卓球のラケットやボールをロビーから借りるには、お金を払ってチケットを買わなければならない。そんな当たり前のことを忘れていたなのはたち三人は、財布を取りに揃って自室へと戻っていた。部屋を出る時に残っていたのはノエルとファリンの二人だったが、今は恭也が一人いるだけだった。「三人とも、お帰り」「あっ? お兄ちゃん、先に帰ってたんだね。ところでノエルさんとファリンさんは?」「入れ違いに温泉に向かっていったよ。二人に何か用か?」「えとね、部屋を出る前になのはたちのお財布をノエルさんに預けたんだ」 温泉に行くだけなら財布を持っていく必要はない。そこでなのはたちは先に荷物整理を済ませたいという、ノエルたちに財布を預けて温泉に向かったのだ。「ああ、ノエルから預かってるぞ」 そう言って恭也はビニール袋に無造作に詰め込まれた三人の財布を示す。それを一人ひとりに確認しながら手渡していく。「早速、買い物か?」「それもあるけど、その前に卓球をしに行くの!」「そうか。楽しんでこいよ」「うん! それじゃあいってきまーす」 そうして三人は再び来た道を戻っていく。 ――だが彼女たちが卓球場に向かうことは結局なかった。それはなのはが曲がり角の死角から走ってきた一人の少女とぶつかったからである。「キャッ?!」 たまたま先頭を歩いていたなのはは、少女と正面からぶつかりその場で尻持ちをつく。「ご、ごめんなさい」 ぶつかってきた少女はなのはに謝ると、そのまま走り去っていった。「なのはちゃん、大丈夫?」「いったいなんなのよ、あの子。ろくに謝りもしないで……」 なのはに手を差し伸べるすずか。すぐに走り去っていったことに憤慨するアリサ。なのははすずかの手を取り立ちあがると、少女が去っていた方を見て呟く。「……あの子、泣いてた」「どうしたの、なのはちゃん?」「なのは?」 ぶつかる刹那に見た少女の表情がなのはの脳裏を掴んで離さない。凄く寂しそうな表情で泣いている少女。その姿が数年前、士郎が怪我で入院した時に寂しさで枕を涙で濡らしていた時の自分に重なった。 それはなのはが五歳の頃だ。士郎が事故に遭い、生死の境をさまよったのだ。ちょうどその頃、翠屋はオープンしたばかりでまだ経営も安定していなかった。そこで桃子は経営に追われ、その手伝いを恭也と美由希で分担して行っていた。しかしまだ幼いなのはは手伝いに参加することもできない。そのため彼女は、一人でいることが多かった。朝食も昼食も夕食もほとんど一人。その寂しさに涙を零したのも一度や二度ではない。 しかしなのははその涙を決して家族に見せようとしなかった。幼いなりにもなのはは、家族を気遣っていたのだ。今、自分が泣いているのを家族に見せたら、きっと皆が心配して駆け付けてくれるだろう。だがそれが皆の迷惑になることは明白だ。だからなのはは一人、泣いた。 そしてどうしても誰かに見てもらいと思った時は鏡の中の自分を見つめていた。自分で自分を見ることで寂しさを薄めようとしたのだ。その時、鏡に映った自分の表情、それは先ほどぶつかった少女の泣き顔に凄く似ていた。「ごめん、アリサちゃん、すずかちゃん。わたし、あの子、放っておけない」「えっ? なのは!?」「なのはちゃん!?」 だからなのはは二人の制止を振り切り、少女のことを追い掛けた。 ☆ そんなことは露知らず、涙を流しながら走り去る少女――千歳ゆまはとにかく我武者羅に走っていた。 杏子に迷惑をかけたくないとは思いつつも、今のゆまには彼女の傍にいることができなかった。杏子の想いと自分の想い。それが相反することなど今更だ。 だけど、それでもゆまは魔法少女になることを諦めきれなかった。魔法少女になれば、杏子に近づくことができる。魔法少女になれば、杏子の隣に立つことができる。それがゆまの夢であり、目標なのだ。 それを改めて真っ向から否定されてしまったからこそ、ゆまはその場にいることができなかった。 