それは突然の事態だった。普段通り、学校の授業を受けていたなのはとアリサ。時折り、教室内で空席となっているすずかの机に目をやる以外は、別段いつも通りの日常。それが何の前触れもなく崩れ去った。 直前に感じた大きな魔力反応。そしてそれとほぼ同時に辺りの景色が別の色に塗り替えられていく。教室内にある机やロッカーの形はそのままに、白と黒のコントラストで描き直されていく。そのあまりの突然の出来事に、教室内にいたクラスメイトや教鞭を取っていた教師は言葉すら発することができなかった。「なのは! これって!?」 その中でいち早く動いたのはアリサだった。周囲の変化に一瞬、フリーズしてしまったアリサだったが、五日前に一度、魔女の結界に取り込まれた経験があったからすぐに復帰することができた。 そんなアリサの声になのはもようやく我に帰る。そして自分たちの置かれた状況を自覚する。「うん、魔女の結界の中、みたい」 震える声でそう返事するなのはは改めて周囲を見渡す。教室の形をそのままに魔女の結界の中へと放り込まれた自分たち。教室の中で授業を受けていたクラスメイトや教師もまた、例外なく取り込まれてしまっていた。 状況を把握していない他の生徒たちもまた、突然の事態に騒ぎ始める。だがそのほとんどが好奇に満ちた声。魔女や使い魔という存在を知らない彼らは、現状に子供らしい多大な興味を示した。特に男子生徒の一部は「すげー」と声を荒げ、そのまま教室の外の様子を見に行こうとする。「みんなー、落ち着いてー。勝手に教室を出ていかないように」 そんな生徒を諫めるために、教室内で唯一の大人である教師が声を大きく注意する。その声を聞いて外に出ていこうとした男子生徒はその足を止め、素直に自分の席へと戻っていった。「先生はこれから何が起きたのか見に行くから、皆は教室の中で待ってなさい」 そしてそのまま教師は状況を把握するために、生徒たちを教室で待たせて外に様子を見に行こうとする。「待ってください先生、一人で行くのは危険です」 それを見て、アリサは慌てて呼び止めた。大人とはいえ、教師は魔法など使えるはずもない。そんな人物を一人にしたらどうなるか……想像は容易かった。「大丈夫よ、少し様子を見に行くだけだから、ね?」「そうじゃない、そうじゃないんです、先生。ここは……」 アリサがそう言い掛けたところで、頭上からぼとぼとと何かが落ちてくる。それは黒いシルクハットを被った綿飴のような物体。一見するとぬいぐるみのようにも見えるそれは、この結界に住まう使い魔だった。だがそんなことを何一つ知らない他の生徒たちは、突然現れた使い魔に興味を惹かれ深く考えもせずに手に取ろうとする。「駄目、それに触っちゃ!!」「えっ……?」 なのはの必死の叫び虚しく、その綿飴は大きく口を開く。鋭い牙の生え揃った凶暴な口。そして一番近くにいた生徒の一人に群がるように集まり、喰らいつく。「な、なんだこいつ!? 止め……誰か……助け……ぐぁ……」 辺りに虚しく響き渡る骨の砕ける音と助けを求める声。その様子を他の生徒はただ茫然と眺めていることしかできなかった。そんな中でなのははレイジングハートを手にすると、バリアジャケットを見に纏い、その生徒を襲う使い魔に魔力弾を放つ。打ち抜かれた使い魔は音もなくその場で消滅していった。その中から出てきた男子生徒は血まみれで、本来あるべきはずの肉体の一部がところどころ掛けた状態だった。さらに肉を無理に引き千切られたためか、身体はあらぬ方向へと曲がりくねっており、とても生きているとは思えなかった。 それを目の当たりにした他の生徒たちは叫びながら一刻も早くこの場から逃げ出そうと教室の外へと走りはじめる。そしてそれは先ほどまでアリサと話していた教師もまた、同じだった。「ちょ、ちょっと、皆どこに行くのよ!? 待ちなさいよ!!」 アリサはそんなクラスメイトや教師を必死に呼び止めるが誰もその言葉に耳を貸さない。パニックを起こした生徒たちは阿鼻叫喚の叫びをあげながら一刻も早くこの場から遠ざかろうと走り去ってしまう。 そうして最後まで教室に残っていたのはなのはとアリサの二人だけだった。「なのは、早く皆を追わないと――。……なのは?」 このままでは他の皆も使い魔に襲われてしまうことを危惧したアリサは、なのはにそう声を掛ける。だがなのはからの返事はなかった。 なのはは犠牲になったクラスメイトの亡骸の前で茫然と立ち尽くしていた。話したことは少ないが、全く知らない中ではない男子生徒。この教室の中にいた人物は、少なからず二年近く同じ学び屋で学んだ者同士なのだ。助けられたかもしれない命だが、なのはには救うことができなかった。 思い返すとなのはが何かの死に直接触れたのは、これが初めての出来事だった。魔女やジュエルシードの戦いで危険な目に遭いつつも、そこで犠牲者は誰一人として発生しなかった。フェイトやすずか、杏子と言った他の少女たちとも比べ、なのはは戦いの中で目立った怪我すら負ったこともなかったのだ。幼い頃に父親が死に掛けたこともあったが、実際に死んだわけではなく今も元気に暮らしている。 それ故に彼女は知らなかった。人間はこうも呆気なく死んでしまうのだと。ちょっとした油断と判断ミスで助けられる命が簡単に零れ落ちるのだと。「……ごめん、なさい」 自然と口から零れる謝罪の言葉。目尻からは止めどなく涙が溢れ出る。どんなに謝ろうとどんなに泣き喚こうと、彼が生き返ることはない。それでもなのはは溢れ出る涙を止めることができなかった。「――なのは、しっかりなさい!」 そんななのはをアリサは思いっきり引っ叩く。叩かれた頬が真っ赤に染まり、ジンジンと痛む。「アリサ、ちゃん?」「いい? なのは、よく聞きなさい。この結界の中で皆を守れるのはなのはだけなのよ。それなのにその肝心のなのはがこんなところでボーっとしてどうするのよ! ……そりゃなのはが悲しんでるのはわかるわよ。あたしだって悲しいもの。それが例えちょっとしか話したことのない相手でもね。でもだからってできることをしないでいい理由にはならないはずよ!」 その言葉になのははハッとなる。アリサの言う通り、使い魔や魔女と戦うことができるのは、この場に自分しかいないのだ。自分にできること、自分にしかできないこと。それをやらずにこんなところで嘆き悲しんでいる暇など、なのはにはなかった。「ごめんね、アリサちゃん。