再会したばかりの少女の前に、スザクはぎこちない動作で跪いた。
「お会いできて光栄です、ナナリー皇女殿下」
畏まるスザクに、ナナリーは顔を曇らせた。
七年前、ルルーシュとナナリーなど、ニッポンにとっては圧倒的弱者でしかなかった。スザクはそんな二人に真剣に向き合ってくれた、数少ない人間だ。立場が逆転したからといって、跪いてもらいたいなどと思うわけがない。
「ジェレミア卿、私をこの部屋の中に」
ナナリーの言葉に、背後の青年将校が目を剥く。
ここに彼女を連れてくるのさえ渋っていた彼が、その要求を受け入れがたいことは分かっていた。けれど、ナナリーにも譲れない想いがある。
「いけません。この男は重犯罪者です。御身が危険です」
「スザクさんは、私に危害を加えたりしません」
ナナリーが断言すると、ジェレミアはさらにいきり立ったようだった。
「兄君を弑そうとした者でございますぞ!」
ナナリーはそれを聞いて、目を伏せた。
「……それでも、スザクさんは、かつて、私たちの良き友人でした。いいえ、少なくとも、私は今でもそう思っています。ですから、知りたいのです。どうして、スザクさんが、そんなことをしたのか。真実から眼を背けないために、ジェレミア卿、どうか私に協力してくださいませんか」
言葉では下手に出ていても、ナナリーに譲る気は微塵もない。それを悟ったのか、ジェレミアは再び苦虫を噛み潰すような顔になる。
「……では、もしもこの男が殿下に危害を与える素振りを見せたなら、この場で射殺致します」
「はい、それで構いません」
ナナリーはこっくりと頷く。
青年将校は、諦めたようにため息を吐いた。扉のロックを外し、車椅子を押して、ゆっくりと部屋の中、スザクの前に押し進める。
頭を垂れたままのスザクに、ナナリーは顔を歪めた。
――こんな風にスザクさんをかしこまらせるなんてこと、きっとお兄様は望まない。
「どうか、顔を上げてください、スザクさん。ただのナナリーとして、あなたとお話しさせていただけませんか」
スザクは、ゆっくりと顔を上げた。真っ直ぐな茶色の瞳。初めて見る彼の瞳は、想像していた通りに真っ直ぐで、そして、想像していたよりもずっと寂しげだった。
けれど、七年の歳月を被征服民として過ごしたのだ。きっと、七年前の彼の瞳と、今の彼の瞳は同じではない。
「手を……いただけませんか」
「殿下!?」
ジェレミアの抗議に構わず、ナナリーはスザクに手を差し延べた。挑むように見つめた先で、スザクは苦笑を浮かべた。ナナリーの意図を了解したように、けれど少しだけ遠慮がちにそっと右手を重ねてくる。それに、胸が痛いほどに安堵する。
――やはり、彼に、やましいところはないのだ。
スザクは、ナナリーが相手の手を握ることで、嘘を見抜くことができるのだということを知っているはずだった。少なくとも七年前の彼は、そのことを承知していた。
「スザクさん、ですね、本当に……」
だから、否定の言葉を期待して、ナナリーは言った。
「お兄様を撃ったのがあなたというのは、本当なのですか?」
「はい」
あっさりとした肯定だった。頭を殴られたような衝撃に、ナナリーは束の間黙り込んだ。けれど、彼が兄を撃ったというのなら、理由があるはずだった。
「どうして、そんなことを?」
「上官の命令でした。……申し訳ありません」
目を伏せて、無念そうにスザクが答える。その言葉にナナリーよりも先に反応したのは、背後のジェレミアだ。
「貴様、まだそのような世迷言をぬかすか。そのような事実はないと、その場にいた全員が証言しているのだぞ!」
「いいえ、スザクさんは、嘘を吐いていません。……私には分かります」
ナナリーは静かに言った。ジェレミアが不服の声を上げる。
「殿下!?」
「そのとき、お兄様の身分を明かさなかったのは、お兄様が、望まれなかったからですね」
それは質問ではなく確認だった。
スザクが、悔しそうに顔を歪める。
「……はい。明かしたところで、助かるとは限らないと考えたんだと思います。彼は、自分に、撃てと言ったんです」
「お兄様が、ですか?」