もちろん彼女とて、魔法少女が危険なものということは十分に理解している。魔女は恐ろしい。その恐ろしさは実際に襲われたことのあるゆまにははっきりとわかる。魔女との戦闘は小さなミスで命を落とす。そんな戦場にゆまを立たせたくないという杏子の気持ちは理解できなくもない。 しかしそれでも魔法少女になることが、即、不幸になるという言葉の意味がゆまには理解できなかった。 ゆまはその場に足を止める。いつの間にか旅館の外に出てきてしまったらしい。それも観光地とは真逆の森の中。多少は道が整備されているので人里の近くなのには違いないが、それでも地面は石や枝が無造作に落ちている。すぐ近くには小川があり、そのせせらぎがゆまの心を落ち着かせる。「……っ」 落ち着いたゆまに突然、鋭い痛みが走る。痛みを発した足を見てみると、擦り傷だらけになっていた。森の中を出鱈目に走っていて、辺りの草で切ってしまったのだろう。さらにゆまは靴を履いていなかった。夢中で走っていたため、靴を履くという当たり前のことすら忘れて外に出てきてしまったのだ。 一度、気づいてしまうと、その痛みを抑えることができない。ゆまは近くの原っぱに腰を降ろし、特に痛みが強かった足の裏を確認する。そこには小石や枝が食い込んでボロボロになった小さな足があった。ゆまは痛みを我慢し、慎重にそれらを取っていく。その裏からは青く変色した皮膚や深々と切り裂かれて血が出ている凄惨な状況だった。それを見るだけでここから歩いて帰るのが億劫になってしまう。「……っ!? キョーコ?」 そうして痛みに耐えながら食い込んでいるものを取っていると、遠くから誰かの足音が聞こえてくる。杏子が自分を追い掛けてきてくれたことを期待したゆまだったが、その人影が徐々に近づくに連れ、彼女の表情は落胆へと変わった。 近づいてきたのは自分と同じ年頃の見ず知らずの少女だった。その服装はピンクと紫を基調にした紅葉柄の入った可愛らしい浴衣。それは現在、ゆまも着用している旅館の浴衣だった。おそらく同じ宿に泊まっている客なのだろう。降ろした髪は自分よりは長いがロングヘアと呼べるような長さではなく、精々セミロングといったところ。ここまで走ってきたのか、その髪はかなり乱れていた。ゆまはおそらく自分の髪もあんな状態になっているのだろうと想像し、また少し凹んでしまう。「よかった~。見つけられて……」 そうしてしばらく眺めていると、その少女――なのはから声を掛けられる。最初は自分に向けられた台詞だとは思わなかったが、この場には彼女とゆましかいない。どこかで会ったことがあっただろうかとゆまが頭を巡らすと、彼女は先ほど走っている時にぶつかった人物だということを思い出した。だが何故、自分に声を掛けてくるのか、その理由がまるでわからなかった。 なのははゆまの隣に座り込む。その表情は終始、笑顔。そんな表情を向けられる理由も、ゆまにはなかった。「……ってその足どうしたの! 大丈夫!? えーっと、こういう時どうしたら……。そうだ、そこの小川にハンカチを濡らして……」 ゆまの足の状態を見たなのはの表情が驚きに変わる。そして慌てて川に向かって走っていくと、持っていたハンカチを濡らして戻ってきた。「少し染みるかもしれないけど、我慢してね」 そして丁寧に傷口に当てていく。ひんやりと冷えたハンカチは気持ちよくもあり、また傷口に染みて痛くもあった。だがそれ以上にゆまは困惑していた。「あの……」「話は後! 先に手当てをさせて」 ゆまは尋ねようとするが、それを強い口調で止められる。その迫力にゆまは黙っていることしかできず、なのはの手当の様子を眺めることしかできなかった。 ☆「よし、これで大丈夫なの!」「あ、ありがとう」 一通り傷口を水で流したなのはに、ゆまは照れながらもお礼を告げる。ゆまは気づいてないが、彼女の足はユーノの治癒魔法によって治療されていた。