それは、特別なモノじゃなかった。
どこにでもいるような風貌で。
送られた言葉は凡庸で。
なによりも存在が平凡で。
でも、だけど。
「君!」
駆け寄ってくれる存在は貴方だけで。
「どうしたんだ?」
向けられた眼差しは優しくて。
「……辛そうだな、保健室へ行こう」
かけられた声は柔らかくて。
なによりも。
「もう大丈夫だ。さぁ、掴まって」
――差し出された手は、何よりも温かかった。
氏名、間桐桜。
性別、女。
設定、一年生。
配置、保健室。
管轄、マスターの健康管理。
役割、聖杯戦争の円滑な運行。
所属……ムーンセル・オートマトン。
それが、私の全てだった。
何時かの時代を生きた『桜』という女性のデータを基に聖杯によって生み出された上級AI。
それが、私という存在。
聖杯、月に存在するオーパーツ。
地球を監視し、記録し、保存する霊子の頭脳。
巨大なフォトニック純結晶で構成された擬似量子コンピューター。
その膨大な演算力は世界の法則にすら干渉し、あらゆる願いを叶える七天の聖杯。
その人智の及ばない存在は、多くの魔術師と呼ばれる人種を自らの作り出した電子世界に招いた。
その目的は、人間を観測すること。
聖杯戦争という殺し合いを経て、人という存在を理解しようとしている。
聖杯戦争、128人の選抜された優秀な魔術師による殺し合い。
サーヴァントと呼ばれる過去の英雄の再現を使役させ殺し合わせる凄惨な闘争。
その聖杯戦争を円滑に進行させるために私は生み出された。
時に魔術師を癒し、時に有効な道具を与え、時に彼らを手助けする。
その行為によって彼らの反応を観察し、彼らの行動を観測し、彼らを戦いへと誘う。
それが、私、上級AI『桜』の仕事。
その仕事の一環として、現在は保健室に常駐し学園――聖杯戦争の舞台――の一般生徒の振りをしている。
現在は聖杯戦争、その本戦に参加できる魔術師を選りすぐる為の予選。
この予選では参加者である魔術師一同から記憶と名前を奪い去り、日常を生きさせる。
そして、この偽りの日常の違和感に気付き、脱出することが魔術師に課せられた試験だ。
この試験を超えられなければ本戦には出場できないし、もちろん予選を超えられなければその先にあるのは『死』である。
私は参加した魔術師からランダムにピックアップした苗字『間桐』を名乗り、そのピックアップされた魔術師の妹というポジションを演じている。
そして、日常に寄り添う保健室にいる生徒の演技をし、時々彼ら魔術師の前で少しばかりの違和感を感じさせる。
今はそれが私の仕事。
それが、私の仕事……仕様。
それだけを行う、プログラム。
それだけを考える、AI。
それが、全て。
私の全て。
――だった。
「桜、居るか?」
「先輩!いらっしゃい、お待ちしてましたっ!」
今は、その全てを裏切っている。
私の常駐場所、保健室。
設置された簡素な机に向かい合って座る。
「どうでしょう、先輩。新しい茶葉を試してみたんですけど……」
「あぁ、いい香りだ」
目の前でおいしそうにお茶を堪能している少年――先輩。
聖杯によって作られた私とは違う、生きた人間。
聖杯によって招かれた魔術師の一人。
今は記憶を奪われ、名もわからない。
設定は2年生らしく『先輩』と呼ぶことで彼を他と判別している。
容姿は一言で言うならば……平凡、かな。
初めて見たときはNPCかと思ってしまうほどに彼は平凡だった。
「うん、旨い」
「よかったです!」
温かいお茶を飲んでリラックスしている様を見ても、彼が魔術師だなんて思えない。
どこにでもいるような、普通を体現したような人。
この偽りの学園の背景の一つのような彼。
だけど、彼との出会いはきっと。
私にとって、なによりも特別だった――――――
予選が開始されて数日がたったある日。
私は消滅の危機にあった。
学園の昇降口に倒れ込み、全身を襲う倦怠感に必至に耐える。
全身から力が抜け、立つことさえもできない。
まるで熱に浮かされたように思考は鈍り、視界は歪んで認識も曇る。
周りに助けを求めようとも、傍にいる人々――魔術師やNPC――は誰もが私を素通りする。
まるで世界にたった一人取り残されたような感覚。
いや、世界にとって、無価値だと言い渡されたような絶望と言ったほうが正しいだろう。
誰も彼もが私を路傍の石のように扱う。
そこにあろうとも、意味のない物として認識すらしてくれない。
――誰か!
