痛みが世界を支配している。
暗いそこは、何も見えず、何もわからない。
ただ、痛い。
自身を認識している要因が痛みしかない。
痛い、痛い、痛い、痛い――
全身が刺されるような。
全身が熱せられるような。
熱が、刺激が、身を焦がす。
まるで茨で全身を隙間なく縛り上げているようだ。
痛い、痛い、痛い、痛い――
暗い、ただ暗いここで痛みに耐え続けることなどできるはずがない。
意識も、自我も、自分も痛みにかき消される。
あぁ――消えて逝く。
暗い、ただ暗いこんなところで、痛みに押し潰されるなんて……
嫌だ――
――ふっと、痛みが消えた。
まるで最初からそれが嘘だったように。
霞の如く、何もなかったかのように消えた。
代わりに感じたものは、頬に触れる温かさ。
誰かが頬を撫でている。
その手は、優しくて温かくて。
この暗い空間で、たた俺を救ってくれる唯一の存在。
暗かったここが、段々と明るくなってくる。
黒が白に。
闇が光に。
どん底から救い上げるように世界が変わる。
暗く、見えなかった世界が変わることで、頬を撫でている手の持ち主の輪郭が段々とはっきりしてきた。
頬を撫でる優しい手の持ち主。
その人の顔は逆光でよく見えない。
あぁ、だけど。
微笑みながら、俺を見ている。
まるで愛おしいモノを愛でるように撫でている。
その笑みは、どこかで見た誰かの――
頬に触れる暖かな感触。
優しく撫でるそれに導かれるように、意識が浮上した。
「――大丈夫ですか、ナカオさん」
……桜?
「はい、桜です。……良かった、気がついて」
目を開ければ、なんの変哲もない天井と白いカーテンと、すぐ目の前にいる桜の顔。
……保健室?
「えぇ、保健室です。何があったか憶えていますか?」
何が……そうあれは確か……
うどんがマーボーにジョグレス進化を――
「さかのぼり過ぎにゃ!」
おぉ、ネコ。お前もいたのか。
で、何で天井から吊るされてボンレスハムみたいになっているんだ?
「うふふ。マスターを守れない従属にお仕置き中です」
「にゃー!おろせー!縄が食い込んできて……あふん、癖になっちまうにゃー!」
喜んでしまったらお前との主従関係を考えなければならないな。
ところで桜さん。
「はい?」
そろそろ離れてくれないだろうか。
美少女に頬をなでなでされるのは嬉しいけれど、それを受け入れるには恥ずかしいのが少年ハートなんだ。
「……」
無言で続行かつ微笑まれてしまったら抵抗せざるをえないな。
恥に染まる少年ハートを燃え上がらせて体を起こそうとして――動かない自分に気づいた。
……なんだ、これ。
体が動かない。
微塵も、指先すら動かない。
「まだ動かないでください。毒が貴方を蝕んでいるのですから」
毒、その言葉に現状を思い出した。
教会前の噴水広場。
俺はそこで狙われたのだ。
必殺の意思を乗せた矢の一撃を――!
あの鋭さを思い出した。
突き刺さる痛みを思い出した。
汗が流れる。
恐怖が湧き上る。
あの死の一瞬が、脳裏によぎる。
「大丈夫、大丈夫です」
――暖かさが、身を包む。
言葉が、頬を撫でる優しさが死の恐怖を遠ざけてくれた。
しばしその優しさに身をゆだねる。
優しさと暖かさに自然とまぶたが下がってくる……
「真祖ビィィィィム!」
――台無しだよ。
放たれた光線は俺と桜のいるベッドの横にあるもう一つのベッドに突き刺さった。
何をするんだネコ。
自己主張にしてもそれは激しすぎるだろう。
「――敵にゃ」
そういった俺のサーヴァントの瞳はさきほどまでの道化の色はない。
一瞬の臨戦態勢。
剥き出しの闘争本能。
俺を守るための意思の篭った苛烈な瞳。
――だが天井から吊るされたままのボンレスハム。
「やれやれ、簡単な仕事だと思ったんだがな」
その声は光線の着弾箇所から聞こえた。
その声を聴くまで、そこに誰かがいるなどと思わなかった。
背筋に悪寒が走る。
動けない体に鞭を打ち、なんとか逃げようともがく。
だが、毒に蝕まれた己の体は動いてくれなかった。
「よぉ。案外しぶといな、アンタ」
すぐ隣に潜んでいた暗殺者。
くすんだ外套と動きを阻害しない革鎧に身を包む姿。
表情はこちらを見ながら笑っているが、その瞳はぞっとするほどに冷たい。
「さてっと――」
雑事を片付けるか、そんな軽い言葉と共に構えられた短刀。
動かない俺を見下ろす男性は俺の命だけを見ている――!?