「はい。命令に抗弁しようとする自分に、どうせ助かる余地はないから、自分が撃てと。こっそり急所をはずせとも言われました」
「それで、外してくださったのですね」
「勿論です」
ナナリーは、緊張を解いて、ほうっと息を吐いた。
「ありがとうございます、スザクさん。おかげで、お兄様は一命を取り留めました」
ナナリーの言葉に、スザクは目を輝かせた。手を握っていなくとも、彼がどれほどルルーシュのことを心配していたのか分かるような表情の変化だ。
「ルルーシュは助かったんですね!?」
「はい、危地は脱したとお医者様から伺っています」
「良かった……本当に」
潤んだ声に、ナナリーは微笑む。
「良かった……やっぱり、スザクさんはスザクさんですね」
スザクが、はにかんだように微笑む。
「眼が、見えるようになったんですね。……おめでとうございます」
ナナリーは微笑んだ。この状況に複雑な気持ちはあるけれど、スザクに見せるべきものではない。
「ありがとうございます。あの、今回のこと、謝ったりなさらないでくださいね。むしろ、お兄様の意思を尊重してくださって、ありがとうございます」
「殿下」
ジェレミアが眉を上げる。何を言うのかと言う顔だ。それを無視して、ナナリーは言葉を続けた。
「スザクさんが罪に問われることがないよう、お兄様たちにお話しします。だから、また私とお話ししてくださいね」
自分で良ければ、とスザクは微笑んで答えた。
* * * * *
月曜日の朝を、シャーリー・フェネットは、最悪な気分で迎えた。金曜日、封鎖の解けたクラブハウスに入ってみたが、ランペルージ兄妹が生活していた区域には鍵がかかっていて、人の気配もしなかった。生徒会の備品は何一つ欠けていなかったし、クラブハウスを使用しているクラブからも、今のところ問い合わせは無いから、運び出されたという荷物は、ルルーシュとナナリーの持ち物なのだろう。
結局、あの朝以来、会長とは連絡が取れていなかった。携帯に何度電話しても、留守番メッセージが流れるのみで、アッシュフォード家に電話しても、留守だとかで取り次いでもらえない。
駄目元で、部活を休んで土日は生徒会室にいたけれど、会長は現れず、同じ理由でやってきたリヴァルと雑談をして二日間が終わった。何度かアッシュフォード家まで様子を見に行ったリヴァル曰く、軍人はいなかったが、会長には取り次いでもらえなかったという。
この三日間、ルルーシュがあのまま死んでしまったという夢に、しばしばうなされた。起きていても、脳裏を青白いルルーシュの顔がよぎって、何も手に付かなかった。何度も、ルルーシュの怪我についてリヴァルに話そうと思ったけれど、その度に会長の真剣な顔が頭に浮かんで、そして会長と連絡がつかないことだけで動揺しきっているリヴァルに更なる心配事を増やすのも気が引けて、結局話せていないままだ。
学園に行けば、いつもの喧騒が待っていた。先週末にあったちょっとしたゴタゴタなど、熱しやすく冷めやすい学生達は、既に興味を失ってしまったようだった。
教室に入って行っても、当然ながら中にルルーシュはいない。シャーリーは溜め息を押し殺して、自分の席に座った。
その時だ。廊下を走る足音がしてリヴァルが顔を出した。表情が、ここ数日では見なかったほど明るい。
「いたいた、シャーリー!」
素早くシャーリーの席の横まで移動すると、リヴァルはヒソヒソ声で言った。
「会長、学園に来てるぜ」
「ほんと!?」
シャーリーは思わず席を立った。ミレイには聞きたいことが山程あるのだ。授業のことなど、頭の中から吹き飛んだ。
「待てよ、シャーリー。もうすぐ授業始まるから話せないって会長言ってたぜ。昼休みに、生徒会室で話せるってさ」
「そっか……」
教室を出ようと動きかけていた身体を、無理矢理自分の席に戻して、シャーリーはもどかしい気分で、教壇の上に飾られた時計を見上げた。長い四時間になりそうだ。
「お、先生だ。じゃあ、シャーリー、また昼に」
やっと会長と連絡が取れたという安心感からだろう、リヴァルが足取りも軽く自分の席に戻ってゆくのを、シャーリーは羨ましい気持ちで見送った。
