真っ暗な草原の中で互いの体を照らすのは畑に設置されたライトのみ。
杏子とブラッドベリーは互いに距離を取って牽制しあっていて、お互いに踏み出そうとはしなかった。
だが理由は双方で違う物。
杏子は久しぶりの戦闘に加えて、グルメ細胞の移植も行われていないため、迂闊に飛び込むのは危険だと判断したため。
ブラッドベリーはその巨体と肥満体から、機敏な動きをすることが出来ず、今立っているだけでも足を重そうに引きずっている状態であった。
(あの動きから、奴は待ち伏せ型ってところか……)
対峙したばかりでもその動きからブラッドベリーの戦い方を杏子は予測する。
明らかに格下の自分を相手にしても決して自分から仕掛ける真似をしてこない辺りから、それは確定事項と言ってもいい。
だがこのまま待っているだけでは自分に待っているのは確実な死。
ゆっくりではあるがブラッドベリーはすり足で距離を詰めていき、両手を突き出して杏子の体を掴もうと指を細かに動かし続けていた。
相手に合わせて戦うつもりは毛頭無い杏子は自分の色を貫こうとする。
後ろ足に力を込めると前方に向かって突っ込んでいく。
一気に勝負を決めてしまおうと槍の切っ先をブラッドベリーの心臓に目がけて突き刺そうとする。
素早い杏子の動きに付いていけずにブラッドベリーの左胸に槍が突き刺さるが、杏子に勝利の確信は無かった。
(何だ? この泥の中に腕でも突っ込んだような感覚は?)
宙に浮いた状態で槍を突き刺したままの杏子は異常な状態にも関わらず、顔色一つ変えないブラッドベリーに恐怖を感じていた。
それだけではない今まで魔女との戦いでダメージを与えた時の手応えと言うのは体が覚えていたが、今自分の手に伝わっているのは肉の感覚のみ。
何が何だか分かっていない杏子を無視して、ブラッドベリーは額に血管を浮かべながら力を込めていく。
突き刺さった槍が前方に戻されていくと、吐き出されるように槍は噴出し、掴んでいた杏子の体も一緒に後方へと突き飛ばされた。
槍が突き刺さっていた部分には血が一滴も出ておらず、ただ贅肉が内側にめり込んでいるだけであり、それは時間と共に元の形状へと戻っていき、完全に元の状態に戻るとブラッドベリーはかゆそうに刺さった部分をかくだけだった。
「人間と言うのは体に取り込んだ物が有害な物だと判断すると、本能的に吐き出すようになっているものだ。今回のもそれにあたる」
「偉そうに、ただたんにブクブクと肥え太っているだけだろうが!」
ブラッドベリーとの戦力差を認めたくない杏子は精一杯の悪態をつくことで、せめてもの反撃をする。
槍を地面に突き刺して立ち上がる杏子をブラッドベリーは見下ろしていて、再び槍を突き出した杏子を見ると懐から使いこまれた包丁を取り出すと改めて杏子と対峙する。
「これだけのことをしたのだ。もう遊びでは済まされないぞ娘」
「格好付けてんじゃねーぞ!」
包丁を持った途端にブラッドベリーのオーラが変わり、殺気に満ちたそれに一瞬ではあるが杏子は飲み込まれそうになっていた。
だが元々の負けん気が強く短気で攻撃的な性格がそれを払拭し、再び同じように槍を突き出して突っ込んでいく。
切っ先が同じところに触れようとした瞬間、ブラッドベリーは包丁を勢いよく振り下ろして切っ先を地面に叩き落とす。
刃が地面に突き刺さったのを見ると杏子の口元が邪悪に歪む。
それだけで自分の攻撃が終わったと思いこんでいたブラッドベリーは包丁を振り下ろしたまま無防備な状態でいたのを杏子は見逃さず、刺さった槍を軸にして逆立ちをすると体を一回転させて、鼻っ柱に向かって回し蹴りを放つ。
足に伝わるのは先程とは違い骨の固い感覚。
痛みが足に伝わるのは相手にもダメージがある証拠。
狙い通りの状態になったのを見ると杏子はそのまま両足を前方に持っていき、両足で力一杯顔面を蹴り飛ばす。
