と会いたかったね、ルルーシュ」
ナナリーが堪えきれないように、唇を噛んで俯く。
「あの……殿下。部屋を用意させておりますが、お疲れでは」
やりとりが一段落したと見たのか、背後のバトレーが咳払いを一つして、遠慮がちに言い出す。シュナイゼルは頷いた。
「そうだね、コーネリアとユフィが来るまで、少し休ませてもらおうか」
ナナリーが顔を上げて瞬く。
「コゥ義姉様……コーネリア殿下とユーフェミア殿下が?」
シュナイゼルは、目を細めて妹を見下ろした。
「ナナリー。忠告してあげよう。同じ台詞をコーネリアに言ったりしたら、凄く怒られると思うし、ユフィに言ったら泣くと思うよ」
「でも……」
「二人とも本国から、君たちのことを心配して駆け付けてくるんだから、他人行儀にされたら悲しいだろう?」
優しく諭すように言えば、ナナリーは俯く。
「本当に……そうですね。お義兄様達にも、お義姉様達にも……こうしてお会いできるなんて夢みたいです」
声には喜びよりも悲しみの色が強い。いっそ全てが夢だったら良かったのに、とでも思っているような口ぶりだ。
シュナイゼルは憐れみを含んだ瞳で義妹を見下ろした。
「しかし、ひどい顔色だ。君も少し休んだ方がいい」
少女はこの言葉には首を振る。
「私はどこにも行きません」
「では、せめて、もう少し座り心地のよいものを。車椅子では疲れてしまうだろう」
「でも……」
なおも遠慮しようとする義妹に、シュナイゼルは畳みかけるように言う。
「ルルーシュが目を覚ました時に、君がそんな顔色では、余計な心配をかけてしまうだろう?」
いいのかい?と訊かれて、ナナリーは、困ったように視線を彷徨わせ、逡巡の後に頷いた。
「ありがとうございます……」
シュナイゼルは微笑んで、ナナリーの頭をポンポンと叩いた。
「君は酷い境遇だっただろうに、素直に育ったんだね。ルルーシュの努力の賜物かな。ルルーシュも同じくらい素直なままだと嬉しいのだが」
おどけたシュナイゼルの言葉に、ナナリーは僅かに微笑む。
「お兄様が心に着込んだ鎧を剥がすのは、たとえシュナイゼルお義兄様でも難しいと思います」
「おや、やる気を掻き立てられる言葉だね。私はルルーシュには一度も負けたことが無いんだ。これは是非ともルルーシュには起きてもらわないといけないな」
その日がとても楽しみです、とナナリーは新たな涙を瞳ににじませながら、頷いた。
* * *
ブリタニア帝国第二皇女と第三皇女の一行が密かにエリア11に到着したのは、帝国宰相よりも遅れること一時間、現地時間にして真夜中のことだった。
迎えに出た第三皇子の表情の硬さを見れば、ルルーシュの容態が好転していないことは、聞くまでもなかった。
挨拶するのももどかしく、せきたてるようにして案内させた病室に足を踏み入れると、まず目に入ったのは、二台あるうちの手前に置かれた寝台の上、入口に背を向けるようにして身体を横たえていた人影が、身体を起こして振り返るところだった。
灯りに照らし出された可憐な少女の姿に、コーネリアの背後から、ユーフェミアが飛び出していく。
「ナナリー、ナナリーなのね!」
硬直する相手を抱きしめ、第三皇女は目に涙を浮かべて、その顔を覗き込む。
「本当に……良かった……」
ユーフェミアの声は震えている。無理もないことだった。この妹にとって、ルルーシュとナナリーの二人は、七年前、兄妹が日本に送られてしまうまでは、数多くいる異母兄弟の中で最も親しくしていた二人だったのだ。
愛する義妹の成長した容貌をしげしげと眺め、第三皇女はあっと叫んだ。
「ナナリー、眼が、見えるようになったのね……!」
良かった、と涙ぐんで、また抱きつく。
コーネリアは苦笑した。天真爛漫な妹は、本当に嬉しそうだ。
「ユフィ、ナナリーが困っているぞ」
「ご、ごめんなさい、苦しかった!?」
ユーフェミアは慌てて腕を解く。寝台の上の少女は、二人の義姉の姿を見比べて、いくらか逡巡したあと、遠慮がちに言った。
「お久しぶりです。……コゥ義姉様、ユフィ義姉様」
「ナナリー……!」
「ああ、久しぶりだな」
ユーフェミアが、感極まって再び抱きつく。
「お二人ともわざわざ、本国からここまで足を運んでくださるなんて……。本当にありがとうございます。間に合ってくださって、良かった……」
