敷き詰められた『ピースフルフラワー』の中央にあるのは白黒のトリコの遺影。
世界でも最高規模のホールで普段はクラシックのコンサートやロックアーティストが使っている『グルメホール』で行われた異例の行事、それがトリコの葬式だった。
何しろトリコがグルメ時代において残した功績は大きい。
多くの食材を発見したトリコの訃報は一国の大統領が死んだものよりもショックは大きく、参列者たちは一日で収まることが出来ず、一週間が経った今でもホールは常に満員状態であり、喪主を務めるココも対応に困っている状態だった。
もう何度目になるか分からない弔問を読み上げると、各所からすすり泣く声が聞こえる。
それは一週間連続で出ているリンも同じことであり、トリコのためにも前を向いて歩かなければいけないと言うのは分かっているのだが、涙が止まらない状態だった。
だがそれはトリコを失った喪失感だけではない。その場にトリコの死体が無かったと言うのが一番の原因なのだ。
死ぬ準備をしたトリコが残した遺言は二つ。
まず自分が今まで美食屋として稼いだ財産は自分が住んでいる『スウィーツハウス』を除いて全て寄付。
IGO非加盟国の貧しい子どもたちが少しでも飢えを凌げるように使ってやってほしいと言う意志を尊重し、彼の財産を元手にIGO非加盟国の悲惨な現状を加盟国の皆にも改めて分かってもらおうと実情を伝え、意識改革を起こさせていた。
また募金のための窓口ももっと広い物にしようと、コンビニやネットでも簡単に行えるようにして、これらは通称『トリコ基金』と呼ばれ、貧しさや飢えから救われる第一歩を踏み出そうとしていた。
そしてもう一つの遺言それは自分が死んだ後、その体を献体に回してもらいたいと言う物だった。
優秀な再生屋が多く存在し、再生のための技術も向上した今でも未知の病気と言うのは多い。
そのために命が散っていくのは悲しいことだと踏んだトリコは自分の体が何かの役に立てればと、一龍のつてで自分の体を再生屋の『与作』に委ねることを遺言として残した。
だから今でもトリコの死体は葬儀場に無かった。
与作を持ってしてもグルメ癌の謎を解き明かすのには時間がかかるのだろうと誰もが納得していたが、せめて最後のお別れを言いたい参列客たちに取って、そこにあるべき存在が無いと言うのは悲しい物があった。
「おかしいと思わないか?」
少しの休憩時間の間にココに話しかけたのは喪服姿のサニー、隣には同じく喪服姿のリンも一緒だった。
トリコの最後の頼みだからこの一週間気を張り詰めて頑張り続けたココにも疲労の色は見られ、濡れたハンカチで何度も顔を拭きながら自分に気合を入れ直すとサニーの相手を始める。
「何がだい?」
「時間がかかりすぎていることだ。普通ならば細胞を保存して、後はそれをベースに研究をするだけにいくら何でも遅すぎる」
サニーの疑問はもっともな物であるが、今その事を追求できる余裕を持った人間は居なかった。
正論を言われるとココの中でも疑問が生まれる。
与作は現在居る再生屋の中でも間違いなくトップレベルの存在。
その与作が研究一つでここまで時間をかけるのはおかしいことだと思っていたが、いくら与作でも死んだ存在を生き返らせることなど不可能だ。
きっと与作には与作なりに何か考えがあって、こんな状態になっているのだろうと自分の中で結論を出すと時計に目をやって休憩時間が終わろうとするのを確認したが、それと同時にスタッフがココの元に現れる。
「たった今トリコ様の死体が戻ってきたところです」
そう叫ぶと同時に別のスタッフが棺に入ったトリコの死体を慌てて、葬儀場に持って行く様子が目に飛び込む。
その様子を見てリンは改めてトリコが死んだ存在なんだと思い知らされ、サニーの背中を借りるとさめざめと泣きだす。
「泣くんじゃねぇよリン。お前がそんな調子じゃトリコが心配するだろ……」
触覚で宥めつつもサニーはリンに現実を見るように促す。
リンのことはサニーに任せようと思い、ココは一礼した後に棺を開いて中のトリコの死体を見る。
献体に出されたのだから原形を保っていられるのも厳しいと考えていたので、恐る恐る開いてみたがそこに居たのはまるで眠るように静かに目を閉じているトリコだった。
目を凝らしてよく見れば細かい傷が体の至る所にあるが、それはパッと見では全く分からなく素人が見れば傷一つない綺麗な死体にしか見えなかった。
一龍の紹介はまぎれもなく一級品であり、ココは安堵の表情を浮かべたが最前列にある空席を見るとその表情は再び暗い物に戻る。
――アンコちゃん。結局最後まで来なかったな……
一週間ある葬儀の中で一日も出席していない杏子のことを心配に思ったココだが、スタッフに呼ばれると自分もまた喪主としての仕事を果たすために再び葬儀場に戻る。
それが親友と交わした最後の約束だから。
***
草木も眠る丑三つ時、電気も点けずに真っ暗なスイーツハウスのリビング内で杏子は毛布を頭から被った状態で何も言わずに壁をジッと見つめているだけとなっていた。