この予想できなかった組み立てられた攻撃に、ブラッドベリーの体は後方に押し倒され、大の字になって倒れていった。
思った通り普通の人間でも急所だらけの顔面を思いっきり蹴飛ばされればダメージはあって当たり前。
ブラッドベリーは防御を脂肪のみに頼って他の技術が全ておろそかになっていると判断した杏子はここで一気に勝負を決めてしまおうと、槍を掴んでいた両手に力を込めて槍を地面から引き抜くと空中で切っ先を倒れ込んでいるブラッドベリーに向けて、重力に任せて共に落下しようとする。
杏子がトドメを刺そうと大胆な動きになったのを見てブラッドベリーはゆっくりと起き上がっていくと、肩で槍の切っ先を受け止める。
力が双方違った方向から加えられて槍は勢いよくしなって暴れ出す。
暴れまわる槍を掴み続けることは今の杏子には難しく握力がもたずに、槍は手から離れていく。
そして落下していく杏子を抱きしめるようにブラッドベリーは受け止めて、そのまま自分の胸へと体を押し込んでいくと杏子の体を贅肉の海へと埋め込む。
「私はこれだけしか能が無いが、君一人殺すには十分だろう」
そう自嘲気味に言いながらブラッドベリーは杏子を掴む手に力を込めて、その体を自分の中へと埋め込んでいく。
単調な攻撃ではあるが体全体が肉の中に埋め込まれ、呼吸さえままならない状態に杏子の意識は遠いところへと持っていかれそうになる。
唯一の武器である槍は自分の後方へと持っていかれ、両腕が辛うじて出ている程度の杏子に反撃のすべはないだろうと判断したブラッドベリーは自分の勝利を確信して中で苦しそうにうめき声を上げている杏子の様子を見る。
(どれ、そろそろ様子でも見るか)
ブラッドベリーは外に出ている杏子の両腕が苦しそうに痙攣しているのを見て、決着は付いたと判断して見下ろすように顔を持っていく。
その瞬間杏子の腕に力がこもり、ツナギの袖から少しだけ出ていた紐を外側に向けて思いっきり引っ張る。
すると内側に仕込んでおいた武器が発動し、ブラッドベリーの顔に勢いよく黒い粉末が噴き出されてかかる。
何が何だか分かっていないブラッドベリーだったが、目に激しい痛みが走り、鼻腔全体が炎症を起こしたかのような苦しみが襲い、口内にも同様の症状が現れる。
この状態では腕に力を込めていることは困難であり、ブラッドベリーは杏子を地面へと投げ飛ばすと、胸ポケットからハンカチを取り出して顔に付着した黒い粉末を拭きとろうとする。
「これは『パウダーペッパー』か!? 小癪な真似をして!」
初めて効果的な攻撃を食らったことでブラッドベリーはそれまでの冷静さを失い、激昂した状態で叫ぶ。
パウダーペッパーは普通に食べても刺激的なコショウだが、目や鼻に入ればそこらの催涙スプレーよりも強烈なダメージが襲い、火薬として扱うことも可能な扱いには細心の注意を払わなければいけない食材。
トリコがもしもの時のために仕込んでおいてくれた武器に感謝しながら、杏子は四つん這いの状態で槍の元まで近づいていくと、咳き込みながらも杏子は槍を取って槍を地面に突き刺して立ち上がる。
そして未だに苦しそうにハンカチで顔を拭いているブラッドベリーの戦力分析を改めて行おうとする。
この攻撃に怯むあたりで単純な戦闘力はそれほど高いとは言えず、どちらかというと受け身で先程の圧迫攻撃で一気に勝負を付けるタイプだと思った。
だがここで一つ気にかかる点が杏子の中で生まれる。
時間稼ぎも兼ねてその辺りの疑問を杏子はブラッドベリーへとぶつける。
「何でだ? お前自身の実力は大したことないのに、お前のペットはトリコと同レベルの猛獣だろ? 何でお前如きがそんな猛獣を飼いならせるんだ!?」
挑発的な言葉にもブラッドベリーは至って冷静であった。
