数多くの依頼をこなしてきた。
自分で新発見した食材もいくつか出てきた。
色々なタイプの猛獣とも戦い、その全てに勝利し戦い方と言うのも曲がりなりにも熟知したつもりだ。
少しずつではあるが、自分なりに美食屋としての道を歩き自信も付いてきたつもりではあった。
だが今杏子は言いようのない黒い恐怖から逃げまどっていた。
これが夢だと言うのは自分でも理解できている。そうじゃなければ何もない真っ暗な空間をあやふやな状態のまま走り抜けている訳がない。
今までだって悪夢を見てきた経験は何度もある。だがそれは全て自分が魔法少女の頃に体験した物ばかり。
家族、マミ、さやかと嫌なことばかりがフラッシュバックするのは少なくなかったが、今回の悪夢はそれらとは全く質が異なる物。
根本的なレベルでの質の違いを感じながら、後ろを振り返ることすらせず、戦おうともせずに杏子は逃げ続けていた。
だが逃走劇は呆気なく幕が下りる。
自分の視界が更なる深淵の暗闇に包まれると同時に体を圧迫される感覚が襲う。
気付いた時には自分の体は鼻をかんだティッシュのように丸められていき、手も足も全てが圧迫されて息苦しさを感じ取った。
今どういう状況なのかを確認したくても目の前には暗闇しかなく、鼻を鳴らしても何の匂いもしない、手も足も動かすことが出来ず、助けを呼ぼうとしても声さえ出ない。
ここまで息苦しい状況がこの世に存在するのかと心の中が絶望で覆われていくと、意識は完全にブラックアウトした。
最後の瞬間その目に映ったのは、鳥のような姿をした漆黒の生き物だった。
***
体中に嫌な汗をかきながら、声にならない叫び声を発しながら杏子はベッドから飛び起きる。
荒い息づかいで辺りを見回すと、そこは自宅であるスイーツハウスの自室であり、見慣れた風景が自分を出迎えてくれた。
額に浮かび上がった嫌な汗を袖で拭うと、気持ちを落ち着かせようと立ち上がってリビングへと向かい、蛇口をひねって牛乳を飲む。
スマイルの計らいでスイーツハウスには若干の改良が加えられていて、その一つが蛇口を捻れば牛乳が出てくるギミックであり、これは『ミルクの泉』からパイプを引いているため可能な高度なギミック。
冷たい牛乳を飲みながら気を落ち着かせると、朝見た嫌な悪夢の詳細を思い出そうとする。
今までのどれとも違う初めて見るタイプの悪夢であり、正体が分からないことに杏子は苛立ちを覚えていた。
(まさか美食屋と言う仕事に対してのストレスだとでも言うのか?)
知らず知らずに感じていたストレスが何かしらの形となって現れるのはよくある話。
だが自分がその対象になるとは思わず、杏子は乱暴に髪を掻き毟るが依頼を受けていたのを思い出すと慌てて詳細の確認のため、携帯を取り出しメールを見る。
杏子が美食屋としてやっていく目標は二つ。
自身のグルメ細胞の進化と自分のフルコース探し。
グルメ細胞の進化に関してはとにかく難しい依頼をこなしていけば何とかなるだろうと思い、フルコースの方はまだこの世界での食材を理解していないことが多く、そんな状態でフルコースを選ぶのも恥ずかしいと思っているため、取りあえずは候補を見つけておこうと、自分自身も好物のフルーツを中心に行い、まずはデザートから攻める作戦に出る。
そして今回杏子が行う仕事は深海のメロン『パールメロン』の捕獲である。
海底にある『フルーツあこ貝』の中にごく稀に現れるパールメロンは興味がそそられるところであり、捕獲レベルも9とそれなりの物なので、目的が二つ同時に達成できるかもしれない。
簡素な準備を終えると今日も杏子は狩りへと出かける。
不安を打ち消すには経験を積むしかないのは分かっているから。
***
人里離れた険しい山の頂点にあるのは西洋の古城を連想させる建物。
黒一色で統一された禍々しい城へと向かうのは、6枚の巨大な翼を持ったこの世界の物とは思えない怪鳥と呼ぶにふさわしい巨大な鳥。
その頭部に乗っているのは鉄仮面で顔を隠した大男であり、仁王立ちして目的地である城を見続けていた。
「平気か?」
大男は隣に居る華奢な銀髪の少女ユーの安否を確認する。
トミーロッドから男装を命じられているので、普段は男性として美食會に従事してはいるが、その正体は年端もいかない少女であり、異世界の人間。
それもただ異世界の人間と言う訳ではなく、奇妙な契約によって人を辞めることを強要された魔法少女と呼ばれる異形の存在。