そのためすでに痛みが消え、傷口も塞がり始めている。どんなに遅くても明日には完治するだろう。「ところで、わたしに何か用? ぶつかったことに文句を言いに来たとか?」 それだけの目的でわざわざこんなところに来たとは思えないが、それ以外になのはとの接点をゆまは持っていない。「えっとね、なんでさっき泣いてたのかなって……?」 なのはの言葉にゆまは目を見開く。それを見たなのはは慌てて取り繕うように振る舞う。「あわわわ、いきなりこんなこと聞いちゃってごめんね。そ、そうだ、まずは自己紹介しよう。わたし、高町なのは。聖祥大附属小学校の三年生」「……千歳ゆま」「そっかぁ、ゆまちゃんって言うんだ~。もしかして同じ歳かな?」「…………」 怪我の手当をしてくれたことはありがたかったが、ゆまはなのはに対して警戒心を解くことができなかった。そもそも目の前の少女は見ず知らずの自分にいきなり泣いていた理由を尋ねてきたのだ。訝しまない方がおかしい。「にゃははは……。なんかごめんね。いきなり押しかけたみたいになっちゃって。でもゆまちゃんのことが気になったのは本当」「どうして……?」「それはね、ゆまちゃんの泣き顔が昔のわたしの顔と似ていたから、かな」 なのはは話す。父親の交通事故のことを。母親が店の経営に奮闘したことを。兄と姉がそんな母親を支え続けたことを。そしてその間、自分は一人で寂しい思いをしてきたことをなのははゆまに包み隠さず話した。「今にして思うとね、あの時のわたしって寂しがっていたんじゃなくて、悔しがっていたんだと思うの。もう少し大きければ、わたしもお母さんの手伝いができたかもしれない。お兄ちゃんやお姉ちゃんを助けることができたかもしれない。……でも小さいわたしにはそれができなかった。だから家で待っているしかなかったんだって」 奇しくもその場でなのはの過去を聞くことになってしまったユーノは、何故、彼女がこんなにもジュエルシード探しに協力してくれるのかがわかった。なのはは自分の見える範囲で困っている人を放っておけないのだ。 父親の交通事故の時は、力がないから苦しんだ。今より幼いなのはが親兄姉の手伝いをすることができないのは仕方のないことだ。むしろ幼いなのはが我儘を我慢しただけでも、十分、立派だと思う。 ジュエルシード探しはその逆で、必要以上の力をなのはは持ち合わせていた。だからユーノがいくら言っても、なのはは協力を惜しまなかった。巻きこんでしまったことは申し訳ないと感じているが、それでもなのはの力があったからこそ、この短期間で四個も回収できたのだ。もし自分一人だったら、こうも上手くはいかなかっただろう。 今だってそうだ。ゆまのような見ず知らずな女の子が泣いていたところで、自分から関わりにいこうとする人間は少ない。しかしなのはは、アリサやすずかを放置してまでゆまに関わりに行った。そんなこと、普通の子にできることじゃない。 なのははどこまでも真っ直ぐなのだ。それでいて他人を気遣える思いやりもある。すでになのはには、ユーノの姿が見えていないのだろう。彼女の目にはゆましか映っていない。ユーノはこれ以上、なのはに無断で話を聞いてしまわないように、二人から距離を取ることにした。「今ではお父さんもお母さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも、それにわたしも笑顔で過ごすことができてるけど、あの時は本当に大変だった。もしあのままお父さんが死んじゃってたら、こんな風に笑い合うことができなかったかもしれない。だからこそ思うんだ。あの大変な時に、何もできなかった自分が悔しいって」 そうしている間も、なのはは話を続ける。しかしゆまには、そんな話を聞かされる理由が思い当たらなかった。 そもそも不幸自慢ならゆまも負けてない。