学校が終わり帰路に着いた高町なのは、どうにも家に帰る気分にならなかった。普段の彼女は寄り道なんて真似はしない。だが今の自分の暗い表情を想像し、それを家族に見せたくないと思った彼女は寄り道をすることにしたのだ。 そうしてやってきたのは臨海公園。海の見えるベンチに座り、沈んでいく夕陽を眺めながらアリサとすずかのことを考える。自分とは違う形で魔法という存在に触れ、魔女と戦うすずか。自分のことを含めてすずかについても隠し事をしなければならないアリサ。そんな二人の親友のことを考え、なのはは心を痛めた。 二人のことを色々と考えているうちに、なのはは三人が初めて話した日のことを思い出す。 小学校に入学したてのなのはは、とても淋しがり屋だった。幼少期、士郎の事故で家族に構ってもらえなかった淋しさ。そんな家族のために自分ができる唯一のことが我儘を言わないことだけだった悔しさ。そうした二つの思いが幼い頃のなのはを支配していた。そのため士郎の怪我も完治し、家族がなのはに笑顔を向けるようになった頃には、孤独感が付きまとうようになっていた。 士郎も桃子も恭也も美由希も声を掛ければ優しく笑顔で返事をしてくれる。朝御飯と夜御飯はいつも家族五人で食べている。それなのにも関わらず、なのははそんな家族の輪に入りきることができないでいた。それは彼女が家族の危機に直接立ち合っていないから。他の皆が協力して高町家を守ろうとしている中で、自分だけが役立たず。できることはそんな家族の足を引っ張らないことだけ。そうしている間にも自分以外の家族は絆を深めあっていた。だからこそなのはは、自分だけ取り残されてしまったと感じていたのだ。 そのためなのはは、小学校では友達を作ることに躍起になっていた。誰に対しても笑顔を向け、誰に対しても優しく接する。そんないい子になろうとなのはは必死だった。 だから気がついた時には、なのははほとんどのクラスメイトと交友を深めていた。そんな中で彼女がまだ一度もまともに話すことができないでいる人物が二人いた。それこそがアリサ・バニングスと月村すずかである。 アリサはとても高圧的な態度をとる子だった。他のクラスメイトに話しかけられても自分目線でしか話すことができない。頼みごとをしようものなら、罵倒が返ってくる始末だ。 すずかはその逆でとても静かなタイプだった。休み時間や昼休みは常に本に目を通している女の子。だがそれ故に、どんなタイミングで話しかければいいのか、なのはには掴むことができなかった。 そんな二人に共通していたのは、仲の良いクラスメイトがいないことだった。アリサはあのような性格で他人を寄せ付けない。すずかは表面上は穏やかな態度をとっているが、自分からは誰かに話しかけようともせず、放課後も一人ですぐに帰ってしまう。だからだろうか、入学式から一ヶ月も経てば二人の周りにはほとんど人が寄り付かないようになっていた。(どうして自分から他人を遠ざけるようなことができるんだろう?) 彼女たちの周りに人が集まらなくなったのは、二人の態度が原因なのは明らかだ。だがなのはにはそんなことをする理由がまったく考えられなかった。彼女にとって孤独とは一番辛く悲しいことだ。あの時の悔しさ、そして淋しさは二度と感じたくない。だがアリサとすずかは自分からそうなる状況を作り出している。それがなのはには不思議でしょうがなかった。 気がつくと、なのはは二人の姿を目で追うようになっていた。なのはは二人のことを放っておけなくなっていた。例え自分の意思で孤立しようとしているのだろうと、なのはにはそれを許容できない。だからなのはは二人とじっくり話してみたかった。それが仲良くなりたいと思うようになるまで、そんなに日数は掛からなかった。 だが自ら孤独であろうとする二人には、そのきっかけを見つけることが難しい。だからなのはは可能な限り、二人の動向を伺っていた。 そして二人と話す機会が巡ってきたのは、それから数日後のことだった。屋上のベンチで本を読んでいたすずか。そんなすずかに対し、アリサが近づいていき何かを話しかける。その光景はなのはにとって青天の霹靂だった。 今、自分が一番気になっている二人。それが何かしらを話している。なのはが知る限り、二人は口をきいたことがないはずだ。