従事した当初はセミロングにまで切られていた髪だが、今では元の長さを取り戻しつつあり、腰のところまであるロングヘアーをなびかせながら、膝をついた状態で鉄仮面の大男と同じように目的地である古城の美食會第6支部を目指していたが、風圧に耐えきれず顔を歪めたのを見ると、大男は自分の足元にユーを寄せ、漆黒のマントでその体を包み隠す。
「無理をしなくてもいい。元々私が無理に連れだしたのだ。お前には役目もあるしな、着くまでこうしていろ」
「申し訳ありません。スタージュン様……」
美食會副料理長のスタージュンはユーを自分の足元に置いて、安全を確保したのを見ると目で怪鳥に命令を下し一気にスピードを上げて第6支部へと突入する。
職員たちは慌ててハッチを開けてスタージュンとユーを受け入れると、二人は何も言わずに最近設置されたばかりのロボットのコントロールルームへと向かう。
全ての食を牛耳ろうとする美食會の最新兵器、それはより確実に食材を手に入れるため、自分は一歩も動くことなく自分の何倍もの実力を発揮し、その上操縦者と寸分違わぬ精密動作が可能なロボット、グルメテレイグジスタンスロボ、通称『GTロボ』である。
鳥と人間が合体したようなデザインのロボットは、既に各所で食材の捕獲に成功していて、導入前は潜入さえ困難だったIGOのビオトープにも潜入出来、『陸ウツボ』『バーガー貝』『紅サソリ』などの高級食材の乱獲にも成功した。
作業効率が大幅に上がった食材調達チームへ、わざわざスタージュン自ら乗り込む理由が分からず、屈強でグルメ細胞の進化の結果、化け物のような見た目になった構成員たちも戸惑いを隠すことが出来なかったが、スタージュンは気にせずコントロールルームへと突き進み、目の前に口が針と糸で縫われたような跡があり、幼子ほどの身長しかない、ローブを頭から被った老人の前に立つと歩みは止まる。
「これはこれはスタージュン様、遠いところを……」
「挨拶はいい。ジョージョーよ、私の専用のGTロボはどこだ?」
GTロボを作りだした開発部主任のジョージョーは、突然のスタージュンの来訪に驚きながらも、彼の身体能力を100%発揮できるように制作された新型をすぐに彼の目の前に差し出す。
体を覆う強化アラミド繊維の体毛が漆黒に染まっている以外は通常のGTロボと変わらないように思えるが、その性能は通常の物とは全て異なり特別性だった。
一目見ただけでもその存在感が伝わるが、それでもスタージュンに満足した様子はなく、どこか不機嫌な感じで右手で頭をかきながら、コントロールルームへと向かおうとする。
「よーし今日も張り切って行ってみようか~!」
そこにパイロットスーツに着替え、準備万端の美食會第6支部の支部長『セドル』が現れるが、そこに居るはずの無いスタージュンとユーを見ると、セドルは固まって何も言えなくなっていた。
「あ、あのどうしてここに……オイラまた何かヘマやらかしちゃいましたか?」
「そうではない。今日のパールメロンの捕獲は休んでいていいぞ、私が行く……」
「え!?」
てっきり説教されるのではないかと思っていたセドルは恐怖から解放されて喜びもあったが、急に自分の仕事を奪われた驚きが優先して思わず素っ頓狂な声を上げる。
だが呆けているセドルを気にせず、スタージュンは手早くパイロットスーツに着替えると、傍で待っていたユーの肩を叩き、屈んで彼女と目線を合わせて会話をする。
「頼むぞ。自分の仕事を行うんだ」
美食會第2支部支部長ユーの仕事、それはグルメ食材の情報収集、未発見のグルメ食材の発見などが第2支部の主な仕事なのだが、入って二年も経っていないにも関わらずユーの情報収集能力は誰よりも群を抜いていた。
まるで未来が分かっているかのように食材の細かい位置まで的確に把握しているため、瞬く間に前支部長のピカタを追放し、現在の地位を手に入れた。
そして今も体を発光させながら、軽く地面から浮きあがって、今回の目的であるパールメロンの詳しい所在を語り出す。
ユーのつぶやきを聞きながら、セドルは今回の目的地の地図と照らし合わせて、彼女のつぶやきに耳を傾けると驚愕の表情を浮かべる。
(スゲェ……まるで機械で見たかのように的確だ)
衛星からの情報で目的地の土地勘は把握したつもりなのだが、それでも実際に現地へ行って見たのとでは雲泥の差がある。
