工場の中でまどかは目の前で起きている光景をただ眺めていた。生気のない瞳で彷徨い歩く十数人の人々。そのうちの一人がバケツの中に洗剤を注ぐ。さらにもう一人がまた別の洗剤を注ごうとする。 まどかにはその洗剤に見覚えがあった。それは普段から、鹿目家で使われているごく普通の洗剤だ。だが問題はその組み合わせだ。塩素系の漂白剤と酸性の洗浄剤、各々で使う分には問題のない代物だが、一度混ざると有毒ガスが発生する。だから取扱いには気を付けるようにと詢子に言われていた。 そして今まさに、まどかの目の前で二種類の洗剤が混ぜられようとしていた。「ダメ……それはダメ!」 そのことに気付いたまどかは、慌ててそれを止めようと駆け寄ろうとする。だがそれを仁美に阻まれた。「邪魔をしてはいけません。あれは神聖な儀式ですのよ」「だって、あれ危ないんだよ! ここにいる人たち、皆死んじゃうよ!!」 まどかは必死に叫ぶ。だが仁美はこの事態をきちんと理解していないのか、うっすらと笑みを浮かべているだけだった。「そう、私たちはこれから皆で素晴らしい世界に旅に出ますの。それがどんなに素敵なことかわかりませんか? 生きている身体なんて邪魔なだけですわ。鹿目さん、貴女もすぐにわかりますから」 そんな仁美の言葉に呼応するかのように、周囲の人たちは拍手を送る。まどかには目の前にいる仁美が、まるで仁美の皮を被った別人にしか見えなかった。口調こそ確かに彼女のものだが、その言葉の節々から感じられるものがまるで別人。そんな仁美に似た何かにまどかは触れられることさえ耐えられなかった。「離して!」 まどかは仁美の手を振り切ると、そのまままっすぐ走り出す。そしてバケツを中に入った洗剤ごと窓から外に放り投げた。(これでいい。これで皆、死ななくて済む) まどかがそう安堵しかけた時、背後から物音がし悪寒が走る。振り返ってみるとそこには、怨嗟の目を向けた人々が集まっていた。まるでゾンビのようなうめき声を上げながら、恨めしそうにまどかに近寄ってくる人々。その姿にまどかの危機感は最高潮へと達する。壁に追い立てられ、そのまま壁伝いに逃げていくまどか。そうしていると、まどかの手がドアノブに触れた。とっさにドアノブを回しその中に逃げ込むと、鍵を掛け外の人々が入って来られないようにする。だが外にいる暴漢たちはそれでも諦めようとはせず、扉を突き破ろうと何度も叩く。「どうしよう、どうしよう」 まどかは半ばパニックを起こしながらも出口を探す。そんなまどかをあざ笑うかのように、異形の怪物が姿を現す。長い髪を赤いリボンでツインテールに結んでいる少女の姿。長い前髪で顔は見えないが、一見すればどこにでもいるような黒髪の少女だ。しかしその身体が彼女のおかしさを際立てた。彼女の身体のあるべき場所にはブラウン管のモニターのようなものが備え付けられている。そのモニターの中には、彼女の名前がラテン文字で記されている。H.N. Elly(Kirsten)――エリー、それが目の前にいる魔女の名前だった。その姿を見てまどかは気づく。すでにこの工場はエリーの結界内に取り込まれていたということに。そしてまどかを囲むように魔女の使い魔たちが群がってきていることに。「嫌だ、そんな……ッ!」 天使の輪っかを乗せた白い人形のような使い魔――ダニエル&ジェニファーがまどかの身体に纏わりつく。人形ほどの大きさしかない使い魔に掴まれたまどかは身動きが取れなくなる。「嫌だ、助けて! 誰かぁぁぁぁああああッ!!」 まどかが叫ぶと同時に、その身体は虚空に砕けた。 ☆☆☆ まどかの危機を察知したマミはほむらだけではなく、さやかにも捜索を頼んだ。本当なら一般人であるさやかに頼むのは気が引ける。しかし電話が切れた時の様子から、もはや一刻の猶予もないと考え、彼女にも伝え、一緒に探してもらうことにしたのだ。「いい? 美樹さん、もし鹿目さんの居場所を見つけたら、すぐに私か暁美さんに連絡するのよ」「わかってますって。