顔全体をハンカチで拭き終えると未だにパウダーペッパーの後遺症で目に涙を浮かべている状態であるが、ブラッドベリーは自分の心情をポツポツと語り出す。
「奴は、シャドーミノタウロスは私たち兄弟が……いや私たちに父親が居た頃からずっと一緒だった家族だ! 例え私自身の戦闘力が低くても主従関係を結べるのは当たり前だ!」
子供の頃の思い出を思い出すと、ブラッドベリーは柄にもなく大声を上げて興奮した様子を見せる。
それでも杏子の表情には何の変化もなく、冷淡にブラッドベリーを見つめるだけだった。
人の気持ちをくみ取る方はどちらかと言えば苦手な方であり、自分の意見をごり押しするタイプと言うのもあるが、何があっても麻薬を栽培するブラッドベリーを許すわけにはいかないと言う想いが強かったから、杏子は揺らぐことはなく話の続きを待っていた。
ここで昔の事を思い出したのかブラッドベリーは過去の話を始める。
早くに母親を亡くしたクランベリー、ブラッドベリー兄弟は父親一人によって育てられていた。
料理人として多くの人に食事を与えようとしていた父親だが、料理人としてのレベルは低く毎日貧乏な暮らしを余儀なくされていた。
幼い兄弟を育てるため、父親が選んだ手段、それは一発逆転の新食材を見つけることであり、当時はまだ開拓も進んでいなかった常闇の森へと向かっていた。
だがほとんど素人と変わらない父親は瞬く間に自然の洗礼を受けて、死の淵をさまよう結果となる。
そこで偶然シャドーミノタウロスの子供が彼を見つけて、父親は子供のシャドーミノタウロスの背に乗せられた状態で無事に元の街へと戻って行った。
「その時偶然に持ち合わせていたのが、ジョーカーマンドラゴラの苗だ。父はこれを天からの贈り物と思い、丹念に育てていた」
そんな父親の献身的な愛情が実を結んだのだろう、ジョーカーマンドラゴラは見事にその果実を実らせた。
早速家族全員で食べると一口食べただけで心地よい陶酔感に身を酔わせ、今までにない幸福感が一家を包み込んでいた。
この状態が特に強かった父親は決心したこの実が与えてくれる幸せを皆にも与えてやろうと。
「ちょっと待て!」
当時を思い出して懐かしそうに語るブラッドベリーを止めたのは杏子の大声。
あまりに簡単に暴走し続ける一家を見て、もう変えようのない事実なのは分かるが、杏子はその事実に対して噛みつく。
「何でそんな簡単に異常な状態を受け入れられんだよ!? どう考えたって麻薬の類であることは分かることだろうが!」
「止める第三者が居れば、その可能性も考えられただろう。だが全員が陶酔している状態なら、それは無理な話だ」
強引に杏子の話を止めさせると、そこから思い出話が再開される。
ジョーカーマンドラゴラ入りの食材は大繁盛した。独学ではあるが父親はジョーカーマンドラゴラの完全な養殖に成功し、子供たちもまた成長し続けるジョーカーマンドラゴラを見て、その成長を美しいと感じていた。
だが蜜月の時は長くは続かない物。
IGOからジョーカーマンドラゴラが第一級の麻薬食材と認定されてから、一家は全員グルメ刑務所へと搬送されそうになるが、間一髪のところで成体になりつつあったシャドーミノタウロスに助けられ、一家は逃げるように常闇の森へと消えて行った。
そこからは追っ手が来ないのをいいことに一家は常闇の森でジョーカーマンドラゴラを栽培し、裏ルートでさばいていき生計を立てていき、その様子を兄弟たちは見守りながら、兄は調理法の模索、弟は効率的な栽培方法を探し、一家と一匹は仲睦まじく暮らしていた。
そうして兄弟たちは大人になっていき、父親が病気で他界した後も兄弟は父の意志を受け継ぎ、ジョーカーマンドラゴラと共に生きて行こうと決めた。
全ての話を聞き終えると杏子の中で胃がムカムカとした焼けるような感覚を覚える。
あまりにも身勝手な話に怒りの感情が強まっていくのが分かる。