そして、ホームルームが始まった。年配の男性教師が、教室中を見回して、神妙な顔つきになる。
「今日は、皆さんに大変残念なお知らせがあります」
どきり、とシャーリーの胸の鼓動が跳ねた。思わず、空いたままのルルーシュの席に視線が行く。生徒達の視線が十分集中するのを待って、教師は重々しい調子で続けた。
「ランペルージくんが、先週、交通事故に逢いました」
一瞬、水を打ったように、教室が静まり返る。そして、直後、どよめきがうねるようににわきだして、教室内を圧倒した。
「先生、ルルーシュくんは無事なんですかっ!?」
「お見舞いに行きたいので病院教えてください!」
中でも凄かったのが、貴公子然としたルルーシュに憧れを抱いていた女生徒達である。悲鳴のような声の裏には、僅かな下心も混じっている。
「静かに。残念ながら、彼は本国の病院に転院となったし、見舞いは不可だそうだ。諸般の事情で学園に復帰できるかはまだ分からない。そういうわけで、彼はしばらく休学扱いとなる」
途中で邪魔が入らないようにか、教師は一気に言った。
えー、そんなぁ―、と、あちこちで悲鳴が上がった。シャーリーは思わず立ち上がった。
「せ、先生、ルルの容態は、どうなんですか」
教師は、ふむ、とシャーリーを見て、気の毒そうに首を振った。
「シャーリー・フェネットか。ランペルージとは生徒会の仲間だったな。すまないが、わたしたちも、詳しいことは聞かされておらんのだ。ただ、理事長によれば、命に別状はないそうだ」
「そうですか……」
ひとまず安心して、シャーリーは自分の席に座った。座ったというよりも、立っていられなかったという表現の方が正しいだろう。安堵の余り、足が震えていた。
「良かった……」
では、ルルーシュはあの状態から回復したのだ。
白い顔でぴくりとも動かない姿を見ているシャーリーとしては、それだけで嬉しかった。
しかし、当然、それで納得しない生徒もいる。
「先生、どうして本国の病院に転院になったんですか!」
すかさず立ち上がったのはリヴァルだ。彼にしてみたら、友人の一大事なのに、寝耳に水状態であったから、多少の憤慨が声にこもるのは、仕方のないことと言えるだろう。
「家庭の事情だと聞いている」
教師は、気の毒そうな顔のまま、おもむろに、絶対の効力を持つカードを切った。家庭の事情。この言葉を教師が口にしたならば、以降はどんな詮索も受け付けない。暗に訊くな、と言っているも同義である。
リヴァルにもそれは分かっているのだろう、ふて腐れたように席についた。彼の問い掛けるような眼差しに、シャーリーは分からないと首を振る。これまでに、ルルーシュがナナリー以外の家族について口にするのを耳にしたことは、そういえば一度もなかった。
* * * * *
ミレイ・アッシュフォードは、一つ大きく息を吸い込んで、通い慣れた生徒会室の扉を開けた。中に座り、サンドイッチを頬張っていた三人の顔が、一斉にミレイの方を向く。
「や~ごめんごめん、待った~?」
ミレイがわざといつも通りの脳天気な声をだすと、どことなく張り詰めていた空気が緩んだ。
「遅いですよ、会長!」
シャーリーが口を尖らせて言うのに、ミレイは苦笑いして言った。
「ごめんってば~途中でいろんな子たちに掴まっちゃって~」
途端に、緩んだ空気が元通り緊張するのが分かる。
「会長、ルルは」
「会長、交通事故って」
シャーリーとリヴァルの声は同時だった。
「はいはい、質問は順番にね」
ミレイが言うと、カタン、と椅子の音を響かせて、ニーナ・アインシュタインが立ち上がった。ミレイの幼馴染みの、科学少女だ。物静かで、あまり騒ぐこともない。
「わたし、隣の部屋に行ってるね」
相変わらずのマイペースぶりである。隣の部屋には、ニーナ専用の端末がある。ルルーシュの件については、特に興味が無いのだろう。それでもわざわざミレイをここで待っていたのは、彼女なりにミレイのことを心配してくれていたということだ。
「ニーナ、ありがとね」
ニーナが微かに頷いて隣の部屋に消えると、まずはリヴァルが進み出た。
