「すずかちゃ~ん、朝ですよ~。起きてくださ~い」 扉の向こうからファリンの声が響き渡る。その声が耳に入っていないわけではないが、すずかは自室のベッドに顔を埋め、その一切を無視し続けた。 ここ数日、すずかは一歩たりとも屋敷の外に出ていない。その原因は数日前の温泉旅行にあった。 すずかにとって今回の温泉旅行はとても楽しいものになるはずだった。家族以外の友人との初めてのお泊まり。期待するなという方が無理な話だ。その予感通り、昼間のうちは旅行を満喫していた。 それが崩れたのは近くに魔女がいることを察知した時からだろう。このまま放っておいたら大切な家族が、友達が巻き込まれてしまうかもしれない。だからすずかは単身、魔女の結界に向かっていった。魔女ラウラの力は強力だったが、結界内には自分と同じように魔女と戦う魔法少女や魔導師が何人もいた。結界の作用で互いにその顔を見ることはできなかったが、その場にいた全員でラウラを倒すことに成功した。 そうして結界が解け、改めて顔を見合せた時、そこに意外な人物の姿があった。フェイトとアルフはまだわかる。二人はすずかを魔女から救ってくれた恩人だ。使い魔の足止めに一役買ってくれた杏子も含めて、すずかが魔法という存在に触れなければ出会うことのなかった人たちだ。 だが最後の一人が問題だった。高町なのは。それはすずかが小学校に入学してから初めてできた親友の一人だ。魔法とは全く関係ないところでできた大切な友達。そんな彼女がこの場にいたことにすずかは驚きを隠せなかった。それはなのはも同じようで、すずかのことを見つめる彼女の顔は大きく眼が見開かれている。 誰がどう見ても目の前の人物はなのはなのだが、それでもすずかはこの場になのはがいることを否定したかった。自分と初めて友達になってくれた女の子。なのはがいたから、すずかは一人ではなくなった。それはきっと、この場にいないもう一人の親友も思っていることだろう。 そんな彼女に戦いの場は似つかわしくない。血で血を洗う、魔女との戦いに相応しいのは自分のような人外の存在だけなのだ。決して彼女のような普通の女の子が巻き込まれていいものではない。「ど、どうしてなのはちゃんが魔法少女なんてやってるの!?」 だからこそ、すずかは叫ばずにはいられない。ラウラとの戦いでボロボロになった身体で出せる精一杯の怒声。大声を出すだけで身体に響くほどの傷を負っているのにも関わらず、すずかは怒りを露わにしていた。「そ、それはこっちの台詞だよ。どうしてすずかちゃんが……」 そんなすずかの迫力に押されつつも、なのはは反論する。彼女が強く言い返せなかったのは、すずかの怒っている姿だけではなく、彼女の傷だらけの身体を見たのが原因だった。すずかから言いだしたこととはいえ、なのははすずかを危険な目に合わせてしまった。ディバインバスターの中に飛び込ませ、ラウラの眼前で止めの一撃を放った。その結果、ジュエルシードの魔力を一番近くで受けたすずかに対し、なのはは責任を感じていた。だからこそなのははすずかほど、強く言うことはできなかった。「私はいいの!? でもなのはちゃんはダメ。もう絶対、魔女と戦っちゃ……」 そう言い掛けてすずかは言葉に詰まる。キュゥべえと契約した魔法少女はグリーフシードを求めて魔女と戦い続けなければならない。ソウルジェムが穢れきる前に浄化しなければならない。そんな宿命を背負わされてしまう。だからこそ魔導師と魔法少女の違いを知らないすずかは言葉を詰まらせてしまった。「……『私はいい』ってどういうこと?」 だがなのはにとって重く響いたのはすずかの台詞の後半部分ではなく、前半の部分だった。先ほどまで気圧され気味のなのはだったが、すずかの言葉を聞き、その視線を強く細める。「どうしてそんなことを言うの? すずかちゃんに何かあったら皆、悲しむんだよ。忍さんやアリサちゃん、それにわたしだって。それなのに『私はいい』だなんて言わないで!」 キッとすずかを見つめながら、なのはは力強く言う。アルフから魔法少女について聞いていたなのはは、自分とすずかの違いをきちんと理解していた。