それと、ありがとう」 涙を拭いながらなのははアリサに言葉を掛ける。その言葉に思わず赤面するアリサ。「べ、別になのはが心配だからとか、そんなんじゃないわよ。ただやっぱり、このままここに居続けるだけじゃあ何も状況は変わらないと思ったから」「うん、わかってる。悲しむのは後でもできるもんね。今はわたしにできるだけのことをしないと……」 そう言って必死に作った笑顔を見せるなのはに対して、アリサは心を痛める。なのははそこまで強い子ではない。数日前まで自分と同じ、どこにでもいる普通の女の子だったのだ。そんななのは一人に危険を押し付けた自分。魔女の結界内ではできることなど何もない無力な自分。それがアリサには悲しく、許せなかった。できることならそんなきつい役目をなのは一人に押しつけたくない。代われるものなら代わってあげたい。そう思わずにはいられない。「……アリサちゃん?」 そうして思い悩むアリサの表情に、なのはは不思議そうに尋ねる。「ううん、なんでもないわ。それじゃ行きましょ。確か皆はあっちの方に向かったはずよ」 そう言ってアリサは誤魔化し、クラスメイトたちが逃げ出した方に向かってなのはと一緒に駆け出すのであった。 ☆ ☆ ☆『杏子、大変だよ、起きて!』 自室のベッドで眠っていた杏子は、そんなエイミィの慌てた声で叩き起こされた。「なんだよ? そんなに慌てて、どーしたんだ?」 瞼を擦りながら間延びした声で返事をする杏子。熟睡していたところを起こされたためか、まだその頭は夢見心地で、身体を起こそうとはしなかった。『なのはちゃんの通っている小学校に魔女の結界反応が感知されたんだよ! それも今までの結界と比べても、破格の大きさのものが……。しかも同じ場所からジュエルシードの反応が複数あって』「なんだって?」 だが次のエイミィの言葉で、杏子は一気に目が覚め、慌てて身体を起こす。「エイミィ、そのことをクロノは?」『クロノくんならすでに何人かの武装局員を引き連れて現地に向かってもらってるよ』「そうか、ならあたしもすぐに支度して現地に向かうから、転送機の準備をしといてくれ」『りょーかい!』 そう言ってエイミィは通信を終える。杏子は手早く部屋着から普段着に着替えると、自室から出て転送機の元まで走って向かう。 もしこれが魔女だけ、ジュエルシードだけならば杏子もここまで焦らなかっただろう。仮になのはが結界に取り込まれていたとしても、彼女の力量なら一人でもそれなりには戦うことができるはずだ。だがそれが同時というのはまずい。なのはが通う小学校ならば、その場に落ちていたジュエルシードであることはあり得ない。つまり何者かが持ち込んだことを意味する。 すなわち相手は十中八九、ジュエルシードを取り込んだ魔女である。しかもエイミィはジュエルシードの反応が複数と言っていた。つまりそれは今までの魔女とは比較にならないほどの力を持っているということだ。「杏子殿、お待ちしておりました」 急いで転送機の元に付くと、そこには普段、杏子と一緒に魔女退治に向かう武装隊員が勢ぞろいしていた。杏子は彼らを一瞥すると、なにも言わずに転送機の中に入っていく。それを見て他の局員たちも空いた転送機に順次入っていく。全員が入ったところで転送機が起動し、杏子たちの身体は光に包まれる。 そうして杏子たちもまた、戦場へと向かって転送されていった。その先に何が待ち受けているとも知らずに。 ☆ ☆ ☆ ジュエルシードの捜索をしていたフェイトたちもまた、その反応を察知し、なのはたちの小学校まで向かっていた。小学校を包み込むように展開されている魔女の結界。その中から感じるジュエルシードの反応。フェイトはすぐ様、結界の中に入ろうとするがそれをアルフに止められる。「待ちなってフェイト。こんな状態でジュエルシードを取り込んだ魔女と戦っても勝てるわけないよ」 フェイトたちは早朝から今まで、休むことなくジュエルシードを探し続けていた。その疲労がある状態でジュエルシードを取り込んだ魔女と戦う。そうでなくても厳しい相手なのだ。アルフとしてはなんとしてでもフェイトを止めたいところだった。「でもアルフ、せっかく見つけたジュエルシードを見逃すわけには……」「確かにそうかもしれないけど、だからってフェイトの身を危険に晒すわけにはいかないよ。それにこれだけ巨大な反応だ。いずれ管理局の奴らもやってくるはずさ」 小学校を取り込んでいる魔女の結界は、決して秘匿しているものではない。魔法の知識があるものならば、すぐにでも察知できるようなものだった。それを見逃すほど管理局は無能ではない。「ジュエルシードも大事だけど、あたしにとってはそれ以上にフェイトのことが心配なんだよ。だからここはぐっと我慢して」「だけど……」 そうして口論していると、結界のすぐそばに何者かの転送反応を察知する。それに気付いた二人はこれ以上話すのを止め、自分たちの気配を消しながらそちらに注意を向ける。 そこに現れたのは杏子率いる武装局員の一群だった。杏子が無事だったことに安堵しつつも、何故管理局と行動を共にしているのかを疑問に思うフェイトは彼らの言葉に黙って耳を傾けた。「結界の中に入る前に一つ言っておくことがある。今回相手にする魔女は、今までの相手とは比べ物にならないからお前らは絶対に手を出すな」 結界を前に杏子はその場に居合わせた武装局員たちに淡々と告げる。その言葉に局員の中でざわめきが起こる。「杏子殿、それは無茶です。一人で戦おうだなんて」「別に一人とは言ってねぇよ。結界内でクロノと合流したら、二人だぜ」「それでも無謀です。例えクロノ執務官と二人で戦うのだとしても、我々の援護があった方が確実なはずです」 それでも食い下がる武装局員。杏子にもその気持ちは痛いほどわかっていた。短い間とはいえ、同じ釜の飯を食い、一緒に魔女と戦ってきた間柄なのだ。ここで戦力外通告されればそう簡単に納得もできないだろう。だからこそ杏子は敢えて厳しい言葉を武装局員に投げかけた。「……正直な話、てめぇらの援護なんてあってないようなものなんだよ。一緒に戦ってきたからこそ、あたしにはそれがわかるんだ」「それならば我々は一体何をすればいいというのですか!?」「そう怒鳴るなよ。確かに魔女相手にはてめぇらの魔力は通用しねぇかもしれねぇ。だが何もできねぇってわけじゃないぞ。今回、あたしがあんたらに頼みたいのは、結界に取り込まれた子供たちを救うことだ。