床には今まで食べたインスタント食品の残骸が散乱していて、見るも無残な状態となっていたが、杏子は光を失った目で何も言わずにトリコが居たベッドを見つめているだけだった。
この何もかもがデタラメな世界において、トリコが死んでしまったと言う事実を未だに杏子は認めたくなく、杏子は考えることをやめてトリコが帰ってくるのをジッと待っていた。
またいつものようにひょっこりと顔を出して豪快に笑い飛ばしながら食事が始まるだろうと言う、都合の良い考えから抜け出すことが出来ずに杏子はただただ現実と向き合おうとせずにいた。
風が窓を揺らす音が響く、反射的に杏子は振り返ってトリコが帰って来たかと思ったが、そこには誰も居ずにトリコが死んだと言う事実をマジマジと突き付けられるだけ。
だがそれが気のせいだとはどうしても杏子には思えないでいた。
実際ココから自分の中にはさやかの魂が宿っていると言う事実は教えられている。
それと同じようにもしかしたらトリコも同じようにと思う部分もあったが、それでもそこにあるべき存在がいないと言う事実は少女の心に大きなダメージであり、行動を起こせずにいた。
(だけど……何かを感じたんだ……)
直観的に杏子は感じていた。トリコが自分の元に戻ってきて、何かをしようとしているのを。
だがそれが何なのかを考えるだけの冷静さは今の杏子には持ち合わせておらず、杏子は再び誰も居ないベッドを光の無い目で見つめるだけとなっていた。
***
人の目には映らない透明な体に、頭には天使の輪っかと思われる物体が浮かび上がっていて、その姿を見れば自分が死んだと言うことが否応にも思い知らされてしまう。
トリコは自分が死んだと言うことを自分の死体を見て、改めて思い知らされ、自分の葬式と死体を見届けると一番心配に思っていた杏子の様子を見るために自宅へと戻る。
だがそこで見たのは予想していたが、見たくはない光景。
口が悪く、何かと食ってかかることが多い杏子だが、基本的には明るく元気で心優しい杏子が、まるで力の入らない人形のような姿。
見るに堪えない光景にトリコは完全に言葉を失ってしまい、どうしていいか分からずに困っていたが、うずくまっている杏子の後ろに青を基調にしたコスチュームに身を包んだショートヘアーの少女が目に飛び込むと、トリコは早速コンタクトを取ろうと話しかける。
「お前オレが分かるか?」
突然話しかけられ少女はビクッと体を一瞬震わせるが、恐る恐るトリコの方を振り向く。
葬式の時も周りの人間は自分には感づかなかった。知人たちとはちゃんと別れの挨拶を済ませたので自分から関わろうとはしなかった。
だからこそ一週間ぶりにまともに人と会話出来ることが嬉しく、トリコは少女に向かって色々と話をしようとしたが、ここでトリコは杏子が普段から話している一人の少女のことが頭を過ぎる。
「あれかお前がアンコが普段から言ってる『さやか』か?」
トリコの質問に対してさやかは再び体を大きく震わせながらも小さく頷く。
この世界での杏子の行い及び、言動に関してはさやかは後ろからずっと見守っていて、時々、杏子がさやかに関してのことも言っていたのも知っている。
もっとも死んだと言うこと以外は何も伝えておらず、トリコもそれ以上詳しいことを追求しようとしなかったので、ほとんど初対面に近い状態であり、トリコは杏子が普段から言っているさやかと言う娘がどういう人物なのか興味がありコンタクトを取ろうとする。
「オレのことは分かるなトリコだ。死んじまったもん同士、まぁ仲良くやろうぜ!」
トリコは豪快に笑い飛ばしながら、さやかに向かって手を差し出して握手を求めるが、さやかはトリコから目を背けたまま差し出された手を取ろうとはしなかった。
ここでトリコは杏子から聞いたさやかに付いての僅かながらの情報を思い出す。
以前に酒の席に付き合わせた時、この日の杏子は機嫌が悪くて酔いも手伝ってか、昔のことを愚痴り出していた。
かつて自分は生きるために物を盗み、人を傷つけていたと言う事実。
トリコ自体裕福な生い立ちでは無く、生きるための多少の悪行が完全な悪だとは思っていないタイプなので特に杏子を責めることもなく、話に付き合っていたのだが、それに気を許したのか杏子はさやかのことに関しても愚痴を言っていたのだ。
自分自身やさぐれていて、彼女に対して辛く当たってしまった部分も多かったが、それでもさやか自身に関して許せないところはどうしてもあった。
好きな男のために、その身を捧げはしたが、想い人は彼女の親友とくっついてしまい、最後に残されたプライドとも言える平和を守る戦いの部分まで自分が踏みにじってしまったことを愚痴として語っていて、最後に皮肉交じりに杏子はトリコに言い放つ。
「まさしく『人魚姫』って言葉がピッタリの少女だったよ……ココの占いじゃアタシの中で魂として存在してると言うが……こんな状態でアタシはアイツを救ってやれたって言えんのかよ……」
