愚図るハジメを無視して杏子は彼をおぶさって一気に森を駆け抜ける。
凄いスピードで森を駆け抜けて行っているため、背中におぶさっているハジメに取ってはジェットコースター並みの衝撃が肌を通じ、景色が目まぐるしく変化し、歯と歯が何度もガチガチと重なり合わさる感覚に、ハジメは僅かに残ったプライドも吹き飛びそうになっていた。
深い森に光が刺さった瞬間を見ると杏子のスピードは一層高まり、駆け抜けるように森を後にした。
そのスピードを保ったまま、杏子はエンドが待っているモーテルへと向かい、モーテル前に到着するとおぶさっているハジメを下ろし、受付へと向かう。
夜が明け出した中、モーテルの受付は寝ぼけ眼を擦りがら、応対にあたろうとするが、深紅の衣装に身を包んだ目にも鮮やかな少女が息を切らせながら自分の前に立つのを見て、受付は恐れおののきながらもプロとして要件を聞く。
「いらっしゃいませ。お客様本日は?」
「ここに泊っているエンドにこう電話で伝えてくれ。『ハジメ兄貴とゴールデンアップルの捕獲に成功した』ってな」
言われるがままに受付はエンドの部屋に電話で杏子が言った言葉を一語一句間違えずに伝えた。
その瞬間に電話口のエンドから聞こえてきたのは、先程まで寝ていたのか、どこかとぼけた感じの声が、聞いたこともない奇声に変わり、慌てて身支度を整える音が電話口からも聞こえてくる。
電話を切っていいのかどうか聞くため、受付は何度も「もしもし?」と聞いて、エンドに返答を求めるが、次の瞬間に聞こえてきたのは階段を駆け降りる轟音。
何事かと思って受付が階段の方を見た時には慌てて身支度を整えたエンドの姿があった。
「それでアンコさん。兄さんは?」
その場にハジメの姿が居ないことから、エンドは息を切らせながら杏子に聞くと、杏子は受付から水を一杯貰いながら、親指で外をさして「置いてある」とだけ言う。
エンドが飛び出すと同時に見たのは、あぐらをかいて地べたに座っているハジメの姿だった。
いきなり猛スピードで外に連れ出されたことから、不機嫌な顔を浮かべていたハジメだが、目の前に息を切らせて自分を涙目で見ているエンドを見ると、その顔は真剣な物に変わり、兄は立ち上がって妹の姿を見る。
「エンド……」
「兄さん!」
暴走したことに対してどう言い訳をしようかと考えている途中で、ハジメはエンドに抱きつかれそのまま妹は兄の胸の中でさめざめと泣き続けていた。
それは自分に心配をかけたことに対する非難、そして愛おしい兄が無事だったことに対する安堵の涙、二つの意味が込められていて、胸が涙で濡れるたびにハジメは責められている感覚に陥り、言葉が出なくなり、その場に茫然と立ち尽くしていた。
「お前の妹がお前に対して、突き離されたことに対して怒りを感じているのか、自分の身を危険にさらすことに悲しみを感じているのかは分からない……」
そこに水を飲み終えて落ち着いて、体力が回復した杏子が割り込む。
杏子の表情は至って冷静と言うよりは、感情が欠落したかのように冷静その物でまるで能面のような顔になっていた。
その表情が怒りが爆発する前の静けさなのか、ハジメを見下している悪意のあるそれなのかは分からないが、圧倒されるハジメに構わず杏子は話を続ける。
「だがその涙を見ても、妹の話を聞かないようじゃ、アンタが普段から言っている子供たちの腹と夢を満たす理想なんて到底叶いっこないな。心の無い力で理想がかなうはずないだろ……」
その言葉が誰に対して言った言葉なのかは分からない。だがハジメは思った自分だけに向けられた非難の言葉ではないと言うことを。
泣き続けるエンドだけの時間だけが動いている状態であり、ハジメと杏子はお互いに何も言わずに固まっていた。