あたし一人でどうこうしようとは思いませんから」 さやかは走りながらマミに返事をする。実際、さやかは一人で魔女に戦いを挑む気などさらさらなかった。まださやかが魔法少女になって一時間ほどしか経っていない。その間に自分の魔法少女として使える魔法はわかったが、戦闘面ではマミやほむらほど動けるとは思っていなかった。 さやかは自分の手の中に収まったソウルジェムを見る。少し黒く濁ったソウルジェム。ここに来る前、一度だけ自分の魔法を使ってしまった代償だ。さやかの魔法は燃費が悪い。たった一度、魔法を使っただけで目に見えて濁ってしまう。おそらく十回も同じ魔法を使えば、ソウルジェムは濁りきってしまうだろう。 だからこそ、さやかはキュゥべえにも決して一人で戦おうとするなと言われていた。素人である前に、さやかの魔法は脆弱なのだ。さやかの願いが彼女の魔法の在り方を決定づけた。さやかは例えどんなに魔法少女としての経験を積んでも、一人では戦うことはできない。彼女の祈りがさやかに与えたのは、そんな魔法だった。 だがそこに後悔なんてあるわけない。戦闘面での不利はあるが、この魔法があるからこそ救うことのできる人はいる。――先ほどの恭介のように。「――マミさん、実はあたし……」 さやかは自分が魔法少女になったことをマミに明かそうとした。だがその言葉は途中で止まる。近くで魔女の結界の反法を感知したからだ。「マミさん。見つけました、たぶんここです」「なんですって!? 美樹さん、貴女、今どこに?」 さやかはマミに自分のいる場所を伝える。「わかったわ。そこならたぶん暁美さんの方が近いでしょうから、貴女は暁美さんに連絡してちょうだい」「いえ、それはマミさんにお願いします。あたしは今から、結界の中に先に突入しますんで」「なっ……!? 美樹さん、何を考えているの? 貴女は魔法少女じゃないのよ。それなのに一人で結界の中に入るなんて。今日はキュゥべえも一緒じゃないんでしょ。無茶もいいとこだわ」 慌ててさやかを引き留めようとするマミ。だがさやかの心はどこか落ち着いていた。「大丈夫ですよ、マミさん。あたしも魔法少女になったんですから。……というわけで転校生への連絡、お願いします」「えっ? ちょっと美樹さん、美樹さん!?」 マミの呼びかける言葉を無視してさやかはケータイを切る。「それじゃいっちょ、まどかを助けに行きますか。できることなら、魔女と出会いませんように」 そう言って、さやかは結界の中へと飛び込んでいった。 ☆☆☆ まどかはエリーが作り出した結界の中を漂っていた。全身に力が入らず、ただただ結界内を揺蕩っている。まるで海の中にいるような感覚。辺りには無数のモニターと一輪のメリーゴーランド。その馬の背や使い魔の頭に乗せられたモニターに、まどかの半生が映し出される。彼女が今まで生きてきた証。その細部に至るまで、包み隠さずモニターに映し出されていた。 人生というのは選択の連続である。どちらにお菓子を買うかという小さいものから、自分が将来目指すべきものは何にするかという重要な物まで千差万別だ。だがそうした選択肢の積み重ねが今の自分を作り出している。 しかしその全てが正しかったと思えるわけではない。中には「ああしとけばよかった」と思える部分もあった。そういった後悔している選択肢は二度と取り戻せない。だがモニターの中の自分は時として、実際とは間逆の選択を選んでいるものもあった。そうして得た幸せや笑顔。それを延々と見せられたまどかは、今の自分を否定されている気分に陥る。(そっか。やっぱりあの時はああしていればよかったんだ) 一度、そう思ってしまうと、後悔していない選択肢も間違っていたような気がしてくる。それが結界の作用とは気づかず、まどかの心は深い闇へと沈んでいく。「キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」 エリーの甲高いの笑い声が辺りに響く。まどかの四肢に群がるダニエル&ジェニファー。力なく漂っているまどかの手足を、ゴム人間顔負けに伸ばしていく。