時は少しだけ遡る。杏子となのははジュエルシードの魔力の元に向かいながらアリサの姿を探していた。少しでも被害を抑えられるように目に付く使い魔を駆逐しながら、結界の奥へと進んでいく。「ん? あれはクロノか?」 そうしていると目の前からクロノが近づいてくることに気付く。フェイトたちと別れた彼もまた、引き続き結界の奥へ向かって真っ直ぐ飛び続けていたのだ。「杏子か。それとキミは確かなのは、だったね。無事合流できたのか」「そういうクロノはこんなところで何してんだよ? 先に結界に入って一般人の救助をしてたんじゃなかったのか?」「キミも人のことは言えないだろう。それにどうやら、考えていることは同じようだしね」 言いながらクロノは目の前の扉に目を向ける。扉越しからでもわかる熱気と濃厚な魔力の気配。まず間違いなく、この奥に結界を作り出した魔女がいる。二人はそう考えていた。「それで、どーすんだ? このまま扉を突き破って一気に魔女に襲いかかりでもするか?」「……いや、それは得策じゃないだろう。キミたちと違って僕はジュエルシードの力を得た魔女の実物を見たことはない。だがこの奥にいる相手は一筋縄でいかないことはわかる。戦うにしても何らかの情報を得てからの方がいいだろうな。だからまずは扉の隙間からサーチャーを飛ばし、中の様子を探る」「……なるほどな。でもあまり分析してる暇なんてないぞ」「わかってる。僕としてもこの結界はできるだけ早く解きたいところだからね」 そう言ってクロノは扉の隙間からサーチャーを飛ばす。そうして覗いた空間の光景を見て、思わずなのはが叫んだ。「アリサちゃん!? それにすずかちゃんも!!?」 サーチャーが映しだしたのは、鉤爪で串刺しになっているすずか。恐怖で顔を引き攣らせているアリサ。そして楽しげに言葉を紡ぐキリカの姿だった。見たところ魔女の姿はないが、それでも親友二人の危機を察知したなのはは、すぐ様二人を助けに向かおうとする。「待て、なのは!」「待てません! アリサちゃんとすずかちゃんが酷い目に遭っているのに、大人しくしているなんてわたしにはできない!!」 慌てて杏子はなのはを止めようとするが、彼女はそれを聞き入れようとはせずに扉に手を掛ける。――だがその扉が開くことはなかった。それはクロノがなのはにバインドを掛けたからだ。「気持ちはわかるが落ち着け。今、キミが無策で行っても、二人の状況がより悪くなるだけだぞ」「だ、だけど!?」 なのはは力任せにクロノのバインドを解こうとする。しかしいくら魔力を籠めてもバインドはびくともしなかった。 そんななのはの様子を見て、杏子は意を決したように告げる。「……クロノ、なのはのバインドを解け。あたしに考えがある」「杏子?」「杏子さん?」「……二人とも良く聞け。あたしがあいつの注意を引き付けるから、その間に二人を助け出せ」「そんな!? 一人じゃ危険ですよ?!」「そうだ。どんな作戦かは知らないがキミ一人にそのような真似はさせられない。むしろ残るのは僕の方だ」「いいやクロノ、お前は二人の治癒役だ。映像を見る限り、アリサはともかくすずかの傷はやばい。あの魔法少女の様子からおそらくはまだ死んじゃあいないんだろうが、もう自力で動くことはできないはずだ。本当ならアースラの医療スタッフに任せるべきなんだろうが、そんな時間はなさそうだしな。……そしてなのは、お前は二人の治療をしているクロノを守れ。いくらこいつでも治癒魔法を使っている間は無防備だろうからな」 杏子の魔法は攻撃に特化していると言ってもいい。彼女の願いから生まれた本質的な魔法こそ幻惑だが、それ以外は攻撃に主を置いた魔法ばかりを習得してきた。そのため魔法少女になった当初から治癒魔法は苦手で、よく師匠であるマミにきちんと練習するように注意されていた。マミと袂を分かってからも練習は続けたが、自己治癒能力が多少向上した程度で他人を治癒するほどの魔法を会得するに至らなかった。 