草木も眠る丑三つ時、メールボックスに届いた新着メールをトリコは開く。
差出人は美食屋たちが食の情報と仕事を求める酒場『Bar ヘビーロッジ』の店主、モリ爺からであり、多くの美食屋たちが失敗に終わった任務をトリコに任せたいと言う内容の物だった。
「どんな御馳走なんだ?」
屈強な猛獣を想像していたトリコだが、内容を見ていく内にその表情はドンドン険しい物に変わっていく。
仕事の内容は法で規制され食することを禁じられている通称『麻薬食材』の確保であり、多くの美食屋たちがその食材を出しているレストランの店主『クランベリー』の確保に乗り込んだ途端に廃人になっているか、行方不明になっているかの二者択一であり、最近では依頼を受ける美食屋自体がいない厄介な依頼であった。
トリコは続いて問題となっている麻薬食材の情報を見る。
まるでピエロのような顔に見える奇怪な植物、『ジョーカーマンドラゴラ』が今回確保すべき麻薬食材。
トリコも物自体を見るのは初めてだが、その不気味な姿に写真だけでも背中に寒い物を感じた。
食べれば天にも昇る快楽が体中を駆け巡るのだが、その代償は大きい。
目は自分の見たい幻想しか見ることしかできず、耳は自分の聞きたい都合のよい言葉しか聞こえない。
廃人製造機となっている危険極まりない食材は何としても確保しなくてはいけないと思うのだが、トリコ自身もこの依頼はかなり難易度の高い物になるだろうと思っていた。
ジョーカーマンドラゴラの捕獲レベルは45、植物ではあるのだが生息地がハッキリと定まっておらず、栽培方法も全くの不明、それでいて異常な中毒性がある上に、人が食するためには高い調理技術が必要なため、これだけのレベルとなったのだが、そんな食材を普通に栽培して店で出し、調理するクランベリーの実力も相当な物なのだろうと判断したからだ。
だが食で人を不幸にするクランベリーを許しおけないと言う怒りの感情が、トリコから怯えや恐れを消し飛ばした。
メールの内容を全て読み終えると、トリコは返信のメールをモリ爺に向かって送る。
『いつでも引きうける。日時はそっちの都合があえばで構わない』
トリコらしい簡素な内容のメールを送ると、トリコはパソコンを閉じて電源を落とす。
来るべき時のためにトリコは寝ている杏子を起こさないように外へと出て行く。
明日の朝食の食材を取るために。
***
翌朝杏子はあくび交じりに起きて、トリコが用意してくれた朝食を食べようとリビングのテーブルにトリコと向かい合って座る。
この日の朝食は白身魚の刺身であり、既に食べだしているトリコと一緒に杏子も朝の挨拶と食べる前の挨拶を交わすと食べ始める。
朝は淡白な魚料理がまだ目覚めきっていない体にはちょうどよく、その美味しさも手伝ってか杏子の箸はドンドン進んで行った。
「今度仕事を受けることになった」
食べながらトリコにしては珍しくシリアスで重いトーンで話し出す。
その口調からこれまでのように勝てる自信が確実にある内容の物ではないことが分かり、ここで寝ぼけ眼だった杏子も完全に目が覚めてトリコの話に耳を傾ける。
あれからすぐにモリ爺から返信のメールが届いた。
現場となっているレストラン『七つの大罪』がトリコの家の近くにあると言うのもあり、今晩の9時のディナータイムに予約を入れておいたと言う報告。
この時点で戦いは始まっているのだとトリコは確信し、クランベリーとのバトルも避けられないだろうと思っていた。
トリコはまだ触り程度にしか話していない、麻薬食材に関しても詳しく話し出す。
法で食することを規制されている強い中毒性を持った食材は食べるだけで多くの人間を不幸にする物。
麻薬の恐ろしさは杏子自身もよく知っている。
言うならば魔法少女との契約は麻薬のような物である。
堕落して、壊れて行く様はさやかを見てきたからよく分かっていた。
話を聞いていく内に見る見る杏子の顔色は険しい物に変わっていき、トリコの次の言葉を待った。
「それでお前も同行するか? 今回はかなり危険な物になるぞ、だからもしお前が嫌なら今回はオレ一人でも……」