胸に手を当てて、儚げな微笑みを浮かべて、少女は俯く。
何に間に合ったのか、聞き返す必要は無かった。
無意識に視界から外していた、もう一つの寝台にコーネリアとユーフェミアは目を向ける。息を呑む音は、姉妹ほぼ同時だった。
ユーフェミアがナナリーから身体を離して、よろよろとした足取りで奥の寝台に取りすがり、横たわる人物に向かって、必死に声を掛ける。
「ルルーシュ、ユフィですっ!お願い、目を覚ましてください……お願い」
縋りついて泣き崩れるユーフェミアと、眠る少年の姿を見下ろして、コーネリアは拳を握り締めた。綺麗に手入れされた爪が、掌に食い込む。
少年の血の気の失せた顔は、亡きマリアンヌによく似ていた。七年前に帝国が死に追いやろうとした第十一皇子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。死んだとされていた、コーネリアの義弟。
病院に運び込まれたときには、心停止状態だったと聞いている。命が助かったところで、……このまま、目を覚まさない可能性があるとも。
「なぜ、もっと早く、保護を求めなかった……」
そうすれば、こんなことにはならなかった。憐れみと、後悔と、怒り。誰に対するものなのかも判然としない、混ざり合った思いのままに呻いて、コーネリアは首を振った。自嘲するように唇を歪め、再会したばかりの義妹を見下ろす。
「埒もないことを言ったな。七年前にお前達を死地に追いやったのは他ならぬ帝国だ。……恨んでいるか、私たちを」
コーネリアの問いに、ナナリーは首を振った。
「私はお兄様に守っていただいて……七年間、幸せでしたから」
「そうか……ルルーシュは、お前のために頑張ったのだな」
コーネリアは伏して語らぬ弟に視線を戻した。
「よくやった、と言ってやりたいところではあるが……。お前達をこんな風に悲しませてのうのうと寝ているようでは、褒めてやることなぞ到底できんな」
剣呑な声に、ユーフェミアが驚いたように顔を上げる。
「お姉様?」
コーネリアは、最愛の妹に悪戯っぽく笑いかけた。
「プライドの高いルルーシュには、懇願よりもこっちの方が効果がありそうだからな」
コーネリアの意図を察したのか、ユーフェミアもナナリーもくすりと笑って、愛しげにルルーシュを見つめる。それを了承の意と取って、コーネリアはさらに続けた。
「大体お前ときたら小さい頃からひょろひょろで、軟弱で。頭の回転だけは速かったようだが、お前がマリアンヌ様の息子とは、何かの間違いではないかと常々思っていたものだ。そのうち私が鍛え直してやろうと楽しみにしていたというのに、勝手に日本などに送られおって」
そこで、ルルーシュの瞼が、ぴくりと動いたように見えて、コーネリアは言葉を止めた。モニターに目をやるが、異常はない。
「……?」
目の迷いだったかと妹達に目をやれば、二人とも固唾を呑んでルルーシュを見つめている。
「あの……お義姉様」
遠慮がちに、ナナリーが言った。
「差し支えなければ、お兄様を……その……もう少し罵倒してみては頂けませんか」
横ではユーフェミアがこくこく頷いている。
コーネリアはにやりと笑った。
「任せておけ。……だいたいお前は、愚かにも程がある。陛下に抗議して怒りを買うなどと愚挙に及んだ挙げ句、こんな場所に人質に送られる羽目になって、ナナリーは完全に巻き添えではないか。少しは周りの迷惑を考えろ。しかもナナリーを置いて死にかけているなど、お前に責任感というものはないのか?情けない息子を持って、マリアンヌ様も天上でさぞやお嘆きだろう……」
再びルルーシュの瞼がぴくりと動き、ナナリーとユーフェミアが身を乗り出す。
調子を良くして、コーネリアが、再会することがあったら是非とも浴びせてやりたいと当時思っていた言葉の数々を、余すところなく並べ立てていると、慌ただしい足音が廊下から響いて、医者と看護婦が駆け込んで来た。
「患者の血圧が急速に上昇しています!目を覚ます可能性がありますので、患者を興奮させる可能性のある方はご退室ください」
医師は困惑気味に言った。皇族に出て行け、などと言うのは、恐ろしく勇気が必要な行為だったに違いない。そもそも、彼はこの患者が誰であるのか、どうして皇族が続々と訪れているのかも、知らされていないのだ。看護婦はありありとした好奇心を浮かべ、眠るルルーシュの顔を覗きこんでいる。