そしてなのはもまた、治癒魔法の類は一切使えない。元々、彼女は魔法少女でもない普通の女の子だ。多大な才能を秘めているといっても、彼女はまだ砲撃と探査魔法ぐらいしか使用することができない。特に治癒魔法に関してはユーノが得意だったこともあり、それに甘え練習さえしてこなかった。 そんな杏子の意図が伝わったのだろう。二人は神妙な面持ちで頷く。「しかし杏子、一体どんな手段で二人を助け出すつもりだ? まさか正面からぶつかっていくなんて言わないだろうな?」「もちろんそんな真似はしねぇさ。――あたしの『魔法』を使う」 そう言うと杏子は二人の肩に手を置き、短く何かを呟く。すると杏子の姿が目の前から忽然と消えていく。さらにそれに呼応するかのごとく、なのはとクロノの姿もまた消えていった。 突然、自分たちの姿が消えたことにうろたえるなのはだったが、クロノには杏子の掛けた魔法に少しばかり心当たりがあった。――オプティックハイド。術者と術者が触れているものを消し去るミッドの幻惑魔法だ。もちろん杏子の使った魔法がミッドの魔法ではないのだが、その効果は同様のものだろう。「……今、あたしたちの姿はあいつには見えないはずだ。その隙をついて二人を逃がす」「しかし杏子、確かに僕たちの姿は見えないだろうが、流石にあの二人を担いで逃げ出せば気付かれるんじゃないか?」「その点もきちんと考えてるさ。とにかくあたしが合図したらなのははすずかを、クロノはアリサを抱えて離脱しろ。なのは、その後はクロノの指示に従ってくれ。いいな?」「は、はい。わかりました」「ああ、しかし杏子、キミも無茶はするなよ」「どの口がそんなことを言うんだよ。ま、安心しろって。あたしだってそれなりに場数を踏んできてるんだ。引き際ぐらい弁えてるさ。――それじゃあ行くぞ」 そう言うと杏子たちは音もなく扉の向こうに入っていく。杏子の指示通り、なのははすずかの元へ、クロノはアリサの元へと急行する。 それに対し、杏子はまずはすずかの傍に駆け寄った。キリカに蹴り飛ばされ、その場に突っ伏している串刺しのすずか。これほどの傷を負えば例え魔法少女とは言えど、普通ならば死んでいてもおかしくないだろう。しかしそれでもすずかは生きていた。ほとんど自由の効かない身体で、全身に刺さった鉤爪を引き抜こうと足掻いている。 その様子を見て、なのはは叫びたい気持ちで堪らなくなる。だがここで叫んでしまえば杏子の作戦は失敗してしまう。だからなのはは必死に口を紡ぎ続けた。【すずか、聞こえてるか?】 そんななのはを尻目に杏子はテレパシーですずかに話しかける。【……その声は杏子さん? どうしてここに?】【あたしだけじゃねぇ。今ここにはなのはとクロノも来てる】【っ!? なのはちゃんが? でもどこに?】【あたしの魔法で姿を消してるんだ。それでだすずか、今からお前の姿を消すから、それに乗じてなのはの手を借りて逃げてくれ】【ダメだよ。ここで私が逃げたらアリサちゃんが。それにキリカさんの狙いは私なの】【……事情はわかんねぇけど、その身体じゃあどちらにしてもも戦うのは無理だ。ここはあたしの言う通りにしな】 そう言いながら杏子はすずかに手を掛ける。それと同時にすずかの姿がその場から消え去り、その代わりに自分と全く同じ姿をした幻が現れる。 それこそが杏子の魔法。本来なら忌避すべき自分の願いから生まれた幻惑の魔法。最近は全く使うことがなかったため、杏子の全身に底知れぬ虚脱感が襲う。さらに一度は否定した魔法を無理に使用したためか、胸の奥から不快感が込み上げてくる。 だがそれでも杏子は止まるわけにはいかなかった。続いてアリサの元に向かうと、すずかに施したのと同様の魔法をかける。【なのは、クロノ、今の内だ。急げよ、あんまり長い時間は保たないからな】 そして全ての準備が整った杏子は、改めて二人に念話で指示を出す。その言葉に従い、なのはとクロノは離脱していく。