そもそも孤独を貫き通していたアリサから声を掛けたこと自体、なのはにとってはショッキングな出来事だった。……しかしそれ以上にこれはチャンスだ。今なら二人の会話に自然に混ざることができるかもしれない。 そう思った矢先、アリサがすずかが頭につけたカチューシャを奪う。「返してっ」「アハハ。返して欲しかったら力づくで奪い取りなさい」 突然のことに一瞬、茫然としたすずかだったが、すぐにアリサからカチューシャを奪い返そうとする。そんなすずかの様子をさも滑稽だと言わんばかりの笑みを浮かべながら、アリサはかわし続けた。 そんな二人の様子を見て、なのはの足は自然と速くなっていた。なのはは他人の気持ちが理解できる子供だった。他人の気持ちが理解できれば、何をすれば喜ばれ、何をして欲しくないかがなんとなくわかる。それは必死で高町家を支えている自分以外の家族の気持ちを知るために身につけたなのはの処世術だった。 だからこそなのはは二人の間に割って入り、アリサの頬を思いっきりぶっ叩いた。 頬を抑えながら茫然とするアリサ。だがそれはなのはも同じだった。アリサの頬を叩いた手のひらはジンジンと痛む。ぶたれたアリサはもっと痛く感じているだろう。「痛い? でも大事な物を取られちゃった人の心はもっともっと痛いんだよ」 だがなのはには、この場で一番痛い思いをしているのは自分でもアリサでもなくすずかであると指摘した。それはなのはが過去に感じた経験則に基づく台詞だった。 理不尽な交通事故で士郎が入院し、家族が自分を置いていった。自分の大事なものが目の前から消えた喪失感。それは辛く、淋しく、そしてなのはの心を強く痛めつけた。そんな経験を誰にもさせたくない。少なくとも自分の見ている前では絶対に許せない。 だからこそ、なのはは言葉より先に手が出てしまったのだ。そして一度、手を出してしまえば相手から返ってくるのも言葉ではなく暴力だ。何をされたか理解したアリサは、なのはを強く睨みつけると殴りかかってきた。 こうなってしまうともう止まらない。なのはとアリサには理性というものが吹き飛んでしまっていた。だからこそ二人は互いに涙を浮かべながら、ただただ言葉のない喧嘩を続けた。「止めて!」 それを止めたのは、すずかだった。その叫び声を聞いて手を止めたなのはとアリサ。ちょうどそのタイミングでやってきた担任の教師に仲裁され、その日の喧嘩は終わった。 翌日、なのはにはアリサに対してはやり過ぎてしまったという反省もあり、学校に着いてすぐに謝った。アリサの方がその件でなのはに謝ることはなかったが、すずかには頭を下げていた。すずかはすずかで、自分のせいで二人が喧嘩をする羽目になったことに対して謝り、なのはにはそれと同時に感謝の言葉も告げた。それから三人は互いに意識するようになり、自然と会話も増え、友達になっていったのだ。(あれ? そういえば……) そうして過去の思い出に浸っていたなのはは不意に気づく。自分がすずかと一度たりとも喧嘩したことがないことに。 アリサとは何度も衝突していた。初めての喧嘩の時ほど大きなものではなかったが、ちょっとしたことで何度もやりあった。だがすずかと喧嘩になったことは一度もない。なのはの知る限り、アリサとも喧嘩になたのは最初の一件だけだ。 そのことに気付いた時、同時になのははあることに気付く。(もしかしてすずかちゃん、いつもわたしやアリサちゃんに気を使ってた?) 一度気がついてしまうと、思い当たる節がどんどん湧き出てくる。三人で遊びを決める時、すずかは自分から意見を言うことは少なかった。大抵、アリサや自分の意見に対して賛成か反対を告げるだけ。彼女自身からやりたいことを口にすることは全くと言っていいほどない。(わたしって、きちんとすずかちゃんのお友達をやれていたのかな?) 思ってからなのははその考えを否定する。自分はすずかのことを友達だと思っている。アリサも含めて唯一無二の親友。何があっても一生友達でいられる大事な存在。少なくともなのははそう思っている。 ……だけどすずかはどうだろう? すずかには自分やアリサ以外にはそこまで親しい友達はいない。だけど元々、すずかは他人を拒絶していた。今でこそ自分たちとは仲良く話しているが、他のクラスメイトに対してはまだどこか距離を感じるような時がある。 もしすずかにとって自分やアリサが他のクラスメイト同様、いてもいなくても変わらない存在だと思われているとしたら……。