杏子の真意をしっかりと聞いた一同。
リンはどうしていいか分からず、サニーはこの場での代表者であるココの言葉を待っていた。
ココは相変わらずの真剣な表情のままで杏子を見つめていて、杏子はそんなココのことを睨み返して自分の真剣さをアピールする。
彼女が決してトリコを失ったことから自暴自棄になっているわけではないのを感じ取ると、ココはパイプ椅子から立ち上がって一言つぶやく。
「分かった。善は急げだ、君の準備さえよければ今すぐにでも始めるがどうする?」
一生を決める問題をそんな簡単に決めていいのかと思い、リンはもう少し杏子に考える時間を与えた方がいいのではと提案を出そうと一歩前に踏み出そうとするが、サニーの手によって止められる。
「よせ、決意に対して水を差す真似をするな」
普段は中々見せない男気溢れる一面を見せたサニーの前に、リンは何も言い返すことが出来ずにそのまま後ずさりをしてしまう。
ココが準備のために杏子に自分の後に付いてくるように促すと、杏子は黙って彼の後ろに付いていき、事が始まろうとしているのを見守ることしか出来なかった。
だがサニーの意見にも一理ある。杏子は誰よりも真剣だったし、それにグルメ細胞の移植と言うのは今日やったから、明日には超人になれるなんて簡単な物ではない。
行うのならば早い段階で行った方がいいと思い、リンはそれ以上何も言わないでいたが、自分がなすべきことが何なのか分かっても、場の緊迫した空気に飲まれそうになっていて、居心地の悪さをリンは覚える。
「お待たせ」
そうしている間にも杏子の準備は終わったようであり、先にココがトリコのグルメ細胞が保存された小型のカプセルを持って入っていき、後から入ってきたのは患者衣に身を包んだ杏子。
ココに促されると杏子の目に飛び込んできたのは、人が一人入れる程度の大きさのカプセル。
その中に杏子が入って蓋が閉まったのを見ると、ココはカプセルの脇にある注入口のような部分にグルメ細胞が入ったカプセルを装填すると、次々と機械のスイッチを入れていく。
「って……お前がやるのかよ!?」
場所が場所だけに医者が行う物だとばかり思っていただけに、ココがグルメ細胞移植に関して行うとは思っておらず、杏子は抗議の声を上げるが、ココは笑いながら杏子を宥めるように話しかける。
「大丈夫、細胞の移植自体はそこまで難しい物じゃない。それはさっきの説明でも分かっているだろ?」
諭すようなココの言い方に杏子は簡素ではあるが、先程聞いたグルメ細胞の移植法に付いての情報を思い出す。
グルメ細胞の移植は適合すれば超人と化す素晴らしい力ではあるのだが、失敗した場合のデメリットを考え、通常は細胞を霧状に変化させて少しずつ移植者の体に馴染ませるのが定石となっている。
今回も同じように特性の装置でトリコのグルメ細胞を霧状に変化させて、カプセル内の杏子は呼吸を繰り返すことで自然とグルメ細胞が体の中に馴染むようになっていく。
こうすることによって無理なく自然にグルメ細胞を体に馴染ませることが出来、万が一適合しなくても早い段階での処置も可能なため、近年ではこの手法での移植が一般的とされている。
医者の出番は馴染まなかった時のみ、それが分かると杏子は目を閉じてリラックスした状態で呼吸を繰り返し、早くトリコのグルメ細胞が自分に馴染むように無言での努力を繰り返す。
「そんなに焦らなくても、この方法で効果が表れるのは最低でも半年は……」
安全である代わりにハッキリとした効果が表れるのは週に一回の注入を繰り返し行い、半年後ぐらいとなるとココが告げようとした瞬間、辺りにガラスが割れる炸裂音が響き渡る。
その場に居た全員が何事かと思って辺りを見回すが、音の正体は杏子が入っていたカプセルからだった。
原因は内部に居た杏子が内側からカプセルのガラスを拳で破壊したから。だがその事に驚いている余裕が一同には無く、もしかしてと思いココはトリコのグルメ細胞が入ったカプセルを取り出して中身を確かめる。
「バカな!? もう全部無くなっている!」
通常は少しずつ霧状に変えて、移植者に適合させるはずのグルメ細胞が一気に空になっているのを見て、冷静沈着をモットーにしているココでも驚きの顔を隠せなかった。
普段からトリコのグルメ細胞の圧倒的な能力には驚かされてばかりであり、一回成長してからのふり幅が恐ろしく大きいのが一番の特徴なのだが、その圧倒的なパワーは細胞だけになっても発揮されることに驚かされるばかりであったが、この非常事態にリンはすぐさま医者を呼び、サニーは一気に流れ込んできたグルメ細胞に苦しむ杏子の身を確保しようとカプセル内からその身を起こす。
「ぎゃああああああああああああああああああ!」
カプセルから体が出た途端に病室内に響き渡ったのは悲痛なる少女の叫び。
体中には血管が浮かび上がり、脂汗が滴り落ち、目は血走って、息も絶え絶えの状態となっていて、痛みから逃れようと爪を立てて、自分の体を掻き毟るように引っかく。
「よせ! そんなことをしても自分の体を傷つけるだけだ!」
