蒸し暑くジメジメと湿った空気だけが漂い、時折吹く風も熱風と間違えるぐらい生温かなそれに杏子の苛立ちは募る一方だった。
ツナギの胸元をはだけて体に新鮮な空気を送り込むが焼け石に水であり、何度も何度も額に浮かび上がる汗をハンカチで拭いながらも、トリコの治療のための最後の食材『ブラックタイガー』が居ないかと思って、目を皿のように丸くして辺りを見回すが、目に飛び込んでくるのは亜熱帯地方特有の巨大な植物ばかり、今歩いている道もトリコがナイフで巨大な植物を切り裂いて、その後を続いている状態であり、フラストレーションだけが溜まる一方だった。
「メインの食材だから後回しにかと思っていたが、そういうことだったんだな……」
自分の無力さを自嘲するかのように杏子はつぶやく。
治療のための最後の食材ブラックタイガーが生息するのは美食屋の間でも中級レベルとされる湿原。『マリン湿原』をいきなり杏子に挑戦させるのはかなり危険だからと、ココに念を押されたことからトリコはメインの食材を最後に回しておいた。
この湿原に挑戦する前、トリコは杏子に遺書を書かせた。
元々いた世界では死んだ上に何もない自分が書くことなど何もないと杏子は言ったが、トリコにしては珍しく真剣な顔を浮かべて書くことを強要させたので、一応杏子は書いたが書き終わってからその真意が分かった。
常に生きて帰って来るぐらいの覚悟は持っていて当たり前。
だが勝つとばかりも限らない世界で常々生きているトリコたちに取って、遺書を残すと言うのはある意味で挑戦する大自然に対して敬意を表しているのだと。
トリコの後を付いて行きながら、杏子は最後の食材ブラックタイガーに付いての情報をグルメディクショナリーで調べる。
自分が居た世界ではエビの一種なのだが、この世界のブラックタイガーは全くの別物だった。
エビの頭に虎の体を持ち合わせた水陸両用の獣であり、捕獲レベル29と言うかなりの難敵であり、普段なら馬鹿馬鹿しいと呆れかえるだけなのだが、場合が場合なだけにブラックタイガーに対して突っ込める余裕は無く、杏子は自分に出来ることはサポートだけだと思い、入念にブラックタイガーに付いての情報を得ようとする。
そんな時液晶画面に水滴が落ちたのを知り、杏子は上を見る。
パラついてきた雨は瞬く間に本降りになっていき、湿原特有の変わりやすい天気を見抜いたトリコはすぐに杏子の手を取ると近くの崖下に身を寄せて、テントを広げようとする。
「オイいくらなんでもキャンプには早すぎるだろ……」
日没になってからなら話は分かるが、まだ太陽が出ている中でこの日は休もうとしているトリコに杏子は抗議の声を上げるが、困惑している部分もあった。
豪放磊落で思い立ったが吉日をモットーにしているトリコが、ここまで慎重になると言うことはブラックタイガーとはそこまで危険な相手なのかと思ってしまい、先程までどこかでダジャレで付けられたバカな猛獣だと見下していた気持ちも少しずつ消え失せて行くのを杏子は感じていた。
テントが完成するとトリコはすぐに杏子の手を取って半ば強引にテントに引きずり込むと、チャックを閉めて腰をどっしりと下ろす。
先程まで道を切り開いていたいことはトリコに取ってもかなりの体力を消耗していて、荒い息づかいを整えながら、杏子と向き合ってなぜ今テントを広げたのかを話し出す。
「ブラックタイガーはかなりの強敵だ。それもかなり警戒心が高く、自分が確実に勝てる狩りしかしない。迂闊に突っ込んだら返り討ちにあう可能性だってある」
「警戒心の高さってのは、この辺りに居る猛獣全員に言えることだけどな……」
杏子は事前に調べておいた情報からマリン湿原の猛獣の主な特徴について語りだす。
それは生きるため、そこに居る全員の警戒心が他の地域の猛獣に比べて異常に高く。
本当に勝てる狩りしかしない主義であることが分かり、これまで自分たちが無事に歩めてきたのはトリコの存在が大きいと改めて杏子は思っていた。
だが警戒心が高いのは決して喜ばしいことばかりではない。
確かに警戒心が高ければトリコから離れなければ襲われる心配は無いが、それゆえにブラックタイガーが自分たちを襲う時と言うのは本気で覚悟を決めた瞬間。