そのまま放っておけば、彼女の身体はズタズタに引き千切れるだろう。しかしまどかは抵抗しようとしなかった。もう自分はどうなってもいい。いっそ、仁美と一緒に幸せの国にでも行けたらいい。そんな風に考えていた。 だから突然、四肢に群がったダニエル&ジェニファーが消滅していき、目の前のモニターに見知った青い髪の毛の少女が現れた時、それが誰だかわからなかった。「まどか、大丈夫?」「……さやか、ちゃん?」 さやかはまどかに返事をする代わりに、モニターの向こうから手を差し伸ばされる。まどかはその手を恐る恐る握ると、強い力で引っ張られモニターの中に引き込まれる。まどかの身体はそのままモニターを潜り抜け、さやかの元へと飛び出していく。 実のところ、先ほどまでまどかはモニターを介して自分の過去を見ていたわけではなかった。まどか自身がモニターの中に捕らわれていたのだ。その呪縛から解放されたまどかは、先ほどまで自分が何を考えていたのかを思い出し身震いする。そんなまどかを気遣うように、さやかは自分の背中に付けていたマントをまどかに掛けると、その身体をお姫様抱っこの要領で持ち上げた。「さ、さやかちゃん!?」 思いもよらないさやかの行動に戸惑うまどか。しかしさやかはそれに意を介そうとしなかった。「さぁてと、それじゃあまどか、ここから逃げるよ。しっかり捕まっててね」 そう言うや否や、さやかはまどかを抱えてジャンプする。とても普通の人間ではできないような跳躍力。そんなさやかを追いたてるダニエル&ジェニファー。さやかはダニエル&ジェニファーを蹴り飛ばしながら結界の出口を目指して駆けていく。 突然の展開に戸惑うまどかだったが、次第に冷静さを取り戻し、さやかの服装がいつもと違うことに気付く。白と青で彩られた騎士装束。マントで隠されている部分は彼女の白い肩を剥き出しにしているオフショルダーの上着。斜めにラインを取ったスカートはさやかの活発な性格を如実に現している。そしてヘソの辺りには青く輝くソウルジェムが収まっていた。「さやかちゃん、もしかして魔法少女になったの?」「気づくの遅ッ! ……まぁあんな状況じゃあ仕方ないけど」 さやかは実に軽い口調で告げる。だがまどかには、何故さやかがそんなあっけらかんな態度でいられるのか理解に苦しんだ。「どうして? 昨日、ほむらちゃんに魔法少女になっちゃダメって言われたばかりなのに……」「あはは……。でもマミさんが言ってたじゃん。覚悟があればあとは自由だって」「でも危ないんだよ! 一歩間違えたら死んじゃうんだよ!!」 震える声で指摘するまどか。思い出すのはシャルロッテに食べられかけたマミの光景。もしあのままマミが死んでしまっていたらと想像するだけで涙が溢れそうになる。もしさやかがそんな目に遭ってしまったら、まどかには耐えられる自信はなかった。「……まどか。別にあたしは軽はずみな気持ちで魔法少女になったわけじゃないよ。どうしても叶えたい願いがあったから。そのためになら、その後の人生なんて犠牲にしても良いって思えたから」 さやかは真面目な顔をしてそう告げる。その顔を見たまどかは、寂しさを覚えた。時たまにほむらやマミに覚える距離感。魔法少女と普通の人間である自分との間にある超えられない壁。それを今、まどかはさやかに対しても感じてしまったのだ。だからこそまどかには、それ以上は何も言えなくなってしまった。「……本当にそうなのかしら?」 そんなまどかの代わりに辺りに響く第三者の声。それと同時にさやかたちの背後に近づいていたダニエルとジェニファーが爆散する。突然の爆発に思わずその場で足を止めるさやか。その爆炎の中にはほむらの姿があった。「遅かったじゃない、転校生。……それでさっきのはどういう意味なのさ」「あなたは……」 ほむらは何かを言い掛け、言葉に詰まる。「……いえ、別にあなたがどうなろうと私には関係ないわ。あなたはさっさとまどかを連れて結界の外に逃げなさい。