朝日だけが三人を優しく照らし出していた。
***
ある程度泣きじゃくり、エンドが落ち着きを取り戻したのを見ると、三人はエンドが泊っている部屋へと集まり、これからのことに関してのミーティングを行おうとしていた。
ハジメは森の中で言っていた杏子に案に乗っかろうとしていて、その方向で話し合おうと最初にハジメが口を開く。
「約束するよ。もう僕は逃げたりしない、グルメヤクザとも真っ向から戦ってみせる!」
決意表明のように高らかと叫ぶハジメに対しても、杏子は遅めの朝食を食べながら気の無い感じで「オウ」とだけ応えて適当にあしらう。
別人だとは分かっていても、やはり好きにはなれないのだろう。杏子は極力エンドの方を見ながら話を進めようと、グルメディクショナリーを開きながら、手に入れたゴールデンアップルを片手に語り出す。
「今のところこいつを一番安全に食べられる方法はアップルパイでの食べ方が一般的とされていて、その中でも『羽小麦』(はねこむぎ)だけで作った生地でしか毒素を完全に封じ込めることは出来ない」
羽小麦は高級な食材ではあるが、現在では人工栽培も可能であり、一時期よりは安価な食材として市場に流通している食材。
用心深いグルメヤクザのことだろう。羽小麦ぐらいは事前に用意していて、自分たちが持ちこめるのはせいぜいゴールデンアップルぐらいだろうし、そこに何かの細工を加えれば即座に仲間たちも自分たちの命も危ういことになるだろうと言うのは、兄妹二人には容易に想像できた。
沈んだ顔を浮かべる兄妹に対して、杏子は邪悪な笑みを浮かべながら、二人を呼び寄せて耳打ちをすると自分の案を伝えた。
確かに杏子の案ならばグルメヤクザ達は自分から身を引くだろう。
だがそれを行うためには高い調理技術を持った料理人が必要だ。今度はその事に付いて話し合おうと杏子は一番気になっていたことを聞く。
「そんな深刻な顔しないでもお前らのチームにも料理人ぐらい居るだろ? そいつに頼んでこの作戦をだな……」
「居ない……」
蚊の鳴くようなハジメの声に調子に乗った状態で語っていた杏子の口が止まる。
口ごもったハジメに変わってエンドが代わりに詳細を話し出そうとする。
「家のチームは決まった料理人と言うのを持ってないんです。そこまで手が回らなくて、大体はその土地で一番の料理人さんに調理の方は任せているんです」
「な……ふざけんな!」
料理人の重要性が美食屋に取ってどれほど重要なのか分かっている杏子は、思わずエンドを相手に怒鳴り散らしてしまう。
この作戦には料理人の存在は必須。エンドからの話を聞く限り、結構な高ベルの食材を捕獲しているので、それを調理する料理人のレベルも相当な物だと思っていたので、この作戦の実行に不可欠の料理人の存在が皆無ということを知り、思わず杏子は歯ぎしりをしてしまい、頭を抱えてしまうが、その瞬間に思い浮かんだのは自分に料理人の重要性を教えてくれた一人の料理人。
ハニーストロベリーの捕獲の後、何かの縁だと思って携帯番号を交換しあって正解だと判断した杏子は携帯を操作して一人の料理人に電話をかける。
数回のコールの後に電話に出たのは一人の料理人。
「ハイ……」
「ああもしもしダブルか? アタシだアンコだ、早速だけど話がある」
若干声色から元気が無いのを感じられたが、そんなダブルに構わず杏子は話を進めて行く、強引すぎる杏子に怯えもしたがエンドはその行動力の高さと自分をここまで思ってくれていることに感謝をしていて、ハジメは杏子の名前を聞いて驚いた顔を浮かべてエンドの方を向いて話しかける。
「なぁアンコって本当なのか? あの美食四天王トリコの継承者じゃないか!?」
「え? そうなの?」
「お前も美食屋の世界に身を置くなら、それぐらい覚えておけよ!」