コーネリアが片方の眉を上げると、医師は慌てて弁明した。
「その、皇女殿下方が目に入っては、畏れ多く、患者に余計な興奮を与える恐れが……」
言われてみれば確かにそうだ。コーネリアは溜め息を吐いた。
「……仕方ないな。目を覚ませば、取り敢えず命の危険は無くなると考えて良いのか?」
「はい。無理をしなければ、快方に向かう筈でございます」
それを聞いたナナリーとユーフェミアの顔が、一気に明るくなる。
「出るぞ、ユフィ。ここはナナリーに任せよう」
「はい、お姉様」
ユーフェミアは義妹を励ますように一度だけ軽く抱き締めると、軽やかな足取りでコーネリアに従って部屋を出ていった。
* * *
夢を、見ていた。
気がつけば、ルルーシュは、庭園に一人で立っていた。よく手入れされたそこには、種々の花々が咲き誇り、春のうららかな日差しの中で、光り輝くようだった。暖かな風が頬をなでて行く。
(ああ、ここはアリエス宮か……)
懐かしさに目を細めて、ルルーシュは首を傾げた。
懐かしい?何がだろう。物心ついてから今まで、自分はずっとここにいたではないか。
「あら、ルルーシュ。来たのね」
優しい声に振り向けば、東屋の中に、穏やかに微笑む母が立っていた。
「母上……!生きておられたのですね」
血に塗れた母の姿を思い出して、ルルーシュは喜びの声を上げる。すると、母は花のかんばせに困ったような表情を浮かべた。
「それにしても、あなた一人?」
言われて、ルルーシュはきょろきょろと周りを見回した。
「ナナリーは一緒じゃないのね。意外だったわ……あなたがここにくるときには一緒だと思ったのに」
言われて初めてナナリーがいないことに気がつく。ルルーシュは青くなった。
「そうだ、ナナリーを探しに行かないと……」
マリアンヌはおっとりと微笑んだ。
「大丈夫よ。あの子もじきにここに来るわ」
「いえ、眼も見えないし、足も動かないんです!俺が守らなきゃ」
必死な様子で言い募る息子を愛おしげに見下ろして、マリアンヌはふいにルルーシュを抱きしめた。柔らかな感触に、ルルーシュは目を瞠る。
「……そうね。ナナリーはきっと泣いてるわね。探してお上げなさい」
マリアンヌが手を放すと、ルルーシュは頷いて、踵を返す。
「さようなら、愛しい子。またいつか会いましょう……」
不思議な言葉に違和感を覚えて振り返ると、母の姿はそこにはもうなかった。
「やあ、ルルーシュ。どこに行くんだい。今日は私とチェスをする約束だったろう?」
代わりに立っているのは、義兄のクロヴィスだ。
「ですが、兄上」
抗弁しようとして、自分の声の甲高さにぎょっとする。記憶の中のクロヴィスの歳に合わせてか、いつの間にか、ルルーシュは子供の姿になっている。
「ナナリーなら、向こうでユフィと遊んでいたよ」
だから私とチェスをしよう、とクロヴィスが言うと、唐突に風景が変わり、二人はアリエス宮の一室で、チェスの勝負をしていた。なぜだか横には次兄のシュナイゼルが椅子に座り、面白そうに勝負を見守っている。
ルルーシュは決まり悪く身動ぎした。クロヴィスに負けたことは無いが、シュナイゼルに勝てたことはまだ一度もない。
次の瞬間、唐突に部屋の扉を開けて、はしゃいだ声が飛び込んでくる。
「お兄様、見ーつけたー!」
ナナリーが楽しそうに叫べば、続いて走り込んで来た義妹ユーフェミアも叫ぶ。
「私達、綺麗な花冠を作ったのよ」
「こらこら、二人とも、行儀が悪いぞ」
二人を追うように苦笑しながら入って来たのは、義姉のコーネリアだ。
ふと、ルルーシュは戸惑いを覚えた。
こんな風にのどかに過ごしたことがあっただろうか? 確かに個人的な付き合いはあったが、全員が集まるようなことはなかったし、実現不可能なことでもあった。この場にいる兄弟同士の仲は悪くはなかったが、母親同士の仲が良くなかった。特に、庶出でありながら皇帝の寵妃となったマリアンヌは他の妃に軽んじられ、疎まれていた。その子供であるルルーシュとナナリーも同様だ。
ルルーシュの戸惑いを他所に、コーネリアはテーブルの上のチェス盤を見て、顔をしかめる。
「またこんな事ばかりやってるのか。それだからお前はいつまでもひょろひょろなんだ。たまには外に出て体を鍛えてはどうだ。男の癖に、私に勝てないようでは情けないぞ」