自分は魔導師、別に魔女と積極的に戦っていく必要性はない。それに対してすずかは魔法少女、先ほどのような魔女と戦う存在だ。もちろんジュエルシードの思念体と戦う自分にだって全く危険がないとは言い難い。だが実際に魔女と戦ってみて、その危険度は天と地ほどの差があるとなのはは実感していた。 だからこそすずかの言葉が許せない。彼女の言葉はまるで、自分はどうなってもいいと言っているように聞こえた。戦い方もそうだ。傷を負いながら敵に近づき一刀両断する。親友がそんな覚悟で戦いに臨んでいることをなのはにはとても許容できなかった。 しばらく睨み合う二人。その均衡が崩れたのは、突然すずかが身体をよろめかしたからだ。倒れそうになったすずかをとっさに支えるなのは。すずかは目を開けてはいるものの、その焦点は合っていなかった。さらに彼女の身体に無数に存在する傷。浴衣に隠れて見えない部分もあるが、その生地はところどころ赤く滲んでいた。その一つひとつがラウラとの戦いですずかが受けた傷なのは間違いなかった。「ユ、ユーノくん、すずかちゃんが……」「うん、わかってる」 それに気付いたなのはが悲痛そうな声でユーノに声を掛ける。それを聞くのと同時に、ユーノはすずかに対して回復魔法を掛けた。なのははすずかを気遣うようにその場で寝かせる。 すずかはおぼろげな意識の中で、彼女の手のひらに目がいった。ジュエルシードを封印するために血まみれになったなのはの両手。傷が塞がっておらず、まだ傷口からじわじわと血が溢れ出ている。その臭いがすずかの嗅覚を刺激し、夜の一族の本能である吸血衝動を呼び覚ます。 ――嗚呼、血が飲みたい。 混濁する意識の中で、すずかが思ったのはただ一つの欲求だった。自分の腹を満たしたい。失った血液を取り戻したい。目の前にある極上の血液にむしゃぶりつきたい。 もし彼女がラウラとの戦いで血を失い過ぎなければ本能が呼び覚まされることもなかっただろう。もしなのはの手のひらが血まみれでなければ、すずかは理性で本能を押さえつけることができていただろう。だがその二つが重なったすずかは、理性の箍が外れてしまう。彼女の脳裏にはただただ血が飲みたいという欲求で支配された。「ねぇ、こっちを見て」 幸か不幸か今のすずかは血を流し過ぎたため自分から襲いかかることはできない。だからこそ、彼女はか細い声で呼びかける。その瞳はうっすらと赤みを帯びていた。「どうしたの、すずかちゃ……」 すずかの声に素直に顔を向けるなのは。だが彼女の目を見た途端、なのはは力なくすずかの上に倒れ込む。それは夜の一族が持つ魔眼の力だった。夜の一族は魔眼で強力な暗示を掛けることができる。本来は一族の秘密を知った一般人や外敵の記憶を消すことに使われるが、すずかにはまだそこまで魔眼を使いこなすことはできない。精々、対象の意識を失わせることができるだけだ。 だが今はそれで十分だった。彼女の身体が、首筋が自分の口のすぐそばまで寄ってくれればそれでいい。あとは重たい身体を動かして、柔らかそうな肌に齧りつけばいいだけだ。 目の前に転がる結構の良い肌を見て、すずかは無意識のうちに唇を舐める。飲む前から目の前の少女の血液は極上なものだと、すずかの本能が訴えていた。とびきりの魔力を持つ若い少女の穢れのない血液。そんなものが目の前に差しだされたとしたら、どんな吸血鬼でも我慢できるわけがない。彼女の血液は誰にも譲らない。彼女は、なのはは自分だけのものだ。(なのは、ちゃん?) なのはの首筋に牙が触れるか触れないかという時、すずかはふいに正気を取り戻した。そして自分がやろうとしていたことを思い出し、ゾッとする。 すずかはなのはの血を吸うつもりだった。すずかはなのはの血を吸い尽くすつもりだった。すずかはなのはのことをただの餌としか見ていなかった。 ――すずかはなのはが死んでしまっても構わないと思っていた。「いやっ、いやっ、いやぁぁぁぁああああッ!!」 自分のおぞましい思考に気付いたすずかは慌てて飛び起きる。