捨て身の相手の恐ろしさと言うのは依然影の魔女を剣で何度も何度もズタズタに引き裂いたさやかを見ていたのでよく分かること。
それでなくてもこの地域の猛獣は餌にありつく機会が他の地域の猛獣に比べて少ない。
飢えている相手の恐怖と言うのも自分自身十二分に分かっていることなので、トリコの行動は慎重になりすぎているとは言えない。
もしもの時に備えて杏子は用意された雨具と豪雨の中でも視界を確保できるゴーグルを身に付けると、トリコに対して準備が出来たことをアピールするが、トリコは手を差し出してこれ以上杏子に行動をさせないようにしていた。
その表情は獲物を狙うハンターの目になっていた。
真剣な表情を崩さないまま、両手をこすり合わせて自分自身に気合を入れて行くと、トリコはゆっくりとチャックを開けて辺りを見回す。
お互いに射程距離には入っていないが臨戦態勢になっているのを感じ取ると、トリコは杏子の身の安全を守るため、テントから出るように促す。
下手にこの場に残しておけば、杏子は瞬く間に猛獣たちの餌食となって骨一本残らないであろうと言うのは杏子にも理解できたこと。
小さく頷くと杏子はトリコに続いて外へと出る。
その瞬間耳をつんざくような轟音が杏子の耳を襲う。
自然の豪雨はダムの放水と見間違えるぐらいの音が辺りに響き渡っていて、雨具をガッチリと着込んでいるにも関わらず、わずかな隙間から水の冷たさが襲いかかり、体温を奪われる感覚が襲いかかる。
まともに耳が機能しないことに杏子は苛立ちを感じだすとトリコの手から手渡されのはヘッドホン。
同じ物をトリコが身に付けているのを見ると、杏子も同じようにヘッドホンを耳に装着する。
その瞬間耳に響き渡っていた轟音は消えてなくなり、静寂が杏子の耳に戻った。
落ち着きを杏子が取り戻したのを見ると、トリコは指でヘッドホンの側面部に付いているボタンを指さす。
何だろうと思いながらも杏子がボタンを押すとトリコも同じようにボタンを押して、内部に仕込まれていたマイクを外に出す。
『聞こえるか?』
初めて扱う代物だけにちゃんと機能しているかどうかを杏子に聞くトリコ。
今付けているヘッドホンが防音機能だけではなく、特定の人物との会話も可能なトランシーバーとしての機能が付いているのも分かると、杏子も同じようにマイクを出してトリコと会話をする。
『大丈夫だ。これからアタシはどうすればいい?』
『オレのそばを離れるな。もうすぐ怖いのが来るぜ……』
狩りをする時の声色であることを杏子は知ると、トリコと同じ方向を向く。
先程まで轟音で耳が全く機能していない状態だったが、落ち着きを取り戻すと前方から襲ってくる威圧感が自分にも伝わってきた。
全く聞こえないはずなのに耳元に伝わるのは、少しずつ自分たちの元に近づいてくる足音。
威圧して相手を怯ませようとしている野生に対して、トリコも同じように指の関節を鳴らしながら額に血管を浮かび上がらせて威嚇を行う。
トリコの背後で広がったのは夜叉のイメージにも怯まずに豪雨の中から現れたのは、巨大な虎だった。
エビの頭部に虎の体、その色は漆黒に染まっていて、一見すればコラージュのような間抜けな姿だが、今の杏子にその事を笑う余裕は無かった。
5メートル近くあるその姿は出会った瞬間に死の覚悟を決めなければいけないほどのインパクトがあり、うめき声にも似た雄たけびを上げながら何度も後ろ足を蹴りあげて、トリコと杏子を食べようとしていた。
「さすがに捕獲レベル29は伊達じゃないな。オレも本気で行かせてもらうぜ」
以前捕獲レベル34のシャドーミノタウロスを撃破したトリコだが、それは相性の問題と言うのもあり、単純な力比べ勝負しか出来ないシャドーミノタウロスとは自分に取って相性のいい相手だった。
だが今目の前に居るブラックタイガーは長い間餌にあり付いてなく、狡猾で二重、三重にも策を用いてくる相手だろう。
警戒心の高い獣と言うのはそう言う物だ。覚悟を決めても決して無策では突っ込まない。
そう自分の中で算段している間にブラックタイガーは雄たけびを上げながらトリコに向かって、まっすぐ突っ込んでいき大きく口を開けてトリコを食べようとしていた。
それをトリコは身を屈めてかわし、自分の頭を通り過ぎようとした瞬間、無防備になっている腹の部分に向かって拳を突き立てて飛び上がり、アッパーカットを食らわせるが、トリコの手に広がった感覚は獲物をしとめた手応えではなかった。