「そんなの嫌なの!」「なにが嫌なの?」 思わず夕日に向かって叫ぶなのは。そんな叫びに返事の声が聞こえてきたことに驚き、なのはは背後を振り返る。そこにはゆまと杏子の姿があった。 ☆☆☆ 佐倉杏子は悩んでいた。 ラウラとの戦いの傷が癒えた杏子は温泉宿を引き払い、次の町に向かうつもりだった。新米とはいえこの町にはすでに魔法少女はいるし、魔導師やジュエルシードといった未知の存在もある。自分ひとりなら情報収集も兼ねて状況をかき回すのも面白いとは思ったが、ゆまの安全を考えるとさっさと次の町に移動した方が良いと考えていた。 だがそのことに反対したのは、他でもないゆまであった。ゆまはもう一度、フェイトと話をしてみたかった。杏子を巻かしたことに対する文句ではない。ただ自分と同じ歳ながら戦いに身を置いているフェイトのことが気になってしょうがなかったのだ。 ゆまは一度言い出したらそう簡単には意見を曲げない。そのことを知っている杏子はため息をつきながらも、ゆまのフェイト探しに付き合うことにした。「キョーコ、たい焼き買ってきたよ~」 そうして二人は連日のように海鳴市を歩き回り、今は臨海公園に来ていた。移動販売の車でたい焼きを買ってきたゆまは満面の笑みを浮かべながら杏子に駆け寄ってくる。杏子はたい焼きの入っている茶色い袋を一つ受け取ると、ゆまの横に並んで歩き出す。 中を覗くと、そこには十個のたい焼きが入っていた。そんな袋が杏子の手の中だけではなく、ゆまも持っている。杏子がゆまに買いに行かせたたい焼きの数は二十一個。それは移動販売のたい焼き屋で売っている具の種類と同じ数だった。「なぁゆま、もうそろそろ諦めたらどうだ?」 杏子は袋から無造作にたい焼きを一つ取り出しながら尋ねる。数日はゆまに付き合った杏子であったが、そろそろこの町から離れなければと考え始めていた。魔女ラウラを倒した時にその傍にいなかった杏子ではあったが、それでもジュエルシードから放たれた魔力の柱を見ることができた。それ自体はきちんと封印されたので問題はない。 しかしその魔力につられ、今、海鳴市には無数の魔女が集まりつつあった。幸い、魔女と遭遇することはなかったが、まだ体力の回復しきっていない今の自分がどこまで戦えるかわからない。だからこそ、海鳴市が魔女の巣窟となる前に脱出しなければと焦っていた「そんなの嫌に決まってるじゃん。わたしはフェイトにどうしても尋ねたいことがあるんだから」 ゆまがフェイトに尋ねたいこと、それは魔法少女と魔導師の違いについてだ。杏子の口からフェイトが魔法少女ではなく魔導師という全く別物の魔法の使い手ということを聞かされたゆまは非常に強い興味を持った。だからフェイトの口から直接、魔導師とはどういうものか聞いてみたかったのだ。その点については杏子も興味はあったからこそ、ゆまのフェイト探しを認めていた。「そうは言っても、ここ数日、ずっと歩き通しだろ? いい加減、疲れてきてるんじゃないか?」 正確には歩きっぱなしなどという生易しいものではない。フェイトを探すのと同時に杏子はゆまに対してランニングを課していた。無理のないペースで走らせ、一時間おきに休憩は挟んでいたものの、それが毎日のように行われているとなると、子供であるゆまにはとても厳しいものだろう。「あのぐらい屁の河童だよ。それに今はこうしてお腹も満たされてるんだから大丈夫」 そう言うと、ゆまは袋の中からたい焼きを一つ取り出し、一口で飲み込む。一気に喉の奥に押し込むと、袋の中から新しいたい焼きを取り出し、さらに口の中に放り込んだ。「でもなゆま、おまえさっきからまっすぐ歩けてないぞ」 杏子の隣を歩いているゆまはまるで平均台の上に乗っているかのごとく、その身体を左右に揺らしていた。指摘されたゆまは意識してまっすぐ歩くようにするが、それでも身体が大きく揺れるのを抑えきることはできなかった。「口と違って身体は正直だな。今日はとっとと帰って風呂入って寝るぞ」「……わたし、まだ走れるもん」 納得できなかったゆまは頬を膨らましながら、杏子に訴える。「わたしはまだまだ余裕なの! 今からその証拠を見せてあげる」 ゆまは手に持っていたたい焼き袋を杏子に押し付けると、全力で走り出す。だがその速度は誰の目から見ても遅いと言えるものだった。