だが今目の前に居るユーはまるでそこに居るかのように的確にパールメロンの位置を答え続け、メモ帳を取っても覚えきれるかどうかわからないほどであり、そこのパールメロンを本当に全部持って行くのではないかと呼ばれるぐらい語りつくし、その全てを覚えるとスタージュンは手を突き出してユーに動作を止めさせ、許しを貰うとユーは地面に突っ伏て呼吸を整えていた。
顔を見ると汗まみれであり、その白で統一されたスーツの下も汗だくになっているのだろう。
ユーの情報収集は初めて見たセドルだが、その神秘的な光景に惹かれたのかユーを純粋に心配してかは分からないが、無意識の内に手を伸ばそうとしたが、その行為はスタージュンが手を差し出して止めた。
「こうなることは分かっている。故にユーのフォローも私の仕事だ。平気か?」
「ハイ……申し訳ありません。スタージュン様……」
「いいんだ。そこまでの精密動作となると、相当なカロリーを消費するだろう。落ち着いたらこれを食べるといい」
そう言ってスタージュンが差し出したのは皮をむかれたバナナをホイップクリームと共にスポンジケーキで包まれた菓子パンだった。
「『カロリーバナナ』で作られた物だ。一応はお前好みの味に合わせたつもりだが、気に食わなければ食べなくてもいい、私の腕が未熟だっただけのことだ」
それだけを言うとスタージュンはヘルメットを被り、コントロールルームへと向かい現地で待機させてあるGTロボに意識を移転させて動き出す。
スタージュンが操縦するGTロボの視線は中央にある巨大モニターを通じて映り、セドルはスタージュンの手際の良さとユーの情報が寸分違わず合っていることに驚きを隠せなかった。
(まるで魔法でも使ってるみたいだぜ……)
一時期食材の捕獲に伸び悩んでいた時期もあったが、その原因の一つとして情報の伝達ミスがあった。
だがユーが支部長になってからと言う物、そう言ったミスは0に近い状態となっていて、食材の捕獲もグッと上がり、セドルに取ってユーは一番信頼できる同僚となっていたが、初めて情報を伝えるところを目の当たりにして驚きを隠せなかった。
怪訝な顔でセドルは彼女を見ていたが、その視線に気づくとユーは菓子パンを食べながらも軽く微笑み返した。
人形のように整った顔で微笑まれるとセドルは照れ臭くなって、そっぽを向くがジョージョーに叱られると慌てて巨大モニターに視線を移す。
(トミー様は隠しているつもりだけど、皆分かってんだよねユーが女ってことは……)
何が目的でそんなことをしているのかは分からないが、早くカミングアウトした方が本人のためでも、周りのためでもあるだろうと思いながらセドルは巨大モニターでのスタージュンの狩りの様子を見続けていた。
海中にも関わらず、その動きは地上と寸分変わらぬ物であり、新型GTロボの性能の良さとスタージュンのポテンシャルに驚かされながら。
***
現地に到着すると杏子は崖下からパールメロンがどの辺りにあるのか大体の見当を付けようとする。
と言っても真下に広がるのは青く澄んだ海であり、綺麗に輝いているだけだった。
冷静になって考えればこんなことで海底の方にあるパールメロンの居場所など分かるわけないのは、少し冷静になって考えれば分かることなのだが、今回の依頼は杏子に取って冷静さを欠く要因が多かった。
朝の夢見の悪さと言う物もあったが、一番の原因は自分の周りでコソコソと隠れている集団だった。
(全くイライラさせられるぜ……)
上手くカモフラージュして隠れてはいるが、杏子の嗅覚は隠れている盗賊や殺し屋たちの匂いを見極め、どの場所にどれぐらいの人間が居るかと言うのを把握していた。
全員が全員綺麗な方法で食材を得ているわけではない、自分も通常の魔法少女とは違いイレギュラーな方法でグリーフシードを得てきた邪道だから、偉そうなことを言うつもりはない。
だがそれでもいざ自分がやられる立場になってしまうと苛立ちは隠せず、それを誤魔化すかのようにツナギを脱いで深紅の衣装になるとブーツに細工を加えて、足ひれの形状に変えると勢いよく崖下から海へと飛び込む。
飛び込んだ瞬間に衝撃波あったがすぐに目を開けるようになると、その美しさに杏子は心を奪われる。
透明度が異常に高く、水族館の中でしか見られないような熱帯魚や珊瑚がある光景はまさしく宝石箱と呼ぶに相応しい光景。