「無茶を仰らないで下さい」
ルルーシュがクロヴィスと目を見交わして苦笑していると、ふいにコーネリアは真剣な顔になった。
「冗談ではないぞ。お前は、そんなだからユフィとナナリーを泣かせるんだ」
「私がいつ、ユフィとナナリーを泣かせたと言うんです」
「今に決まっているだろう」
ルルーシュはきょとんとして部屋の中を見回した。すると、風景はぐにゃりと歪んで、ひどく見覚えのある光景になる。
階段の上に、血塗れで横たわる母と妹。階段を上がった先に立っている父親は、底光りする瞳で、傲然とルルーシュのことを見下ろしている。
「――お前のものは全てこのわしが与えた。お前は生まれたときから死んでいるのだ。しかるに、何と言う愚かしさか!」
雷鳴のように響く声に、ルルーシュは尻餅をついて後退る。
これは、魂に刻み込まれた屈辱の記憶だ。母を見殺しにし、ルルーシュと妹を死に追いやろうとした男……ブリタニア皇帝、シャルル・ジ・ブリタニア。憎み続けた敵を前に、世界が赤く染まる。
ルルーシュは叫ぼうとした。なのに、声が出ない。
何故だ、と焦っているうちに、また風景がぐにゃりと歪んだ。
今度はおびただしい死体の転がる中を、ルルーシュはナナリーを背に負って歩いていた。倒れ伏す人、人、人。ほんの数日前までは、幸せに笑っていただろう人々。大人から赤子に至るまで、一切の慈悲なく、ルルーシュの母と同じように、理不尽に命を奪われ、この世から突然の喪失を迎えた。
この光景が、そして母と妹の倒れた姿が、弱肉強食を謳う、帝国の正義だというのならば。
焼け付くような思いが、脳裏に閃く。
――俺は、絶対に……ブリタニアをぶっ壊す。
瞼を開けたルルーシュの視界に飛び込んで来たものは、透明な壁を隔ててこちらを凝視する、泣き腫らした紫の瞳だった。
ルルーシュは瞬いてそれを見つめた。今度の夢は、どうやら願望の具現化か。
夢の中のナナリーは、今にも泣き出しそうな表情でルルーシュのことを見下ろしている。
どうせなら微笑んでいてくれればいいのにと、そう思ったところで、透明な壁がスライドして開いた。
「お兄様……! お兄様、私が分かりますか」
必死に呼び掛けてくる声に、ルルーシュは宥めるつもりで微笑む。
「俺にお前が分からない筈がないだろう?」
声は掠れて、ほとんど音にならない。ルルーシュは眉をひそめた。
けれど目の前のナナリーは、一層大きく見開いた目から、たちまち涙をあふれさせた。
「お兄様……! 良かった……」
温かいものが、ルルーシュの肩口を濡らしていく。現実のようにリアルな感触に、ルルーシュは目を細めた。
「これが夢でなく、現実だったらな……」
掠れた声で呟いた願望に、ナナリーは目を瞬かせる。
「お兄様、これは夢ではありません。現実です。お兄様はテロに巻き込まれたのだと聞いております。覚えておいでですか?」
「……え?」
ナナリーの言葉は、一気にルルーシュに現実を思い出させた。そうだ、自分はテロに巻き込まれてスザクと再会して……そして撃たれた。
「お兄様は本当に危ない状態だったんですよ」
「お前……じゃあ、本当に、眼が見えるようになったのか……」
「はい、お兄様のお姿を拝見出来たのは七年ぶりです」
泣きながら笑うナナリーを前に、ルルーシュはこの七年でかつてなかったくらいの幸せな心地になる。常ならば、郷愁よりも憎悪を掻き立てていた筈の夢の内容が、自然と口に上った。
「そうだ、懐かしい夢を見たよ。母上がいて、シュナイゼルやクロヴィスがいて……、コーネリアとユフィもいたな……義姉上に、お前を泣かすなと叱られたよ。母上にも、ナナリーが泣いてるから探しに行きなさいと……心配をかけた」
ルルーシュの言葉に、微かにナナリーの表情が曇った。辛い記憶を思い出させてしまっただろうか。
「ごめん、思い出させてしまったね」
「いいえ。……本当に心配したんですから、お兄様はもうお休み下さい。私はお側を離れませんから」
「そうだな。そうしよう……」
どこか複雑そうに微笑むナナリーに違和感を感じながらも、全身に浸透して来る気怠さに、ルルーシュは再び目を閉じた。
* * *
「柩木スザク一等兵だな」