彼女の身体の上に横たわっていたなのはは、その衝撃で地面に頭から顔をぶつける。その痛みで目覚めたなのはは、目の前で錯乱しているすずかの姿を見て驚いた。「すずかちゃん、どうしちゃったの!?」 自分の意識がなくなっていたことなど疑問に思わず、なのははすずかに駆けより落ち着かせようとする。だがすずかには周りの状況がきちんと把握できていないのか、ただその場で暴れまくるだけだった。その拳がなのはの頬に偶然ぶつかる。不意の出来事に対応できなかったなのはは、その場で尻もちをつくように倒れる。 そんななのはと視線が合うすずか。すずかの瞳はまるで電球が切れかけているかのように点滅していた。いつものすずかが見せる優しい黒い瞳。魔力を帯びた赤い瞳。それが不規則に点滅している。 そんなすずかの視線は自分が殴ってしまった彼女の頬に釘づけだった。仄かに赤く染まっているなのはの右頬。それをやったのが自分だと、すずかははっきり自覚していた。……自覚していたからこそ、彼女はこの場に留まっていることはできなかった。「すずかちゃん、どこ行くの!?」 なのはの制止の声を振り切り、すずかは脇目も振らず森の奥へと走り去っていく。その背中を追おうとしたなのはだったが、どうやら突き飛ばされた時に足を捻ってしまったらしい。痛みに耐えながらなのはが立ち上がる頃には、すでにすずかの姿はその場から見失ってしまっていた。 その後のことはすずかにもよく思い出せなかった。ただ気がついた時、すずかは自分の部屋のベッドに寝かされていた。目が覚めたすずかを強く抱きしめる忍。その脇ではファリンも涙を流して喜んでいる。ノエルはほっとしたような笑みを浮かべていた。 ユーノの治癒魔法が効いたのか、すずかには目立った外傷はない。だが見えないところ、彼女の心は酷く傷ついていた。目の前で繰り広げられている光景がまるで夢か幻のような感覚でしか見ることができなかった。そうして唐突に思い出される自分の凶行。未遂に終わったとはいえ、自分がなのはを傷つけた事実には変わりない。 突然暴れ出したすずかを慌てて抑える忍たち。キュゥべえと契約したことで身体能力を大幅に向上させたすずかを押さえつけるのは、三人がかりでも一苦労だった。忍は魔眼を使い、ノエルやファリンは自動人形としてのスペックをフルに使い、無理やり組み敷いた。 しばらくして落ち着きを取り戻したすずかは、部屋の惨状を見て驚き、再び自分が大切な人を傷つけてしまったことを自覚した。 そうして彼女は心を閉ざした。 そのためすずかは学校はもちろん、屋敷の外に出ようともしなかった。多くの時間をベッドの中で過ごし、部屋の外に出る時もなるべく忍たちに会わないようにしていた。ノエルやファリン、時には忍が彼女の部屋に食事を運んでくるもほとんど口にすることはなかった。しかし血液パックだけは毎晩、こっそり部屋を抜け出して最低でも一袋は飲むようにしていた。身体の中に血液が満たされていれば、今後なのはたちを襲うことはないと信じて。 そうやってほとんどの時間を一人で過ごしていたからこそ、すずかは見過ごしていた。すでに彼女の瞳は、その意思に関係なく赤く染まるようになっていることに。そしてソウルジェムの穢れる速度が徐々に増していることに……彼女はまったく気づいていなかった。 ☆☆☆ ケータイのアラーム音が鳴り、高町なのはは気だるい身体をベッドからゆっくり起こしていく。そのまま部屋を出て、洗面台に向かったなのはは、鏡に映る自分の顔を見た。なのはの顔には落ち込んでいる、思い悩んでいるといった感情がありありと現れていた。 すずかと同じく、彼女が悩んでいるのは温泉旅行の夜の出来事だ。初めて出会った魔女という存在。そしてそれと戦う親友、月村すずか。それだけでもなのはの悩みは尽きないのに、彼女にはもう一つ考えなければいけないことがあった。 すずかが走り去っていこうとした時、なのはは意地でもその背中を追っていくつもりだった。自分を突き飛ばした時に見せた彼女の表情。あんな顔を見せられて、なのはは放っておくわけにはいかなかった。それが親友ならなおさらだ。