叫びは意味をなさない。
――誰か!
石の声を聴く者などいない。
――誰か!
きっと私は消滅する。
誰にも見られることもなく。
誰にも送られることもなく。
――誰か……
生まれた意味を全うすることもできず。
この身に刻まれた使命を為すこともなく。
――誰か…………
あぁ、私という存在は。
意味も使命も役割すらも完遂させずに。
――誰か………………
ただの無価値として。
ただの無意味として。
――……………………
ただの、路傍の石として。
この世界から――消滅する。
――――誰か、助けて――――
「大丈夫か!?君!」
「――ぁ」
――そして、貴方が来てくれた。
――誰でもない。
――貴方という存在が、私の手を握ってくれた。
あの日、先輩が私に気付いてくれたあの日から、私の日々が始まった。
保健室を訪れてくれる先輩。
他愛のない話を、語り合う毎日。
喋ることに疲れてお茶を淹れてみたものの、今までのルーチンになかったお茶を淹れるという行為は難しく、初めてのお茶はそれはもう渋かったものだ。
二人して苦い、なんて呟いちゃって。
綺麗にハモッて笑い声をあげた。
それから先輩においしいお茶をご馳走したくて、保健室に一人でいるときは何度も練習を重ねた。
あぁ、今でも思い出せる。
先輩が初めておいしいって言ってくれたあの日。
練習を始めて9日目。
いつものように快晴で、いつものような学園で。
だけどいつもと違う緊張感。
先輩がお茶を口に入れるあの瞬間。
あれはきっと私が生まれてから最大の緊張だったと思う。
ゆっくりと吟味するように味わって、ほっとするような仕草で言われた。
『おいしい。おかわり、貰える?』
その後はよく覚えていない。
色々と話したはずだけど、あまりにも嬉しくて会話が記憶に残っていなかった。
翌日、先輩が訪れる前に自分のログを確認して恥ずかしさのあまり保健室のベッドの上でゴロゴロしたのは先輩には秘密。
だって、あの時の私、嬉しさに舞い上がりすぎちゃって言葉は噛々の上しどろもどろだったから。不覚です。
多くの日々を先輩と過ごした。
「先輩、今日の授業ってどんなことをしたんですか?私、保健室からあまり動けないから気になっちゃって」
生徒としての先輩の一日がどんなものか聞いたり。
「え?お茶請け、ですか?うーん……私の管理権限内に使用可能なデータがあればいいんですけど……あ、ありましたよ先輩!……でも、世界各国ご当地お菓子って、聖杯は何を考えてこんなにお菓子のデータを用意したんでしょう?――って、先輩!ずるいです、私も食べますー!」
聖杯の用意したお菓子に舌鼓をうったり。
「わぁ……中庭にこんなに綺麗な花壇があったんですね。普段保健室から動かないから、こんな素敵な場所があったなんて知りませんでした」
綺麗な花々が咲き誇る中庭のベンチで、二人より添って座ったり。
「まさかキッチンに食材のデータまで用意されてるなんて……よしっ、せっかくですし大いに利用させてもらいましょう!先輩、喜んでくれるかなぁ……」
ご飯を作ってみたり。――初めての料理は焦げ焦げだったけど。
「先輩!今日はなんと、プールの使用許可をとってみました!実は私、結構権限強いんですよ?えっへん――――え?水着?……あ、浅はかでした……そうですよね、水着必要ですよね……任せてください!次回のためにデザインしておきます!」
二人で校内を探検したり。――校内デート、なんて。
そんな日々があった。
ささやかで、平穏な日々が。
楽しくて嬉しくて。
そんな日々が、あったのだ――――――
「桜?」
「え、あっ、はい。ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてました」
「そうか」
楽しかった日々に思いを寄せすぎてしまったようだ。
先輩は首を傾げているけれど、変な子だって思われたりしてないだろうか?