最後に一番腹が立ったのが無責任に自分に酔いしれているだけの自分だったのかもしれない、言いたいことを全て言い終えると杏子は酔いに負けてそのまま眠りに落ちた。
なぜそうなったのかを全く聞かされていないトリコに取っては、どう切り替えしていいのか分からなかったが、取りあえずはベッドに杏子を運んでその場は収めた。
肝心の部分をはぐらかされ、全く教えてくれなかった杏子からこれ以上話を聞きだすのは無理だと思っていたが、さやかなら話してくれるかもしれないと思い、事の発端を聞こうとする。
「なぁ、オレとお前コミュニケーションを取るためにも、まずは何があったかぐらい教えてくれてもいいだろ? お前もアンコを通じて、オレの人となりみたいなもんは見てくれたはずだろ? 人に話せば辛い事実でも多少はまぎれるもんだぜ」
「そんなわけないでしょ……」
諭すように言うトリコに対して、さやかは自嘲気味に相変わらず光を失った目でうつむいたまま答える。
その様子に異常な物を感じたトリコは咄嗟に身構えるが、さやかは相変わらずの暗い表情のままポツポツと語り出す。
「確かにこの世界もデタラメだけど、私がしてきた体験なんてもっとデタラメなそれよ。話したところで笑い飛ばすのがオチよ……」
「それを決めるのはオレだろうが、まずは話してみろ」
さやかの意見を一蹴するとトリコは空中であぐらをかいた姿勢を取って、さやかが喋ってくれるまで動かないと言う無言のアピールをする。
根負けしたさやかはボソボソと自分たちがどうしてこの世界に来たのかを語り出した。
魔法少女との契約、魔法少女となったことで自分たちは魂と肉体を分けられゾンビのような体となってしまったこと、そして最後に絶望しきった時、自分たちの魂は魔女と呼ばれる異形の存在と変わり、人々を襲う魔物に変わること、そして杏子は魔女となった自分と共に心中していつの間にかこの世界に来たことを全て語った。
「どう? こんな馬鹿げた話信じるわけないでしょ。分かったんなら帰って!」
「どこに?」
もっともなトリコの返答に対してさやかは一瞬言葉を詰まらせてしまうが、すぐに暗い怒りの感情が襲ってきたのか感情に任せて叫ぶ。
「天国にでも輪廻の輪でも好きなところに行けばいいでしょ! 何よアンタなら杏子のこと救ってあげれると信じていたのに勝手に死ぬような真似して!」
「無茶を言うな。人間なんだからいずれは死ぬよ」
トリコの言い分は正論ではあるのだが、今のさやかに取ってこの発言は揚げ足取りにしか聞こえなく、結果として火に油を注ぐような真似になってしまい、まくし立てるように叫び続ける。
「そんな無責任なことでよく杏子の保護者なんて言えるわね! 私はね。私のせいであんなことになっちゃったから、せめて杏子には幸せになってもらいたいって思ってんのよ! 私はどうしようもなく罪深い最低な存在だから自縛霊がお似合いなんでしょうけどさ! それなのに、それなのにアンタは……」
「バカヤロウが!」
突然の怒鳴り声にさやかは叫んでいた口が止まり、反射的にトリコの方を見る。
先程までのヘラヘラ笑っていた緊張感の無い表情とは違い、明らかに怒った顔をトリコは浮かべていた。
彼の人となりに関してはトリコに言われた通り、さやか自身も杏子を通じて見てきた。
曲がったことを嫌う一本筋の通った人物であり、それを貫くための力を持ち合わせた有言実行を形に出来る人物。
頭の中で情報をまとめようとしていると、トリコは肩を掴んで強引に自分の顔を見させるとさやかに熱く語り出す。
「お前アンコを通じて見てただろうがよ! アイツはいつもお前のことだけを考えて行動していたんだぞ。お前のことを恨んでも憎んでもない! お前の幸せだけを願っていたんだぞ。それとも何かお前は自分を殺したアンコを恨んでいるのか!? 憎くて憎くてしょうがない存在とでも言いたいのか?」
「そんなわけないでしょ!」
再び感情に任せた叫びが木霊すると同時に、さやかは自分の肩に置かれた大きな二つの手を振りほどくと怒りと悲しみが入り混じったような複雑な表情を浮かべつつ、涙目でトリコのことを睨みながら叫ぶ。
「杏子はこんなどうしようもない私を最後まで気にかけてくれて……私が辛うじて私を保てられたのも、この世界で杏子が救われたからなのよ! なのに……なのに……」
今自分たちの眼下に居る杏子を見ると、さやかはいたたまれない気持ちになり、思わず杏子から目を逸らして、肩で息をした状態でトリコを睨みつけた。
身勝手な感情だとは分かっていても、今この怒りをトリコにぶつけることしか非力な少女には出来なかった。
そんなさやかに対してトリコは頬をかきながら困ったような顔を浮かべつつも、遺書と最後に残したさやかへのビデオメッセージが撮られたDVDが入った棚を指さして、杏子に一応想いは伝えたことを示す。
「アンコに対して出来ることはやるだけやったつもりだよ。アイツならきっとやれるはずだ。オレは信じているつもりだぜ、お前はどうなんだ?」