泳いでいるのがマグロの尾ひれにイカの足が付けられた『イカマグロ』や、食べればチーズの味がするかたつむり『チーズマイマイ』と言った自分たちの世界では違和感しか感じられない生き物さえいなければもっと完璧なのだが贅沢は言ってられない。
これらの生き物は危険性が無く、捕獲レベルも低い猛獣。
そんな生き物が普通に生活をしている辺り、今回の課題はパールメロンを探せるかどうかの根気強さだけ。
今までにない課題をこなすためにも、杏子はなるべく静かに足を動かして進んでいき、更に深い海底へと潜っていく。
グルメディクショナリーで大体の情報は予習してきたのだが、実際に潜ってみると透明度が高くても海底の中でフルーツあこ貝を探すのは一苦労であり、物を見つけたとしても中にパールメロンが入ってないことが多く、思っていた以上の根気を要求された。
また海中での作業は思っていた以上に体力を使い、息継ぎのために何度も海上へと上がり空気のありがたさを思い知らされる。
事前に行った訓練では15分は潜っていられるのだが、実戦での結果その半分も潜っていられなかった。
予想以上に海底での作業が体力を食らう物であり、自分から取りにいくよりも人が取った物を奪った方が楽だと言う理屈も分かる。
だが苦労を失くして得た食材で自分のグルメ細胞が上がるとも思わない。襲ってくるのなら、ついでに返り討ちにすればいいだけだと思いながら再び海底へと潜ってパールメロンを探す。
だが何度探してもパールメロンは見つからず、イライラだけが募る一方であった。
単純に食事代を稼ぐだけなら目的は達している部分もある。パールメロンほどではないが高級な食材もいくつか見つけ、捕獲に成功している。
だが杏子は本能的にパールメロンを求めることだけに頭が一杯になっているので、肝心の目的の物が手に入れられないのが悔しかった。
何度目かの息継ぎをしに海上へと浮かび上がると、気づけば日も傾きかけているのが目に飛び込み、いつの間にかここまで時間が経過しているのかと驚かされてしまう。
夕焼けに染まりかかった海面を見ると、杏子の中で冷静さが取り戻される。
この辺りの海底は大体見て回ったが、どこにもパールメロンは見つからなかった。
更に奥深くへ潜ることも出来るが、今の自分のスキルでそこで現れる猛獣たちと対峙するのは不可能だし、行ったところでそこにパールメロンがあるかどうかも分からない。
実力さえ伴っていれば目的の物を発見できる。美食屋の狩りと言うのはそんな簡単な物ではない。それはトリコやココから散々教育されてきたことなのだが、実際に依頼が失敗に終わったことはこっちの世界に来てから初めての体験なので戸惑いを隠せなかった。
だがここでトリコとの記憶が蘇る。
一回だけ狩りに同行した時、既に食材が枯渇していたことを見たことがあった。
その時はショックを隠せなかったが、その時にトリコが言ってくれた言葉が頭に残っていた。
『大自然へ食材の調達に向かい失敗に終わる。よくあることだ』
そう言って笑顔を浮かべながら頭を撫でて、この日は家に帰って行った。
その時はいつも通りの何も考えていないだけのトリコだと思っていたが、彼がいなくなり、そして現実に自分がその状況に向き合ってその言葉の真意が分かった気がする。
自分たちは大自然によって生かされているんだ。次のチャンスを待てばいいと思っていたが、最後にもう一回だけ潜ってパールメロンの捕獲に挑戦しようとした。
何度か潜って大体の土地勘は掴めたのだが、海の深さ大きさは異常であり、分かっていたつもりでも、まだまだ見落としているところが多かった。
その中で新しく見つけたフルーツあこ貝の貝を開いてみる。
すると今までとは違う手応えと言うのを感じていた。
最後まで開いてみるとその手応えが決して虚空じゃないことが分かる。
眩いばかりの光が杏子の眼前に広がり、フルーツあこ貝の中心にはソフトボール大の大きさの皮の無いメロンがあった。
それはグルメディクショナリーで見たパールメロンであり、丸一日かけてようやく手に入れたそれに歓喜の震えは止まらず、恐る恐る手を伸ばした瞬間、横から首が伸び獲物は持って行かれる。
何事かと思い杏子が振り返ると、2メートル大の小さな首長龍のような青い生き物がパールメロンを口にくわえていた。
その存在は知っている。この辺りに生息する捕獲レベル7の穏やかな水棲猛獣の『ミニマムプレオ』主に水中に存在する果物を食べて生きている穏やかで優しい性格の獣だと言うことを。