これだけの規模の結界を小学校に展開させられたんだ。おそらく授業を受けていた子供たちは皆、結界の中にいるはずだ。だからそいつらを見つけたら片っ端から結界の外に連れていく。それがあんたらの今回の任務ってわけだ」 自分でも似合わないことを言っていると杏子は思う。魔法少女としてここに立っているのなら、結界に取り込まれた一般人など無視すればいいのだろう。だがそれでもゆまと同じ年頃の子供が無残に魔女に殺されることなど、今の杏子には見過ごすことはできない。「さて無駄話はもう終わりだ。そろそろあたしたちも結界内に入るぞ」「了解しました」 先ほどまでのどよめきが嘘のように、武装局員たちは声を合わせて杏子の命令に従う。そんな態度に杏子は少し驚き、軽く笑みを浮かべる。そして満足そうに結界の中へと進軍していった。「アルフ、やっぱりわたしたちも結界の中に行こう。何の力もない巻き込まれている人たちをこのまま見過ごすわけにはいかないよ」 杏子たちの会話を一部始終聞いたフェイトは改めてアルフにそう口にする。アルフには今の話を聞いて、フェイトならそう口にすることがなんとなくわかっていた。 フェイトは決して困っている人を見逃さない。目の前の結界の中に多くの子供が閉じ込まれ、危険に晒されていることを知って放っておけるほど、薄情な人間ではない。そしてそれはアルフも同じだった。「わかったよ。知っちまった以上、このまま放っておくのは寝覚めが悪いしね。だけどフェイト、一つだけ約束して。絶対にあたしから離れちゃダメだよ。今のフェイトは魔女どころか杏子にすら勝てるかどうかもわからないんだから」「うん、わかった。約束するよ。それにしてもどうして杏子は管理局と一緒に行動しているのかな?」 それはアルフも疑問に思ったところだった。先ほどの杏子はまるで管理局を率いるリーダーのような立ち位置だった。ゆまのこともあるのでなんとか接触したいところではあるが、もし管理局に協力しているのなら、互いの立場を考えるとそれは厳しいだろう。「そいつはあたしにもわからないよ。だけどもし杏子が管理局の仲間になっているのなら、迂闊に接触しない方がいいかもしれないね。万が一、騙し打ちを食らったら溜まったものじゃあないしね」 杏子には過去にジュエルシードを騙し取られた前科がある。純粋な魔力戦ならともかく、そういった騙し合いでフェイトが杏子に勝てるとは思えない。それは例え自分が一緒だとしても同じだろう。「わたしはそんなことないと思うけど……」「ま、そう都合よく、結界内で杏子に遭遇するとは限らないんだ。とりあえず今のところは一端、杏子の事は忘れてあたしたちは成すべきことをしよう」「うん、そうだね」 そうしてフェイトたちは杏子たちが入っていったのとは別の入り口から結界内に入っていった。 ☆ ☆ ☆「キミたち、もう大丈夫だ」 杏子に先んじて結界に入っていたクロノは、迷宮のように入り組んだ結界の中を突き進み、そこで使い魔に襲われそうになっていた子供たちを助け出したところだった。だがそんなクロノの声が聞こえないのか、子供たちは酷く取り乱し、泣き叫び、パニックを起こしていた。よく見ると、その服が血で汚れている。しかし見る限り、それは彼らの血ではない。おそらく一緒に逃げていた子供が目の前で犠牲になったのだろう。「……どうして?」「えっ……?」 その内の一人がクロノに声を掛ける。それは子供たちの中でも一番年長の女の子から発せられたものだった。「……どうしてもっと早くに助けに来てくれなかったの? そうすれば先生が、それに皆も死ぬことはなかったのに。ねぇ、どうしてよ」 少女はクロノに掴みかかる。焦点の合わない瞳で取りとめのない思いをクロノに訴えかける。「先生は私たちを逃がすために囮になって食われたのよ! 自分から化け物に向かって突っ込んで行って、それで私たちの目の前で殺された! それだけじゃない! 先生が必死になって逃がしてくれた子たちも、半分以上は目の前で食べられた。皆、必死に助けを求めていたのに。それなのにあなたたちが来てくれなかった。……ねぇ、どうして私たちがこんな目に遭わなければならないの!? ねぇってば!!」「こら、落ち着きなさい」 ただならぬ事態に気付いた一人の武装局員がクロノと少女の間に割って入り、少女を抑える。それでも少女は言葉を荒げ続けた。「ねぇ、教えてよ! 教えてってば!!」 それでも少女は必死に問いかける。そんな少女の態度を見兼ねた局員は、彼女に魔法を使い、その意識を眠らせる。「執務官、出過ぎた真似をして申し訳ございません」「……いや、構わない。キミたちは彼女たちを安全なところまで避難させてあげてくれ。怪我をしているようならアースラに連絡して医療スタッフを呼んでもらっても構わない」「了解しました」 武装局員は子供たちを連れて、結界の外に向かっていく。その背中をクロノは苦々しい思いで見つめていた。(……世界はいつだって、こんなはずじゃなかったものばかりだが、それにしたって今回の事例は――) あの少女に何の罪はない。そして少女たちを庇った教師や道中で犠牲になった他の子供たちにも。この世界にこのような化け物が存在し、そんな相手に自分が食べられることになるなどとは、彼女たちは予想もしていなかっただろう。現に時空管理局として他世界を渡り歩くクロノでさえ、魔女や魔法少女などといった存在がいたことなど、今回の任務に着くまで知る由もなかったことだ。 それでもこの事態に理不尽さを覚えずにはいられない。彼女たちにとってこの事態は常識外の出来事だ。犯罪や天災などはまだ想定することはできるだろう。しかし魔法技術のない世界における魔法に関連した事件など、想像することは不可能なはずである。 だからこそクロノは許せない。この事態を引き起こした魔女を。罪のない一般人、それも子供を食い殺そうとした存在を。「皆は引き続き、結界内に取り込まれた子供たちの救助を頼む」 クロノはこの場に残っている局員にそう告げると、自身の身体を宙に浮かす。「執務官、どちらへ?」「僕は――先に元凶を叩きに行く」 その言葉にその場に居合わせた局員たちは驚きの表情を浮かべる。そしてその中の一人がクロノに反論した。「失礼ながら、一人で向かうのは危険過ぎます。ここはまず一般市民の避難に専念し、それが完了した後に全員で魔女に当たるべきです」「……確かにキミの言う通り、その方が確実だと僕も思う。だけどその間にさらなる犠牲が出るだろう。