むしろ生まれた時から虐待され続け、その両親が彼女の目の前で魔女に惨殺されたゆまの方が、よっぽど過酷な運命を生きているだろう。だから聞く人が聞けば涙するその話も、ゆまの心には響いてこなかった。「……今のゆまちゃんもそんな昔のわたしと、同じ気持ちなんじゃないかな?」 だが次の言葉に、ゆまの心は揺さぶられる。「皆のために何かしたい。なんでもいいから役に立ちたい。でも自分にはその力がない。それが悔しい。……ゆまちゃんの顔はね、あの時のわたしと同じなんだ。だから放っておけなくて……」 なのはが口にしたのは、ゆまが常日頃から感じていることだった。魔法少女として魔女と戦う杏子。それを見ている自分。自分も何かの役に立ちたい。 もし、ゆまに素養がなければすぐに諦めることができただろう。魔女とは人類の理解が到底及ばない存在なのだ。いくら杏子を助けたいといっても、ただの人の身でそれに立ち向かうことがどんなに無謀なことかをきちんとゆまは理解していた。 しかし彼女には素養があった。キュゥべえに認められた魔法少女になることのできる素養。だからこそ、ゆまは苦しんできたのだ。「……もし、力が手に入るなら……」「えっ?」「その後の人生を犠牲にすれば、その人を助けることのできる力を手に入れられたら、あなたならどうする?」 自分と同じ思いを持っていたなのはにだからこそ、ゆまは尋ねずにはいられない。 ゆまの問いになのはは考える素振りを見せる。だが深く考えずとも、なのはの中にはその問いに対する答えが最初から用意されていた。「それでもし、わたしが誰かを助けられるのなら、その力を手にすると思う」 なのはの答えに、ゆまはやっぱりと思う。「でも……」 しかしなのはの言葉はそれで終わりではなかった。「もしその人がその力を望まないのなら、わたしは別の方法を考えるかな」「望まなかったら?」「うん。わたしね、さっきの質問を自分のことに置き換えて考えたの。それでもしあの時、わたしがその力を手に入れてお父さんを助けても、きっとお父さんは喜んでくれないんじゃないかなって思う」「な、なんで……」「だって、その力の代償にその後の人生が犠牲になるんでしょ? それはきっとお父さんは望まないと思うんだ。もちろんお母さんたちも。皆、きっとわたしの幸せを考えてくれている。だからそれを犠牲にしてまで誰かを助けても、きっと皆、不幸になっちゃうんじゃないかな?」「でも、それで悔しい思いするのは嫌でしょ?」「うん。――だからわたしは精一杯、別の方法を考える。あの時のわたしにとって、それが皆に我儘を言わないことだった。寂しいと口にしないことだった。涙を誰にも見せないことだった。……にゃはは、もう少し頭が良ければ、もっときちんとした手助けができたかもしれないんだけどね」 なのはは笑う。それを見てゆまはなんて強い子なのだろうと思った。自分はただ、杏子のために魔法少女になろうとしていた。彼女の考えをきちんと理解したつもりで、それでも魔法少女になりたいと思っていた。 だがなのはの言葉を聞いて、その考えは変わる。ゆまは決して杏子のことを理解していたわけではなかった。理解したつもりになっていただけだ。だから彼女がどんなに「魔法少女になるな」と言っても、それを頑なに受け入れなかった。今は無理でも、自分が一人前になれば、きっと杏子は認めてくれる。そうすれば杏子の横に並び立つことができる。……そう思っていた。「……そっか」 ゆまは満足そうに呟くと立ち上がる。そして小川の水で顔を洗う。その顔は実にすがすがしいものに変っていた。「ありがとう、ナノハ。わたし、戻らなきゃ」 なのはの話を聞いても、まだ魔法少女になることは諦めきれない。だけど、少なくともこんなところで泣いていちゃダメだ。しっかり杏子と向き合って話さなきゃならない。ゆまの瞳に覚悟の色が宿る。「うん。ゆまちゃん、頑張って」 それはなのはの目から見てもよくわかった。