「で、会長。ルルーシュの交通事故って、一体どういう状況だったんすか!」
「実は、私もよく聞かされてないのよ。ただ、ちょっと相手がお偉いさんみたいで、あんまり事にしたくないみたい」
ミレイはさらりと嘘を吐いた。リヴァルがこんな質問をしてくるということは、シャーリーは律義に約束を守ってくれたようだ。感謝の視線を送ると、シャーリーは、不本意そうに目を逸らした。
「お偉いさん!?ルルのやつ、大丈夫なんですか」
そんな二人のやりとりにも気付かず、リヴァルは素頓狂な声を上げた。
「もちろんよ。ルルーシュは被害者だもの。責任をもって治療して下さるそうよ」
力強く請け負えば、リヴァルは安堵の息を吐いた。多少の罪悪感はないではないが、全くの嘘ではない。交通事故ではなく交通事故に付随して起きた事件で、相手はブリタニア軍という『権力者』。もちろん、知らなかったとはいえ、皇族を害したなんて表にしたがるはずもないから、相手が事にしたくないと思っているのも本当の事だった。そして、責任持って治してくれるのも間違いはない。政庁お抱えの優秀な医師団がついている。
「そっか……なら、良かった。でも会長、ルルーシュのやつすぐ復学出来るんですよね?」
「んー、どーだろーね―」
ミレイは肩を竦めて言明を避けた。結論から言えば、無理に決まっている。どうして休学扱いなのかと言えば、必要以上に注目を集めないための、祖父の計らいだ。
「そんなに酷い怪我なんすか!?」
「あ~違う違う、所謂家庭の事情ってやつよ」
ミレイが苦笑して手を振ると、シャーリーが身を乗り出した。
「会長、ルルの家族って……? 家庭の事情って、何なんですか」
「本人が話してるの聞いた事無いもんな」
好奇心の色の強いリヴァルとは対照的に、シャーリーは必死の面持ちだ。彼女が、ルルーシュに想いを寄せていたことはミレイも知っていた。そして、もうその想いが報われる事は、永遠に無いであろうことも。
本来なら、ルルーシュが口を噤んでいた事をミレイがばらすのはルール違反だが、二度と会える見込みがない以上、全く説明がないのもあまりに寂しい。
「ん~、ルルーシュが言わなかったことを私が言うのもあれなんだけど~、ま、あなたたちならいっか。他の人に話さないって約束してね?」
二人がうなずくのをしっかり確認してから、ミレイは話し始めた。
「いろいろ複雑な事情があるんだけど、二人は実は、……家出兄妹だったの」
「え」
二人共が驚きの声を上げる。それを満足そうに見やって、ミレイは続けた。
「でも、向こうの家族は捜しもしてなくてね……二人のお母様とお知り合いだった、うちのお祖父さまが、見かねて保護してたのよ」
「でも、それって、確か未成年者略取とかいう罪に問われるんじゃ……?」
恐る恐るシャーリーが言えば、ミレイはにっこり微笑んだ。
「あらよく知ってるわね。今回のことで、さすがに知らせないわけにはいかないじゃない?どうせ今まで探しもしてなかったから、放置だと思ったんだけど、親戚がかけつけてきて、引き取るって話しになっちゃったわけ。うちが今まで面倒みてたのは、法律的にはアウトだしねえ」
我ながら、立て板に水のように嘘が出て来る。これも全くの嘘では無いから、真実味を帯びて聞こえるだろう。その証拠に、二人とも、あっさり信じこんでくれたようだ。
「でも……ルルの意思は?」
ミレイは苦笑した。そもそもルルーシュの意思を尊重してもらえるような環境だったなら、二人は家出する必要などなかったわけだが、円満な家庭で育ったシャーリーには、いまいち実感できないのだろう。
「さあ?わたしも会わせてもらってないし、分からないのよね~」
肩を竦めて言うと、シャーリーが詰め寄ってきた。
「その親戚の連絡先を教えてください!」
「それを知って、どうするの?」
ミレイは、シャーリーに視線を据えて、静かに聞いた。
「もちろん、ルルと話して、それから……」
「ルルーシュに、まさかここに戻ってこいって言うつもりなわけ?」
「い、いけませんか」
声に滲んだ非難の色を感じ取ったのか、シャーリーが目に見えてひるんだ。