「レイジングハート、お願い」 だからこそなのはは、自分のデバイスに祈る。足がまともに動かせないなら飛んで追いかければいい。見失ったのなら、すずかの残した魔力を辿っていけばいい。ラウラとの戦いで一番ダメージが少ないなのはには、それぐらいのことを行える魔力は残されていた。「なっ、なにをするんだっ!」 しかしいざ追いかけようとしたなのはだったが、背後から聞こえてきたユーノの叫びに中断させられる。見るとユーノはアルフの魔力弾で吹っ飛ばされていた。なのははとっさにユーノと木の間に入り、その身体を優しく受け止める。「大丈夫、ユーノくん。何があったの?」「ありがとう、なのは。実は……」 ユーノが事情を説明する前に、アルフはその場に落ちていたジュエルシードを掴み取る。その背にはフェイトの姿もあった。「フェイトを助けてくれたことには感謝してる。でもこいつはあたしたちがいただいていくよ」 有無を言わさない迫力を見せるアルフ。なのははその姿を見て、アルフとジュエルシードを巡って争っていたことを思い出す。「待ってください。ジュエルシードは危険なものなんですよ。それにその子の治療がまだ……」 事情を察したなのはは、アルフに背負われているフェイトの方を見て叫ぶ。すずか同様、彼女もまたその身体に多くの傷を残していた。 杏子との戦い、ラウラとの戦い、そしてジュエルシードの強制封印。フェイトがこの夜の間に行った三つの行動。例え優秀な魔導師だとしても、九歳の子供が行うには過酷すぎた。「……その気持ちだけはありがたく受け取っておくよ」 なのはの言葉に少しだけ心が揺れたアルフ。ジュエルシードのことを考えなければ、なのはの言う通りこの場でユーノの治療を受けさせた方がフェイトのためなのだろう。だがそうして油断している隙に管理局に通報でもされたら、目も当てられない。目の前の相手を確実に信用できない以上、アルフは一端引いて、時の庭園で治療を受けさせるべきだと考えた。 アルフはフォトンランサーで地面を抉り、土煙を巻き上げる。突然のことに反射的に目を閉じてしまうなのはとユーノ。その隙にアルフはフェイトを連れて離脱した。 その場からアルフたちの姿がなくなっていることに気付いたユーノは、すぐに周辺に対して探査魔法を使用する。 一方、なのはは二人に気を取られて忘れていたすずかのことを思い出す。だがすでに彼女の姿も周囲にはなかった。先ほどの様子から森の奥に入ってしまったのだろう。「ユーノくん、あの人たちだけじゃなくてすずかちゃんも探して。お願い」「……わかった。やってみる」 なのはの願いも聞き入れ、二人だけではなくすずかも同時に捜索するユーノ。だがいくら探してもその行方が掴むことはできなかった。逃に徹しているアルフたちはともかく、すずかまで見つけることができなかったユーノは、非常に心苦しい思いだった。「ごめん、なのは。今日のところは一端、皆のところに帰ろう。すずかももしかしたら先に帰っているかもしれないし」「……うん。そうだね」 暗い表情で頷くなのは。なのはにはユーノが言っていることが気休めだと薄々わかっていた。おそらくユーノはジュエルシードを持ち去ったアルフたちを主として探したのだろう。しかしなのはには彼女たちよりすずかのことが気になっていた。 魔法少女となってしまったこともそうだが、突き飛ばされた時に見せたすずかの表情。それがなのはの脳裏に焼き付いて離れなかった。瞳の色が点滅していたのも気になったが、それ以上に彼女の表情が印象的だった。まるで何かを恐れているような表情。そして脇目も振らず逃げ出すように駆けていった後ろ姿。とてもただごとだとは思えなかった。「なのは、どこ行ってたの!?」 そんなことを考えているうちに旅館の客室まで戻ってきたのだろう。なのはに向かってアリサは怒った様子で駆けてくる。部屋の中には案の上、すずかの姿がなかった。だがそれだけではなく、士郎や恭也を始めとした人々の姿も見当たらなかった。客室の中にはアリサを除くと他には桃子しかいなかった。「ごめんね、アリサちゃん。