だからなのはは走り去るゆまの背中を満面の笑みで送り出すのであった。 ☆「おーい、ゆま~、どこだ~?」 まさかゆまが旅館の外に出てしまっているのだと露にも思わない杏子は、旅館の中を捜しまわった。温泉、卓球場、土産屋、挙句の果てには厨房やゴミ捨て場にまで足を伸ばしたが、どこにもゆまの姿はなかった。「杏子、ボクも暇じゃないんだ。早くゆまを見つけてくれないかい?」「うっさい。文句を言うならおまえも手伝え!」 杏子の肩の上に乗ったキュゥべえがぼやく。彼にとっては実にいい迷惑な話だった。ジュエルシードを貰いに来たのに得ることができず、フェイトに自分の目的を告げる羽目になり、探索する時間をもこうして杏子に奪われているのだから。こんなことなら普段通り、町で新たな魔法少女を探していればよかった。今日はキュゥべえにとって厄日以外の何物でもないだろう。「なのはちゃ~ん、どこ~?」 そしてまた、彼にとっては予定外の出来事が発生する。目の前の廊下をすずかが歩いてきたのだ。 すずかたちの目の前でいきなり走り出したなのは。その尋常ならざる様子に呆気にとられるも、その背中を追った。しかし追いかけ始めるのが遅すぎたのか、すぐになのはのことを見失ってしまった。そこですずかはアリサと別れ、なのはを探していたのだ。 ここですずかを杏子と会わせても良かったが、今日はこれ以上の面倒事はごめんだ。キュゥべえは杏子の肩から飛び降り、すずかの死角に移動しようとした。だが無情にも、それは杏子の手によって阻まれた。「てめぇ、なに逃げだそうとしてやがる!」「ご、誤解だよ、杏子。ボクはただ……」「キュゥべえ?」 なんとか杏子に弁明しようとするキュゥべえだったが、その前にすずかに気づかれてしまった。「あん? なんだてめぇは?」 こうなってしまっては隠れる必要はない。キュゥべえは観念し、二人に互いを紹介することにした。「杏子、彼女が前に話したこの町の魔法少女、月村すずかだ。……すずか、こっちは佐倉杏子。ベテランの魔法少女だよ」「へぇ~、こいつがあの……」 すずかがこの町の魔法少女と知った杏子は、興味深そうな目線を向ける。あのキュゥべえが新人にしてはやると告げた魔法少女。それがどの程度の存在か見定めるためだ。しかし杏子は見た感じ、すずかがそれほど強い魔法少女とは思えなかった。(……ていうか、こいつもゆまと同じ年頃だな。ここにゆまがいなくて良かったぜ) 魔導師のフェイトに会っただけでも、ゆまには刺激になってしまうのだ。これで同じ年頃の魔法少女などに会ったりしたら、また興奮して何を言い出すかわからない。しかも今は、まさにそのことで喧嘩別れになっている最中だ。見定めは適当に切り上げて、できれば今日のところはすぐに別れたいと考えていた。 一方のすずかは自分と同じ魔法少女に出会ったことに、多少テンパってしまう。キュゥべえからこの町にもう一人、魔法少女が来ていると聞いてはいたが、いざ目の前にすると、何を話していいのかわからなくなったのだ。尋ねたいことはたくさんある。だが自分と同年代ならまだしも、相手は年上。人見知り気味であるすずかにとっては、話しかけるだけでも厳しい相手だった。 ――だからかもしれない。すずかの瞳が赤くなり、吸血鬼の姿になったのは。 その雰囲気の変化を敏感に感じ取った杏子は思わず後ずさる。先ほどまで自分より弱い魔力しか感じなかった。しかし今のすずかから溢れ出ている威圧感が、杏子の頭に警鐘を鳴らしていた。この場にいてはまずい。逃げろ、にげろ、ニゲロ――。彼女の本能が絶え間なくそう告げていた。 だがすぐにその雰囲気はなくなる。「ご、ごめんなさい。私、緊張しちゃって……」「い、いや、別に気にしてねぇよ」 そう言う杏子の背中は嫌な汗でびしょ濡れになっていた。とても気のせいだとは思えない恐怖感。