「出来るに決まってるでしょ……杏子はアタシなんかと違って本当に天才なんだから……」
トリコの言葉から彼女が美食屋としてやっていけるように、トリコが出来る限りのお膳立てをしたことは分かっている。
杏子の戦いのセンスを誰よりも知っているつもりのさやかは自嘲気味に言い放つと、再び暗い顔を浮かべながら、同じように落ち込んでいる杏子に目を向けた。
この様子からさやかは杏子に対しての負い目的な部分と、自分に全く自信が無い状態から今の負のスパイラル状態から抜けられないでいると判断したトリコは、さやかに対して問いかける。
「もうオレがアンコにしてやれることは一つだけだ。さやかお前を救うことだ」
トリコはずっと杏子が悔やんでいたさやかに関してのことを解決しようと動きだす。
後悔しているのは魔女となったさやかだけじゃない、ここでの幸せな生活が本当にあの時の選択が正しかったどうか分からなくなってしまい、自問自答を繰り返して苦悩している様子をトリコは見ていた。
そんな杏子の苦しみを間近で見てきて、今自分はさやかと同じフィールドに立っている状態。
杏子に対してしてやれることがまだあったと思い、トリコはさやかに対して問いかける。
「お前がいつまでもそんな調子じゃ、アイツはいつまでも苦しみ続けるぞ。悪いことは言わない、オレと一緒に『グルメ天国』でのんびりと過ごそうぜ」
『グルメ天国』の存在は杏子を通じて、さやかも知識があった。
本当に美味しく食べられた食材は天に昇って成仏し、グルメ天国と呼ばれる別世界で穏やかな日々を過ごせると聞く。
そこには生前善行を行った善人たちも召されていて、善行を積み重ねた人間はグルメ天国で穏やかな日々を過ごせられると言うのは、この世界において気軽に子供を教育するのに手っ取り早い手段であった。
「でも私なんかがそんな天国なんて……」
「だ・か・ら! そうやって、いつまでもウジウジしていたら、アイツはいつまでも心配でお前のことを一生引きずる形になっちゃうぞ。さやか、お前が望んでいるのはアイツの不幸か? 違うだろ!」
トリコの言っていることが正論なのは分かっている。頭では分かっていても完全に自分が救われるイメージがどうしても今のさやかには持てなかった。
何もかもが弱い自分が向こうの世界に旅立って、やっていけるのかと言う不安が強く、足が鉛のように重くなるイメージがさやかの中で広がっていく。
再び俯いて暗い表情を浮かべるさやかを見て、トリコの中で出した結論。それはさやかにもう一度歩き出す自信を付けさせることだった。
そのためにトリコが取った行動は自分が最も得意としているシンプルな手段。
「あれかさやか? アンコから聞いたけどお前自分に自信が無いってことで次のステージに踏み出すのをためらうって奴か?」
「そうかもしれない……」
ここでさやかが思い出すのは魔法少女時代、何も残せず周りを引っかき回すことしか出来なかった情けない自分。
誰も何も言わないのをいいことに杏子に甘えているだけの自分が居たが、いつまでもそれじゃいけないと分かってはいても、トリコの言う通り次のステージへ進めない自分が居た。
さやかの真意が分かると、トリコは指の関節を鳴らして、適当に空中を睨みつけるとイメージを広げていく。
攻撃の際ナイフやフォークが具現化するのと同じ要領で作り上げていくのは、プロレスなどで使われるロープで覆われた四角いリング。
何が何だか分かっていないさやかに構わずトリコはいち早く空中に作りあげたリングに上がると指でさやかを呼び寄せる。
「よしケンカだ。かかって来い!」
「何でそうなんのよ!?」
突飛過ぎるトリコの行動にさやかは突っ込むが、トリコはそんなことお構いなしにロープによりかかるように身を預けると持論を語り出す。
「オレの実力に関してはお前も見てきただろ? お前が自分に自信が無いってんなら、無理にでも付けるしかないだろ? 人なんてものは前に進むことしか出来ないんだ」
そう言うとトリコは指でさやかを手招きして挑発する。
一切の理屈が通用しないと分かり、そして自分自身も激しいフラストレーションが溜まっていたことが手伝い、さやかは剣を一本召喚して右手に握りしめると飛び上がってリングの上に乗り、トリコと向かい合う。
「私だって叶えたい想いがあって魔法少女になった。でもその願いは叶ったはずなのに、情けない私は現実に負けて、身勝手な考え方しか出来ないで友達も杏子も傷つけてしまうことになっちゃった……」
「それをアンコは気にしちゃいないよ。それよりもお前がいつまでも負の感情に囚われていることの方を悲しんでいた。そのグチャグチャした感情全部ぶつけてこい。オレが受け止めてやる!」
トリコらしい豪放磊落な煽り文句を言い放つと、二人は互いに円を描きながら距離を詰め合う。
緊張した空気が辺りを包み込む。戦闘経験が圧倒的に少ないさやかはどこで行動を起こしていいか分からなかったが、ゴングは半ば強制的に鳴らされた。