今は体力の回復を最優先すべきなのだろうが、感情に負けてしまい、杏子は感情の赴くままに話していく。
「言いたいことはそれだけか? 自分たちが被害者だ。犠牲者だとでも言いたいのか?」
「君こそ話をちゃんと聞いていたのか? 私たちは別に世間を恨んでなどいない。ただ純粋にジョーカーマンドラゴラを栽培して、それを世に送っているだけだ」
この冷静な物言いに杏子の中で冷静な感情は完全に無くなる。
眉間にしわを寄せて怒りと憎しみに満ちた目を浮かべると、ブラッドベリー相手にまくしたてるように叫ぶ。
「ざけんな! その結果、どれだけの人間が死に絶えたと思ってんだ!?」
「食べるのは個人での自由だし、自己責任だ。美食屋たちは人の邪魔をしたから、私は私でシャドーミノタウロスとと共に迎え撃った。言うならば生存競争だ。誰にどうこう言われる筋合いなどないよ」
単純な理屈だけを言うならば、トリコが普段から口にしているそれと変わらない。
だが根っこは全く違う物だった。
美味しい物を共に分け与えようとしているトリコ。苦痛だけをまき散らすブラッドベリー。
一瞬ではあっても目の前に居る豚をトリコと同じと思ってしまった自分が情けなくなり、最後に宣戦布告とばかりに槍を突き出すと勢いよく杏子は叫ぶ。
「これ以上の言葉は何の意味もない。テメェはここでぶっ潰す!」
勇ましい叫びと同時に杏子は槍を持って突っ込んでいく。
相変わらずの単調な攻撃をブラッドベリーは鼻で軽く笑いながら横にかわそうとするが、その瞬間足元に妙な違和感を感じ、それに気付いた時には自分の体は後方に倒れこんでいた。
心臓に向けられていたと思っていた槍はブラッドベリーが体を横にかわしたところで、下方へと持っていき、槍を足に絡ませて前方に持っていって、その体を倒したのだった。
すぐに起き上がろうとするが、ここで袖の部分に何かが引っかかる感覚を覚える。
右袖をブラッドベリーが見ると、槍が突き立てられているのが見え、空いている左手を伸ばして槍を引き抜こうとした瞬間に自分の眼前が陰で覆われるのが分かる。
杏子は利き腕である右腕を突き出して、袖に仕込んでおいた武器を射出させようとしていた。
「またパウダーペッパーか? 芸の無いことだ!」
いいようにされたことが悔しいのか、ここでブラッドベリーに怒りの感情が表立って出る。
槍を左手で引き抜くと、勢いよく立ちあがってそれを持って杏子に突き刺そうする。
それでも杏子は意に介さず、紐を外側に向けて引くと袖に仕込んでおいた武器が一気に射出される。
ブラッドベリーの予想通り、コショウでの目潰しが射出された。
変わり映えのない攻撃を二度も食らうわけがなく、ブラッドベリーは両腕を交差してコショウの攻撃を顔面から守る。
「よかったよ、お前が予定通りに動いてくれてな」
一瞬言っている意味が分からなかったブラッドベリーだが、それは杏子の次の行動ですぐに理解できた。
オイルが満タンの状態で入ったジッポライターを火が付いた状態で投げつけるが、ブラッドベリーは軽く手で払ってその攻撃を払う。
ほんの少しだけ火の粉が体にかかっただけにも関わらず、ブラッドベリーを襲ったのは致命傷レベルの攻撃だった。
火の粉は瞬く間に自らを包み込む爆炎へと変わり、その体は深紅の炎で包み込まれた。
「ぎゃあああああああああああああ!」
初めての致命傷レベルの攻撃にブラッドベリーの声から悲痛な叫びが発せられる。
勝負が決したと判断すると、これまでの疲れがドッと押し寄せてきて、杏子は荒い息づかいで暴れまわるブラッドベリーを無視して、その場にへたり込む。
そして袖に仕込んでおいてくれたトリコの武器に感謝していた。
「左の袖には下準備用のパウダーペッパー、右の袖には着火用の『ファイヤーペッパー』か……」