あの赤い瞳を見た瞬間、杏子の脳裏には死のイメージが刻まれた。フェイトと対峙した時でさえ、そんな感情を覚えることはなかった。だが目の前の相手には絶対に勝てない。杏子は一目でそれを感じ取ってしまったのだ。 一方、すずかも何故、吸血鬼化してしまったのか不思議に思う。もちろん彼女に戦闘の意思はない。本当にただ緊張してしまっただけなのだ。「…………」「…………」 一回、変な空気になってしまった二人は、どう話を切り出したらいいかわからなかった。杏子はさきほどの力のことについて聞きたい。すずかは魔法少女としての矜持というものを先輩の口から聞いてみたい。だが、場の空気がそれを許さない。 しかしこの場には、そんな空気を全く読もうとはしないキュゥべえという存在がいた。「二人とも、なんで黙って見つめあっているんだい? 互いに何か聞きたいことがあるんだろう? 同じ魔法少女なんだから、遠慮せずに話し合えばいいじゃないか」 キュゥべえとしては、杏子が早くゆまを見つけ、解放されたかっただけである。別に場を和ませようとか、そういうことは一切考えていない。だがそんな歯に衣着せぬ物言いが、この場合、上手く作用した。「えと、月村すずか、です」「……佐倉杏子だ」 ぎこちないながらもなんとか会話を始める二人。杏子はゆまを、すずかはなのはを探していたこともあってか、二人は歩きながら会話することにした。そうして話しているうちに、二人の間から徐々にぎこちなさが失われていった。「へぇ~、杏子さんって町から町を渡り歩く魔法少女なんですね。そのゆまって子も魔法少女なんですか?」「いや、ゆまは魔法少女じゃねぇよ。本人はなりたがってるみたいだけどな」「もしかして、素養がないんですか?」「いや、魔法少女になる条件は十分、満たしてるよ」「それじゃあ、どうして……」「……魔女と戦うのは危険だからな。そんな真似、あいつにはさせられねぇよ」 魔法少女、それもなりたての相手に魔法少女を否定するような言葉をぶつけるのを憚られるので、杏子はもう一つの理由を口にすることにした。「……優しいんですね」「ばっ、そんなんじゃねーよ!」 すずかの指摘に杏子は顔を真っ赤にして否定する。(もしお姉ちゃんも魔法少女のことを知っていたら、杏子さんみたいに止めてくれたのかな?) すずかには、魔法少女にならなければ叶わない願いがあった。結局、その願いとは別の願いを告げてしまったわけだが、そのことに後悔はない。だがそれでも、今、少し話に聞いただけの杏子とゆまの関係が羨ましかった。魔法少女になる前に、お姉ちゃんにそのことを相談しても良かったかもしれない。きちんと理解してもらって、その上で魔法女になるべきだったのかもしれない。「――すずか?」「お、お姉ちゃん!?」 忍のことを考えていたすずかの前に当の本人が現れる。「どうしたの? こんなところで。……そちらの方は?」「え、えっとね、お姉ちゃん。この人は杏子さんっていって、えっと、その……」「さっき偶然知り合ったんだよ。なっ、すずか」「う、うん」 言葉に詰まるすずかをさりげなくフォローする杏子。自分のことを誤魔化したということは、すずかは忍に魔法少女のことを話していないのだろう。それは至極当然のことだが、その結果として自分の家族がどうなったかを思い出し、表情を暗くする。「そうなんだ。ところでなのはちゃんたちはどうしたの?」「それがね、お姉ちゃん。なのはちゃんが知らない女の子を追い掛けて、いきなりどこかに走り去って行っちゃって……。それを今、アリサちゃんと手分けして探しているところなんだよ」「そうなの?」「うん。その時にね、同じように人を探している杏子さんに出会ったんだ。それで一緒に探すことにしたの」「……そういうことだったのね」 実のところ、忍はすずかがなのはたちではなく、見ず知らずの年上の女性といることに大層驚いていた。仮になのはやアリサが一緒ならば、そういうことがあってもおかしくない。