キリカはそれに気付いた様子もなく言葉を続ける。誰にともなくしゃべり続ける狂気的な言葉。その果てにアリサの幻影の首に鉤爪を突きつける。その首を刎ね飛ばそうとするも 刎ね飛ばせず不思議そうな表情を浮かべるキリカ。それは実に滑稽な光景だったが、これ以上黙って見ているわけにはいかないだろうと杏子は声を出す。「いくらやっても無駄だよ。本物のそいつはもう、この場にはいないんだから」 そうして杏子は自身の幻惑の魔法を解く。アリサとすずかの幻はその場から掻き消え、杏子の姿がその場に現れる。この場にはいないが、離脱していった四人の姿も現れているはずだろう。「――キミは、誰? アリサと吸血鬼をどこにやったの?」 いきなり現れた杏子にキリカは驚きの表情を浮かべながら尋ねる。その視線に晒された杏子は、彼女から放たれる並々ならぬ魔力に気付く。そしてそれが右目に埋め込まれたジュエルシードから放たれていると知る。(こいつは、本気でやべぇかもな) ジュエルシードの危険性を杏子は身を持って体験し、さらに管理局にも教えられていた。すずかを圧倒したことである程度の強さは覚悟していたが、それでもジュエルシードの魔力を使っているのは予想外だった。おそらく正面から掛かれば、魔力差だけで杏子は呆気なく敗れてしまうだろう。「はん、そんなこと、教えるわけねぇだろ。バーカ」 だが今の杏子の役割は囮だ。少しでも長い時間、キリカを自分に引き付ける。そのために必要以上に挑発した。「……なら殺してでも聞き出すから」 その挑発が功を奏し、キリカは杏子へと向かって攻撃を仕掛けてくる。それに対し、杏子は全力で向き合うのであった。 ☆ ☆ ☆ すずかとアリサを連れだしたクロノたちは、キリカと杏子のいる空間からある程度の距離を稼ぐとその場で二人の容態を診る。 アリサは意識を失っているだけで目立った外傷はない。念のためアースラの医療スタッフにも後で見てもらうつもりだが、おそらく数時間もすれば何事もなく目が覚めるだろう。 しかし問題はすずかの方だ。すでにその身体からは大量の血液が失われている。刺さっている鉤爪に目が行きがちだが、それ以外にも無数の細かい傷があり、呼吸も乱れている。このままでは命を失くすのも時間の問題だろう。「クロノくん、アリサちゃんは、すずかちゃんは大丈夫なの?」「……そっちの子はたぶん大丈夫だ。しかしすずかの方はもはや一刻の猶予もない。僕は今から彼女に治癒魔法を掛けるから、キミは周囲の警戒を頼む」「わ、わかりました」 クロノはなのはにそう指示を出すと、自分の持てる限りの治癒魔法と応急処置をすずかに施す。失った血液や魔力を甦らせることはできないが、それでもすずかの負った深い傷口を塞ぐことはできる。だがこれはあくまで一時的な処置だ。なのはや杏子より治癒魔法に長けているとはいえ、それでもすずかを快調にさせるには至らない。ある程度の処置を終えたら、すぐにでも結界を抜け、アースラまで戻る必要があるだろう。 しかしそうなった時、問題になるのは囮を買って出た杏子のことである。一度手合わせをしたからわかることだが、すずかも並みの使い手ではない。動きは読みやすいが、その一撃に籠められた威力はクロノでも脅威だと感じられるものだった。そんなすずかをここまで一方的に傷つけた相手を前に、杏子がどこまで戦えるのか? 二人を逃がすためとはいえ、彼女一人を囮にしたという事実。それがクロノに重く圧し掛かった。 もしこの場が魔女の結界でなかったのならば、なのはに結界からの抜け道を教えて、自分は杏子の元に戻るという選択をしただろう。しかし魔女の結界は複雑だ。一応ここまでの道筋を記憶してきたとはいえ、それを他人に正確に伝えられる自信はクロノにはない。 さらに言うと、なのはを杏子の元に向かわせるというのはもっとあり得ない。彼女は民間人で、今回の事件の被害者なのだ。執務官として、そんな判断をするわけにはいかない。「……ねぇ、クロノくん。