甲殻類特有の硬い殻は腹の部分にまでびっしり覆われていて、ブラックタイガーの体を守っていた。
手に痛みを感じる暇もなくトリコの頭上をブラックタイガーは通過していくと、振り返って再びトリコと向き合う。
先程と変わらず獲物を見定める目で自分を見る辺り、ブラックタイガーにダメージは無いと踏んだトリコ。
生半可な攻撃では逆にこっちがダメージを負うだけだと分かったトリコは手をこすり合わせて金属音を響かせると、まっすぐ突っ込んで今度は自分から勝負をかける。
「ナイフ!」
振り下ろされた手刀はどんな生き物でも急所にあたる頭部へと振り下ろされる。
攻撃に対してもブラックタイガーは臆することなく、額を前面に突き出すとトリコのナイフに勢いが付く前に強引に止めた。
次の瞬間トリコの手に広がったのは痛みにも似た痺れ。
動きが止まったのを見るとブラックタイガーは前足の爪を立てて、一気に勝負を付けようと右の前足を振り上げてトリコに襲いかかる。
だがその瞬間にトリコの口元が邪悪に歪む。どんなに防御に長けた相手でも攻撃に転じる瞬間だけはそれがおろそかになるのをトリコは知っていて、爪が自分を切り裂く瞬間に左手を爪に向かって突き出す。
「フォーク!」
カウンターでトリコの左手のフォークが爪と肉の間の部分に綺麗に刺さる。硬い殻で覆われた体でも節目節目の部分は脆い物。
トリコの左手が刺さった肉の部分からは激しい出血が噴き出し、ブラックタイガーは自分の身を守るように後方に飛んでトリコと距離を置く。
負傷した前足をかばうように引きずりながらも、その目は闘志を失っておらず、今度は直接噛みつこうと口を大きく開けて牙をむき出しにしながら雄たけびをあげる。
(時間はかかるが、ここは焦らずにゆっくり体力を奪ってからしとめる作戦で行くか……)
実際に戦ってみて手こずる相手ではあるが、決して勝てないレベルではない。
無理をしなければ十分に倒せる相手だと踏んだトリコは、今のままのスタイルでブラックタイガーが攻撃に転じた瞬間にのみ、こちらも攻撃を加えるカウンター戦法の作戦で行くことが脳内で決まる。
そんなトリコに構わずブラックタイガーは雨脚が強まったのと同時にまっすぐトリコに向かって突っ込む。
豪雨で自分の気配は消えてなくなるが、トリコならばその優れた嗅覚でブラックタイガーの行動は大体分かり、今度は口の中に直接パンチを叩きこもうと右腕に力を込めて筋肉を膨張させていく。
「5連釘……」
一気に勝負を決めようとした瞬間、日本刀で切り裂かれたような感覚がトリコを襲う。
感覚の正体に気付いたトリコは半ば強引に体をよじらせてブラックタイガーの突進をかわすと、すぐに遠くで戦いを見守っていた杏子の元に駆け寄る。
「ちょ、何だよおま……うぉ!」
杏子の抗議の声も聞かずにトリコは彼女の首根っこを掴むと勢いよく、後方に投げ飛ばす。
その姿が見なくなったのを感じるとすぐに振り向いて、勢いを付けたまま襲ってくる存在に釘パンチを放つ。
だが狙いが定まっていなく、杏子を安全な場所に送り届けるために貯めていたパワーの大半を使ってしまったパンチは敵に致命傷を与えることはできず、その軌道を狂わせるのが精一杯だった。
豪雨の中現れた二つの影を見るとトリコの顔色も曇り、額からは冷や汗が出てくる。
「生きるために手段を選ばない、野生なら当然の判断だろうな……」
だがそれでもまさか単体で基本的に狩りを行うブラックタイガーが二体掛かりで襲ってくるとは予想の範疇を超えていて、トリコは脳内で作り上げられたプランが実行できないことを悟った。
カウンター戦法は相手が一体の場合にのみ出来る戦法、二体で襲いかかられたのでは俊敏さに対応が出来ずに自分は餌になるのがオチ。
そうなると残された戦法はたった一つ。やられる前にやる。自分がもっとも得意としているシンプルで原始的な力比べだけだった。
「いいぜ。相手になってやるよ」
自分の中で覚悟が決まるとトリコは指の関節を鳴らしてゴング代わりの合図を二体に送る。
それと同時に雨脚は更に強まり、二体はトリコが自分たちの姿を目で追えなくなったのを直観的に感じ取ると、双方別方向に分かれて右と左から飛びかかってトリコを食べようとしていた。