最後の最後でこんな形で終わるとは思っていなかったが、自分がノロノロしていたのが悪いと諦め、杏子はどこか爽やかな笑みを浮かべながら手を差し出してパールメロンを譲ることを決めた。
ミニマムプレオは一旦腹の中にパールメロンを保管して、自分の巣へと戻っていく。
グルメディクショナリーでその姿が成熟したメスだと言うことは分かっているので、恐らくは子供のために狩りへと勤しんでいるのだろうと杏子は予想出来ていたので、ここは敢えて失敗を経験するのを選ぼうと思った。
だがその瞬間に体全体の神経がぞわぞわと逆立つ感覚を覚える。
それはミニマムプレオも同じことで先程までの穏やかな表情が嘘のように険しく変わり、一人と一匹の視線は共に海底へと向けられていた。
そこにやってくる恐怖が分かっていても、どうすることも出来ず、ただただ立ちつくすだけの一同。
姿も見えない、音も無い、だが恐怖の正体をいち早く察知したのは杏子の鼻だった。
生臭い血の匂いが辺り一面に広がっているのを感じる。血の匂いはドンドン上昇していき、自分たちはとんでもない何かに巻きこまれようとしているのも分かった。
すぐに逃げなければいけないのは分かっているが、体が言うことを聞いてくれない。
脳は逃げる命令を出しているにもかかわらず、体が恐怖のあまりに筋肉が完全に硬直してしまい、杏子もミニマムプレオも何も出来ないでいた。
――来る!
杏子が本能的に察した時、海底からそこには存在しない異形の物が現れた。
手に持たれた網の中には山盛りのパールメロンがあり、それだけでも驚かされたのだが、杏子が本当に驚かされたのはその姿。
夢の中で見たのと同じ漆黒の体毛に鳥のような頭部を持った、この世の物とは思えない異形を前に杏子は完全にすくみあがる。
どうあっても自分ではこいつには勝てないと言う想いは、大きくなっていきそれは近付くにつれて一つのイメージとなる。
巨大な異形が自分に向かって手を伸ばし握りつぶそうとする様が思い浮かび、夢の中での絶望がそのまま現実の物になるのかと思っていた。
恐怖で完全に思考がまともに働かなくなったのか、背中から二本の槍を取り出すと組み合わせてドリルの形状に変えるが、ただ突き出すだけで自分から仕掛けるようなことは絶対しなかった。
それは精一杯の空意地であり、プライドであり、そして敬遠行為。
異形はそんな杏子を気にせず、体全体から血の匂いを撒き散らせながら海上へと上がろうとするが、ミニマムプレオの姿を見るとゆっくりと手を伸ばそうとする。
ミニマムプレオは戦おうとするが、本能的にそれが自殺行為だと悟った杏子は半ば自棄気味にドリルクラッシュをミニマムプレオに放つ。
「悪いがこれしか方法が無いんだ!」
水中で放ったためスクリューのように激しいエネルギーを生み出し、水圧によるダメージがミニマムプレオのみぞおちを襲い、ミニマムプレオは白目を向きながら泡を吹き、子供のためにと腹の中に貯めておいたパールメロンを全て吐き出して地面に突っ伏す。
三つのパールメロンを受け取ると、杏子は異形に向かって差し出し必死に命乞いをする。
「これで目的の物は全部だ。頼むアイツにはガキが居るんだ。これで見逃してくれ」
興奮しきった杏子は水中であることも忘れ、必死に懇願する。
異形はパールメロンを奪うように持ち去ると、一言つぶやく。
「それでいい。邪魔さえしなければ死ぬことはない……」
水中にも関わらず声が出ることに驚いたが、その声を聞いた瞬間自分の行動は間違っていなかったと思わされる。
全身が金縛りにでもあったかのような感覚が襲い、恐怖で人が動けなくなると言う物が本当にあるのかと思い知らされた。
完全に固まった杏子を無視して、異形は海上へと向かう。
その姿が完全に視界から消えたのを見ると、杏子は未だにのびているミニマムプレオの元へと向かい頬を軽く叩いて起こした。
勝手な行動を取ったので殴られようと思ったのだが、次の瞬間ミニマムプレオは恐怖から解放されたのを知るとその首を杏子に預けて甘えるようにすり寄る。
杏子自身もあれが何なのか分からず恐怖ばかりが頭にへばりついていたが、いつまでもこうしているわけにもいかない。
適当なところでミニマムプレオを放して別れると、息継ぎのために海上へと向かう。
そして上がった時に先程までのさわやかな感覚とは違うおどろおどろしい雰囲気に、杏子は息を飲んだ。