――ネコ!
サーヴァントとマスターの霊的繋がりを介した会話、念話を使い指示を出す。
「にゃー!」
――縄から抜け出せなくてぶらんぶらんしていた。
「なに、すぐに楽にしてやるさ」
――お断りします。
などと気概を上げても、この状況を打破する手立てがない。
コードキャスト……魔術を用いようとしても、この身を蝕む毒のせいか魔力がうまく練り上げられない。
冗談じゃない、こんなところで、いまだ答えも出せず、迷ったまま終わるなんて――!
動かない体、その右手に意識を集中する。
令呪、サーヴァントに対する強制命令権。
逆転の切り札をここで切る――!
「――学園での戦闘行為は禁止されています。即刻この場から去りなさい」
そういって桜が俺を庇うように立つ。
あまりに自然に庇われたことに呆気にとられて、令呪への集中力が途切れてしまった。
「……NPCが庇うのかよ」
「私の役目は聖杯戦争を滞りなく進行させる為のサポートです。そして学園内での戦闘は禁止されており、後日の決闘に差し障りある行為の妨害に――問題はありません」
「はっ――そうかい。……諸共に死にな」
男性の短い言葉。
膨れ上がる殺気。
俺を庇ったままの桜。
このままただ見ているだけなんて、守られているだけなんて――冗談じゃない。
第一の令呪をもって命ずる――!
「――遅い」
間に合わない――!?
「そこまでだアーチャー!」
保健室の入り口から雷の如く響いた叫び。
とてつもない威圧感を伴ったそれは、暗殺者の動きを止めた。
「これはいったいどういうことだ、アーチャー」
静かな歩みと静かな言葉。
だが全身から威圧感を放ちながらこちらへくる老兵――ダン・ブラックモア。
「へ?どうもこうも旦那を勝たせるためにやってんですが。決闘まで待ってるとか正気じゃねーし?俺らも楽できて万々歳でしょ?」
ダン・ブラックモアの威圧する質問に対して、暗殺者、アーチャーと呼ばれた男の答えは悪びれもしない軽いもの。
アーチャーは欠片の躊躇もなく、決闘で雌雄を決するのではなく、ただ俺を殺すために行動している。
一回戦のライダーとは違う。
彼女も俺を殺そうとしていたが、彼女は決闘で互いの力をぶつけ合うことを望んでいた。
アーチャーの自然な殺意に背筋が凍る。
これもまた、聖杯戦争だというのか……
「誰がそのような真似をしろと命じた。死肉をあさる禿鷹にも一握りの矜持はあるのだぞ。どうにもお前には誇りというものが欠如している」
「誇り、ねぇ。俺にそんなもん求められても困るんすよね」
段々と言葉尻が激しくなっていることに両人は気づいているのだろうか。
ダン・ブラックモアとアーチャー。
次の対戦者はいがみ合っているのだろうか。
「ほーんと、誇りで敵が倒れてくれりゃ最強だ!けど悪いね、俺はその域の達人じゃねーわけで!きちんと毒盛って殺すリアリストなんすよ!」
「失望したぞアーチャー。許可なく校内で仕掛けたばかりか、毒矢を用いるなどと」
アーチャーは激しく、マスターは静かに怒りを込めて。
段々と言い合いが激しくなる。
ベッドを挟んで両者の視線が激しくぶつかる。
ベッドを、挟んで。
――俺が、寝てる、ベッドを挟んで。
喧嘩はよそでやってください、マジで。
何が悲しくてお爺さんと男の喧嘩を寝そべりながら見上げなければならないのか。
助けて桜さん!