無頓着なエンドにハジメは怒鳴りつけ、エンドは小さく身を縮こませてしまう。
個性的なコスチュームで突然現れ、幾多の捕獲が困難な食材を捕獲して数カ月もしない内に一流の美食屋の仲間入りを果たした杏子の噂は瞬く間に広がり、彼女の素性に付いても調べる人は少なくなかった。
その結果とんでもないことが分かった。
活動を始めたのが、この世界に取って多いなる損失とも言える美食四天王トリコが逝った時と同時期であり、調べた結果、詳しい出生の事までは分からなかったが、成り行きからトリコの元で修業を積み、彼の死後、彼のグルメ細胞を移植してからは、ゼブラと対決して生き延び、その後は同じく美食四天王ココの下で修業を積んだ逸材だと知ると、水面下ではその美貌も手伝って、一気にトリコの抜けた穴を埋めてもらおうとフューチャーしそうになった。
だが杏子本来の攻撃的な性格と、魔法少女時代に培った隠れることの上手さから、騒ぎはすぐに鎮静化し、今では知る人ぞ知る一流の美食屋として水面下で活動している杏子。
それでもなお、そのネームバリューから一目置かれる存在となっていた。
有名人となっている杏子を知らない物知らずな妹を兄は叱るが、そんな二人をうっとうしいと思いながらも、杏子はダブルに自分の作戦を実行してもらえないかと頼むが、ダブルは自分の悩みもあり、答えを出し渋っていた。
「話は分かりました。それで場所は……」
初めは悩んでいたが、杏子の勢いに負けたダブルはしぶしぶ了承し、明日には到着できるとだけ告げると、詳細を杏子から聞くと、最後に報酬の話になる。
「それで一応は僕もプロですので、危険な仕事に対しての報酬の話になるのですが……」
食いついたのを見て、杏子の中で名案が生まれる。
話を聞くとダブルは自分の店を持とうと、今はあちこちの土地を見定めている状態なのだが、中々自分に見合った食材が調達できる土地が見当たらず、加えて自分が用意してもらいたいレベルの食材を捕獲出来る美食屋も見当たらずに困り果てていた。
それならばと杏子は一旦電話を置いて、ハジメからエンドを引き離して話し出す。
「一つ気が変わった。応酬を追加させてもらう」
「何を……」
「この件が全て成功し、お前らの町からヤクザを追い出せたのなら、お前らはアタシが指名する料理人ダブルとコンビを組んでもらう」
突然の難題にエンドは言葉を完全に失い。黙ってハジメの方を向いた。
美食屋に取って料理人とコンビを組むと言うのは一生物の問題。
話を聞く限りダブルの腕は相当な物であると言うのは分かるが、それをそんな簡単に決めていいのかとエンドは全ての判断をハジメに委ねることに決めたが、ハジメは黙って首を縦に振った。
「兄さん?」
「どっちみち、僕達はアンコの博打に乗るしかないんだ。出来る出来ないじゃない。やるしかないんだよ。もう進み続けるしかないんだ……」
杏子の正体を知ると、ハジメは従うしかないと踏んだ。
この世界は所詮は弱肉強食、強い相手に下手に噛みついたところで潰されるのがオチ。
そんなことを杏子がしないことは分かっているのだが、ここは素直に従わなければ再び悲劇を繰り返してしまうことになる。
ダメならダメで別れればいいとダブルの件に関しては思っていて、話が付いたのを見ると杏子はこの件をダブルに伝え、ダブルも試しにと言うのを条件にして話が付き、全ては明日に持ち越しへとなった。
全ての件が終わったのを見ると、杏子はエンドのベッドを借りて寝ようとしていた。
「ハジメ兄貴よ聞き分けがいいのは正解だぜ。こっちも出来る限りのことはするが、最終的にテメェの道を決めるのはテメェだからな。全ては明日だ。それまで寝るから起こすな」