爪を立てて胸元から血が出始めている杏子の体をココは受け止め、サニーと共にベッドへと押さえつけてリンと医師の到着を待つ。
だがその間も二人が驚愕していたのはそのパワーだった。
先程まで同年代の少女の中では少し強い程度の腕力だったが、今は少しでも手を抜けばそのパワーに圧倒されそうなぐらい強い力を感じていた。
このパワーの前に二人の脳内で思い出されるのは親友の存在。
トリコのグルメ細胞は本人が死してもなお、その存在感は圧倒的な物だと言うことを思い知らされていると、リンが医師を連れて病室に戻り、リンは二人に対して鎖を一本ずつ渡していくと、床に楔を北、南、東、西へと四方向に医師と共に打ち付けて準備をする。
「それでアンコの四肢を縛り付けるし! そうじゃなきゃ、こいつ自殺だってしかねないよ!」
リンが叫んでいる間も杏子は痛みに苦しんで悲痛な叫びを上げ続けていた。
気丈な杏子がここまで痛みに苦しむのも珍しい絵だが、この叫びはもっともな物である。
言うならばこれまで自分の体を形成していた細胞が殺され、新たにグルメ細胞が書きかえられるような物だ。それまであった物を強引に作り変えようとしているのだから、その苦痛は想像しきれない物である。
臓器移植の際、その拒否反応に苦しめられるのと同じ、普通の手術でも終わった後は激しい激痛に襲われる物。それらを考慮すれば今の杏子のリアクションも決して大げさな物ではない。
そうしている間にも準備は終わり、杏子の四肢は鎖で縛りつけられたが、それでも杏子の動きは収まらずジャラジャラと鎖が地面に擦れる金属音だけが病室内に響き渡り、その楔も杏子の腕力で抜けそうな勢いだった。
「無責任だと言うのは分かる。だが今のボクにはこれしか言えない、頑張るんだアンコちゃん。これは君が選んだ道だ」
「分かってるよ! んなこと!」
ココの励ましに対して杏子は怒声で返す。
叫びすぎて喉がカラカラになった状態ながらも血走った目で杏子は一同を睨みつけ、決意表明のように叫ぶ。
「これはアタシが選んだ道だ。痛い、苦しい、上等じゃねーか! ゾンビみたいに死んだ体引きずりまわすより100倍マシってもんだ! アタシはぜってー生き残ってやるぞ!」
叫びと同時に両手が掲げられる。
勢いが激しく楔が抜けそうになるのを見ると、早くもトリコのグルメ細胞が杏子に適合しようとしているのが分かっていた。
そこに居た全員がただただ驚愕するしかなかった。トリコのグルメ細胞の潜在能力と、杏子の強い精神力に。
***
何も無い真っ暗な空間を一体の夜叉が歩く。
地面も先にある光景も全てが闇で覆われた空間ながらも、腰巻一丁の夜叉は特に恐れることなく新たな自分の居場所になるかもしれない、そこを見定めようと辺りを見回しながら散歩でもするような調子で歩む。
が、しばらく歩いていると夜叉の視界が眩いばかりの光で覆われる。
眩しさに目を細めるが光はすぐに収まり、再び夜叉が目を向けた時には真っ暗な空間は幻想的な光景に変わっていた。
目の前には巨大なステンドグラスがあり、それを中心にした空間の両脇には信者が座るための長椅子がいくつも並べられていて、来た者を出迎えてくれていた。
真っ赤な絨毯が敷き詰められた地面は先程までのあやふやな空間とは違い、踏ん張りが効くことが出来、夜叉は足で踏みつけながらその居心地の良さに口元を邪悪に歪ませる。
目の前に置かれている長椅子は手入れが行き届いてないのか、埃を被っていたが夜叉は気にすることなく、肺一杯に空気を貯め込むと一気に吐き出して溜まっていた埃を吹き飛ばすと乱暴に腰かける。
長椅子全体が夜叉の衝撃に驚き、激しく揺れるが何とか彼の体重を支える。落ち着ける状態が出来上がったのを見ると夜叉は新たな宿主になるかもしれない佐倉杏子の心の中にあると思われる光景を頬杖を付きながら眺める。
儚さの中にもどことなく希望や夢を捨てられないと言う優しさを感じ取った夜叉。
人としての部分はまず合格点だと判断したが、ふと後ろから一流の水準を持った殺気を感じ取る。
だが夜叉はそのまま一歩も動くことなくステンドグラスを眺め続けていて、そんな夜叉の首元に後ろから突き付けられたのは槍の穂先であった。
「テメェ何もんだ? 人の心の中に勝手に乗り込みやがって……」
振り返った先には眉間に皺を寄せ、赤を基調としたコスチュームに身を包んで、槍を持つポニーテールの少女が居た。
その姿には見覚えがある。現在この体の持ち主である『佐倉杏子』の姿だと言うことは分かった。
今目の前に居る彼女が彼女に取って、どんな存在なのかは分からない。だが敵意を持って行動している以上、こちらもそれに見合った対応をしなければいけない。長い実戦経験から夜叉は警告と思われる槍の穂先を軽く退かすと、振り返って立ち上がり少女と向き合う。
「我に名と言う概念は無い。故に好きなように呼ぶがよい」
「別に興味ねぇよ。今すぐ失せる奴のことなんてな!」
世間話でもするような調子で杏子の姿をした少女は地面に付いた穂先を一気に振り上げて、今度は完全に殺すつもりで夜叉の頸動脈を狙う。