「来い!」
トリコの叫びは、さやかの脳に命令として伝わる。
反射的にさやかは剣を突き立てて、剣先をトリコの胸部に向けて突っ込んでいく。
彼の戦闘力に関しては杏子を通じて見てきたので、こんな攻撃は威嚇にもならないことは分かっているし、自分も彼も共に死んでいる存在なので不幸な結果にはならないだろう。
それにトリコもそれを分かっているからこそ、こんな無茶苦茶な提案をしたのだろう。心臓に向けられた剣先は当たる直前でトリコが右にかわして脇腹を掠めるだけであり、返しざまにトリコは右のパンチを放つが、それもさやかは左にかわして頬を掠めるだけであり、二人のファーストコンタクトは共に空振りと言う形で終わると、二人同時にバックステップで距離を取って、リングの両端にまで位置を戻す。
やられる前にやると言うシンプルな戦術しか出来ないさやかは、同じように剣を突き立てて今度はトリコの喉元に向かって突き刺そうとするが、それをトリコはかわそうとせずに喉に力を入れるとそのまま剣を筋肉だけで受け止める。
剣が喉に刺さった瞬間、さやかの中でイメージが広がっていく。
まるで巨木に剣でも突き刺したかのような感覚を覚え、腕に激しい痺れを感じると同時に見上げるとトリコは筋肉だけで剣を突き出して追い出すと一言つぶやく。
「軽いな……そんなもんじゃないだろ、お前が感じてきた理不尽に対する怒りって奴は」
挑発するかのような物言いにさやかの中で怒りの感情が広がっていき、そして沸々と過去の苦い思い出が蘇っていく。
感情をぶつけろと言ったのは向こうなんだ。ならばこちらも思い切りぶつけるだけだ。
「バカにするんじゃないわよ!」
引き抜かれても続けざまにさやかは剣を突き立てて、今度はトリコの顔面を狙うがトリコは手のひらで剣の軌道を変えて逸らすと同時に左足で無防備になっている左半身に向けてサイドキックを放つ。
反射的にさやかは左腕で体を守るようにかばうが、それでも蹴りの衝撃は凄まじく、体ごと右へと吹っ飛んで行きそうになるが、それを止めたのはトリコの右手だった。
その場に無理矢理止められてしまうと言う予想外の事態に、さやかは驚いてトリコの顔を見てしまうがすぐさま檄が飛ぶ。
「ボサっとすんな! 実戦でそれじゃすぐ猛獣の餌食だぞ!」
怒鳴り声に思わず体が固まる感覚をさやかは覚えるが、負けん気と怒りの感情がすぐに反撃へと移す。
だがいくら攻撃しても剣先はトリコの手のひらでかわされ、そのたびに左のサイドキックが襲って体全体を激しい痺れが襲う。
少しでもダメージを軽減しようと足に力が入り、自然と体も防御を意識するようになって、左腕が縮こまった状態となる。
同じ攻撃を何回も食らい、さやかの中で学習が出来たのか、次にサイドキックが来るタイミングぐらいは覚えると、防御を腕だけではなく体全体で行うことが出来た。
左腕に来たダメージは両足でしっかりと大地を掴んで、踏ん張りをきかせることで雷を受け流すアースのような役割を果たして、ダメージを大地へと受け流す。
これが出来るようになれば、自然と反撃のチャンスも生まれ、17回目のサイドキックでさやかは反撃に転じる。
攻撃自体は同じような顔面への一撃なのだが、直感的にさやかは今までとは違う感覚を覚えた。
今までのように腕の力だけで剣を突き出したのではなく、体全体の筋肉を使って剣を突き出す感じを体で感じていた。
攻撃の質が今までと違う物に変わったのを感じると、トリコは嬉しさに口元を歪ませながらも、右手で拳を作り上げると剣に向かってパンチを振り下ろして、さやかの体ごと後方へと吹き飛ばす。
「やればできるじゃないか。剣のような近接武器を使う場合は一撃、一撃を全て体全体の筋肉を使って打つようにしないとダメだ。腕だけの筋肉を使って刃物を振り回しても、せいぜい日焼けで皮が捲れる程度のダメージしか与えられないからな」
トリコはニッコリと笑いながら、自分の教育が上手く行ったことを喜び、次もその調子で攻撃していけばいいと諭す。
今までの攻撃が全て自分に効率の良い攻撃を教えるために手加減して打った物だと分かると、さやかはハッとした顔を浮かべると同時に情けなさも感じてしまう。
杏子が言うように自分が素人レベルの戦術しか出来ないことを改めて思い知らされてしまうが、これは喧嘩だ。
自分がトリコに対して出来ることは精一杯ぶつかってやることだけと悟ったさやかは続けて攻撃しようとするが、ここで脳内に一つの案が思い浮かぶ。
トリコが言うことも守れているし、魔法で強化されたまま魂となった今の自分の身体能力なら十分可能な方法だ。出し惜しみはせずに一気に勝負を付けようとさやかは右足を前に踏み出すと、体を左側にねじって一気に踏み込む。
さやかがやろうとしていることが分かったトリコが出来るのは、その想いを真っ向から受け止めることだけ、トリコは両腕のガードを下げて両の手のひらで誘うような動きを行う。
「来い!」