右袖に仕込んでおいたのは普通に食べれば程よい辛さの赤いコショウ、ファイヤーペッパー。しかしパウダーペッパーと組み合わせることで強力な着火剤となり、火の粉程度の炎でもあっという間に火を起こせるコショウ。
自分の槍の技術だけではグルメ細胞を移植された悪人を倒すのは不可能。それを分かっていた杏子は初めからこのコンボを成立させるチャンスを狙っていた。
目の前で炎に包まれながらブラッドベリーは動き回ることも止めて、大の字になって前方に倒れ込む。
肉が焼け焦げる不愉快な匂いが杏子の鼻に匂ってくるが、細やかに指を動かしているあたり、死んではいないだろうと判断して最後に杏子はジョーカーマンドラゴラの駆除にあたろうと小屋の中に何か使える物はないかとフラフラとした足取りで立ち上がる。
完全に意識がブラッドベリーから、ジョーカーマンドラゴラの駆除に映ったのを見逃さなかった男が一人居た。
荒い息づかいで鍵のかかっていないドアを開くと同時に、ブラッドベリーは勢いよく立ちあがって杏子に襲いかかった。
突然目の前に重度の大火傷を負った大男が襲いかかる異常事態に杏子は驚きもしたが、すぐに迎え撃とうと槍を構えるが、その時第三者の存在が介入しようとしていることに気づく。
(トリコか?)
「シャドーミノタウロスじゃない……」
目の前に現れたトリコを見ると、杏子はトリコがシャドーミノタウロスとの勝負に勝ったのを確信して、ブラッドベリーは長年連れ添った家族が居なくなったのを確信し、杏子のことも忘れて怒りと憎しみに満ちた目でトリコと対峙する。
二人は互いに距離を取りあって牽制しあっていたが、興奮しきっているブラッドベリーと違って、トリコは至って冷静であり先程まで走っていたので呼吸を整えることにどちらかというと集中していた。
「よくも私の家族を!」
「シャドーミノタウロスはオレのために命を分けてくれた。お前にはまだ家族を想う心があるんだ。それならばやり直せるはずだ」
トリコの説得にもブラッドベリーは応じず、荒い息づかいで何度もトリコとの距離を詰めようとタイミングをうかがう。
包丁の切っ先を何度も何度も自分に向けるブラッドベリーを見て、トリコは右手の指を一直線に伸ばすと、これまで理論上だけで実戦では一度も使ったことがない新技を繰り出そうしていた。
「死ね!」
我慢比べの限界に達したのはブラッドベリー。
包丁を突き立てて一気に突っ込んでいくブラッドベリーを見ると、トリコはまっすぐ突き立てた指で釘パンチを打つように突き出す。
「一点集中5連アイスピック釘パンチ!」
その技はこれまで頭の中では出来上がっていたが、実際に使えば自分の体が崩壊するのは分かっていたため、封印していた貫通力のみを特化させた釘パンチ。
エネルギーの補給が出来ていたとはいえ、まだ無理のある攻撃に右手に激しい筋肉痛を覚えたトリコは苦しそうに右腕を押さえながらも吹っ飛んでいくブラッドベリーを見つめた。
小屋に激突すると小屋はブラッドベリーと共に崩壊していき、丸太の海がブラッドベリーを埋め尽くす。
小刻みに震えるブラッドベリーの両足を見ていると死んではいないことが分かり、これで任務は遂行できたことが分かる。
トリコは筋肉痛を押さえながらも杏子の元へ向かうが、杏子はブラッドベリーの体に現れた変化が気になり、ずっと彼の方を見ていた。
それは彼の体からスチームのように熱気を放ち続けていたからだ。
そして熱い熱波が消えてなくなると、ブラッドベリーははいずりながらも丸太の海から出てくる。
「何だこりゃ!?」
ブラッドベリーを襲った変化に杏子は素っ頓狂な声を上げる。
贅肉で覆われた肥満体の肉体はトリコのアイスピック釘パンチの熱エネルギーで一気に脂肪が燃え上がり、ブラッドベリーの体から脂肪は一気に消え失せ、たるんだ皮だけ残っていた。