穂先が振り上がるたびにスピードは増していき、頸動脈に届く頃にはその姿は消えてなくなっていたが、夜叉は気にすることなく右手で標準を守るように遮ると手のひらで穂先を受け止め、先程と同じように突き返す。
だが手のひらに軽く痛みが走るのを夜叉が感じると反射的に手のひらを眺める。
刃が肌に立つ前に受け止めたつもりなのだが、手のひらからは横に一筋の切り傷があって真っ赤な鮮血が流れ出ていた。
「ふぅ、指先を少し切ってしまったな」
「そうかい……じゃあ今度は膾にしてやるよ!」
叫びと共に少女は空高く飛び上がって、上空から夜叉の目玉に向けて穂先を振り下ろす。
夜叉は最小限に体を左に捻ってかわすと、体を震わせてシバリングによって体温を一気に高温へと持っていく。
体に近づいただけでも暖房器具のような熱気を感じ、少女は一瞬眉をひそめたが、振り下ろされた穂先は止まることが出来ず、そのまま攻撃を続けようとした。
だが持ち手が首に触れた時、その違和感に少女は驚愕を隠せなかった。
槍を通じても夜叉から発せられる温度が生き物の体温とは思えない程の高熱を発していたからだ。
金属製の槍は熱を瞬く間に帯びて真っ赤に変わり、その高熱に思わず放してしまいそうになってしまうが、自分たちに取って武器を手放すことは心中するのと同じ。
魔法で手のひらの感覚を消すと、穂先を頸動脈に向けようとしたが、槍全体に絡まる奇妙な触手のような感覚に腕は止められた。
汗によって粘着質を持った髪の毛は槍に絡まってその動きを封じ、髪の毛と槍がこんがらがった状態に少女は苦しみながらも強引に槍を引き抜くと、一旦後方に離れて距離を取る。
一旦は生命の危機が回避されたのを知ると、夜叉はシバリングを止めて耳を指でほじりながらリラックスした調子で少女の方を見てコンタクトを取ろうとする。
「もう気は済んだか? では汝に問おう。宿主に取って汝はいかなる存在だ?」
夜叉が一筋縄ではいかない存在だと分かると少女は先程のように不用意に突っ込むことをやめ、槍を突き立てた状態で警戒心を高めながらもジリジリと距離を詰めよって、次の攻撃の機会をうかがう。
完全に獲物を狙うハンターと化している少女と違い、夜叉の心構えは日常のように平常心を保っている物だった。
だがそれでも慢心や油断は無く、まるで息をするかのように自然な調子で警戒心を高めているのを見ると、少女は感じていた自分と夜叉の戦闘力の差に付いて。
しかしそれを認めたくないのは元々の攻撃的な性格であり、歯ぎしりして憎しみの表情を夜叉に向けながらも少女は話し出す。
「下らない質問だな。アタシはアタシ『佐倉杏子』以外の誰でも何でもねーよ!」
「我には前の宿主を通じて『佐倉杏子』に関しての記憶はある。汝は我の知っている『佐倉杏子』に比べ、えらく怯えている様子が強いな。何がそんなに不安だ?」
何気なく言った夜叉の一言に杏子と名乗る少女の顔は一気に憤怒の色に染まる。
右手を突き出して伸びきった槍は継ぎ目が鎖で繋がれた三節棍のような状態に変わって地面に突き刺さり、勢いが付いたのを見ると上空に飛び上がって穂先は地面から強引に引き抜かれ、少女は頭の上で円を描くように槍を振り回して照準が定まらないようにして攻撃を放つ。
「したり顔で説教かよ! テメェうぜぇんだよ!」
夜叉の一言が少女の琴線に触れたのであろう。少女は先程までの冷静さが一気に吹き飛んで感情に任せて槍を振り回し、夜叉を殺そうと勢いの付いた穂先を向けた。
残像となって幾多にも見える穂先を前にすると、夜叉も生命の危険を感じ取ったのか、バックステップで攻撃をかわそうとするが、体が小さい分スピードに関しては少女の方に一日の長があるようであり、切っ先が少しずつではあるが夜叉の体を傷つけて行く。
ついばむような痛みに夜叉の注意が一瞬ではあるが、標的から傷口へと向けられる。
その僅かな隙を逃がす少女では無かった。明らかに大振りの完全に仕留めにかかる動きで縦一文字に穂先を振り下ろすと、バックステップの繰り返しで防御がおろそかになっていた右腕へと放たれる。
その鋭い切り口は血管さえも切られた瞬間に委縮してしまい、一滴の鮮血も出ない状態で右腕は夜叉の体から永遠の別れを告げられて切り離されていく。
初めて夜叉に致命傷とも言える攻撃を与えられたことに満足した少女は、戦利品と言わんがばかりに切り離された右腕に穂先を刺して突き上げると邪悪な笑みを浮かべながら高笑いを上げる。
「ハハハハハハハハ! ざまぁねえな、今度は首がこうなる番だぜ!」
ここで夜叉の戦意を一気に奪おうと少女は必要以上の挑発を行うが、夜叉を見ると予想外の光景が広がっていた。
夜叉は右腕を失ってもなお、特に気にすることなく鋭利に切られた切断面を見て、少女の実力を算段して、素直にその高い戦闘能力を認めると感心したように「ほぉ」とつぶやく。
「何が『ほぉ』だ! 右腕を失ったのに何とも思わねぇのかテメェは!?」
「どうということはない」
そう言うと夜叉は水平に腕を持っていき、無くなった腕に力を込める。
すると切断面から神経のような物が生え始め、神経が絡み合って腕の形が出来上がると、続いて骨格、筋肉と肉付けされていき、最後に皮膚が腕全体を覆うと腕の再生が完成した。