「ふざけるな」
杏子の身を思ってあえて留守番と言う選択肢を呈したトリコだが、それは杏子の怒気を含んだ声で否定される。
トリコは押し黙ると同時に細かい痙攣のような震えを始める。
自分の威嚇もまんざらではないと思いながらも、杏子は自分が感じている怒りの感情をトリコに伝えていく。
「人を幸せにするのが飯の役目だろ。人を苦しめる飯なんてあってたまるか……お前が嫌だと言ってもアタシは付いて行くぜ、一発かましてやらないと気が済まねぇ!」
白身魚の刺身を豪快に頬張りながらテーブルを豪快に拳で叩く杏子。
その表情を見て杏子の意志は固いと感じ取ったトリコは、小刻みに震えながらも同意の意を示すため、首を小さく縦に振った。
両者の意見が合致したため、そこからは穏やかな朝食を楽しめるだろうと杏子は思っていたが、トリコは相変わらず震えたままであり、ついには歯もガチガチとなりだして、顔も青ざめた物に変わっていく。
「いくらなんでもビビりすぎだろ。いい年した大人が15歳のガキ相手に怒鳴られたからってさ、それともそんなに麻薬食材の確保が怖いのか?」
からかうように杏子は言うが、トリコは何も言わず青ざめた顔のまま椅子から立ち上がって、台所に置いてある今日の朝食の残骸を持ち出すとチェックを始める。
「おかしいな? 皮と卵巣は取ったんだけどな……」
持っていたのは綺麗にさばかれたふぐであり、食べていた刺身が調理に免許が必要なふぐだとしると見る見る内に杏子の顔も青ざめていく。
「まさかこれ……ど素人のさばいたふぐ刺し?」
ふぐの毒テトロドトキシンにやられながらもトリコは小さく頷く。
トリコならばグルメ細胞の力でこの程度の毒なら簡単に抗体が出来るだろうと思っていたが、自分では下手したら死ぬ可能性もある。
杏子はすぐにトイレへと駆け込むと喉に指を突っ込んで、食べた刺身を全て便器の中へと吐き出していく。
食べ物を粗末にすると言う罪悪感にさいなまれもしたが、命の方が何よりも大事。
せっかく貰った第二の人生をこんな下らない理由で失ったら、さやかに何て言われるか分からないと言う思いから、食べた物を全て吐き出す。
「さっさと薬箱から血清持ってこい!」
杏子は怒りの感情をトリコにぶつけ、薬箱の中に入っている大体の毒なら中和してくれる万能血清をトリコに持って来るよう命令を下す。
すでに抗体が出来上がっているトリコは言われるがままに薬箱がある戸棚へと向かっていく。
(やっぱり免許取ろうかな……)
今までなぁなぁにしていたが、正式にふぐの毒を取り除く免許を取ろうかどうか考えながらもトリコは薬箱から血清を取りだすと未だに怒鳴り散らして怒りを露わにしている杏子の元へと向かう。
これだけの負けん気があれば麻薬食材を相手に遅れを取ることはないと、トリコは頼もしさを感じていた。
そして同時に杏子の存在が自分を助けてくれるとも思っていた。
その存在が自分のカンフル剤になってくれるとトリコは信じてた。
***
日の当らない薄暗い裏路地をトリコと杏子は並んで歩いていた。
周りを見ると酒瓶を片手にニヤニヤと下劣な笑みを浮かべる中年男性や、明らかに杏子を性的な目で見ているヤンキー風の若者も居て、治安の悪さはこの環境を見れば一目瞭然であった。
だが治安の悪い場所の経験なら杏子も腐るほどある。
魔法少女時代、ゲームセンターで遊んでいると下らないナンパは何度も経験していた。
そのたびに杏子は返り討ちにしてきたので、この環境に飲まれると言うこともなく、トリコとこれから行く七つの大罪に関しての事に付いて話し合う。
「全ての料理にそのジョーカーマンドラゴラとやらが入っているのか?」
「それを確かめるために行くんだよ……」
あくび交じりに答えるトリコを見ると、普段通りのリラックスした状態であることが分かり、変に気負っていない状態であることが分かった。
これに頼もしさを覚えながらも、杏子はトリコと一緒に歩を進めて行く。