「そうか、お前らそんなにオレを食いたいか? オレもお前らを……」
食いかかろうとした瞬間、それぞれに腕を突き出して筋肉を硬直させる。
完全に覚悟を決めたトリコの筋肉はブラックタイガーの牙を受け付けず、二体のブラックタイガーはそれぞれトリコの拳に噛みついた状態のまま宙に浮いてしまい、どうしていいか分からず足をジタバタさせることしかできなかった。
トリコはそんな二体を前方に投げ飛ばす。体が地面に付くと二体は即座に起き上がって戦闘意欲が無くなっていないのをアピールする。
「オレもお前らを食いてぇ!」
原始的で何の混じりけも無い純粋な殺意しかトリコには無かった。
お互いがお互い生き延びるための野生の勝負。ブラックタイガーたちとトリコは再び突っ込んで互いを食らおうと戦っていた。
自分たちの未来を掴み取るために。
***
いきなりトリコに投げ飛ばされた杏子が行きついた先は豪雨をも遮る深い森の中だった。
大きすぎる木は自然と雨を地面にまで届かせず、まるで家の中にでも居るような安心感が杏子を包み込んだ。
何が何だか分からない状態ではあるが、トリコのことだから考えなしにやったとは思えないと思った杏子は自分が出来ることをやろうと自分を受け止めてくれた巨大な蓮の葉から起き上がると、生命線とも言えるであろう通信機器が無事であるかどうかを確かめる。
ヘッドホンを付けて今も戦っているであろうトリコの声を聞く。
叫び声と共に何度も轟音を響かせている辺り、まだトリコは無事でありそして通信機器の方も機能していることが分かると、杏子は葉っぱから降りて森の探索を始める。
性格的にただトリコの助けを待っているだけと言うのが合わないと言うのもあるが、変に一つのところに立ち止まっていたのでは猛獣たちに自分の体を差し出すような物。
自分を守るためにも杏子は歩くことを決め、森の中を歩きだした。
先程までは道なき道をトリコによって切り開いて貰った状態なのだが、この森はなぜか理路整然となっていて、まるで人の手で舗装されたかのようにある一点だけは人が通れるような道になっていた。
まるでRPGの世界にでも迷い込んだような印象を受けたが、今自分が居るのは自分の常識が何一つ通用しないデタラメな世界。
一々驚いていたのではキリが無いと判断した杏子は開き直って、草が生い茂ってない舗装された道を歩き続ける。
薄暗い森の中を歩くのは予想以上に体力を消耗したが、はるか先に淡い朝焼けのような優しい光が目に飛び込む。
光に吸い寄せられるように杏子は歩み続ける。足に感じていた疲れも忘れて歩き続けた先にあったのは小さな木になる黄金に輝く桃たちだった。
木その物は自分の世界では一般的な数メートル大なのだが、周りにあるのが異常に大きな木ばかりなので中央にポツンと佇むそれが小さく見えてしまうのは当然のこと。
いつの間にかこの世界に毒されていることに苦笑しながらも、杏子はグルメディクショナリーを開いて桃の正体を確かめようとレーザーを当てて情報を得ようとする。
だが次の瞬間画面に現れた情報に杏子は困惑の表情を浮かべる。
『この食材は本辞書に登録されていません。発見者であるあなたが命名してください』
まさか新食材を自分が発見するとは思っておらず、杏子の中での感情は感動や喜びと言うよりも困惑だけだった。
だが本格的に美食屋としてを歩む以上、こんなことは日常茶飯事だろう。
いつの間にか自分がトリコに甘えているだけの存在なのが許せなくなり、杏子は自分もまたやるべきことをやろうと思い、入力画面に変化した液晶に見つけた桃の名前を命名する。
「『黄金モモ』と……」
安直なネーミングではあるが、こう言う物は奇をてらった物よりもシンプルに言った方が分かりやすい物だと杏子は思い登録のボタンを押す。
名前が決定するとすぐにグルメディクショナリーの中で情報がアップデートされていく。
後のことはこちらの仕事ではないと判断した杏子はトリコのため、そして自分のためにいくつか黄金モモを貰おうと手を伸ばす。
その瞬間殺気を感じ取り、杏子の手は止まり即座に背中に背負った槍に手を伸ばして臨戦態勢を取る。
物陰から現れたのは2メートル大の猿、だが自分の世界と違うのは覆っている体毛の色だった。