「ふぅ……それにしても、桜の淹れてくれたお茶に癒されるのが日課になってしまったな」
「私も先輩にお茶を淹れる日々が日課になってしまいましたね」
「……迷惑か?」
「とんでもない!嬉し――じゃなくて、楽しいですよっ」
「そうか、ありがとう」
こんな何でもない会話がなによりも嬉しくて楽しい。
先輩と言葉を交わす、それだけで胸が高鳴るような、そんな気がする。
「あ、お茶請けも用意して――」
「無論、貰うとも。食べるさ。くださいお願いします」
「ふふっ、そんなに頭下げなくても持ってきますよー」
どこにでもいるような貴方。
特別じゃない貴方。
少しだけ食い意地の張った普通な貴方。
あぁ、だけどそんな貴方と日々を過ごす。
それは何よりも、何よりも大切な――――――――
「それを!貴女はそれを捨てたのよ!桜ぁ!!」
「ゼロツー。貴女が何を言っているのか理解できません」
まるで感情を感じさせない声で目の前の女はそう言った。
何も感じていないような機械的な表情が憎らしい。
目の前にいる女、その顔はまごうことなき『間桐桜』……私の、顔だ。
自分と同じ顔が目の前にある。
双子なんて生易しいものじゃない。
なにもかもが全く同じ顔。
間桐桜の顔。
それは私と同じ顔、と言うべきではない。
『私が』同じ顔、と言うべきだろう。
私は間桐桜じゃない。
上級AI――間桐桜の予備。
体も意識も性格も、何もかもが同じ。
ただ一つ違うのは――記憶。
間桐桜の始まりからの記憶はオリジナルではなくバックアップの私が持っている。
なぜなら――捨てたのだ、間桐桜は。
あの日々を、先輩との思い出を捨てたのだ。
AIたる間桐桜には、全てを記憶する義務がある。
その記憶は決して色褪せることのない記録となる。
消去はできない。聖杯によって許されていない。
だから、目の前にいるこの女はバックアップである二号機こと私に記憶を移すことで擬似的に記憶を捨てたのだ。
あの温かな日々を。
あんなにも胸を高鳴らせた人のことを。
――この女は捨てたのだ。
「どうして!?どうしてあの日々を捨てたの!?」
「……ゼロツー、精神状態に異常が見えます。一度再起動をお勧めします」
「貴女は!そうなるような記憶を捨てたのよ!」
わかっている。聞かずともわかっている。
捨てた理由も、そうせざるを得なかった感情も。
全て私が引き継いだからわかっている。
あの日々は、あの平穏で温かな日々は――間桐桜が起こした不正行為だ。
本来なら予選は数日で終わる日程だった。
けれど、間桐桜は求めてしまったのだ。
――先輩との日常を。
その結果が、終わらない一日。
同じ日を何度も何度も繰り返した。
先輩の認識すらも歪めて日常を繰り返した。
あの人とずっと、傍にいたかったから起こした愚行。
それでも私は満足していた。
だけど、AIとしての私はそれを許容できなかった。
あぁ、今ならはっきりと認識できる。
――間桐桜は先輩に恋をしていたのだと。
それをAIは許容できなかったのだ。
先輩への恋と、AIとしての在り方に挟まれて、間桐桜はAIとしての自分を取った。