ならばその可能性を少しでも無くすために、僕一人でも魔女を叩きに行くのが最善のはずだ」「し、しかし……」「キミが僕の身を案じてくれているのはわかる。だがそれは僕ではなく、この結界内で心細く逃げ回っている子供たちに向けてくれ。頼む」「……わかりました」 クロノの言葉にその局員は完全に納得したわけではないのだろう。だがそれでもその場に居合わせた局員たちはクロノの言葉に従った。「すまない、それでは頼むぞ」 そう言ってクロノは一気に結界内を飛んでいく。奥の方に感じる強い魔力に向かって、全速力で移動していった。 ☆ ☆ ☆ 結界の最奥でキリカはすずかの肉体を嬲り続けた。地面に突っ伏して動かない彼女の身体を、その鉤爪で串刺し、切り裂いていく。何度も何度も、飽きもせずに。すでにすずかは物言わぬ?となっている。それなのにも関わらず、キリカの目には未だ深い憎悪が込められていた。「ねぇ、いつまで死んだ振りしてるの? いい加減起きなよ」 それでもキリカは、まだすずかが生きていると確信していた。そしてそれに呼応するかのように、すずかの指先がピクリと動く。そこからは早かった。先ほどまで物言わぬ?と化していたすずかの胴体。四肢を切り裂かれたその肉片から足や腕、頭が生え始め、見る見るうちに元の人型のシルエットを取り戻していく。そうして約一分の後にすずかはその肉体を再構成させた。「……どうして私がまだ生きてるとわかったんですか?」「だってソウルジェムが見つからなかったから。魔法少女なんだから、ソウルジェムが砕けるまでは生きているって考えるのが自然でしょ?」 キリカがすずかの身体を嬲っていたのは、ただ単純に憎かったからではない。すずかのソウルジェムが見つからなかったからだ。魔法少女ならば身につけてなければおかしくないソウルジェム。だがすずかの外見にはそれらしき宝石の姿はなかった。だからキリカはそれが体内に隠されていると考えた。だから必要以上にその肉体を痛めつけ、切り裂いていったのだ。「……そうですか。それであんなに執拗に攻撃を続けていたんですね」「うん。でもまさかこうも簡単に傷を癒すなんて思わなかったよ。お前、本当に元人間?」 ソウルジェムさえあれば、魔法少女は永久に生き続けることができる。どんなに傷を負おうとも、それは魔力で治せるし、その痛みも軽減される。だがそれはあくまで真実を知った魔法少女の話である。普通の魔法少女は心臓を刺されたり血を流し過ぎれば、数日間は身動きが取れなくなる。場合によってはソウルジェムが砕かれなくても肉体の生命活動を停止させてしまうこともあるだろう。 だが仮に自分が人間ではないと割りきれたとしても、脳を潰された状態から肉体を再構成させるなどという真似ができる魔法少女はいないはずだ。それも物の数分という短い時間で。結界を張れるほど絶望し、ジュエルシードの力を借りているキリカでも、そんな芸当はとてもできるものではなかった。「違うよ、キリカさん。私は夜の一族、吸血種なの。キュゥべえと契約する前からね。だから人間であろうとすることを諦めてしまえば、その特性を自由に使うことができる。そして魔法少女であるが故に元からあった再生能力が向上し、ソウルジェムが砕けるか魔女化しない限り死ぬことはない」 言ってすずかは地面に落ちている火血刀を拾い上げる。そして改めてキリカを、そして周囲に展開している結界を見据えた。 キリカが展開している結界は学校ごと取り込んでいるのは明らかだ。なのはやアリサもこの結界の中にいるのは間違いないだろう。だがそれは、織莉子から奪った記憶の中で見た結界とは明らかに違うものだった。 キリカ以外の魔女がこの場に近づいているのか、それとも織莉子が視た未来が代わり、結界を展開するのがキリカになってしまったのか、それは今のすずかにはわからない。だがどちらにしてもキリカを殺すのには変わらない。すでに彼女は魔女になり掛けている。ジュエルシードの力を使ってなのはやアリサを危険に晒している。それを見過ごすことはできない。「なーんだ。なら安心だ」「……安心?」「うん。だってソウルジェムさえ壊せば吸血鬼でも殺せるんでしょ? なら話は簡単だよ。何度でもやっつけてそれでソウルジェムを壊せばいい」 金と青の双眸でキリカはすずかを見据えながら愉快そうに告げる。それがすずかには不快だった。「そう簡単にさせると思う?」「できるよ。だって私と織莉子の愛に不可能はないからね」 その言葉を皮切りに、二人は再び刃を合わせる。こうして二人の戦いは第二ラウンドを迎える運びとなる。 ☆ ☆ ☆ 教室の形そのものは変化していなかったこととは裏腹に、その外に通じる廊下は入り組んだ迷宮と化していた。無数の扉と空間がねじ曲がっている歪な道。それを見てなのはとアリサは一瞬、怯んだが、先に出ていったクラスメイトたちを助けようと進んでいった。当初の目的であるクラスメイトとの合流は叶わなかったが、他のクラスの生徒たちと合流することはできたなのはたちは、そのまま彼らを守りながら結界の出口を探し続けていた。 現在、二十人ほどの行軍となっているなのはたちであるが、人数が増えるのに比例し、襲ってくる使い魔の数も増えていった。だが戦うことができるのはなのは一人。気を休める暇もなく守り続けるなのはは、その疲労を確実に溜めこんでいった。「なのは、大丈夫?」 そんななのはを労うようにアリサが声を掛ける。彼女たちがいるのは先ほどまでの息の詰まるような狭い廊下ではなく、障害物の少ない見晴らしの良い広場であった。そこでなのはたちは互いに周囲を警戒しつつ、ゆっくりと結界の中を進んでいく。 他の生徒たちの様子を見てみると、いきなりこのような場所に巻き込まれた多くの生徒は未だパニックを抜け切れてないのか、泣き喚くものが過半数を占めていた。それでも何人かはいち早く状況を把握し、そうしてパニックを起こしている生徒を宥めている。だからこそアリサはなのはを労うことに全神経を使うことができた。「うん、大丈夫だよ」 アリサの問いかけになのはは笑顔で答える。だがその表情はとても辛そうで、全身にはびっしょりと汗を掻いている。誰の目から見てもなのははもう限界に近かった。助けられた生徒もいるが、それと同時に助けられなかった者もいる。そんな人たちを目の当たりにし続け、それでもなお守るために戦い続けなければならないなのはが感じている重圧。それは想像を絶するものだろう。 