金色に輝くそれは目には鮮やかに写るが、自分の元にゆっくりと近づくそれに対して杏子は警戒心を最大に強めることしか出来なかった。
ゴリラと言うよりは巨大な金色のチンパンジーと言った印象を受けた。出しっぱなしになっているグルメディクショナリーで情報を得ようとすると先程と同じ画面が液晶に現れる。
『この猛獣は本辞書に登録されていません。発見者であるあなたが命名してください』
食材と違って猛獣の情報が得られないのは杏子に取ってショックな事実だった。
目の前に居る大きなチンパンジーがどんな猛獣なのか分からない以上、どう行動していいか分からず杏子はとにかく槍を突き出したまま威嚇することしかできなかった。
そんな杏子に構わず金色のチンパンジーは顔を大きく近付けると、杏子の近くに鼻をよせて匂いを嗅ぐ。
何回か鼻をスンスンと鳴らし、自分の中で品定めが終わると杏子から興味なさそうな表情を浮かべて、背中を向けて立ち去ろうとする。その背には骨を加工したような棍棒状の武器が担がれていた。
どうやら餌として食べられるかどうかを判断しようとしていたのであろう。
結果自分は食べられない物だと判断を受け、狩りの対象にはならないとなった。
多少怒りを覚えた杏子だが今はそんなことに構っている暇は無い。
トリコのためにも黄金モモを持ち帰ろうと手を伸ばした瞬間、金色のチンパンジーの顔色が変わる。
明らかに怒りの表情を杏子に向けていて、何度も唸っている様子から先程とは違い、杏子が路傍の石ころと変わらない存在から排除すべき存在へと変わっていた。
(何なんだよこの『ハネザル』は!?)
思わず反射的に杏子は脳内で目の前のチンパンジーに『ハネザル』と命名してしまう。
やられる前にやってしまおうと杏子は反射的に槍を突き出すが、それよりも早くハネザルは杏子の両肩を掴むと激しく揺さぶる。
動物特有の奇声が耳元で叫ばれる。それは先程までの豪雨とは比べ物にならないぐらいの騒音だった。
耳が機能しないのを杏子が感じていると、ハネザルは感情に任せて杏子をそのまま前方に投げ飛ばす。
投げ飛ばされた先は柔らかい植物の上だったのでダメージ自体は無いが、杏子は飛び上がったハネザルをしっかりと見据えて反撃の体勢を整えようとしていた。
ハネザルは完全に杏子を異物として排除しようとしていて、飛び上がりながら背中に背負った骨の棍棒を持つと杏子に向かって突き出す。
次の瞬間、予想外の事態が起こる。
棍棒は三節棍のように伸びて行き、間が鎖で繋がれているそれは勢いよく杏子に襲いかかった。
当たる直前に杏子は体を少しだけ捻って最小限の動きで三節棍の攻撃をかわすが、当たった先を見てみると地面が抉れ、自分がこの攻撃を一発でも食らったらその時点で命は終わると判断してしまった。
(まさかアタシと似たようなのとやるとはな……)
魔法少女だった頃も自分と同じ武器を使う相手との経験が無い杏子に取って、初めて戦う似たようなタイプがチンパンジーなのには少し苦笑したが、立ちあがると槍を構えながらどう戦おうか頭の中で作戦を立てる。
まともに戦っても勝てるわけないのは分かっている。
相手は依然戦ったブラッドベリーのような人間ではなく、警戒心の高い野生の獣。
自分に襲いかかったのだって自分が確実に仕留められる相手だから襲いかかったのだろう。
一切の慢心や油断は期待できない以上、自分が生き残るための手段は一つしかないと判断した杏子は首にかかったままのヘッドホンに手をかけると来るべきチャンスの時を待つことにして、槍を構えながら牽制を繰り返していた。
(格好がいい作戦とは言えないが、全ては生きるためだ! さやか……)
自分の身を持って影の魔女戦で自分の真意を分かってもらおうと、自分の後ろで魂の状態のまま付いているさやかに語りかけようとする。
まださやかと同じところに行くわけには行かない。自分にはやるべきことがあるのだから。
生きるための戦いをするため、今杏子とハネザルの勝負が始まった。
***
強くなる一方の雨脚は徐々にトリコの体力を奪っていき、トリコは荒い息づかいで二体のブラックタイガーを必死で見失わないように見ていた。