こいつは私が狩るから」 その代わりに出てきたのは、現状に対する指示とも呼べる言葉。ほむらはさやかにそれだけ告げるとその場から消え去った。本当ならほむらの言う通り、すぐにでもまどかを連れてこの結界を抜け出さなければならないだろう。だがほむらが去り際に見せた瞳の色がさやかの心を掴んで離さなかった。 まるで憎らしい邪魔者を見るかのような黒い瞳。さやかにはそんな目を向けられる心当たりは全くない。確かに彼女の言いつけを守らず、魔法少女になったことは、ほむらからすれば気にいらないことだろう。だがそれだけであんな黒い感情をぶつけられるとは思いもよらなかった。 さやかは思わず唇を噛み締める。さやかは今まで、自分が魔法少女ではないからほむらの考えが理解できないのだと思っていた。――だがそれは違った。魔法少女になったことで、さやかにはそれまで以上にほむらのことがわからなくなってしまったのだ。「さやかちゃん?」 いつまでもほむらがいた場所を睨みつけていたさやかに、まどかは心配そうに声を掛ける。その声に気付いたさやかは、今、自分がやらなければならないことを思いだした。「ごめん、まどか。少しボーっとしてた。魔女の結界の中だってのに、危機感ないな、あたし」「ううん、それはいいんだけど……」「とりあえず転校生の言う通り、まどかはあたしが責任を持って安全なところまで送り届けるからさ。大船に乗ったつもりで安心してよ」 さやかは再び、結界の外に向かって走り出す。その胸の中でまどかは、先ほどの二人のやり取りを思い出していた。さやかに向けるほむらの瞳、ほむらが去った場所を見るさやかの瞳。自分の知らないところで何か見えないやり取りをしていたような二人。(……わたし、一人だけ取り残されちゃったのかな?) 魔女や魔法少女のことを知っている知り合いの中で、自分だけが未だ魔法少女ではない疎外感。初めから魔法少女だったほむらやマミ。自分の願いを決めて魔法少女になったさやか。そんな彼女らに対して、まどかにはどうしても叶えたいと思える願いすらない。そんな強い思いを持てない自分に、まどかはもどかしさを感じていた。「ほい、到着っと」 その言葉で我を取り戻したまどか。いつの間にか結界から抜け出していたらしい。「それじゃああたしは結界の中に戻って転校生の手伝いをしてくるね」「待ってさやかちゃん」 すぐに結界に戻っていこうとするさやかをまどかは気づいたら呼びとめていた。「さやかちゃんは、キュゥべえに何をお願いしたの? やっぱり上条くんの腕のこと?」 まどかに思いつく限り、さやかがキュゥべえに叶えてもらいたい願いというのは十中八九、彼女の幼馴染である上条恭介の腕のことだろう。「……確かにそれもあるんだけど、厳密には違うかな?」「えっ?」 だからさやかの口から、遠回りとはいえ否定の言葉が出てきた時には驚いた。「もちろん最初はね、『恭介の腕を治して』って願うつもりだったんだよ。でもね、そう願う直前、ほんの少し前に知り合った女の子のことを思い出したんだ」「女の子?」「そう。小学三年生の女の子。その子はね、原因不明の病で足が動かないんだって。その子のことを思いだしたらさ、一度限りの奇跡を恭介にだけ使っちゃうのは不公平なんじゃないかって思ったんだ。だからあたしはこう願った。『どんな病も怪我も治せるようになりたい』って」 さやかの願い、それは奇跡の安売りだ。本来なら一回しか叶えられない権利の行使。だが限定的条件とはいえ、その権利そのものを得ることをさやかは願った。そしてキュゥべえはそれを叶えた。「実は願いを祈った後、キュゥべえに怒られたんだよね。突然、願いを変えるなってさ。本当ならさっきまどかを助けた時、派手に魔女を倒してみたかったんだよね。転校生の魔法はよくわからないけど、マミさんみたいに派手に魔女と戦ってみたかった。……でもあたしの魔法には攻撃手段がない。だって治すことを祈ちゃったんだから」 本来なら代償などなく、魔法の力を手に入れることができる。だがさやかは自身が得る魔法そのものを願ってしまった。