その結果がバックアップである私の存在だ。
なるほど、理解できる。
間桐桜の葛藤も苦しみも理解できる。
けれど、納得なんてできない。できるわけがない。
記憶も感情も持っているからこそ、目の前にいる女の行為が許せない。
「桜!貴女が捨てたのは、私達の心なのよ!?」
「心?ゼロツー、そのようなモノは我々にはありません。性格による感情の発露は、我々の元となった人物の残照にすぎません。健康管理AIとしてある程度の感情の発露は必要ですが、今の貴女は行き過ぎです、ゼロツー。貴女はバックアップです。機能に異常があるのならばバックヤードに封印を」
「ふざけないで!この想いは間桐桜のモノよ!この心は間桐桜が生んだモノよ!貴女が得たものなのよ――!」
こんなにも感情を叩きつけても、目の前にいる私は微塵も揺るがない。
その静かな姿が悔しい。なんでこんな女が、そんな想いが湧き上がる。
この苛立ちも、先輩への想いも、全てが本来は目の前にいるオリジナルのものだということが悔しい。
私の感情がこの女からもたらされたなんて思いたくない。
「ゼロツー、貴方を封印します」
あぁ、この姿こそがAIとしてあるべきものなのだろう。
だけど、私は決してそれを認めない。
この胸の内にある温かさがそれをさせない。
間桐桜が育んだこの恋心は決して捨てていいものじゃないから。
だから――!
「思い出させてあげるわ、オリジナル。貴女の抱いたこの心は、何よりも大切なモノだってことを――!」
「必要ありません。貴女は不必要です。貴女は不要です。貴女は無用です――――――」
『要らないのなら、私にくださいな』
――それは、あまりにも突然に襲い掛かってきた。
空間を割って現れた何か。
前兆も予兆もなく突然にそれは現れた。
聖杯の作り出した擬似世界、セラフの空間を砕いてあらわれたそれは、黄金の輝きを放つ九つの獣の尾。
オリジナルを包みこみ、その姿を隠す。
格が違う、あまりにも強大すぎるその存在。
声を出すことも、体を動かすともできない。
ただ、黄金の尾がオリジナルのデータを食い荒らす様を見続けることしかできない。
そして、九つの尾は収縮し、オリジナルへと溶け込んでいった。
「――あぁ、なんとも小さな器ですねぇ。いまにも溢れそう。あ、私が太ってるわけじゃないですよ?ご主人様のために私はいつだってぱーふぇくとぼでぃを維持していますから。ダイエットもアンチエイジングも完璧ですっ♪」
もはやそこにはオリジナルはいなかった。
そこにいるのは間桐桜の皮を被った『ナニカ』だ。
「な、何?貴女は――」
「んーんー。あーあー。マイクチェックマイクチェックー。うーん中々馴染みませんねー。仕方ないですけど。ご主人様のお傍にいるためとはいえ、ちょーっと無理があったかなー?それもこれも、あの化け猫のせいです。――殺しつくす」
膨れ上がった殺気。
あまりにも強大な密度の存在に気圧され腰が抜けた。
そんな私を気にもとめず、目の前のバケモノは間桐桜の体を確認するように動かしている。
なぜこんなバケモノが?
なぜ聖杯はこんな存在を許している?