鼻で位置を確認しようとしてもあまりの豪雨で匂いを識別できない状態になっていて、トリコは視覚面でのハンデがある状態で二体の強敵と戦わなければいけない状態となってしまい、何とか反撃に転じようとファイティングポーズを取るのがやっとだった。
消耗しきっているトリコをゆっくりしとめようと二体のブラックタイガーが共に取った行動は一つ。
激しい雨の中で出来た水たまりの中に身を隠し、その中を泳ぎながら僅かに残った陸地の上に居るトリコの気力と体力が尽きるのをゆっくりと待ち、その瞬間が訪れれば最後は二体で一気にしとめると言う作戦に出た。
トリコは荒い息づかいを整えながら、両腕に力を込めて最後の攻撃に転じようとしていた。
勝つにしても負けるにしてもこれがお互いに取って最後の攻撃になるだろう。
覚悟を決めてトリコはブラックタイガーたちが水面から出るのをジッと待ち、奴らが攻撃に転じるその一瞬の瞬間を狙っていた。
我慢比べに最初に負けたのはブラックタイガーたちだった。
近くの木に雷が落ちて辺りが閃光と轟音で包まれた時、動物の性なのか反射的に飛び出してしまい、片方は爪を立てて、もう片方は口を大きく開けてトリコに襲いかかる。
傍から見れば絶望的な状況ではあるが、トリコは自分の元に近づくギリギリの瞬間まで腕に力を込め、両腕の筋肉が倍近くに膨れ上がった瞬間、こちらも攻撃に転じた。
「一点集中5連アイスピック釘パンチ!」
今自分が持ってる最大の武器でトリコはブラックタイガーに対抗しようとした。
放たれたアイスピック釘パンチは額の真中に向けられていて、前足をあげて空中に飛び上がって無防備な状態になっているブラックタイガーはその攻撃をまともに食らってしまい、中央部にある無防備な脳に強力な攻撃を食らってしまい、中で脳が砕け散ると同時に集中された攻撃は尾が破壊されてもその衝撃は天を突きぬけて駆け抜けていった。
一体が地に落ちて水面にその体を預けたが、それでももう一体のブラックタイガーの攻撃は止まらなかった。
口を大きく開けて無防備になったと思われるトリコに襲いかかったが、トリコは空いている左腕を同じように突き出す。
「もう一丁!」
連続で釘パンチをそれもより消費カロリーの多いアイスピック釘パンチを放つのは初めてであり、放った瞬間激しい痛みが左腕から発生してそこから全身へと移っていく。
だがそれでも放たれたアイスピック釘パンチは大きく開けられた口の中に放り込まれ、喉からパンチの衝撃が放たれる。
外側は固い甲殻と筋肉に覆われた生き物ほど内部は脆い物であり、最後のパンチが放たれる頃には背中の外殻が全て吹き飛んでいき、ブラックタイガーは口を開けた状態のままだらしなくよだれを垂らしながら水面へと落ちていく。
もう起き上がらない二体のブラックタイガーを見ると、ここでトリコの中にも狩りに成功したと言う安堵感が生まれ、手をこすり合わせて金属音を響かせながら、手を合わせて自分のために命を分けてくれたブラックタイガーに感謝の念を送る。
「ごちそうさまでした」
早速ブラックタイガーを解体しようとした瞬間に付けっぱなしにしておいたヘッドホンから杏子の声が聞こえる。
酷く慌てた様子で途切れ途切れになっていることから異常事態だと判断したトリコは、通信のボタンを押して杏子と会話をする。
「スマン事情を説明している時間が無かったんだ。無事か?」
「そんなことはいい! アタシの指示通りに動いてくれ!」
後ろで轟音が聞こえる辺りで杏子が何者かと戦闘中だと言うことは分かり、トリコは携帯電話を取り出すとヘッドホンとジャックで繋げる。
するとヘッドホンに内蔵されている発信機が作動して、携帯の画面に今杏子が居る地点と自分が居る地点が表示される。
杏子の指示を待ちつつもトリコは杏子が居る地点へと向かっていく。
本当の意味での勝利を掴み取るために。
***
度重なるハネザルのジャンプからの攻撃で杏子は体力を削られ、虫の息の状態になっていた。
爪の攻撃は完全にはかわしきれず、着ていた雨具はボロボロになってしまい、役に立たない状態になってしまった。
服としての用途をなさないボロキレを投げ捨てるが、その下のツナギも爪で傷つけられてしまい、下からは僅かに鮮血も出はじめていた。
(トリコに感謝だな……)