恐る恐る振り返って見るとそこには魚たちの無残な死体が浮かび上がっていて、血で真っ赤に染まった海面を見ると杏子は何も言えず、それ以上見るのが辛くなったのか、袖に仕込んだワイヤーを放出して逃げるように崖の上へと登る。
だが地上に到着した瞬間、杏子は更なる衝撃を受けた。
パールメロンを狙って奪おうとした盗賊や殺し屋たちが頸動脈のみをかき切られて、見るも無残な死体となってそこに転がっていた。
魔法少女時代から死体については見慣れていた。予想通りこうなるだろうとは分かっていたが、それでもショックは拭えず苦痛に顔を歪める。
取りあえずはグルメ警察に連絡を取って、遺体を引き取ってもらおうと思ったが、その時杏子は自分の足元の死体の首に絡まっている繊維のような物が気になり取って見る。
「これって……」
先程の異形の体毛を首から取ると、何かの参考になるのではと思いポケットに放り込むと同時に携帯の着信音が鳴り響く。
画面を見るとココからであり、修業を終えてから一度も連絡を取っていなかったと思いながらも電話を繋ぐ。
「アンコちゃん、今大丈夫かい?」
「ああ一つ仕事を終えたところだ。失敗したけどな」
皮肉交じりにココに愚痴をこぼすことで、せめてもの慰めを行う。
だがココは杏子に暇があることが分かると、そんな彼女の心情のフォローもせずに自分の要件を話し出す。
「話がある。明日来れるかい?」
「分かった。こっちも相談したいことがあったんだ」
簡素な会話を終えるとグルメ警察が到着し、杏子にあれこれと事情聴取を行った。
すぐに持っていた武器を調べられ、杏子がこの事件の犯人じゃないと分かるとその場で釈放される。
だが杏子にそんなことを喜ぶ余裕はなかった。
歩きながらも常に頭の中では異形の恐怖だけが頭の中にこびりつき、それを払拭するのに必死だった。
生まれて初めて本気で恐怖を感じることに杏子はただただ戸惑うばかりであった。
***
パールメロンの捕獲が終わると、セドルはその鮮やかな手際に感服するばかりであり、何も言えずにスタージュンを見続けていて、ジョージョーは全ての狩りを終えたスタージュンを労うように彼の元へと向かう。
「見事です。スタージュン様、このジョージョー感服いたしました」
「媚はいい。それよりもまだ改良が必要だ」
自分の動きが出来ていないことをジョージョーに伝えると、スタージュンはパイロットスーツを脱いで私服に着替えてコントロールルームから出ていくが、その時出入り口がやたらに騒がしいことに気づく。
「スタージュン!」
駆け抜ける轟音と共に拳を振り上げて男はスタージュンを勢いよく殴り飛ばす。
鉄仮面の上からでもダメージはあり、スタージュンは吹き飛ばされて地面に伏せながらも自分を殴り飛ばした相手とコンタクトを取る。
「荒れているなトミー……」
スタージュンと同じく美食會副料理長のトミーロッドは普段の冷徹さが全くなく、怒りの感情が前面に出た状態でスタージュンを荒い息づかいで睨みつけていた。
「すかしてんじゃないぞ! 勝手にユーを連れ回すな! 諜報要因を実戦の場へ狩りだすなんて、それが上に立つ者のやることか!?」
「目的のためにどこまで冷淡になれるお前らしくもないな。今回のパールメロンは位置が細かいからな。直接聞いておかないと全てを狩るなど不可能だ。それに試作機であるミクロ型を動かせるのは今のところユーだけだ。実戦の場を見せておくのも悪くないだろう」
「言わせておけば!」
スタージュンの反論に腹を立てたユーは再び拳を振り上げて殴り飛ばそうとするが、それを止めたのはか細い女の手だった。
トミーロッドが憎悪に染まった顔で自分の進行を止めた方向を見ると、ユーが自分の腕に体ごと絡みついて止めていた。
「やめてくださいトミー様。目的のために個を捨てなければいけない、それはあなたがここに入る時、私に言ったことではありませんか」
「ユー! それは……」
かつて昔ユーに対して言った言葉を言われてしまい、トミーロッドは何も言い返すことが出来ずに言葉に詰まってしまうと、振り上げた腕を下ろすと、そのままユーを連れて最後にスタージュンに対して一言言う。
「とにかくあんまりボクを怒らせるな。これはボクの物なんだからな……」
それだけ言うとトミーロッドはユーを第2支部へと送るために、彼女を連れて去って行った。