その時自分の肩に無駄毛で覆われた毛むくじゃらの大きな手が置かれて、歩みが止められる。
「オ、オジョウチャン……オジサントイッショニ、ニャルコサンミナイ?」
ここでもナンパはされたが、さすがに今放映中の『這いよれ! ニャル子さん』を見ないかと言われたのは初めて。
だがこれにも杏子は冷静に対処する。
トリコに渡された手頃な長さの鉄パイプを受け取ると、その脳天に向かって荒い息使いで自分を見つめる中年男性に対して、強烈な鉄パイプでの一撃を無言で食らわせる。
目から星を出しながら後方に倒れ込む中年男性を見る。
頭にある鉄パイプは弓なりに曲がっていて、頭からも血が一滴も出ていない。
そして頭をさすりながら痛そうに起き上がっているのを見ると、大した怪我を追ってないと言うことも分かり、トリコの判断は正しかったと確信すると改めて歩きだす。
「あのオッサンもグルメ細胞移植されてんだろ、この程度じゃ死なないよ」
「しかし、あれ面白いのか? まぁ主人公の兄ちゃんにはちょっとだけ興味あるんだけどさ……」
「見てねーから分かんねーよ……」
心底興味ないと言った感じでトリコは杏子の問いに返す。
そんな感じで治安の悪い地区もこの二人にとっては普段通りの散歩道と変わらず、終始リラックスした調子で二人は目的地である七つの大罪へと到着した。
住所だけでしか目的地を知らされていない二人だが、店を見るとその禍々しさは嫌でも伝わってくる。
既に倒産して買い手の無い廃ビルの地下にそこは存在していて、そこがレストランだと証明するのは店の名前が書かれた小さな立て看板が一つ置いてあるだけだった。
人が5、6人も入れば満席になってしまいそうなレベルのこじんまりとした店で多くの人たちが廃人になることが信じられなかったが、そう言う店だからこそ、これまでグルメ警察の捜査網を逃れてきたのだろうと思うと、トリコを先頭にして杏子も地下の階段へと下りて行く。
トリコにとっては狭すぎる階段に何度もトリコは愚痴をこぼしていたが、杏子は気にせずに薄暗い店内を見渡す。
辺りを警戒しながら歩いていると、帰っていくサラリーマン風の客が階段を駆け上がっていくのを見かける。
サラリーマンのために二人は体を横に捻って通り道を作るが、トリコの横を通り過ぎようとした時トリコは彼に話しかける。
「どうだった?」
「凄い……今まで食べたことの無い味だ……」
焦点の定まっていない虚ろな目で答えるサラリーマンだったが、最低限の受け答えは出来ていた。
この少ないやり取りでもトリコの脳内でクランベリーのやり口と言うのが理解でき、仮説を立て始める。
恐らくはすぐに中毒にはさせず、少しずつ少しずつ味の虜にさせていき、店へと足しげく通わせるのだろうと思った。
常套手段ではあるが、極めて中毒性の高いジョーカーマンドラゴラを扱いこなすクランベリーの実力は料理人として相当なレベルだと判断し、改めて気を引き締めて歩き出す。
黒一色の簡素な薄いドアを開くと、一切の出迎えもなく二人は薄暗い店内を進みながら名札が書かれたテーブルの前に立つと椅子に座る。
周りを見ると自分の他にも2、3名の客が居て、その焦点が定まっておらず何かを期待するかのような異常な目を見ると、明らかに精神状態が異常なことが理解できた。
その様子を改めて見るとトリコは杏子に指示を送る。
「絶対に出される料理に手を出すんじゃねーぞ」
威圧するかのような普段滅多に聞かない口調に杏子は黙って頷く。
目の前に居る客たちを見ても、その異常ぶりは十分に理解できる。
堕落していった人間は自分も含め、数多く見てきたので慣れたつもりではあったが、それでもショックは拭えない物。
食事で苦しみをまき散らすクランベリーはある意味ではキュゥべえ以上に憎むべき存在。
自分にできることは少ないだろうが、それでもやれることを精一杯やるだけだと心に決めると杏子とトリコの目の前にムースで包まれたオードブルが出される。
物が出るとすぐに客たちは貪るように食べていくが、トリコは立ち上がって大声で叫ぶ。