言いたいことだけを言うと杏子は疲れがドッと出たのか、そのまま静かに寝息を立てた。
二人きりになった兄妹は感動の再会にもかかわらず何を放していいのか分からず、固まってしまうばかりであり部屋にはただ杏子の寝息だけが響いていた。
***
翌日、指定されたコテージの前に立っていたコック服に身を包んだダブル。
到着したことを電話で杏子に告げると、杏子は兄妹を引き連れてコテージから出てくる。
そして改めて作戦の内容に付いて話し合う。
最終的な目的はこの街に根付いているグルメヤクザの完全な駆逐。
その為の作戦として杏子のそれは完璧な物であり、それを実行できるのは現段階ではダブルだけだと判断して、話を改めて聞きこれならばとダブルも同意して早速行動に移そうとする。
早速ハジメはグルメヤクザの組長に電話をかけて、ゴールデンアップルの捕獲に成功したことを告げると、組長はすぐに事務所まで来いと言って電話は切れた。
最終的な打ち合わせをしている中で、杏子はダブルに話しかける。
「それでどうだ? こいつらとはいいコンビになれそうか?」
「データを見る限りでは、この土地は僕のスイーツに求めている食材が取れやすい環境ですし、彼らの実力も十分水準だと思います。後は……」
「ああ分かった、分かった。無理矢理にとは言わないよ。人となりに関してはこれから見てやってくれ」
やはり一番の問題は人間関係に付いてであり、そこで上手くやっていけるかどうかをダブルも兄妹も不安に思っていた。
その辺りは付きあって行く内に何とかなるだろうとあっけらかんとした考え方を杏子は持っていた。
自分たちのように絶望しかない関係ではないと信じていたから。
***
そうこうしている内に事務所に到着すると、早速玄関で待っていた下っ端のヤクザ達がゴールデンアップルを捕獲できたかどうかを確認する。
木箱の中に入っているゴールデンアップルを見届けると、次にそれが本物かどうかを確かめるため簡易の測定器を持って見定めると一切の細工が無い本物だと判断できる。
続いて危険物を持っていないかどうか、簡素なボディチェックが行われ、調理器具を持っているダブル以外はOKだと判断されて、そのまま通される。
「ちょ……調理器具が無いと料理できませんよ……」
ヤクザの威圧感に怯えながらも、ダブルは必死に抵抗するが、代わりに用意されたのは銀色に光り輝く最高級の調理器具の数々だった。
「家の親父はリンゴに目が無くてね。これなら調理は可能だろ?」
脅すような言い方にダブルはただ「ハイ」としか言えず、安全が確認できると四人は事務所へと通された。
三人はこの徹底した管理に驚いていたが、杏子に取っては予想通りであり、あくび交じりに狭い階段を上る。
魔法少女時代振り込み詐欺を生業としていた暴力団を潰した経験など何度もある杏子に取って、ヤクザなどATM代わりの存在でしかなく緊張感など微塵にも存在しなかった。
そうこうしている内に事務所へと到着すると、そこには目の前でゴールデンアップルを調理するための調理場とアップルパイを作るために必要な大量の羽小麦が用意されていて、逃げられないことが分かった。
ダブルは怯えながらも用意された調理器具と羽小麦を見て、これなら極上のアップルパイが作れると判断するが、ハジメは組長と向かい合うと本来の目的に付いて話し合う。
「約束通りゴールデンアップルは用意したんだ。幽閉している仲間を皆を返してくれ!」
「まぁ食べてからゆっくりと話すよ……」
適当にはぐらかされると、組長とその一同はゴールデンアップルを唯一安全に食べられる方法、羽小麦を使ってのアップルパイが作られるのを見守っていた。
これは作る過程を見て楽しむのに加え、何かよからぬことをしていないかと監視の二重の意味も含まれていて、ダブルの作業はスイーツ作りを専門に扱っているため、手際がよく見ていて飽きない物であった。