「テメェはトカゲか!?」
「通常の場ならば再生は不可能だ。しかしここは『佐倉杏子』の肉体の中での世界、彼女の細胞を拝借すれば肉体の再生など容易なことよ」
腕の再生のからくりを夜叉が話すと、夜叉は新しい腕の調子を確かめる。
握ったり、シャドーボクシングを繰り返したりして、新しい腕が以前と変わらない動きをしたのを確かめると少女の方を向く。
これに少女は面白くない表情を見せて露骨に歯ぎしりをして、憎しみに満ちた目を夜叉へと向けた。
「勝手に人の物食うたぁな……テメェ躾がなってねぇみたいだな。あぁ!?」
「気に入らないのならば勝負をするがいい、我らが行うのは善も悪も無い、生きるための食するための戦いだ。汝も自分の居場所を守りたいのなら、我と言う外敵を蹴散らしてみるがよい」
それは宣戦布告とも取れる発言だった。
トリコのグルメ細胞は夜叉の姿を借りて、佐倉杏子の肉体の一つになろうとしている。
その存在を外敵とみなした少女は憎しみの感情を前面に押し出し、血走った目で夜叉を睨みつけると同時にその体は炎で包まれた。
「ああ、うぜぇ、うぜぇ……超うぜぇ! そんなに見たけりゃ見せてやるよ! これがアタシだ!」
その体が完全に炎に包まれると同時に佐倉杏子を模した姿の少女は消えてなくなった。
代わりに現れたのは馬に乗った中華風の着物に身を包んだ異形の存在。
頭部は蝋燭になっていて、炎の中にはうっすらとではあるが佐倉杏子の顔が浮かび上がっていた。
「これがアタシの本来の姿『Ophelia』だ! テメェは殺すぞ……」
そう言うとオフィーリアの体から霧が発生し、その身を包みこんで夜叉の視界から消えた。
霧が晴れた頃にはオフィーリアの姿は5体にまで増えていた。
それが幻覚と言うことは分かってはいるが、そこから先程までとは違い本気で彼女が自分を殺しに来ていることが分かると、夜叉も全身の筋肉をバンプアップさせて完全な戦闘態勢を取る。
「よし! 相手になってやる!」
右手を手刀の形に変えてナイフの形状に、左手を突き出してフォークの形状に変えると夜叉とオフィーリアの戦闘が始まった。
魔法少女との契約でその身から魔法少女の呪縛が消されてもなお、一つのトラウマとして細胞にまで生き残っているオフィーリア。
新たな希望となるため杏子の中に入ってきたトリコのグルメ細胞。
互いの存亡をかけた戦いが今始まった。
***
病室内では相変わらず杏子の悲痛な叫び声が木霊していた。
痛みに暴れ回る杏子を押さえるのにココとサニーは体力を使い、二人の表情を見れば押さえきれないほどではないが、中々に苦戦している状態なのは分かり、この時点でトリコのグルメ細胞が杏子に適合し始めているのではないかとリンは僅かな希望を感じる。
「君が希望を持ちたいのは分かるがリンちゃん、状況は芳しくない状態だ」
ココは冷や汗を額にかきながら淡々とした調子で答える。
真実を包み隠さずに答えるのがココのやり方だと言うのは分かっているリンだが、今グルメ細胞の力で杏子の体に怪力が宿っているのだと思っていたが、杏子の動きが一旦止まったのを見ると適合が完了したのかと思い、彼女の顔を覗き込む。
「よけろバカ!」
サニーが叫ぶと同時に手と触覚が伸びるが時既に遅し。
杏子は白目を向きながら口から激しく吐血を噴き出し、リンの顔は鮮血によって真っ赤に染まったがリンはかかった血を手で拭おうとするが、続けざまに吐血をしていく杏子を見ると何もすることが出来ずに完全に固まってしまうが、サニーの手によって退かされる。
「今はトリコのグルメ細胞がアンコの体内で暴れている状態だ。つまり今の怪力も一時的に現れた症状にすぎない!」
「サニーの言う通りだよリンちゃん。今は元々のアンコちゃんの細胞がトリコのグルメ細胞と適合出来るかどうかの瀬戸際だ。失敗すればアンコちゃんは全ての細胞を食われて死んでしまう。この状態では処置も不可能だ」
全てが一発勝負の綱渡りな状態の杏子を見ると、彼女が予想以上の修羅場に立たされていることが分かり、鮮血を顔で拭うともしもの時のためにと用意したフレグランス発生装置を腕に取り付け、エンドルフィンスモークを辺りにまき散らせる。
気持ちや焦りがふと落ち着く感覚を押さえつけていた四人は覚えたが、杏子だけは相変わらず苦痛そうな表情を浮かべたまま吐血を繰り返していて、エンドルフィンスモークも大して効果が無い状態だった。
「負けてたまるか……アタシは魔女のような大人にはならない……」
それは蚊の鳴くほどの小さなつぶやきだった。
杏子自身は自分の体の中で何が起こっているのかは全く分からない状態であったが、本能的に察していた。
様々な意味で変わろうとしている。自分が居ることを。
***
いつの間にか周囲に合った長椅子は消えてなくなり、中央に巨大なステンドグラスがあるステージで夜叉は5体のオフィーリアを相手にどうやって戦おうか算段を立てていたが、先に動いたのは騎乗している分、機動力に優れたオフィーリアだった。
5体全てが夜叉に向かって突っ込んでいき、蹄の音を軽快に鳴らしながら槍を突き立てる。