「早く出て行ってほしいです」
「にゃー!ほどけねー!」
桜はお茶を飲んでほっこりしてるし、ネコはまだ縄から抜け出せないのかぶらんぶらんしてる。
俺もそっち側に行きたいのに体が動かない。
何この拷問。いじめなのか。
「アーチャー。今かかっている『祈りの弓』の効果を洗浄したまえ」
「……きけないっすね」
「アーチャーよ!汝がマスター、ダン・ブラックモアが令呪をもって命ずる!学園内で敵マスターへの『祈りの弓』を用いた攻撃を――永久に禁ずる!」
「な、は、はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
ダン・ブラックモアの右腕が輝く。
目も眩むような眩い光が保健室を一瞬満たす。
あれが、令呪の発動。
俺も、アーチャーもこのときばかりは同じ思いだろう。
敵に有利になるような令呪を使うなんて、何を考えて――
「これは国と国との戦いではない。人と人との戦いだ。この戦場は公正なルールが敷かれている。それを破ることは人の誇りを貶めることだ。畜生に落ちる必要は、もうないのだアーチャー」
「……正気か、旦那。負けられない戦いじゃなかったのか」
「無論だ。わしは自身に懸けて負けられぬし当然のように勝つ――その覚悟だ」
――驚いた。
令呪、サーヴァントの限界を超えさせることもできる逆転の切り札を、目の前の老兵は「正々堂々戦え」という命令に使ったのだ。
「……やれやれ、わかりましたよ。オーダーには従いますって」
本当に呆れたと言わんばかりに気だるげに、アーチャーは弓に触れる。
その瞬間、弓が僅かに発光し、俺の体を縛っていた圧力が消えた。
「ほら、これで毒は消えたろ。……それとな、アンタ」
アーチャーがこちらを見下ろす。
「飼い猫の躾はしっかりしとけよ。――あれと戦うのはなんか情けない」
「にゃんだとこのやろー!」
ぶらんぶらんするな。振り子の如く揺れるな。
「あふん、激しく動いて縄が――」
恍惚とするな。
聖杯への願いは人事変更にせざるを得ないぞ。
「アレと戦うのか……」
その点に関してはごめんなさいとしか言えない。
「謝るのかよ!ちっ!今回の戦いは調子が狂うぜ」
お兄さん苦労してるね。
すごくわかるよ。
「お前には言われたくねぇと本能が叫んだ」
何故だ。お兄さんとは苦労人同盟がきっと築けると――
「誰が入るか――!」
まあまあ、そういわずに。
「――少年」
ダン・ブラックモアさんがこちらに声を掛けてきた。
「こちらの与り知らぬこととはいえ、サーヴァントが無礼な真似をした。君とは決闘場で雌雄を決するつもりだ。どうか先ほどのことは許してほしい」
え、あ、はい。大丈夫です、はい。
……すごいな、あの流れをぶった切ってシリアスなセリフ。これが歴戦の戦士――!
「そこは関心するところじゃねーよ。……こいつ等と戦うのか……」
む、いつのまにか複数形になっている。
「では、失礼する」
そう言って歴戦の老兵が保健室を出て行く。
その背中は堂々として、迷いの無いものだった。
翌日、回復した体の調子を確かめようと教会前の噴水広場を散策する。
「もう歩けるのにゃ?」
ああ、一晩寝たらもう大丈夫だ。
毒もすっかり消えたようだし。
「そか、にゃらこれからどうするにゃ?」
そうだな、情報収集か、アリーナで訓練か。
どうしたものか……
「オススメは食堂にゃ!」
金が無い。
「ぶわっ」
泣くな。俺も泣きたくなる。
それにしても、綺麗な花壇だな。
「にゃー、よく手入れされてるにゃ。――知ってるか、少年。花って食えるんだぜ?」
知っているとも。
だが人にはルールがあるのだ。
それを破る者は人としての誇りを貶めるものだ。
畜生に落ちる必要はないのだよ――あ、お前畜生だった。
「誰が畜生にゃ!にゃっふっふ、そう言いつつもその手で掴んでいるものはにゃんだろにゃ?」
違うぞ。
この花はあれだ、そう!
桜に日頃の感謝を伝えようと花をプレゼントにだな――
「おすすめの食べ方は?」
やはりテンプラだろう。
――ハッ!?
「にゃっふっふ~!」
待ちやがれ畜生。
軽快なスキップで逃げるな。
「元気になったようだな少年」
――ダン・ブラックモア!?
掛けられた声に振り向くと、そこには鎧姿の老人がこちらを眺めていた。
「その様子だと問題はないようだな」
え、あ、はい。問題ないです、サー。
すごく恥ずかしい場面を見られてしまった。
「その羞恥心がいずれ快感を――」
誰が覚えるか。
向こうで遊んでなさい。
お前とブラックモアさんが同じ場所にいるだけでもはやギャグだよ。
「にゃにその全否定。むしろあの鎧姿が既にギャグ――」
こら!本当のことは言っちゃだめでしょう!