全ての作業を終えて、オーブンにアップルパイの原型となる生地を入れると、時計を片手に時間を告げる。
「後は一時間ほど待ってもらえれば出来上がりますので」
「分かった……」
短くそう言うと組長はオーブンを組員たちに持ってこさせて管理させた。
徹底した管理ぶりと自分の考えが甘かったことにハジメは歯ぎしりをして悔しがるが、その肩に置かれたのは妹の物とは違う女の手。
振り返ってみると真剣な顔をした杏子が小声で呟くように語り出す。
「これで分かっただろ。こういう連中ってのはどこまでも卑怯で傲慢な奴らだって、正攻法では100%奪還は望めない。それならまともじゃない方法を使うだけだ」
「まるで自分がかつてこう言った事例に屈服した被害者みたいな言い方だな」
悔しさをぶつけるようにハジメは杏子に言い放つ。
思いもよらない反撃に杏子は思わず面食らった顔を浮かべるが、すぐにヤクザ達の方を見て誤魔化すことにした。
全ての準備は整った。これから先ヤクザ達を待っているのは絶望だけだと知っていたから。
***
一時間が経過しテーブルの前に並べられたのは極上の金色に輝くアップルパイの数々。
ゴールデンアップルがあってこそだが、これを調理したダブルの腕があって初めて成立する一品だった。
切り分けると早速ヤクザ達はアップルパイに貪りつき、その美味に酔いしれていた。
噛めば噛むほど喉をリンゴの甘酸っぱさが通り抜け、脳髄に直接幸せが感じる感覚は麻薬にも等しいレベルであり、それに加えてパイのサクサクとした食感も楽しみの一つとなっている。
その表情を見れば満足できる水準だと判断したハジメは最後の交渉にと一歩前に踏み出して組長に語りかける。
「これで満足しただろ。仲間を返してくれ!」
「何か勘違いをしていないか?」
その口調から次に放たれる言葉は分かるが、組長は下衆な笑みを浮かべながら話し出す。
「俺はゴールデンアップルの捕獲に成功すれば、仲間の奪還を考えてやると言っただけだぞ。誰も成功したから即効で返すとは一言も言っていない、そっちの早合点だろうが」
「そんな!」
「まぁ次も捕獲できるなら考えてはやるよ。『考えて』だけどな!」
それは事実上自分たちの手足となって一生奴隷として働けと言う宣言のような物。
握った拳を握りしめて、憎しみに満ちた目で睨むとハジメは組長に指さして堂々と言い放つ。
「お前らは報いを必ず受けるぞ!」
「負け犬の遠吠えだな……うっ!」
ハジメに構わずアップルパイを食べ続けていた組長に異変が起こった。
突然謎の腹痛が襲い、持っていたアップルパイを地面に落してしまいそうになるが、食欲だけが打ち勝ち辛うじて持つが、それでも体の方は耐えられずくの字になって地面へと落ちてしまう。
それは他の組員たちも同じことであり、全員が腹痛を訴えて倒れ込んだ。
チェックは完璧であり、何か仕込む要素はどこにも無かったはずなのにどうしてこうなったのか分からず、組員たちと組長は苦しむが保護を施したとしてもゴールデンアップルにあたってしまうのは仕方がないこと、だがこんなこともあろうかとそのための対抗策も万全に取ってある組長は薬箱から血清を取り出すと、自分に注射をする。
「これで数分もすれば、この腹痛も治ま……らぁ!」
血清を打ったにも関わらず、腹痛は治まるどころか悪くなる一方であり、組員たちは我先にトイレへと駆け込んで、トイレの前では壮絶な修羅場が繰り広げられている状態となっていた。
面子を売りとしているヤクザがトイレを借りるなんて真似が出来るわけがない。
組長は面子から腹を押さえながら必死で腹痛と戦っていたが、その様子をまるで虫でも見るような目で冷ややかに杏子は見つめ交渉を始めた。