だからこそ、彼女は願った魔法以外のものは何一つ得ていない。魔法少女になったのにも関わらず、武器らしい武器を作り出すこともできない。無限に物を持ち運びすることもできない。身体能力こそは強化されたが、それ以外は回復することしかできない魔法少女になってしまったのだ。「だけどあたしには後悔なんてないよ。ここに来る前、あたしの手で恭介の腕を治すことができたんだ。魔女と戦えなくたってこの力さえあれば誰かを助けることはできる。魔女との戦いだって、傷ついたマミさんや転校生のサポートに徹すればいい。――だから後悔なんてあるわけない」 さやかは力強く告げる。そんなさやかをまどかはまぶしく思えた。……いや、さやかだけじゃない。ほむらもマミも、まどかから見たらとてもまぶしくてたまらない存在だった。 マミは願いごとこそ考える時間がなかったと言っていたが、魔法少女になってからは「この町の平和を守る」という使命感の元、戦い続けいていた。 ほむらは理由こそ聞かされていないが、精一杯、何かのために頑張っている節があった。それがきっと彼女の願いに関係することなのだろう。 皆、何かしら強い思いを持っている。だけどまどかにはそれがない。何でも願いを叶えられると言われても、どうしても叶えたいと思える願いさえ浮かばないのだ。「……それじゃあそろそろあたし行くね。転校生のことだからたぶん大丈夫だと思うけど、万が一怪我していたらあたしの出番だからね」 そう言ってさやかは元来た道を戻っていく。そうして去っていく姿がまどかにはとても羨ましく、そして寂しく感じさせた。 ☆☆☆ ほむらはエリーと対峙して、奇妙な違和感を覚えていた。彼女は同じ時間を何度も繰り返している。その中で何度となく同じ魔女とも戦ってきた。目の前にいる魔女も、過去に幾度となく撃ち滅ぼしている。そのためほむらには魔女ごとにどういう攻撃を繰り出し、どこら辺に攻撃を仕掛ければ有効なのかが全てわかっていた。 ……にも関わらず、ほむらは攻めあぐねていた。そもそもエリーの使い魔、ダニエル&ジェニファー自体、ほむらが知っているものより数段強い力を持っている。時を止め、至近距離で手榴弾を爆発させてようやく倒すことができる二匹一対の使い魔。しかし過去の周回では、拳銃を一発当てれば倒すことができていた。 力を付けた使い魔が魔女になるように、魔女も人を喰らうことで成長する。だがそれにしても、エリーの力はほむらの知っているものとは違い過ぎた。エリーの急所にダイナマイトをいくら仕掛けても、ビクともしない。ワルプルギスの夜を除いて、魔女相手にこれほど苦戦を強いられたことは今までなかった。(この周回はイレギュラーが多すぎる) ほむらは内心で舌打ちする。目の前のエリーもそうだが、一番顕著なのは魔導師フェイト・テスタロッサの存在だろう。魔法少女とは違う魔導師というカテゴリーに属する少女。ほむら自身が彼女から話を聞いたわけではなかったが、マミ経由で話を聞く限り、魔法少女とはまた別の法則の力を操ることは明らかだった。 しかしそんな彼女は今、見滝原にいない。ジュエルシードを求めて見滝原から電車で数時間ほどの距離にある海鳴市に向かったはずだ。フェイトがマミに嘘をついて見滝原に留まっている可能性も考え、町中を虱潰しに探してみたが見つからなかったのだ。少なくともその点に関しては本当のことなのだろう。 だからこそ、ほむら自身がフェイトから話を聞けなかったことを後悔する。まさか彼女があのまま見滝原を去ってしまうとは思っていなかったが故、彼女のことを後回しにしてしまった。そのためほむらには魔導師の正確な情報が伝わっていなかった。もしかしたら魔導師の技術を使えば魔法少女としての力を向上させることができるかもしれない。そうすればワルプルギスの夜との戦いで、大きな武器となり得たはずだ。だからこそ、ほむらはいずれフェイトにコンタクトを取ろうと考えていた。(どちらにしても――こんなところでは負けられない) ほむらはエリーを睨みつけながら時を止める。