「手も足も出ないってか!? ざまぁねぇな!」
槍を突き出せば夜叉を貫ける距離まで近付くと、オフィーリアの槍がしなって一気に連打を決める。
無数の残像となって襲いかかる槍を相手に夜叉が取った行動は至極シンプルな物だった。両腕で顔面のみを守って逆にオフィーリアに向かって突っ込んでいく。
「ハハハハハ! 恐怖で頭がおかしくなっちまったのか!?」
「そっちこそ槍の本質を忘れたのか?」
見下したような笑みを浮かべるオフィーリアとは対照的に夜叉は酷く冷静であり、穂先が腕の筋肉に刺さった瞬間に彼女もまたその自信の意味を知る。
普段なら貫いてその獲物の感覚を槍を通して感じるのだが、穂先が貫いたのは表面部分だけであり、持ち手の部分がしなって威力が殺され、それ以上の進撃を夜叉の筋肉は認めなかった。
槍と言う武器は中近距離に優れた武器であるが、接近戦の場合でもある程度の距離を用いて、勢いを付けなければ穂先が獲物を貫くことはない。
夜叉はタイミングを見計らい、オフィーリアが攻撃する瞬間を待って一気に勝負を付けようと右手を手刀の形に変えて振り下ろす。
「ナイフ!」
攻撃のタイミングはベストであり、蝋燭の顔面へと振り下ろされていくが、オフィーリアが取った行動はあえて前方に馬を捨てて逃げると言う物。
後方へと逃げてしまえば追撃に合う可能性が大と判断した結果、オフィーリア自身の回避には成功した。
だが振り下ろされた手刀は残された馬の首へと振り下ろされ、馬の首と胴体は永遠の別れを告げ、その首が地面に落ちると同時に馬は姿は蒸発するように消えて無くなった。
「将を射るにはまず馬からと言う言葉があるからな。いずれにせよ戦力は大幅にダウンしたな」
馬の血で真っ赤に染まった手刀を向けながら夜叉は挑発するように言う。
だがオフィーリアは普通ならば圧倒的に不利な状況にも関わらず、見下した高笑いを上げると槍を構えて夜叉と戦闘を再開しようとする。
「バカが、アタシは馬から降りてからが本番だ! 馬に乗った状態なら単純な機動力は上がるが攻撃力はどうしても下がっちまうからな。攻撃にのみ転じた瞬間が本領発揮って奴よ!」
叫ぶと同時にオフィーリアは自身を5体に分身させて槍を突き出して突っ込む。
変わり変わり交差を繰り返してどれが本体なのか分からなくさせるシンプルな戦術だが効果は絶大。
人は単純な動きほど逆に読みにくく、見極められた際でも簡単に次の策と言うのが思いつくのが利点。
だがシンプルな決着を求めるのは夜叉も同じことであり、彼女自身が先程吐露したようにやはり機動力が下がってスピードが落ちているのは事実、そこを突こうと今度は左手を突き出して素早い連打を放つ。
「フォーク!」
フォークでの連打はナイフよりも攻撃範囲が広く、素早く刺しては戻しの動作も早く幻影と本体の見極めを軽々と行っていく。
オフィーリアはその圧倒的なスピードとそれらを冷静に捉えられる動体視力に驚愕の色を隠せなかったが、自身の脳天にフォークが突き刺さりそうになると槍を振り上げてフォークを跳ね返すが、無防備になった顔面を待っていたのは右での突き下ろしのパンチだった。
「5連釘パンチ!」
顔面にパンチが振り下ろされるが、炎を身に纏っただけの顔面の中にある少女は邪悪な笑みを浮かべると共に蝋燭に灯った炎が消え、後には一筋の煙が残るだけとなっていた。
攻撃目標を失った釘パンチは空振りしてしまい、威力をぶつけるべき相手がいなくなったパンチの衝撃は自身の筋肉へとダメージとして伝わり、さすがの夜叉も腕に次々と襲いかかる筋肉の繊維がちぎれるような感覚に苦痛の色を隠せなかった。
「強力な攻撃な分、外れた時のダメージは相当な物だな。だがこれで勝負ありだ」
オフィーリアが言うように夜叉の表情はこれまでとは明らかに異なっていた。
顔には脂汗が浮かび、右腕は力なくダランと垂れ下がっていて、もう握り拳を作るのも困難な状態となり、小刻みに痙攣を繰り返していた。
そんな右腕をかばうように左手で右腕をかばう姿に、オフィーリアは勝利を確信し、ゆっくりと歩を進めて行く。
あえて一気に勝負を付けようとしないのは、夜叉が何かしらの罠を仕掛けているのではないかと言う警戒心から。
勝利を確信して慢心した瞬間こそが危険だと言う実戦での経験が、オフィーリアの歩みを確実な物に変え、一歩、また一歩と踏み出していく内に頭の蝋燭は再び炎を宿し、その中に居る少女は獰猛な笑みを浮かべていて、夜叉を精神的にも追い込もうとしていた。
「異物として排除する前に答えろ。何が目的でアタシの中に入った?」
「宿主が力を欲した結果だ。この肉体は十分我と適合できる」
「だがそれは無理な話だ。アタシが居る限り誰もアタシの中に踏み入れさせない」
どうあっても自分のテリトリーを守ろうとするオフィーリアの歩みは非常にゆっくりな物であった。
夜叉の身体能力に対抗するため、体力の配分ペースを無視した戦闘を行い続けた結果、オフィーリアは歩くだけでも精一杯の状況になっていて、最後の一撃を確実に決めるため、そして自分自身敵にトドメをさすため、彼女の最後の策は夜叉から戦意その物を奪う。