ツナギには防護服としての機能もあることが身を染みて分かり、杏子は木の上で奇声を発しながら自分に向かって威嚇行為を繰り返しているハネザルを睨みつけていた。
間違いなくハネザルが黄金モモを主食にしていることは分かる。
自分たちの食料を確保するため、邪魔物である自分を排除しようとしているのも分かる。
決してハネザルたちの生活を脅かすつもりはないのだが、そんなことをハネザルに言っても理解できるわけがない。
やはりここは強行突破しか方法がないだろうと判断した杏子はヘッドホンを手に取って、次にハネザルが襲いかかる瞬間を待っていた。
自分が仕掛けた大自然の罠。
それが上手く成功すれば自分の勝利、負ければミンチにされるのがオチ。
全ての準備は整った。後は勇気だけ。
何度も何度も木の上で跳ね上がって威嚇を繰り返すハネザルに対して、杏子は槍を突き出して自分にまだ戦闘意欲があることをアピールする。
瞬間、ハネザルの顔に憤怒の色が見られ、奇声を発しながら爪を突き立てて杏子に向かって前のめりに突っ込んでいく。
普通ならばここで背を向けて逃げるだろうが、杏子は何度も後ろを見ながらも来るべき瞬間を待っていた。
自分の中で感覚がスローモーションになるのを感じる。集中力が極限にまで高まる瞬間はこうなるものだ。
自分の眼前に鋭く光る爪が近づいた瞬間に杏子は行動を起こした。
力任せに後ろに飛び上がって爪の攻撃を回避する。
攻撃対象を失った爪は地面へと埋め込まれ、すぐに立ち上がって反撃に移ろうとしたハネザルだが、地面の変化に気付いた時には体勢を保てないでいた。
先程まで豪雨の中に居た杏子は雨が全く入らないと思っていたが、木蔭にも限界はある。雨は少しずつではあるが地面を濡らしていき、粘着質な土質は雨水を含むと泥に変わり、ハネザルの腕を深いところまで持っていく。
柔い地面に持っていかれた腕、100キロを超えるハネザルの体重もあって、その体を地面の奥深くまで引きずり込まれる。
腕と足が完全に引きずり込まれて身動きが取れなくなったのを見ると、杏子はヘッドホンをハネザルの頭に装着して伸ばしておいたマイクに向かって力の限り叫ぶ。
「今だトリコ!」
杏子の合図を受けるとトリコはマイク越しに怒号にも似た叫びを放つ。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
突然耳元で響く轟音にハネザルは驚愕の表情を浮かべながらも悶絶し、手足をバタバタと動かして謎の轟音から脱そうとする。
だが今自分の頭に装着されているヘッドホンの存在を理解できないハネザルに取って、それは無駄な労力でしかなかった。
立て続けに自分の耳元で鳴り響く轟音にハネザルは意識を保つことができずに、泡を拭きながらその場で卒倒してしまう。
大の字になって泥の上に浮かびあがっているハネザルを見て、もう戦闘意欲は無いだろうと思った杏子だが安心はできなかった。
久しぶりの生きるか死ぬかの戦闘を体験したこともそうだが、何の力もない状態でこんな強敵と戦ったことは杏子に取ってショックは大きく、何度も何度も荒い息づかいを繰り返しながらも、脳に新鮮な酸素を送ることで自分を落ち着かせようとしていた。
そしてある程度落ち着きを取り戻すと、杏子は力なくため息をついてその場にへたり込む。作戦が成功したのは間違いなくハネザルが自分の力を下に見て、慢心していた部分があるからだろう、もし遠くからあの三節棍状の棍棒で立て続けに攻撃されていたら、長期戦に耐えきれなくなり自分は間違いなく死んでいた。
運も味方に付けた勝利だと思い、改めて杏子はトリコのために黄金モモの元へ向かうが、木々がざわめく音を聞くと背中に冷たい物が走る。
恐る恐る振り返った先にあったのはハネザルの大群であり、木の上に乗っかって自分は完全に包囲されていた。
臆病で警戒心の強い猛獣は群れをなして行動するのが常識。
仲間を傷つけた杏子に対して、全員が強い敵対心と怒りの感情を持っていて、骨の棍棒を持って臨戦態勢を取っていた。
体中から冷や汗が噴き出す。もう助からないと分かると、不気味なぐらい冷静になって恐らくは自分の後ろに居るであろうさやかに語りかける。
「待ってろ。愚痴でも泣きごとでも好きなだけ聞いてやるし、殴りたかったら好きなだけ殴れ……お前はお前でバカかもしれないが、アタシはアタシで何も出来なかったボンクラだからな……」