しかも左右にふらふらしながら走っている。どうせ、放っておけばすぐに体力が尽きるだろう。案の定、ゆまはベンチの近くで足を止めていた。「おーい、もうバテたのかー?」 すぐに根を上げようとしたゆまをからかってやると、杏子は声を上げる。だがベンチに近づいてみると、そこにはゆま以外にもう一人の少女の姿があった。ゆまと同じような背丈。栗色の髪が桜色のリボンで結われている。町の探索を行っている時に見かけた白い制服を身に付けたその少女のことを杏子はよく知っていた。「……おまえ、どうしてここに?」「ゆまちゃん!? ……それに杏子さんも?!」「えっ? 二人とも知り合いなの?」 魔女ラウラの結界に囚われながらも、そこで出会うことのなかった魔導師と魔法少女。その二人をつなぐ一人の少女の手によって、ようやく再開を果たした。 ☆☆☆「すずか、入るわよ」 忍はすずかの返答を待つことなく、部屋の扉を開ける。家具が整然と並んだ広い洋室。全身を写す姿見には汚れひとつなく、衣服が収納された引き出しはきっちり閉まっている。カーテンが閉められているので少しうす暗くはあったが、とても整頓された部屋だった。 普段ならばそれも当然だろう。すずかが学校に行っている間、ノエルかファリンが毎日のように掃除をしている。だがここ数日は違う。すずかが部屋からほとんど出ない以上、彼女の部屋はまともに掃除を行うことができなかった。 それなのにも関わらず、すずかの部屋は整い過ぎていた。今のすずかの部屋には生活感というものがまるでない。どちらかといえば長い間、人の住んでいない物置のような空気。忍がすずかの部屋に入って最初に感じたのはそんな空気だった。 だがそんな部屋の中で、唯一、熱を持っている個所があった。部屋の中央に置かれたすずかのベッド。そこに敷かれた掛け布団が不自然に盛り上がっている。忍はそんなベッドの脇に腰かけると、布団の中で蹲っているであろう大切な妹に声を掛けた。「すずか、あなたにいったい何があったの?」 旅館の夜にすずかと話した時はこんな兆候はなかった。自分には隠しごとはしていたが、あの時のすずかは前だけを向いていた。その力強い瞳を信じたからこそ、忍はあの時、すずかを送り出したのだ。 だが次に目にしたすずかの姿は、忍の想像を超えるものだった。ノエルと共にすずかのことを見つけた時、彼女は一心不乱に暴れ続けていた。周囲の木々は不自然に折れ曲がり、それを為したであろうすずかの両手は血で真っ赤に染まっている。浴衣はボロボロに引き裂かれ、そこから覗く肌は無数の傷で赤く染まっている。自分で掻き毟ったのか、すずかの艶やかだった髪の毛は、まるでヤマンバを彷彿とさせるぐらいボサボサだ。 しかしそれらの事柄が瑣末のことに感じられるぐらい驚愕だったのは、彼女の瞳だ。血のような深紅でありながら、それと同時に深い闇を孕んだ黒い瞳。そんな瞳をしたすずかの姿に忍は思わず涙を流した。そんな忍のことなどまるで気付いていないのか、すずかはその場で暴れ続けている。 そんなすずかの姿は見ていられない。ノエルは忍のことも考え、すずかを押さえつけようと上からのしかかる。だが彼女の力だけではすずかを止めることができなかった。 それに一番驚いたのは吹き飛ばされたノエルではなく忍の方だった。夜の一族の力というものは各々の個性がある。その中ですずかは体力に優れていた。学校の体育では同学年のどの生徒よりも力が強く、素早い動きをする。それでも彼女はまだ子供である。大人と腕相撲などしようものなら何度やっても、すずかは勝つことができないだろう。 しかし今、すずかはなんなくノエルの身体を吹き飛ばした。もしノエルが普通の人間なら、今のすずかでも吹き飛ばせるかもしれない。だがノエルは夜の一族が作り出した自動人形なのだ。機械で作られた彼女が出す力は並みの人間を遥かに上回る。それ以前に機械の身体であるノエルは、普通の人間とは比較にならないほどの重さなのだ。まだ子供であるすずかが押しのけられるとは到底思えない。「ノエル、少しの時間でいいからすずかを押さえなさい」「……っ! 了解しました」 忍はすずかに向かって駆けていく。子供であるすずかが自分の全力以上の力をふるい続ければ、どんな悪影響かでるかわからない。だからこそ忍は涙を拭き、すずかに向き合うことにした。