精一杯の強がりを見せながらオフィーリアは話を続ける。
「そうアタシは最強の魔女『Ophelia』! 誰もアタシのテリトリーには近付けさせない、いつかは宿主だってアタシが食らってみせる!」
「その解やよし……」
初めは怒らせて冷静さを夜叉から奪おうとしたが、意に反して彼の表情は穏やかであり、笑いかけているようにも見えた。
夜叉は痛みに耐えきれなくなり、片膝を地面に付いた状態ながらもオフィーリアが困惑して黙ったのを見ると自分の話をする。
「生きると言うことは食らうことだ。誰かが誰かを食らい、常に世の中は成り立っている。お前と言う強い邪心を見た時確信したよ、この宿主は想いだけでもなく、力も相当な物を持っているという事を」
「おべっか使って点数稼ぎって奴か? 反吐が出るな……」
夜叉にもダメージがあるのは分かるが、オフィーリア自身もまた蓄積された疲労が一気に爆発し、足を引きずりながら歩き、そして激しい疲労感に苦しめられる。
そうなるとここから先は意地と意地のぶつかり合い、オフィーリアは少しずつ距離を詰めて、槍を突き出せば夜叉の心臓を貫ける位置にまで到達すると持っていた槍を投げ捨て、空高く飛び上がった。
「テメェなんか煮ても焼いても食えねぇから殺すしかねーだろ!」
上空でオフィーリアは蝋燭の頭を夜叉に向かって突き出して、重力に身を任せて落下していく。
風が魔女の体を覆い尽くすとその体に変化が現れる。
オフィーリアの肉体その物が巨大な深紅の槍へと変貌し、血に染まったようなどす黒い色の穂先が夜叉の心臓を貫こうとしていた。
まっすぐ突っ込む槍を見ると、夜叉の口元が邪悪に歪む。
どんなに攻守が完璧に備わっている相手でも、攻撃に転じる瞬間だけはどうしても隙が生まれて、0の状態になっていることを知っているからだ。
夜叉は素早く後ろを振り向くと、背中で深紅の槍を受け止めた。
辺りにまるで金属同士がぶつかり合ったような高音が響き渡ると同時に、槍に変形していたオフィーリアは今目の前にある真実が信じられず、元の姿に戻って驚愕の表情を浮かべていた。
「バカな! アタシの槍が獲物を貫けないだと!?」
オフィーリアが言うように僧帽筋で槍を受け止めた結果、背中から少し血が出ている程度のダメージしか夜叉にはなく、彼女はそのまま地面へと力なく落下していく。
「背中の耐久度は正面の7倍と言われている。勉強不足だったな……」
夜叉の説明もろくに聞かずにオフィーリアは袖の中に仕込んでおいた槍を取り出すと、そのまま夜叉の顔面に向けて突き出すが、ろくに体勢も整えずにやぶれかぶれで放った槍が獲物を捉えられる訳がない。
狙い澄ましたかのようなカウンターのパンチが穂先に入って、槍は瞬く間に崩壊していき鉄塊と化す。
だが夜叉のパンチの衝撃は槍を破壊するだけでは終わらなかった。
その衝撃は槍を持っていた腕にまで伝わってきて、その威力を論理的に考えるようになれた頃には衝撃は肩まで伝わって右腕が完全に破壊され、重力に負けて力なくダラリと垂れ下がっていた。
「気持ちだけに非ず、力だけでも非ず、その両方の無力さ、虚無感を知っているとみた。よかろう他の誰もが見限っても、我だけは宿主を認めよう!」
夜叉が杏子を適合者と認め、最後の仕上げとして、杏子の中にある邪心をも自分の中に取りこんでしまおうと拳を振り上げてトドメに入る。
「5連釘パンチ!」
既に体力を使い果たしたオフィーリアに、先程のように頭部の炎を消して回避するだけの体力は持ち合わせていない。
パンチは顔面から少し下の首への部分に直撃し、オフィーリアは呼吸が出来ない苦しみを感じながら合計で5回の激しい衝撃を食らい続け、勢いよく後方へと吹き飛ばされる。
正面の7倍の耐久度を誇る背中と違って、喉は体の中で唯一鍛えようのない筋肉に覆われていない部分。
酸素が供給されないことから頭の炎も消えて無くなり、オフィーリアは体ごとステンドグラスへと突入し、力なく大の字になって横たわる。
抵抗する存在が無くなったのを見ると、夜叉の上空にステンドグラスが現れ、まるで祝福をしてくれるかの如く七色の眩い光が彼を照らしあげ、同時に鐘の音が響き渡り、杏子の中にある全ての細胞が夜叉のことを認め、共に歩もうとしていた。
「感謝する。では最後の仕上げだ」
夜叉は口元に軽い笑みを浮かべながら手を上げると、鐘の音を止める。
鐘の音が止まったのを見ると、夜叉はオフィーリアの体をステンドグラスから出して、その両肩を掴んで起き上がらせると、彼女に向かってこれから行うべきことを話し出す。
「これから何をするかは分かるな?」
「ああ、アタシを食うんだろ? 好きにしろよ」
「その答えでは半分しか正解していない。確かに食らいはするが、それで汝の存在が消えるわけではない」
夜叉の言っている意味が分からず、オフィーリアの頭に再び炎が宿ると、炎の中の少女は困惑の表情を浮かべていた。
まともに話し合いが出来る状態になると、夜叉はそのまま杏子を抱きしめ耳元でささやくように話す。