「これで分かっただろ。お前はゴールデンアップルに選ばれなかった人間なんだよ。保護された状態でこれなんだから、次は間違いなく命だって落とす可能性もあるぜ」
「ぐぬぬぬ……」
もっともな正論に何も言い返すことが出来ず、おまけに今目の前に居るのは新進気鋭の美食屋アンコ。
下手なことをすれば例え本部を動かしたとしても勝てるかどうか分からない存在。
ヤクザが一人の年端もいかない女の子に潰されたとあっては、それこそ面子にかかわる問題。
この地にとどまり続けている限り、この女は自分たちを地の果てまで追い詰めるだろうと判断した組長は一つの判断を下す。
「分かった。もうこの地からは手を引く、仲間も返す。だから、この件に関しては口外無用にしてくれ、そして助けてくれ……」
そう言うと組長は金庫に保管してあった仲間たちを拉致監禁している倉庫の場所と、鍵の暗証番号が書かれたメモを杏子に手渡す。
その厳重性からこれが本物だと判断した杏子は先に兄妹を向かわせる。
未だに呆けているダブルに構わず、杏子は屈んで相変わらずの見下した目を浮かべながら組長に応対をする。
「最後に一言だけ言っておいてやるよ。死ね!」
憎しみが籠った言葉と共に杏子は勢いを付けて思い切り組長の腹を蹴りあげる。
大の大人が吹っ飛んで行く光景にダブルは目を丸くして見ていたが、すぐに地面へと落下して轟音が響き渡ると杏子はダブルの手を取ってその場を後にしていく。
「あ、あのアンコさん?」
「仕込んだお前がよく分かっているだろ。下剤がたっぷりと入ったアップルパイ食べた状態で腹を思いっきり蹴飛ばされれば、あそこは地獄絵図になるってことぐらい」
そこから悲痛な泣きじゃくるような叫びが聞こえたことから、そこがどういうことになっているのか容易に想像できてしまい、ダブルは青ざめた状態のまま杏子に身を任せてその場を後にした。
***
杏子の脚力であっという間に事務所から遠ざかって行き、完全にヤクザ達がその場から居なくなったのを見て、杏子は優しげな笑みを浮かべながらダブルを労う。
「だがさすがだ。ボディチェックは完璧だったが、さすがに手のひらに予め液状として仕込んでおいた下剤にまでは気付けないからな」
作戦が無事に成功したことを喜ぶ杏子。ダブルもまた無茶な作戦が上手く行ったことに安堵の表情を浮かべていた。
チェックだけなら免れるだろうが、食べた瞬間に違和感を感じて自分たちが疑われないかと踏んでいたからだ。
それを誤魔化すためにも絶妙な配合で下剤の味を完全に打ち消して、ゴールデンアップルの旨みのみを最大限に引き出す調理法はダブルにしか出来ない物であった。
これで全ては終わっただろうと踏んだ杏子の中に安堵感が広がっていき、一息つこうとポケットの中に放り込んでいたゴールデンアップルを取り出すと食べようとするが、そこに騒がしい数人の声が広がって行く。
「アンコさん、ありがとうございます。おかげで皆を助けられました」
エンドは泣きながら杏子に感謝の言葉を述べる。
そこにはハジメを含めて合計で10人のメンバーが出揃っていて、ここまでずっとブスっとした顔を浮かべていたハジメも初めて笑顔を浮かべて全員での帰還を喜んでいた。
杏子はその様子を改めてダブルに見せて、コンビを組むかどうかを改めて確認させる。
「どうだい、あのチームを見て?」
「ハイ! とてもいいチームだと思います!」
杏子に促され、ダブルはこの地で店を持ち、ハジメ達のチームとやっていく決心を固めて皆の輪の中にと入って行った。
無事に大団円で事が済み、杏子は別人とは分かっているのだが、エンドの幸せそうな笑顔を見て、その姿にさやかを思い浮かべる。