「やめろ! これ以上食べたら引き返せないところまで来ちまうぞ!」
トリコは店中に響き渡る大声で警告を叫ぶ。
店内は大きな地震が起こったかのように震えあがり、その迫力に食べていた客たちは一瞬持っていたスプーンを止めるが、すぐに興味はまた料理へと向かいスプーンを手に取って食べだす。
これは製造元を直接叩いた方が早いと判断したトリコは、杏子に目配せで合図を送る。
トリコの意を察すると杏子は立ち上がって、テーブルの上に置かれているナイフとフォークを手に取る。
「任せたぜ、アンコ!」
右手にナイフ、左手にフォークを持って準備が終わった杏子を見ると、トリコは真っ先に厨房へと向かう。
食べるのに使う道具を武器として使用することに一瞬杏子はためらったが、これも地獄から人を救うためだと判断し、杏子は割り切って未だにむさぼるようにムースを食べ続ける二人の男性客の首根っこを強引に掴む。
「食べるなっつってんだろ! 戻れないところまで行ったら、アタシでもトリコでもどうすることもできねーんだぞ!」
かつて友達が異形の存在となることを止められなかった杏子に取って、ジョーカーマンドラゴラ入りの食材を貪るように食べて、堕落していくさまを見ていくのは辛い物があった。
強引に席から立たせると同時にシャツの襟にナイフを突き立てると壁に突き刺して、服と壁を繋ぎとめた。
動きが制限されたのを見ると続けざまに同じように襟にフォークを突き立てて壁に突き刺す。
そして椅子を持つと釘を打ちつける要領でナイフとフォークを壁に打ち込んでいく。
この辺りの要領は何度もトリコの釘パンチを見ているため、要領のような物は掴めていた。
何度も同じように服と壁をナイフとフォークで打ち付けると二人の動きを完全に封じ、昆虫採集の昆虫のようになった二人の男性客はそれでもジョーカーマンドラゴラ入りのオードブルを求めて、よだれを垂らしながら正気を失った目で手を伸ばそうともがいていた。
その見苦しいさまは、自分を見失って魔女を剣で何度もズタズタに切り裂くさやかの姿とダブってしまい、見るに堪えなくなった杏子は苦痛に顔を歪めて二人から目を背けてしまう。
だがこれで料理を食べることはできないだろうと判断した杏子は、力なく空いている椅子に座ると厨房の方向を見つめた。
自分に出来ることはやった。後はトリコを信じて待つだけだと思い、杏子は待つことを選んだ。
そこに階段を下りて行く音が聞こえる。
冷静になって考えてみれば、ここはレストラン。客は自分たち以外にも当然存在する。
まだ自分の役目は終わっていないと判断した杏子は空いているフォークを手に取ると、階段を下りて現れた客に向かって突き出す。
「今日を以って七つの大罪は閉店だ。帰れ」
「何の権限でそんな……君店の人?」
杏子の言っている意味が分からない、男性客は構わず席に座ろうとするが、頬を掠めたのは刃物の鋭い衝撃。
金属が刺さる重厚な音が壁に響き渡る。同時に男性客の頬に感じ取ったのは炎のように熱い感覚。
一本筋が通った切り傷が頬に付き、そこからダラダラと鮮血がこぼれ落ちて行くのを見ると恐怖を感じながら、杏子の方を見る。
「悪いけど、こっちも手段を選んでられねーんだよ。もう一度だけ言うぞ……帰れ!」
瞳孔が開いた目で睨みつける杏子を見て、言いようのない恐怖を感じた男性客は逃げるように階段を駆け上がっていく。
だがすぐに入れ違いで階段を下りる音が聞こえると、まだまだ門番としての仕事はなくならないと判断して、今度はナイフを手に取って同じように下りて来る客に対して帰るように通告を出す。
言い争いをしている間も杏子は信じていた。トリコなら本当の意味でこの店を閉店へと追い込んでくれると。
***
手狭なホールと違いキッチンは広々としていた。
だが店内には人らしい影は見当たらず、奥の方でトリコと同じぐらいの大きさの2メートル大の大男が一人包丁を片手に料理をしている姿が見えた。
宣戦布告とばかりにトリコは壁を力強く叩いて轟音をキッチン中に響き渡らせる。