叫びと同時にさやかは回転しながら一気に突っ込んでいく。
これにより一方だけの刀の攻撃が360度全方向に向けられ、また回転することで防御の役割も果たし、以前の影の魔女戦のように触手によって自らの体を傷つけられると言う心配もない。
近づいてくる刃の弾丸に対してトリコは覚悟を決めて、全身の筋肉をバンプアップさせて膨張させると同時に硬直もさせると、スクリューのように回転するさやかを受け止めた。
刃と筋肉が触れ合った瞬間、まるで金属同士がぶつかりあうような高音が響き渡る。
温かな血の感触にさやかは怯みもしたが、後方に吹っ飛んで行ったのはさやかの方であり、トリコはその場に仁王立ちしたまま動かないでいた。
尻もちを付きながらもさやかは立ち上がると、胸に向かって横一線に刀傷を付けられたトリコが居て、思わずさやかは身を縮こませる。
(杏子もこれぐらい痛かったの……)
魔女だった頃の記憶はほとんど無いさやかだったが、自分が杏子を傷つけて最終的に彼女を巻き込んでこちらの世界に送ったことだけは分かっている。
その痛々しい姿を見て、改めて自分がやってしまった行いに付いて悔やんでしまうが、トリコは指で軽く傷を触って流れた血を舐め取ると、興味深そうにさやかに話しかける。
「すげぇなさやか。死んじまっても血って出るもんだし、結構いてぇもんだな。これなら天国に行っても退屈しないですみそうだぜ」
そう言って豪快に笑い飛ばすトリコは杏子を通じて見てきた等身大のトリコだった。
死んでしまったにも関わらず希望を持ち続けるトリコの眩しさや温かさを感じたさやかから罪悪感が少しずつ薄れていく。
ここで下手に彼の身を案じることは逆に彼の覚悟や想いを汚す行為だと悟ったさやかは、続けざまに先程と同じように回転しながら突っ込んでいき、彼の想いに応えようとする。
「残念だが二度も同じ手は食わねぇぜ!」
トリコは左手に力を込めてフォークを突き出そうとする。
だがいつもと違うのはいつもなら前方に突き出して、相手を貫くはずのフォークを左フックの要領で自分の前面へと押し出して、ひしゃげた形で作り出した。
体を覆うのは銀色のねじれたフォークの壁。出来上がった壁はさやかの剣攻撃を弾き返し、再びさやかの体を後方へと吹っ飛ばす。
「悪いな。生身の体でその剣攻撃は堪えるんでね。ガードさせてもらったぜ、さしずめ『フォークシールド』とでも名付けておくか」
これまで防御と言うのを全くしたことが無いトリコに取ってガードは初めての体験。
理屈だけでは分かっていたのだが実戦において、それを行う余裕が無いのと元々の攻撃的な性格が使うと言う発想も無く、それに何よりトリコをそこまで追い詰めるだけの相手が居なかったと言うのも事実。
これにはさやかも自信が付いてきて、続けざまに立ち上がって行動を起こそうとするが目の前には巨大な壁。
いつの間にか自分の前に移動してきたトリコは満足げな笑みを浮かべていたが、ここで終わらせる訳にはいかないと思ったさやかはトリコに教えられたとおり、全身の筋肉を使って剣を突き出すがトリコは剣を右手で受け止める。
手のひらからは血が吹き出るが、それでもトリコの腕力の方が強くさやかは無防備な状態でトリコに顔面をさらす結果となった。
「よく頑張ったぜさやか。これからはオレがお前と一緒だ」
笑顔のままトリコは空いている左手で拳を作ると、さやかの顔面にショートジャブを食らわせる。
顔面に激しい衝撃が走るとさやかの体は後方に吹っ飛んで行き、ロープがしなると今度は逆方向のトリコのコーナーへと吹っ飛ばされて、鼻血を出しながら大の字になって倒れ込む。
体を痙攣させながらその痛みに苦しむさやかだが、その顔はどこか幸福感に満ちた物もあった。
「痛いとか、怖いって言うより、何か懐かしいな……」
「こんな調子でオレも昔はオヤジにぶん殴られたもんだよ」
トリコは相変わらず笑顔のままで倒れているさやかに向かって手を差し出すと、その体を優しく抱きしめる。
「ケンカは終わりだ。後は天国で飯でも食いながら、ゆっくりと語り合おうぜ。オレたちには時間だけはたっぷりあるんだからな」
その優しい言葉とトリコの暖かさにさやかは彼の胸の中で大泣きした。今まで泣けなかった分も全て吐き出すように、その怒りも悲しみも全てが涙に変わって流れ出た。
トリコは彼女が泣きやむまでその胸を貸しながらも、さやかの足元を見る。
先程までは杏子の元から離れようとしなかった感覚がどことなくあったが、今は新たなステージに進めるような足取りの軽さを直観的にトリコは感じていた。
それが分かるとトリコはさやかを抱きかかえたまま飛び上がる。
「行くぜさやか次のステージで美味いもんがオレたちを待ってるぜ!」
「待って!」
猪突猛進のトリコはそのままグルメ天国へと旅立とうとしたが、さやかが引きとめる。
いい所で邪魔をされたトリコは不愉快そうな表情を浮かべるが、下には相変わらずうつむいて膝を抱えたままの杏子が居た。