結局元の世界では彼女の心を引っかき回すばかりで、何も出来なかった自分。
だがそれでも救いたいと言う気持ちだけは本物だった。
自分の中で心に絶望感が広がっていき、オフィーリアがまた何かをつぶやいているような感覚に陥って、杏子に中で醜い欲望が広がっていく。
元より自分本位な性格が出たのだろう。エンドを自分の元に呼び寄せると杏子は最後の応酬を求めようとする。
「更に気が変わった。もう一つ応酬を貰いたい」
「そう言う金銭面の問題に関しては兄を通じてもらわないと……」
「いやお前じゃなくちゃダメなんだ。実はな……」
直接言うのが照れくさいのか、帰る直前になって杏子はエンドに向かって耳打ちをして、応酬を求めた。
何のことか分からないエンドだったが、メモに取って求めている言葉を一語一句丁寧に覚えるとチームの皆が一緒に帰ろうと求めている中、皆の輪に戻ろうとする直前、最後に一言言う。
「杏子は私に取って最高の友達だったよ。ありがとうね杏子」
それは結局友達と言う関係になれなかったさやかをエンドに置き換えての滑稽な行為だと言うことは分かる。
だがそれでも結局最後まで名前すらまともに呼んでもらえなかった杏子に取っては十分すぎる応酬であり、感情を抑えることが出来ずに杏子はその場に崩れ落ちた。
そして涙で地面が濡れる。
今だからこそ分かる。この世界に来たのは自分への贖罪のためにここへ来たのだと。
自分は家族を殺したと言う罪悪感を言い訳に、生きると言う大義名分の名の元に好き勝手やって生きてきた。
そんな人間が最も苦しむ手段、それはまともさと言う物を取り戻すこと。
まともさを取り戻せば、狂っていた瞬間が自分に取って最も苦しめられる瞬間となり、その罪は永遠に消えない物になる。
今になって杏子は思い知らされていた。元の世界でさやかにしてきた行動の数々が、彼女を傷つけるだけの行為だと言うことに。
「嫌われて当然だよな……ゴメン、ゴメンよ、さやか……」
だがどんなに謝ってもさやかは遠いところに居る。
自分に出来る精一杯の贖罪をこれからも行おうと心に決め、杏子は涙を拭うとゴールデンアップルを手に取って、自分の家へと帰って行く。
やるべきことをやるために。
***
ゴールデンアップルの捕獲が終わり、トリコの墓前の前には大量のゴールデンアップルが置かれていた。
その前で手を合わせる杏子は彼女と共にあるさやかに向かって語りかける。
「今度は食べてくれるよな? 真っ当な手段で手に入れたリンゴだからさ……」
思い出すのは元の世界でのさやかと繰り広げたリンゴに関する一件。
思い起こすたびに自己嫌悪に陥ってしまい、何とも言えない気持ちになってしまう。
そんな自分を弁明する訳ではないが、杏子は今の想いをしっかりと伝える。
「散々お前に対して無神経なことしてきたアタシだからよ。魔女の状態の時みたいに意識の無い状態でボコボコにしたところで気が済まないのは分かるよ。でもアタシはまだお前やトリコのところには行くわけにはいかない」
そう言うとゴールデンアップルの周りに油紙を巻き、ライターで火を灯して高温で一気に焼き飛ばす。
あっという間に昇華していったゴールデンアップルを見届けると、最後に一言決意表明のように語る。
「友達になってくれなんて無神経なことは言わないよ。お前は死人でアタシは生きている人間だ。世界が違う以上、その世界で生きることしかアタシ達には出来ないんだからな。だからせめて見守っていてくれ」
それだけを言うと杏子は依頼をこなすため、その場を後にしようとしていた。
依頼は凶暴な猛獣ばかりであり、それまでサボっていた分を取り戻そうと、実戦での直観を鍛えるため、杏子は走り出した。
供物だけが自分とさやかを繋げる唯一の道だと信じていたから。