「少年のほうが貶している件」
「ふ、仲がいいようでなによりだ」
笑われてしまったじゃないか。
「少年とあたしは二人でお笑いの星を掴み取ると――」
誓ってねぇよ。
申し訳ないブラックモアさん。
このバカネコにはしっかりと躾けておきますから、平にご容赦を。
「何、構わんよ。久々に笑わせてもらったからな。しかし――演じているな、少年」
――何を。
「瞳は雄弁だよ。未だ君は迷っている。ならその笑顔は誰のためかね。保健室の少女か、それとも食堂でともにいた少女か」
……見ていたのか。
「なに、わしとて食事はするとも。……君は迷い恐怖している。だが、誰かのために笑顔となるか。何時かの言葉を訂正しよう。君は迷いを抱えた弱者であるが誰かのために道化となれる、強い少年だ」
……それは、どうも。
「ふ、仮面を剥されるのは初めてかね。なに、わしと初めて出あった時はその戸惑う表情だったのだ。今さら隠すこともあるまい」
男には見栄を張りたいこともあるのですよ。
「正にその通りだ少年。見栄や虚勢は大切だとも。だからこそ君を助けた」
昨日は、その、令呪を使ってまで助けてくれて、ありがとうございます。
しかし、本当に良かったのですか。
「そうだな……自分でもどうかしていたと思っていたところだ。たった3つしかない切り札を敵を利するために使ってしまうとはな……だが、あの時はあれが自然に思えた。この戦いが女王陛下たっての願いということもあるが――」
ダン・ブラックモアが花壇へと目線を落とす。
その瞳はここではない、どこか遠くを見ているようだ。
「この戦いは久方ぶりの……いや、わしにとって初めての個人での戦いだ。軍務であるならばアーチャーを良しとしただろう。だが、今のわしは騎士でな。そう思ったとき妻の顔がよぎったのだよ」
――妻はそんなわしを喜ぶかどうか、と。
そう言った老兵の顔は一瞬、ただの老人のように疲れに満ちた寂しそうな顔をした、そんな気がする。
「今は顔も声も忘れてしまった。面影すら思い返すことができない……当然の話だ、わしは軍人として生き、軍規に徹した。そこに人としての人生など立ち入ることなど許されはしない。……少年」
老兵の顔に戻り、落とした視線がこちらを向く。
真っ直ぐに俺の瞳を射抜く視線は、先ほどまでのどこか遠いものを見るものではなく、俺という人間を見る戦士のそれであった。
その苛烈な視線に、圧される。
「君はまだ迷っているようだ、君自身の在り方を」
見透かされていた。
隠した迷いも、決まらない決意も。
戦いへの恐怖すらもこの人にはわかったのだろう。
「ふむ――少し、昔話をしようか。君の目はかつてわしが会ったある男に似ている」
とある、戦場での任務のことだ。
そこで出会ったのはおよそ戦場には似つかわしくない白衣の青年。
彼は戦医だった。
青年は誰が見ても戦いを否定し、憎み、恐怖し……そして、戦場で生き残れないほどに脆弱だった。
わしは名も知らぬ彼に、恐怖しながらも戦場で医療行為を続ける彼に興味を持って話しかけた。
『なぜ、君のような人間が戦場に?』
彼は少し考えるように俯いた。
そして、こちらを真っ直ぐに見返し言ったのだ。
瞳に恐怖を宿し、言ったのだ。
『その【なぜ】を識るためかもしれません。戦いの本質を知らなければ戦いを否定することは出来ない。戦争が人間から何を奪うのかを、私は知らなければならないのです』
「彼と話したのはそれだけなのだが、君をみて思い出した。君の瞳と同じように恐怖を宿していた者がいたことを。勝利のために軍規によって戦うのではなく、戦いと向き合うために戦った人がいたことを。」
戦いと向き合うために、戦う。
その言葉が胸に響く。
「少年よ、迷っているのならこの戦いで識るがいい。結末は全て過程の産物にすぎん。後悔は轍に咲く花のようなものだ。歩いた軌道に様々とそのしなびた実を結ばせる。ゆえにだ、少年。己に恥じぬ行為だけが、後願の憂いから自身を解放する鍵なのだよ」
――つまらない話に付き合わせた。老人の独り言だと笑ってくれ。
そう言って老兵が去る。
俺はその去り行く背中を見つめることしか出来なかった。
誤りだと感じた過程からは、何も生まれない。
誇れる道程を歩むことが、答えを得る道であるということなのだろうか。
なら、俺は――
「Zzz……んにゃ?終わったのにゃ~?まったく、じーさんの話は校長の朝礼に匹敵する睡眠効果にゃ」
台無しだよバカネコ――!
「にゃ!?寝起きにアイアンクローとかハードプレイが過ぎるにゃらめーーー!」
<あとがき>
仕事の都合で引っ越すことになりました。
その関係で次回更新は遅れに遅れます。
年内に更新できたらなぁ、といった感じです。
では、次回何時になるかわかりませんがまたお会いしましょう。お読みいただきありがとうございました。