忍がなにをしようとしているのかをすぐに察したノエルは、その場ですずかを羽交い絞めにする。それを無理に引き剥がしたすずかだったが、一瞬でも彼女の動きを止められれば十分だった。 すずかの顔を正面から見つめた忍は、自身の魔眼がすずかに暗示を掛ける。動きを止め、深い眠りに就かせる暗示。暗示に掛けられたすずかは、特に抵抗らしい抵抗を見せずその場で意識を失った。 その後、家に連れ帰ったすずかは意識を取り戻してから一度も屋敷を出ていない。命じてすずかの部屋に運ばせた食事にも一度も手につけていない。いったいなにが彼女を変えてしまったのか、忍にはそれがわからず悔しかった。「……すずか」 忍は布団の上からすずかの身体を優しくなでる。忍の手が触れた瞬間、すずかがピクンと反応を示したが、その後は微動だにしなかった。「ねぇ、すずか。あなたが望むならもうこの屋敷から外に出なくてもかまわないわ。でもね、何も食べないでいたら身体を壊すわ。私たちは血を飲んでいるだけじゃあ、生きられないのよ。だからせめて、出された食事だけでも口にしてくれない?」 忍はすずかが毎晩、備蓄されている血液パックを吸っていることを知っていた。極論を言ってしまえば、血液だけでも夜の一族である自分たちなら生きていくことができる。しかしその代わりに大事なものを失わせてしまう。それは人間性。血に頼り、血に溺れ、血に染まる。血を吸わなければ体調を崩す夜の一族ではあるが、血の吸いすぎも問題なのだ。だからこそ、出された食事だけはきちんと口にしてほしかった。 忍がいくら語りかけても、すずかからの返答はない。そうしているうちに翠屋でのバイトの時間が迫ってくる。本当はバイトなど休んですずかの看病をしていたい。だが現状を打開する手立てが思いつかない以上、ここで一人で看病するよりも恭也に相談して、少しでも力づけて欲しかった。「ごめんね、すずか。私もう行かないと。また帰ってきたら、話の続きをしましょうね」 名残惜しむようにすずかのベッドを見つめる忍。だが布団はピクリとも動かない。そんな現状に深いため息をついて、忍はすずかの部屋を後にした。 ☆☆☆ 布団の中にいたすずかは、忍の言葉を一つひとつ噛み締めていた。しかし彼女には、その言葉に対する返事を持たなかった。 なのはを傷つけ、血を吸おうとした事実。そのことがすずかを臆病にしていた。自分に親しくしている人物に対して、どのような顔を向けていいのかわからない。そんなすずかが誰か言葉に対してまともに返事ができるわけがなかった。【すずか、キミはいつまでそうしているつもりだい?】 そんなすずかに対して、今度はキュゥべえが声を掛ける。頭に直接、語りかけてくるキュゥべえの言葉は、布団の中で耳を塞いでも入ってくる。忍やなのはとは違い、キュゥべえはすずかにとって守るべき対象ではない。だからその言葉は今のすずかにとってはただただ不快だった。【この町には今、ジュエルシードの魔力に気付いた魔女たちが集まってきている。そんな状況でこの町の魔法少女であるキミが寝込んでいたら話にならないだろう? いくらこの町には杏子やフェイト、なのはのような戦える少女たちがいるからって……】【……キュゥべえがなのはちゃんとも契約したの?】 なのはの名前を聞いてすずかは反射的に尋ねる。キュゥべえはずっと、新しい魔法少女を探していた。そのこと自体は問題ではない。だが新しい魔法少女というのがなのはとなれば話は別だ。 すずかの願いは強く在ること。その根底にあるのは、自分の大切な人を守りたいという思いがある。そんな対象であるなのはを危険な目に遭わすきっかけを作った存在を、すずかは許すことができない。それが例えキュゥべえであったとしても、すずかは糾弾するつもりだった。【それは違うよ。確かになのはの素養は素晴らしいものがある。だけどボクがなのはと初めて顔を合わせた時、すでに彼女はボク以外の存在と契約していたんだ】【……いったい、誰と?】【ユーノ・スクライア】【ユーノ?】 キュゥべえから聞かされた意外な名前に、すずかは思わず反芻する。ユーノというのは、なのはが見つけたフェレットの名前だ。森の中で怪我をして倒れたのをアリサと三人で保護し、そのままなのはの家で飼われている可愛いフェレット。その名前と同じ名前がキュゥべえの口から語られたことが、すずかには甚だ疑問だった。