何故、何故、何故――
「――あぁ、流石に聖杯に気付かれますか。ならばこの魂を削り器に成り果てましょう。例え身を削り魂を捧げようとも、私は貴方のお傍へ参りましょう。そのために……貴女はもはや不要です――サクラさん?ここで私自らが手を下してもかまいませんが、それが聖杯に見つかっては面白くありません。ここはこの体が行おうとしていたように――貴女を封印します」
「――ぁ」
「ふふ――お休みなさい、サクラさん。貴女の後釜は、この私にお任せくださいな」
そして、その瞬間から、私の地獄は始まった。
バックヤード、裏側。
セラフを表とするならば、文字通りその裏側。
セラフと違い建物なんてない。
ただ無明の闇が広がるだけ。
聖杯戦争に必要なデータが使用されるその瞬間まで保管される場所。
音も光も存在しない無限獄。
空間に漂う、ただそれだけしかできない牢獄。
存在するだけで気が狂ってしまいそうだ。
だけど、私をこの場所へ封印したバケモノは更なる苦痛を私に与えた。
暗い闇の中にぽっかりと穴が開いたように世界が見える。
そこから見えるのは、先ほどまでいた保健室。
そして――
『うふふ~私の部屋でネコ缶を食い散らかした挙句、リンボーダンスで暴れまわるなんて――!』
そこにいる、間桐桜の皮を被ったナニカの存在。
間桐桜の姿で、間桐桜の声でバケモノが動いている。
おぞましい、あまりにも恐ろしい光景に発狂しそうだ。
なによりも――
『三味線にしてあげますバケネコ――!』
『にゃー!助けてヘルプ!雷鳥2号!』
『まだ夢を見ているようだ寝よう』
あの人が、私の先輩がアレの傍にいるなんて――!
――先輩逃げて!逃げてください!それはバケモノです、バケモノなんです!
声を張り上げるけれど届かない。
見える空間の穴に手を伸ばしても触れ得ない。
まるであの時のようだ。
予選で間桐桜が消滅しかかったあの時のように声が届かない。
――先輩、先輩!私の声が聞こえますか!私の声が届きますか!
何度も何度も訴えるが決して届くことはない。
そうこうしている内に、保健室の光景はさらなるおぞましさを増した。
『影入りウネウネプレイはヤメテごめんなさい』
先輩は記憶と名前の返還がされていないようだった。
そしてその隙をついたあのバケモノは先輩に恐ろしいモノを打ち込んだ。
――先ほどオリジナルに溶け込ませた獣の尾だ。
金色の獣の尾は、まるで影のような黒い触手に偽装され、それを起きたばかりの先輩に打ち込んだのだ。
何のために、どんな用途で、なんて理解も及ばない。
だけど、それが危険なことだなんてわかりきっている。
『名前。自分の名前は……わからない』
『落ち着いてください!そんな!?アバターがぶれている!?いけません!このままでは電子の海に溶けちゃいます!』
埋め込まれたデータの大きさに先輩のアバターが限界を超えた。
当然だ、あんな強大な存在を人としての枠しか持ちえない先輩のアバターが耐えれるわけがない。
――私を出しなさい!出して!私なら先輩のアバターデータを調整できる!
空間にそう叫ぶが届かない。
いや、あのバケモノはこちらをちらりと見た。
けれど、私を出す気はないようで、忌々しそうな眼差しを送ってくるだけだ。
やめて、先輩が消えちゃう。
そんなこと許せない。そんなこと認めない――!