セドルとジョージョーは嵐のように現れて去って行った。トミーロッドに唖然とするばかりであったが、スタージュンはトミーロッドが居なくなったのを見ると、口元に浮かんだ血を拭ってゆっくりと立ち上がる。
「ジョージョーよ。改良を頼んだぞ、今のままでは全く自分の動きが出せん」
それだけを言うとスタージュンは立ち上がって去って行った。
取り残された二人は何も言えずに呆けるばかりであったが、ジョージョーはすぐに改良に付いての話し合いを行おうと去って行き、一人取り残されたセドルは先程までの光景が頭から離れずに何度もフラッシュバックが繰り返されていた。
(あのトミー様を黙らせるなんて……)
トミーロッドが人の話を全く聞かないのは自分も何度も経験があること。
そんなトミーロッドを言葉一つで黙らせるユーに、その異常なまでのポテンシャルを感じ取ったセドルをショックを拭うために自室へと戻ろうとしていた。
自分たちはもしかしたら、とんでもない相手を引き入れたのではないかと思いながら。
***
翌日ココの家に到着すると、早速杏子は昨日体験した恐怖のことを話し出す。
本来ココはココで杏子と話したいことがあって呼び出したのだが、それを無視して話を進める杏子に呆れながらも、ココは彼女の話に耳を傾ける。
海底から現れ人語を解す生命体などいるのかと疑問に思いながら、杏子は今回の仕事で唯一の戦利品である異形の体毛をココに向かって見せる。
物を受け取るとココは体毛をジックリと眺めながら、愛用のノートパソコンを取り出して、データを入力して自分なりに分析をしていくと一つの結論に至る。
「これは体毛じゃないよ。強化アラミド繊維だよ」
「つまりは人の手で作られた人工物って訳か。というとロボットかあれは?」
『ロボット』と言うキーワードにココは反応を示す。
近年IGOのビオトープも被害にあっている新型のGTロボかもしれないとココは思い、詳しい事を杏子から聞こうとする。
杏子はその時のことを思い出すと恐怖に張り付かれるような感覚になるが、勇気を振り絞ってその時のことを一語一句丁寧に語り出す。
顔には脂汗が浮かんで苦痛そうな表情を浮かべている辺り、杏子が感じた恐怖と言うのは相当な物だと思いながら、ココは杏子の話をまとめると杏子に真相を伝える。
「それはGTロボだよ。ボクの方からも注意するようにIGOから言われたんだ」
そしてGTロボに関しての詳しい話をココから聞くと、杏子は今まで自分が戦った美食會の人間など末端も末端だと言うことを思い知らされてしまう。
あの時のオペレーターの実力はロボを通じても十分に理解できた。実力の10分の1も出せてはいないだろうが、今の自分では逆立ちしても勝てないと言うことが分かり、悔しさに歯ぎしりをしてしまう。
「恐怖を感じたみたいだね、そのオペレーターに美食屋と言う仕事が嫌になったかい?」
「いや……もっと強くならなきゃいけないって改めて思ったよ……」
震えながらもそう答える杏子に虚勢は感じられなかった。
怯えながらも必死になって前へと進もうとする杏子を見て、安心したように笑いながらココは一言言う。
「そうか。君は少しだけ大人になったよ……」
一応はココに一つ認めてもらったことが嬉しく、小さく「ありがと」とだけ言うと杏子は立ち去ろうとするが、ココは本来の自分の目的を思い出すと慌てて杏子を引きとめて再び椅子に座らせる。
それと同時にパソコンの画面を杏子に見せる。
映し出されていたのは洞窟での卒業課題の時に自分がオフィーリアと戦っている時の映像だった。
いつの間にかカメラが仕込まれていることに驚きはしたが、カメラにオフィーリアが映っていないことに安心していた杏子だが、ココは杏子の手から球体が放たれたところで映像を止めると球体を指さして語り出す。
「ここだ。あの時はボクも満身創痍の状態でボンヤリしていたから、指摘しなかったがこれは本来凄いことなんだよ」
「何がどう凄いってんだよ?」
「この技は食欲のエネルギーその物が体外に飛び出た奥義『王食晩餐』なんだ。威力こそ小さいが、これを発動出来たのは本当に驚いているよ。正直嫉妬さえ覚えるほどにね」
それがグルメ細胞の食欲のエネルギーその物が飛び出した物で本当に凄いことなのだとココは熱弁するが、杏子にそこまでの驚きはなかった。
オフィーリアを倒すことが出来たのは全てトリコのおかげ、ナイフやフォークが発動出来たのも、そして最後の王食晩餐も全てトリコのグルメ細胞が自分に力を貸してくれたおかげでこうして生き延びていると言うことは分かっていた。