「これから宿主に合わせるため、我は我とは違う別の生き物として宿主に仕えるつもりだ。そのためにもお前と言う闇を受け入れなければならない、我は汝で汝は我となる」
「好きにしやがれ……テメェとの戦いはまだ始まったばかりだからな」
自嘲気味にオフィーリアが答えると、その体は粒子に変わって夜叉の中へと入り込んでいく。
体中の穴と言う穴にオフィーリアが入り込む感覚を覚えると、夜叉の体は穏やかな朝焼けのように発光し、その身にも変化が訪れた。
腰巻一丁の無骨な格好から、白銀の陣羽織に身を包み、背中には巨大な槍が背負われる。
夜叉の中にオフィーリアが完全に入りこむと、そこに居たのは夜叉でもオフィーリアでもない新たな存在。
これからは杏子のために命ある限り彼女に力を貸そうと決めた白銀の夜叉は新たに生まれ変わった杏子に向かってエールを送る。
「祝福せよ! グルメ細胞に選ばれた戦士『佐倉杏子』を!」
白銀の夜叉の叫びと共に細胞たちは割れんばかりの拍手を送った。
その声に一つずつ丁寧に答えながら、白銀の夜叉は期待に胸を膨らませていた。
この宿主は自分にどんな美味しい物を食べさせてくれるのかを。
***
昼に行われたグルメ細胞の移植は日にちを跨ぎ、翌日の朝を迎えていた。
その間、体力の限界と言うことで医者だけは外していて、三人は相変わらず暴れ回る杏子を押さえつけることで精一杯だったが、ここで杏子に変化が訪れたことにココとサニーは気付くと相変わらず力任せに押さえつけるリンに向かって話し出す。
「待つんだリンちゃん様子がおかしい」
ココに言われるとリンは手を離して様子を見る。
冷静になって周りを見るとサニーも既に手を離していて、真剣な眼差しで杏子の様子を見ていた。
先程まで苦しみに悶えていた杏子だったが、今は脂汗をかいて相変わらず苦しそうにはしていたが、ただ黙ってうずくまるだけであり、耐えれない程の苦しみではないことが分かった。
押さえつけられる苦しみが無くなると杏子は冷静に呼吸を整え、自分の中にある変化を受け入れようとしていた。
そして脳内に白銀の夜叉のイメージが広がり、その存在が自らを認めるように小さく頷いたのを見ると、杏子の中にあった苦痛や不快感が一気に消し飛ばされる。
電磁波が正常な物に変わったのを見たココはいち早くそれを笑顔でのVサインと言う形で伝え、リンもサニーと手を取ってグルメ細胞が杏子に適合したのを喜ぶが、蚊の鳴くような声で助けを求める杏子の声を聞くとリンは耳を傾ける。
「助けてくれ、死にそうだ……」
浮かれている瞬間に『死ぬ』と言うキーワードを聞いたリンは青ざめながら医師を呼ぼうとするが、サニーに手を掴まれると改めて杏子の口元に顔を持ってこさせ、最後まで話を聞くように促す。
「そうじゃねぇ腹が減って死にそうだ……」
「やっぱりトリコのグルメ細胞だし……」
杏子が元気になって嬉しい半面、トリコのグルメ細胞はこんな形でもちゃんと個性を出していることにリンは呆れながら答え、ココとサニーはそれを見て笑っていたが、杏子は相変わらず腹を両手で押さえ少しでも空腹を紛らわせながらも、怒気を含んだ声で再び話し出す。
「笑い事じゃねーだろ。マジで死にそうなんだよ……」
「で何食べるの? お粥?」
「そんなもんじゃねぇ。何でもいいから腹に溜まるもん用意してくれ……」
まさかこんなことになるとは思っていなかったリンは、突然たらふく食べたいと言う杏子の要求にどうしていいか分からず固まってしまっていたが、ココとサニーが電話でトリコが贔屓にしていた店にあるだけの料理を用意するように出前を頼むと、店主たちが急ピッチで料理をしている様子が脳裏に浮かぶ。
「『腹が減って死にそう』か……何か懐かしいなココ」
「ああ、まだトリコは生きている。アンコちゃんの中でな」
そう言う二人の目にはまだトリコが生きている内にやったやるべきことを見て、目を軽く涙で濡らしながら感慨深いと言った表情を浮かべていた。
二人のつぶやきでリンもトリコとの楽しい思い出が蘇る。
お腹が減った時の彼は猛獣と戦っていた時よりも苦痛そうな表情を浮かべていたことを。
今の杏子にトリコの面影を見たリンもトリコはただ死んだわけではないことを理解して、天井を見上げて恐らくはグルメ天国に居るトリコに向かってメッセージを送る。
(いつかそっちに行った時、胸張ってトリコに話せるような一生を送るからねウチ……)
これからはトリコのためにも自分自身のためにも改めて恥ずかしくない一生を送ろうと決めた三人だったが、お腹の減りすぎで苦痛しかない今の杏子に取ってその姿は神経を逆なでさせるものでしかなく、怒鳴る元気もないまま料理の到着を静かに待っていた。
***
和・洋・中と様々なジャンルの料理が並べられる様は美を意識しているサニーに取っては調和の取れない見苦しい光景だった。
そんなことはお構いなしに杏子はベッドに装着された狭いテーブルの上に置かれた料理を次々に平らげていき、わんこそばでも頼むような感覚でおかわりを要求し続ける。