それは不甲斐ない自分に対しての皮肉なのだろう、トリコの治療の顛末を確認できないまま死んでいく自分に対して怒りもあり、これからさやかと同じところに向かうであろう自分に対して杏子は宣言する。
だがここで周囲の空気が変わったことに杏子は気付き、改めてハネザルたちを見つめる。
先程まで明らかに敵意を向けていたその表情はまるで凍りついたように固まっていて、何かに怯えている様子が手に取って分かった。
小刻みに震えながらハネザルたちは持っていた棍棒を背中に背負い直すと、全員が一か所に集まって防御の体勢を取っていた。
全員の視線の先を杏子も同じように見る。
伝わってきたイメージは真っ赤な夜叉の存在。
その存在がドンドン近づいてくるにつれて、ハネザルたちは身を寄せ合って怯えを互いに分け合っていた。
だが杏子だけはそのイメージの正体を知っているため、彼がブラックタイガーに勝利したのを喜ぶ。
「よう。さすが美食四天王トリコだな。捕獲レベル29ぐらいじゃ、お前を止められないみたいだな」
「あやうく三途の川を渡りかけたがな」
軽口を言いあう杏子とトリコ。
野生の勘が示した通り、今目の前に居る大男は自分たちの戦闘力をはるかに凌駕した存在。
だが自分たちにも生活がある。
全員が特攻を覚悟して突っ込んでいこうとした瞬間、トリコは杏子から大体の話を聞くと手を差し伸べて、黄金モモを二つだけもぐと一言言う。
「安心しろ持っていくのは二つだけだ。お前らの生活を脅かすつもりはない」
言葉の意味は分からなかった。だが杏子を連れて引きさがって行くトリコを見て、ハネザルたちは本能的に感じた自分たちの食糧難の危機は去ったと。
そして全員が本能的に手を絡ませて祈るポーズを取った。
感謝の気持ちをトリコに送るように。
***
マリン湿原での狩りから一週間の時が流れた。
ブラックタイガーもデザートに杏子が取った黄金モモも二人は美味しく頂いた。
全ての狩りが終わり、杏子の中で思い描いた図は元通りになったトリコと共に再び美食屋の修業を再開している自分。
だが現実はそんな甘い未来を見せてはくれなかった。
机の上に散らばったままのトリコの診断書を見る。医学用語が多く詳しいことは分からないが、癌細胞が未だに活動を続けていると言うことは分かった。
だがそれでもトリコは希望を捨てないでいた。
最後の手段としてトリコが取った行動は古い友人を訪ねると言う物。
『グルメ騎士』の『愛丸』は病原菌やウィルスを食べて、自分の中で抗体を作り上げて相手に投与すると言う捨て身の治療を施す通称『病食主義』の男。
その特異な体質と『グルメ教』の施しの精神が相まって多くの難病を抱えた人たちを救い、トリコも最後の手段として彼を頼ろうとしていた。
自分のせいで家族を失ってしまった杏子に取って、八つ当たりだとは分かっていても宗教には良い感情が持てないでいたが、今は愛丸に頼るしかない。
身勝手で無責任だとは分かっていたが、杏子はトリコのために祈りをささげるポーズを取った。
トリコのため、そして自分自身絶望に負けない心を作るために。
本日の食材
ブラックタイガー 捕獲レベル29
エビの頭に虎の体を持った水陸両用の猛獣。
その肉は部位によって魚介のように淡白な部分と濃厚でジューシーな部分に分かれていて、多くの人がファンになっている。
黄金モモ 捕獲レベル5
杏子が美食屋として初めて見つけた食材。
金色に輝く桃で、普通の桃よりもずっと糖度が高く、一個だけで成人がその日必要なエネルギーを摂取できるほど。
ハネザル 捕獲レベル3(単体の場合) 群れの場合は21
杏子が初めて発見した猛獣。
高い知能を持ち合わせていて、常に集団で行動をしている。
非常に警戒心が強く臆病な性格なので、わざと怒らせるような真似さえしなければ襲いかかることは無い。
と言う訳でメインの狩りになりました。
リクエストで杏子にもやってもらいたいと言う意見がありましたので組み込みましたね。人間ではやりましたが対猛獣戦はこれが初めてだったので書いている方も嬉しかったです。
次回でこの件に関しての顛末を書きたいと思います。
次もがんばりますのでよろしくお願いします。