だからこそ、アリサはこれ以上の追及をしようとはしなかった。せめてこの結界から抜けだす方法さえ分かればと思わずにはいられない。当てもなく彷徨い続けるというのは精神的にも肉体的にも辛い。それはなのはだけでなく、自分やついてきている他の生徒にも言えることだ。だが歩みを止めればそれこそ使い魔にとっての絶好の獲物と化してしまうだろう。 そんなことを考えていると、また性懲りもなく使い魔が群がってくる。広場であったため、遠くからやってくるのにいち早く気付いたなのはは飛び出し、使い魔を倒しに向かう。その様子を他の生徒たちは不安げな表情で見つめつつ、周囲に警戒を強めていた。 なのはが使い魔を倒し、戻ってくるまでの時間は長くても数十秒程度だろう。その僅かな時間に使い魔に襲われれば、こちらは一溜まりもないのだ。それ故に何人かの生徒は他に使い魔が近寄ってきてないかと目を凝らす。 ――そうして周囲に警戒していたが故に、突如として襲った結界内の揺れに対応できなかった。 轟音と共に結界内が大きく揺さぶられる。それに呼応し頭上から大きな塊が降り注ぎ、床には無数の裂け目ができる。アリサはそれらを持ち前の運動神経で何とかかわしていく。 そんな彼女の目の前で一人の生徒が裂け目の中に落ちていく光景が映る。それを見てアリサは反射的に駆け出し、その生徒に向かって大きく手を伸ばす。なんとかその腕を掴んだアリサは、そのまま勢いに任せて引っ張り上げようとする。結果、自分と入れ替わる形でその生徒を助け出すことに成功するが、代わりに今度はアリサ自身が裂け目の中へと落ちていく。 重力に従い裂け目の中へと飲み込まれていくアリサ。必死に手を伸ばし、辺りを掴もうとするが、虚しく空を切る。「なのは、ごめんね。せめてあなただけでもすずかに……」 過るのは自分がいなくなって悲しみに暮れる親友の顔。そしてしばらく顔を合わせていないもう一人の親友のこと。こんな時でもアリサは二人の親友のことを思わずにはいられなかった。 ――こうしてアリサは他人を思いやりながら裂けた空間の中へと飲み込まれていった。 ☆ ☆ ☆ 戦いが始まり、すずかはすぐにその違和感に気付くことができた。(身体が――鈍い?) 自分の一挙手一投足、そのすべてが頭の中で思い描く物よりも遅くなっていた。それ故にすずかの攻撃はキリカに当たらず、逆に彼女の攻撃を避けきることができずその身に受けてしまう。致命傷になるような攻撃ではなかったが、あの程度の攻撃を食らってしまった事実、それ自体がすずかの心に黒い感情を呼び起こす。「アハハハハ――ッ。言い様だね、吸血鬼。私に傷一つ付けられないなんてさ」「……キリカさんだって、まだ私に止めを刺すことができてないじゃない」 高らかに笑いながら切りかかるキリカ。それをすずかは冷ややかな表情で受け止め、その腹を蹴り飛ばす。 そして今度はすずかの方からキリカを攻め立てる。火血刀から放つ赫血閃の波状攻撃。迫りくる炎の刃。だがそれがキリカの身体に当たることはなかった。イメージよりも遅い速度で飛んでいった赫血閃は、キリカを射線上から退避させるには十分だった。誰もいない方向に飛んでいく無数の剣閃、それが結果的にすずかの考えを纏めるに至った。 キリカの持つ速度低下の魔法、それがすずかの動きを阻害していた。五日前とは違い、今のキリカにはジュエルシードによって与えられた莫大な魔力がある。さらにここは彼女が作り出した結界。それ故にすずかはその魔法に抗うことなく、その影響下に身を置くことになっていたのだ。「でも私が有利なのには変わりないよ。それにこうしている間にも結界内で人間は死んでいってるよ? 織莉子に言われてるからなのはって子には手を出さないけど、それ以外の人はどんどん死んでるよ。あなたはそれでいいのかな?」「……ッ」 その言葉にすずかは醜く顔を歪める。目を細め、キリカに向ける殺気を強める。それでもキリカの余裕な態度は変わらない。それがなおのこと、すずかの苛立ちを増長させた。「なのはって子以外にも、あなたには友達がいるんでしょ? 私はその子のことは知らないから、もう死んじゃってるかもしれないよ? まぁ織莉子以外の存在が死のうがどうなろうが私の知ったことではないけどね」「……もういい。これ以上、あなたの言葉は聞きたくない。だから――黙れ」 そう短く呟いたすずかは、その身に秘めた魔力を解放する。織莉子が未来視で視た結界は、キリカが作り出したものではない。ならばこの後、本命の魔女が現れるかもしれない。だからすずかはジュエルシードの力を使ったキリカ相手でも余力が残せるように戦うつもりだった。 しかしもうそんなことは関係ない。例えこの後に別の魔女が控えていようがキリカを殺す。なのはたちを守りたいという感情以上にキリカをどうしようもなく殺したいと思えてくる。「アハハ――ッ。それだよ、吸血鬼、それが私は見たかったんだ! 全力のお前を完膚なきまでに叩き潰す。それで初めて織莉子を傷つけた罪が贖える!」 そんなすずかを挑発するようにキリカは声を荒げる。それを見てすずかは火血刀の刃を強く握る。痛みを度外視して強く握った掌から流れ出る血液をその魔力で作り出した刀に吸わせる。そして次第に火血刀の刀身が赤く染め、その血液を燃料としその刀身を炎で燃やす。だがその色は赤ではなく紫。そんな見目禍々しい色を纏う刀身をキリカに向けた。「黙れって言葉が理解できないのならそれでもいい。もうあなたが何を言おうと関係ない。なのはちゃんたちを傷つけようとする魔女は私が殺す。この世界に住まう人々に不幸を招く魔女を殺し尽くす。この世界を滅ぼす敵も私が滅ぼす。そした最後に――私が死ねば平和な日常が守られる。だから――あなたはここで死ね」 すずかは一気に踏み込む。たった一歩、だがそれだけでキリカとの距離を零にする。そして一気にキリカに向けてその刃を振り降ろした……つもりだった。「……えっ?」 キリカの魔法の影響下であっても、その一撃は必殺の一撃のはずだった。当たればキリカを燃やし尽くす。例えジュエルシードの魔力があっても消えることはない不滅の炎。すでにすずかはどの程度、自分の速度が奪われているのかを把握している。それを元に計算して動けば、その一撃が外れることなどあり得るはずがなかった。 だが現実にその一撃は放たれることすらなかった。すずかの両腕は振り上げた状態でその動きを止めていた。