アリサはとても活発な女の子だし、なのはも明るくて元気な子だ。しかしすずかはどこか引っ込み思案なところがある。そんな彼女が見ず知らずの女性と一人で仲良くなったことを、忍は大変喜ばしく思えた。「ところですずか、部屋は調べた? もしかして先に戻ってるんじゃない?」「あっ!?」 そういえばまだ自室を調べてなかったことを思い出す。なのはの様子から先に戻っているということはなさそうだが、それでも万が一ということもある。「それなら私が見てきましょうか? ちょうど部屋に戻るところだったし」「いいよ、お姉ちゃん。私も一緒に行くから。……それじゃあ杏子さん、そういうわけですから」 杏子とはまだ話したいことはたくさんある。しかし今はその前になのはだ。「ああ、わかった。まぁ同じ宿に泊ってるんだ。また会う機会もあるだろ」「そうですね。それじゃあ、また」 そう行ってすずかは忍と共に自室に戻って行った。 ☆「キョーコ!」 杏子がゆまと合流できたのは、その十分後のことだった。すずかが部屋に戻ったのを見た杏子は、もしかしたらゆまも部屋に戻っているんじゃないかと思い、自室に戻ったのだ。だがそこにゆまの姿はなく、すぐさま探しに戻ろうとした矢先、ゆまが息を切らせながら戻ってきた。 その格好は、フェイトの部屋から出て行く前とだいぶ様変わりしていた。身体中、葉っぱだらけ。顔には枝で切ったのか切り傷がある。なにより酷いのは足だ。いくらユーノに治療されたとはいえ、再び砂利道を歩けば傷つくに決まっている。なのはがそのことに気づいたのは、ゆまを送り出してからであり、慌ててその背を追いかけるも、すでに彼女の姿は見えなくなっていた。 その理由はゆまが道なりではなく、森を突っ切って旅館まで戻ってきたからである。そもそも、彼女がなのはと話した場所までに来た道を覚えていなかった。なのはに聞けば帰り道を教えてもらえただろうが、その頃にはすでに自分がどこを走っているのかわからなくなっていた。 仕方なくゆまは来た時同様、我武者羅に走り、途中ですれ違った若い夫婦に旅館の場所を教えてもらい、こうして帰ってきたのだ。だがその過程ですでに彼女の両足は、また傷だらけに戻ってしまっていた。「ゆ、ゆま!? どうしたんだ、その傷は?」「そんなことはどーでもいいの!」「いや、どうでもいいってことはないだろ」「いいから黙ってわたしの話を聞いて!」「お、おう」 ゆまの迫力に思わず気圧される杏子。「キョーコはわたしを魔法少女にしたくないんだよね。なんで!?」「なんでって……。そりゃさっきも言っただろ。魔法少女になったら……」「不幸になるって言うんでしょ? でも皆、不幸になるとは限らないじゃんか。そう言うってことは、きっとキョーコは魔法少女になって不幸になったんだと思う。でも、わたしが不幸になるとは断言できないはずだよ」「そ、それは……。いや、それだけじゃない。魔法少女になるってことは、魔女と一生戦い続けなきゃならないんだぞ」「そんなの別に、わたしは平気だよ。だってキョーコが一緒に戦ってくれるもん!」「あのなぁ。魔女と戦い続けるっていうことは、単に命の危険があるだけじゃねぇんだぞ。魔法少女になったら、普通の生活がまるで送れなくなるんだ。学校に行って、友達を作って、恋をして、結婚して、子供を作り、そして死んでいく。そんな当たり前のことすらできなくなるんだぞ」「なんだよそれ。そんなの今と全然変わらないじゃんか! 今だって学校に行ってないし、友達だってキョーコだけで十分だよ」「んじゃ、恋は、結婚は、子供は! それはどうするっていうんだよ!」「別にそんなのわたしには必要ないよ。わたしにはキョーコがいてくれる。それだけで十分だよ。むしろキョーコの役に立てない方がつらいよ」「……誰がゆまのことを役立たずなんて言ったんだ?」「えっ?」 売り言葉に買い言葉。