ユーノくんが突然走りだしちゃって……。ところで他の皆は?」「他の皆はなのはたちのことを探しに行ってるわ」 ゆっくりとした足取りで近づいてきた桃子がなのはにそう告げる。その顔を見て、なのはは怒られることを覚悟した。普段はぽややんとした雰囲気を醸し出す桃子だが、今はとても真面目な顔をしてなのはのことを見下ろしていた。こんな母親の顔、士郎が事故に遭った直後以来見たことがない。「お母さん、ごめんなさ……い」 だからなのはは桃子が怒る前に素直に謝った。だがそんななのはを包み込むように桃子は優しく抱きしめた。「本当に心配したのよ。なのはが無事でよかった」 なのはの耳元で告げられる桃子の言葉。その言葉が嬉しいと同時になのはの心はチクリと蝕んだ。自分を心配してくれている人たちに嘘をつかなければならない申し訳なさ。全てを話してしまいたいが、ジュエルシードだけではなく魔女のことを知った今では、なおのこと話すわけにはいかなかった。 高町家は翠屋を経営する裏で剣術の道場も持っている。師範の士郎の元に集う門下生は恭也と美由希だけだが、素人目に見ても彼らが常人から逸脱した強さを持っていることをなのはは知っていた。そんな自分の家族なら、事情を説明すればまず間違いなく手伝いを申し出るだろう。 だが彼らは強いといってもただの人間なのだ。そんな彼らを魔女やジュエルシードといった人外の化け物との戦いに巻き込むわけにはいかなかった。「ごめん、なさい」 だからなのはは謝ることしかできなかった。皆を心配させてしまったこと。本当のことを話すことができないこと。その複雑な思いが絡み合い、彼女は心の底から謝り続けた。 謝っているうちになのはは、すずかの気持ちを少しずつではあるが理解していった。魔女は危険な存在、放っておいたら誰かが危険な目に遭うかもしれない。だからその前に自分が魔女と戦って皆を守る。 魔女とジュエルシードという違いはあれど、その思い自体はなのはの戦う理由と全く同じものだった。だからこそ、危険な戦いの場に守るべき相手が現れ、気づかないうちから共闘していた。それがなのはにとってはショックであり、すずかにとってもショックだったのだ。 それでもすずかの言い分は許せるものではない。なのはにも皆を守れる力がある。それは一緒に戦ったすずかも知っているはずだ。にも関わらず、すずかはなのはにこれ以上の戦いを望まなかった。自分一人で戦うと告げたのだ。その気持ちはわからなくもないが、それでもすずかが「自分と一緒に戦おう」と言ってくれなかったことがなのはには悲しかった。 戦わずに済むならそれに越したことはない。でも今はジュエルシードと魔女、放っておいたら危険な存在が二つもあるのだ。それなのに頼って貰えなかったことがなのはには、ただただ悔しかった。 だからすずかが帰ってきたら今までの事情を全て話し、一緒に町を守ろうと言うつもりだった。最初のうちは反対されるかもしれないが、すずかなら話せばわかってくれる。なのははそう確信していた。 ――だがその後、なのははすずかに会うことができなかった。 あの後、なのはが見つかったことは桃子のケータイから士郎たちに伝えられたが、彼らはそのまますずかの捜索を続けた。結局、すずかが見つかったのは朝方になってからだったが、忍の判断で彼女はそのまま月村の屋敷に連れ戻されたのだという。 その時は学校が始まればまたすずかに会えると思っていた。だが学校が始まってもすずかが登校してくることはなかった。アリサと二人ですずかのことを心配して電話もしてみたが、忍の口から「体調を崩している」と聞かされただけですずかと話すことすらかなわなかった。(だけど、わたしはすずかちゃんときちんとお話したい。いったいどうすればいいんだろう?) 鏡の前でなのはは悩む。おそらくすずかが登校してこないのは体調を崩しているわけではない。単純に自分と顔を合わせたくないのだ。だから何も考えずにお見舞いに尋ねても、きっと会うことはできないだろう。「なのは~。早く支度しないと遅刻するわよ~」「わかった~」 リビングの方から桃子の声が聞こえてくる。