杏子さん大丈夫かな?」 そんなことを考えていると、なのはがそう尋ねてくる。すずかの治療に集中していて気付かなかったが、周囲には使い魔の残骸と思われる肉片が無数に散らばっていた。おそらくこの辺りにいる使い魔を一掃してきたのだろう。「……杏子なら大丈夫だ。キミも彼女の強さは知っているだろう?」「うん、そうだけど、でもやっぱり一人だと心配だよ」 そう言うとなのはは治療を受けているすずかの方に目を向ける。先ほどより幾分か呼吸が落ち着き、その傷も大きなものを除き、ほとんどが塞がりつつある。それでもその顔色は悪く、まだ予断は許さない状況であることは明白だった。「クロノくん、わたし――」「――駄目だ。キミに危険な真似をさせるわけにはいかない」 なのはの言葉をクロノが遮る。クロノにはなのはが何を言おうとしているのかわかっていた。それはクロノ自身も一度考え、即座に否定したこと。「だけど、こうしている間にも杏子さんが危険な目に遭っているかもしれないんだよ! わたし、そんなの放っておけないよ!!」「キミの気持ちはわかる。しかしそれでもキミを杏子の元に行かせるわけにはいかない。むしろ行くとしたら僕の方だ。すずかの治療が終わったらすぐにでも……」「……嘘はダメだよ、クロノくん。さっきクロノくんが自分で言ってたでしょ? すずかちゃんはもう一刻の猶予もないって。それなのにこんなすぐに治療が終わるわけないよ」 なのはの鋭い指摘にクロノは押し黙る。そんなクロノに対して、なのはは言葉を続けた。「それにね、クロノくん。わたしは許せないんだよ。すずかちゃんやアリサちゃんにこんな酷いことをしたあの人を……。もちろん、杏子さんを助けに行きたいって気持ちもある。だけどそれ以上にわたしはあの人がどうしてすずかちゃんとアリサちゃんを傷つけたのかを知りたいの。あの人の口から直接お話を聞かせてもらいたいの。――だからお願い、わたしを杏子さんのところに向かわせて!」「……ッ。駄目だ、キミがなんと言おうとそんな判断を下すわけにはいかない」 なのはの強い眼差し。それを見てクロノは一瞬、揺れてしまう。だがすぐに執務官としての責務を思い出し、彼女の願いを却下する。 普段のなのはならそれで引き下がっただろう。彼女は元来、穏やかで優しく、それでいて他人の気持ちを理解できる良い子だからだ。しかし今、なのははかつてないほどに怒っている。自分の大切な二人の親友をこれほどまでに傷つけたキリカをただ黙って許せるわけがない。なのは自身、誰かに対してそのような感情を抱くことに戸惑いを覚えたが、それでも彼女はハッキリとキリカのことを憎らしいと感じていた。「ごめんなさい。高町なのは、指示を無視して勝手な行動をとります」 ――だからこそ、なのははクロノの指示を無視して飛ぶ。キリカと戦闘を続けているであろう杏子の元へ。「ま、待て。キミ一人じゃ危険だ」 そんななのはを必死で呼び止めるクロノ。だが彼はその場から一歩も動くことができなかった。今、ここで治療を止めてしまえば、塞がり掛けたすずかの傷口が再び開いてしまうから。そして意識のない彼女たちを置いてこの場を離れることがどれほど危険なことかを解っているから。「くそっ、二人とも無事で戻ってきてくれよ」 結局、今のクロノにできることはすずかの治療と、杏子となのはの無事を祈ることだけだった。 ☆ ☆ ☆ 杏子とキリカ。その二人の戦いは実に一方的なものであった。杏子が全速力でキリカに攻撃を仕掛けても、彼女の魔法によってその速度は殺され易々と避けられてしまう。さらに動きを鈍った状態ではキリカの攻撃を回避することもできず、手数の多い鉤爪に一方的に蹂躙される。持ち前の戦闘センスでなんとか致命傷だけは負わずに済んでいたが、それでも杏子がジリ貧なのは火を見るより明らかだった。「ねぇ、キミはそんな実力で私の織莉子に対する愛を邪魔したの? 馬鹿にしてるの?」 鉤爪に言葉を乗せてキリカが襲いくる。