ゆまの迫力に思わず怒鳴るように言葉を並べ散らす杏子だったが、あるワードが引っ掛かり、その雰囲気を一転させた。「ゆまは役立たずなんかじゃねぇ! 十分、役に立ってくれている! 誰だ、そんないい加減なことをゆまに吹き込んだ奴は!! ……さてはてめぇだな、キュゥべえ!!!」 杏子は魔法少女の姿になると、その場にいたキュゥべえに対して槍を突きつける。「え、冤罪だよ。ボクがそんなこと言うわけないじゃないか」「いいや、お前ならゆまを魔法少女にするために、いい加減なことを吹き込んだっておかしくない。この場で三枚におろしてやる」 杏子は部屋の中で槍を振り回す。それをキュゥべえは必死に避けていく。「キョーコ、やめて! 落ち着いて!」「離せ、ゆま! いつもこいつには煮え湯を飲まされてきたんだ。今日という今日は我慢ならねぇ。その身体を串刺しにしてやる」「ダメだって。キュゥべえじゃないから。わたしのことを役立たずって言ったのは!?」「……それじゃあ、誰だってんだ?」 ゆまの言葉に杏子は槍を引っ込める。キュゥべえは穴だらけになったテーブルと畳を見て、一歩間違えれば自分がそうなっていたとゾッとする。「……わたしのパパとママ」 その名を呼ぶゆまの表情はとても陰鬱なものだった。「……わ、悪かったな。嫌なことを思い出させちまって」「ううん、わたし、平気だよ。あの人たちはもういないし……」「ゆま……」「あのね、キョーコ。聞いてほしいんだ。わたしはやっぱり魔法少女になりたい。でもね、それは突き詰めれば魔法少女にどうしてもなりたいんじゃなくて、キョーコの役に立ちたい。キョーコの傍にずっといたいってことだったんだ。そのために魔法少女になるのが、一番手っ取り早いと思ってた。でもキョーコは、わたしに魔法少女になって欲しくない。でもそれはわたしのためを思って言ってくれてるんだよね。それは凄く嬉しいことだけど、同時に悲しいことなんだよ。だってキョーコはわたしの力を必要とせず、魔法少女と戦うことができるってことだもん」「それは……違う」「ううん、そういうことなんだよ。少なくともわたしにとってはね。……だけどね。さっきある子に言われて気づいたんだ。それは安直な考えだったんじゃないかって。別にわたしが魔法少女じゃなくても、キョーコがわたしを見捨てることはない。何があっても助けてくれる。ずっと一緒にいてくれるって」 その言葉に杏子は何も言えなかった。確かに杏子は何があってもゆまを助けるだろう。絶対にゆまを見捨てることはないだろう。……しかしずっと一緒にいることはできない。杏子はいつか自分も魔女に敗れ、過去の数多の魔法少女と同じように死んでいくと思っていた。そうじゃなくても、ゆまを一人前にできれば、その時に彼女と別れるつもりだった。だからこそ、杏子はゆまの想いに返す言葉がなかった。「たとえ魔法少女になれなくても、キョーコの役に立つ手段はある。キョーコは言ってくれたよね。わたしを一人前にしてくれるって。だからわたしはその時まで、その方法を考え続ける。それまでは絶対に魔法少女にならない。魔法少女になりたいなんて言わない。だけど、もしわたしが一人前になった時に、それでも魔法少女になりたいと思ったなら、キョーコは許してくれる?」 杏子を見つめるゆまの瞳。それはどこまでも真っすぐで、その瞳に対して、杏子も真っすぐ正面から向き合った。「……わかった。だけど、その分これからは厳しく行くからな。覚悟しとけよ」 杏子は笑う。ゆまの成長を嬉しく感じる自分がいる。それと同時に別れの時を想像し、寂しく感じる自分もいる。「上等だよ。いつかキョーコをあっと言わせてあげるんだから」 だが今は、ゆまと笑い合おう。いずれ彼女が魔法少女になろうとも、自分が魔女に殺されようとも、ゆまと一緒にいて幸せだと感じるこの気持ちは、嘘偽りのない真実なのだから。2012/7/7 初投稿