うっかり鏡の前で考え込んでしまっていたらしい。なのはは一端、すずかのことを頭の隅に追いやり、顔を洗い始めた。 ☆☆☆「いい加減にしなさいよ!」 昼休み、教室内にアリサの怒声が響き渡った。それはなのはに向けられて発せられたものだった。その声に教室内に残っていた生徒の視線がアリサたちに集中する。そんな視線をものともしないように、アリサは怒鳴り続ける。「こないだっから何話しても上の空でボーっとして」「ごめんね、アリサちゃん」「ごめんじゃないわよ。すずかのことが心配なのはわかるけど、それにしたって最近のあんたはボーっとし過ぎよ。あたしと話しているのがそんなに退屈なら一人でいくらでもボーっとしてなさいよ」 言いたいことを言い終えたアリサは、一人で弁当箱を持って教室の外に出ていく。そのまま屋上に上がると、誰も座っていないベンチに腰掛ける。座りながらアリサは先ほど、いきなり怒鳴りつけたことを反省していた。 こういう時、すずかがいれば二人の間に入って宥めようとしてくれるだろう。だがすずかはいない。彼女とは温泉旅行に行って以来、一度も会うことができなかった。 アリサにとってあの温泉旅行は一生の思い出にもなりかねない大切な旅行になるはずだった。家族以外の人と初めての泊まりがけの旅行。仕事が忙しく来れなかったアリサの両親。その代わりに士郎や桃子、忍といった保護者の元、親友三人で堪能する楽しい旅行になるはずだった。 楽しい旅行が終わりを告げるきっかけとなったのは、すずかが忍に呼び出されたことだった。部屋に残った恭也に話を聞いてみると、すずかが最近、夜中に無断外出しているという。その話を聞いて、アリサは少しでもすずかのために何かしたいと思った。だからこそ彼女は、忍との話を終え戻ってきたすずかを問い詰めるつもりだった。 しかし彼女は忍との話の途中でどこかに行ってしまったらしい。忍がすずかを止めなかった理由はわからない。だが遅くとも朝には戻ってくるのだ。その時に問いただせばいい。それまではなのはとすずかについて相談でもしていよう。そう楽観的に考えていた。 だがいつの間にか、なのはの姿もなくなっていた。皆が目を話したほんのわずかの時間、その間に客室からなのはの姿が忽然と消えたのだ。 すずかのこともあったせいか、大人たちは過敏に反応したのだろう。すぐになのはの捜索に向かうことが決まった。アリサもなのはやすずかのことを探しに行きたかったが、子供であるというただそれだけで桃子と共に居残りを言い渡された。 ただ待つだけというのがこれほど苦痛だとは思わなかった。できることといったら桃子と話をして気を紛らわすことぐらい。だが話せば話すほど二人のことが気になってしまう。それは桃子も同じだったようで、気がついたら二人の間で言葉が交わされることはなくなっていた。 そんな静寂を破ったのは、なのはが一人で戻ってきたことだ。「なのは、どこに行ってたの!?」 頭から考える前に言葉が出ていた。気づいた時にはなのはに向かって駆け寄っていた。二人には帰ってきたら文句を言ってやるつもりだった。だが彼女の無事な姿を見た瞬間、その言葉は全て吹っ飛んでしまった。ただただ、なのはが戻ってきたことに対して喜んだ。「ごめんね、アリサちゃん。ユーノくんが突然走りだしちゃって……。ところで他の皆は?」 申し訳なさそうにそう告げたなのはは、部屋を見回しながらそう尋ねてくる。「他の皆はなのはたちのことを探しに行ってるわ」 その返答をしたのは桃子だった。桃子が近づいてきたことを察し、アリサはその場を彼女に譲る。なのはに言いたいことはたくさんある。でも今、この場は桃子に譲るべきなのだ。数時間、二人だけで過ごしていたからわかる。桃子が心の底からなのはのことを心配していたことを。本当は誰よりもなのはのことを探しに行きたがっていたことを。 そんな彼女の想いをぶつけるように、桃子はなのはを優しく抱きしめた。「本当に心配したのよ。なのはが無事でよかった」 その言葉が桃子の想いの全てだった。ただ黙ってじっと待ち続けた桃子が見せる安堵の表情。