恐らく店主であるクランベリーと思われる大男は特に気にすることなく、首だけトリコの方を向くと不気味な笑みを浮かべながら応対を始める。
「お客様、キッチンに入るのは困りますので席に付いて待っていてください……」
「ふざけるな」
クランベリーの申し出に対しても、トリコは怒気が含まれた声で返しながら指の関節を鳴らして臨戦態勢を取る。
その間も薄暗い店内でトリコはクランベリーの戦力分析を行う。
体格だけなら自分と並ぶぐらいの大きさであり、コック服の下には発達した筋骨隆々の肉体があることは服の上からでも理解できた。
コック帽を取ると現れたのはモヒカンの頭。
話し合いが不可能だと判断したクランベリーは下卑た薄笑いを浮かべながら、包丁を持ってゆっくりとトリコに近づいていく。
「もう一度言います。お客様席に戻って料理の到着を……」
「モリ爺からの依頼だ。テメェをグルメ警察に引き渡して、ジョーカーマンドラゴラを確保させてもらうぜ」
トリコの真意を知ると、クランベリーの顔から笑いが消えた。
一直線にトリコの頭に向かって包丁が振りおろされていき、それをトリコはバックステップで紙一重のところでかわす。
そこから反撃に転じようと無防備になっている胸元に向かって、右腕でパンチを振りおろす。
「3連釘パンチ!」
一気に勝負を決めようとトリコのパンチが振り下ろされる。
パンチが決まるといつものように一発のパンチで三回分のパンチがクランベリーの胸元に綺麗に決まる。
衝撃がクランベリーの体を襲うが、その瞬間クランベリーは両足に力を込めてパンチの衝撃に耐え抜こうとしていた。
後方に吹っ飛ばされながらも踏ん張りを止めることはしなかったが、壁に激突することで初めてその体は止められた。
その瞬間クランベリーの口元からは血反吐が放たれる。
一回だけでも自分の釘パンチを耐え抜いたのは素晴らしいタフネスだが、それでも勝負は決まったとトリコは判断するとゆっくりと近づきながら警告とばかりに話していく。
「一度しか言わないからよく聞け。これ以上痛い思いをしたくないなら、大人しくグルメ警察に自首して、そこで全てを話すんだ。そうするならこれ以上殴らないでおいてやる」
指の関節を鳴らしながら威圧的に話すトリコに対して、クランベリーは血反吐を吐きながらも壁に仕込んでおいた隠しスイッチの扉を開くと震える指で押す。
それと同時に懐に仕込んでおいたガスマスクを装着する。
次の瞬間天井のスプリンクラーが作動する。
だがそこから発生したのは消火用の水ではなく、紫色の禍々しい色の煙だった。
異常だと感じ取ったトリコは慌てて手で口と鼻を覆うが、既に遅かった。
嗅覚が異常に優れているトリコは意識しなくても、その煙を吸い込んでしまう。
結果として襲ってきたのは視覚の異常。
何重にもクランベリーが見えて、まるで彼が分身の術でも使っているかのような感覚に陥ってしまう。
視覚の次に異常を来たしたのは聴覚、常に耳鳴りが響いているような状態は三半規管を狂わせるには十分であり、トリコは力なく地面に膝を付いてしまう。
これらの幻覚作用からトリコの中で一つの仮説が出る。
「これはジョーカーマンドラゴラの毒素のみを気体化した物か……」
「その通りだ。私の特性料理を大人しく食べていれば、快楽に浸ることが出来た物を邪魔だてしたお前には死をくれてやろう!」
毒素のみをダイレクトに吸い込んだトリコの体は異常を来たしていて、巨大なハンマーのような肉たたき器を持ってゆっくりと近づくクランベリーを前にしても、何もやることができなかった。
「死ね!」
肉たたき器を振り下ろすとトリコの頭部に鈍く重い痛みが響き渡る。
衝撃と重力に身を任せるとトリコの頭は地面に勢いよく激突し、頭部からは勢いよく鮮血が吹き出す。
そこから何度も頭部目がけて肉たたき器での攻撃が振り下ろされ、そのたびに鈍く聞きたくもない轟音が聞こえる。