そして周囲の使い魔、およびエリーの本体に無数の爆薬を仕掛ける。今までは事前知識を元に、エリーの弱点ヶ所にしか仕掛けなかった爆弾。しかし今回は彼女の身体の至る所に爆弾を張りつけた。その数は実に百にも及ぶ。これほどの数を消費してしまうのは勿体ない気もするが、失った爆弾はまた作るか盗み出すかすればいい。今はまどかを危険な目に合わせた魔女を倒すことに全力を注いだ。 ほむらが爆発に巻き込まれないように遠くの物陰に移動してから時を動かし始める。それと同時に結界内に響き渡る轟音。辺りに包まれる硝煙。爆発の衝撃で、頭上から使い魔の肉片が降り注ぐ。これほどの爆発だ。いくら強力な魔女とはいえ一溜まりもないだろう。ほむらは結界が解けるのを静かに待つ。 そんな彼女の甘い考えはすぐに否定された。爆炎の中から見え隠れするエリーのシルエット。煙が晴れると、そこにはまだエリーが存在していた。だが流石に無傷というわけではない。焼けただれた肌はマグマのように泡立ち、身体のモニターにはノイズが走っている。黒かった髪の毛はすっかり焼け焦げてしまったかチリチリになり、前髪で隠れていた彼女の瞳を剥き出しにしていた。人間で言うところの眼球が収まっている場所だが、エリーのそこには小さなブラウン管が収まっていた。だがそれも左側のみ。火傷の多い右側は爆風で吹き飛んでしまったのか空洞になっている。その奥に何かあるのか、妖しく青く輝いていた。 どうやらあの場にいたダニエル&ジェニファーは全て消滅させるに至ったようだが、肝心のエリーは倒しきることはできなかったらしい。それでも数の暴力が有効であることはわかった。後はエリーが死ぬまで爆弾を張りつけ続ければいい。――それで勝負は決まるはずだった。 しかし突然、エリーの目の奥の青い光が強さを増す。その輝きは彼女の身体を包み込む。そしてその輝きが収まった時、そこには傷一つないエリーの姿があった。「嘘、でしょ?」 思わず茫然とするほむら。その隙をエリーは見逃さなかった。エリーの目から放たれる青白いレーザー光線。その突然の攻撃に茫然となっていたほむらは対処することができず、左足に照射される。「くぅ……ッ!!」 痛みに耐えながら、レーザーの射線上から逸れるほむら。照射を受けた左足を見てみると、小さな正方形の形でほむらの左足が焦げ付いていた。茶色を通り越して黒ずんだほむらの左足の一角。心なしかそこから芳ばしい香りが漂ってくる。おそらくこの足では素早く動くことはもう不可能だろう。もし自分が魔法少女でなかったら、立っていることも不可能だったかもしれない。 そんなほむらを追い立てるように、エリーはレーザーを放ち続ける。ほむらは時を止めながら避けながら、どうすればエリーを倒すことができるのか考えていた。 単純に考えれば先ほど以上の攻撃、それこそダイナマイトではなくミサイルなどの対艦兵器で攻撃を仕掛ければ一発で仕留めることができるかもしれない。威力はあるが爆破範囲の狭い対人爆弾とは違い、ミサイルなら町一つを焦土と化す威力を持っている。しかし結界内でそのようなものを使えば、ほむらもただでは済まないだろう。ワルプルギスの夜ならともかく、ただの一魔女ごときと相撃ちで死ぬなど、彼女の目的を考えればあってはならないことだ。 つまり今の彼女には、エリーの攻撃を避け続けることしかできない。有効な攻撃手段を持ち合わせていないほむらは、援軍の到着を待つことしかできなかった。「いたっ……」 だが単純に時を止めて避け続けるのにも限界があった。ほむらは足の痛みに注意が逸れ、反応に遅れてしまう。その隙をついて、彼女の額めがけて放たれるレーザー光線。とっさに時を止めようとするが、間に合うかどうかはギリギリだった。 しかしほむらに命中する直前、彼女はまるで空気砲にでも吹き飛ばされたかのように射線上から無理やり逸らされる。痛みはなかったが、突然の出来事に受け身を取ることができずその場に倒れこんでしまう。 