正確には微弱ながらも振り下ろされているが、それでも攻撃が失敗したことには変わりはない。そして必殺で決まる一撃とすずかが思い込んでいたが故に、その身体は隙だらけになる。「ステッピングファング!」 無防備なすずかに向かってキリカは無数の鉤爪を射出しながら距離を取る。すずかが反応できたのは、その一撃目が腹部を貫いてからのことだった。痛みに耐えながらまだ自由の効く下半身を上手く使い、その攻撃を避けていく。それを見てキリカは笑みを浮かべながら告げた。「それじゃ避けにくいだろ? だから返すよ」 キリカがそう呟いた瞬間、すずかの腕は速度を取り戻し、虚空に向かって火血刀を一気に振り下ろす。避けるという不安定な姿勢で繰り出されることになったため、火血刀はすっぽ抜け、頭上高く飛んでいってしまう。しかもただ飛んで行っているのではなく、回転しながら炎を放出していく。火血刀が回転しているためかそれはまるで炎の竜巻と呼べるようなものへと変貌していった。それがこの空間の天井に衝突する。轟音と共に結界そのものを揺らす驚異の威力。もし命中していれば、例えキリカがジュエルシードの魔力を全開に使って防御しても無傷では済まなかっただろう。 その一方ですずかは大技を無理な体勢で放つ羽目になったが故に、その全身に強い痺れを感じていた。もはや攻撃を避けるだけのスピードを出せないと悟った彼女は、自分の身体に刺さっている鉤爪を抜き、それを使って迫りくる他の鉤爪を弾き落とす。 その表情は息も絶え絶え。先ほどの一撃に全精力を込めていたのが、目に見えて分かるほどに衰弱しきっていた。だがその瞳は決して死んでおらず、未だにキリカのことを捕えて離さなかった。 すずかの間違いは、今の状態がキリカに速度を奪われた状態であると決めつけて考えてしまったことだ。だが実際、キリカはこの結界の中ではその速度を自由に奪い、与えなおすことができる。あくまで奪うだけで自分の速度を速くするような真似は出来ないが、それでも相手が出せる速度の範囲内では自由に弄ることができるのだ。そのリズムを狂わせ、隙を作るには容易い能力だろう。 もしすずかが勝負を焦らずじっくりと戦おうとすれば、そのメカニズムを把握し適切な攻撃を仕掛けることができたかもしれない。そうじゃなくても、彼女がキリカよりも先に結界を展開し、自分のテリトリー内で勝負を挑んでいれば結果はまた変わったかもしれない。 だが現実にすずかは武器を失い、その身に宿した魔力の大半を失った。対してキリカは未だ無傷。与えたダメージは距離を取るために行った蹴りが一発のみ。(このままじゃアリサちゃんや他の皆が……) すずかの中に先ほどまで立ち昇っていた黒い感情が消え、他人を思いやる気持ちが戻ってくる。キリカの言を信じるのならなのはは無事なのだろう。だがアリサを初めとする他の生徒に関しては、その限りではないはずだ。しかもなのはと違ってアリサたちが使い魔に抗う力など持ち合わせているはずもないのだ。 すずかは自分の失策を呪い、それでもなお一刻も早くキリカを倒しこの結界を解く術がないかを模索し始める。「ねぇ吸血鬼、もしあんたがこのまま私にソウルジェムを差し出すって言うのなら、この結界をすぐに解いてやってもいい。私が殺したいのはあんただけで、他の人間はあまり関係ないからね」 そんなすずかの心を読んだかのごとく、キリカはそう問いかける。現状、キリカは事を優勢に運んでいる。すでにすずかの肉体を一度殺し、そして今もまた、その必殺の一撃を無駄打ちさせた。すでにその実力では、キリカはすずかより上であることは証明できた。だから今度はその精神を屈服させる。すずか自身に負けを認めさせ、彼女の手自らでソウルジェムを差し出される。そこまでしてようやく、キリカの復讐は完了する。 そんなキリカの提案はすずかにとっても悪くないものであった。すでにすずかは満身創痍。先ほどの一撃に魔力を込め過ぎたためもう一度、肉体に大きな損傷を貰えば、再生には時間がかかるだろう。なればここで負けを認め、勝負を早めに切り上げることで助けられる命があるかもしれない。 だが返事をする前にすずかはどうしてもキリカに聞いておきたいことがあった。「……一つだけ聞かせてください。どうしてあなたはなのはちゃんを、アリサちゃんを、小学校の皆を巻き込むような真似をしたの?」 今日、この場で出会うまで、キリカは格下の相手に過ぎなかった。すずかにとって警戒すべき相手は織莉子の方であり、キリカの魔法や能力などすずかの力を以ってすればどうとでもなる。そういう認識を持つ相手だった。 そんなキリカを前にして、すずかに逃げるという選択肢はあり得ない。むしろ飛んで火に入る夏の虫と言わんばかりに、目の前に現れた格好の獲物として始末しようとしただろう。 だからこそすずかはわからなかった。何故彼女は今日、現れたのか? なのはの死を回避したいと思っているのは、織莉子も同じである。それを邪魔しかねないキリカの行動。すずかはそこに矛盾が感じられた。「そんなの決まってるじゃん。こうすればお前が逃げないと思ったからだよ、吸血鬼」 だがキリカの口から出てきたのは、思いもよらない答えだった。「強さを願うっていうのは、自分が弱いと言ってるようなもんだ。だから吸血鬼はもし自分の命が危険に晒されれば、簡単に逃げ出す。でもそれは人質がいなければの話さ。ここは吸血鬼にとって縁のある場所なんだろう? 顔見知りがたくさんいる場所なんだろう? だったら吸血鬼は逃げ出さない。どんなに相手が強くても自分の命が危険に晒されようとも吸血鬼は戦う。戦い続ける。……ま、これは織莉子の受け売りなんだけどね。でもそのおかげで敵を殺せるんだから、やっぱり織莉子の愛は偉大だよ」 キリカは続けてすずかに語るが、その言葉は彼女の耳には入っていなかった。すずかの精神分析についてはどうでもいい。だが重要なのは、そのために罪のない数百人のもの人間を巻き込んだということだ。確かに小学校という空間の中ですずかの顔見知りと呼べる人間は数十人ほどはいるのだろう。だが学年が違えば、その繋がりができる機会もほとんどない。残りの数百人に関しては、名前は愚か下手をすればすれ違ったことすらないのだ。ただ同じ学び屋で学んでいただけ。それだけの理由で巻き込まれ、命を落とした人物がいる。それをキリカは是とした。それはすずかにとって衝撃的な言葉だった。