ミレイは苦く溜め息をついた。決してシャーリーが愚かなわけではない。むしろ自然な成り行きだ。その証拠に、リヴァルも口には出さないが、同意のまなざしでミレイを見ている。
けれど、望んでも叶わないと分かっていることを、他人に説得されるのは、あの二人にとっては負担以外の何ものでもないだろう。
「ルルーシュの意思では動かせないことでも?」
父親とうまくいっていないという、リヴァルが察したような顔になる。それでも食い下がったのはシャーリーだ。
「だ、だって……家族なんですよね?」
「そう、家出しても捜しもしない家族ね」
「そんな……」
家庭の事情という言葉の意味が、やっと飲み込めたのだろう。シャーリーは絶望的な表情になった。
「で、でも、じゃあ、親戚の人に頼めば……」
「赤の他人のあなたが頼んで、ルルーシュが言うよりうまくいくって言いたい訳?随分な自信家ね」
あえてきつい言葉を選んでミレイは言った。シャーリーは途端に傷ついた表情になる。
「会長、そんな言い方は……」
リヴァルがとりなすように、間に入る。
「シャーリーの言っている事は、そういう事よ。連絡先を聞いても、あなたにできることは何もありません。連絡しても、ルルーシュを困らせるだけよ」
ミレイが強い口調で言い切ると、シャーリーは俯いた。ぱたぱたと、机の上に雫の跡がつく。ミレイは心を鬼にして何も言わなかった。全て本当のことだし、ここでルルーシュへの想いを断ち切るのが、シャーリー自身のためでもある。
リヴァルがおろおろと、ミレイとシャーリーを見比べている。
「……そう、ですよね。すみませんでした……」
嗚咽混じりのシャーリーの言葉に、ミレイはほっとして、口調を和らげた。
「もし第三者の口出しで左右出来る問題なら、私だって祖父だって、とうに頼んでるのよ。辛いでしょうけど、諦めて吉報を待ちましょう?」
その時がこないことはもちろん承知していたが、この段階でそれを口に出せば、ルルーシュの親戚の身元を詮索されることになりかねない。少しずつ変化に慣らすことが大事だ。こくりと小さく頷くシャーリーを、ミレイは哀れむように見つめていた。
* * * * *
ルルーシュは、無駄に豪華な装飾が施された天井を、ぼんやりと眺めた。
暮らしなれた学園のクラブハウスのものではない。といって、病院ではありえなかった。
ブリタニアに見つかったという事実が、じわじわと心に染み込むにつれて、苦いものがこみあげてくる。重い溜め息を吐くと、突然衣擦れの音がして、視界に、典型的日本人の容姿を持った女性が顔を出した。
「お目覚めですか、ルルーシュ様」
ルルーシュは二重の意味で驚いた。部屋の中に、他には誰もいないと思っていたことと、思いがけない人物に会った驚きだ。
「咲世子さん……?どうしてここに」
「アッシュフォード家より、お二人のお世話に遣わされました」
にこりと微笑み、軽く膝を曲げて一礼するのは、クラブハウスでメイドとして二人のことを世話してくれていた、篠崎咲世子だ。
「アッシュフォードから……そうか」
ルーベン・アッシュフォードが手配をしてくれたのだろう。正直、見知った人間が周りの世話をしてくれるというのはありがたい。
「すぐにナナリー様をおよびしてまいります」
ぱたぱたと軽い足音を響かせて、メイドが遠ざかっていく。
ルルーシュは、再び、ぼんやりと天井を眺めた。肌触りのよい寝具は絹だろうか。柔らかく沈みこむようなベッドは、学園で使っていたものよりも遙かに高級品だ。
身体に力を入れると、相変わらずの鋭い痛みが腹部に走った。
耐えがたい屈辱感に、ルルーシュは顔を歪めた。もう二度とあの男の世話にはならぬと心に決めていたはずだったのに、現実はどうだ。ベッドから起き上がることもままならない自分は、今、紛れもなくあの男の慈悲によって生かされている。皇族として生きるということ、皇族の庇護を受けて生きるということは、つまるところそういうことだった。
カラカラと微かな車輪の回る音に、ルルーシュは表情を消した。この怒りも、憎しみも、ナナリーに見せるつもりはない。