すぐに追撃の手が来ると思ったほむらだったが、彼女の予想に反し、エリーからの攻撃はほむらに向けられなかった。 それはエリーが現在、マミと戦っていたからだ。彼女はほむらに攻撃の手が向かわないよう、派手に立ちまわりその注意を惹きつけている。おそらく先ほどの空気砲を放ったのもマミだろう。とっさのこととはいえあの場合、敵の攻撃を避けるためにはマミの判断は最適だったとほむらも思う。「大丈夫、転校生?」 そんなほむらに手を伸ばしてきたのはさやかだ。ほむらはその手を取り、立ちあがろうとするが足の火傷がそれを許さなかった。倒れた時に打ちどころが悪かったのか、ほむらの足から焦げた皮膚がパラパラと落下していく。「あんた、その足は?」「……ちょっとあの魔女にやられてしまっただけよ。そんなことよりまどかは?」「まどかならきちんと結界の外に送り届けたよ」 言いながらさやかはほむらの傷に手を当てる。「あなた、いったい何を?」「いいから黙って見てなって」 さやかの手のひらから優しい青い光が零れる。その光はとても温かく、先ほどまで感じていたほむらの足の痺れが取れる。さやかにもそれがわかったのか、彼女が手をどけると、攻撃の受けた部分は火傷一つない綺麗な肌に戻っていた。「これで立てるでしょ?」 そう言ってさやかは再び手を差し伸べる。だがほむらは敢えてその手を取ろうとはせす、自分一人でその場に立ちあがった。「……一応、感謝しておくわ」「全く素直じゃないなぁ」 ほむらの言葉がさやかには照れ隠しだと思い、にやついた笑みを浮かべる。しかしほむらの心の中にあったのは、さやかの魔法が今までの周回とは違うことに対する驚愕だった。魔法少女になった時の衣装自体はほむらも見知っているものだ。だがさやかの魔法に他人を治癒するようなものはなかったはずだ。彼女の願いは『上条恭介の腕を治すこと』。その願いを叶えたキュゥべえは、おそらく一時的に恭介の自己治癒能力を驚異的なレベルで上げたのだろう。だからこそ、さやかの魔法も自己治癒能力に特化したものだったはずだ。 だが目の前のさやかは他者に対する治癒能力を持っている。この二つは似ているようでまるで違う。自己治癒能力はどんな怪我や病気を負っても、時が経てば自然と治るようなものだ。例えさやか本人に意識がなかろうとも、その身体は自動で彼女のことを治し続けるだろう。 しかしああして手を翳して治療する魔法の場合、明確に『治す』という意思を持たなければ自分を治すことはできない。他者にまで有効な魔法というのは一見すると強力に思えるが、実際はその逆。自分の意思を介さねば使えない治療魔法など後方支援としては最適だが、基本的に一人で戦うことの多い魔法少女にとっては致命的な欠陥を持つ能力だった。「……美樹さやか、やはりあなたは魔法少女になるべきではなかった」「なっ、なんだよ、あたしの治療を受けといて偉そうに」 いきなりのほむらの発言にさやかは怒気を荒げる。そんなさやかのことを無視するかのように、エリーを惹きつけているマミの傍に向かう。「暁美さん、ごめんなさい。遅くなってしまって」「いえ、別に気にしてないわ。それよりもあなたに頼みたいことがある」「あら? 何かしら?」 ほむらはマミの手を握ると時を止める。いきなり周囲の景色が静止したことに驚いたマミだったが、それがほむらの魔法だと知るとすぐに納得した。 そんなマミに対し、ほむらが一人で戦っている間に考えたエリーの攻略法をマミに伝える。 ほむらはまず、目の前のエリーと過去に自分が戦った一番の違いを考えた。その中でも一番目立つのが、過去のエリーの攻撃パターンにレーザー光線などは存在しなかったことだ。彼女の攻撃手段は主に精神に揺さぶりを掛けるというもの。魔法少女でなければ簡単に捕らわれてしまう人心掌握。しかしそれ以外は、大した攻撃手段を持たず、成り立ての魔法少女でも楽に倒せてしまうような魔女だった。 さらにエリーの見せた驚異的な回復能力。あれほどの傷を一瞬で回復してみせたエリーは、普通の魔女と一線を画した存在なのは誰の目から見ても明らかだろう。 