「……私を殺す、ただそれだけのためにあなたは罪のない一般人を結界に取り込んだって言うんですか!? そんなことのために――」「そんなことだって?」 それまで笑みを絶やさなかったキリカがその言葉に強く反応する。表情を醜く歪め、その目に狂気の宿った青い輝きを灯したキリカは、すずかの首を鷲掴みにすると、そのまま力任せに締め上げる。「織莉子を傷つけた相手を殺すんだよ? そんなことのはずがないじゃんか。だってこの世界は織莉子がいなければ滅ぶんだよ。そんな織莉子を傷つけた。それって世界を滅ぼそうとしたことと同じじゃないか。そのための犠牲なんだ。あれだ、ささいだよ! 織莉子のためだもの、そんなこともわからない吸血鬼はやっぱり死んじゃった方がいい。織莉子傷つけたし」 人間とは思えないほどの怪力ですずかの首を圧し折ろうとするキリカ。すずかはそこから逃れるために手にした鉤爪でキリカの腹部を貫く。その痛みで一瞬、キリカの手の力が緩み、その拘束から逃れるすずか。そのまますずかは翼を広げ、上空へと距離を取る。「やってくれるじゃん、吸血鬼。でもね、このぐらいの傷で私の愛を止められると思ったら大間違いだよ!」 キリカは腹部から鉤爪を引き抜く。すると傷口が青白く光り輝き、次の瞬間には完全に塞がっていた。そしてお返しと言わんばかりにすずかに向かって無数の鉤爪を飛ばし、撃墜を試みる。それを巧みに避けながら、すずかはキリカに対しての考えを改め直した。 ――呉キリカは危険である。自分のため、織莉子のためなら何を犠牲にしても良いというその思想。そしてジュエルシードの魔力を自在に操り、相手の速度を奪うその魔法。彼女は今、ここで確実に殺しておかなければならない相手だ。 アリサや他の生徒たちの安全を考えれば先ほどの取引に応じるのも手の一つだった。しかしもし仮に応じたとしても、殺した後で心変わりすることも考えられる。あるいはジュエルシードの魔力に捕らわれ、魔女化してしまう可能性もある。何よりここで自分が死ねばなのははいずれ、織莉子の言う世界の救済のために死ぬ羽目になるのだ。どちらにしてもこんなところで負けを認めるわけにはいかない。 すずかはキリカの執拗な攻撃を避けながら火血刀を探すためにその高度を上げていく。望まぬ形の一撃だったとはいえ、それは偽りの空を砕くには十分な威力を持っていたらしい。攻撃を放たれた場所まで近付くと、そこには大きな穴が開いていた。辺りには攻撃の余波により広がった紫の炎が未だ猛り燃え続けている。火血刀はそうしてできた穴の先にあると違いないと考えたすずかは、体制を立て直す意味も込めて大穴の中へと躊躇なく飛び込んでいった。 ☆ ☆ ☆ 結界に蠢く使い魔を潰しながら、杏子は魔女の元へと向けて駆けていた。ただし彼女一人でではない。その背後には数名の武装局員が並走していた。 当初の予定では、杏子以外の武装局員は結界の中で子供たちを探しに散らせるつもりだった。しかしそれを命じてもなお、数人の局員は杏子の言葉に従わなかった。「杏子殿についていっているのではありません。あくまでこちらに取り残された一般人がいないのかと探しているだけです」 その際に彼らが告げた理由がこれであった。魔力の探知など魔法技術を身につけていない一般人にできるはずがない。そのため運悪く、魔女のいる方向へと逃げてしまっている者もいるかもしれない。そういう者がいた時のために、自分たちは杏子と同じ方角を捜索する必要がある。そんな武装局員の言い訳は表向きの理由としては妥当なもので、さらに彼らの言う通り、道中で幾人かの子供を発見するに至ったため、杏子は強く突き放すことができなかった。「まだついてくるつもりか?」「えぇ、他にもこの先に取り残されている子供たちがいるかもしれませんから」 振り返ることなく尋ねる杏子に、武装局員の一人が淡々と答える。初めは十人近くついてきていたその人数も子供たちを結界の外に連れていくために今は三人まで減っている。最初よりは幾分身軽になったとは思うが、それでも彼らが魔女との戦いでは足手纏いになることに変わりはない。 結界の奥から感じる濃密な魔力の気配。生半可な力で挑めば一撃でやられることになるであろう強烈な悪意。今まで戦ってきた魔女とは比べ物にならないほどの力を感じる。それ故に杏子は、この辺でついてきている武装局員を撒き、一人で魔女の元へと向かいたいと思い始めていた。 そんなことを考えながら走り続けること数分、杏子たちは狭い迷宮から大きな広場のような空間に出た。そうして少し進むと、その遥か向こうに結界に取り込まれた一般人の集団を見つける。さらにその一群にじりじりとにじり寄る使い魔の姿。「杏子殿」「ああ、わかってる。急ぐぞ」 それに気付いた杏子たちは移動速度を速める。そして手近な使い魔に向かって杏子は槍を放り投げる。突如として現れた杏子たちに使い魔は警戒し、そして襲いかかる対象を子供たちから杏子たちへと変更する。それを待ってましたかのように杏子と武装局員は目の前の使い魔を確実に葬り去っていく。「大丈夫か? あたしたちが来たからにはもう安心だぞ。あっちのおじさんたちがこれからお前たちを出口に案内してやるからな」 一分も掛からずに使い魔を駆逐した杏子たちは、子供たちにそう声を掛ける。その言葉に何人かの子供たちは安堵の表情を浮かべる。「しっかし、よくこれだけの人数が一緒に行動して、今まで無事で済んでたな」 実際にここに来る途中で杏子たちが保護した子供たちのほとんどは一人か二人で行動しているものばかりだった。それが途中で逸れたのか、共に行動していた子供が使い魔の犠牲になったのかは知る由もなかったが、そういうことなく今までこれほどの大人数で行動できたのは奇跡に近い。「えっと、それはさっきまで彼女が私たちを守ってくれたから」「彼女?」 杏子の言葉を聞き、集団の中の一番の年長であろう少女がそう説明する。そんな彼女の視線の先を追うとそこには杏子の見知った少女の姿があった。「もしかして、なのはか?」 そう問いかける杏子だったが、それが本当になのはかどうか、一瞬わからなかった。杏子の前にいる彼女は大声で泣き、床を爪でひっかき続けていた。明らかに冷静さを失くしているなのはの姿を見て、杏子は慌てて駆け寄り声を掛ける。「おい、なのは。何があったんだ?」「きょうこ、さん?」 声を掛けられたなのはは、初めてこの場に杏子がいることに気付き、そのまま杏子の胸に飛び込んでくる。