それを杏子は手に持つ槍で防ぐ。すでに何度も鉤爪を受け止めたことで傷だらけになっている名もなき槍は、ついにその攻撃に耐えきれず中ほどからぽっきりと折れてしまう。そのまま杏子の身体を鉤爪が引き裂くが、そこから血が流れる様子はなく、その輪郭は徐々におぼろげになりその場から掻き消えてしまう。 ――ロッソ・ファンタズマ。その技はかつて杏子が師事していたマミによって名付けられた必殺技だ。自分の分身を作り出し、相手を撹乱し、隙を作り出し攻撃する。昔は最高で十三体もの分身を作り出すことができたが、今では二人作るので精一杯。しかも魔力消費はもちろん、願いを否定した代償で使う度に不快なものが胸から込み上げてくるという始末。先ほどのように気付かれないところで使うのならばともかく、本来ならばとても実戦で使えるような代物ではないだろう。 それでも杏子はキリカに対してそんな不完全な技を使用した。杏子にはわかっていたのだ。キリカという魔法少女が自分の手札を全て晒さなければ到底太刀打ちできないであろう相手だということに。ジュエルシードの魔力を打ち破るには、彼女の不意を突いた一撃を行わなければならないということに。だから杏子はこの奇襲に全てを賭けた。 背後から音もなくキリカの身体を一突きする。キリカの胸から生え出す槍。普通の人間であるならば、それだけでショック死してしまいそうな強烈な一撃。だが相手は魔法少女、普通に人間より頑丈にできていることは杏子自身も良く知っている。それ故にこのまま追撃を仕掛けようとした。「――ッ!!」 だが突如として背筋がぞわりとする。嫌な予感を感じた杏子は反射的に後ろに飛び退き、キリカから距離を取る。「……いったいな~。キミ、攻撃するなら正面から来てよ。背中からじゃ受け止められないじゃん」 そしてそれを裏付けるかのように、キリカの口から当たり障りのない口調で話しかけられる。今、彼女の胸には槍が刺さっているというのに、その声に一切の淀みはない。内臓が傷ついていれば、少なからず声に何かしらの違和があってもおかしくないはずなのに。「それにしてもさっきの何? いきなり消えたと思ったら背後から刺されてたんだけど? そう言えば吸血鬼やアリサもそんな感じて消えたっけ?」 キリカはぶつぶつと呟きながら、何事もなかったかのように胸に刺さった槍を引き抜く。勢いよく引き抜かれたことによって、キリカの胸に空いた穴から血が勢いよく噴き出す。 ……だがそれはほんの数秒の出来事だった。槍という異物が体内から消え去った途端、キリカの傷がみるみるうちに塞がっていく。 魔法少女は普通の人間より丈夫な身体を持ち、戦闘で受けた傷も魔力を用いればすぐに治せるということは杏子も知っている。だがいくら治せるといっても、そこには限界がある。治癒魔法に特化した魔法少女でもない限り、一瞬で傷口を塞ぐというのは不可能なはずだ。 だがすぐにある可能性に至る。――ジュエルシード。その魔力と性質を使えば、傷口を一瞬で塞ぐことも可能だろう。もちろん何故、彼女がジュエルシードの魔力をそこまで自在に操れるのかという疑問はあるが、今はそんなことはどうでもいい。問題なのは杏子の全てを賭けた一撃は全く効果がなかったということ。その一点のみである。「ま、いいや。キミが私のてきなのは間違いないし、吸血鬼たちの前にキミも織莉子の愛で殺してあげるよ」 キリカは改めて杏子に殺気を向ける。その背筋も凍るような殺気に、杏子はキリカがまったく本気を出していなかったことを悟る。 ――そして次の瞬間、杏子の右腕が中ほどから斬り落とされた。「……なっ?」 杏子の口から間抜けな呻き声が漏れる。実際に斬られるまで、杏子はキリカの接近にすら気付くことができなかった。一太刀の元で切断された杏子の右腕は虚空で血を撒き散らしながらその場にぼとりと落下する。傷口からは血がほとばしり、地面に赤い染みを作り出す。「――ッ!!」 