暗いそこ。
静かなそこ。
何もないそこで。
獣は暖かさに包まれていた。
獣は、優しい温もりの中で、『それ』の傍に座り幸せに包まれていた。
悠久よりも長く、久遠よりも遥かに求めていた『それ』の傍にいる。
暗く、静かで、何もない世界に居ながら。
その事実だけで獣は万来の幸福に包まれていた。
唯一、不満があるとすれば、獣は『それ』に触れることを許されていない、といこと。
獣に許されたことは、無防備な『それ』を外敵から守るための盾となること。
逆にいうと、そもそも獣にできることはその程度しかない。
それ以外の機能を獣は持っていない。
だが、獣はその機能だけで満足している。
『それ』が危機にさらされたときにのみ、守るという行為の中で『それ』の盾になることで初めて触れることができるのだ。
だから獣は満足していた。
盾となる機能しか持たされずに生み出された獣。
獣は所詮、本体から切り離された尾の一つ――端末の一つでしかない。
消え逝く本体が、自我の薄れる直前に、『それ』を守るために切り離した稚拙な端末でしかない。
故に、出来ることは少なく、そもそも何かをする能力もほとんどない。
獣はただ、己の能力の限界の許す限り――いや、自身の存在の全てをかけて『それ』の盾となり守るだけなのである。
いつか、本体が自我を取り戻し、端末が本体に還るその日まで、獣は『それ』を守り続けるだろう。
そんな、酷く制限された生を獣は――とても、喜んでいた。
獣にあるのは、圧倒的幸福感。
例え、己が切り離された端末といえども、『それ』の傍に居ることができる。
その事実だけで十分なのだ。
触れることを最小限とされたことに不満はあれど、触れる機会はある。
実際に、数度ではあるが、『それ』に触れる機会はあった。
あれは、良かった……と、獣はその顔を喜悦に染め、過去の出来事を陶酔する。
普段は傍にいる己にまったく気づいてくれない『それ』も、触れているときだけはその双眸に獣を映してくれる。
その情景を思い出し、獣は身震いする。
まるで発情したように熱に浮かされ、酒に酔った様なふわふわとした浮遊感を感じている。
獣の現状を言い表すなら、幸せに溺れている、だろうか。
性質の悪いことに、獣は溺れることを喜んでいることだ。
そんな極楽浄土にいる獣が、ふと、その顔を嫌悪に歪めた。
ここ最近、獣が守る『それ』に近づいてきた輩がいたことを思い出したのだ。
普段、『それ』の傍に居れるのは獣だけだ。
だが、その輩はどういう手段か知らないが『それ』に近づいてきた。
獣は近づいてきた不貞の輩に対し、激しい嫌悪と噴出す憎悪を持った。
だが、その不貞の輩は、『それ』の傍までくることはなく、離れた場所で声をかけてくるだけだった。
本当ならば、その輩の喉笛を喰いちぎってやりたいと獣は思ったが、そうするためには『それ』から離れなければならない。
それは嫌だ。
この暗い空間から出ることはできないが、『それ』から離れるぐらいはできる。
だが、獣は離れない。
嫌だから。離れたくないから。
だから、不貞の輩は睨むだけにしてやった。
もっと近づいたらこの牙を突き立ててやると思ったが、侵入者はこれ以上近づくことも無く去っていったので、良しとした。
その嫌な出来事を思い出し、獣は顔をしかめる。
次は無い――と。
そう想った瞬間、獣は素早く立ち上がり、全身の毛を逆立て威嚇する。
その想いが引き寄せたのか、誰かが……また、侵入してきたのだ。
それも、前回とは違う。
確実に、とてつもなく早く、それも、敵意をもって近づいてくる。
敵意、敵意だ。
近づいてくるだけで殺してやりたいというのに、侵入者はあろうことか敵意を持っている。
だから獣は侵入者を――
「剥き出しのその魂――――見つけたあぁぁぁぁぁぁぁ!」
「つ・か・ま・え――――」
「な、に、これ――?」
――喰った。
柔らかな肉に牙を突きたて喰らいつく。
筋繊維を断ち、血管を引きちぎり、骨を噛み砕き、神経を磨り潰す。
臓物を食い破り、噴出す血を飲み干し、溢れ出る魔力を取り込み、その『魂』を喰らい、存在を消化する。
獣は外部の脅威に対し、盾となる機能しかない。
だが内部に脅威が来るのならば、直接攻撃することができる。
ならば今必要なのは盾ではなく刃だ。
敵を殲滅し撃滅し消滅させる刃が必要なのだ。
「ああ!?嫌!嫌ぁ!」
いまや獣は刃でしかない。
慈悲もなく容赦も無く、ただ敵を滅する刃でしかない。
与えられた機能の範囲を超え、与えられた能力の限界を超える。
獣は全身全霊で、その存在の全てを賭けて敵を滅する刃となる。
だから獣は――
「食べないで!!やめ――!」
喰った。
暗いそこ。
何もないそこ。
静かになったそこで。
獣は暖かさに包まれていた。
金色の毛は血に染まり、自慢の美しさは見る影も無い。
だが、獣は幸せだった。
獣は――彼女は守れたのだ。
あらゆる外敵から、『それ』を守る。
それだけが、獣の喜びであり生きる意味。
だから、獣は、いつか彼女に還るその日まで――
――主の傍で、温もりにまどろむ――