見るからに物々しい雰囲気を漂わせた憲兵隊の一隊がスザクの元へやってきたのは、新宿ゲットーの作戦より一夜明けて、新しい所属先となった特派のメンバーに改めて挨拶しているときだった。先頭に立った男は、無表情にスザクのことを検分すると、言った。
「貴様には第一級の犯罪容疑がかけられている」
何事かと、一歩離れて見守っていた特派のメンバーがどよめく。スザクは目を見開いた。
「自分が、ですか」
心当たりが無いわけではない。スザクは昨日、軍命に背いてルルーシュを見逃そうとした。今日、憲兵隊が来たということは、あの後、ルルーシュは発見されてしまったのだろうか。戦闘が収束してからすぐに救助に向かったが、既に地下鉄坑内にその姿はなかった。
負傷して抵抗もできなかっただろうルルーシュが射殺される姿を想像して、じわりと背中が冷たくなった。
「そうだ。これより貴様を連行する」
「待ってください!彼は、第二皇子殿下直属部隊の人間ですよ!詳しい説明もなしに、いきなり連行だなんて……」
勇敢にも、憲兵隊にくってかかったのはセシルだ。しかし、男は冷たいまなざしでセシルを見下ろした。
「これは第二皇子殿下直々のご命令だ」
「そんな……」
スザクは絶句する女性佐官を振り返り、なだめるように微笑んだ。
「大丈夫です、きっと何か誤解があるんです。ちゃんと話せば分かってもらえます。僕に覚えは」
ありませんから、とスザクは続けようとした。テロリストとの戦闘に巻き込まれた民間人を見逃そうとしたことが第一級犯罪とはどうしても思えなかったし、きちんと話せば分かってもらえるはずだ。
だが、怒気を孕んだ声に、スザクは最後まで言えなかった。
「ない、とは言わせんぞ、柩木スザク」
敬礼して脇に退く憲兵隊の背後から颯爽と姿を現したのは、ナイトメアフレーム隊の制服に身を包んだ男だった。男は優雅な足取りでスザクの前に立つと、烈しい光を湛えたオレンジ色の瞳で、スザクを見下ろす。
セシルは現われた青年将校を見て、眉をひそめた。たしか、総督直属のナイトメアフレーム部隊の隊長格の男だ。ジェレミア・ゴッドバルト。そして、ナンバーズ排除を叫ぶ、純血派の筆頭でもある。それがどうして犯罪容疑者の逮捕にわざわざ顔を出すのだろうか。
「しかし、自分には」
「貴様は日本国最後の首相、柩木ゲンブの息子だそうだな」
ジェレミアは乱暴にスザクの胸倉を掴み上げる。もちろん、スザクに抵抗は許可されていない。
「貴様は昨日、新宿ゲットーで撃ったお方が誰なのか、よもや知らなかったとでも言うつもりか」
スザクは目を見開いた。一級犯罪という言葉に納得がいく。
少年の表情の変化に、ジェレミアの顔色が変わった。掴み上げた胸倉を、そのまま横の壁に叩き付ける。
受け身は取ったものの、骨がきしむほどの勢いだった。
「よくも、ナンバーズごときが、あのお方を……! 私がこの手で頭を撃ち抜いてやりたいところだが、貴様は軍事裁判にかけられる。第二皇子殿下のご厚情に感謝せよ」
ジェレミアは、怒りと憤りと憎しみをこめて言い捨て、踵を返す。
それが合図のように、憲兵隊が進み出て、スザクの両腕を掴み上げた。
なおも制止したい様子のセシルの肩に、ロイドは手を置いた。振り返った副官に、無言で首を振る。
「スザクくん……」
気遣うセシルの声に、反応はない。項垂れたまま、引きずられるようにして、スザクは連行されていった。
それを見送って、ロイドは心から残念そうに言う。
「あ~あ、彼、最高のパーツだったのにな~」
セシルは、眦を釣り上げて上官に詰め寄った。
「どういうことです、ロイドさん!知っていたんですか!?」
ロイドは肩を竦めた。
「まさか。僕もさっき知ったばかりだよ。でも、第二皇子殿下が昨夜から極秘裏にエリア11におでましになってるそうだから、彼、何かよっぽどマズいことしちゃったんじゃないかなあ」
「第二皇子殿下が!?」
「そ。おかげで総督府は朝から大忙しみたいだよ。おまけに第二皇女殿下と第三皇女殿下までいらっしゃってるとか噂が流れてるけど~」
それはさすがにありえないよね、とロイドは呑気に笑った。
「ともあれ、あの方のご命令なら、僕たちには何もできないよ。仕方ないから、新しいパイロットを探そうか~」
ロイドの言葉に、セシルは項垂れた。
* * *