まるでくたびれた座布団のようになったブラッドベリーを見て、杏子は何も言えなくなってしまったが、トリコは冷静に小屋跡から灯油を取り出すとジョーカーマンドラゴラの畑に向かってまき散らし、マッチを擦って炎を付けて畑に放つ。
畑は勢いよく燃え上がり、中に居たジョーカーマンドラゴラの果実ごと燃えていく、その様子を二人は何も言わずに見つめていたが、杏子と目が合うとトリコはニッコリと笑って杏子の頭を撫でた。
「よく頑張った。お前の勝ちだぜアンコ」
「バカ、ほとんどお前が仕留めたようなもんじゃないか。だけどあれはさすがにやりすぎじゃないのか?」
照れくさいのか杏子は強引にトリコの手を振り払うと、ブラッドベリーの方を指さす。
未だに急激な体重の変化が苦しくうめき声を上げているブラッドベリーはさすがに見るに堪えない物があり、明らかに格下の相手に対してやりすぎなのではないかとトリコに苦言を呈す。
「それはまぁちょっとしたミスであってな……」
バツが悪そうな顔を浮かべるトリコの言っていることが分からず、杏子は間の抜けた顔を浮かべていたが、トリコは懐から拘束具を取り出すとブラッドベリーに着せて縄で括りつける。
「本来は伸縮自在のそれを用意しないといけないんだがな。ちょっと間違えてサイズの調節が効かない旧型を持ち出しちゃってな」
「肥満体の体じゃその拘束具には入らないから、新技の実験を兼ねて強制的にダイエットさせたってわけか」
「そういうことだ」
それだけ言うとトリコはブラッドベリーを引きずりながら帰ろうとするが、ここで依頼のもう一つの内容を思い出すと小屋跡から何かを探していた。
「飯なら用意してあるだろ?」
多分エネルギーの補給のために食事を探しているのだろうと杏子は思っていたが、トリコが探しているのは全く別な物だった。
それまで依頼を無事にやり遂げた達成感から穏やかな気持ちになっていた杏子だが、トリコが手に持った物を見るとその気持ちは一気に吹き飛ぶ。
「お前それはジョーカーマンドラゴラじゃないか!」
データを入力すれば食材を入れるだけで最も適した保存状態を保ってくれる『グルメケース』に入れようとしているトリコの手を杏子は止めようとする。
一個だけでも持ち帰ろうとしているトリコが信じられなかった杏子だが、トリコはパニック状態になっている杏子をなだめながらトリコはゆっくりと話し出す。
「落ち着け! 今回の目的はせん滅じゃなくて確保だ。最低でも一個は残して持ち帰らないといけないんだよ」
「こんなもん持ち帰って、テメェ何をどうするつもりなんだ!?」
人間を肥料にする麻薬の存在を許すことが出来ず、杏子は完全に気が立った状態でトリコに食ってかかるが、トリコは完全に自分を見失っている杏子をなだめながらも目的を話し出す。
「クロストリジウム属の細菌で1グラムの殺傷力は約100万人と言われているボツリヌス菌と言う強力な毒素がある」
「はぁ? ボツリ……ヌ……ス?」
いきなりボツリヌス菌の話をされて、杏子は今までの怒りも忘れて困惑した顔を浮かべていた。
少し難しすぎる例えだと思ったトリコはレベルを一つ下げて話しだそうとする。
「食中毒の原因となる細菌の一つさ。ちょっと難しすぎたかな? じゃあニトログリセリンは分かるか?」
「爆弾の元だろ? バカにしてんのか!?」
トリコの真意が分からずにいら立った声を上げる杏子。
この時点で話を聞ける状態になったと判断したトリコは本題に戻して話し出す。
「だがボツリヌス菌はその毒素を筋肉に注射することで、筋肉の痙縮を改善する治療法があるし、ニトロは心臓病の薬になる。これだってそうなる可能性はあるだろ?」
諭されるようにトリコに言われると、杏子の心に冷静な感情が戻ってくる。
ジョーカーマンドラゴラはそこにあるだけの存在、悪いのはいつだってそれを言いように利用する人間。