「そうだな。これが本当の意味での最後の挨拶だ」
「杏子が私のことを想ってくれたように、今度は私が杏子のこと想わないとね」
魂だけとなった自分たちが通常生きている杏子とコンタクトを取ることは出来ないはず、だが二人は直観的に感じていた。
まだ自分たちは杏子を元気づける程度の力は残っていると。
***
体から何かが引き抜かれる感覚を杏子は覚えた。
自分の身に何が起こったのかは分からない、だがそれがとても大事なことであると言うのは直観的に感じ取れたこと。
杏子は慌てて被っていた毛布を乱暴に投げ捨てると、ドアノブに手をかけて外へと出ようとする。
いつもだったら難なくこなせる簡単な動作のはずなのに、一週間の引きこもり生活がいつの間にかこんな簡単な動作さえ思うように出来ないようになっていた。
苛立ちながらも杏子は強引にドアを開けて空を見上げる。
自然が多く残っているこの地域では星空はとても美しく、宝石箱のようにキラキラと光り輝いていた。
だが杏子の目に留まったのは満天の星空ではない、夜空の中でも星をライトにしてハッキリと見える一組の男女の姿。
「ト……リコ? それにさやかも……」
一瞬自分の心を守るために見えた都合の良い幻かもとも杏子は思ったが、その想いは彼らが取った次の行動でかき消された。
トリコは自分たちの存在に杏子が気付いたのを見ると元気よく笑顔で手を振って、本当の意味での別れの挨拶を杏子に送った。
まるで明日また会うかのようなテンションにさやかは軽く呆れもしたが、さやかも同じようにこれまで自分によくしてくれた杏子に対して、せめてもの感謝の気持ちをと想い、ぎごちない笑顔を浮かべて手を振ると、そのまま二人は天空へと上っていき、その姿は見えなくなった。
突然のことに呆気に取られるばかりの杏子だったが、この世界では何が起こっても不思議ではない。
それに不思議と先程までの暗い気持ちはどこかに消し飛んだような感覚を覚え、杏子は膝を地面に付くと両手も地面に付いて、四つん這いの状態で泣きだす。
「良かった……ずっとお前の笑顔が見たかったから……」
それはもう叶わない願いだと思っていた。
こっちの世界でトリコと一緒に肉体を持って暮らしている自分と違って、さやかは魂だけの存在。
自分を見て嫉妬と憎しみで狂ってしまわないかという不安もあっただけに、さやかが決して自分を憎んでおらず、再び前を向いて歩きだそうとしていることへの安心感が杏子の中で救いとなった。
地面が涙で濡れていく、安堵感で心が満たされていく、だが次の瞬間に襲ってきたのは激しい怒り。
家族を死なせてしまったと言う罪悪感から、周りに暴力を振るい、常に何かを食べ続けることで心の隙間を埋めてきた自分だが、今この場に居るのは自分だけ、怒りをぶつける対象はマミでもさやかでも無い、魔法少女時代からもっとも怒りをぶつけたい相手だった。
地面に置かれた手のひらは握り拳に変わり、土を抉ると同時に握られた拳はそのまま自分の顔面へと叩きこまれる。
パンチは鼻っ柱を潰し、勢いよく鼻血が流れ出るが構わずに杏子は叫ぶ。
「何なんだよテメェは……どこまで甘ったれれば気がすむんだ!」
怒りの叫びと同時に室内へと戻る杏子。
先程まで散乱していた食べ残しのゴミを蹴り飛ばしながら、その怒号は家中に響き渡った。
「『一緒に居てやる』なんて聖人じみたこと言っておきながら、結局アタシ自身はさやかに何もしてやれなかったじゃないか! 今のさやかを見てハッキリと分かったよ、アタシはアタシだけじゃなくて、さやかのことまでトリコに押し付けたって言うのかよ!」
床を蹴り飛ばすだけじゃ、その怒りは収まらず、壁に向かって拳がめり込まれていく。
何度も何度も鈍いパンチがクッキーの壁を襲うが、この世界でのクッキーは簡単なパンチでは崩れなかった。
トリコは小腹が減った時に軽く叩いて、このクッキーを食べていたが今の自分はそんなことさえ出来ないでいた。その無力さがより怒りに拍車をかける。
何度も何度もクッキーの壁を殴り飛ばすが、自分の手から勢いよく血が噴出すると痛みで我に返り、そのまま力なく壁に突っ伏す。
ここでまた魔法少女時代のトラウマが蘇る。
影の魔女を相手に自分を見失ったさやか。原因は自分にもあることを思い出すと、トコトン自分が嫌になっていく情けない感情で覆われていき、それは涙となって目から流れ落ちてくる。
「もう嫌だ……こんなどこまでも情けない自分、もう嫌だ……」
この時点で決意は固まったと言える。トリコが死んでから義務だと自分に言い聞かせて、一回だけ彼の残してくれたDVDは見た。
スイーツハウスとだけは残し、他の財産に関しては全て寄付すること。
自分のためにグルメ細胞の保存は行っておいたから、もし本気で美食屋を目指すならココを頼ってもらいたいと言うこと。
トリコが人生のフルコースを集めている最中であり、それはまだ一つも埋まっていないことは分かっている。
誰かの代わりになるつもりはない、いつだって自分は自分がしてきたいことをやってきたつもりだ。