シャーリー・フェネットにとって、これまでの人生の中で最も長く感じられた夜が明けた。鏡の中を覗けば、想像を遥か越えた自分の惨状に、思わず笑いが零れる。泣き腫らして顔全体が何だか浮腫んでいるし、ルルーシュの顔がちらついてほとんど一睡もできなかったから、目の下にはくっきりとした隈ができている。
昨夜は結局、食事の後は、もう遅いからという理由で、強制的に寮まで送られてしまった。
相部屋の子が既に就寝しており、泣き腫らした顔を見られずに済んだのは幸いだった。ミレイにはルルーシュのことを誰にも話さないように口止めされたが、泣いていた理由を聞かれたら、誤魔化せる自信がない。
「シャーリー、どうしたの? ひどい顔よ」
のろのろと登校の支度をしていると、同室の子が心配そうに声をかけてくる。シャーリーは慌てて笑顔を浮かべた。
「う、うん、ちょっと……夜更かししちゃったから……」
「そういえば、シャーリー、帰ってくるの遅かったもんねえ。寮監の先生に怒られたんでしょ。あの先生、話長いのよね~」
勝手に合点してくれたのは、シャーリーにとってはありがたい。
朝の学校は、シャーリーの心の中の嵐とは裏腹に、いつものように平和だった。ルルーシュの席は、当然ながら空席だ。
「よう、シャーリー。……って、何かあったの?」
挨拶したあと、驚いたように尋ねてくるリヴァルに、ルルーシュのことを話すべきかシャーリーは迷った。誰にも話さないようにとは言われたが、リヴァルは生徒会の仲間だ。ルルーシュとはシャーリーよりも親しい。その彼に、ルルーシュが命に関わる怪我をしたことを話さないでいることは、正しいだろうか。
「リヴァル、あのね」
(――お願い、シャーリー、約束して)
意を決して口を開いたシャーリーの脳裏に、別れ際のミレイの姿がよぎった。昨夜の彼女はいつになく真剣で、そして必死だった。迫力に押されてシャーリーが思わず約束してしまうほど。
(詳しくは言えないけれど、ルルーシュは家庭の事情が複雑なの。誰にもこのことは言わないで。私が大丈夫って言うまで、病院にも、お見舞いに行ったりしないって約束して)
(そんな――)
(お願い、ルルーシュのためなの)
(で、でも)
(シャーリーを巻き込んだのは私の判断ミスよ。……ルルーシュに、怒られちゃう)
そう言って寂しそうに笑う会長の顔が、妙に印象に残っている。
「シャーリー?」
「ちょっと来て」
「お、おい、もうHRが始まるぜ?」
訝るリヴァルの腕を引っ張って、シャーリーは階上の三年生の教室――ミレイ・アッシュフォードのクラスへと向かう。約束した以上、ルルーシュのことを勝手に話してしまうことは躊躇われる。ならば、会長の口から説明してもらえばいいのだ。
「あれ、会長いないな?」
HR前のざわつく三年の教室を見回して、リヴァルが落胆したように言った。遅刻になると渋っていた彼だが、シャーリーの目指す先が、会長のクラスの教室だと気づいてからは、むしろ先に立って歩いてくれた。彼はミレイに好意を寄せているのだ。
目指す相手がいないと聞いて、シャーリーは胸を押さえた。
彼女は今も、ルルーシュの傍についているのだろうか。登校していないということは、ルルーシュの容態は悪化したのか。もしかして……。
悪い想像ばかりが頭の中を駆け巡っていく。
「お、おい、シャーリー?」
ふらついたシャーリーを、リヴァルが慌てて支える。
「どうしたんだよ? 会長に何か大切な話でもあるなら、電話してみれば?」
「うん……」
朝、ルルーシュの容態を尋ねるためにかけた電話は留守番電話が応答したし、メールの返事もまだ返ってきていない。
それでも会長が通話に出てくれる、一縷の望みにかけて、携帯電話を取り出して操作していると、横から声がかかった。
「おい、お前ら二年だろ。何か用か?」
二人に話しかけてきたのは、ミレイと同じクラスの男子生徒だ。リヴァルが困ったように顎を掻く。
「あー……、いや、ちょっと、会長に話があって……」
「ああ、お前ら生徒会役員だったっけか。ちょうどいいや」
何がちょうどいいというのか、男子生徒は心持ち二人の方に身体を乗り出してくる。瞳に揺れるのは純粋な好奇心と、いくばくかの不安だ。もしかしてルルーシュのことが噂になっているのかと、シャーリーの胸の鼓動が早くなる。
「やっぱり、何かあったのか?」
「な、何か、って?」