骨が折れる音、肉が砕ける音はクランベリーに取っては最も悦に浸れる瞬間であり、今まで殺した美食屋のようにトリコも人間からミンチになる様子が頭の中で完成すると、下卑た笑みを浮かべながら何度も何度も頭部目がけて肉たたき器での攻撃を繰り返す。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
「ウルセェよ……」
完全に意識が違うところに向かっているクランベリーに対し、トリコは肉たたき器を片手で受け止めると、そのままゆっくりと立ち上がる。
「バカな! ガスマスクも無しでなぜこの猛毒ガスの中を?」
疑問はトリコの顔を見ればすぐに分かった。
骨が折れる音は聞こえるには聞こえたのだが、それは頭蓋骨が砕ける音ではなく、鼻の骨が砕ける音。
鼻からおびただしい量の鼻血が吹き出していて、まともに鼻での呼吸が出来ない状態となっていて、毒ガスを自然と遮断していた。
ようやく自分の射程距離である接近戦へと持ち込むことができたトリコは、怒りに満ちた目でクランベリーのモヒカン頭を掴み、自分の元に引きよせると同時に空いている左手を振り抜く。
「3……いや、4連だ!」
怒りがトリコに実力以上の力を発揮させた。
これまでの限界だった3連の釘パンチを超える。4連釘パンチをガスマスクに覆われた顔面へと叩きこむ。
一発がロケット砲並みの威力を持ったパンチはガスマスクを簡単に吹き飛ばし、急所が集中している顔面に4連続でパンチが叩きこまれる。
踏ん張りが利かない状態で攻撃を食らってしまっていたため、今度は壁に激突しても体は止まることなく、壁に何度もパンチの衝撃が響き渡り、壁にクレーターのような大穴が出来上がっていく。
壁を貫通し、下水道へとクランベリーの体が投げ飛ばされてもその威力は収まらなかった。
何本も何本も配水管を破壊してもクランベリーの体は止まらず、数十メートル吹っ飛んだところでようやく、その体は力なく汚水の中に横たわっていた。
トリコは荒い息づかいの中、吹っ飛んだクランベリーの元に近づいていき、胸倉を掴んで強引に体を持ち上げると、任務を遂行しようとする。
「ジョーカーマンドラゴラはどこだ!? 今すぐこの場で全部差し出せ!」
その鬼のような形相の後ろ側でクランベリーが見たのは真っ赤な体の夜叉。
禍々しい笑みを浮かべながら牙を突き立てるその姿に自分が食べられると錯覚したクランベリーは震えながら、全ての真実を話し出す。
「私の担当は調理だけ……ジョーカーマンドラゴラは別の場所で作られてるんです……」
「場所は?」
取り調べが出来る状態になったのを見るとトリコは懐からボイスレコーダーを取りだして、クランベリーの発言一つ一つを録音しようとスイッチを押す。
「もし適当なこと抜かして、その場から逃げようとしてみろ、死ぬよりも恐ろしい目に遭わせてやるぜ……」
警告を発する間もトリコの胸倉を掴む手は強まる一方であり、クランベリーは嗚咽しながらも何度も頷いてジョーカーマンドラゴラが精製されている場所に付いて語り出す。
「弟のブラッドベリーが『常闇の森』の奥深くで一人農場を経営していて、そこで作られています……」
その怯えきった表情から嘘を言っているとは思えず、信憑性が感じられた。
トリコはボイスレコーダーのスイッチを切ると、ポケットから携帯電話を取り出してグルメ警察に連絡を取ろうとする。
「そうだ。製造元は別にあってだな。そいつもオレが潰すから任せてお……ぶぼぉ!」
任務を引き続き継続することを伝えると同時にトリコは口から血を吐き出す。
今頃になって攻撃が効いたのか、ジョーカーマンドラゴラの毒素が回ったのかは分からない。
だがこれは唯一残された逆転のチャンスだと踏んだクランベリーは懐から包丁を取り出すと、苦しそうにうずくまっているトリコの首に向かって包丁を振り下ろそうとする。
「死ね!」
叫ぶと同時にクランベリーの肉体を襲ったのは鉄球での打撃。
一発や二発ではない、鉄球攻撃の数々にクランベリーの意識は現実を保つことができず、体中に暴徒鎮圧用の鉄球弾を全身にめり込ませた状態のまま配水管に横たわって、気を失った。
(何だ一体?)