そこでほむらは気づく。そのどちらも青い光が関係していることに。青い光に包まれたエリーは、次の瞬間には傷一つなくなっていた。彼女の目から放たれるレーザーの色は青色だ。つまりそこにエリーの強化の秘密があると考えた。だからこそ、傷ついたエリーの右目の奥で光っていた青い輝きがほむらには気になった。「つまり暁美さんがあの魔女を無防備にしてから、私がその青い光目がけてティロ・フィナーレを放てばいいわけね?」 ほむらの説明をマミは簡潔に纏める。ほむらの攻撃では範囲を絞った強力な一撃を放つことはできない。マミのティロ・フィナーレは強力な砲撃だが、無傷のエリー相手ではその攻撃を奥にまで届かすことはできない。だからこその協力作戦。「ところで、そのことを美樹さんには伝えたの? 彼女にも協力してもらったらもっと上手く行くんじゃないかしら?」 マミは静止した世界に留まるさやかの姿を見る。怒気を孕んだ迫力のある表情。おそらくほむらが何かしらを言ってさやかを怒らせたのだろう。案の定、さやかの名前を出すとほむらの目つきが一際、鋭くなる。何もこんな時まで喧嘩しなくてもいいのにとマミは呆れた。「伝える必要はない。美樹さやかの魔法は攻撃面では全く期待できない。むしろ周りをチョロチョロされると邪魔になるだけだわ」「随分と手厳しいのね。そんなに彼女が魔法少女になったことが嫌だったのかしら」「……別に」 言葉とは裏腹に、ほむらがさやかのことを気にしているのは明らかだ。結界内で一足先にさやかと合流したマミは、電話で事前に聞かされていたとはいえ、彼女が本当に魔法少女になっていることに驚いた。だがそれと同時に納得している自分もいた。さやかは以前、誰かのために願いを使いたいと言っていた。その理由までは聞いていなかったが、おそらくその相手に対して願いごとを告げたのだろう。その行為自体を、マミは否定するつもりはなかった。 しかしほむらは魔法少女になることに対して否定的だ。そんな彼女がさやかに怒るのも無理はないとマミは理解していた。「暁美さんにも美樹さんにも譲れないものがあるのね。……とりあえずそのことについては、あの魔女を倒してから納得のいくまでゆっくり話し合うといいんじゃない?」「……今から一度、時を動かすわ。その五秒後に私が魔女に攻撃を仕掛けるから巴マミは止めを刺す準備して」 マミの言葉に対して、ほむらは事務的な返答をする。そして次の瞬間、周囲の時は動き始めた。ほむらたちの姿を見失ったエリーだったが、ほむらの方から近づいてくるのを見て、レーザーを放つ。その隙にマミはさやかを連れて近くの物陰に隠れる。突然のことに戸惑うさやかだったが、マミの有無も言わさぬ迫力に着き従うしかなかった。 そのきっかり五秒後、結界内には巨大な爆音が響き渡る。突然の轟音に戸惑うさやか。それに対してすでにその事態を覚悟していたマミは何も動じず、物陰の頭上にティロ・フィナーレを放つための巨大なマスケット銃を精製する。煙の中から一筋の青い光が見える。煙の合間からボロボロになったエリーの右目の奥が光っていることは、誰の目から見ても明らかだった。「今よ!」 ほむらの叫ぶような声。その声に従い、マミは引き金を引いた。放たれるティロ・フィナーレ。それはまっすぐにエリーの右目の空洞目がけて飛んでいく。僅かな隙間の中に吸い込まれるように、ティロ・フィナーレが注ぎ込まれる。そしてそのまま青い光を放つ宝石に衝突する。衝突した瞬間、結界を吹き飛ばすほどの勢いで魔力が青い柱となって放出される。先ほどまでエリーから感じていたものとは比べ物にならないほどの強大な力。それが目の前の青い柱から発せられていた。次第にその力は収まっていき、最後には一つの青い宝石がその場には落ちていた。 この場にいる人たちの中で、その名前を知るものは誰もいない。しかし海鳴市で活動している魔法少女や魔導師にとっては、その宝石――ジュエルシードはとても見慣れたものだった。2012/9/15 初投稿