シャーリーがどもりながら尋ねると、彼は顔を近づけて、声を落とした。
「会長、今朝、軍に連れてかれたらしいぜ。理事長も一緒だったらしいって」
「え? な、何すか、それ」
リヴァルが素っ頓狂な声を上げる。
「登校途中に見たヤツがいて、三年の間じゃ、ちょっとした話題になってる。会長の家も軍人がいっぱい外に立ってたってさ。お前ら何も知らないのか?」
聞かれて、二人はふるふると首を振った。
そうか、と残念そうに離れていく男子生徒が嘘を吐いているようには見えなかった。
「嘘だろ……」
リヴァルが慌てた様子で携帯電話を取り出して、ミレイの番号にかける。
しかし、受話口から流れてきたのは、能天気な留守番電話の音声だけだ。
「……そうだ、ルルーシュに聞いてみようぜ。もうアイツも登校してるだろ。ま、何かの間違いさ」
気を取り直して、わざとらしいほど明るく言うリヴァルの声には、隠せない不安の色がある。
シャーリーはそれに答えることができなかった。ルルーシュは今日は学校には来ない。もしかしたら、もう二度と来られないかもしれない。
――そして、昨夜の別れ際の、ミレイとのやり取り。
(分かりました、会長。でも、落ち着いたら、ちゃんと説明してくださいね)
(ありがとう、シャーリー。元気でね)
それはまるで、自分の身に何かが起こると予感していたような、別れの言葉。
(まさか、だよね)
そんな筈がない。考えすぎだ。思う傍から、不安がじわじわとシャーリーの心を侵食していく。
「シャーリー、先生が来たぜ。もう戻らないと!」
「う、うん……」
腕を引かれるまま、シャーリーは自分の教室へと戻った。
上の空で授業を過ごして迎えた、昼休み。学園中にミレイの噂が余すところなく広まって、誰もが落ち着かずそわそわしているように見えた。騒がしい校内も、いつもよりかなりトーンダウンしている。
その中を、シャーリーは、自分の席で物思いに沈んでいた。食欲がわかず、昼食に誘ってくれた友人の誘いは断ってしまった。
「なあ……」
聞き慣れた声に横を向くと、リヴァルが立っている。明らかに顔色が悪い。また何か悪い知らせだろうか。
「どうしたの?」
会話を始めた二人に、周囲から、突き刺さるような視線と、聞き耳が集中する気配がする。理事長のアッシュフォード家、すなわち生徒会長の家に何があったのかは、今や全校生徒の関心事だ。生徒会のメンバーなら何か聞いてるのではないかと、休み時間の度に入れ替わり立ち代わり色々な生徒、果ては先生にまでこっそり訊かれて、シャーリーとしては、かなりうんざりしている。
リヴァルもそれを分かっているのだろう。シャーリーの耳元に屈んで、ようやく聞き取れるくらいの囁き声で言った。
「クラブハウスが立ち入り禁止になった」
「ええっ」
「俺、生徒会室にいたんだけどさ、青い顔した先生がやってきて、追い出された。出口には軍人っぽいのが立っててさ。で、なにが起こるのかと隠れて見てたんだけど……やつら、何か運び出してた」
「何かって何を?」
「こっそり見ただけだから、わかんねぇよ。なあ、会長に何があったんだろう?」
リヴァルの声は泣きそうだ。シャーリーに分かる筈がないことは、彼だって承知の上だろう。それでも不安で、話をせずにいられない気持ちは、シャーリーにもよく分かった。……シャーリーだって、ルルーシュのことを話せたらどんなに楽か。
「ルルーシュのやつともまだ連絡取れないし……クラブハウス閉鎖じゃ、あいつ、自分の服だって取りに行けない筈なのに、どうしてるんだろうな。ナナリーも今日来てないみたいなんだけど、二人ともまさかクラブハウスにはいないよな」
「ナナちゃんはルルと一緒なんじゃない?」
つとめて明るい声を出したが、微かに語尾が震えた。だが、心配で手一杯のリヴァルには、気付かれなかったようだ。
「きっとそうだよな。ああ、せめてルルーシュと連絡が取れたらなあ……」
こんな時に、一体どこほっつき歩いてんだよ、と八つ当たり気味に呟くリヴァルに、シャーリーの胸は痛んだ。
このままリヴァルにルルーシュのことを黙っていて、いいのだろうか。会長自身にいつ会えるかも分からないというのに、ただ約束を守るだけで。
「悪い、こんなこと言っても困るよな」
黙り込んだシャーリーの様子を違う意味に取ったようで、リヴァルが謝ってくる。