それを受け止めるなのはの申し訳なさそうな表情。それを見てようやくアリサはほっとした。後はすずかが戻ってくれば明日からまた、楽しい温泉旅行の続きが行える。そう思っていた。 しかしすずかが旅館に戻ってくることはなかった。朝方に見つかったすずかは忍の判断で屋敷に連れ戻された。それに不満を覚えたアリサだったが、それでも学校が始まれば元の日常が帰ってくると信じていた。どこかなのはが落ち込んでいる様子も気になったが、それも昨夜のことが尾を引いているだけですぐに元の元気な姿を見せるはずだ。だからアリサはそんな二人の分まで努めて明るく振る舞った。 ……しかし時が過ぎてもアリサの思い描いた未来にはならなかった。学校が始まってもすずかは登校してこない。なのはも日に日にため息の数を増やしていく。この時になってアリサはようやく、あの夜、なのはがすずかと外で会ったことに気づいた。そこで何かがあり、すずかが学校に来なくなり、なのはの元気がなくなったのだ。 そう当たりを付けたからこそ、二人に対してアリサは苛立ちを募らせた。何故、二人とも自分に相談しないのか。相談してくれれば一緒に悩んであげることぐらいはできる。もしかしたら一気に解決させてあげられるかもしれない。それなのに二人は一向に悩みを話す気配はない。なのはは常に上の空で、すずかに至っては電話にも出ないし、メールの返事もよこさない。 アリサは屋上の扉をチラチラと目線を送る。もしかしたら怒ったなのはが自分を追い駆けてくるかもしれない。喧嘩になるのは嫌だが、それでも今の落ち込んでいるなのはの姿を見るよりはマシだ。しつこいぐらいに扉の方に目線を送るアリサだったが、一向に姿を現す気配がなかった。 来るかどうかわからないなのはを待っていては昼休みが終わってしまう。アリサは仕方なく弁当のふたを開けると、一人で弁当を口にする。(……不味い) いつもは冷めていてもとても美味しく感じるお弁当。だが今日はひんやりとした触感がアリサを不快に思わせた。だがアリサは昔、この味の弁当を毎日のように食べていた。 それはなのはやすずかと仲良くなる前のことだ。二人と仲良くなる前、アリサは一人、孤立していた。その主な原因は彼女の容姿だろう。子供というのは無邪気だが、時としてそれが残酷でもある。アリサ・バニングスという名前の通り、彼女は外国の血が流れている。母親こそ日本人ではあるものの、彼女は父親の血が色濃く出てしまった。綺麗な金の髪に日本人よりも白い肌。大人になれば美人になるのは間違いないが、子供は自分たちとは違う存在を受け入れない。そのため彼女は保育施設に預けられていた時も一人で過ごすことが多かった。 それでもアリサの方から歩み寄ろうとすれば、その状態はすぐに打開されただろう。しかし彼女は大会社の社長令嬢である。幼いながらにそのことを理解していたアリサは、無駄にプライドが高かった。何でも自分の思い通りにならないと気が済まない高飛車な性格。今でこそ他人を思いやる心を持ったアリサだったが、幼い頃は本気で自分を中心に世界が回っていると思っていた。だからこそ彼女は周りの子供が自分より低レベルだと決めつけ、自ら接しようとは思わなかった。 そんな高飛車な性格のまま小学校に入学したアリサは、やはり一人で過ごすことが多かった。初めのうちはクラスメイトに声を掛けられるも、アリサはまともに相手にしようとはしなかった。そうしているうちにクラスはいくつかのグループに別れて、大多数の生徒はどこかしらのグループに所属していた。そんな中で自分と同じように孤立している存在が一人だけいた。それが月村すずかである。 休み時間になると決まって本を読み、誰かに誘われてもやんわり断る物腰が穏やかな少女。だがその節々に感じる他人を拒絶する態度。そんな部分が自分に似ていると感じたアリサは、気がついたらすずかのことを目で追うようになっていた。そこから実際に話してみたいと思うまで、大した時間はかからなかった。 だがここで問題なのは、どうやって声を掛けるかである。