これは単なる逃げなのかもしれないが、それでもトリコやさやかに対して自分が出来ることはこれしかないと踏んだ杏子の中で決意が固まると血に染まった両拳を握りしめながら立ち上がる。
さやかとトリコが次のステージに行ったような自分もまた次のステージへ行くべきだと、そして心の中でさやかに対して問いかける。
――今度は食べてくれるよな。真っ当な手段で手に入れるからな……
***
トリコの葬儀が全て終わって三日の時が流れていた。
杏子に呼び出されたココ、サニー、リンの三人はグルメ細胞の移植が行われる大病院『グルメホスピタル』へと集まっていた。
土地勘の無い杏子が向こうから自分たちを呼び出す。ココたちには何となく彼女の真意が分かっていたが、それは彼女と直に会うまで黙っていようと決め、一行は杏子が待つ病室へと向かった。
そこはグルメ細胞の移植が行われる医療施設が整った特別室であり、様々な見慣れない機械に囲まれながら、杏子は一人中央に佇んでいた。
トリコを失って喪失感に苛まれている杏子を相手にどう接していいか分からずリンは困り果てていたが、サニーが後ろへ追いやると同時にココが前に出て適当なパイプ椅子に座ると彼女の言葉を待つ。
「その様子じゃ心は決まったみたいだね。でも本当にいいのかい?」
それは最後通告のような物だった。
ここに来るまで杏子がどれだけ悩んでいたかと言うのはココには良く分かること。
子供のころからそうなるのが当たり前だった自分たちとは違い、杏子には様々な選択肢がある。
その中でも自分たちと同じ道へ進むことが本当に幸せなことなのかどうか、ココは改めて杏子に問いかける。
「ああ……アタシはもう決別したいんだ。こんな情けないテメェによ……」
その声は震えていて、顔も苦痛そうに歪んでいた。
見たことも無い杏子の姿にリンは驚きを隠せなかった。初対面でも自分を相手に噛みついて喧嘩してきた彼女のこんな弱弱しい姿を見るとは思わなかったからだ。
だがそれがトリコの死による物ではないと言うのは何となくではあるが理解し、リンは杏子の言葉の続きを待つ。
「考えてみたら、こっちに来てからはトリコに世話になりっぱなしで、アイツが死んでからだよ。自分がどれだけヌクヌクと甘やかされて生きていたかってのを思い知らされたのは……いやこっちに来る前もアタシは徹底してテメェを甘やかし続けていた」
初めて語られる杏子の過去の話にココは一瞬眉を動かして動揺の色を見せたが、すぐに平静さを取り戻して彼女の言葉に耳を傾ける。
「ちょっと力があるのをいいことに、物を盗んで人を傷つけ、そんな自分を正当化しようと大した知識も無いくせに威張りちらして、結果としてアタシは何もかもを失った!」
過去の自分に腹が立ったのか、杏子は乱暴に地団駄を踏む。
一瞬ココのことが気になり杏子はココの方を見るが、彼は相変わらずの真剣な表情を浮かべたまま眉一つ動かさず、平静な様子で手を差し出して杏子に話の続きを求めた。
ココの優しさに感謝しながらも杏子は話を続ける。
「そしてこっちに来てからも勉強なんて偉そうなことほざいておきながら、やっていることは知識を身に付ける程度のままごとレベルのお遊戯。結局アタシは力を付けることに怯えているだけのどうしようもないクソガキだったんだよ! でも、そんなのはもう嫌だ!」
「トリコは君のことを本当に心配していた。美食屋以外の道を君が選ぶと言うなら、ボクからお父さんを通じて、バックアップは頼んでおくが……」
「それじゃダメなんだ!」
杏子の悲痛な叫び声にリンは怯んでしまい、サニーの後ろに隠れる。
サニーはそんなリンを触覚で守りながらも、ココと同じように真剣な顔を浮かべたまま杏子の話の続きを待つ。
「間違ってもアタシはトリコのためにやるわけじゃない。これはアタシ自身前に進むためにやらなきゃいけないことなんだよ……別にアイツのためにフルコースを集める訳じゃない、これはアタシのためなんだ! アタシはアタシがやりたいからこの選択を選んだ。だから……」
言葉から杏子の真剣さは伝わる。
だがこれは一生を左右する事態、ココは最後に杏子の言葉を待つ。
「だから頼むココ。アタシにトリコのグルメ細胞を移植してくれ! アタシは美食屋アンコだ!」
新たに美食屋が生まれようとしている瞬間に立ち会った三人。
その決意に満ちた表情を見てココもまた彼女の決意に応えようとしていた。
だがそこに居た全員が分かっていた。これもまた簡単には終わらない杏子に対しての試練が待っていることを。
本日の食材
今日はお休み
またまた二カ月近く投稿が遅れて申し訳ありません。
相変わらずプライベートが忙しく、そしてこっち自体が長いこと落ちていたので間延びしてしまったと言う部分があって……
次回はグルメ細胞の移植の話になります。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。