穏やかな笑顔を貼り付けて、精一杯首を回せば、泣きそうな顔の少女が、車椅子を押されて部屋に入ってくるところだった。
ルルーシュと視線を合わせて、紫の瞳がいっぱいに見開かれる。
「お兄様……!」
たちまち潤み始めた妹の瞳に、ルルーシュは、作りものではない微笑みを向けた。
「心配をかけたな……すまない」
幾重にも呪わしい状況ではあるが、ただ一つ、妹の閉ざされて久しかった目が光を取り戻したことだけは、この上もなく喜ばしいことだった。
しかし、ルルーシュが微笑みかけても、ナナリーは、泣き出しそうな顔のままだ。紫の瞳は不安に揺れている。
「……お加減はいかがですか」
「ナナリーの顔を見たら、すっかり良くなったよ。どうした?」
ルルーシュのセリフは、あながち間違いでもなかった。どす黒い憎しみはとりあえず脇へ置いておいて、純粋に妹が視力を取り戻したことを喜ぶ気持ちになったのだから。
ルルーシュが優しく促すと、ナナリーは辛そうに俯いた。
「お兄様……あの……お願いです。スザクさんを助けてください!」
「ナナリー様」
ナナリーの必死な声に、咲世子の心配そうな声が重なった。
「スザク……?」
ルルーシュは突然出てきた旧友の名前に、目を瞬かせる。
「スザクさんから聞きました。スザクさんがお兄様を撃ったと……」
ルルーシュは、顔をしかめた。できればナナリーには伏せておきたかった事実だ。ショックを受けているだろうが、ルルーシュ自身は、恨んでなどいない。
「あいつに会ったのか。あの時は仕方ないことだったんだ」
「はい、分かっております。でも、お義兄様もお義姉様も、私の言葉に耳を貸してくださらないのです」
「……何だと?」
その言葉から導き出される結論に、ルルーシュは顔色を変えた。
「まさか、スザクが捕まってるのか!?」
「スザクさんは、要人に対する暗殺未遂罪と軍規違反の罪に問われるそうです」
「馬鹿な! 俺はあの時要人でも何でもないし、スザクは命令に従っただけで軍規違反など……!」
激しく言い募れば、ナナリーの瞳からぽろぽろと涙が零れた。
「私もそう申し上げたのですが、信じていただけませんでした。でも、お兄様の言葉なら……」
「シュナイゼルに、至急面会を」
ナナリーは力なく首を振った。
「シュナイゼルお義兄様は、今朝方ここを発たれました。クロヴィスお義兄様とコーネリアお義姉様は、今頃……法廷にいらっしゃっているのだと」
「もう開廷しているのか!?」
暗い表情でナナリーが頷く。ルルーシュは起き上がろうと身動きした。激痛が走り、四肢にも思うように力が入らない。
途端に呻き声を上げたルルーシュに、ナナリーは悲鳴を上げた。
「お兄様!」
「失礼致します、何事かございましたか!?」
悲鳴が終わるか終わらないかというタイミングで、部屋の扉を蹴破らんばかりに乱入してきたのは、廊下で自ら警護にあたっていたジェレミアである。クロヴィスとコーネリアが不在の間に、不埒な輩が兄妹に危害を加えようとしないとも限らないから、困惑する副官とともに、番犬よろしく部屋の外に控えていたのだ。
ルルーシュはそんな事実は知りようがないので、思うように身体の動かない苛立ちと、スザクへの理不尽な扱いへの怒りのまま、ぎろりと乱入してきた軍人を睨み付けた。
「許可も得ずに無礼だろう、何者だ!」
傲岸な口調で無礼者呼ばわりされて、副官のヴィレッタは眉を寄せたが、ジェレミアは、雷に打たれたように打ち震え、跪いた。
「無礼をお許しください。お目にかかれて光栄です。私はジェレミア・ゴッドバルト辺境伯と申します」
跪いた上官に、ヴィレッタが戸惑いの視線を向ける。ある程度身分の高い人間だろうとは予想がついているものの、はっきりと教えられていない彼女には、辺境伯爵ともあろうものがこんな子供に跪く必要性がさっぱり分からない。
ルルーシュはじろりと立ち尽くす軍服姿の美女を睨んだ。
「その女は?」
無礼かつ傲岸な言葉に、ヴィレッタは、柳眉を逆立てた。が、すぐに振り向いた上官に叱責される。
「貴様、なぜ跪かない!お二人に失礼だろう!!」