【そうか。すずかも知っているんだったね。そうだよ、あのフェレットがなのはと契約した存在、ユーノ・スクライアさ】 すずかの疑問を確信に変える言葉を紡ぐキュゥべえ。途端にすずかの心はどす黒い感情に囚われる。自分の前で何食わぬ顔でくつろいでいたフェレット。ずっと可愛いと思っていたのに、まさかそれがなのはを危険な戦いの場に招いていたなんて思いもよらなかった。【正直、彼についてはボクも知らないことが多くてね。おそらくジュエルシードを狙ってこの星にやってきたのだとは思うけど、それ以外の目的は一切不明なんだ。こんなこと、ボクたちがこの星に来てから初めてだよ】 キュゥべえが長々と講釈を垂れているが、すでにその言葉はすずかの耳には入っていなかった。(……許せない) すずかの心は、ユーノに対する怒りで支配されていた。自分の大切な親友を危険に巻き込んだ罪。それは到底許されるものではない。 まだなのはと顔を合わせる勇気をすずかは持てていない。彼女を襲おうとし、傷つけてしまった自分の罪。それと向き合うことはできない。けれど、こうして自分が寝ている間に大切な親友が危険な目に遭うことをすずかは許容できなかった。 だからすずかは布団の外に出る。そしてベッド脇の引き出しから自身のソウルジェムを取り出す。半分ほど黒く濁り、最初の美しい赤紫色を失わせた穢れた宝石。だがそんな色のソウルジェムが今の自分には相応しいとすずかには思えた。「……ねぇ、キュゥべえ。どうすればなのはちゃんを戦いのない世界に連れていくことができるかな?」 すずかは窓際に佇んでいるキュゥべえに尋ねる。数日ぶりに出したすずかの声は酷くしゃがれた声だった。だが仮に普段通りの声が出たのだとしても、そこに込められた黒い意思は変わらないものだろう。「それは難しいと思うよ。彼女はすでに力を手にしてしまった。一度手に入れた力は、そう簡単に手放せるものじゃない。それこそ彼女が戦う必要のない状況を作り出さない限り、それは不可能だろうね」「……でも何かしらあるんじゃないのかな?」 キュゥべえの返答にすずかは不満げに答える。そんなすずかの様子にキュゥべえは迂闊な言葉を言うことはできないと本能的に察した。「……そうだね。ユーノの目的はジュエルシードを集めることだ。だからジュエルシードをなのはの代わりに集めてあげればいいんじゃないかな」 だがそれと同時にチャンスだとも思えた。今まではすずかに対して積極的にジュエルシードを集めるようにキュゥべえは言うことはできなかった。魔法少女にとってジュエルシードを集める必要は本来ない。だが彼女自身がそれを求める状況になれば話は別だ。「ジュエルシード?」「キミが初めて魔法少女になって、魔女を倒した時にグリーフシードと一緒に落ちてきた青い宝石のことさ」 その言葉を聞いて、すずかは思い出す。魔女バルバラを倒し、アルフが持ち去った青い宝石のことを。そして魔女ラウラを赫血閃で切り裂いた時、その体内に存在した青い宝石のことを。「ボクにはジュエルシードが何個あるかはわからないけど、おそらく十個以上はあるだろうね。それにフェイトや杏子もジュエルシードを集めている。なのはたちが何個のジュエルシードを求めているのかはわからないけど、もし全部だとしたら場合によっては彼女たちとも戦うことになるかもしれない。すずかはそれでもいいのかい?」 キュゥべえはすずかを試すつもりでそう問いかける。「……関係ないよ。だってジュエルシードを集めているのはなのはちゃんじゃなくて、ユーノなんでしょ?」 だがすずかからの返答は、キュゥべえの予想の斜め上をいくものだった。 キュゥべえは言った。「ユーノ」がジュエルシードを集めていると。そしてそれがなのはの戦う目的なのだと。ならばその目的をなくしてしまえばいい。ジュエルシードを集めることなく、なのはから戦う目的を奪う方法。「なら、ユーノがいなくなれば、きっとなのはちゃんが戦うことなんてないよね」 普段のすずかなら、すぐにその方法に大きな矛盾を孕んでいることに気付くことができただろう。しかしソウルジェムが黒く穢れ始めた今のすずかには、自分が考えているこの方法こそが、なのはを救う唯一無二の手段だと信じて疑わなかった。2012/8/15 初投稿、および一部シーンの言葉回し微修正