それをじっと見上げ、シャーリーは口を開いた。
「ねえ、リヴァル。午後の授業サボらない?」
「へ?」
優等生のシャーリーから突然飛び出した提案に、リヴァルが目を白黒させる。
「いきなりどうしたんだよ。理事長宅に行っても、兵隊がいて近づけないって噂だぜ?」
「病院に行くの」
「病院!? 具合でも悪いのか? 次の授業は出席も余裕だし、どうせサボるつもりだったから、付き添いくらいいいけどさ……」
「じゃ、決まりね」
シャーリーはさっさと鞄を持って立ち上がった。
――ルルーシュのことは話さない。見舞いにも行かない。それがシャーリーがミレイと交わした約束だ。けれど、偶然通りがかったリヴァルが病室の名前に気がついて乱入するのであれば、約束を破ったことにはならないはず。
苦しい言い訳は、リヴァルのためではなく、どちらかというと自分のためのものだった。シャーリーは、ルルーシュの容態が、気になって仕方がないのだ。
言葉少なに電車を乗り継いで、病院に到着すると、シャーリーは記憶を頼りにルルーシュの病室へと向かった。
一度しか、しかも動揺している時に通った道だ。たどり着けるかは自信が無かったから、見覚えのある廊下に出たときにはホッとした。
しかし、病室のドアの前まで進んで、シャーリーは首を傾げた。
「え?」
昨日はルルーシュ・ランペルージと書かれていたはずのネームプレートは真っ白だ。ドアの隙間に光はなく、中は無人のようだ。慌てて周囲を見回すが、どこにも、ルルーシュ・ランペルージと名前の書かれたネームプレートはない。
「どうしたんだよ、シャーリー」
背後で、リヴァルが同じく、空白のネームプレートを見て怪訝な声を上げている。
「嘘……だって、ここの筈なのよ」
「誰か入院してたんか?」
「あの、すみません」
傍を通りがかった看護婦に声をかけると、髪に白いものが混じった年配の看護婦は、いかめしい顔に警戒の色を浮かべて、足を止めた。じろじろと、検分するように二人を眺める。
「ここに、昨日入院していた人のことなんですが……」
「あなたたち、お見舞い? 受付はちゃんとしたのかしら」
「あ、すみません! 知りませんでした」
素直にシャーリーが頭を下げると、看護婦は少しだけ表情を和らげた。
「駄目よ、規則は守ってもらわないと。それから、その病室の患者さんだけれども」
彼女はそこで言葉を切って、シャーリーたちを気の毒がるような顔になった。
「昨夜、転院になったのよ。だから、この病院にはいないわ」
「ええ? どこにですか!?」
「患者さんの個人情報ですから、病院からは言えません。ご家族の方にでも聞いてみたらどうかしら」
「そうですか……」
「とにかく、ここはちゃんとお見舞いの受付をした人たちだけが入ってきていいエリアです。入り口に戻ってください」
険しい視線と言葉に背中を押されるようにして、シャーリーはとぼとぼと来た道を歩き出した。背後を歩くリヴァルが、当然の疑問を口にする。
「おい、シャーリー? 一体、誰に会いに来たんだよ?」
「うん……」
つい先ほどまで、ルルーシュのことをリヴァルが全く知らないでいるのは、ルルーシュにとってもリヴァルにとっても良くないことだと、シャーリーには確信があった。
けれど今は、分からない。会長と連絡が取れるようになるまで、ルルーシュの転院先も容態も、知りようがない状態で、ミレイとの約束を破ってまでルルーシュのことをリヴァルに告げるのは、果たして良いことだろうか。ただでさえ、リヴァルはミレイのことを気にかけて消耗している。
迷った末、シャーリーは首を振った。
「ごめん、つき合わせて。実は親戚が入院してて、心配だったの」
「おいおい、なんでそれで俺に付き添いを」
目を丸くするリヴァルを振り返り、シャーリーは両手を合わせて拝んだ。
「ちょっと、心細かったから。それに、鬱陶しかったでしょ」
何が、とは言うまでもない。リヴァルは苦笑を浮かべた。
「まあなあ。……じゃあさ、電話して転院先を聞いたら?」
ここまで来たんだし、付き合うよ、と親切に言ってくれる生徒会の仲間に、シャーリーは首を振る。
「ううん、いいの。ありがとう」
シャーリーには、ミレイとルルーシュの無事を祈ることしかできない。
通路横の窓から見上げた先、雲一つ無い蒼穹を、一羽の鳩が真っ直ぐに飛んでいった。