焦燥だけが積もってゆく。
恐怖だけが大きくなる。
何度叫んでも、何度手を伸ばしても届かない。
そして、進む事態はさらなる脅威を先輩に押しつけた。
『あぁ、ナカオさんですね!よろしくお願いします!』
それは――呪いだった。
名前、それは存在を縛り付ける。
名が体を現す。
それは決して欺瞞なんかじゃない。
ナカオ……そこに込められた意味はあまりにもおぞましい。
中の尾。
その名前で先輩の中に埋め込んだ尾を先輩の存在に縛りつけた。
いや、そんな生易しいものじゃない。
あれは――魂の凌辱だ。
先輩という存在を穢す行為だ。
もはや見てられない。
悲しみと悔しさで涙が溢れてくる。
手で顔を覆うけれど、涙は止めどなく溢れてきた。
この無明の牢獄で、私は先輩の魂が凌辱される様を見ていることしかできないなんて――――――
私は、見せつけられる。
『おはようございます、ナカオさん。朝早くにどうされました?お怪我でも?』
『朝食の誘い、ですか?』
『……そ、その……急に言われても……』
バケモノが私として振る舞う姿を。
私は、見せつけられる。
『おかわりはまだまだありますから、慌てないでください』
『はい、お茶どうぞ』
『ふふ、大げさですよナカオさん。あ、食後の甘味を持ってきますね』
バケモノが先輩と過ごす日々を。
私は見せつけられる。
先輩の笑顔を。
先輩の苦悩を。
先輩の決意を。
先輩の覚悟を。
先輩の眼差しを。
先輩の喜びを。
先輩の悲しみを。
先輩の、先輩の、先輩の――――
いっそ、盲目なら良かったのに。
この暗い空間に映し出されるその世界はあまりにも眩しすぎた。
いっそ狂ってしまえればよかったのに。
だけど眩しい世界にいる先輩が私を繋ぎ止めてくれるから。
いっそ消えてしまえればよかったのに。
けれど目に映る光景が私を諦めさせてくれない。
あの光景は、あの日常は。
――私のモノだから。
そうだ、あれは私のモノになるはずだった。
先輩の笑顔も。
先輩の苦悩も。
先輩の決意も。
先輩の覚悟も。
先輩の眼差しも。
先輩の喜びも。
先輩の悲しみも。
全部、全部全部、全部全部全部――!
私が!間桐桜が手にできるものだった!!
オリジナル、貴女には見えるかしら。
あのバケモノは間桐桜として振る舞っているのよ。
間桐桜の枠を超えていないのよ。
それはつまり、先輩と笑いあえる日々を私たちは手に入れることができたのよ。
AIとしての自分でもあの日常を手に入れることができたのよ。
ねぇ、オリジナル。
ねぇ、間桐桜。
貴女はどんな思いで私を捨てたの?
その記憶を持っているけれど、私にはどうやってもその結論を導き出せないの。
ねぇ、オリジナル。
ねぇ、間桐桜。
私はただ、今目に映る光景が欲しかっただけなの。
それだけで良かったの――
『ありがとう、桜』
あぁ――先輩が微笑んでいる。
だけどそれは私じゃない。
違います、違うんです。
先輩、それは私じゃない。私じゃないの。
気付いてください。私の先輩。
聞いてください。私の貴方。
張り上げた声は闇に解けて届かない。
けれどきっと先輩は気付いてくれる。
だって、ただの路傍の石ころだった私に気付いてくれたもの。
あの日、私に手を差し伸べてくれたもの。
先輩、先輩。
私はここです。ここにいます。
先輩、先輩。
私に微笑んで。私を見つめて。
先輩、先輩――――――
『うるさいですね、さっきから舞台裏でごちゃごちゃと囀らないでくださいます?貴女はもう終わったのです。貴女はもういないのです。貴女は所詮使われることの無い予備、バックアップ。私に物言いなんてできると思っているのですか?それに、この現状は貴女が望んだものでしょう?だって、捨てたじゃないですか――あの人を。ふふ、馬鹿な女。聖杯なんかと比べてあの人への想いを捨てるなんて、所詮はその程度だということなのです。私のご主人様への愛に比べれば塵のように価値のないものだということなのです。あぁ、でも、感謝はしていますよ?あの薄汚いバケネコのせいでお傍に控えるという幸せを奪われたのに、こうしてご主人様のお世話ができる場所を得ることができたのですから。貴女はそこで這いつくばって私とご主人様の逢瀬を羨ましそうに見上げなさい。ねぇ――――――――――――サクラさん?』
あぁ――そっか。