***
雲で形成された地面から、トリコは杏子の様子を見届けるとスッキリした顔を浮かべながら、黙って首を縦に振った。
GTロボとの遭遇により、本当の恐怖を知った杏子はこのままダメになってしまうのではないかとも思ったが、本来の目的を取り戻した杏子はもう大丈夫だろうと踏んでトリコはさやかの元に戻る。
思っていた通り、金色のリンゴを抱えていたさやかはさめざめと泣いていた。
自分はとっくに杏子を許していた。いや許すどころか感謝さえしていたのに、その想いが伝わらず、その想いが伝わらずに結局杏子を苦しめているだけの行動の数々に自己嫌悪して泣いていた。
そんな彼女の隣に座ると、トリコは泣いているさやかの頭に手を置いて撫でた。
「泣くな。お前がそんなんじゃ、アンコは苦しむだけだぞ」
トリコの問いかけに対しても、さやかは泣きながら首を横に振るだけであって、答えようとはしなかった。
自己嫌悪が最高潮にまで達したのか、さやかはこれまで自分が杏子にしてきた行為を思い出し、それをトリコに伝えた。
「私は結局杏子とまともに取り合おうとしなかった。魔法少女って物に正義感だけを求めて、杏子とまともに向き合おうともしなかった。私のために頑張ってくれたにも関わらず……」
「だから言っていただろ。オレたちに出来ることなんて、アイツを見守ってやることだけだ。だから食え!」
そう言うとトリコは一つゴールデンアップルを持ち、ナイフの形状に手を変えると器用に一気に皮を剥く。
皮一つ無い状態になったリンゴをその手に持たせると、続いてさやかが持っていたゴールデンアップルも取り上げ、同じように皮を剥く。
「死んだオレたちがいうのも妙な話だけどな。アイツが求めているのはオレたちに見守ってもらいたいってことだけだ。それなら望み通り見守ってやろうじゃないかよ、そのためにもメシ食って力付けないとな」
そう言うとトリコはゴールデンアップルにむしゃぶりつき、グルメ天国全体に響き渡るかのような大声で「うめー!」と叫んだ。
その様子を見て苦笑しながらも、さやかは下界の杏子の様子を見る。
ゴールデンアップルは杏子のグルメ細胞に適した食材であり、細胞のレベルアップに成功し、恐怖を克服した杏子はこれまでよりもレベルの高い狩りに挑戦していて、『エレファントサウルス』を相手に戦おうとしていた。
さやかはゴールデンアップルを食べながら、エレファントサウルス相手に突っ込もうとしてはいるがタイミングが合わずに、じり貧になっている杏子に向かって一言エールを送った。
「がんばって……」
そう言ってさやかもまた杏子が自分のために用意しくれたゴールデンアップルを食べた。
それは初めてマイナスな要因の無い二人だけの会話かもしれない、エールが届いたかどうかは分からないが、杏子は僅かな隙を付いてエレファントサウルスに猛攻を仕掛けて、ペースを掴もうとしていた。
その様子をトリコとさやかは何も言わずに見守っていた。
それが杏子の願いだと知っていたから。
本日の食材
羽小麦 捕獲ベル1以下
どんな物でも優しく包み込む小麦粉。
好き嫌いの多い子供も羽小麦で包まれたクレープならば食べると言われている。甘みが多い優しい食材。
エレファントサウルス 捕獲レベル17
象のような胴体で、象の鼻部分が頭部になっている恐竜。その見た目に騙されて襲いかかる肉食獣を逆に捕食する。
牙は装飾品として高値で取引され、中でもエレファントサウルスの牙の印鑑は運気が上がる幸運アイテムとして珍重されている。
と言う訳で今回でゴールデンアップルの話は完結となります。
次はまた別の狩りの話になり、今度は原作のキャラクターと杏子が絡むことになります。
次も頑張りますのでよろしくお願いします。