麻薬に溺れている客たちを見て、魔法少女としての苦い記憶が一気に蘇ってしまい、この任務を全て無に返すことで終わらせようとしていたが、トリコの言葉でジョーカーマンドラゴラにもそこに居ていい意味があるのではと思う。
「オレらが利用価値を見出してやらないと、ジョーカーマンドラゴラはただ忌み嫌われるだけだ。それを毒にするか薬にするかなんて使う奴次第じゃないのか?」
「毒にするか……薬にするか……」
言葉が重く杏子の心にのしかかる。
絶望しかない魔法少女との契約と違い、トリコの話を聞けば、自然にある物をどう利用するかなんて人間次第だ。
それを悪にするか善にするかは全ては使う人次第。
何もかもを否定して潰すだけでは、殺傷事件が起こるから包丁を規制する。事故が起こって死人が出るから車を規制すると言う馬鹿げた考えと同レベルだ。
トリコの真意を知ると杏子は俯いたまま小さく「ゴメン」とだけ言う。
分かってくれたのを見るとトリコは杏子の頭を撫でて、ブラッドベリーを引きずったまま常闇の森を後にしようとしていた。
真っ暗な森をトリコに続いて歩く中、杏子は元居た世界での一人の少女のことを思い出していた。
(まどかの奴、あれからどういう選択をしたんだ? やっぱり魔法少女になることを選んだのか?)
心配に思うのは元居た世界に残してきたまどかのこと。
あれだけのことが起こっても、魔法少女の真実を知っても慈愛の塊のような存在なまどかはワルプルギスの夜と戦うためにキュゥべえと契約したのだろうか。
あの呪いとも思われる力でさえ、まどかは薬にすることができたのだろうかと、その事ばかりが頭をよぎっていた。
完全に意識が別なところに行っていたため、杏子は気が付かなかった。
何度も何度も咳き込むトリコのことを。
***
グルメフォーチュンで今日も占い師としての仕事を終え、ココは椅子にもたれかかると深くため息をつく。
体中に血が巡るのを感じていて、心地よい感覚に身を任せていたが突然使っていた水晶玉から異質な電磁波を感じ取る。
何事かと思い、慌てて見てみるとそこに映っていた未来にココは驚愕の表情を浮かべた。
「何だこりゃ……」
そこに映っていたのは別人のようにやせ細り、ベッドに横たわるトリコ。
隣では寄り添って泣きじゃくる杏子の姿も見えた。
あまりに衝撃的なイメージが広がっていくのが信じられず、反射的にココはテーブルごと水晶玉を蹴飛ばすと、自分の心を落ち着かせようと壁に背中を預けて平常心を保とうとする。
「落ち着け……ボクの占いが当たる確率は97%、3%は外れるんだ。きっとトリコならその3%の未来を……」
美食屋なんて常に危険と隣り合わせの仕事をやっている以上、死と言うのは自分たちの間で常に日常の一つとして存在している物だと思わなければいけない。
だがそれでも子供の頃からの親友がそうなるイメージを否定したく、ココは必死になって心に平静を取り戻そうとしていた。
そんな中でも水晶玉は未来を映し出していた。
ブタ鼻でスポーツ刈りのコック服に身を包んだ小柄な青年が、野菜の天ぷらを揚げている光景を。
本日の食材
パウダーペッパー 捕獲レベル2
一見すれば普通の黒コショウだが、その気になれば火薬としても使うことが出来るコショウ。
食べれば燃えるようなスパイシーな感覚が襲う。
ファイヤーペッパー 捕獲レベル1
真っ赤なコショウであり、単体で食べればただの激辛コショウだが、パウダーペッパーと組み合わせることで強力な発火剤になる。
と言う訳でジョーカーマンドラゴラの完結編になりました。
杏子の戦闘はここでは初めてなので慎重に書きました。
次回はトリコと言う漫画のヒロインさんを登場させる予定です。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。