普段、周りの子供をあしらい続けたアリサにとって、自分から誰かに声を掛ける方法がまるでわからなかった。 そんなアリサの目に留まったのは、彼女がいつも付けているカチューシャ。特に何の変哲もないカチューシャだが、毎日つけてきているということはきっとお気に入りなのだろう。そこから話を広げればいい。そう決意したアリサはすぐに行動に移した。「ねぇ、そのカチューシャ貸しなさいよ」 だがアリサは言葉を知らなかった。家族以外とコミュニケーションを取ることがなかったアリサの言葉は傍若無人で唯我独尊だった。「いや」 仲の良い相手ならともかく、この時の二人はただのクラスメイトという間柄だ。さらにすずかのカチューシャは両親からプレゼントされた大切な物。それを貸すという選択肢はすずかの中には存在しなかった。だから彼女は手にした本から視線を移すことなく、アリサの命令を断った。 それに激高したのはアリサである。アリサは今まで、欲しいものはなんでも手に入れてきた。アリサが頼めばバニングス家に仕える使用人は何でも用意した。だからこそ彼女は、自分が頼めば誰もがそれを渡すと考えていた。彼女にとって物事を断られるのは想定外のことだったのだ。 アリサは実力行使に出る。すずかの頭からカチューシャを奪い取ると、そのまま走り出す。「返してっ」 大事なカチューシャを取られたとなっては、無視するわけにはいかない。すずかは慌ててアリサの背中を追う。そんなすずかの様子がアリサにはとても面白おかしく思えた。こんなどこにでもあるようなカチューシャを取り戻すために彼女は必死で追い掛けてきている。その様がとても滑稽でアリサは当初の目的を忘れてすずかをからかって遊ぶことにした。「アハハ。返して欲しかったら力づくで奪い取りなさい」 すずかを翻弄するようにカチューシャを彼女の目の前で左右に動かす。それに掴みかかるようにするすずかだが、アリサは寸前のところで避けていく。 そうして楽しくなっていたアリサは、自分の傍に近づいてくるもう一人の影に気がつかなかった。 辺りに響く乾いた音。その音が自分の頬がぶたれた音だと気付くのにアリサは数刻の時間を要した。叩いたのは栗色の髪をしたクラスメイト、高町なのはである。「な、何するのよ!」 赤く腫れた頬を抑えながらアリサはなのはに向かって叫ぶ。そんなアリサに対して、なのはは涙を浮かべながら悟らせるように口にした。「痛い? でも大事な物を取られちゃった人の心はもっともっと痛いんだよ」 その言葉はアリサの心にとても響いた。自分が思いついたこともない考え方。それがアリサには新鮮だった。 ……だが、それだけだ。いきなり叩かれたアリサはなのはの言葉に耳を貸さず、彼女に掴みかかる。互いに叩きあったり、髪の毛を引っ張り合ったり、二人は激しい争いを始める。「止めて!」 しばらく喧嘩し合っていたアリサとなのはだったが、それを止めたのは意外にもすずかだった。そこでようやく担任がやってきて、喧嘩を諫めた。そのことがきっかけで三人は互いに意識し合い、気づいた時には親友と呼べる間柄になっていた。その関係はあれから二年経った今でも続いている。(昔のことを思い出すなんて、どうかしてるわね) アリサはいつもより不味く感じた弁当を食べ終わると、ベンチから立ち上がる。結局、なのはが屋上にやってくることがなかった。すずかに至っては学校にすら来ていない。これで自分まで落ち込んでしまったら、本末転倒だ。 アリサは心底、二人に感謝していた。二人がいなければ、アリサは今でも昔のまま、他人を寄せ付けない嫌な子供だっただろう。今でもクラスの中で浮いた存在だっただろう。きっとお昼に弁当を美味しいと感じることもなかっただろう。 だからこそ、そんな二人が困っているのなら絶対に助けなければならない。そうでなければ、二人の親友を名乗る資格はない。(待ってなさいよ。なのは、すずか。このアリサちゃんが二人の悩みを丸ごと解決してあげるんだから) アリサは決意新たにまずは、どうやって二人の悩みを突き止めるかをチャイムが鳴るまで考え続けるのであった。2012/8/5 初投稿