(結局アタシは今でもトリコに守られているのか……)
グルメ細胞の移植が魔法少女の契約とは違い、常にトリコに守られているという安堵感に包まれている事実を知り、杏子は優しげな顔を浮かべるが、最後に気になったことがあり、その旨をココに聞く。
「んで、呼んだ理由ってのはわざわざおべんちゃらを並べるためじゃないだろ?」
「そ、そうだった。確かに凄いことだけど君には天狗にならないようにと釘をさすため、説教がましくはなると思うが呼んだんだよ」
「と言ってもアタシにはその王食晩餐ってのがよく分からないからな。どういう状況何だ今は?」
もっともな質問をされるとココも戸惑うが、自分の中で妙案が思いつくとそれを杏子に告げる。
「まぁ分かりやすく言うと君が今放った王食晩餐は、悟空が一番初めに亀仙人のかめはめ波を真似して車をへこませた程度のかめはめ波、ボクがお父さんから教えてもらった王食晩餐は、終盤でセルを倒した時のような親子かめはめ波とでも言えば理解できるかな?」
分かりやす過ぎる適切な例えに、杏子は引きつった顔を浮かべながらも、小さく「分かった」とだけ言って、その場を後にしようとする。
恐怖を感じていた先程まではどこか不機嫌だったが、今は不思議と体が軽く感じられた。
どんな時でも自分にはトリコが付いている。それは何よりも嬉しく、魔法少女時代には無かった最強の武器なのだから。
***
第2支部に戻ったユーは一人支部長室にこもりながら、自分が魔法少女時代に自分の体となった存在ソウルジェムの模造品を見つめながら一人物思いに耽っていた。
かつて自分は最悪の展開を避けるために、戦いそして敗れたのだが、その自分がまさか最悪の組織に属するとは思っておらず、人生とは分からない物だと思っていたが、頭の中で思い浮かぶのは唯一の友人の存在。
自らを魔女と化しても自分に尽くしてくれた彼女を見て、それが善だろうが悪だろうが想いを込めて突き進んだ道ならば突き進むしかないことが分かった。
「キリカ……」
唯一の友人呉キリカの名を呼ぶと、ソウルジェムの模造品を乱雑にテーブルの引き出しにしまい、変わりに出したのは唯一元の世界との繋がりであるボロボロになった魔法少女時代の衣類であった。
その衣類を見ると思い出すのは、ひたすらに孤独だったあの頃。
頼る物も無く、未来予知の魔法は残っていても、それを自分の力で変えることなど出来なかったあの頃。
その時トミーロッドが来てくれなければ、どうなったかと思うとゾッとして今でも恐怖を感じてしまう。
この世界に来てから現在に至るまでの二年間はまさしく激動の日々だったと思える。
いい意味でも悪い意味でも熱く生きていたそれだけがユーの中で思い返される。
そしてこの名を付けられた時のことがフラッシュバックする。
――ここに本格的に身を置きたければ、今までの個は捨てることだ。そうでなければ生きていけない。故にお前は今日からユーだ!
ユーはその時に決意をした。魔法少女時代の名を捨て、この世界で美食會第2支部支部長ユーとして生きようと。
「そう美国織莉子はあの時死んだ。今の私は美食會第2支部支部長のユーよ……」
それはユーの決意表明だった。美国織莉子としてではなく、これからはユーとして戦い抜くと。
かつて自分を慕い、自分のために全てを投げ打ったキリカのように自分が信じた道を貫こうと決めたのだった。
その為に改めて目を閉じ思い返す。
この世界に来てからの今までの記憶と言う物を。
本日の食材
パールメロン 捕獲レベル9
フルーツあこ貝の中にごく稀にある通常のメロンよりも糖度の高いメロン。
見つけにくいことでこの捕獲レベルが付いたが、最近はスタージュンによる乱獲のため値段がつり上がっている。
ミニマムプレオ 捕獲レベル6
非常に穏やかな性格で海底にあるフルーツを好んで食べる。海の中の草食動物。
上手く手懐けることが出来れば漁の手伝いもしてくれることもあり、IGOでは家畜化のための研究も行われている。
と言う訳で今回はスタージュンと絡ませました。
後王食晩餐に付いて言われたことがあったので、今回フォローを入れてみたつもりです。
次回は美国織莉子がユーに変わるまでの物語をやろうと思います。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。