こうやってガツガツと食べていくさまもトリコを連想させる物なのだが、病み上がりで先程まで普通の人間だった杏子がトリコとほとんど変わらないペースで食べ続けていい物か気になり、一回止めさせようと話しかける。
「ちょっと少しは落ち着いて食べないと……」
「ウルセェ! こちとらただでさえ燃費の悪い細胞移植されてるんだ! まずは自分の限界を確かめるためにどが食いしてんだろうがよ!」
まだまだグルメ細胞に選ばれた美食屋としては新人の杏子の意見はもっともであり、食事の邪魔をされて瞳孔が開きながら怒り狂う杏子を見ると、これ以上関わってはいけないと思い、何も言わずに後ろへ下がる。
最後に杏子は残っている料理全てを大皿の上に乗せて、フォークで一気に流し込むと出前で用意された食材を全て食べきったが、全てを食べ終えると杏子を顔を青ざめた状態で口を押さえながら横たわる。
「ほら言わんこっちゃない。洗面器持って来る? え、何、何て?」
リンが口元を押さえながらモゴモゴとつぶやく杏子に耳を傾ける。
杏子の意見を聞くとリンは呆れた調子で二人にも伝える。
「食べたから寝るってさ」
その品の無い部分もトリコから受け継いでしまったことにココとサニーは悲しんでいたが、今は杏子が無事にグルメ細胞の移植を乗り切ったことを喜ぼうと、寝ている邪魔をしてはいけないと思って、自分たちも病室から出ていく。
静かに寝息を立てている杏子の横では点けっぱなしになっているテレビがニュースを流し出していた。
天気予報の後に行われるのはゼブラ予報。
各地で気に入らない猛獣が居れば無茶苦茶に暴れ回るゼブラの被害を受けないよう、事前に予報する物であり、最近は『キング平原』で大暴れしていることを伝えると近隣住民にアナウンサーが注意を呼び掛けていた。
***
お昼頃そろそろ杏子も目を覚ました頃だろうと思い、仮眠を終えたココとサニーは数回のノックの後に杏子が居る病室へと入る。
だがそこに杏子の姿は無かった。開けっぱなしの窓からは爽やかな風が流れていて、ベッドの上には綺麗に畳まれている患者衣があり、その上には書置きが一つ置いてあった。
『世話になった。どうしても一発かましてやらないと気が済まない奴がいるんで、今から殴りに行ってくる』
意味深な書置きにココもサニーも渋い顔を浮かべてしまう。
杏子が基本的に冷静なのは分かるが、感情が高ぶれば周りが見えなくなってしまう部分も持ち合わせている。
それでなくてもグルメ細胞を移植されたばかりの杏子がいきなり実戦での狩りに向かうのは危険だし、一般人を相手に喧嘩をすれば不幸な結末が待っているかもしれない。
気になったココは愛用の水晶玉を鞄から持ち出すと、先程まで杏子が寝ていたベッドの上へと置き彼女の残留思念から、どこへ向かい何をやろうとしているのかを見出す。
「こ・れ・は……」
水晶玉の中に映った未来を見るとココは体をワナワナと怒りで震わせる。
普段から冷静沈着なココがここまで感情的になるのが珍しく、サニーは何が見えたのかを聞こうとするが、その時同じように仮眠を終えたリンがあくび交じりに病室へと入っていくのが見えた。
「あれお兄ちゃんアンコは?」
「今ココに見てもらってるところだ。それでココあいつどこに行ったんだ?」
サニーに聞かれるとココは相変わらず怒りで体を震わせながら、先程まで杏子が寝ていたベッドの脚を掴むと、少しでも感情を落ち着かせようと怒りをベッドにぶつけながら叫ぶ。
「アホですか――!」
ちゃぶ台をひっくり返すような勢いでベッドを放り投げるココ、ベッドは凄まじい勢いと共に地面へと落下して、轟音を病室内に奏でた。
それでもまだ怒りは収まらないらしく、肩で息をするココを見てサニーは完全に怯えているリンに代わって何が起こったのかを聞く。
「自分一人で話を終わらせるな! 一体どこに向かったって言うんだアンコの奴は!?」
サニーに聞かれるとココは体を震わせながらも点けっぱなしになっているテレビから流れているニュース番組を示す。
そこには現在ゼブラがキング平原にて、そこの主である『オメガフェンリル』を相手に暴れ回っている予報があり、ここからもそう遠くない位置にあるキング平原にリンは顔を青ざめさせながらココに聞く。
「まさか……」
「そのまさかだよ! 彼女はゼブラを相手に喧嘩売りに行ったんだ!」
グルメ細胞を移植されてのデビュー戦がゼブラと言うことを知ると、サニーとリンもまた声にならない叫びを発して、三人は急いでキング平原へと向かおうとしていた。
不幸な事故が起こる前に未然に防ごうと意気込んで嵐のように消えていった三人。
病室に残された水晶玉には未来が映し出されていた。
槍を持って左頬が裂けた大男と向き合っている杏子の姿を。
本日の食材
今日はお休み
と言う訳でグルメ細胞移植の話になりました。
今回オフィーリアを登場させましたが、杏子の内部での話と言うことで例え魔法少女の呪縛から解放されたとしても、その憎しみや怒りと言った邪な心はオフィーリアとして残っていると言う設定にしましたね。
次回はゼブラとの決闘です。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。