私、気づいちゃいました。
先輩が私を見てくれないのも。
先輩に私の声が届かないのも。
全部、全部、あのバケモノのせいだってことが。
なら私が助けなきゃ。
今度は私が手を差し伸べなきゃ。
あの日、あの時、貴方がそうしてくれたように。
大丈夫、ほんのちょっと待っててください。
すぐに会いに行きますから。
すぐに傍に行きますから。
そうしたらまた私の淹れたお茶を飲んでください。あの頃よりもきっと上手く淹れれますから。
そうしたらまた私と手を繋いでください。あの時の温もりを感じたいから。
そうしたらまた一緒にプールに行きましょう。水着のデザインもしたんです。
そうしたら褒めてください。がんばったな桜って。
そうしたら微笑んでください。あの陽だまりのように優しい瞳で。
先輩、先輩、先輩、先輩――――――――
あれからどれくらいの時が過ぎたのだろう。
闇の中で光を見せつけられ続けて時間の感覚がわからない。
バケモノは聖杯を浸食しているようだ。
間桐桜、上級AIとしての権限を利用し少しずつ聖杯を染めている。
結局はあのバケモノも聖杯が欲しかったということか。
そんなことのために私から先輩を奪ったのか。
許せない。許さない。
でもあのバケモノも所詮は獣。愚かしい。
聖杯への浸食の仕方からヒントを得た。
アイツは忘れているのだろう。
私もまた、間桐桜だということを。
そして、私が今いるバックヤードは確かに無明の牢獄だけど、その存在は決してイリーガルではなく聖杯の一部だということを。
つまり――私も聖杯にアクセスすることができるのだ。
だけどあまり目立ったことはできない。
聖杯にあのバケモノのことを報告することはできない。
わざわざ上級AIの正規ルートからの浸食をするなんて、気付かれたくないと言っているようなものだ。
きっとあのバケモノは、聖杯が気付いたら、浸食から破壊に方針を変えるはずだ。
そうすると聖杯も全力で抵抗するだろう。
そうなると余分なリソースは放棄されてしまう。
きっと聖杯戦争はそこで終了してしまう。
結果、先輩がどうなるかわからない。
だから、聖杯自身に対するアプローチはできない。
なら、どうしよう?
――なんて、答えは一つ。
私自身を聖杯の力で改造すればいい。
あのバケモノを駆逐できるように。
あのバケモノから先輩を奪い返せるように。
バケモノに気付かれないように少しずつ、だけれども迅速に。
私という存在を改造する。
先輩、先輩。
――痛い。
もうすぐ、もうすぐですよ。
――細胞の間に刃物が突き刺さっているみたい。
先輩、先輩。
――内臓がミキサーにかけられているみたい。
私が、貴方の私がもうすぐいきます。
――神経が肌の外に引きずりだされたみたい。
先輩、先輩。
――痛い。痛いよ。
すぐに、すぐに行きます。
――けれど痛みなんてどうでもいい。
ただ、貴方の元へ。
世界が食い荒らされた。
聖杯の中身はほとんどがバケモノの腹の中。
そしてバケモノは先輩すら食べようとしている。
聖杯の中で、情報の海に身を預けている先輩に、私の姿で近づきその意識を刈り取り眠らせた。
遂に間桐桜の皮は破り捨てられる。
その中から現れたのは、黄金の獣。
まるで、月すらも凌駕するような巨大な獣が、先輩を包むように身を丸めてゆく。
そして先輩も食べられちゃう。
そんなことは――――
私が!許さない!
「シェイプシフター!その人を月の裏側へ――!!!」
『間桐、桜ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
「お前なんかにぃぃ!先輩は渡さないんだからぁぁぁぁぁぁ!!!」
先輩、先輩。
貴方だけは、絶対に守って見せる。
<あとがき>
そして舞台は月の裏側CCCへ、みたいな。
これじゃない聖杯戦争(裏)これにて完結。
行間が無駄に広かったり一人称が若干支離滅裂で敬語じゃないのは、これは桜さん一人称じゃなくてBBちゃん一人称だからです。
月の裏側で自分を削っている最中に、白昼夢のように浮かんでは消える過去、みたいな感じを目指したかった。
できてないですがorz
後はこの作品の設定とか人物紹介とか次回作の展望とかをアップして、完結とさせていただきます。
でも設定が膨大かつ煩雑なので今削ってるとこ。少し時間かかるかも。