遅れてやってきた激痛に杏子は声にならない叫びを上げる。そして反射的に槍をキリカに向かって突き出しながら距離をとる。「テメェ、何をしやがった!?」 杏子は傷口を抑えながらキリカに怒鳴りつける。あの瞬間、いったい何が起きたのか、杏子にはまるで理解できなかった。油断していたつもりはない。彼女はキリカを確上の相手として認識し、戦いに臨んでいた。それなのにも関わらず、キリカは杏子の認識の外側から彼女の右腕を斬り落としたのだ。「う~ん、私の魔法はばれてるみたいだし、教えてもいっか。――簡単に言うとね、キミの思考速度を遅くしたんだよ。正直できるかどうか半信半疑だったけど、やってみるもんだね」 その言葉を聞いて杏子は愕然とする。思考の速度低下。それは言うほど容易いことではない。脳の電気信号に干渉し、その思考を鈍らせる。一瞬の出来事に思えたキリカの動きは別にそこまで素早いものではなく、ただ杏子が認識できなかっただけ。「本当はあのまま気付かないうちに殺しちゃおうと思ったんだけど、やっぱりそんなに長い時間は使えないみたいだね。でもキミに次はない。次はその胸元についてるソウルジェムを狙うから間違いはないよ」 その言葉に杏子はゾッとする。そして考えるよりも前に杏子はロッソ・ファンタズマを発動し、分身をキリカに向かわせる。たった一人の分身。それでも数秒、キリカの目を晦ますことができればそれで十分だ。 杏子は分身を使い、その隙を突いてこの場から離脱しようと考えていた。すでに自分の囮としての役割はほぼ完了していると言ってもいい。キリカを倒さなければ何の解決にもならないが、今の杏子ひとりではそれはもはや不可能だろう。だからこそ体制を立て直す意味も込めて戦略的撤退をしようとした。 しかしそんな時間稼ぎの策も虚しく、キリカは杏子の分身に視線を向けることなく鉤爪を飛ばし迎撃する。無数に飛ばされた鉤爪に貫かれた分身体は一撃の元で露と消える。その間にもキリカは徐々に杏子との距離を詰めていく。まだ先ほどキリカに掛けられた魔法の効力が完全に消えていないためか、接近されるのは時間の問題だろう。 ――だがそれは思いもよらない形で破られる。 突如としてキリカを襲う桃色の砲撃。予想外の攻撃にキリカは反応できず、そのまま吹き飛ばされてしまう。それはなのはのディバインバスターだった。クロノの制止を振り切り戻ってきたなのはは杏子の危機を悟り、間髪いれずにキリカに攻撃を仕掛けたのだ。「なのは、どうして戻ってきた!」「だって、杏子さん一人じゃ心配で……」 結果的に助けられた杏子だったが、それでも怒鳴らずにはいられない。今、この場になのはがやってきたところで、状況が好転するわけではない。むしろ先ほどのディバインバスターも不要にキリカの恨みを買うだけだろう。「あたしの心配なんてしてる暇があったら、すずかたちについていてやれよ。あいつらはなのはの親友なんだろ?」「そうだけど、でも杏子さんだってわたしにとって大切な友達だから」 すずかやアリサのことはもちろん大切だと思っている。だがなのははそれと同じくらい杏子のことも大切な友達だと感じていた。「あたしが……友達?」「そうだよ! 杏子さんはすずかちゃんのことで悩んでいたわたしの背中を押してくれた。それに今もすずかちゃんとアリサちゃんのことを助けてくれた。そんな杏子さんのピンチを放っておけるわけないよ!!」 そんな真正面からぶつけられたなのはの言葉に、杏子は赤面する。だがすぐに冷静さを取り戻し、この場において最善と思われる言葉をなのはに告げた。「……そう言ってくれるのは嬉しいけどさ、それでもなのはは今すぐクロノのところまで戻れ。ここはあたしが食い止めてやるから」 それは杏子なりの感謝の証だった。自分を助けにきて友達だと言ってくれたなのは。そのことが杏子は素直に嬉しく、だからこそこれから行われる戦いに彼女を巻き込むわけにはいかないと覚悟を決める。 