ヴィレッタが仕えているのはあくまでブリタニア帝国だ。いかな高位の貴族であろうが、軍人たるヴィレッタが跪かなければならない道理はないのだが、抗弁するべき時でないのは明らかだ。釈然としない気持ちながらも跪いて、ヴィレッタが名乗ると、寝台の上の尊大な少年は、どうやら警戒を薄くしたようだ。さらに尊大に言った。
「ジェレミアとやら、頼みたいことがある」
「何なりとお申付けください」
恭しくジェレミアが頭を垂れた。
「軍事法廷に私を連れて行け」
この言葉にはヴィレッタだけではなく、ジェレミア自身も目を剥いた。
「な、何をおっしゃいます」
「耳が悪いのか? 軍事法廷に私を連れて行けと言った!」
叩き付けるように繰り返された言葉に、軍人たちは束の間言葉を失った。
先に我を取り戻したのはジェレミアだ。
「お連れする訳には参りません。お身体に障ります」
少年は、剣呑に目を細めてジェレミアを睨み付けた。
「ジェレミア卿、いま法廷で審議されている人間は、私の暗殺未遂の罪に問われているそうだな」
「は。さようにございます」
「当然ながら、私には証言台に立つ権利がある」
「そのお身体でですか!?」
「……私からもお願い致します、ジェレミア卿」
悲鳴のようなジェレミアの声に、それまで黙って見守っていたナナリーが答えた。
「何をおっしゃいます!!」
少女は、揺るがない静かなまなざしで、ジェレミアを見つめた。
「この状況を招いたのは、元はと言えば私のわがまま。ですから、無理を承知でお願い致します。……今度は、お兄様をお守りする為に、今一度、お力を貸してはいただけませんか」
お兄様の心をお守りするために、とナナリーが心の中で言った言葉が、ジェレミアには聞こえたのかもしれなかった。オレンジの瞳に逡巡が生まれた。
「勿体ないお言葉です。ですが……兄君に万が一のことがあれば」
ナナリーはふわりと微笑んだ。
「ええ、困ります。ですから、どうか、お兄様をよろしくお願いします」
それはお願いという形を取ってはいたが、拒むことを許さない事実上の命令だった。
ジェレミアは沈痛な面持ちで両目を瞑り、やがて頭を垂れた。
「イエス……ユアハイネス」
ヴィレッタが、ぎょっとして上官を見やる。
それは、皇族に呼び掛ける際に用いる敬称だった。
* * * * *
軍事法廷は、厳粛に静まり返っていた。もともと威圧的な空気に満ちた場所ではあるが、今日はとくにひどい。軍事法廷であるから、傍聴人も判事も全て軍人だ。その彼らは、緊張した面持ちで、ちらちらと、一段高い所に設けられた、特別な傍聴席に座る人物に視線をやっている。
そこには、このエリア11の総督であるクロヴィス皇子のみならず、本来ならこのエリアには来ていないはずの第二皇女コーネリアが座り、鋭いまなざしで法廷を睥睨していた。
皇族が二人も裁判を傍聴するなど、尋常ではない。被告人は余程の重罪を犯したようだと、疑惑と嘲弄の入り交じった視線が、被告席のスザクに突き刺さっている。そこに一片の憐憫も混ざることがないのは、スザクが被征服民である、ナンバーズ出身だからだろう。
「……では、判決を申し渡します」
静かな法廷に、裁判長の厳かな宣言が響き、スザクは諦めとともに起立した。起訴事実をスザクがどれだけ否定しても、現場にいた親衛隊全員が肯定してしまえば、スザクの心証が悪くなっただけで終わった。もっとも、皇族と知りながらルルーシュを撃ったのは、他でもないスザク自身だ。それを認めている以上、それがスザクの意思によるものだったかどうかは、瑣末な問題であるのかもしれない。
既に結末を受け入れているスザクを、あの誇り高い友人が見たら、きっと怒るのだろう。その姿がありありと思い浮かんで、スザクの頬には自然に微笑みが浮かんだ。
その時だった。騒々しい物音がして、開廷中は締め切られている筈の正面の扉が勢いよく開く。
誰もが驚きに目を見開く中、そこに現れた突然の闖入者は、傲然と叫んだ。
「異議あり!その判決は認められない!」
第二皇女と第三皇子は、闖入者の姿に、顔色を変えて腰を浮かせた。