「何てザマだよ。情けねーぞトリコ」
予想外の光景を確認しようとトリコが鉄球が飛んできた方向を見ると、聞きなれた声での生意気な皮肉が聞こえてきた。
ガスマスクで顔を覆った杏子は、同じくガスマスクを装備したグルメ警察を両脇に二人引き連れながら、トリコの元に向かって歩いていて、グルメ警察はクランベリーが気を失ったのを見届けるとその身を確保して表に用意してある護送車へと放り込もうとしていた。
連絡してからこんなに早く警察が来るのはおかしいと思っていたトリコだが、杏子が屈んでトリコと目線を合わせると、皮肉交じりにこの状況の説明に入る。
「あれから次々と客が押し寄せてきてな。アタシ一人じゃ手に負えないから、グルメ警察を応援に呼んだんだよ。到着したと同時に奥から轟音が響き渡ってな。んで来てみたらこれだ」
そう言うと杏子は「面倒かけんじゃねぇ!」と言って、トリコの額にデコピンを食らわせる。
だが鉄板を指で弾いたような感覚が杏子を襲い、逆に人差し指に激しい痛みを感じて杏子は一人悶絶していた。
思った通り杏子の存在が自分を助けてくれたことをトリコは嬉しく思いながらも立ち上がり、杏子の頭を撫でると笑顔を浮かべながらもまだ任務は終わっていないことを告げる。
「こいつがやっていたのは調理だけだ。製造は別のくそったれがやってんだよ。明日、製造元である常闇の森へと向かうぞアンコ」
「本当に明日までに体治せんのかよ!? 血反吐を吐きながらの笑顔は怖いぞ!」
今までにないダメージを受けたトリコを口が悪いながらも心配する杏子。
そう言われると自分が予想以上のダメージを受けたことに気づき、頭をハンカチで押えながらも戻ってきたグルメ警察の職員に対して一つ尋ねる。
「何か美味いもん食べさせてくれる店知らない?」
グルメ細胞の力で怪我を再生させるのが一番だと判断したトリコは、近くに何か美味しい物を食べさせてくれる店がないかを職員に尋ねる。
分かってはいることなのだが、血まみれのまま笑顔で尋ねられるトリコに職員は困惑しながらも、自分が気に入っている店を何件か紹介していく。
相変わらずのトリコに杏子は呆れもしたが、同時に安心感も感じていた。
麻薬のような危険な物を相手に戦いを挑もうと言うので、心のどこかでさやかのような悲劇的な結末を予想している部分もあったが、トリコは決して麻薬に負けなかった。
正しい心と力を持ったトリコに頼もしさを感じ、そんな彼に付いていくため職員から教えられたレストランへと向かった。
人々に不幸を与える麻薬を完全に撲滅させるために。
***
何件ものレストランの食材を全て食べつくすとトリコの怪我は回復し、明日への出発の準備は整っていた。
トリコは杏子が寝たのを確認すると外へ出て月を見ながら物思いに耽っていた。
明日向かう現場は一筋縄ではいかない現場のため、本来は体を休めなければいけないのだがトリコにはどうしても気になることがあり、それが原因で眠りに付けないでいた。
(オレはあの時、もうほとんどジョーカーマンドラゴラに対しての抗体は出来上がっていてはずだぞ……)
自分の体は自分が一番よく分かっていること。
鼻の骨が折れて鼻での呼吸が出来なくなっていた頃には、ほぼ抗体は出来上がっていて、これ以上毒素を吸い込まないため、そして自分の射程距離にクランベリーを追いこむためにもわざと攻撃を食らっていたのだが、最後に下水道で自分が吐いた血反吐は明らかに体に異常を来たしてのそれ。
杏子のためにもあえてその事には触れないでいたが、トリコの中で疑問は拭えないでいた。
(どうなっちまってんだ? オレの体!?)
分からないと言うことに対してさすがのトリコも不安を隠せないでいたが、今は常闇の森への攻略が先だと感じていたトリコは家へと戻り、体を休めることにした。
一度受けた仕事をやり遂げなくてはいけないという使命感もあったが、本気で麻薬を憎んでいる杏子のためにもジョーカーマンドラゴラだけは確保しなくてはいけないと言う思いがトリコを突き動かしていた。
そうしている間にもトリコのグルメ細胞はうねりを上げていた。
彼の心とは裏腹にグルメ細胞は激しく活動を繰り返していた。
本日の食材
ジョーカーマンドラゴラ 捕獲レベル45
一口食べれば一生を素敵な幻覚と共に過ごすことができる強力な中毒性を持った植物、第一級の麻薬食材に指定されている食材。
と言う訳で今回は麻薬食材の話になりました。
このジョーカーマンドラゴラの元ネタはグルメテイスティングでルール説明の時に挙げられていた。ジョーカー食材の絵をモチーフに私が自分なりに解釈して作ってみました。
そしてここから物語は一気に進ませる予定です。
次回はジョーカーマンドラゴラの確保編になります。
次もがんばりますのでよろしくお願いします。