いきなりの事で杏子はなのはを支えきれず、その場に尻もちをつくように倒れる。だがそんなことは関係なしと言わんばかりに、なのはは杏子の胸に顔を埋めて再び泣き喚く。そんななのはの様子にただ事ではない事態を感じた杏子は、先に他の武装局員に他の子供たちの避難を任せ、彼女の話を聞くことにした。 泣きながらの説明だったので要領を得るものではなかったが、それでもなのはがクラスメイトが使い魔に喰われる姿を目の前で目撃してしまったこと。それでも一人でも多くの人を助けるために必死に戦っていたこと。それなのに親友を守りきることができず、助けに行くことさえできなかったということ。「もしわたしがもうちょっと皆の近くにいれば、アリサちゃんを助けることができたかもしれない。わたしがもう少し強ければ、誰も死なずに済んだのかもしれない」 そしてそのことを悔い、泣き喚き続けていたということはすぐにわかった。「いつまでも泣いてんじゃねぇよ!」 そんななのはの甘ったれた態度に杏子は、彼女を強く突き放した。杏子の突然の行動に、なのはは心底驚いた表情で見つめる。「確かにアリサって奴の状況は絶望的だ。あたしやなのはと違って魔法の使えない子供なんて使い魔にとって格好の餌だろう。しかもそいつは結界の裂け目に落ちて、その裂け目もすでになくなってるんだろ? どうなってるかわかったもんじゃない」 杏子の現実を突きつけるような言葉に、なのははさらに気落ちする。「けどな、そいつが死んだところは誰も見てないんだ。なら友達であるなのはは、そいつが生きていることを信じてやらなくちゃ駄目なんじゃないか?」 その言葉になのははハッとなる。そんななのはに杏子はさらに言葉を続けた。「……あたしはこれから、この結界を作り出した魔女を倒す。そうすれば結界が解け、中に捕らわれている人々は自然と解放されるだろう。その間、なのはは好きなだけここで泣いていればいい。なのはなら例え一人で落ち込んでたとしても使い魔ぐらい、撃退できるだろうしね」 そこまで言うと、杏子は立ち上がる。そしてなのはを置いてゆっくりと立ち去ろうとする。「ま、待ってください、杏子さん」 そんな杏子をなのはは慌てて呼び止める。そして目に溜めた涙を拭いながら、真っ直ぐと杏子のことを見て告げた。「わ、わたしも連れてってください。わたしもまだアリサちゃんが生きている可能性に賭けてみたいんです」 なのはの目に強い輝きが灯る。先ほどまで暗く絶望に沈んでいたものとは違う、可能性という希望に満ちた瞳。それを見て杏子は満足そうに笑い、一言こう口にした。「……好きにしな」「――ッ! はい!!」 こうして杏子はなのはと共に結界の奥に進んでいくこととなる。 本当のところ、杏子としてはなのはを魔女の元に連れて行きたいとは思わなかった。先ほどまで一緒だった武装局員よりは強い魔力を持っているとはいえ、その戦闘技術はまだまだ未熟。それでもこの場は彼女の意思を尊重してあげたかった。彼女が魔法少女でなくても、今回は明確な戦う理由があったから。 ☆ ☆ ☆ 裂け目に落ちていったアリサは自分の死を覚悟していた。この深い闇がどれほど続いているのかはわからないが、どちらにしても落下していることには変わりはない。そのためいずれは終着点が訪れ、そこに激突したときが自分の最後であるということを理解していた。心残りはたくさんあるが、アリサにはもはやどうしようもない。今の彼女にできることと言えば、その運命を受け入れることぐらいであった。 だがその最悪の予感は外れることになる。深い闇を抜けた先にあったのは、先ほどと同様のチェック柄の奇妙な空間だった。地面を目視したことでアリサはぎゅっと目を瞑る。そしてすぐに自分の身体に衝撃を感じ、その命を奪われることを構えていた。 しかしいつまで経っても衝撃が襲ってこない。そこで恐る恐る目を開けたアリサは、自分が宙に浮いていることに気付く。先ほどまでの風切るような速度ではなく、シャボン玉のようにゆっくりと下降しているアリサの身体。そのことに驚きを感じつつもアリサは冷静に自分の態勢を整え、そのまま地に足を付けた。 頭上を見上げると先ほどまであった裂け目は閉じていくのが見えた。どちらにしても飛べないアリサがそこに自力でたどり着くのは不可能なことだったが、これで誰かの助けを期待することはできないことを悟る。(どうにかしてなのはたちのところに戻らないと) アリサは当てもなく歩きはじめる。内心ではいつ使い魔が現れ、襲ってくるか不安でしょうがない。もしかしたら一ヶ所に留まっていた方が安全かもしれない。そう思いつつもアリサは歩みを止めようとはしなかった。自分がいなくなったことでなのはが感じる悲しみ。それをできるだけ早くやわらげてあげたいと思ったから。(それにしても、なんか熱いわね) 先ほどまでいた場所とは比べ物にならないほどの熱気。まるでサウナの中にでもいるような、強烈な熱さを全身で感じる。熱で体力がじりじりと奪われていく中、アリサは次の空間に続く扉の前に辿り着く。「あ、熱ッ!」 ドアノブに触れると火傷してしまいそうなほど熱く、反射的に叫んでしまう。それでも他に進む道がない以上、アリサはその扉を開けるしかなかった。服越しにドアノブを握りしめ、熱さに耐えながらゆっくりと扉を開いていく。その先はまるで炎熱地獄のような世界だった。辺りを猛る紫色の炎が床や壁を溶かし、燃え盛り続けている。今まで通ってきた道とはその様相が違う空間。見るからに危険な場所。このような道を進むなら、まだ来た道を戻って別の通路を探した方が安全と思えた。 だがアリサはその部屋の中に躊躇なく入っていく。それはその先に人影を見つけたから。炎の中から刀を取り出し、握り締める少女。それはここ連日、アリサがずっと会いたいと思っていたもう一人の親友。「すずか!? あなた、すずかなんでしょ!!?」 アリサは精一杯その名を呼ぶ。アリサの知っている長い髪ではなくショートカットになった彼女。人間には絶対に生えていないであろう蝙蝠のような翼を生やし、その全身を血で汚し、見覚えのない一振りの刀を握り締めていようとも、アリサがすずかのことを間違えるはずもない。「ねぇ、こっちを向いてよ、すずか。ねぇったら!!」 だからアリサは必死に叫ぶ。何度もその名を呼び続ける。彼女がこちらに振り向いてくれるその時まで――。 2013/3/8 初投稿2013/3/29 一部描写&誤字脱字修正