なのはのディバインバスターは確かに強力だ。杏子の見立てでは並みの魔女ならその一撃だけで仕留めることができるだろう。……しかしキリカには届かない。先ほどは彼女の不意を突く形で放たれたために命中したが、次からはそうはいかない。他人の思考速度さえも減速させることができるキリカならば、砲撃の速度を操ることなど容易いだろう。すなわちキリカに攻撃を食らわせるには近接攻撃を行うしかなく、砲撃魔導師であるなのはとの相性は限りなく最悪のものだろう。 そうでなくともキリカの力はケタ違いであるということは、先ほどの戦いで杏子は嫌というほどわかっている。キリカを倒すには、杏子の持てる限りの力を全て使わなければならない。――その結果、自分が力尽きることがわかっていたとしても。「……杏子さんはずるいよ」 そんな杏子の覚悟を敏感に感じ取ったなのはは、ぼそっと呟く。そして静かに自分の内に秘めた思いの丈を打ち明けていく。「いつもそうやってお姉さんぶって。確かに杏子さんの方が私より歳上だし、魔法使いとしての戦いの経験も多いけど……でもわたしだって戦えるんだよ! それなのにすずかちゃんの事に託けて一人だけアースラに残っちゃうし、今だってすずかちゃんとアリサちゃんを助けるために自分から一番危ない役割を引き受けて、そんな怪我まで……」 なのははチラッと杏子の右腕に視線を向ける。肘から先がない杏子の右腕。その酷く痛ましい光景を見てその声は自然と沈み、表情を曇らせていく。「これはあたしがヘマした代償だ。なのはの気にすることじゃねぇよ。……それにこれぐらいの傷、魔法少女やってるなら日常茶飯事だから、大したことねぇよ」 そんななのはを慰めようと杏子は残った左腕でなのはの頭を軽く撫でる。口ではそう言う杏子だったが、流石に部位切断となるとそう簡単に治せる傷ではない。すずかやキリカが規格外なだけで、杏子は至って普通の魔法少女なのだ。彼女自身、治癒魔法が苦手ということもあるが、それでもこの傷を完全に治すのに数ヶ月の時は要するだろう。「……やっぱり杏子さんはずるい。本当は凄く痛いはずなのに、わたしに心配掛けないようにって我慢してる」「そんなこと……」「あるよ。わたしにはわかる。それにゆまちゃんのことだってそうだよ。杏子さんだって本当はゆまちゃんのことが心配なんでしょ? それなのにわたしやすずかちゃんのことばっかり気にして、いつまでも会いに行こうとしないでさ。本当は杏子さんだってゆまちゃんに会いたいんでしょ? それなのにわたしを逃がしたら、杏子さん今度こそ本当に……」「――なのは、それ以上は言わなくていい」「えっ?」「確かにあたしは腕の痛みを我慢してるし、ゆまのことを考えなかった日はない。正直、照れくさいから反論したいところだけど、そいつは認める。だけど今はそんなことを言い合っている場合じゃないだろ?」 そう言って杏子はキリカが吹き飛ばされていった方に目を向ける。ディバインバスターによって巻き起こされた煙が晴れ、その中からキリカが姿を表す。そこに目立った外傷はなく、まるで何事もなかったかのように杏子たちの元に近づいてくる。「正直、あいつの強さは異常だ。あたしだってそれなりに修羅場はくぐってきたつもりだ。だけどあいつの強さはなんつーか、次元そのものが違う。おそらくはジュエルシードの魔力を自由に操っているせいだろうが、正直、勝てる気がしねぇ。……でもな、全く手がないわけじゃない。だからなのは、援護を頼む」「はい、わかりました!」 その言葉になのははパーっと笑顔を咲かす。それを見て杏子はなのはに距離を取るように告げると、一気にキリカに向かって駆け出した。 本当のことを言えば、杏子はまだ、なのはにはこの場から離脱して欲しいと思っていた。しかしもはや、それを説得する時間すら残されていない。だから杏子は援護という形でなのはを戦いの中心地から遠ざけた。せめて彼女が巻き込まれずに済むように――。2013/4/6 初投稿